今回は秋山真之に、スポットを当てました。人物像は、小説と大河ドラマ「坂の上の雲」の影響も大きいと思われます。日露戦争では軍艦三笠に乗船。連合艦隊の参謀として、勝ち戦の戦術を担いました。感性が鋭く、変わり者。マジで霊感あるかもしれません。

学生時代に経済支援をしてくれた兄の秋山好古。幼馴染の正岡子規との友情なども含め、元に持つ星回りと、彼の人生を見て行きたいと思います。

1868年4月12日(慶応4年3月20日)伊予松山生まれ12時設定



☀星座♈ 22°28
☽星座♐ 21°16(24h♐15°03~♐27°25)

☀星座が♈の12時設定のため、第1室♈以降、第12室♓まで基本的並びとなります。
第1室のカプス前後。第12室障害溶解の部屋♓には、☿♃と、第1室本人の部屋♈には、入室したての♂がありますが、4月12日は♂の移動日。深夜から午前中は、第12室にいたため、♓の終わりにいる☿♃と共に、♂は水のステリウム。午後は♈に移動したため、火と水のステリウムとなります。どちらにしても、♂がコンジャンクションするのは、☿と♃。社会的な成功や、組織の中で頑張るには、後押ししてくれる三つ星。ここが一塊になるため、南半球は、第9室♐の♄Rと☽だけに見えやすいのも、秋山のホロスコープの特徴です。

目的追求欲が強く、よく言えば独立独歩の努力家ですが、一辺倒になりすぎると、対人関係に問題が生じやすい傾向あり。これは♈が持つ、トップ志向と相通じて、彼の持つ独自性の源になっている可能性大。
秋山真之が、兄と同じ陸軍ではなく、海軍に行ったことへの運勢的、裏付けにも見えるのが、☀♆のコンジャンクション。感性が鋭くインスピレーション豊かで、霊的な面も強い事を物語っています。ここ一番で物事がうやむやになりやすい傾向も秘めていて、芸術や美意識を高めるか、甘さとアンモラルに浸る人生を送るかは、器の育て方、育ち方で別れますが、そこをフォローしたのが♂・☿・♃トリオかもしれません。

因みに、第1室☀は、第9室の☽とトリン。
この日☽は24以内に、♐15°03~♐27°25なので、終日♐であることは確定。
午前0時では、☽♄コンジャンクション。第3室の♊♀とオポジション。
昼間は♆と☀どちらともトリン。一日が終わる頃は、♃・☿・♂とスクエア。時間の経過と共に、☀から☊と、パートナーを変えつつ進みます。
♄は逆行中で、♂と♃はトリン。第3室♊♀と、オポジション。
何かを諦めるシビアな現実も伴いますが、研究熱心な彼の気質を、サポートしている向きもアリ。

人や物とのめぐりあわせを観る第2室は、元々♉の領分。ここに♇が入っています。15度なので、効果は強め。家庭の部屋でもある第4室の♋♅と相性がよく、また♅は、第6室にある♍の☊Rともつながっています。子ども時代から青年期にかけての盤石な支えとするには、弱さがあるのかもしれません。

秋山真之略年表(ウィキその他、資料参照)

1868年4月12日(慶応4年3月20日)伊予国松山にて、松山藩下級武士秋山久敬と貞夫妻の5男として生まれる。
1883年(明治16年)東京へ上京・共立学校(現開成高校)で英語を学ぶ。
1884年(明治17年)9月大学予備門合格
1886年(明治19年)10月30日 海軍兵学校入校
1890年(明治23年)海軍兵学校卒業。海軍少尉候補生となる。砲艦「比叡」に乗船。エルトゥールル号遭難事件の遭難者を送還の任に就きオスマントルコへ出航。12月父・久敬が亡くなる。(真之は「比叡」常務中)
1891年(明治24年)オスマン帝国首都イスタンブールに到着。巡洋艦「高千穂」乗艦に異動となる。
1892年(明治25年)5月海軍少尉任官。
1894年(明治27年)4月23日通報艦「筑紫」航海士となる。
1896年(明治29年)海軍水雷術練習所学生となる。報知艦「八重山」乗艦。10月海軍大尉に進級。「八重山」の分隊長となる。
1897年(明治30年)米国駐在武官に異動。
1900年(明治33年)帰国。10月旗艦「常盤」常務
1903年(明治36年)6月2日 水交社で稲生すゑと結婚式を挙げる。
1904年(明治37年)旗艦「三笠」乗艦。対ロシア戦。9月1日海軍中佐に進級。
1905年(明治38年)5月27日日本海海戦。連合艦隊参謀に異動。6月19日母・貞が亡くなる(長兄好古宅)。11月連合艦隊解散。海軍大学校占術教官に異動。
1908年(明治41年)9月海軍大佐進級。12月従五位に昇
1910年(明治43年)4月巡洋艦「出雲」艦長に異動
1911年(明治44年)3月第1艦隊参謀長に異動。
1913年(大正2年)12月海軍少将に進級。
1916年(大正5年)2月海軍司令部に異動。
1917年(大正6年)12月海軍中将に進級。
1918年(大正7年)2月4日死去 享年49歳

秋山真之惑星年齢域history

●江戸から東京へ変わり目に生まれた新世代。☽年齢域 0~7歳
1868年~1875年(慶応4年~明治8年)

1868年4月12日(慶応4年3月20日)秋山真之は徳川親藩である松山藩の城下町で、生まれました。(幼名は淳五郎。本編はフルネーム、もしくは真之の表記)
五箇条の御誓文が発布されて、江戸城無血開城までの、政権が完全に変わる時に生まれてきた新世代。明治元年世代ともいえます。

父は松山藩に仕える下級武士の秋山久敬。大柄で温厚な人で、歩行目付を務めていました。漢学への造詣が深く、子どもたちの名前も、漢文の一節から取って付けたそうです。
母は同じく松山藩士山口家から嫁いできた貞。そして先に生まれた兄弟は、姉の種を頭に、長兄の則久・次兄正矣(岡家に養子入り・後に京城電気重役)・三男好古・四男道一(西原家へ養子入り・後に貿易商)と一女四男。その下に生まれてきた末っ子が、真之です。

真之が生まれた当時の松山藩は、松平定行が封じられた十五万石の頃の面影はなく、財政難に陥っていました。
少し時代を遡りますが、アメリカから開国を迫られていた1854(嘉永7/安政元)年に、安政東海地震が発生。以降、1858(安政5)までの間に、東海・江戸・青森・富山と岐阜の境辺りで、M7~M8.4の大型震災が続いたのです。国内は多くの死亡者と被災者に見舞われました。

ここにさらなる打撃。コレラが日本を襲います。崎へ入港したアメリカ軍艦の乗組員から発生し、瞬く間に全国へ広がり、約20万人以上の死者を出したのです。コレラは実にしつこく、明治初期まで日本を蝕んでいきました。

1861年(文久元年)には、日本海を南下したロシアの軍、対馬へ上陸。島民を虐殺して回ったのです。芋崎を半年ほど占領したポサドニック号事件を解決するため幕府は世界の海ににらみの利く英国に間に入ってもらいました。その英国に、薩摩藩が起こした生麦事件で、賠償金を払うハメになるのです。(これは当事者の薩摩藩が賠償をスルーしたため)
当時の幕府は、地震と疫病による財政出動が続く中、海外の通貨事情と自国の貨幣事情の違い。常識の違い等を理解できないまま、不平等条約を締結。交易をした結果、カモにされて、かなりえらい目にあいました。

幕府の財政難を支えるのは、徳川一門が当主である親藩の役目でもあり、松前藩は人も経済も幕府に拠出したことで、連鎖的に藩財政難に陥ったのです。国内が引き締め財政となった分のうっぷんもあったのか、松山藩士たちは、長州征伐に出兵した際、占領した周防大島の住民に対して、略奪行為を行ってしまったのです。
これが明治新政府時代になってから、長州藩閥の恨みを買う要因となり、賠償を含められ、有能な人材の登用も、厳しい状況に置かれたのでした。

その上の廃藩置県。家臣たちの暮らしは厳しく、秋山家も厳しい状況だったのです。
月年齢域の7年は、その人の人格の土台を形成する時期にあたりますが、厳しい状況だったため、生まれた末っ子を、お寺に預けようと相談し合う両親に対して、三男の好古が割って入り「赤ちゃんを、お寺に預けちゃいやだ。うちが勉強して、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるから」と、大説得したのです。
真之より9歳年上の好古は、1859年2月9日(安政6年1月7日)生まれ。後に日本騎兵の父と称される人ですが、この当時、子どもながらにできる仕事を行い、家系のために働きつつ、勉学に励みました。

幼年期の環境をみるのは、天体なら☽。ハウスだと第3室と第4室を、重点的に使いますが、真之の第3室は、♊をバックに♀が輝いています。会話の多く、知的な好奇心。文化芸術にはプラス作用。兄弟関係も悪く張りません。しかし、のびやかには、なりきれないのは、対岸の♐♄と、オポジションなためなのでしょう。
家庭の部屋である第4室は、♋をバックに変化の♅。☽は第9室♐にあるため、どこか不安定感あり。家族を取り囲む環境が厳しかったことや、長女の種が、真之の幼年期に亡くなっているなども、リンクしてくるかなと思います。
●元気盛り知恵盛りな☿年齢域
7~15歳1875~1883年(明治8年~明治16年)

1875年(明治8年)水星年齢域を迎えた真之は、地元の漢学塾に通い、和歌なども習いますが、とにかく負けず嫌いのいたずらっ子でした。子分を引き連れて戦争ごっこ。
好奇心から、本を参考に、花火を作り打ち上げる等、お母さんの手を焼かせ、冷や冷やさせるやんちゃぶりが、小説やドラマには描かれています。
ホロスコープ的には、第1室と第12室にまたがる形で、星の固まりがあることから、未発達未成熟な子どものうちは、制御も聞かない分、カンが強いとか、粗暴、臆病といった表現や行動として表れても、不思議はないかもしれません。

そんな元気ものの息子に、父は昔話等もたくさん聞かせてくれたそうです。お母さんの貞も、武家の娘で教養は身に着けていました。兄たちも優秀で、特に三男の好古は、この頃、官立大阪師範学校に公費入学をしています。
元気の有り余る真之ですが、松山に習字だけでなく、読む事、数学も学べる勝山学校ができたことから、こちらに通うことになりました。この勝山学校で、一学年上の正岡子規と出会います。(以降、本編では子規、もしくはフルネームで表記)

自由民権運動が盛んになり、影響を受けた子規は、学問だけでなく、政治家の真似をして演説まで行う行動派。暴れ調子だった真之が、太政大臣に憧れるようになったのも、正岡子規の影響が大きかったのでしょう。
子規の☀が♎。真之の☀は♈で、風と火が向かい合い、さらに子規は♈に♀を持ち、真之は♂があります。二人とも♈には♆もあるのが難ですが、フィーリングが合う間柄。男女だったら、恋愛に発展アリ?という感じで読んでいいと思います。

勝山学校を卒業すると、松山中学校へと進学しますが、政治家を目指すことを決めた子規は、上京するため、中学を中退してしまいました。時期を同じくして、すでに東京にいる兄の好古が、松山で学んでいるだけでは、えらくはなれない。必要な学費を出すから上京しろと、進めてくれたことから、真之は帝大入試を決意したのです。
兄の秋山好古については、今回詳しく書きませんが、真之が上京する頃は、教師を辞めて、帝国軍人となって東京で暮らしていました。
●楽しき学生時代と、初の遠洋航海はオスマントルコ ♀年齢域 15~25歳 
1883~1893年(明治16年~明治26年)

1883年(明治16年)10月帝大入学を志した上京した真之。先ずは子規と共に共立学校(現開成高校)を受験して、第一関門突破します。この時英語の授業を担当していたのは、高橋是清でした。日露戦争の時、大蔵大臣として金策に世界を駆け回わることになる是清と、連合艦隊の参謀となり、バルチック艦隊を撃破した真之が、一つの教室で、先生と生徒として向かい合うのも、歴史の妙というか面白い縁です。

英語を習い、ベースボールの面白さにハマった後、一学年上の子規は、先に大学予備門(のちの一高。東京大学教養学部)を受けましたが落第。1884年(明治17年)9月。二人揃って大学予備門生となるのでした。
文明開化な明治時代の東京で、帝国大学入学を目指しながら、勉強に勤しむ傍ら、学友たちと鎌倉までの無銭旅行を行ったり、寄席を楽しみ、噺家をからかったりしています。
その過程のなかで、政治よりも文学に、心惹かれてゆく子規と真之。

子規は本人の優秀さに+α、実家は下級武士とはいえ馬廻役。母方の実家は藩の儒学者という家柄もあるのか、旧藩主松平家の給費生。
真之は父が徒目付で実家が細く、学費、生活費のすべてを、兄の好古に頼り切っていたのです。学生生活を楽しむ反面、質素を旨とする兄との暮らしの中で、手厳しい制限も与えられていました。
兄から離れ、一人暮らしとなった1886年(明治19年)の春。
子規の下宿に同居していた清水則遠が、脚気によって急死してしまいます。大ショックを受ける子規が心配になって、しばらく彼の下宿に同居する真之ですが、だんだんと学校を休みがちになり、好きだったベースボールもトーンダウン。
夏至を迎える頃、子規たち学友の前を去ったのでした。

1886年(明治19年)夏休み前の出来事なので、6月末でホロスコープを見ると、星が集中している第1室の☀・♆・♂。第12室の♃☿とオポジション。
T♂・♃(♍)♅(♎)も入ってオポジションを作っています。N♅にはT☀がコンジャンクション。しかもT♄も同じく♋にあり、♋の甲羅を破り、古いものと新しいものとが、入れ替わる効果とも取れます。
>「毎年大学予備門に入る者がこう多数ではついに学士の氾濫を見るに至るであろう」<柳原極堂の「友人子規」には、真之が進学を辞めるに際し、子規にこう語ったとありました。

明確な理由はわかっていませんが、学問を深めるにつれ、政治よりも文学の道に惹かれた真之。子規や学友たちと、文学の道に進みたい気持ちがあっても、学費も生活費もずっと兄がかり。自立できないまま文学の世界へ進むことに、気が引けたのかもしれません。
軍に入れば、衣食住も賄われ、少額とはいえ給与がもらえます。
自立するための進路変更。人生の方向転換と観ていいでしょう。
兄の好古は陸軍で有望視される人材となっていたので、彼が誘ったとも考えられますが、真之が入ったのは海軍です。悩んだ末に、海軍を選んだのは、☀の傍に♂と♆があるのも影響と言えるでしょう。

10月30日海軍兵学校を受験した真之は、55人中15 で合格。17期生として海軍兵学校に入学しました。以降、卒業を迎えるまで4年間の間に、野球チームを編成して、海軍野球の創設者となるのです。スポーツも遊びも、大いに楽しんで、成績は常に主席をキープしたのでした。その姿が不思議で、「猛勉強をしていないのに、なんでいつも、成績がトップなのか」と尋ねた後輩がいました。
「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。必要な部分は何回も説明するから、試験問題を推測できる」と、本人が答えたそうです。トップ志向の強い♈。やる事も目的意識もはっきりしていれば、かなり実績を出してしまう傾向は持っています。そこに、人一倍勘の良さが相まってできたことなのでしょう。

1890年(明治22年)7月。海軍兵学校を首席で卒業すると、海軍少尉候補生として、砲艦「比叡」に乗船します。この年は、遠洋航海実習ができなかったはずが、金剛とともに10月。オスマン帝国の首都イスタンブールへと向かう初任務が降りました。
これは和歌山沖で遭難したトルコ軍のエルトゥールル号の遭難者を、本国に送還する任務と、17期生訓練が兼ねられた航海だったのです。オスマン帝国に向かう間に、故郷の松山に住む父久敬が亡くなりました。洋上にいたため、真之は死に目に会えなかったのです。
比叡が錨を降ろしたのは、年明け1891年(明治24年)1月2日。トルコはエルトゥールル号の遭難者を助け、送り届けた日本に感謝をしただけでなく、歴史の教科書などで、このことを語り継いだ経緯がありました。

90年後の1985年。イラン・イラク戦争の時、テヘラン脱出が不可能になった日本人の救出と、帰国のために、トルコは旅客機を飛ばしてくれたのです。海の恩を空で。過去の恩を現代でこんな形で返すのが、時代の妙であると同時に、これを知らない日本が多いのでした。

オスマン帝国から帰国後は、巡洋艦「高千穂」に乗艦。1892年(明治25年)海軍少尉に任官しました。この頃、村上水軍の兵法書を手にします。室町時代のものでありながら、現代にも生かせると気づき、真之は戦術研究にのめり込んだのでした。
●日清戦争と留学。友の死と結婚。濃厚な☀年齢域 25~35歳 
1893~1903年(明治26年~明治36年)

☀年齢域は、その人の☽・☿・♀年齢域に、培ったものを輝かせる時期。
人生の輝く時期であると同時に、28歳前後は、サタンリターンの年代にも入るため、本人にとって重荷もまた付加される時期でもあるように思えます。
1894年(明治27年)日清戦争では、通報艦「筑紫」の航海士となった真之は、陸軍の作戦の援護や、測量などをまかされました。戦後は巡洋艦和泉の分隊士等も担いますが、
1896年(明治29年)横須賀に転属。海軍水雷技練習所の学生となり、水雷術を学びます。

チャンスはさらに訪れて翌1897年(明治30年)6月アメリカに留学する機会を得ます。ワシントンへ向かった真之。学校で習う範囲では満足できず、私費で海軍大学校校長アルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、陸戦も含めた兵術の理論研究に没頭しました。その折、1898年4月25日~同年の8月12日(明治31年)。
キューバの独立を巡って、アメリカとスペインが争う米西戦争が起こります。「サンチャゴ・デ・クーバの役」と銘打った報告書を提出していますが、実際の戦争に観戦武官として従軍できたのは、真之には机上の理論以上の学びがあり、日露戦争での旅順港攻略戦に生かされたと言われています。

アメリカ留学を終えると、イギリス駐在を命じられて帰国が1899年(明治32)8月という記録を見ると、真之が根岸の子規庵まで正岡子規を訪ねたのは、留学前ではなく、帰国後という事になります。
正岡子規の回では、留学前という資料に元づいて書きましたが、二人は親友ですから、アメリカに行く前と帰国後の両方、子規庵を訪ねても、何ら不思議はありません。

1902年(明治35年)海軍大学の教官に就任した真之は、後輩育成に勤める日々ですが、この年の9月。正岡子規が亡くなりました。友の死がもたらす寂しさも影響したのか、あ1903年(明治36年)。付き合いの長い海軍仲間八代六郎(大佐)から持ちかけられた「縁談話」に乗ります。
兄の好古が「若いうちに嫁を持つな!」的な感覚を刷り込んだのと、常に食べている煎り豆を「なくなるから送って」と言えば、送ってくれる故郷の母がいるだけで満足だったのか、真之は36になるまで、ずっと彼女も持たず独身。結婚する気0だったのです。

司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」では、正岡子規の妹律との、淡い恋心が描かれている感じですが、これは小説上の演出。司馬氏は「花神」でも、大村益次郎と、弟子入りしたシーボルトの娘おイネさんの間に、恋愛関係があるように描きましたが、両者の性格上、イネの人生上、これはかなり無理のある設定でした。
真之と律も同じようなもので、双方顔なじみで親しくはあるけど、性格上恋愛感情は、難しいと筆者は踏んでいます。

真之の見合い相手は、稲生すゑこ(季子表記アリ。本編はすゑこで統一)宮内省御用掛け稲生真履(いのうまふみ)の令嬢で21歳。華族女学校に通う才女でした。父親の真履は、15の年の差を気にして、この縁談を一度断りますが、軍人に嫁がすなら秋山にと思い直し、築地の水交社で結婚式を挙げたのです。

当時、真之が友人にあてた手紙に「ロシアとの関係が悪化する時分に結婚したのは、ほんのうさ晴らし」と、一見すると不届きな事を書いていますが、結婚生活も、そう悪い感じはなく、二人の間には大(ひろし)・固(かたし)・中(ただし)・全(やすし)の四男と、少子(わかこ)宜子(たかこ)二女の子どもが生まれてゆきます。文面は、妻に対してではなく、真之の結婚に対する考えの一旦とみていいかと思います。
●奇才が死守した日本海海戦。その後♃年齢域 34~45歳
 1903~1913年(明治36年~大正2年)

国内は日露戦争に沸き立ちます。真之も開戦派で、外務省の役人と陸軍・海軍の同志と、湖月会なる会を作って談義をしていました。そのロシアが朝鮮半島へ南下したことを受け、1903年(明治36年)12月28日。日本海軍相山本権兵衛は、勝ち戦のために東郷平八郎を司令長官に任命。連合艦隊の編成を開始します。当時周囲から「智謀湧くが如し」と言われた真之には、東郷から直々のオファーがかかりました。

1904年(明治37年)海軍中佐となった真之は、東郷と共に旗艦である三笠へ参謀として、乗り込みます。参謀長は他にいますが、信任厚く、開戦から終戦に至るまで、日露戦争の戦略をほぼ任されたのでした。
2月6日早朝、ロシア太平洋艦隊を潰すために旅順港を目指して、佐世保港を出航する連合艦隊。東郷は船員たちの士気を上げるため、できるだけ見える位置にいる事が多かったのです。東郷の傍らで、時には舟床で、常に煎り豆をポリポリと口に含みながら真之は、味方が受ける打撃を減らし、相手を砲撃する時間をいかに増やす作戦を考えます。

初戦の旅順戦では、丁字戦法を試みようとしますが、これが失敗に終わるだけでなく、敵の機雷で初瀬と八島の二艘を、沈没させられてしまいました。
8月の黄海戦では、旅順港からウラジオストックに向かうため、ロシア太平洋艦隊は、日本艦隊との戦いを避け、逃げるように進みますが、戦艦が故障してしまいます。追いかけて、射程範囲まで距離が縮んだ日本艦隊は、すかさず砲撃します。これが敵の旗機の司令塔を直撃。司令官を失った艦隊は総崩れとなり、日本艦隊側が勝利したのでした。
おかげで日本本土から兵を楊陸させる事と、補給物資を届けることが容易になったのです。しかし二か月後の10月。ロシア皇帝は、世界最強と言われるバルチック艦隊を、太平洋へ向かわせることを決めました。バルト海を出航して、ロシア太平洋艦隊と合流することで、日本を殲滅する作戦に出たのです。

合流前にこれを潰さない限り、日本海軍だけでなく、 日本に勝ち目はありませんでした。綿密な計画を練りに練って、全体が一丸となって動くための厳しい訓練を重ね、対馬沖で待ち構えて迎えたのが、日本海海戦だったのです。
1905年(明治38年)5月27日「天気晴朗なるも波高かるべし」
駆逐艦をはじめ、魚雷艇等、連合艦隊ならではの七段戦法も考えていましたが、波が高いと、駆逐艦や魚雷艇は排水量が少ない分、揺れも大きく魚雷の精度が落ちるため、雷撃による攻撃が難しい。それを大本営に伝えるために、当日の早朝真之が打ったとされる一文です。

使えない作戦がある意図を含んでいることを、含んでいますが、書き手が思う通り、受け手も受け取るは、簡単なようで実は難しいことです。完結明瞭に伝わりやすい文面。
和歌や俳句をはじめ、日本文学を愛した真之だからこそ、出てきた文面なのでしょう。
実際、当日波は高く、水雷艇を使う事は諦めざるを得ない状況した。
Z旗の信号文「皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」も、秋山真之と言われていますが、作者は連合艦隊参謀長の加藤雄三郎のようです。

この日T☽は、♓を進んでいました。(ちなみに♄も♓。時代の変わり目ともいえますね。)
☽はどんどん進みますから、時間経過とともに、真之の第12室にあるN☿と♃。さらには、N♂も刺激。翌28日は、N☀♆を刺激していきます。
T♃は、♉を進み真之のN♇と重なり、N♇の対局には、T♂。♊の☀は、彼のN♀と重なると、成功・勝因を見つけやすい星の配置になっていました。

日本海海戦艦は、世界的に見ても希代の名勝利で終わります。
東郷平八郎も大きな存在ですが、彼一人で勝てたわけではありません。明治維新からここに至るまでの長い時間。実に様々な人、ロシアに対する警戒心と危機感を繋いで、この時代の政治家や軍人たちが、それぞれの立場で、最終ランナーのバトンを受け取ったこと。
日本全国民の命に係わる一大事に、日本中が生きて勝つために拠出もしたことも、勝因の条件だったのでしょう。

積み重ねの最終局面を、託されたのが、東郷平八郎をはじめとする日本海軍連合艦隊であり、作戦の責務を担った秋山真之だったのです。
多大なる犠牲を払い、旅順を陥落させた日本陸軍の勝利。(秋山好古は、騎兵第一旅団隊長として、命がけの働きをしています)
組織されて年月の浅い日本海軍が、帝国ロシアの海軍に勝ったことは、世界を驚かせました。ロシアの圧政に苦しむ北欧の国々のみならず、欧州に植民地支配を受けている小国に、とても大きな希望を与えました。

使える戦艦を失ったロシアは、即時の反撃は無理な状況に陥ります。しかし戦後交渉の話し合いに時間をかければ、態勢を立て直す時間を与えることにしかならず、二戦・三戦と戦う事の出来ない日本は、時間をかけることができません。
この現実を知っていたのは、ほんのわずかな政治家と一部の軍人だけでした。アメリカが間に入り、停戦を迎え、「日本の朝鮮半島における優越権」から始まる、6項目ポーツマス条約を締結してゆきますが、そこにロシアからの賠償金は、含まれていなかったのです。
戦没者だけも8万人以上(ロシアも大きくは変わらない)犠牲を払っているのに、勝っていて賠償金が取れないことに、多くの国民は戦勝ムードから一転。国に対する不平不信怨嗟に変わり、これが大規模なデモを起こす原因になっていったのです。

熾烈極まる政治的な駆け引きが行われますが、それよりも真之が心砕いたのは、好古の家で暮らす母が亡くなった事でした。海軍に入って以来、出兵の際は、観音菩薩の慈悲を意味する「大慈大悲」と書いた札と、母の写真をセットにして、肌身離さず持っていた真之。訃報を聞いた途端、人前でも構わず大泣きをしたというエピソードも残っています。
11月25日連合艦隊は解散します。式典に際して、司令官の東郷平八郎が読み上げた連合艦隊解散の辞(訓示)は、真之が書いたもので、停戦の仲立ちをしたアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は、その内容にとても感動して本文を英訳。アメリカ軍の将兵に配布しました。

戦後は海軍大学に戻り、戦術教官を務めます。実戦経験と、教え上手な真之にとって、一番合う職種と思いますが、1908年(明治41年)から、♃期が終わる1913年(大正2年)までの5年は、三笠の副官、巡洋艦音羽の艦長へと就任。大佐に昇格と、華々しくも海軍生活が続きました。
その一方で極度の鬱に悩み出します。元々が☀と♆コンジャンクション。☽とも♆とも絡むホロスコープを持つ真之。ナイーブで感受性強いのは生まれつきでした。常に煎り豆をポリポリしていたのも、それがないと心理的に落ち着かなかったとも考えられます。

友人の戦死や、敵味方の別なく、多くの死傷者を目の当たりにしたことに加え、日露戦争に勝つという重責を背負って、一極集中した反動。母親を失ったことも拍車をかけたのでしょう。本人なりに思い悩み、「出家する」と言い出します。
周りから強く止められ、出家には至りませんでしたが、日蓮宗に心のよりどころを求め傾倒してゆきました。
幕末明治は、大地震に疫病が続き、さらに戦も起きて、庶民的には実に翻弄される時代でした。不安が強まったから、心霊的な話や新興宗教も盛んになり、大本教や天理教は、このころ誕生しています。
●海軍の仕事から心霊の研究並行する♂年齢域 45~57歳
 1913~1918年(大正2年~大正7年)

大正時代に入って間もなく、日本海軍の父山本権兵衛に、総理大臣の大命が下りました。ところが1914年(大正3年)に起きたシーメンス事件によって、山本内閣は、海軍による汚職のため責任を取って退陣。大隅内閣が組閣されます。
真之の友人であり、妻を紹介してくれた矢代六郎が海軍大臣となり、海軍省軍務局長という立場から、真之は政界と対中政策にも触れました。上海を訪れた際、留学生の受け入れなどに理解を示しますが、出世欲が薄いのもあり、深く関わることはしませんでした。
1916年(大正5年)第一次世界大戦を視察するため、3月に欧州へ向かうと、各国を歴訪します。翌1917年(大正6年)には、懐かしいアメリカを尋ねました。

帰国後は第2艦隊水雷司令官となりますが、体調を崩してしまい、現役を退き辞職します。既に日蓮宗に帰依していましたが、大学教官時代に、佐藤鉄太郎らの「天晴会」に勧誘されて、経典等も研究。海軍機関学校教官で、心霊研究家の浅野和三郎を介して、新興宗教大本にも縁を持ちました。
日本海海戦の三日前、不眠不休で作戦を考え、うっかりうたたねした際に見た夢と、開戦当日、目の前に現れたバルチック艦隊がそっくり。動きもまったく同じだったと、大本の開祖といわれた出口なおに、真之は語っています。

一般的には説明のしづらい話と、自覚していたので、話す相手を選んだのでしょう。
厳しい訓練を積みながら、冷静に勝つための手立てを編み出してゆくには、研ぎ澄まされた集中力も必要だったはずです。しかも海上での戦争という特殊な状況でした。
星の配置を見ても、T☽はN☿♃を刺激し、T♆は、N♅と重なります。一種のトランス状態に陥っても不思議はないし、「正夢」や、神の啓示が降りてもおかしくはありませんが、
誰もが簡単に体験できることではなく、理解できる人が少ないのも無理からぬところです。

つまらない嫉妬心等で、「秋山真之は遊びが過ぎて、梅毒になった」と、吹聴する将校もいました。確かに体調を壊しましたが、それは虫垂炎によるもので、真之がのめりこんだものは、色恋沙汰ではなく、神道や心霊研究だったのです。

大本教との関りは、入信目的ではなく、神道の研究という目的があったことから、縁は長くありませんでしたが、虫垂炎を患ってから、箱根で療養をしていた真之。痛みを出口の手かざしで和らげることを望み、手術を拒み続けました。
1918年(大正7年)2月4日再発から、腹膜炎を併発して亡くなります。享年49歳。

死去の直前まで、般若心経や教育勅語を唱えていた逸話が残っていますが、心がこの世的(即物的)だったら、そこまで苦しまずに済んだかもしれません。しかし、そうであるなら、日本海海戦の勝ち筋を、見出すことができなかったと思います。

秋山真之の功績は、知識と技術だけでなく、鋭い感性が何かを引きつけて起こした奇跡だったのかもしれず、その片鱗を星たちは告げていたのでしょう。