瀧廉太郎パーソナルデーター

☀星座♍0°33
☽星座♏23°49(24h/♏16°42~♐0°54)
第1室本人の部屋♍/☀☿♅
第2室金銭所有の部屋♎/♀
第3室幼年期の部屋♏/☽
第4室家庭の部屋♐
第5室嗜好の部屋♑/☊R
第6室健康勤務の部屋♒
第7室契約の部屋♓/♃R
第8室授受の部屋♈/♄
第9室精神の部屋♉/♆♂♇
第10室社会の部屋♊
第11室友人希望の部屋♋
第12室障害・溶解の部屋♌
正午設計のホロスコープ。♏の☽ならば♍の☀とは、土と水の女性格同士。静寂と繋がりの組み合わせで、親和性も高いと推察。もしかしてボイドタイム生まれ?とかも考えました。8月24日から25日へと日付が変わる深夜生まれなら、☽は♐。
そうなると女性格の☀と男性格の☽。土と火の柔軟宮であり、記憶力をベースに自在性とマグマのような想像力の持ち主など、いろいろ想像が膨らみます。(出生時間明確のほうが精密度は高く、的確な診断ができます。不明確な場合、ホロスコープの精密度は下がりますが、その人を考察する際、不確定な要素を楽しめるのも味わい深いものです。)
第1室本人の部屋に♍☀・☿・♅。
第2室がセンス抜群の♎に守護星の♀なので、金銭面と才能的に追い風。さらに☽が幼年期を司る第3室。第5室に☊Rと、北半球に6天体。
南半球を見ると、第7室に♃R。第8室に♈♄があり、深層心理や価値観に繋がる第9室精神の部屋は、♉♆・♂・♇という配置。
南北どちらも土属性の星座にステリウム。(ホロスコープや星図版は、空を見上げるもの。地図は地面を見下ろすものなので、東西南北が逆になります。)さらに人生のサクセスストーリーに欠かせない♑に☊R。堅実でありながら、一風変わったセンス。且つ何かを形作ってゆくことに長けているのでしょう。手先の器用さがあれば、裁縫等もやりそうです。
第1室♍と第7室♓は対角。Rとはいえ♃効果で第1室の☀・☿・♅のステリウムが拡張される傾向あり。猜疑心や依存を強めることがなければ、事業運も悪くはないでしょう。
第2室が個人の財物運なら、第8室は社会的にめぐる財物運(配偶者の家庭も、個人から見たら社会といえます)であり、ここに持つ星、巡り方で成功のスケールや、人生の重さも変わります。瀧廉太郎は、第2室と第8室が♀と♄の対。
☽が第3室ならば、第9室の♉ストリウムとも対。☽と♆の組合わせは、揺らぎや浸りやすさ含むので、怠惰や情念を優先すると厄介ですが、、芸術・音楽といった分野に味方をするのかもしれません。しかも「海」の星でもあります。瀧廉太郎は、日本の西洋音楽の草創期に、ドイツ留学をしていますから、♆と♇が彼に与えた要素は大きいとみていいでしょう。
第1室の☀・☿・♅と、第9室♉の♇♆とは、良い意味で緊張角度を持っているとも言えます。さらに第5室♑にある☊Rは、的確に進むサクセスストーリー。あくなき現実(現生)での喜びの追求であり、人気運。言葉を換えれば、滝廉太郎が生を受けた使命的なものを意味していると言えます。
滝廉太郎年表(ウィキその他検索)
1882年(明治15年)父吉弘、地方官となる横浜へ転勤。
1886年(明治19年)5月神奈川県師範学校附属小学校に入学。9月父の転勤で富山県尋常師範学校附属小学校に転校。
1888年(明治21年)5月麹町尋常小学校へ転校。
1890年(明治23年)同小学校を卒業。卒業時にピアノを弾いた逸話あり。大分県尋常小学校高等科に入学。
1892年(明治25年)小学校高等科を卒業。役人への道を進んでほしい父を、従兄の大吉が説得し、東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽部)予科に、史上最年少で入学。
1894年(明治27年)本科へ進むため上京。橘糸重にピアノを習う。
1898年(明治31年)本科を卒業後、研究科に進む。東京音楽学校のピアノ科教師(嘱託教師)として勤務。作曲とピアノ演奏の才を伸ばす。
1900年(明治33年)10月聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で、洗礼を受ける。同月下旬ジョン・マキムから堅信礼を受けた。組曲「四季」を発表。
1901年(明治34年)文部省編纂『中学唱歌』にエントリー。「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」が選ばれる。『幼稚園唱歌』として「お正月」「雪やこんこん」といった現代でも歌
い継がれる歌発表。作曲家として注目を集める。4月欧州留学生に抜擢された。5月18日ドイツのベルリンに到着。文学者巌谷小波・ヴァイオリニスト幸田幸・海軍音楽隊から派
遣されたクラリネット奏者吉本光蔵(後に君が代行進曲を作曲)と交友する。文部省外国留学生として、メンデルスゾーンが設立したライブツィヒ音楽院に入学。11月オペラ観劇した帰りに体不調となり、聖ヤコブ病院へ入院。結核感染がわかる。入院治療を続けるも、回復の見込みがなく、音楽院を退学する。
1902年(明治35年)2月恩師ヤーダスゾーンが亡くなる。7月10日ドイツを出発。ロンドンを経由して横浜に到着。帰国後は、従兄の大吉宅で療養するが、大吉が40歳で死去後は、父の故郷大分県で療養する。
1903年(明治36年)6月29日に大分県大分市にある自宅で死去。
瀧廉太郎星空history ☽年齢域0~7才1879~1886年明治12~明治19年
神様のはかりごとなのか、星の導きか、廉太郎が生まれたこの年の10月7日。文部省は省内に音楽教育を担当する音楽取調掛を設置。これが後に廉太郎が入学する「東京音楽学校(現東京芸術大学)」となるのでした。
サンフォード・フレミングが、トロントで開催された国際会議(LoyalCanadianInstitute)において、世界標準時を提唱したのもこの年です。日本は琉球藩の廃止と沖縄県の制定。新橋横浜間の鉄道に、初日本人運転手が乗務。伝染病予防のための法令「コレラ病伝染予防規則」が公布。その他にもいろんな出来事が、日々起こっているので、気になる方はチェックしてみてくださいね。
廉太郎の話に戻りましょう。瀧家は江戸時に豊後国日出藩の家老職を代々勤めた上級武士の家柄でした。大久保利通にその才を認められた父吉弘は、1872年(明治5年)に上京し、大蔵省の官僚を勤めます。まじめに働くだけでなく、暴漢に襲われた大久保を、身を挺して守る気概のある人で、後に内務省に転属しました。信任厚い吉弘は、大久保がテロに遭い落命した後、伊藤博文の秘書官を勤めています。
廉太郎が生まれた時、父(37歳)と母(28歳)の他、姉の理恵(当時8歳)と順(当時2歳)の二人。祖母のミチ(70歳)に従兄の大吉(17歳)と、瀧家は大所帯でした。大吉は吉弘の兄の子で、両親を早くに亡くし、吉弘が親代わりとなって世話をしていたのです。
末っ子長男として生まれた廉太郎は、待望の長男として、家族みんなにとてもかわいがられ、大切に育てられました。
1882年(明治15年)廉太郎が3才を迎える頃、父は地方官となり、瀧家の転勤族生活が始まります。初めての赴任先は、開港以来、西洋文化の玄関となった神奈川県横浜市でした。廉太郎は物心つく頃まで、この地に暮らします。
官舎に移り住んだ瀧一家は、ご近所の通訳官の家族と親しくなりました。彼らはカトリックを信仰するクリスチャン家庭。廉太郎の姉たちは、西洋人の家庭で洋裁や編み物。さらに洋楽も習います。上の子が何かやれば、下の子は自然に影響を受けるもので、幼い廉太郎はキリスト教が身近。姉たちが弾くアコーディオンやバイオリンを、聞く・見る・直接触れる環境にいたのでした。
☽年齢域と☿年齢域が交差する1886年(明治19年)。廉太郎は、神奈川県師範学校附属小学校に入学します。が、同年9月に父の転勤が決まりました。向かう地域は、この当時、まだ列車は伸びていない富山県。引っ越しの際、家族と共に北陸の海を観ながら、幼い廉太郎も歩いて富山に向かったそうです。
富山県尋常師範学校附属小学校に転校すると、富山県初の音楽会が、師範学校の講堂で開催されます。廉太郎はここで耳慣れた洋楽ではない、日本歌や雅楽等に触れました。
☿年齢域7~15才1886~1894年明治19~明治27年
卒業式の日、廉太郎は講堂でピアノの演奏を披露したそうです。(曲名は不明)
卒業後は大分へ移動。家族と暮らす生活に戻り、大分県師範学校附属小学校の高等科に入学。約1年ほど通いましたが、1891年(明治24年)12月。父が直入郡(現竹田市)の郡長となったため、一家全員直入郡に引っ越しすることになったのです。
移り住んだ官舎は、広い敷地に重厚な門と土塀が守るかつての武家屋敷でした。廉太郎が通う学校は、旧岡藩の藩校「由学館」跡に建てられた直入郡高等小学校。卒業までの約2年3ヶ月通学しています。学校の裏手には岡城址がありました。
城の石垣に感銘を受けた廉太郎は、そこで尺八を吹いたり、散策をして遊んだそうですが、この時の経験が、あの名曲「荒城の月」を生んだのでしょう。
近視が難点だったものの、当時の廉太郎は、背が高くて色白。記憶力に優れていて、成績は優秀。図画も得意。上品なだけでなく、コマ回しが得意な少年でした。転校が多い環境から、長く続く友だちがいない廉太郎ですが、コマを作って回すことで、クラスの子と仲良くなったそうです。どこか起用で判断力や運動神経も良かったのでしょう。
百人一首や羽根つきなどもうまかったといいます。姉二人という環境なのか、お母さんがおしゃれなのか、♍のセンスと♎♀のおしゃれ感覚のなせる業か、学ランの第一ボタンだけを留めて通学したら、それが他の生徒にウケて、校内流行を巻き起こすファッションリーダーな逸話もあります。元が上級武士の家系の子ですし、今とは違い、歩き方などもきれいだったかもしれません。
1893年(明治26年)高等小学校最高学年に進級した14歳の春。学校にオルガンを弾ける後藤由男先生が赴任してきました。しかも廉太郎のクラス担任となったのです。これまで弾く人がいなかったオルガンを、弾かせてもらえるように廉太郎は後藤先生にお願いしました。
小さい頃からアコーディオンやピアノに触れていたのと、楽譜も読める廉太郎のオルガンは、すぐに上達していきました。楽しい学生生活を続けて成長してきた廉太郎は、自分の将来、進路を考えて、音楽家か劇作家や役者(今ならタレントですね)になりたいな…と、思い始めます。
ところが、瀧家の跡取りとしてこれではあまりにも情けない。
豪胆な父吉弘は、廉太郎の望む進路を却下。取りつく隙がないほど拒絶でした。が、最終的に父が折れて、廉太郎は音楽学校に入学するために上京していますが、そこに至る経緯は2点ありました。
進路を巡って、父と息子の間で膠着状態が続く中、事情を知った従兄の大吉が心配して、東京から大分にやってきます。当時大吉は、前衛的な建築家に成長していました。ジャンルこそ違えど、作り出す、生み出す事には、は共感できたのでしょう。
「天分を全うさせてやるのが、本人のためではないか」自分の仕事をしていた大吉は、廉太郎に助け舟を出してくれて、吉弘父さんは大吉にしつこいくらい釘を刺されて根負け。
もう一節は天長節(明治天皇のご生誕日)の祝典に、郡長として参列した吉弘は、多くの参列者を前に、学校代表としてオルガンを奏でる廉太郎の姿を観て、その演奏を聴いて、廉太郎には音楽の才があると素直に認め、願いを受け入れた説。
両方が同時進行でもおかしくなく、素敵なエピソードだと思います。
廉太郎の☿年齢域と♀年齢期が交差する1894年(明治27年)は、日清戦争が始まる年でもありました。国内の世論は戦争だけでなく、様々な盛り上がりを見せ、明治時代はさらにエネルギッシュとなっていきます。
同年4月。直入郡高等小学校を卒業した廉太郎は、音楽教師になることを目指して、東京へ向かいました。下宿先は麹町平河町(現千代田区平河町)にある大吉の家です。
猛勉強の末、1894年9月。高等師範学校附属音楽学校=東京音楽学校(後の東京芸術学校)の予科に最年少の16歳で仮入学。同年12月に正式入学が認められました。
人生が大きく変わる事象なので、ホロスコープを確認。4月の上旬に♃が♊へ移動しています。♃は一つの星座に1年滞在する星で、T♃前年の1893年~1894年の4月上旬まで、は♈~♉を進んでいたことになります。♈は廉太郎のN♄があるし、♉にはN♆・♂・♇のステリウム。これらの星たちと耕運の星T♃が影響し合い、さらに♎のN♀とT♒を進む♂。♊を進む♆と♇。いずれも風の調和を組んでいます。
生活環境や、人生のステージが変わるのは自然な流れといえるでしょう。
当時の学校は9月始まりでした。瀧廉太郎は8月24日生まれでN☀星座は♍。
☿と♅も♍。T☀が♍を通過する時期運気が上がり時を迎えています。12月に正式入学していますが、前半なら♐の☀。これが廉太郎のN♄と調和します。廉太郎の☽がもし♐なら、婚姻や重要な契約が良い方向に進むでしょう。N☀にはT♈を進む♂が調和。挑戦する意識、やる気が出ますね。
♀年齢域15~24才1894~1903年明治27~明治36年
音楽=良家の淑女のたしなみ程度に思う風潮と、戦争への機運もあり、教育的価値を見出すことが難しかったのです。1891年(明治24年)の帝国議会では、国費削減の存廃論にも上がる存在となり、1893年(明治26年)には、高等師範学校に移管。付属学校に格下げられていました。
そんな大人の事情は知ることもなく、晴れて音楽学校の生徒となった廉太郎。ピアノを幸田延や橘糸重に習います。日本人初音楽留学生だった幸田延から、欧州仕込みの教えを受けて、ピアノの才能を伸ばす廉太郎は、歌詞の勉強にも取り組みます。
この頃日本の学校では、テニスブームが起こりました。音楽学校の裏庭にテニスコートが作られると、元々身体を動かすのが大好きな廉太郎、テニスにハマります。
学校内のテニスチームで、ホープになったとか。何もかもが楽しい環境でしたが、脚気を患ってしまい、夏休みは武田に帰省。
保養中の時期と重なりますが、「散歩」を作曲し、発表しています。
1898年(明治31年)7月に専修部(本科)へと進みました。ピアノと和声楽に秀でた廉太郎は、首席卒業する際、卒業生7名の総代として答辞を述べています。音楽学校の卒業時に演奏会は付き物。ここで廉太郎はピアノの独奏を披露しました。
同年9月。19歳になった廉太郎は、研究科に入学。ロシア人ラファエル・フォン・ケーベルにピアノと作曲を学びます。2年生になると、学校から嘱託教師を任ぜられました。
1899年(明治32年)4月音楽学校は、高等師範学校から独立して専門学校となります。
廉太郎はピアノ教師と自身の勉強&研究という二重生活の中で、作曲、ピアノ演奏の才能を伸ばしました。その才と人格は誰もが認めましたが、廉太郎も悩みや苦悩がなかったわけではありません。絶対にかなわない絶望感も、ピアノ教師幸田延の妹幸田幸(安藤幸)相手に味わいました。
作家幸田露伴が有名ですが、幸田家といえば文学・芸術一家でその名を知られた家で、妹幸も幼い頃から、ピアノの英才教育を受けてきました。
彼女の演奏を聴き、その才を前に、愕然とする廉太郎。そこに追い打ちをかけるように、学校独立第1回目の音楽留学生選考結果が下ります。ドイツ留学に選ばれたのは、幸田幸でした。
過敏な性質を宿す星座な♍に☀を持つ廉太郎にとって、彼女のほうがピアニストとして上だと認めるのと、憧れのドイツ留学を目の前で彼女がゲットしたことが同時進行なために、かなり苦悩したと推測します。
当時廉太郎は麹町上二番町に移り住みますが、近所にカンタベリー大司教を精神的指導者とする聖公会のグレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)がありました。幼い頃からキリスト教に触れていた廉太郎、恐らくこの頃から教会に通い始めたのでしょう。
1900年(明治33年)6月。ドイツ音楽留学の命令が国から降ります。
ドイツ留学が叶うのは嬉しいけれど、ある疑念が廉太郎の気持ちと足を止めました。
「今の自分には何の実績もない。この状態で留学しても成果が得られるだろうか」
未練もありましたが、留学の誘いを断ると、まるで運命の輪が回るがごとく、東京音楽学校が「中学唱歌」の作曲者を募集。廉太郎はこの企画に乗り、幾つかの曲を応募します。
明治時代の日本は、江戸時代までに培ってきた文化や教育。風習などを止めて、あらゆる分野を欧米から輸入することで近代化を進め、現代の基礎を作っていました。音楽も海外の楽曲を輸入。そこに日本語の歌詞を当てはめていたのです。
これがかなり強引なやりかただったため、不自然さやぎこちなさがあり、出来栄えも良くなかったのでした。日本人の作曲家が洋楽を作ってくれることを望む声を背景に、東京音楽学校は、唱歌募集をおこなったのです。
廉太郎は土井晩翠が書いた詞「荒城の月」をセレクト。これに着ける曲をどうするか試行錯誤しました。そんな中で日本の音楽には「ドレミファソラシド」の「ファ」と「シ」が使われていないことに着目。日本の民謡などには、「ヨナ抜き旋法(五音音階)が多く使われ、それがまた好まれる音階であることを意識します。
こうしてヨナ抜き音階では使われていない「ファ」を敢えて加えて「荒城の月」を完成させたのでした。さらには8月組曲「四季」を生み出します、その第1曲「花」は、誰もが好む歌となりました。日本音楽を西洋音楽に一歩近づけた廉太郎の作曲は、現代の音楽歴史の試金石となったのです。
同年10月7日元田作之進(立教大学初代学長)から、洗礼を受けてクリスチャンとなった廉太郎は、さらに10月28日。初代日本聖公会北東京地方部(現北関東教区)の主教ジョン・マキムから堅信礼を受けました。堅信礼は正教会や東宝諸教会とカトリック。ルター派の一部プロテスタントを含む)キリスト教の一部教派で行われる儀式。カトリックでは7つの秘跡の一つとされています。
同年4月6日。チャンスが再び舞い降ります。3人目の文部省外国留学生に選ばれ、ドイツで学ぶ機会を得たのです。今回は迷うことなく行くことを決めました。
瀧廉太郎の作曲数は、34曲(現在確認されている作品数)と言われ、そのうちの24曲が、1899年~1901年の4月迄の間に世に出されています。「お正月」「鳩ぽっぽ」「ゆきやこんこん」といった「幼稚園唱歌」もドイツ留学する前に作られました。
1901年。♑には個人の年運を拡張する♃(アクセル的役目)と、何ごともセーブ、縮小させる♄(ブレーキ的役目)が、揃っています。瀧廉太郎は土属性の星座に、星が多いホロスコープの持ち主なので、T♃と♄の影響を大なり小なり受けやすくはあります。
3月10日ごろはT♂が♌の終わりを進み、中旬には♍に移動。廉太郎のN☀☿♅を刺激した♂が創作意欲を刺激したのかもしれません。留学のチャンスが再びやってきた4月もですが、♏を進むT☊が、N☽。対角の♉♆・♂・♇を刺激して、海を渡ることを含めた大きな環境の変化を示しているとも言えます。
1901年(明治34年)5月18日ベルリンに到着すると、一足先に留学をしている幸田幸はもちろん、日本語教師を現地で務めていた文学者の巌谷小波。海軍音楽隊から派遣されていたクラリネット奏者吉本光蔵とも親しくなりました。共に室内楽の演奏も行ったそうです。
ドイツ語も学びながら、6月にはライブツィヒに向かい、メンデルスゾーンが創設した「ライブツィヒ音楽院」に入学。異なる二つのメロディを同時に共存させる対立法という音楽技術を学びました。さらに関心のアンテナを挙げて、本場のオペラの迫力と深さを知った廉太郎。校外での音楽会やオペラも観に出かけたそうです。
11月の末にはビゼーの名作「カルメン」を観劇しましたが、ここで風邪をひいてしまい、聖ヤコブ病院に入院しました。やむなく音楽院は翌年3月迄休学。療養に努めますが、結核の診断が下されます。
結核は治療をしても回復の見込みがない病でした。日本に帰るには、40日前後の船旅となるため、できるだけ体力のあるうちに帰国する方がいいだろうと、周りも判断します。
残酷な現実を前に、3年の留学が1年数か月。
「ライブツィヒ音楽院」には2か月も満たないで、帰国を余儀なくされたのでした。
1902年(明治35年)7月「若狭丸」という船でドイツを発った廉太郎。船はロンドンを経由して日本に帰国の予定でした。5日ほどティムズ川に船が停泊をした折、欧州遊学中の土井晩翠が、廉太郎の見舞いに訪れたというエピソードがあります。
対面した時間は、そう長くなかったようですが、僅かな時間と思いますが、日本を代表する名曲「荒城の月」の作詩を手がけた作詩家土井と、作曲家瀧廉太郎は異国の地で、初めて互いの顔を見たのは感慨深いものがありますね。
10月17日横浜に到着した廉太郎は、東京の従兄大吉の家で療養に入りました。
療養しながら、「水のゆくえ」「別れの曲」等を作曲しますが、大吉40歳の若さで脳溢血となり、急死してしまいます。急展開な事態に見舞われましたが、病気の廉太郎は葬儀も執り行われない前に、従兄の家を離れ、大分に帰ることになります。
数年ぶりに帰ってきた病身の息子を、両親は優しく向かい入れました。
1903年(明治36年)正月を家族で過ごし、その後「荒磯」。できる限り長く生きていたい思いを込めた「憾(うらみ)」を作曲しています。
夏至を過ぎた6月29日。瀧廉太郎は満23歳でこの世を去りました。(享年25歳)。
結核に感染していたことから、未発表な多くの作品は、死後に焼却されたと言われています。廉太郎は聖教会に属したクリスチャンでしたが、父と親交のあった大分県の万寿寺に葬られました。(現在は瀧家の先祖が眠る龍泉寺というお寺に移されています)
戒名は直心正廉居士。彼らしい戒名だと思います。
駆け足で見てきた音楽家瀧廉太郎の生涯ですが、ゴシップを目的にはしていないので、亡くなる際のホロスコープは、あえて載せません。あまりにも短い生涯ですが、彼の作った歌は、時代を越えて多くの人に愛され、歌いつがれ、演奏されています。この先も音楽がある限り、続いてゆくでしょう。




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