聖徳太子→福沢諭吉と変わった1万円札。新札は渋沢栄一となります。
第一国立銀行(現在のみずほ銀行)をはじめ、地方銀行の創立。東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)や大企業の創立に携わり、明治以降の近代化が進む日本で、経済と産業に貢献した人物ですが、実業家になったのは官僚をやめた後の話で、前身は武士でした。
江戸時代末期に武蔵の国の農家に生まれ、時代の寵児として昭和になるまで財界をけん引した渋沢栄一が、どんな星の下に生まれたのか、今回は見ていこうと思います。

まずはいつも通り略歴(ウィキ、その他参照)こちらも長めです。

1840年3月16日(天保11年2月13日)現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。
1847年(弘化4年)従兄の尾高惇忠から漢籍を学ぶ。
1854年(安政1年)家業の畑作、養蚕、藍問屋業に精励。
1858年(安政5年)従妹のちよと結婚。(尾高惇忠の妹)
1863年(文久3年)高崎城乗っ取りと横浜焼き討ちを企てるが計画を中止。京都に出奔。
1864年(元治元年)一橋慶喜に仕える。
1865年(慶応1年)一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡歴。
1866年(慶応2年)徳川慶喜、征夷大将軍となり 栄一は幕臣になる。
1867年(慶応3年)徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)。
1868年(明治1年)フランスより帰国、静岡で慶喜に面会。
戊辰戦争(1868~1869)
1869年(明治2年)静岡藩に「商法会所」設立。明治政府に仕え、民部省租税正となる。東京遷都 東京・横浜間に電信開通
1870年(明治3年)官営富岡製糸場設置主任となる。
1871年(明治4年)紙幣頭となる。『立会略則』発刊。廃藩置県。
1872年(明治5年)大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。新橋、横浜間鉄道開通。
1873年(明治6年)大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。
抄紙会社創立(後の王子製紙会社・取締役会長)。国立銀行条例発布・地租改正条例布告。
1874年(明治7年)東京府知事より共有金取締を嘱託される。
1875年(明治8年)第一国立銀行頭取。商法講習所創立。
1876年(明治9年)東京会議所会頭。 東京府養育院事務長(後に院長)。私立三井銀行開業。
1877年(明治10年)択善会創立(後東京銀行集会所・会長)。西南戦争。
1878年(明治11年)東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。
1879年(明治12年)グラント将軍(元第18代米国大統領)歓迎会 東京接待委員長。
1880年(明治13年)博愛社創立・社員(後に日本赤十字社・常議員)。
1882年(明治15年)ちよ夫人死去。日本銀行営業開始
1883年(明治16年)大阪紡績会社工場落成・発起人(後に相談役)。伊藤かねと再婚。
1884年(明治17年)日本鉄道会社理事委員(後に取締役)。
1885年(明治18年)日本郵船会社創立(後に取締役)。東京養育院院長。東京瓦斯会社創立(創立委員長、後に取締役会長)。内閣制度制定 。
1886年(明治19年)「竜門社」創立。 東京電灯会社設立(後に委員)。
1887年(明治20年)日本煉瓦製造会社創立・発起人(後に取締役会長)。帝国ホテル創立・発起人総代(後に取締役会長)。
1888年(明治21年)札幌麦酒会社創立・発起人総代(後に取締役会長)。東京女学館開校・会計監督(後に館長)。
1889年(明治22年)東京石川島造船所創立・委員(後に取締役会長)。
1890年(明治23年)貴族院議員に任ぜられる。
1891年(明治24年)東京交換所創立・委員長。
1892年(明治25年)東京貯蓄銀行創立・取締役(後に取締役会長)。
1894年(明治27年)日清戦争勃発。
1895年(明治28年)北越鉄道会社創立・監査役(後に相談役)。日清講和条約調印。
1896年(明治29年)日本精糖会社創立・取締役。第一国立銀行が営業満期により第一銀行となる。引続き頭取。日本勧業銀行設立委員。
1897年(明治30年)澁澤倉庫部開業(後に澁澤倉庫会社・発起人)。
1900年(明治33年)日本興業銀行設立委員。 男爵を授けられる。
1901年(明治34年)日本女子大学校開校・会計監督。(後に校長)
1902年(明治35年)兼子夫人同伴で欧米視察。ルーズベルト大統領と会見。日英同盟協定調印。
1904年(明治37年)日露戦争勃発。
1906年(明治39年)東京電力会社創立・取締役。京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。
1907年(明治40年)帝国劇場会社創立・創立委員長(後に取締役会長)。恐慌、株式暴落。
1908年(明治41年)アメリカ太平洋沿岸実業家一行招待。
1909年(明治42年)渡米実業団を組織し団長として渡米。 タフト大統領と会見。
1910年(明治43年)政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。日韓併合。
1911年(明治44年)勲一等に叙し瑞宝章を授与される。
1912年(大正1年)ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。帰一協会成立。
1913年(大正2年)日本結核予防協会創立・副会頭。(後に会頭)日本実業協会創立・会長。
1914年(大正3年)日中経済界の提携のため中国訪問。第一次世界大戦勃発。
1915年(大正4年)パナマ運河開通博覧会のため渡米。ウイルソン大統領と会見。
1916年(大正5年)実業界を引退。日米関係委員会が発足・常務委員。
1917年(大正6年)日米協会創立・名誉副会長。事実上の金本位停止
1918年(大正7年)渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。
1919年(大正8年)協調会創立・副会長。ヴェルサイユ条約調印。
1920年(大正9年)国際連盟協会創立・会長。子爵を授けられる。株式暴落(戦後恐慌)。
1921年(大正10年)排日問題善後策を講ずるため渡米。ハーディング大統領と会見。
1923年(大正12年)大震災善後会創立・副会長。関東大震災。
1924年(大正13年)日仏会館開館・理事長。東京女学館・館長。米国で排日移民法成立。
1926年(大正15年)日本太平洋問題調査会創立・評議員会長。日本放送協会創立・顧問。
1927年(昭和2年)日本国際児童親善会創立・会長。金融恐慌勃発。
1928年(昭和3年)日本航空輸送会社創立・創立委員長。日本女子高等商業学校発起人。
1929年(昭和4年)中央盲人福祉協会創立・会長。
1930年(昭和5年)海外植民学校顧問。
1931年(昭和6年)11月11日永眠。享年91歳。 満州事変

●ホロスコープ

1840年3月16日(天保11年2月13日)現在の埼玉県深谷市生まれ。

誕生時間不明12時設定。ASCは取らず、月は仮定です。

第1室 本人の部屋    かに座
第2室 金銭所有の部屋  しし座
第3室 幼年期の部屋   しし座 ☽(♍1℃)
第4室 氏族の部屋    おとめ座 
第5室 嗜好の部屋    さそり座 ♃(18°34)
第6室 健康勤務の部屋  いて座  ♄(21°32)
第7室 契約の部屋    やぎ座 
第8室 生と死の部屋   みずがめ座 ♆(13°50) ♀(20°22)
第9室 精神の部屋    うお座 ☊(6°33)♅(16°53)☀(25°37)
第10室 社会の部屋    おひつじ座 ♂(7°5)☿(12°57)♇(17°52)
第11室 友人希望の部屋  おうし座
第12室 障害・溶解の部屋 ふたご座

総じて南半球に星が集中。精神の部屋に境界線を越えてゆく♓☀。活動的ですし、しかも♅と☊が三つ子のように一緒。この☀と♅は、5室にある♏の♃と調和。相性もよく、興味を持ったことや、対人関係をしなやかに拡張してゆくことを示しています。

♃は8室にある♆と♀。どちらとも緊張感のある琴線を張っていることから、秘密の恋をはじめ隠すのが得意ということもありますが、金銭感覚の調整役をしているかもしれません。
8室はその人が一生涯に他者から与えられるモノの流れを観ますし、海外つながりもあり。そして♀と♆のコンビは、見せないのがうまい一面もあり、好奇心と気分屋とどこか遊び心が内在する♒にあること。♇といい雰囲気なのも影響しているのか、♓の人の好さなのか、女性関係もきらびやかな広がりがあります。

お妾さんがいておかしくない時代というのもあり、実子を含め子供の数が多いのも渋沢栄一の特徴の一つ。(子供の数も運勢の力一つなので、ご本人がそれだけ大きな運勢をもっているのでしょう。そしてお子さんたちも社会的にそれなりの立場についています。今回はこの辺割愛)
12時で取った☽は♍1℃なので、午前中の生まれなら、♌の可能性も考えられます。♌なら、180度は♀のみ。夜生まれなら☊と♅が、☽と柱を作ります。

実業家として成功し、本人も豊かにはなりましたが、それ以上に世の中の経済と雇用を促進しているので、☽も♀も☊しっくりくるかなと思います。
ライフスタイルを見る6室には、♐の♄があり、社会の部屋10室♇と調和。リーダーシップの牡羊座が守るこの部屋には♂☿もあって♇と三つ巴になり、時代をけん引して進むエネルギーを与えているようです。

純粋な吸収力が引きよせた大転向

エネルギッシュな星回りをもつ渋沢栄一は、武蔵国血洗島(現在の埼玉県深谷市)で農業を営む父、渋沢市郎右衛門元助とエイ夫妻の長男として生まれます。
幼名は栄二郎。農業と言っても米、麦、野菜の生産だけでなく、藍玉(染料)の製造販売と養蚕の兼営を営む渋沢家は、原料の買い入れも行う商業的な家です。そのため算盤と対人スキルは必須。栄一の父は商才に長けていて、まだ幼い彼を伴い信州をはじめ大きな町まで行って藍を売り歩いたそうです。

仕事を覚えさせるだけでなく、学問に理解ある父は、従兄の尾高惇忠の許に今でいう小学生低学年の頃の栄一を通わせました。ここで四書五経をはじめ「日本外史」を学び、剣術は川越藩の剣術師範大川平兵衛から神道無念流を学びました。
闊達で人見知りせず物覚えの良い少年栄一は、学問と武術を吸収し、14歳にして単身藍葉の仕入れに出かけ家業をこなした逸話を残しています。この経験が後に、ヨーロッパの現実的な合理主義思想や経済システムを吸収し、富岡製糸場設置主任を務めた後、実業家としての活動の基になっているといえます。

当時のことですから結婚は早く19歳。お相手は恩師でもある尾高惇忠の妹千代。周りからも将来を見込まれていたのでしょうね。(今の時代と違いて寿命が短い昔は結婚が早めでもありました。そして鑑定ではよく婚期を訪ねられますが、総じて18~22歳くらいは、人生上第一次婚期とも言えると思います。)
そのまま落ち着くかと思いきや、結婚した後に栄一は江戸に出ます。

儒学者海保漁村の門下生となるだけでなく、お玉が池の千葉道場(北辰一刀流)にも入門します。ここは神道無念流と縁のある道場でもあるので通ったのではと思いますが、ここで勤皇の志士たちと交流が始まりました。
好奇心旺盛でなんでも吸収する性質は、尊王攘夷の思想とスパークし、元々活動力もある栄一は、高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜の異人館を襲撃した後に長州と連携。
倒幕するということを思いつきます。これに仰天した周囲は、栄一を思いとどまらせるべく、尾高長七郎(従兄弟)による説得を試みて計画は断念。

父親から勘当を受けた体裁を取った栄一は、そのまま帰らずに京都へ逃れますが、八月十八日の変直後のため、京都は勤皇派にとって居づらい状況でした。
進退窮まった栄一の道を開いてくれたのが、江戸遊学中に親しくなった一橋家の家臣平岡円四郎です。実務能力の高さが買われたとも言えますが、平岡の推薦で栄一は、先日まで倒そうと目論んだ徳川家。その一門一橋家の家臣となり、一橋慶喜に仕えていきます。
慶喜が将軍となった時、勤皇の志士が幕臣の立場になったのですから、大転向の人生です。トランジットビシバシ!っと決まったのでしょうね。

時代の変化と同調し、境界線を越えてゆく転向運。
1867年パリで行われた万国博覧会に、慶喜の異母弟徳川昭武(後の水戸徳川家11代当主)が将軍の名代として参列。御勘定格陸軍付調役の肩書を得た栄一は、昭武と共にフランスへと渡航します。通訳として同行したシーボルトの長男アレクサンダーから語学を習いながら、昭武と共に万博視察だけでなくヨーロッパ各国を訪ね、先進的な産業・軍備を実見し、社会機能を見て強い感銘を受けてゆきます。
アレクサンダーとの交友は長く続き、明治政府に勤めた栄一に彼は弟のハインリヒと共に、日本赤十字社設立などの協力をするようになるのですが、ヨーロッパ各国訪問を終えた後、大政奉還に伴い新政府から帰国を命じられ1868年12月16日横浜港に帰国。

フランスから帰国した栄一は、静岡に謹慎していた慶喜の元に移り、銀行と商社を兼ねたような商法会所を設立しました。外国の商業感覚やシステムを取り入れ、ここでがんばるぞ!と思う栄一に目を付けたのが大隈重信でした。
熱烈に説得され大蔵省に入省。武官から転じて官僚としての人生が始まります。

改革案の企画立案。度量衡の制定や国立銀行条例制定等だけでなく、一大産業計画にも携わります。当時日本最大の輸出品であった生糸。その生産の安定と女性の雇用の安定を見据えて明治政府が建てた富岡製糸場でした。
家業の一つが蚕桑だった栄一が設置主任も務め、煉瓦製造や資材調達のまとめ役として同郷の韮塚直次郎。尾高惇忠とその娘ゆうなどが、立ち上げに際して協力していることから、深谷市の人々と密接な関係があります。

1872年には紙幣寮の頭にも就任しますが、予算編成を巡って大久保利通をはじめ大隈重信とも対立した栄一は、井上馨と共に退官。官僚時代から設立を目指していた第一国立銀行の頭取に就任。ここから実業家渋沢栄一の人生が始まるのです。

王子製紙・田園都市(現東急)キリンホールディングス・帝国ホテル・秩父セメント・秩父鉄道等、約500社の設立に携わっています。また東京証券取引所・東京手形交換所の設立にも携わっていることもあり「日本資本主義の父」とも呼ばれるようになりました。 
実業界だけでなく、実業界を担う人材育成のために設立した商法講習所。女子教育のために開校された日本女子大学校(現日本女子大)の設立を支援し、校長も務めています。

農業と算盤で家業を営む家に生まれ、母親だけでなく働く女性を子供のころ方見て、海外も見てきた栄一は、女性の教育に関しても寛容で推進した人物の一人でした。
学も積んでいる渋沢栄一は、多くのことわざを残しています。それは彼の理念「道徳経済合一説」が基になっていて、その中の一つがこちらです。

「お金をたくさん集めて、たくさん使うことで社会を活発にし、経済の発展を促すのがよい。お金持ちはよく集めると同時に、よく使わなければならない。」

人が利益を追求するのは当たり前のことで、同時に仕事をするならば公益になること。これを意識していた栄一は、貧民救済や慈善活動にも尽力を傾けていました。日米関係の友好にも貢献するために働いたことから、1926年加藤高明首相をはじめとする推薦。
1927年若槻礼次郎首相をはじめとする推薦で、2回ほどノーベル平和賞候補にも挙がっています。

1952年、来日した近代マネンジメント研究の第一人者ピータードラッカー(ユダヤ系オーストリア人)は、老舗という日本独特の存在と、渋沢栄一の人生に強い関心を持っていました。渋沢の功績についてピーターは、モルガンやロスチャイルド以上と評価をしています。
アメリカや中国でも渋沢の経済に関する考え方、起業の理念は研究の対象になっています。境界線を飛び越える♓に、♅と☊☀が輝き、チャレンジャーな牡羊座が社会の部屋にあり、やる気の♂技術と話術の☿。プライドの♇を宿す渋沢栄一の理念は、国を超え時代を超えて、現代まで多くの人に影響を与えています。

一万円札が渋沢栄一に代わることで、彼の人となりに多くの人が触れ、混迷する世界経済が良い方向へ進むヒントをつかみ、実践してゆけるといいですね。