1868年1月10日(慶応3年12月16日)芝中門前町(現芝大門)

☀星座♑19°12
☽星座♋21°39(24h13°59~29°18)満月



第1室本人の部屋♑☿・♂☀
第2室金銭所有の部屋♒♀
第3室幼年期の部屋♓♃
第4室家庭の部屋♈♆
第5室嗜好の部屋♉♇R
第6室健康勤務の部屋♊
第7室契約の部屋♋♅R・☽
第8室授受の部屋♌
第9室精神の部屋♍☊R
第10室社会の部屋♎
第11室友人希望の部屋♏
第12室障害溶解の部屋♐♄

ホロスコープは地図と方位が逆になります。なので、北半球が下。
南半球が上。向かって左側が東。右側が西。
星が入っていないハウスは、6・8・10・11で、比較的分散しているのと、見たら一目瞭然な満月生まれ。
♑の☀と♋の☽。活動宮であり、土と水。女性格の満月です。しかも♑は☿と♂もあるステリウム。これだけでも好奇心と成功意欲旺盛で活動的ですが、対岸第7室契約の部屋にある☽と♅とオポジション。さらに☿と♂は、♈を進む♆とのスクエア。
尾崎紅葉の「人生の成功」「幸せ」を巡る微妙な女性心理を、描く下地がここに潜んでいたのかもしれません。大衆受け人気を博したのは、第2室の♒♀と♉♇R。さらには第1室の☿と第9室精神の部屋にある♍☊R。この☊Rは、第3室♓の♃ともオポジションあたりでしょうか。♑の☀と♉の♇Rのスクエア。♋にある♅との絡みを見ると、二等辺三角形を作っているのが、文学界の黎明期を牽引し、多くの弟子を輩出したのを物語っているとも見れます。

尾崎紅葉略歴(ウィキその他参考)

1868年1月10日(慶応3年12月16日)芝中門前町(現芝大門)誕生。本名は徳太郎。
尾崎家は幕府御用達の伊勢屋という商家であり、父親の尾崎惣蔵は、根付け師尾崎谷斎でもある。母は庸。
1872年(明治5年)学制が施行され、各地で学校建設が始まる。紅葉は母と死別。以降、近くに住む母方の実家で養育される。荒木舜庵・せん夫妻(漢方医)
1874年(明治7年)寺子屋梅泉堂(現・区立御成門小)に通う。
1877年(明治10年)共立学校入学(現・開成中学)
1881年(明治14年)東大予備門に合格、入学する。(現・東大教養学部の前身)「十千万堂」というペンネームで、詩や文章を書き始める。山田美妙と出会う。
1884年(明治17年)文学結社の創立を目指す。
1885年(明治18年)東大予備門の仲間と共に、文学結社「硯友社」を設立。回覧雑誌「我楽多文庫」の発行を始める。
1886年(明治19年)「我楽多文庫」好評のため、活版化する。大学予備門の学制改革により、第一高等中学校の英語政治科へ編入。
1888年(明治21年)帝国大学法科大学政治科に入学。「我楽多文庫」で「風流京人形」を連載し、注目を集める。
山田美妙は雑誌「都の花」の主筆に迎え入れられ、袂を分かつ。
1889年(明治22年)国文科に転科。「二人比丘尼色懺悔」が刊行され、流行作家の仲間入りを果たす。在学中読売新聞に入社。以降、主だった作品の発表舞台は、読売新聞となり、幸田露伴と共に、紅露時代と呼ばれる。
1895年(明治28年)心理描写に重きを置いた作品「多情多恨」を発表。
1897年(明治30年)「金色夜叉」の連載が「読売新聞」で始まる。
1899年(明治23年)健康を害し、静養のため修善寺等に赴く。
1903年(明治36年)「金色夜叉」の連載再開。(続々金色夜叉として刊行)
10月30日自宅で死去。享年35歳。

尾崎紅葉惑星history ☽年齢域0~7歳1868~1875年(慶応3年~明治8年)

第15代将軍徳川慶喜によって、まさかまさかの大政奉還があり、武家時代。徳川幕府が終焉を迎えた1868年1月10日(慶応3年12月16日)。
慶喜公が、体制改革を告げるため、英・米・仏等、6国使臣を招いたこの日。花のお江戸は、増上寺の門前町に住まう尾崎家の長男として、尾崎紅葉は生まれます。
本名は徳太郎。尾崎家は幕府御用達の商家伊勢屋を営んでいました。(呉服屋説。米問屋説等ありますが、詳細不明)父の尾崎惣蔵(徳三とも呼ばれる)は、尾崎谷斎の名を持つ根付師という顔を持つ人で、母の名は庸。

紅葉が生まれた当時の江戸は、騒然としていたのです。なんとか幕府側が先に手を出した形で、戦争を仕掛けるために薩摩藩の志士が街中で暴れ、ついに庄内藩が薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちしてしまう事態となりました。
西暦は1868年のままですが、慶応4年1月。ついに鳥羽伏見の戦いが始まると、幕府軍は朝敵となり、戦火は戊辰戦争へと拡大していったのです。
同年5月3日(慶応4年4月11日)江戸城無血開城。
同年9月3日(7月17日)江戸が「東京」に改称。
10月23日(9月8日)に、明治と改元されました。紅葉が生まれた芝門前町は、徳川家の菩提寺である増上寺の門前町。商家や職人が住む活気のある地域でしたが、幕府や武家と取引をしていた商家も多かったのです。海外視察を終えた岩倉使節団の帰国によって。日本が西欧諸国と対等な独立国とるために、明治政府は富国強兵に舵を切りました。
現在の港区や中央区界隈は、一早く文明開化が起こった地域で、街を歩く洋装の人も増え、明治天皇に続けとばかりに、長く根付いたちょんまげが消え(全国展開の男性断髪令)、馬車が走り、夜の街にはガス灯が着き、明るくなります。新時代に向かう一見華やかさの影で、増上寺門前町にある多くの商家は、幕府崩壊で苦しい経営を迫られた上、貨幣制度や税制が根こそぎ変わる中、なんとか商いを続けたそうです。
街の姿が変わって行ゆく中、幼い紅葉は、増上寺境内で遊んでいました。おとなしくも観察意欲が旺盛な紅葉。意識、無意識の別なく、職を失った侍が、慣れない仕事への転職に走り回る姿等、幼い目に映った時代の変わり目が、彼の作品のバックグラウンドになったとは思います。

そんな紅葉。1872年(明治5年)4歳にして大切な母を失いました。死因は定かではありませんが、当時は結核をはじめとする感染症に対する医療体制もなく、また誰もが簡単に医療が受けられる時代でもありませんでした。産前産後も今の時代より、はるかに命がけで、妊婦と乳幼児の死亡率は高かったのです。(乳幼児の死亡率が止まり、回復するのは大正10年以降)
まだ幼い紅葉は、母の死をとても悲しみますが、父は商売が忙しく、細かくかまってあげることができません。経済的な変動も激しく、息子の行く末も考えた末、庸の両親に、紅葉の養育を頼んだのです。芝明神町(現・浜松町)に住む母庸の実家は、これを了承。
漢方医を営む荒木舜庵・せん夫妻は、快く孫を引き取りました。厳格で学問を重んじる祖父は、たくさんの書物を持っていたのです。好奇心の塊な紅葉に、「論語」や「唐詩選」の手ほどきをすると、元々言葉遊びなどが好きな孫は、幼いながら詩を作ることに挑戦.。
孫が書物に夢中になる姿を喜んだ祖父は、持っている本を自由に読ませました。その中には、江戸時代に多くの庶民が親しんだ読本もあり、紅葉は曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」に夢中になります。
祖母のせんは、四季折々の行事を大切にする人で、節に合わせたお菓子や料理を作って、孫に食べさせ、芝界隈の逸話やたくさんの民話を聞かせたり、娘の忘れ形見をとても慈しみました。
時代が激しく移り変わる中、哀しい出来事も起きましたが、☽年齢域の後半と、☿年齢域の前半。祖父母の愛と教育をふんだんに受けた尾崎紅葉は、学問と文学の基礎を構築しつつ、寺子屋・梅泉堂(現・港区立御成門小)に通います。
1874(明治7年)頃に、親友となる山田美妙と知り合いました。

紅葉が母親を亡くした1872(明治5年)は、6歳以上の子どもを就学させる学制が敷かれました。学業の近代化を目指して、全国に小学校建設に力を入れる他、女学校も開校します。が、子どもは働き手と考える国民側の意識と、国が描くこれまでの身分制度に立脚した学校制度と違う学校の在り方には、差が大きくあったのでした。

☿年齢域7~15歳1875~1883年明治8~明治16年

比較的豊かで、学業に理解がある祖父母の家で暮らす紅葉は、1879年(明治12年)府立第二中学(第一中学と統合。東京府立中学。現日比谷高校)に進学する紅葉。同級生には幸田露伴もいました。幼馴染の山田美妙と再会。英語や数学も学びますが、紅葉の興味は漢学。その成績は教師も一目置くほど優秀だったそうですが、やがて中退。私塾で漢学を学びつつ、三田英学校で英語を習得しました。
*紅葉の学歴として、共立学校(現・開成中学)から、1881年(明治14年)説もあります。

♀年齢域15~24歳1883~1892年明治16~明治25年

☿と♀年齢域が重なる1883年(明治16年)は、鹿鳴館時代の幕開けで、紅葉は東京大学予備門(現・東京大学教養学部の前身)を受験します。国際基準の学問を導入させるために、明治政府が設立した日本最高の教育機関だけに、試験は難関でしたが、学力の高かさを裏付けて見事に合格します。
数学・哲学・政治学に西洋文学。授業の多くは英語で行われたそうです。西洋文学の影響もあって、当時の文学界は、新たな文章表現。「言文一致体」を模索していました。が、紅葉は英語の対して強い関心は示さず、漢学や古典文学に熱中。坪内逍遥の作品「小説神髄」に影響を受けいたようで、紅葉は「緑山」というペンネームで、詩や短編小説を書き始めます。
翌1884年(明治17年)「言文一致体」の表現者として、注目されていた山田美妙が、予備門に入学してきました。彼との再会で、さらに文学への関心が高まる紅葉。「学問の一つ」と位置づけられていた文学は、身近でもなく、今の時代ほど娯楽性もありませんでした。そこに「文章で人を感動させたい」「人を感動させる作品を作りたい」と思う紅葉は、文学好きな仲間と集まり始めます。
1885年(明治18年)5月2日。尾崎紅葉は、山田美妙・石橋思案・丸岡九華等と共に、文学結社「硯友社」を結成。同人誌の発刊を目指しました。これは商業出版社による小説の出版が、一般的ではなかったこともあり、同年に「硯友社」のメンバーが描く小説、詩、評論を掲載した回覧誌「我楽多文庫」が創刊しました。元祖同人誌です。(当初肉筆筆写)

1885年5月2日~1886年5月25日「江島土産滑稽貝屏風」のタイトルで、紅葉は連載を開始します1886年(明治19年)は大学予備門の学制改革により、第一高等中学校(東京大学教養学部および千葉大医学部・薬学部の前身となった旧制高等学校。旧制一高とも呼ぶ)の英語政治科に編入となります。
大学生たちが集まって作った文芸回覧誌「我楽多文庫」は、好評を呼んで1886年(明治19年)11月1日。ついに活版化したのでした。

1888年(明治21年)帝国大学法科大政治科と、文学作家には似つかわしくない学科を専攻刷る紅葉。因みに英語への関心度は低い紅葉ですが、苦手でもなく、できなかったこともなく、むしろ英語力は高かったのでした。この当時、紅葉の学費に関しては、荒木家と縁の深い横尾家もフォローしています。
同年5月25日には、ついに「我楽多文庫」を販売することになりました。
日本の伝統的な美意識を大切にしつつ、新しい時代にあった文学を目指した尾崎紅葉は「風流京人形」を連載。この作品が注目を集めました。その一方で、新たな縁があれば、去る縁もある。山田美妙との別れが起きます。新たに出る雑誌「都の花」の主筆として迎えられることが決まった山田美妙は、別の道を選んだのでした。

大日本帝国憲法が発布されて、自由民権運動も一段落する1889年(明治22年)。夏には東海道本線が全面開通して、これまで以上に、中央と地方の間で人の流入も活発化します。この頃は富国強兵の効果で、地方でも工業や産業に力を入れる地域には工場が増えて、農村や漁村から仕事を求める人が集まるようになりました。
これまでは生まれた場所で暮らし、農業や漁業を手伝っていた子どもたちは、仕事を求めて違う土地に移住するようになったのです。仕事と生活の自由を求めて動く人が増える分、地方の活性化は進無半面、人口増加にライフラインが追い付かなかい。病気に怪我、震災など、生活が一変するような事態に見舞われた時、これまでは庄屋に相談し、村全体でフォローするセーフティーネットが機能していましたが、見知らぬ土地で暮らす個人をフォローする機能を整備できるほど、自治体は整っていなかったのです。また働く環境も、福利厚生は整ってはおらず、10歳の子どもや若い女性が、昼夜勤問わず長時間の重労働に着くのが当たり前だったのです。

古来からある価値観と、新たな価値観。その間で一般大衆は翻弄されながら生活していた時代に、山田美妙は「胡蝶」を、幸田露伴が風流物」をリリース。女性作家として、樋口一葉も注目される小説当たり年に、国文科に転科した尾崎紅葉は、「二人比丘色懺悔」を世に出しました。
既にいくつかの作品を出している紅葉ですが、これまでの作風とはイメージを変えた懐古主義的な小説「二人比丘色懺悔」は、新聞掲載で注目されると、人気作家群の作風とも違う雰囲気を放ち、「次の展開が気になるわ!」と、女性ファンが増えたのです。当時はラジオもテレビもまだない時代。メディアといえば新聞でした。難しい時事や経済だけでなく、新聞に掲載される連載小説は、男女の別なく娯楽の一つになっていたのです。
室町の終わりから安土桃山あたり乱戦の時代。山の中にある尼寺に住む一人の尼の元に、旅をする一人の尼が訪ねて、一夜の宿を請うところから話が始まります。
一人で尼寺を守る尼にあてた一通の手紙から、二人の尼の会話は進み、やがて戦に出た一人の男(実は同じ人物だった)を思っていたことに気付く。あらすじの中に、生きることの儚さ、女性が持つ情念や業。悔恨の思いなどを深く描写する展開が、人の心を引き付けたのでしょう。因みにこの年、T♃は♑を進みます。
尾崎紅葉のN☿☀♂は、♑ですね。
ここを拡張機能の♃が、掘り起こしをするため、生活スタイルが変わったり、環境の変化は著しかったと推察。N♐♄の対極に、T♊♆と♇という時代コンビがあります。尾崎紅葉は、懐古古典主義と言文一致体の発展に貢献した作家ですが、変化を起こす風星座を進む星たちが、作風に貢献したかもしれません。
注目株となった尾崎紅葉。同年12月に、在学中のまま、読売新聞社に入社します。読者が熱中する小説を書く作家を、各新聞社が探した時代でもありました。

第一回衆議院議員選挙が行われる1890年(明治23年)。帝国大学を退学した紅葉は、かつて吉原の遊女だった太夫を取材して描いた「伽羅枕」を世に出しました。この頃、紅葉の元には、門をたたく弟子たちが現れます。
♀年齢域の後半は、作家人生を歩き出すと当時に、牛込の横寺町(現・新宿区横寺町)に居を構えた紅葉の元には、泉鏡花・徳田秋声をはじめ、文豪の卵たちが集いました。
書生も務めた泉鏡花との師弟関係は、現在マンガやアニメとなっている「文豪ストレイドッグス」の中でも再現されています(二人とも女性キャラとして、描かれていますが)

「伽羅枕」が世に出た1890年7月5日。この日のホロスコープですが、
T☀は♋を進行。これが、尾崎紅葉のN☽と♅を刺激。このN☽は、対極の♑☀とオポジションです。NもTも活動の☀。どちらも尾崎紅葉の最盛期幕開けを告げるだけでなく、面倒見の良い☽が、弟子を保護するのも含んでいるように見えます。
この年、♃は♒に入室。紅葉が持つN♀とコンジャンクション。翌1891年(明治24年)には結婚しますが、案外影響しているかもしれません。お相手は旧新見藩(現岡山県北西部)の漢方医樺島玄舟の娘喜久さん。芝浜松町にある旧新見藩主関氏の邸で育ったお嬢様で、1872年(明治5年)の生まれということですから、4歳違い。紅葉のおじいさんも漢方医。互いに近所ということから、幼馴染だった二人は、やがて5人の子どもに恵まれます。

☀年齢域24~34歳1892~1902年明治25~明治35年 ♂年齢域34~45歳1902~1903年明治36年

紅葉の☀年齢域は、「紅露時代」「紅露逍鴎時代」とも呼ばれ、多くの人が、幸田露伴と尾崎紅葉。坪内逍遥、森鴎外の作品を読み親しんだ時代でもありました。時事的には、
欧米の植民地化への回避と、対等な国となるために不平等条約を解消させるべく、富国強兵を進めてきた日本が、日清戦争に勝利し、日英同盟を結ぶまでが当たります。清から得た賠償金で国内整備をさらに進め、1895年(明治28年)4月には、台湾統治も始まるエネルギッシュな時代でもありました。
この頃に源氏物語を読んだという尾崎紅葉。心理描写に重きを置いた「多情多恨」を、翌1896年(明治29年)2月にリリースします。
この時期、♑をT♂が航行。対極の♋にある紅葉の♅。♒にあるN♀と♊にいるT♆も
、強く引き合います。情念や心理描写に飛んだ作品を生み出す力ともいえるし、T♒☀とN♈♆。さらに♊T♇が折り合う二等辺三角形は、工夫と変化、過去と現在の融合による彼の成功を歌っているようです。

1897年(明治30年)1月には、ついに名作「金色夜叉」が世に出ました。
尾崎紅葉といえば、そう、寛一お宮の「金色夜叉」ですが、誕生月に連載開始となったのですね。☀同士が重なり合うし、N☽が♋な紅葉。T☀も完全に引き合います。
♍を進むT♃は、紅葉のN♇。N☿と社会的成功を意味するトラインを形成。しかもこれが♉と、♑です。
ダイヤモンドに目がくらんだヒロインのお宮は、愛があっても金のない学生よりも、金のある男と結婚する方が幸せと、将来を誓った恋人の寛一よりも、富豪の富山という男の元へ嫁ぎます。
主人公の青年寛一は、自分を裏切ったお宮に恨みを抱き、復讐のために金の亡者へと変貌するのが大筋の「金色夜叉」。「愛と金」「道徳と欲徳」「復讐と救済」は、今の時代でも十二分に通じるテーマであり、ある意味土属性要満載とも言えます。

「宮さん、月が出たよ」「ああ宮さん、こうして二人で一緒にいられるのも今日で最後だ。来年の今月今夜の僕の涙で必ずこの月を曇らせて見せる」と言って、すがる宮を足蹴にするシーン。裏切られた寛一が、熱海の海岸でお宮を責め立てる場面は、舞台や映画でも欠かせない名場面となり、模倣もされているので、金色夜叉を知らない人でも、似たものをどこかで見たことがあると思います。
セリフが当時流行語となり、舞台となった熱海の海岸は、有名観光地となるほど、世間受けしたのは、時代背景も大きいのでしょう。
資本主義が根付いて富の格差が広がる明治30年代。その一方で、女性たちの意識も変わってきて、封建的な家制度の中で親が決めた相手と結婚するより、自由な恋愛がしたい、自分の好きな人との結婚に憧れる傾向がでてきました。それでもいざとなると、「相手の経済力」がものを言うのが結婚で、愛よりも現実を選ぶ傾向は強く、お宮の選択や苦しみが、多くの女性から共感を得たのでしょう。
誠実で純粋だった寛一が、銭ゲバに変貌する展開は、今でいう闇落ちですが、当時の恋愛小説にはない切り口で、斬新な展開に多くの人がドキドキしたようです。


大好評を博す「金色夜叉」ですが、1899年(明治32年)頃から、尾崎紅葉は体調を崩しはじめました。根が几帳面で自分がやらねば!と思えば燃える♑気質が、効きすぎたのかもしれません。あまりにも体調を崩し、休載後、静養のために塩原や修善寺に赴きます。
1903年(明治36年)に「続々金色夜叉」と名を打ち、連載を再スタート。ところが、同年3月に胃癌の診断が下りました。5人の子どもと、多くの弟子を抱える紅葉は、自ら進んで治療を続けます。家族と弟子たちも、交互に看病に当たりますが、10月30日。
あまりにも早い35歳で、尾崎紅葉は息を引き取ったのです。

文語調から口語調への移行を試みた言文一致体の定着と、江戸時代の読本や草双紙の表現を取り入れ、時代が求める新しい文章と融合させた擬古典主義で、日本文学界を牽引してきた尾崎紅葉。その死は、業界と文壇に衝撃を与えました。
日本中を沸かした小説「金色夜叉」。そのラストシーンについて、紅葉なりの構想はあったようですが、公表されないまま亡くなったことから、未完の作となったのです。
後に弟子の一人小栗風葉が、補作を試みましたが、復讐の鬼となった寛一が、どのような形で収まるのか、お宮との関係はどうなるのか、読者の間で論争が尽きることはありませんでした。
彼の下で指導を受けた弟子たちは、明治後期、大正時代の中で日本文学をさらに開花させてゆきます。一方で、若くして夫を失った喜久夫人ですが、この当時は今のような印税も、遺族年金もありません。夫の死=収入源を失った事から、子どもたちを養うのに、相当なご苦労をされたそうです。
大東亜戦争の頃、作家の菊池寛は、喜久夫人が千葉県の片田舎でひっそりと暮らしていることを知ると、周囲に呼びかけて、生活資金を贈りました。1953年(昭和28年)には、志賀直哉と広津和夫が発起人となり、病床の尾崎夫人へ見舞金が贈られますが、間もなく夫の元へ旅立ちます。

因みに尾崎紅葉が息を引き取った1903年(明治36年)10月30日ですが、時制的には外相小村寿太郎と、駐日ロシア大使ローゼンの第5回目の会談が行われています。日露戦争が目前となった時でもありました。