今回に選んだのは、 ジョー・ヒルという作家の 「ポップ・アート」という短編小説です。 『20世紀の幽霊たち』(小学館文庫)という短編集に入っています。 『不思議の扉午後の教室』(角川文庫)というアンソロジーにも入っています。
著者のジョー・ヒルという人は、じつはあのモダンホラーの巨匠、スティーブン・キングの息子です。でも、親の七光りにならず、また、有名すぎる父親のせいでつぶれてしまうこともなく、 独自のせつない小説を書いています。
この『ポップ・アート』は、著者自身も「この先もいちばんお気に入りの作品になると思う」と書いているほどで、やさしさや、せつなさや、やりきれなさなどの詰まった、感動的な短編です。
あらすじの紹介では、なかなか面白さが伝わりにくいタイプの作品なので、 ちょっと困ってしまいますが、こういうお話です。
「十二歳のとき、オレの一番の親友は空気で膨らませる人形だった」
というのが冒頭の一文です。主人公の少年<おれ>の親友は、「空気で膨らんだビニール製の少年」なのです。といっても、人形を友達と思い込んでいるとか、以前にご紹介した映画『ハーヴェイ』のように、他の人には見えない友達とか、そういうことではありません。
この小説の世界では、普通の両親の間に、ときどきこういう子供が生まれてくるのです。そして、普通の子供と同じように、学校に通っています。ただし、針でつかれたりしたら、空気が抜けて、抜けすぎた場合には死んでしまいます。ちなみに、美術のポップ・アートとは何の関係もありません。親友の空気人形の名前がアーサーで、愛称がアートなのです。
アートのように、他の生徒とはちがっているところがあると、どうしてもいじめられてしまいます。転校してきたとたん、後ろの生徒からは画びょうを投げつけられるし、理科室の作業台にくくりつけられたり、「採便袋」と落書きされたりします。
ある日、アートはクラスメートからバットで叩かれ、どれだけ高く上がるか競争して遊ばれていました。そして、ジャングルジムの上にひとりでいた<おれ>の目の前に、たまたまふわふわと落ちてきます。そして、鉄のバーに、静電気ではりついてしまいます。
アートはメモ帳にクレヨンで文字を書くと、<おれ>に差し出しました。
アートはしゃべることができず、また、尖ったペンは命取りになりかねないので、メモ帳とクレヨンで会話をするのです。
そこには、「助けてくれ」とは書いてありませんでした。
「あいつらになにをされてもぼくは気にしないけど、きみはどこかよそへ行ってくれない? 見物人の前でおもちゃにされるのはイヤなんだ」
<おれ>は、アートを助けます。
<おれ>は、クラスメートから、不良として恐れられていました。飛び出しナイフを持っていて、服装も麻薬の売人のようだったからです。だから、クラスメートも彼には逆らいません。
そんな<おれ>ですが、誰かに自分の話を聞いてもらいたいと思っていました。母親は三歳のときに家を出て、父親はテレビをずっと見ていて、邪魔されるのを嫌ったので、話しかけることができませんでした。
「無二の親友になった理由のひとつは、彼がすばらしい聞き手だったからだと思う」。
<おれ>は自分の家にアートを連れて帰りますが、<おれ>の父親はアートを嫌います。わざと凶暴な犬を飼い始めます。アートにとって、犬の牙や爪が命とりになることがわかっていてです。
「前から飼いたがっていたじゃないか」
「飼いたがっていたのはオレの友だちを食おうとする犬じゃないよ」。
<おれ>とアートは、アートの家で遊ぶようになります。
アートは宇宙にあこがれていたので、いっしょに宇宙の番組を見て、アートにすすめられて、いろんな本を読んだり、いっしょに勉強もしました。
そして、アートといっしょに「死」についても考えました。
「アートはどんな話題でも死に結びつけることができた」。
空気人形であるアートにとって、死は身近で、考えずにはいられないことでした。アートの大伯父のひとりがやはり空気人形で、枯草の山に埋まっていた熊手の先が突き刺さって破裂して亡くなっています。
そして、アートにもある事件が起き、一日に十五、六回も空気が抜けるようになってしまいます。アートは<おれ>に、風船を山ほど買って、入江に来てくれるように頼みます。アートは<おれ>に言います。

「とうとう決めたよ。どこまで高く昇れるかためしてみる。ほんとうかどうかためしたいんだ。空のてっぺんが開くかどうか」
<おれ>はアートを抱きしめ、泣きます。
「やめてくれ、オレをひとりにしないでくれ。オレにはほかに友だちがいないんだぞ。ずっとひとりぼっちだったんだ」
<おれ>はしゃべりつづけて言葉がしどろもどろになり、声がかれてしまいます。
そして、どうなったかは、ぜひ実際にこの短編を読んでみていただきたいと思います。
さて、<おれ>は、わざと人を遠ざけていたのに、なぜアートとは親友になったのだと思いますか?

Aの意見
「両親のことなどで傷ついていた<おれ>にとって、空気人形である傷つきやすいアートは、守ってあげくたくもなるし、親近感も持て、自分の気持ちをわかってくれそうな相手でもあったのでは」
Bの意見
「誰かと誰かが親しくなるには、きっかけが大切。<おれ>は人を遠ざけていたので、なかなか出会いがなくて、アートと偶然出会って助けたことが、いいきっかけになったのでは」
Cの意見
「人を遠ざけてはいたけれども、<おれ>は人を求めてもいた。一方、アートは、人を求めているのだけれど、人から遠ざけられてしまっていた。そんなふたりだから、ひきあうところがあったのでは」

あなただったら、どの意見にもっとも納得がいきますか?

心が決まったら解説を読んでください。


このテストから学ぶテーマ
「人といっしょにいるのは苦痛だけれど、 人といっしょにいたい」

「シャイ」という言葉があります。「恥ずかしがり」という意味ですね。 心理学用語では【シャイネス】で、3つの要素があると言われています。
1)感情的側面…対人不安や、動悸や発汗などの生理的反応。
2)認知的側面…相手から否定的な評価をされるのではないかという不安を感じたり、自分で自分のことをダメだと思ったり。
3)行動的側面…思うように話せなかったり行動できなかったり、人を避けてしまったり。
シャイな人なら、思い当たることが多いのではないでしょうか?
ひとことで言うと、「他人といっしょにいることが苦痛」ということですね。 一方、「社交性」という言葉があります。人とつきあうのが好きということですね。 心理学でも同じことです。「他人といっしょにいたいという欲求」です。
このシャイと社交性は、対極にあると思われがちです。つまり、シャイさがないのが、社交性があるということで、 社交性がないのが、シャイであるということだと。 実際、shyが「社交性がない」と訳されていることもしばしばあります。
しかし、心理学者のチークとパスの研究によると、【シャイネス】(他人といっしょにいることが苦痛)と、【社交性】(他人といっしょにいたいという欲求)は、それぞれ独立した別の心理なのです。
それはどういうことかと言うと、「シャイで、社交性のある人」や、「シャイではなくて、社交性もない人」も存在するということです。周囲を振り返って見ると、たしかにそういう人がいるのに、思い当たるのではないでしょうか。「私は人間ぎらいだ」と人前でハッキリ言えるような人は、社交性がありませんが、シャイでもありませんね。
一方、人づきあいが苦手なのに、それでも人を求める人もいます。そういう人が、シャイで、社交性のある人ですね。実は、こういう人が、いちばん苦しいのです。同じシャイでも、社交性がなければ、「他人といっしょにいるのが苦痛」で「他人といっしょにいたいという欲求がない」のですから、気持ちに矛盾や葛藤がなく、人とあまり接触しないようにしていれば、それで苦痛は避けられます。
でも、シャイで社交性のある人の場合は、「他人といっしょにいるのが苦痛」なのに「他人といっしょにいたいという欲求」があるのですから、気持ちに矛盾や葛藤があって苦しいですし、他人といっしょにいても、ひとりでいても苦痛があります。
上記のチークとパスの研究でも、シャイで社交性のある人は、たんにシャイなだけの人よりも、より緊張や不安が高く、言動が抑圧されることがわかりました。
「ポップ・アート」の<おれ>は、まさにこういう人ではないでしょうか。シャイで社交性があるので、苦しんで、まるでうまく人とつきあえず、遠ざけてしまう。
アートはおれに、「他人といっしょにいる苦痛」を感じさせず、「他人といっしょにいたいという欲求」を満たしてくれたのではないでしょうか。
相手に心を開くことができれば、シャイな人でも、「他人といっしょにいる苦痛」を感じずにすみます。ただ、心を開くことがなかなか難しいのです。
でも、<おれ>の場合のように、心を開けることもあります。そのときには、相手は、かけがいのない親友となります。
社交性のある人は、周囲の人たちにすぐにとけこみますし、周囲の人たちのほうでも、つきあいやすいです。 一方、シャイな人というのは、周囲の人たちになかなかとけこめませんし、周囲の人たちのほうでも、つきあいづらく感じます。シャイで社交性のある人になると、人を避けているように見えますから、周囲の人たちも、声をかけてはかえっていけないように感じてしまうことさえあります。
しかし、この短編の<おれ>のように、本当は誰かを心から求めている場合もあるのです。このことを知っておくと、人とのつきあい方も、また変わってくるのではないでしょうか。
なお、「ポップ・アート」の中に、こんなシーンがあります。<おれ>は、アートの母親が大好きなのですが、
「オレはチャンスがあるたびに母親のことでアートをからかった。そうせずにはいられなかった」
「老けた淫売にしては悪くないケツをしているとか」
「しかし、アートのほうは、オレの親父をからかいのネタにしたことは一度もなかった」
「アートが親父のことでオレを笑おうとしなかった理由を想像するのはむずかしくない」
「友だち同士のあいだでは(中略)相手に一定量の苦痛を与えることも許される。相手にそれを期待してさえいる」
たとえば、友だち同士だからこそ、バカと言い合ったりすることですね。
「しかし、深刻な傷を負わせてはいけない。どんな状況においても、永遠に消えない痕(あと)が残るような傷をつけてはいけない」
相手の母親のことが好きだから、平気でからかいのネタにして、相手が父親が本当にヒドイ人間で、相手がそのことで傷ついているから、そのことを決してからかいのネタにしない。こういうことは、人間関係において、とても大切ですね。


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<賢者の答え>

A「両親のことなどで傷ついていた<おれ>にとって、空気人形である傷つきやすいアートは、守ってあげくたくもなるし、親近感も持て、自分の気持ちをわかってくれそうな相手でもあったのでは」
をもっともだと思ったあなたは……
<おれ>もアートもクラスで、はみ出した存在でした。また、傷ついた<おれ>と、傷つきやすいアートは、<おれ>がアートを守り、アートが<おれ>の話を聞いてあげることで、お互いに補い合える関係でもありました。ですから、境遇こそちがうものの、お互いの気持ちがよくわかったでしょう。
こういう関係について「傷をなめあう」といような言い方がされることがあります。「似たような不幸な経験した者どうしがなぐさめ合う」ということで、しばしば、「傷をなめあっても仕方ない」というような、やや否定的な用いられ方をします。
しかし、傷をなめあうのは、決して悪いことではありません。この言葉のもともとの由来は、動物が傷をなめて治すことからきています。なめれば傷はよくなっていくのです。
あなたも、傷ついた経験があるか、あるいは傷つきやすい人なのかもしれません。同じタイプの人と出会えれば、心のつながりができるでしょう。<おれ>とアートのように、お互いを補い合える関係なら、なおさらいいでしょう。もし、そういう親友ができたら、周囲から何と言われようと、ぜひ大切にしてください。

B「誰かと誰かが親しくなるには、きっかけが大切。<おれ>は人を遠ざけていたので、なかなか出会いがなくて、アートと偶然出会って助けたことが、いいきっかけになったのでは」
をもっともだと思ったあなたは……
実は、アートは転校してきたとき、席が<おれ>の隣りになりました。でも、<おれ>とアートはそれで知り合うことはなかったのです。ジャングルジムの上で出会う、その瞬間まで、「オレはアートと正面からまともに顔を合わせたことが一度もなかった。同じ授業に出ているし(中略)となりの席にすわっているが、ただのひとことも言葉を交わしたことがなかった」。
後に大親友になるほど心の通じ合う相手とでも、きっかけがなければ、こんなに近くにいても、知り合いになることすらないのです。シャイで社交性のある人の場合、とくにこういうことが起きがちです。他人と距離をとるので、隣りにいてさえ、遠いのです。
何か心がふれあうような、きっかけが必要です。あなたも、何かきっかけがないと、なかなか人との距離を縮められないほうかもしれません。
あるいは、何かのきっかけで、思いがけない人と友だちになった経験をお持ちなのかもしれません。いずれにしても、きっかけは、たんなる偶然にすぎませんが、偶然を大切にすれば、それは運命になります。そういう意味で、人と知り合う、偶然のきっかけを、これからもぜひ大切にしてください。

C「人を遠ざけてはいたけれども、<おれ>は人を求めてもいた。一方、アートは、人を求めているのだけれど、人から遠ざけられてしまっていた。そんなふたりだから、ひきあうところがあったのでは」
をもっともだと思ったあなたは……
もし<おれ>が本当に人とつきあいたくない、人間ぎらいだったとしたら、アートとつきあうこともなかったでしょう。社交性のない人なら、つまり、「他人といっしょにいたいという欲求のない人」なら、人を遠ざけている状態が快適で、そのままの状態を続けたでしょう。
しかし、<おれ>は人を求めていました。じつは社交性があったのです。では、なぜ人を遠ざけていたのか。それはシャイでもあったからでしょう。つまり、「他人といっしょにいるのが苦痛」でもありました。それなのに、社交性もあるという矛盾と葛藤のせいで、たんにシャイな人や社交性のない人以上に、なおさら人を遠ざけていたのです。
アートのほうは、シャイでもないし、社交性もあるタイプです。「アートは能なしでもマヌケでもなかった。能なしはうちの親父。マヌケは学校のガキ連中。アートは違う。真心があった。彼はだれかに好かれたいだけだった」
アートの心には矛盾も葛藤もなく、素直に人に愛されたいと思っているのですが、それでも受け入れられないことがあります。これもまた悲しいことです。それを<おれ>は理解しました。
あなたもまた、<おれ>のように、人といっしょにいることに苦痛を感じ、でも、人といっしょにいたいという気持ちも持っているのかもしれません。「そういう矛盾した気持ちを持つのはおかしい」と思っているとしたら、それは間違いです。人は、そういう矛盾した気持ちを持つものなのです。
人を避ければいいのか、人に近づいていけばいいのか、どうすればいいのかわからなくなることもあるかもしれません。しかし、そういう心の苦しみは、同時に、人の心を育て、深くもします。矛盾と葛藤に苦しんできたおれだからこそ、アートを理解してあげられたのです。そういう深い出会いがいつか必ず訪れます。それを大切にしてください。


津田先生「空気人形というと、日本でも『ゴーダ哲学堂空気人形』という業田良家さんの漫画があって、先日、カンヌ国際映画祭で『そして父になる』が審査員賞に輝いた是枝裕和監督によって、『空気人形』という映画にもなっています(ペ・ドゥナ主演)。
「ポップ・アート」とは、ぜんぜんちがう作品ですが、空気人形が出てくるところは共通しているので、何か関係かあるのかなと思いましたが、『ゴーダ哲学堂空気人形』が出たのが2000年で、「ポップ・アート」が発表されたのが2001年でした。
ジョー・ヒルが『ゴーダ哲学堂空気人形』を、出たとたんに読んでいるということも考えにくいので、おそらくは偶然でしょう。ほとんど同時に、空気人形が出てくる話を、別の国の二人の人が書いているというのは、興味深いことです。

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