原稿書きとは不思議なもので、書こうと思って考え始めると何も浮かばず、心を空っぽにしながら外を眺めていると、天の黒板にスラスラと作文が誕生していく・・・というマジックのような作業。
おそらく、空には凄いハードデスクがあるんじゃないかと思う。
勉強や仕事がはかどらない時には、暫し空を眺めてごらん。

さて、今日は夏目漱石に関する話題をお便りにしてみます。
今読んでいる朝刊、日経新聞には日本を代表する作家、伊集院静氏執筆による 「ミチクサ先生」が連載されています。
ミチクサ先生とは、明治の文豪夏目漱石のこと。
漱石が大学の教授を退官した後、作家としてデビューし小説を生み出す様をテーマに、周辺の登場人物や明治という時代背景と共に、感性豊かに書き進められている新聞小説のことです。

ミチクサ先生の連載は、まだまだこの先も続くので、まずは最近読んだあたりのことを記してみます。

漱石が作家になって初めて書いた「吾輩は猫デアル」がテーマになっていたので、興味が湧いて読み直してみました。
主人公(漱石)自身をモデルとしている中学校の英語教師。
その家の飼い猫の目を借りて語りかけたこと。

それは人間の「滑稽さと愚かさ、そして可愛さ。」
みんなパフォーマンスが大好きで、「自分」、「自分」のオンパレード。
ポツリ・・・と猫がつぶやく一言。
「無理を通そうとするから苦しいのだ、つまらない」
個性を求めてやまない人間の危うさをシュールな言葉でバッサリ・・・。
思わず、ストンと落ちたような気持ちになって、「・・・そうか~。」 といった感じ。

そこで私もウチのネコと一緒に考えた。
個性とは何ぞや? 自分らしくとはなんぼのもの・・・? と。
この心地よく素敵な言葉の先にある 「じゃ自分らしさが見つかったらどうなるの?」 

そう考えているうちに素朴な疑問が湧いてきた。
見つかってしまったら?
その自分らしさの型押しの中に、自分を閉じ込めて生きてゆけるものだろうか?
例えば負けず嫌いの自分なんかが見つかってしまったら、困難な状態にも負けずに突きすすみ愚痴なんかもっての他。
誰彼なく「つらい・・・、つらい」などと訴えてはならない。
強く妥協せずに生きていく、それが自分らしさなのだと。
これはもう由々しき事態である。
孤独との闘いが始まった時に発信するSOSのゆくえがない。
心の中に凍結しておくしかないのだ。

自分を見つけてしまった人が、自己の個性により自分自身を締め付ける事態になっては窮屈だ。
それどころか危険ですらある。
「無理を通そうとするから苦しいのだ、つまらない」 と、猫の声が聞こえてくる。

「だから自分らしさや個性を固定するのはやめましょうネ。」
と、漱石は猫の手を借りて表現したかったのではなかろうか・・・。

でも・・・、全く自分らしさがないのも、どうしたものかと。
そうも思う。
だとしら・・・、縫い代たっぷりの洋服を着て、のんびりと、くつろぐときのように緩やかに自分をとらえる。
そんな感じで良いのではないかと思う。
個性の落とし穴に落ちないように。
自分自身とは、まだまだ未知数なのだ・・・と。

「個性」や「自分らしく生きる」を探すのは大賛成だけれど、自分で作ったトラップにはまらないで欲しいニャー。と
ウチのネコさんからの一言です。

暑い日には扇風機の前で前脚を伸ばして、スフィンクスのようになって涼んでいます。
いいなぁ~ネコって。

エミール



などと書いていたら、結構シリアスな目で見つめられてしまいました。