松旭斎天勝 パーソナルデーター

1886年5月25日 東京神田生まれ 出生時間不明

☀星座 ♊ 3°47
☽星座 ♒ 24°28 24h 00:00 ♒18°34~23:59♓0°22(☽は♒と考えてよし)

第1室 本人の部屋    ♊ ☀/♇
第2室 金銭所有の部屋  ♋ ♄
第3室 幼年期の部屋   ♌
第4室 家庭の部屋    ♍ ☊/♂・♃
第5室 嗜好の部屋    ♎ ♅
第6室 健康勤務の部屋  ♏ 
第7室 契約の部屋    ♐
第8室 授受の部屋    ♑
第9室 精神の部屋    ♒ ☽
第10室 社会の部屋   ♓  
第11室 友人希望の部屋 ♈  ♀
第12室 障害溶解の部屋 ♉  ☿・♆

第1室の♊☀/♇は、第12室♉♆ともコンジャンクション。理解力が早く、臨機応変に対応可能。知的好奇心と器用さに、不思議な魅力が相まって「こいつは何か持っている」を思わせることから、目上から目をかけられます。但松旭斎天勝は容姿の美しさだけでなく、四肢が長く大柄というのがセットされていますが、それだけ「見栄え」のする女性であることが、♊☀/♇=♉♆のステリウム効果かもしれません。
ステリウムはもう一つ。第4室♍の☊/♂・♃。人の出入り。お商売をしていた家の生まれともとれますし、両親は彼女を可愛がった様ですが、身近な人と離れ、遠くの人との縁(人気運という意味の縁)ができることも、☊が含む妙に見えます。
彼女に人生上の苦労を付与したもう一つの要素が、第2室♋の♄かもしれません。元々☀/♇を持っているので、急転直下の可能性を秘めていますが、特に経済面では、思わぬ苦労を背負いこみます。それをものともせずに努力を続けることで、世の中にその名を轟かせたことに、加勢したのは、第5室♎の♅と第9室♒を進む☽なのでしょう。
誕生時間が不明なので、☽の位置の割り出しは甘めですが、1886年5月25日、☽が♓入りするのは23時30分を回ります。深夜生まれでない限り、☽は♒。
恵まれてはいますが、変化すると反動が大きい風の星座♊♎♒に、星が入っているため、嫉妬もそれなりに受けるので、意外な苦労は伴いそう。

松旭斎天勝 略年表(ウィキその他、複数資料参照)

1886(明治19)年5月25日 東京神田松富町(現外神田)生まれ。稼業は質屋。
1898(明治31)年 父親の事業失敗で稼業が傾き、門前仲町の天ぷら屋「天地」に奉公入り。店は「日本近代奇術の
祖」と呼ばれた松旭斎天一の妻が営んでいた。人目を引き付ける顔立ちと器用さを天一に見染められ、100名ほどの弟子がいる奇術師「天一一座」に連れていかれる。
1899(明治32)年 器用で物覚えが良いため、天一から気に入られ、愛人になることを求められるが拒否。天一の寵愛を受けていた弟子に嫉妬され、破門騒ぎとなり、自殺を図るが未遂に終わる以降、師の奇術を積極的に学び出す。
1900(明治33)年 日本人離れの長身と美貌。芸で「天一一座」の花形となり、ファンが激増。
1901(明治34)年7月 「天一一座」を解散後、選抜組によるアメリカ巡業。サンフランシスコ・シカゴ・ニューヨークを回る。天勝はシアトルで伊藤博文に気に入られる。欧州に渡り、ベルリン・デュッセルドルフ・パリ・アムステルダム・ロンドンから、再度アメリカ入り。
1905(明治38) 日露戦争の影響で帰国。その後は、歌舞伎座で講演。スパンコールの衣装&付け睫毛で、日本初欧米風なマジックショーを展開。
1911(明治44)年 師匠の天一が健康問題で引退。天勝は後を引き継ぎ「天勝一座」を立ち上げる。
1912(明治45)年6月14日 恩師松旭斎天一死去。(同年7月29日明治天皇崩御・7月30日大正に改元)
1915(大正4)年 一座のマネージャー野呂辰之助と結婚。座長とマネージャーの結婚に反対する一座員たちが、辞めてゆく。女優の河上貞奴と松井須磨子が「サロメ」に挑戦。話題をさらうと、一座の新企画奇術の応用と肉体美の「サロメ」を導入。小山内薫の協力を得て、妖艶な踊りと西洋マジックを織り交ぜた舞台が大当たり。以降、アメリカ巡業・台湾・中国も巡業する。
1927(昭和2)年 野呂が体調悪化により死去。
1931(昭和6)年 帝国ホテル公演後、新橋でレストラン「ふもと屋」を出店。
1933(昭和8)年 「ふもと屋」赤字により閉店。
1936(昭和11)年 50歳を迎える直前に引退宣言。引退披露公演の全国行脚。中国朝鮮でも公演を行う。帰国後、映画『魔術の女王』に特別出演。2代目天勝を、姪の絹子に襲名させる。
1937(昭和12)年 日中戦争が始まり、座員の出兵もあり、興業が続けられなくなる。
1944(昭和19)年 直腸ガンと診断を受ける。同年11月11日 死去 享年58歳。

本編に入る前に。ちょっと時代考証。
明治時代に入ると、欧米から輸入された文化が、日本のありとあらゆる層の生活を一変させた「文明開化」が起こりました。
同時期ですが、明治維新と文明開化は別物です。
政治的な改革=明治維新。江戸幕府倒幕から、明治政府樹立するまでの期間。
文明開化=街並み整備、服装、食生活に娯楽の欧米化。
尚、「文明開化」は、福沢諭吉の著書「西洋事情」で初めて使われた言葉です。
変わり始めのきっかけは制服や礼服。軍や警察はもちろん、郵便局や駅員といった職に就く人達が、身に着けることから広まりました。
「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」わりと有名な歌の一節ですが、洋装が入れば、当然ヘアスタイルも変わります。強制的な散髪令に反論や反発もありましたが、明治天皇が散切り頭となったのを知った途端、庶民に至るまで散髪ブーム。その上で帽子が流行るという効果も発生しました。
女性は日本髪を結い、和装が基本でしたが、西洋風のデザインの広がりが、色や柄を華やかにしたそうです。袴にブーツという女学生スタイルも、この頃から流行りだしました。
横浜にできた居留地の影響で、食も様変わり。牛肉が食べられるようになると(これまた流行らせたのは、明治天皇)牛乳も飲まれるようになります。今も洋食の大定番カレーライス・ハヤシライス・オムライス。これも脚気になやむ日本の栄養事情を改善するため、この頃から始まり、段々と庶民にも浸透してゆきました。
娯楽の世界はというと、日本には落語や芝居の他、「水からくり」や「つなわたり」といった大道芸などが主流でした。そこに西洋マジックが入ってきたのです。

☽年齢域 0~7歳 1886~1893(明治19~26)年

自由民権運動が盛な明治中期。後に世界に名を馳せる奇術師松旭斎天勝は、質屋を営む中井栄次郎・静江夫妻の長女として、東京神田で生まれました。(米屋説もあり)
本名は中井かつ(本編は松旭斎天勝、天勝で統一します)。
彼女が3歳となる1889(明治22)年は、大日本帝国憲法の発令。東海道線が全面開通という日本地代イベント年ですが、天勝の師となる人物、松旭斎天一(1853年3月11日・嘉永6年生まれ)が、アメリカ人奇術師ジョネスに弟子入りした年でもありました。
天一は日本でいち早く、西洋マジックを取り入れた人物で、現代マジックの祖と言える人物です。

☿年齢域 7~15歳 1893~1901(明治26~34)年

天勝が物心つく☿年齢期。日本は日清戦争に突入します。この戦が世界を驚かす勝利に終わり、勝戦ムードと、清からの賠償金で国内の整備が進みました。エネルギッシュな時代の空気を吸いながら、子ども時代の天勝は、裕福な家庭環境で育ちます。
目鼻立ち整い、体格も大きい娘を、親も可愛がったのでしょう、踊りに常磐津等を習いました。幸せの歯車が軋んだのは、彼女が12歳の時。父親が事業を失敗し、稼業が傾き、生活は一転したそうです。

お嬢さん育ちから奉公人となった天勝。口利きで門前仲町の天ぷら屋「天地」に奉公しました。この店は「日本近代奇術の祖」と呼ばれた松旭斎天一の妻が営んでいて、巡業などの合間に、訪れる天一は、人目を引き付ける顔立ちと器用さで、チャキチャキ働く天勝を見て、何かピンと来たのでしょう。芸を仕込むことを決めます。
こうして天勝は、100名ほどの弟子がいる奇術師「天一一座」に、25円(当時の貨幣価値です)の前借金で、身売りという、今では考えられない事態を迎えました。
さらに独特の魅力がある彼女に、天一は芸を仕込むだけでなく、芸名に「天」の一字をつけ、さらに愛人となれと求めたのです。(今の時代なら、とんでもな話ですが、この当時は全く問題にならない事態でした)
座員たちからみれば、新人が座長に特別扱いを受けていると見えるので、面白くはありません。一座の花形を務めている天一の愛人杉江からは、激烈な嫉妬を買いました。
稽古の時だけでなく、ショー本番でも、彼女による失敗と見せかける嫌がらせを受けたそうです。その都度、天一から激しく叱責される天勝ですが、絶対に泣くことなく、いつしか「泣かずの勝」と、呼ばれるようになりました。
芸に対しても、体当たりで挑み、観客を驚かせる努力をおしまない天勝を見て、しだいに受け入れる座員も出てきたのです。この状況におさまりが着かない愛人杉江は、一計を案じ、天一を怒らせて、天勝を破門されることに成功しました。
身に覚えのないことに怒られ、破門されたことで、さすがに気丈な天勝も、失意のどん底に落ち、入水自殺を図りますが、これが奇蹟的に助けられます。まるでドラマのようですが、そこから杉江の計略も露呈。怒った天一は彼女を追放。
こうして1899(明治32)年。13歳(かぞえだと14歳)の天勝は、一座に戻ると同時に、天一の愛人となることを受け入れます。そしてスターの座を駆け上がったのでした。

天勝の人生が激変した12歳。1898(明治31)年の誕生日。
N♊☀♇の対角♐にT♄。風と火のオポジション。このT♄は♍N♂とスクエア。さらに♐には♅が入室。彼女の誕生日の頃は、Rになっていますが、♊の☀♇を煽る効果となっています。さらに、♊にはT♆とT♀がいるので、環境が変わりやすい。流されやすいのは、あるかもしれません。
T♀は♋を目指して進み、T♃は、♎に入室。♎には、天勝のN♅があるだけでなく、この辺りが天一に拾われる元になったのでしょうか、対岸の♈に、天一のN☿があります。
天一は1853年3月11日生。☀♓。☽は24時間幅で、♓の29°02~♈11°25。☽はほぼ♈とみていいでしょう。日本でマジックの先駆者となった原動力の一つが、☽かもしれません。そしてもし、彼が深夜の生まれなら、彼の☽は天勝のN♀と合となります。
♓にはN♂♆があり、これが天勝の♍N♂☊と、オポジションなのも、二人の縁を語るアスペクトなのでしょう。
1899年になると、♐を進む♅は、天勝の☀♇とオポジション。転身の時ともいえるので、激しい変化がおきたと思います。

☿年齢期の締めである1900(明治33)年辺りには、奇術だけでなく、コミカルなダンスや寸劇で、客を沸かすようになる天勝。プロポーションもよく、美しい彼女は、ドーラン化粧に付け睫毛。アイシャドーという西洋風舞台メイクに挑戦。衣装もスパンコールをつけたきらびやかな薄布を身にまとって、「羽ダンス」という演目を披露します。これが人気を博し、彼女の美貌と演技は、多くの人をとりこになりました。
プロフェッショナルの天一が、一目見で見抜いただけの物を持つ天勝。彼女が舞台に立ち、特定の客席に流し目を送ると、その客は、翌晩も必ず同じ席に座り、奇術を見るというジンクスもあったとか。
いつの時代のどんなジャンルのスターにも、熱心なファンは存在するものですが、彼女の笑顔と独特の流し目が見たくて、多くの客が詰めかけたのです。
やがてあまりにも彼女が好きになってしまった中国人留学生の青年が、天勝に結婚を迫りました。これが自身の真剣な思いの証として、自分の小指を切り落とし、彼女に渡そうとするドン引き案件に発展。
後日、天勝は素顔のままで青年に会い、「自分はしがない芸人である」「学業を投げうち、道をあやまってはいけない」と、懇々と諭したのです。
熱意ある天勝に説得された青年は、本分の学業に戻りました。無事に大学を卒業。その後、帰国して中国の要人になったそうです。この事件以降、天勝自身にも思うところがあったのか、好評だった「流し目」を止めています。そしてなんと、新たな動きのために、天一一座が解散したのでした。

この当時の日本は、戦争で戦った相手国の清から、多くの留学生を積極的に受け入れていました。西洋諸国による植民地支配の危機を回避し、彼らと対等になるには、清や朝鮮と協力し合い、互いの国が発展するのが有効手段と考えていました。その具体策の一つとして、政府の方針で、留学生を受け入れていたのです。天勝にほれ込んだ留学生も、その一人だったのでしょう。
明治時代となり、日本の学生が学問の輸入によって、社会主義や共産主義を学んだように、アジアから来た留学生たちは、日本で西洋の学問を学んだのでした。 

♀年齢域 15~24歳 1901~1910(明治34~43)年

天勝の♀年齢域は、1901(明治34)年から始まりますが、現代ならJKといえる時期に、天一と天二の二枚看板と天勝。総勢8名の精鋭で訪米。サンフランシスコを皮切りに、アメリカ公演をスタートのです。
出だしは演技のテンポが悪くて、客からの評判は良くありませんでした。反省と工夫を強いられた結果、リズミカルなテンポのアメリカ風に変えたり、日舞を加えてステージを進めた結果、だんだんと評判が上がっていきます。
シアトルでの公演の際、客席に伊藤博文が座りました。美貌と芸に磨きがかかる天勝を見た伊藤博文は、すっかり彼女がお気に入り。帰国後も宴会の席に彼女を呼ぶようになったのです。
約3年間のアメリカ公演の後に、欧州に渡りました。かつて1867(慶応3)年パリ万博で見せた「つなわたり」等の、大道芸が日本の奇術とイメージづけられていたのです。
ところが天一が見せたステージは、別次元の近代マジックだったのです。折しも時代は、日露戦争の頃。欧州にはジャポニズムブームが起きていたのも後押しとなり、各地での巡業は大成功。「キュートなスター」天勝の人気もアップしました。
1905(明治38)年。戦争の影響で帰国を余儀なくされましたが、往年のファンを前に、歌舞伎座で帰朝公演を行います。
パリの凱旋門を飾るイルミネーションからヒントを得た、電飾の多様化。7色の電飾が舞台を照らし、天勝の「羽ダンス」。目に鮮やかなピーディーに繰り広げる西洋マジックを、スを魅せました。珍しい演出に、観客席は沸きに沸いて公演は大好評。地方巡業も客に困る事はなかったのでした。

☀年齢域 24~34歳 1910~1920(明治43~大正9)年

♀年齢域と☀年齢域。どちらも天勝の人気絶頂期ですが、それでも時間の経過は、変化をもたらします。1911(明治44)年。病を患っていた師匠の天一が、現役を引退すると、天勝は「天勝一座」を旗揚げ。25歳にして、100名からなる座員の長となったのでした。 
翌1912年は明治天皇が崩御され、大正天皇が即位される年ですが、同年6月14日。
日本のマジック会の草分けであり、天ぷら屋に奉公に来た天勝を見出した松旭斎天一が、この世を去った年でもあります。
浅草で旗揚げ興行を成功させた「天勝一座」は、国内だけでなく、満洲をはじめとする中国大陸。朝鮮や台湾でも興業を行い、各地で成功を収めました。
伊藤博文のお気に入りになったことから、宴の席にご指名で顔を出していた天勝。伊藤が暗殺された後も、後藤新平をはじめ、政財界の要職にも気に入られました。

第一次世界大戦開戦後の1915(大正4)年。戦地となった欧州では、日用品の入手も大変になった地域が出てきます。はるか東の果てにある日本は、戦火とは縁遠く、そのおかげで欧州から様々な品物を求められ、売ることができました。戦争特需なので、一時期ですが、日本は空前の好景気に沸いたのです。
天勝は一座の辣腕マネージャー野呂辰之助と結婚します。どんなに人気があったとしても「奇術師」そのもの社会的位置は強くはなく、一座と天勝を守るための、便宜上結婚だった模様。そうはいうものの、座長とマネージャーの結婚に、反対の座員もいました。
一座からから離れる座員も出る雰囲気の悪さの打破と、新たな分野開拓のため、野呂は新企画を提案します。それがオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」でした。
大正デモクラシーの解放感は、文学も演劇も活気づかせます。当時、人気女優河上貞奴と松井須磨子が、「サロメ」に挑戦したことが話題になっていました。
小山内薫の協力を得て、グラマラスな肉体美貌を持つ天勝の妖艶な踊りと、卓越した奇術と両輪で「サロメ」を、ステージ化したのです。成果は上々でした。
1918(大正7)年。第一次世界大戦は終結しますが、日本は米騒動に、シベリア出兵。戦争特需で潤っていた経済の風向きが変わり出します。ここに乗り出したのが、日本初政党政治内閣となった原敬内閣でした。
大正中期から昭和初期の間は、激動の時期ですが、天勝の☀年齢域と♂年齢域に当たる時期でもあり、最も熱く充実の時とも言えます。「サロメ」に弾みをつけた「天勝一座」は、他にも「京人形」等、舞台演出に凝ったステージを行いました。公演は日本国内だけでなく、アメリカや台湾・中国も巡業を行います。「奇術といえば天勝」という代名詞が出てくるほど、天勝の人気も上がったのです。
奇術はどこか怪しげで、演劇などより格下。そう思われていた空気の払拭と、基本的に観客は男性でしたが、家族で楽しめる演目を増やし、子どもの目を楽しませることで、全年齢が楽しめる娯楽に成功します。その証の一つが、三島由紀夫の「仮面の告白」かもしれません。幼い頃、天勝の舞台を見て、憧れて、天勝になりたいとつづられています。

♂年齢域 34~45歳 1920~1931(大正9~昭和6)年

♂年齢期を迎えた1920(大正9)年は、戦後恐慌の一番底となり、不景気風が強い時期でした。翌1921(大正10)年には、中華民国で中国共産党が結党。日本では11月に現役総理の原敬が、東京駅で暗殺される事件が起きています。
1922(大正11)年には、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生。そして1923(大正12)年9月1日。残暑が厳しい関東を、大震災が襲いました。多くの命が奪われ、首都機能は、一時不全に陥ったのです。
天勝の♂年齢域に当たる大正中期から昭和初期の間は、激しい時代の移り変わりの中でしたが、「サロメ」に弾みをつけた「天勝一座」。他にも「京人形」等、舞台演出に凝ったステージを行い、多くの人を魅了します。公演は日本国内だけでなく、アメリカや台湾・中国でも行い、「奇術といえば天勝」という代名詞が出てくるほど、天勝の人気も上がりました。が、輝きが強くなるほど、影もまた濃く出るのか、マネージャーとして、夫として天勝と一座を支えてきた野呂辰之助が、病身となります。

1926年12月25日には、大正天皇の崩御によって、摂政を勤められていた皇太子裕仁親王が践祚され、元号は昭和に変わった翌1927(昭和2)年。野呂は息を引き取りました。
この時天勝は、一座の解散を考えますが、多くの人たちの協力と理解によって、解散をすることなく、昭和恐慌が吹きすさぶ中、レビューに寸劇、舞踊も取り入れた「天一一座」は、庶民の娯楽を担い、興業を続けたのです。

♃年齢域 45~57歳 1931~1943 (昭和6~昭和18)年

1931(昭和6)年。帝国ホテルのクリスマス出演をきっかけに、新橋でレストラン「ふもと屋」を開店しました。旅から旅が多い生活が続く故に、落ち着く先が欲しかったのかもしれません。「お子様ランチ」の提供もします。1932年(昭和7)年の五・一五事件(犬養毅総理暗殺)をはじめ、時代も悪かったのか、赤字続きで、2年ほどでレストランは閉店。
野呂の没後7年となる1934(昭和9)年。50歳で引退宣言をした天翔は、国内だけでなく、台湾・中国・ニューヨークやハワイ等の海外公演も含め、約2年かけて松旭斎天勝の引退興行を、行ったのです。
公演終了後は、実に惜しまれながら、天勝は宣言通り引退しました。

1936(昭和11)年3月に封切りの映画「魔術の女王」(PCL映画・のちの東宝。監督は木村荘十二)に出演します。翌1937(昭和12)年には、二代目天勝の名を、姪の中川絹子に襲名させます。ところが、日中戦争が始まると、一座は興行どころでなくなりました。  
国が鋼鉄を必要とすると知った天勝は、これまで一座が使ってきた大道具を、惜しげなく献納したそうです。その後、詳しいなれそめ等は不明ですが、東京外語大学の教授金沢一郎氏と再婚。一年後には死別という記録があります。
1941(昭和16)年。真珠湾攻撃を起点に、日本は大東亜戦争に入りました。(この辺りの詳しい話は、近衛文麿や東條英機の回をご覧ください)

♄年齢域 58歳 1944(昭和19年)年

1944(昭和19)年。食道ガンと診断された天勝は、同年11月11日暮らしていた目黒区権現坂にあった水明荘にて病没しています。享年58歳。♄年齢域に入った直後でした。

☿年齢期に、天一師匠との出会いから始まった奇術師としての人生は、♀年齢域で花開き、熱い☀年齢域から♂年齢域には、艶やかに咲き誇ります。
天勝の舞台が見たくて、浅草界隈に泊まり込む人たちが出てきたり、「前歯にダイヤモンドの差し歯をしていた」「人魚の肉を食べている」等、様々な逸話も作られたりもしましたが、♊に☀と♇という星を持ち、♈の♀がそれだけ人気を博した証なのでしょう。
センスの良さと具体化を♉の☿と♆が担っている、まさに天が二物、三物を与えたような強い輝きを持った人生ですが、記述の世界に入ったきっかけは、壮絶な助教でした。単に運がいいだけでは、乗り越えられなかったでしょう。
現在マジックの世界には、素敵な女性マジシャンがたくさんいて、私たちを楽しませてくれます。マジックを行う方も、見る側も、明治時代に天勝が道を開いてくれました。
初代引田天功は、天勝の兄弟弟子といわれる松旭斎天洋の門下生。天功の弟子である二代目引田天功(プリンセステンコー)が持つ「天」の一字は、令和の今も、受け継がれています。