幼い頃から剣術好きな新八は、江戸で「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と言われた神道無念流の道場に通い、使い手に成長します。
剣が縁で近知り合った藤勇と意気投合。彼の道場「試衛館」の客食となり、時代の流れに押し出されるように、仲間たちと共に上京しました。新選組時代は、頼もしき二番隊長を勤めたことは、多くのファンの知るところです。明治時代に入ってからは薬屋さんを営み、剣術を教えた彼の星回りと運勢観てみましょう。

まずはホロスコープと履歴です。

永倉新八 1839年5月23日

松前藩江戸上屋敷 現台東区小島2丁目(当時のことは履歴を見てください。)

☀ ♊ 1°15
☽ ♎ 2°57 (正午設定なので±6°誤差あり)


第3室幼年期の部屋・第6室健康勤務の部屋・第8室授受の部屋に、星が入っていませんが、バランスよく星が配置されているスプラッシュタイプのホロスコープ。
第1室本人の部屋♊の☀は第7室契約の部屋♐♄とポジション。さらに第4室♍♂と第10室♓♅☊は二重のオポジション。
第5室♎♃と第11室♈の♇のオポジションと、合計4つのオポ。

自己主張も強く野心もありエネルギッシュ。乱暴で気まぐれ、ちょっとけんかっ早い一面もありますが、これと決めた事には、ひたむきに努力する姿勢。細かいことにこだわらない明るさをもっています。人からの引き立ても得られる可能性大。

第5室♎の♃☽は、生きる核である☀と調和し、拡張機能に強弱をもたらすような第7室♄とセクスタイル。共同事業の相手を選ぶのには難儀するのと、配偶者選びに時間がかかるとかもしれません。自分で探すより、紹介の方が落ち着いた結婚生活を送れそうです。

剣の腕に一役二役勝っているは、♂と♅☊辺りでしょうか。力の剣法といわれる神道無念流も、性に合っていたのでしょう。☀星座が♊なので、好奇心のアンテナは多角的に伸び器用。どこかマメなところもあるので、事務作業もできるマルチ型。

引き寄せの法を使わなくても、引き寄せちゃうのは、第2室の♀&第5室の☽♃でしょうか。♀は第12室の☿とも相性よく、恋愛も深みにはまらなければ、楽しめる感じ。何か書くことで益になる事がでてくるかもしれません。苦労や打撃があっても、最終的には経済に困らない人生を送れる配置をもっています。(だからあの戊辰戦争を、生き残れたのかもしれません)

☽♃は☀だけでなく、第9室♒♆とも調和。直観力鋭く、専門性の高い仕事に従事するとよさそう。(理系な人も♆大切)

履歴(ウィキその他資料参考)

1839年5月23日(天保10年4月11日)松前藩上屋敷にて、江戸定府取締役長倉勘次の次男として生まれる。
1846年(弘化3年)岡田利章(3代目岡田十松)神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。
1856年(安政3年)18歳で本目録 元服して新八と名乗る。松前藩を脱藩。永倉姓を称し、本所亀沢の道場で師範代を務める。
1863年(文久3年)25歳 京都上洛。新選組結成。
1864年(元治元年)池田屋事件・非行五カ条提出
1867年(慶応3年)油小路の変
1868年(慶応4年・明治元年)鳥羽伏見の戦い以降、甲陽鎮撫隊の敗戦。新選組を離脱  
1871年(明治4年)藩医杉村松拍の娘・きねと結婚。婿養子となり、松前に戻る。
1873年(明治6年)家督相続杉村治備(後に義衛)と改名。北海道小樽へ移る。
1876年(明治9年)近藤・土方と新選組の殉難の碑を建立。
1882年(明治15年)樺戸集治監で、剣術師範を勤める。退職後は東京牛込で剣術道場を開く。
1899年(明治32年)小樽へ転居
1905年(明治38年)小樽内引っ越し
1909年(明治42年)小樽内転居
1915年(大正4年)1月5日小樽にて死去 享年77歳。

花のお江戸で生まれ育った幼年期~少年期☽年齢域&☿年齢域 (1839年~1854年)

現在の台東区小島。(大江戸線の御徒町駅近く)には、江戸時代の頃、松前藩上屋敷がありました。永倉新八は、この地にあった松前藩の屋敷内で生まれています。
名前は長倉載之(ながくらのりゆき。本編は、新八、もしくはフルネームで表記します)。両親は長倉勘次と利恵夫妻。

父親の仕事が江戸定住型で、本国と江戸を行き来する松前藩士のための事務手続きをする「江戸定府取次役」でした。そのため新八は生まれも育ちも「江戸っ子」だったのです。
7歳の頃に神道無念流の道場「撃剣館」に入門。元気もので剣術好きな新八は、どんどん腕を上げました。目をかけてくれた3代目師範岡田十松(岡田利章)が他界した以降は、岡田助右衛門に教わります。

☽年齢域~☿年齢域は、第4室家庭の部屋の影響が、最も大きい時期ですが、新八はここが♍の♂。文武両道を望む親の元、割と安定した環境で育っているかもしれません。
☿年齢域が終わり、♀年齢域が始まる1854年(嘉永7年&安政元年)は、ついにペリー艦隊が来航し、時代が変わる歯車が大きく動きだしてゆきます。

剣術が紡ぐ出会い、そして動く歴史 ♀年齢域 (1854年~1864年)

佐幕と勤皇に別れ、騒然とする世の中ですが、本目録まで昇った新八。剣術に更なる磨きをかけたいのと、自由気ままにしたい気持ちもあったのでしょう。
1856年(安政3年)18歳で元服を済ませると、「新八」を名乗ります。父親はそのまま士官を望みますが、青春真っただ中な新八は、これに反抗。

暴れるとか問題を起こすのではなく、育ててくれた両親に、感謝と詫びを入れた手紙を置いて、上屋敷を出るだけでなく、松前藩を脱藩しました。
姓も長倉から「永倉」に改姓して、神道無念流の百合元昇三道場(現在の飯田橋界隈)に住み込みます。意気投合した芳賀宜道と、気ままな剣の旅をして、心形刀流剣術伊庭秀業の門人、坪内主馬主馬に見込まれました。師範代を務めることにした新八は、ここで門下生だった島田魁と出会います。

師範代を務める傍ら、全く違う流派との手合わせに面白さを感じた新八は、いろんな道場巡りを続けました。やがて天然理心流「試衛館」にたどり着き、近藤勇と手合わせします。これが縁で、近藤の人柄と剣術への姿勢にほれ込み、土方をはじめ、井上、沖田、原田、山南といったお馴染みの人たちとの縁もでき、試衛館の客食となったのでした。

1862年(文久2年)14代将軍徳川家茂の京都上洛が浮上。これに合わせて将軍警護のプランとして、浪士組を庄内藩士清河八郎が幕府に進言。
・文武に秀でていれば、身分は問わない。
・犯罪免除(大赦)もする。

きわめて自己申告度の高い募集条件で、画期的というより緩い企画書を、幕府は受け入れたのでした。当初浪士取締役の中には、山岡鉄太郎(後の山岡鉄舟)もいたのです。これを知った近藤勇と試衛館に集まる者たち。
「徳川家への忠誠」は当然として、「何かがしたい」「新たなる将来性に賭けよう」と、将軍警護のためのこの企画に参加を決めます。

1863年(文久3年)2月。総勢200人と言われる参加者が集った浪士隊は、小石川の伝通院を起点に、列をなして中山道を進みました。途中、先番宿割を任されていた近藤のうっかりミスで、芹沢鴨の宿を取り忘れていたトラブルなどもありましたが、目指した京都に到着。
 ここで浪士組を束ねた清河八郎が勤皇派と組み、浪士組は、将軍家ではなく、尊王攘夷派に属することが露呈。勤皇派の清河は、元よりこれを目論んでいたのですが、浪士取締役の声掛けもあり、試衛館側と芹沢鴨率いる水戸一派は、考え抜いた末、互いの理想と益のために共闘。清河と袂を分かち、京都守護職の任に就いていた会津藩藩主松平容保を訪ね、治安維持組織の「新選組」を結党してゆきます。

結党1863年(文久3年)。廃止は1869年(明治2年)。

隊の結成と同時に、芹沢派一掃というテロを起す新選組ですが、永倉新八にとっては、♀年齢域の仕上げの年ともいえるこの年。京都に留まることを決めた一行は、江戸の道場から、防具を送ってもらいました。永倉の防具も一緒に届いた記述をみると、近藤の道場が、とても居心地の良い場所だったのが伺えます。

☀年齢域 幕末から文明開化 25歳~35歳 (1864~1874)

1864年(元治元年)は、幕末史上では、池田屋事変と禁門の変によって、新選組の名が世間に知れ渡る年となり、新八の年齢域の星である♀から☀へと、交代が起こる一年。尚、☀年齢域1864年~1868年の4年間は幕末。1868~1874年は、明治時代の黎明期に別れ、新八の生活はガラリと様変わりしていきます。

まずは池田屋事変ですが、京都の街中で炭屋を営んでいた男(古高俊太郎)をかねてからマークし、捕縛したことから、土方の拷問→古高の自白によって、「祇園祭の前の、風が強く吹く日を狙って、御所に放火をする。火事の混乱に乗じて、一橋慶喜・松平容保らを暗殺。中川宮朝彦親王を幽閉。孝明天皇を長州へ動座させるとい計画」という事がわかり、新選組が出動。これが子母澤寛の「新選組始末記」や、司馬遼太郎の「燃えよ剣」と言った作品でお馴染みな筋書きです。

しかし、新選組の日誌には、とらえた男の自白内容の記述がなく、本名古高俊太郎のみ、喋ったとも考えられています。
近藤隊(精鋭部隊10名)土方隊(12か24名これは松原隊を別とするか、説があります)自分たちの拠点を守る留守隊と、三もしくは四編成に別れて出発。

新八は近藤隊に加わり、沖田総司・藤堂平助と共に、少人数で池田屋へ向かいました。しかし、実際は勤皇の志士たち約40名以上が、池田屋に集っていたのです。
別の場所に向かった土方隊は、後程池田屋に合流。それまでの間、近藤隊。倍以上の人数を相手に、約二時間半。狭い建物内でものすごい斬り合いとなりました。

土方隊の合流以降は、捕縛切り替えていますが、それまでは自刀を含め、切られた側は13人ほど。吉田松陰の友人宮部鼎蔵(池田屋で奮戦後、自刀)。愛弟子、吉田稔麿(池田屋脱出後自刀)が含まれていて、長州藩をはじめとする、勤皇派に大打撃と、憎悪を与えたのです。

新八は刀が鞘に納まらないほど、ボロボロになるまで切り合い、自分自身も左親指に深手をおいました。西暦で直して1864年7月8日になりますが、亥の刻というので現在の22時頃。N☽♃にT♄。N♇にT♆合。N☽♃と♇のオポに、進行中の♄と♆がオポ上書き。
N♂にT☀60度。この時T☊が☀と共にあったので、新八のN♂は、T☊ともいい感じ。N♅☊はT☀と調和。♋と♓の調和なので、仲間思いや協力体制バッチリ。 
 
 N☿にはT♇。仕事の成功時等々、やる気の機運と言う感じで、人生も昇り基調のシーズン到来を告げる配置になっています。
 さすがに御所への放火を企てたことに、世間は驚き、勤皇派に対して厳しくなり、新選組に対しての評価は上がりました。

池田屋事変から間もなく起きた禁門の変でも、実績を出した新選組。
時代の表に出る勢いに乗り、隊士も増える中、新八は二番組組長や撃剣師範を務めました。彼のあだ名「ガムシン」が付いたのが、この頃かは不明ですが、組織の中枢をなしていきます。咲き誇る時期は短かったものの、容保公にも信頼された新選組は、黄金期を迎えます。そのため「武士になりたかった」近藤に、勝者の奢りも出たのでしょう。

新八は細かいことを気にしないさっぱりタイプ。近藤の剣に対する姿勢や人格が好きで、どこまでも仲間として一緒にやってきましたが、ガラリと変わる近藤の言動に、新八のメンタルを支配する♎の☽が、不文律の鐘を鳴らします。そして斎藤一・島田魁の他、数名を伴い、会津藩の容保公の元を訪れ、「非行五ヶ条」を提出しました。

対等な仲間と思っていた相手が、偉くなった態度を取れば、ガッカリもするしやる気も減退するのは、いつの世もある事です。この件は容保公のとりなしで、近藤と新八の双方、お互に矛を収めた状態になりました。

その後、人気上昇の新選組。隊士募集のために江戸に戻ることになり、新福寺(現在文京区白山)に滞在します。同行した新八、古い馴染みや実家が近いので、訪ねるなどあったかもしれません。この隊士募集で、伊東甲子太郎たちをスカウトした新選組は、再び拠点の京都に向かいます。
「攘夷」は一致しても、水戸藩の影響で勤皇派の伊東一派。佐幕派の近藤たちと、倒幕を旨とする伊東たちと、折り合いがつかなくなるのは自然の流れですが、この時点では、まだ誰もが、物事上り調子に見えたかもしれません。しかし、時代の歯車は、確実に開国へ向かって進んでゆきます。

特に1866年(慶応2年)は、14代将軍徳川家茂の死去(享年20歳)から、第15代将軍徳川慶喜に変わっただけでなく、年の暮れに孝明天皇が崩御するという、国の根幹が変わる年となりました。

1867年(慶応3年)伊東甲子太郎たちが分派し、寺党を結成します。試衛館からの仲間だった藤堂平助も、彼らについていきました。斎藤一も彼らについていきましたが、実は土方の命令で間者として光台寺党に入ったという節が濃厚。

新選組は幕臣に取り立てられ、近藤勇としては積年の思いの「武士になれた」がかなったともいえますが、伊藤甲子太郎をはじめ、彼に同行してきた仲間、光台寺党の粛清も行っています。縁が深かったはずの藤堂もここで亡くなり、この年を追えたのでした。
そして迎えたのが1868年(慶応4年)。1月27日鳥羽伏見の戦いです

最新鋭の装備で幕府軍を迎え撃つ薩長軍。新八は島田魁と共に、二番隊を率いて豪胆に戦陣に斬りこみますが、全体的には負け戦。しかも元々は共闘していた薩摩藩が、幕府を裏切って長州と共に官軍となり、徳川家=旧幕軍は朝敵扱い。

大阪城にいるはずの慶喜が、夜中に容保公と桑名藩主などを連れ出し、船で江戸へ戻ってしまいます。この事態に幕軍は総崩れとなり、敗戦の末、新選組は船で江戸に戻ることになりました。再編成して甲陽鎮撫隊を組織し、近藤たちの故郷である多摩から、甲州へ向かいますが、板垣退助が率いる御親征東山道先鋒総督軍(主力部隊は土佐藩迅衝隊)に、勝沼で撃破されてしまいます。
やむなく江戸へ逃げ、負傷した近藤は西洋医学所(現在の秋葉原)で、ケガの治療を受け、土方は幕軍との話し合いで留守がち。新八と原田左之助が、残った隊士の面倒を見ていました。
このまま会津藩に向かって戦いたいという、彼らの総意をまとめて近藤に進言しますが、意見が合わず、ついに袂を分かちます。その後、近藤は流山に向かい、捕縛されて斬首刑に。(一説によると逃げる隊士たちの時間稼ぎもあり)

土方は北を目指しました。新選組と別れた新八は、原田左之助と、ついてきた仲間。諸藩脱藩者や幕府歩兵等を誘い、旧友芳賀宜道を隊長に、精兵隊(精共隊とも表記あり)を組織します。
しばらくの間、フランス式の訓練をしますが、1868年5月3日江戸城明け渡しが決まると、宇都宮戦に参戦するため動き始めました。ここで原田左之助が抜けています(そのまま彰義隊に合流、上野戦争で戦死)。

日光の奪還、会津藩への援軍支等、新八は北関東で転戦しますが、その間に明治改元がありました。(改元は1868年10月23日。同年1月1日に遡って新元号・明治を適用しています)
米沢藩に逗留中に会津藩の降伏(1866年11月6日)を知った新八は、親しくなった米沢藩士雲井龍雄と、<「徳川の遺臣をまとめて薩長の遺臣と最後の決戦をやろう」>誓い合い、江戸に帰ります。

明治天皇が江戸に到着し、東京と名が変わった故郷に帰ってきたものの、旧幕軍しかも新選組の二番隊長「永倉新八」は、長州藩や土佐藩からみたら、仲間を殺された恨みの対象でした。気ままには暮らせません。
因みに1868年♄は♏にあり、♇が♉。このオポが、新八のN☿を動かすけど発展させず。ジリジリと進みます。そして特に3月は新八の天王星を刺激。

5月になると、新八の☽♃とN♈の♆がオポ。♊の☀に♀が入るので、生き延びることは可能ですが、元が☀♄のオポを持つ新八。重めな時期であることは違いなさそうです。

☀年齢域後半は、明治となり新八の生活環境を一変させます。

松前藩士(150石)に戻ることを考えた新八。不品行の末、脱藩したわけではないのもあり、これが認められました。廃藩置県前のセーフな決断です。
伊東甲子太郎の弟鈴木三樹三郎からも狙われ、家老の下国東七郎の庇護を受けていました。五稜郭での土方の最後も風の噂で流れてきた後、1870年(明治3年)。

両国橋の袂で、設置された高札(掲示板みたいのもの)を観て愕然とします。
そこには気心が通じた米沢藩士雲井龍雄の名前と、彼が幕府転覆の咎で斬首されたことが書かれていたのでした。歴史は残酷な現実も突きつけますが、家老下国に気に入られた新八は、1871年(明治4年)藩医杉村介庵(松柏)の娘きねと結婚。

婿養子となり、江戸を離れて本国の松前で数年暮らすことになります。
家庭を持ち、やがて子どもも生まれますが、実は新八、新選組の黄金期に、島原の芸子小常と所帯を持ったので、これは再婚になります。小常は娘の磯子を産んだ後に、亡くなってしまいました。産まれたばかりの娘の養育を、小常の姉に頼む新八は、鳥羽伏見の戦い後、京都を去って戻ることはできなかったのです。

さすがに医師になるのは無理でも、器用で飲み込みも良い新八。事務作業ができないわけではありません。1873年(明治6年)明治6年の政変で、揺れる年ですが、一般人として暮らす新八。家督を相続して、杉村治備(後に義衛)と改名します。
これが☀年齢域の終盤です。

♂年齢域 新選組への慰霊と再び剣術の世界へ 35歳~45歳(1874~1884)

1874年(明治7年)から10年。♂年齢域が始まります。
時代は完全に文明開化。税制も教育も変われば、人の考えや印象も変わってゆき、江戸時代が過去になるにつれ、武士という存在、心意気までもが薄れてゆく。

35歳という人生の充実期を迎えた新八。思い立ったら即行動な性格は、まったく変わらず、単身東京へ向かい、新選組時代に世話になった医師松本良順を訪ねました。
1876年(明治9年)近藤勇終焉の地板橋に、近藤・土方と新選組隊士の名を刻んだ殉難の碑を、永倉新八と松本良順の二人で建立したのです。

近藤・土方とは、最終的には袂を分かったものの、命がけで幕府に忠誠を使った同志であったことは変わりありませんでした。近藤の享年が35歳(満年齢33歳)。その年齢を越えた新八は、新選組が朝敵になることを望んだのではなく、武士道を貫いて国のために命を懸けた存在だったことを、形にしたいとい思いがあったのでしょう。
この後、時期や詳細は不明ですが、北海道の小樽に渡ります。 

1882年(明治15年)43歳となった新八は、松前藩繋がりの警察官僚・月形潔の招きで樺戸集治監(刑務所)の看守たちに、剣術師範を勤めました。
元が剣術好きな新八。これは喜んで引き受けた事でしょう。♂年齢域は、新選組と社会
をつなげる活動と、剣術で充実させた時間ともいえます。

♃年齢域 剣術で生計を立て充実 45歳~55歳(1884~1894)

小樽での剣術指南を退職した後、再び東京へ戻った新八。試衛館があった牛込町をはじめ、浅草という節がありますが、剣術道場を開きました。

♃年齢域なこの時、家族を呼び寄せたのか、伴っての移動かは定かでありませんが、1891年(明治24年)年11月~1892年(明治25年)2月と、1892年(明治25年)2月か~1895年(明治28年)5月まで、いずれも小石川1丁目内で、妻のきね。長男の義太郎に次女ゆき(姪説あり)と生活をしていた記録があります。どちらの住まいも、浪士組が上洛する際に通った白山通りが前なのは、思う所があったのかもしれません。

♃年齢域は、完全に剣術で生計を立てた時期で、♄年齢域と交代が起こるが55歳。
1894年(明治27年)は、日露戦争の年と重なります。意を決した新八は、抜刀隊に志願しますが、「お気持ちだけで」と、お断りを受けています。エピソードとしては、
「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれと言うわけかい」
と自嘲したとありますが、もしかして年齢の問題もあったかと推察。

♄年齢域 実りをもたらす時期到来 55歳~70歳(1894~1909)

1899年(明治32年)再び小樽へ引っ越し。これは婿養子先の杉村家が、元々医師だったことに起因していると思いますが、40代早々の頃、小樽に住んだ際、営んだ薬局を継続するために戻ったようです。以降ずっと小樽住まい。
ここからは穏やかな時間がスタート。新しい文化に触れるのが好きな新八は、映画を気に入り、孫を連れて映画を観に行ったとか。

>「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と感慨の旨を語っていたそうです。
映画館の出口で地元のヤクザに絡まれたのを、眼力と一喝で退散させたという話も残っていますが、作家池波正太郎氏が、杉村道男(新八の孫)から聞いたものです。

新選組時代、島原の芸妓小常との間に生まれた娘の磯子は、1900年(明治33年)関西の女役者尾上小亀に成長し、この頃に再会をしているのもエピソードとしてあります。どういう経緯で、再会できたのか仔細はつかめていません。
♄は収縮の性質が強いので、どうしてもスリム化に意識が向きますが、その人にとって、必要な縁。必要なモノは残すし、運勢的に適う積みをしてきたことには、ちゃんと答えてくれる星です。この再会は、♄がもたらした実りの一つかもしれません。

1905年(明治38年)と、♄年齢域の終わる1909年(明治42年)に、小樽内転居をしていますが、「市内の音を聞かないと飯がのどに通らない」と言って、晩年まで剣の稽古をしていました。

♅年齢域 新選組の記録を世に残す 70歳~75歳(1909~1915)

「あの永倉新八が生きている」うわさを聞き付けた東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の学生が、「ぜひ剣道の指導をお願いします」と懇願。年齢が年齢だけに、家族は反対しますが、型を教えるだけと言って出かけて、体を痛めてしまい学生が小樽の自宅に馬車で送り届けるという事もあったようです。そんな♅年齢期。

普段でも陽気な新八ですが、酒が入るとふんどし一枚になり、銃創を叩きながら「お国のために働いた身体だ。わしの誇りだ」という事もあったとか。単に酔った勢いの自慢だけでなく、新選組時代に負った傷の由来を『七ケ所手負場所顕ス』として書き上げます。
小樽新聞社の記者吉島力の協力を得て、1913年(大正2年)3月17日~同年6月11日「新撰組 永倉新八」という連載を世に出ました。

これは永倉新八から吉島記者が聞き書きしたもので、晩年の口述であるため、記憶違いなども生じましたが、仲間思いの新八としては、近藤たちが歩んだ道のりをキチンと残したかったのでしょう。この連載を下地に生まれたのが『新撰組顛末記』です。
『七ケ所手負場所顕ス』と『新撰組顛末記』によって、それまで定着していた「新選組は悪の人斬り集団」という固定観念が崩れ、新選組再評価の契機となったのです。

ということは、今の時代の新選組人気は、永倉新八のおかげ。といっても過言ではありませんね。
1915年(大正4年)1月5日。剣と友情に生きた永倉新八は、小樽で人生の幕を下ろしています。死去し享年77。
お墓は小樽市中央墓地・札幌市里塚墓地。そして松本良順と共に、近藤・土方と新選組の殉難の碑を建立した東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地(JR板橋駅前にあります)の三か所にあります。

明治以降は歴史の表に出ることなく、ごく普通の一般人として過ごした永倉新八。
派手な主役とはならないけど、重要なポイントに彼を位置づけ、新選組を歴史の中に置き去ることがない役目をもたらしたのは、♊の☀と♄。♃と♇のオポジション。

人から好かれる性格を宿し、比較的穏やかな人生が過ごせたのは、彼が人を大切にできる人であったからだと思いますが、♎にある☽♃の調和。♀と☽♃をはじめとする、ホロスコープに散らばる星々の位置が、絶妙だったのもあると思いました。