「スパイファミリー」が大人気な2022年。スパイものといえば、やはり「007」。映画や漫画で描かれるスパイものには、独特の魅力がありますね。

今回ピックアップした明石元二郎は、日露戦争の時は赴任先のロシアで諜報活動を行い、国内紛争や、デモを起こし、極東に向かうロシア軍の戦力をダウンさせた日本陸軍の軍人です。台湾統治時代は、台湾の発展と教育に、心血を注ぎました。

表の歴史には出てこない、成功者の星回りと人物像を追います。

明石元二郎出生図(Nホロスコープ)

1864年9月1日生まれ・福岡藩(現福岡市中央区)12時設定



☀♍8°55
☽♍7°27(☽ふり幅1°42~13°22)新月

第1室(本人の部屋)♍☀☽♀。第2室(金銭所有の部屋)♎☿♄(10°以上離れているのでコンジャンクションではない)と第3室(幼年期の部屋)♏ ☊R・♃。
第8室(授受の部屋)♈♆R。第9室(精神の部屋)♉♇R。第10室(社会の部屋)♊♂/♅と、完全に向き合いにはなっていませんが、星が入室しているハウスは6箇所。シーソータイプなホロスコープの持ち主です。物事の表面と裏面を、同時に見る多面的思考を持ちやすいでしょう。その分、意見や考え方も、一方に固まることはなく、自然とバランスをとるため、まったく違う活動分野を持つ傾向あり。周りからは、ちょっと不思議な人という印象を持たれるかもしれません。

出生時不明のため、正午設定。ASCとMCは加えず。☽はふり幅を持つけれど、終日♍で、正午を過ぎると☀と完全に重なります。故に、明石元二郎が生まれた日は新月。
♀もあることから、この第1室。なかなかきれいな組み合わせで、多くの人に好かれる、目上にかわいがられる反面、身近な人たちの事情や環境によって、人生が左右される傾向も持ちます。

♍の☀☽♀は、♊♂♅と、土と風の柔軟宮星座を背景に持つ緊張角度。機知に富む動きを促す傾向と、情熱は持ち合わせていますが、血気盛んになるよりも、確信は隠す効果も含んでいそうです。
♉にある♇Rと☀☽は、土同士の調和。魔術やオカルト系にも関心を抱きそうですが、直感が鋭く、かみ砕くような理解力と思考を物語り、深く根を下ろす活動に向くでしょう。
見つかったら命がない、諜報活動を物語るのは、この辺りと♇Rと♏☊R・♃のオポジション。☿♆。♄♆のオポジションといったところでしょうか。

明石は言語だけでなく、数学や製図に優れていたそうですが、第2室♎☿♄。第10室♊の♂・♅の調和が、補助しているかもしれません。言語が得意というと、弁舌が立つ。という認識を持ちがちですが、相手の言葉を引き出してゆく。というのも「話術」であり、「言語が得」なのでしょう。

明石元二郎年表(ウィキ・明石元二郎年譜を参照)

※明石元二郎年譜 (reitaku-u.ac.jp)
明石元二郎履歴書(明石元二郎文書)に収められている履歴書に明治42年以降を加えたもの。
1864年9月1日(元治元年8月1日)福岡藩士明石助九郎貞儀の次男として誕生。
1866年(慶応2年)父が切腹(享年28歳)。母秀子は針仕事で2人の息子を育てる。
1876年(明治9年)上京。儒学者安井息軒の塾で学ぶ。
1877年(明治10年)陸軍士官学校幼年生徒となる。
1881年(明治14年)陸軍士官学校第6期生となる。
1883年(明治16年)12月25日陸軍士官学校を卒業。同日歩兵少尉に任られた。
1887年(明治20年)陸軍大学第5期生となる。校長は児玉源太郎。ドイツ人将校メッケルから、戦術論を学ぶ。
1889年(明治22年)大日本帝国憲法が公布。陸軍大学を卒業する。
1890年(明治23年)参謀本部に出仕。参謀本部次長川上操六の下、インテリジェンス教育を受ける。
1901年(明治34年)フランス公使館付陸軍武官となる。
1902年(明治35年)ロシア帝国公使館付陸軍武官に転任。
1904年(明治37年)日露戦争。駐ロシア公使館は、スェーデンのストックホルムに移動。
1905年(明治38年)日露戦争終結。
1910年7月(明治43年)寺内正毅朝鮮統監下で、憲兵司令官と警務総長を兼務。
1914年4月(大正3年)参謀時間となる。
1915年10月(大正4年)熊本第6師団長に転じる。
1918年7月(大正7年)第7代台湾総督に就任。
1919年8月(大正8年)台湾総督府から独立した台湾軍の初代司令官を兼務。同年10月26日公務のため本土へ渡航する洋上で発病。郷里福岡で死亡。

明石元二郎history

●☽年齢域0~7歳・1864年~1871年(元治元年~明治4年)

池田屋事件に禁門の変と、佐幕派と勤皇派の武士たちが、大激突した元治元年の初秋、福岡藩の大名町に住む明石助九郎貞儀と、その妻秀子の次男として明石元二郎は、誕生しました。(幼名不明・本編では、フルネーム、もしくは元二郎と表記)

父の貞儀は1300石の大身。母の秀子(旧姓吉田)も、それに見合う武家の娘で、当時はたいそう広いお屋敷に住んでいたそうです。大家の次男なら、さぞやいい暮らしを…と思うところですが、1866年(慶応2年)。理由は定かではないまま、貞儀は北九州の芦屋で切腹。享年28歳。妻の秀子は25歳で未亡人となりました。

長男の直(6歳)元二郎(2歳)は幼すぎて、家督を継ぐ事が出来ないため、親戚を養子縁組しますが、それでも邸宅は人手に渡すことになったそうです。秀子は実家の吉田家が持つ長屋に、幼い息子たちと身を寄せて、針仕事で生計を立て、子育てに励みました。
新月生まれの元二郎。鼻タレ、ヨダレがひどく、あだ名を「ハナタレ」と言われたそうです。(今の時代なら、アレルギー性鼻炎と言われるかもです)

☽年齢域は、時代の急転と、実家の急転が重なった感もありますが、☿年齢域を迎える頃、藩校修猷館(現・福岡県立修猷館高校)に入学。さらに大名小学校で学問を収めて行きました。
●☿年齢域・7~15歳・1871~1879年(明治4~明治12年)

元気で、勉強が得意な男の子だった元二郎ですが、身なりも鼻水も気にしない面があり、常に鼻を垂らしていたそうです。賢母といわれる母が、身だしなみを教えないはずもなく、あまりにも無頓着な我が子に、悩んだかもしれません。が、頭の良さと集中力と、何かと工夫好きな元二郎は、周りに好かれたようです。

大名小学校時代、県令の渡辺清(もと大村藩)が、視察に訪れる際、書の席上揮毫の一人に選ばれました。県令が来られるため、真新しい畳に変えた教室で、選抜された生徒たちが書いたのは、「精神」の二文字。この時、元二郎、勢い余って「神」の字の縦棒が、半紙からはみ出してしまいます。
ところが、筆を止めることなく、きれいな畳の上に堂々と、筆を引いたのでした。その天衣無縫の集中力をみた県令は、いたく感動し、彼を養子に欲しいと言ったとか。

1876年(明治9年)12歳の時、国元を離れて上京。池之端(現在の台東区西部)に居を構える團尚静(團琢磨の養父)の元に住み、安井息軒の塾へ通います。
勉学への集中力はすごく、誰もが一目置くものの、身なりをまったく気にしない。鼻タレな元二郎を見て、洋服の着方を教えたのが、アメリカ留学から帰ってきた團琢磨でした。
世の中が西南戦争に染まる1877年(明治10年)。元二郎は、士官のたまごを育成する陸軍幼年学校に入学。フランス語に触れてゆきます。同郷の後輩である元二郎を、気にいぅったのか、この当時團琢磨は、何かと彼を連れ歩きました。

「團さんが、幼年学校の制服を着た美少年を連れてきて、これは福岡出身の明石元二郎という者だが、成績優秀で前途有望であると紹介された」と、琢磨の盟友、金子堅太郎が、当時のことを語っています。
後にアメリカの世論を日本側に導き、日露講和条約のお膳立てをした立役者金子堅太郎と、はるか北欧の地で、対ロ作戦を遂行した元二郎。
出会った当初は、そんな位置に立つとは、互いに思ってもいなかったでしょう。

●♀年齢域・15~24歳・1879~1888年(明治12~明治21年)

1881年(明治14年)1月。陸軍士官学校第6期生となった元二郎は、優秀な成績を維持しますが、武術はそこまで熱心ではなく、身なりは相変わらず無頓着。ほころびや擦り切れも気にしないままでした。それでもどこか明るく、悪戯好きな性格が、人を引き付けて、周りからは「天才」と呼ばれています。

2年後に陸軍士官学校を卒業すると、陸軍歩兵少尉に任官。
♀年齢域の仕上げ時を迎える1887年(明治20年)。陸軍大学に入学しました。この当時日本陸軍は、これまでのフランス式から、ドイツ式へと移行する大転換期で、ドイツからモルトケの腹心であるメッケルも来日。若い将校たちを教育していたのです。
第5期生として入学した明石元二郎は、軍政学や編成学を校長の児玉源太郎から、学び、ドイツ人将校メッケルからは、戦術学を学びました。

●☀年齢域・24~34歳・1888~1898年(明治21~明治31年)

☀年齢域に入ると、空気が変わってゆきます。
1890年(明治23年)は、第一回衆議院議員総選挙が行われるこの年、参謀本部に出仕しました。

参謀次長川上操六が集めたのは、福島安正・宇垣一成・上原勇作・田中儀一(後の第26代総理大臣)といった、実力も癖もある個性派が揃い。ここに明石元二郎も加わりました。(児玉源太郎からの進めがあった?)

参謀本部勤めといえば、エリートです。それでも元二郎、衣服に対する無頓着さは、子ども時代と相変わらずでした。当時は赤坂にある黒田屋敷(筑前藩士が、よく寄宿していたようです)に住んでいましたが、帰宅すると軍帽をパーッと脱いで、その辺に置きっぱなし。そこに都合よく、猫が入ってきて丸まり、元二郎も一緒になってごろ寝。
朝になると、猫入りの帽子をひっくり返して、毛だらけのままかぶって出かけるという、軍人らしくないエピソードが残っています。

♐の川上とは、馬が合うのか、互いに信頼しあっていった記述もありますが、靴も磨かず、サーベルも錆びたまま。これがまかり通る辺り、当時の軍隊には、厳しい反面、おおらかさがあったのでしょう。

1894年(明治27年)2月2日元二郎はドイツ留学を命じられました。ドイツ語学習という任務は、日清戦争の影響もあって、短期に終わり、翌年帰国しています。
当時の日本軍。語学通が多かったのですが、その中でも、元二郎は群を抜く語学力の持ち主で、短期留学でほぼドイツ語をマスターしていました。

眠れる獅子と恐れられた大国の清を相手に、開国して27年の小国が、戦争を挑んだ日清戦争。日本はこれに打ち勝ち、下関条約も締結されますが、戦勝ムードを一気に吹き消したのが、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉です。

3000万両と引き換えに、遼東半島を清に返還することを、日本側に「勧告」してきたのでした。この横やりのおかげで、日本政府は、遼東半島の返還を、選択せざるを得なくなったのです。得られると思ったものが、手に入らない事を知った国民は、政府の方針に、強い不満を抱きました。伊藤博文と陸奥宗光には、手ひどい批判が寄せられたのです。

世の中が騒然とする日清戦争後、元二郎は川上操六の指導の元、情報将校としての経験に磨きをかけていきました。
●♂年齢域・34~45歳・1898~1909年(明治31~明治42年)

☀から♂年齢期に切り替わる1898年(明治31年)米西戦争下のフィリピンに派遣されると、アメリカ軍が、諜報活動によって、現地のフィリピン人たちに戦う意識を喚起し、スペインを攻撃するよう、扇動してゆく流れを、目の当たりにしたのでした。これは証にとって、大きな衝撃であり、収穫だったようです。

日露戦争は必ず起きる。
そう確信した川上操六は、インテリジェンス教育と、諜報活動に熱を入れましたが、1899年(明治32年)5月11日、病によって永眠します。彼の死は、日本にとって大きな損失ですが、国際情勢は止まることなく、列強国は清への支配を強めました。
抵抗する清が、義和団事件を起こしたことから、偵察のため清に赴いた元二郎は、ロシアの狡猾さ、恐ろしさを実感してゆきます。

1901年(明治34年)公使館付武官の任に付くため、明石元二郎は、フランスに着任。この任務も兼務しつつ、翌1902年(明治35年)には、ロシア通の田中儀一に代わり、ロシア公館付武官となりました。
とあるパーティーに招かれた時の事です。見知らぬドイツ人将校が、近くでゆったりと立つ元二郎に「ドイツ語は話せますか?」と、フランス語で話しかけてきました。

「ドイツ語は、まったく分かりません」フランス語で、たどたどしく返答すると、将校は、傍らにいたロシアの軍人と、そのままドイツ語で会話を続けたのです。
内容は、すべて機密事項でした。元二郎は、話を漏らさず聞いた後、日本へ報告したというエピソードが残っていますが、日露戦争が始まるのは、1904年(明治37年)2月。
それよりも早く、情報戦は既に始まっていました。

1903年(明治33年)イギリス機密情報部のシドニー・ライリーが、建築用木材の貿易商として旅順に移住します。日英同盟あってこそですが、他国の諜報員とわかれば、命はありません。危険を承知の上で、元二郎はライリーに旅順潜伏を頼んだのです。
ロシア軍司令部の信頼を得ることに成功したライリーは、旅順要塞の構造や、ロシア軍の動向を探り、イギリスと日本に情報をもたらしました。

フランス語・ドイツ語・ロシア語・英語を巧みに使いこなし、機知に富む元二郎は、諜報活動に従事する仲間と連携しつつ、ロシア公館だけでなく、街中に溶け込みながら、スパイ網を構築します。一見無駄なような、庶民の情報収集も行い、張り巡らせた情報網から、帝政ロシアの内部に起きている腐敗。長年にわたりロシアの圧政に苦しんでいたフィンランド、ポーランドといった北欧。バルト海沿岸の実情と、反ロシア勢力の存在を知ったのでした。

ロシアへの反乱分子との接触を試みた元二郎は、フィンランド独立運動の中心的存在、フィンランド人弁護士コニ・シリヤスクと出会います。
日露開戦の一月前。参謀本部次長児玉源太郎(かつての陸軍大学校長)から、開戦後もロシアの情勢を把握するため、「ペテルブルグ・モスクワ・オデッサのそれぞれに、非ロシア人の情報提供者を2名ずつ配置」するよう、元二郎に指令電報が入りました。

日露戦争が始まると、駐ロシア公使館は、中立国のスェーデンのストックホルムへ移り、明石元二郎の諜報活動が活発化します。
地球全陸地の1/6を有しているともいえるロシアは、ユーラシア大陸の東西を占める巨大国家です。当時の日本の人口4600万人に対し、1億2000万人。
最大動員兵力はロシア208万人に対し、日本109万人。
戦艦数ロシア15艘(開戦当時7艘)日本6艘。
海軍力(軍艦の総トン数)ロシア80万トン。日本22万トン。
鉄鋼生産量は、ざっと44倍とも言われ、何もかも段違いでした。

陸戦部隊ではコサック兵。海戦部隊はバルチック艦隊と、負け知らずのロシアを相手に、長期戦になったら、まず勝ち目はありません。
そこで明石元二郎は、強大なロシア軍の兵力削ぐために一工夫。フィンランド独立運動をはじめ、ポーランド国民同盟の代表者と、コンタクトを取っただけでなく、独立運動を志す組織や、ロシア帝国への恨みを抱く反乱分子に、資金提供や武器供与を行ました。
デモや暴動を起こすようにして、ロシア国内を荒れさせたのです。

ロシア皇帝ニコライ二世のみならず、当時ロシア人は、弱小国の日本なら簡単に勝つと、思っていました。日本はロシア領となり、ウラジオストックより南の港も手に入る。気候の良い地域や不凍港は、貴族や資本家のもの。民族総入れ替えを行い、日本人は労働力として、シベリアに連れて行けはいい。という思惑もあって、かなり経済を日露戦争に投入しました。ところが、実際開戦すると、前評判と大違い。

旅順要塞は落ちる。海軍もすんなり勝てずに、戦争は長引いたため、ロシアの経済は火の車になりました。日本以上に、農村部と都市部の生活格差が激しいロシアでしたが、都市部で生活する人々の生活にも、悪影響が出たことから、国中に「反戦」ムードが広まります。
それでもまだ他民族ほど、皇帝に対する恨みを、この当時の農民たちは、抱いてはなかったのでした。

貴族と農民の間にある格差を埋めてもらいたい。
他の西洋諸国のように、王室の独裁ではない民主主義を取り入れてほしい。
そう思っていたところに、戦争による疲弊が拍車をかけたのです。苦しい生活を強いられた農民たちは、祭司ガボンを中心に、「皇帝の恩恵と慈悲によって、労働者や農民の生活をよくしてください」と、皇帝への請願デモを起こします。

比較的大人しい性質のデモだったので、警察や軍隊の中には、積極的に取り締まることはせず、支持をする者もいました。
約2万人の農民たちが、ペテルブルグの冬宮(ニコライ2世の城)にたどり着くと、待っていたのは、皇帝の命による一斉射撃でした。
皇帝を警護するコサック兵によって、1000人以上の死傷者を出した「血の日曜日」。この惨劇以降、農民や労働者は、ロシア皇帝に対し、歯向かうようになったのです。

明石元二郎が、このデモに直接関与していたか、定かではありませんが、デモやストライキは、確実に激化しました。

日露戦争の関ヶ原といわれる天奉会戦を迎えた頃には、サンクトペテルブルクや、モスクワといったロシアの中心都市で、動乱が多発し、これを鎮圧するため、軍隊を使いました。はるか東の戦争に、軍人を回すことも、経済を回すことも苦しくなったのです。
頼みの綱だったバルチック艦隊が、対馬沖で、日本海軍にやられてしまい、多数の軍艦をなした事から、ニコライ2世は、戦争の継続が難しくなったのを自覚しました。

明石は、日本から与えられた諜報活動費100万円(現在の100億?)を駆使して、ロシ
ア帝国からの独立を目指す、多数の組織に、武器と資金を提供します。これが功を奏して、ロシア軍の力を削ぐだけでなく、やがて革命に結びついていくのでした。
日露戦争において、海軍・陸軍の頑張りはもちろんですが、日本の反対側に位置する敵地で、スパイ網を構築し、国内紛争を引き起こす他、満州におけるロシア軍の補給状況や、バルチック艦隊の編成やスケジュールなど、重要な情報を収集。本国に報告した者たちがいたことも大きな勝因となりました。

1904年2月。日露戦争の頃の星回りは、☀と♄が♒で合。♂と♃が♓。♊に♇R。♋に♆R。node♍で、♅が♐にありました。このT♅、元二郎のンN♅と対になります。
さらにT♅とN♅は、終始風と火の180度。かなりシビアに効いていて、時代を煽っている感じがあります。終始同じ角度を取るのが、もう一つ。♆と♆の緊張角度。

マイナスにとらえがちな♆ですが、諜報戦とみると、あながち悪いとは言えないと思います。これらを背景に、T♄はN♇とジリジリした緊張感を張り。♓を進むT♃は、N♃と調和。深みと終焉の水星座による溶かし込み。♄同士の調和。T♄とN☿の風による調和が、常に動くけど、静かな雰囲気を醸し出します。
奉天会の頃、T♃は♉を進み、元二郎の☀☽には、♓を進む☀と☿が光を当てることになります。N♃には、T♂が重なり、やる気を後押し。
終戦を迎える頃は、☀が♍に来ますから、元二郎の☀と合致。この頃はT☿とnodeも♍入り。元二郎が持つ、ダークムーンと溶け込み、T♄は♒にフィニッシュをかけるので、総仕上げ。必要なものを残して、後はすべて♓の♄を迎えるために溶かす体制に入っています。いかにも戦後を迎えた感あり。

1905年9月5日(明治38年)アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領を介して、日本は外務大臣の小村寿太郎。ロシアはセルゲイ・Y/ウィッテの間で、ポーツマツ条約が結ばれました。ザックリというと、下記6項目になります。
・ロシアは朝鮮半島(大韓民国)における日本の優越権を認める。
・日本、ロシアの両軍は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
・ロシアは満州にひいた東清鉄道の旅順と大連周辺の鉄道の権利を日本へ譲渡する。
・ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
・ロシアは東州の租借権を日本に譲渡する。
・ロシアは北方での日本人の儀業権を認めること。

日本にとって有利な内容ですが、「賠償金」は、取れなかったのです。話し合いのテーブルには上げましたが、ロシアは譲りません。負けたとはいえ、日露戦争は、地方の局地戦であり、時間をかければ体勢を立て直せる。ロシア側は、二戦目をやる気がありました。
話し合いが長引けば、再び戦争が起きる可能性が高く、人も経済も出し尽くした日本は、ここで日露戦争を終結させるため、賠償をあきらめざるを得なかったのです。
日露戦争が始まる前、マスコミは戦争に慎重だった政府を批判し、一般人も、そのあおりに乗りました。実際に国力差7倍の戦争が始まると、増税に供出、人的な損失等、全てが甚大すぎて、日本は瞬く間に疲弊します。

日本がジリ貧になっていたのを知らず、賠償金が得られない事だけが報道され、マスコミも国民も、激しく明治政府を非難。国内は荒れて、日比谷焼き討ち事件が起きました。

さらにこの年、日露戦争中に合意となった「第一次日韓条約」を無視した大韓国の皇帝高宗が、ひそかにニコライ2世とやり取りしていたのが発覚。伊藤博文が大韓国に渡り、皇帝高宗と「第二日韓協約」を結んだのでした。より日本の大韓国への保護が、強化されることになりますが、条約内容は、世界各国も了承したものです。

1906年(明治39年)欧州から日本に帰国した明石は、参謀本に「明石復命書」を提出しました。その際、明細と、書諜報活動費100万円の残金27万円を、きちんと返納。「明石復命書」は戦火で焼失しますが、複写を明石が「落花流水」と題をつけて残しています。
諜報活動費100万を渡す際、髭の見事な参謀次長の長岡外史は、風采の上がらない大佐(この時の明石元二郎、階級は大佐でした)に、「ここまでの大金を渡す必要があるのか」と言った人物です。日露戦争中全般に渡る彼の活動と、その結果を知り、「明石の活躍は、陸軍10個師団に相当する」と、ガラリと評価が変わりました。

三国干渉の時、困らせてくれたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する成果を上げている」と、高く評価しています。
日本陸軍内部で、明石の評価は高かったのですが、諜報活動の成功なので、表されることはなく、伏せられていました。そのため、全く知らない者もいたのです。

日露戦争の傷がまだ深い1907年(明治40年)。
陸軍大臣寺内正毅の命を受け、補第14憲兵隊長として、元二郎は朝鮮半島に渡りました。
一般人の生活環境は、あまりに粗悪で、衛生状況も良くなかったのです。飲み水の確保や、衛生状況の改善に理解を示し、協力しますが、元二郎の主な仕事は、抵抗勢力の取り締まりでした。そのため、朝鮮での明石元二郎の評判は、振るわないものがあります。

李氏朝鮮時代の宮廷を舞台にしたドラマが、近年日本でも人気を博しましたが、当時の資料は、実に少なく、その昔、日本に向かう途中、遭難したことから、約13年もの間、李氏朝鮮に幽閉されたオランダ人ヘンドリック・ハメルが、日本へ脱出した後に執筆した『朝鮮幽囚記』(出版はオランダ)が、一番詳しいかもしれません。

日韓併合の前に、初代総監となった伊藤博文は、<ロシアの脅威から大韓国を守るための近代化を推進し、独立できるまでの間、日本で保護をする>と、考えていました。
強硬に併合を進めれば、反発も強くなるだろうと、強硬な日韓併合論を唱える者たちを抑えて、物事を進めていたのです。ところが、1909年10月26日(明治42年)。

韓国の独立運動家安重根によって、伊藤博文はハルピンで暗殺されてしまいました。
元二郎にとっては、♂年齢域から♃年齢域に移行する年であり、時代の節目でもある伊藤博文暗殺事件を、担当します。
●♃年齢域・45~55歳・1909~1919年(明治42~大正8年)

1910年7月(明治43年)。寺内正毅朝鮮総督府の下、憲兵司令官と警務総長を兼務することになります。同年8月日韓併合が始まったのでした。
目的の一つに、ロシアによる朝鮮半島への勢力拡大阻止もありましたが、日本は多額の国費を使い、韓国のインフラ整備や、公共設備。開拓や干拓事業。湾岸の整備や、道路整備を始め、農業を活性化させるため、大規模な土地改良もしたのです。

1911年(明治43年)。日本政府が朝鮮にかけた年間総予算は、3千565万円。朝鮮国内からの税収は、1千330万円が、参考例の一つですが、1945年9月9日まで続いた日韓併合は、全期間通して赤字運営。日本にとっては、国内経済を圧迫させるほど、負担の大きなものだったのです。

1914年(大正3年)帰国した元二郎は、参謀本部次長に就任しますが、翌年の10月には、熊本の第6師団に転属となりました。これは陸軍内部における「スパイ軽視」や、明石元二郎の情報収集能力がすごい=単独行動も多い分、警戒をする者もいたこともあり、明石の価値を知る児玉源太郎と山縣有朋は、バランスをとるのに苦慮したようです。

1918年(大正7年)第7代台湾総督に就任。階級は陸軍大将に上がりました。
台湾に着任すると、水力発電議場に力を入れた他、鉄道貨物輸送の停滞を解消するため、海岸線を整備します。台湾最大の銀行である華南銀行の設立にも関わり、経済だけでなく、教育にも力を入れました。

学問好きな元二郎は、日本人と台湾人が、均等に教育を受けられるように、法改正を進め、台湾人が帝国大学進学の道を作ったのです。
台湾に貢献した日本人といえば、ダム建設の八田興一ですが、喜南平原の早越・洪水対策の為に計画した、喜南大洲の建設を承認したのは、明石元二郎でした。
♃年齢域の本領発揮のともいえる仕事ぶりに、台湾ではかなり高評価。台湾総督府から、遂に独立した台湾軍の初代司令官に就任します。

1919年(大正8年)10月。総督任務に就いて1年4か月後、公務のために本土へ向かう途中、洋上で発病します。
「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、途中に倒れるのは千歳の恨み事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるをべからず」
遺言を残して明石元二郎は、郷里の福岡で亡くなりました。遺体は遺言どおり、台北市の三板橋墓地(現在の林森公園)に埋葬されたのです。
1999年(平成11年)台北県三芝郷(新北市三芝区)の福音基督教墓地へ改葬され、墓前にあった鳥居は、林森公園の整備中、二二八和平公園内に建てられましたが、2010年11月元へ戻されました。

生誕地付近の勝立寺には、遺髪と爪を納めた墓があるとのことです。

どんなに実績を出しても、諜報が任務なために、表の歴史に出なかった明石元二郎ですが、ロシアの地から、日露戦争を勝ち戦に導いた活動、台湾の発展に貢献した晩年。どちらもスポットが当たってほしい歴史上の人物です。