親友は吉田松陰。久坂玄瑞や高杉晋作からみれば、兄弟子のような位置でした。剣豪としても名が知れますが、みだりに抜くことをしないで生き延び、明治時代に近づくにつれ、歴史の中心になった人です。三傑の中で唯一英語が使え、外国人とも直接交渉した実務派。

幾松さんとのシナストーリーと、西南戦争を起こした西郷を案じつつ、亡くなるまでの半生と星回りを追ってみました。

木戸孝允 本人のネイタルホロスコープ




1833年8月11日(天保4年6月26日) 山口県萩市生まれ 12時設定
☀ ♌ 18°08
☽ ♊ 17°05 (♊の☽は確定。前後6度の幅あり)

ロコモーティブタとも、ボールタイプともいえるホロスコープで、第8室を除く第7室から第12室の南半球に、星が集まっています。
第1室の☀がエネルギッシュな♌。☽は♊第11室。12時設定のため、☽固定ではありませんが、♊17°。前後6度の幅を見ても、木戸孝允の☽星座は♊確定。
情報収集が得意で吸収力のある頭脳派「できる人」。ですが、どこかこどもっぽい面も宿して、そこが魅力。用意周到な♍を背景に、人と金の流れを見る第2室。ここに集まる☿・♂・♄は、元が負けず嫌いな上に、さらなる自己主張の強さを乗せるとトラブルに。誇示することなく、地道な行動力を続けることで周り一目置かれ、縁も金も回るようになるでしょう。因みに☿はR(逆行)で、第6室♆。第7室♅・第9室♇と、Rが目立つ星回りです。

幕末期には対人関係から、トラブルに巻き込まれて幕府に捕縛されたり、命を狙われることもあった小五郎ですが、木戸孝允を名乗り、明治時代を迎えると、これまで以上に大きなフィールドの経済を含め、重要な仕事を彼は背負っていきました。
どちらの時代も、人との縁の中で苦労が絶えない面もありましたが、♆Rと♃。♃と☿Rのアスペクトが、部下や協力者との間で神経をすり減らす。不養生などのマイナス効果をもたらす可能性もあり。

☀と♅R。☀と♇R。♅と♇のどちらもRなのが、一見残念なようですが、利き過ぎないことで、命を狙われた幕末期を、紙一重で生き延びた可能性もあります。
 木戸孝允といえば、奥様の幾松姐さんこと木戸松子さんとのラブストーリー。占星術的にも外せない部分ですね。シナストーリーを記載しますが、幾人かの女性の協力があって、逃げの小五郎となれたのか、明治時代に華々しく遊ぶ一面があったのは、第12室蟹座の♀も関わる気がします。

尚、今回彼の名を改名までは桂小五郎、もしくは小五郎。改名後は木戸孝允もしくは木戸と表記します。

木戸孝允 History(ウィキその他、多数資料参照)

1833年8月11日(天保4年6月26日)長州藩の藩医・和田昌景の長男として生まれる。
1840年(天保11年)桂九郎兵衛の養子となり、「桂小五郎」と名乗る。
1849年(嘉永2年)藩校「明倫館」で吉田松陰から山鹿流兵法を学ぶ。
1852年(嘉永5年)江戸に剣術修行に赴く。神道無念流斎藤道場に入門。
1853年(嘉永6年)黒船来航。長州藩は大森海岸の警備を命じられる。
1858年(安政5年)萩に帰国。以後、長州藩士として本格的に活動を開始する。10月安政の大獄で吉田松陰処刑
1861年(文久元年)ロシア軍艦対馬占領事件発生。
1862年(文久2年)他藩渉外役となり、藩の中心的人物となる。
1863年(文久3年)八月十八日の政変により、長州藩の立場は一変。孝允も命を狙われる存在となる。
1864年(元治元年)池田屋事件、禁門の変・第一次長州征伐。桂小五郎から木戸孝允へ改名
1866年(慶応2年)薩長同盟。薩摩藩の西郷隆盛と会談し、薩長同盟を締結する。第二次長州征伐
1867年(慶応3年)四侯会議・12月小御所会議により、新政府が樹立。
1868年(慶応4年・明治元年)1月25日明治新政府の最初期のかじ取り役総裁局顧問を拝命する。
1869年(明治2年)1月20日薩長土肥四藩の藩主連署による「版籍奉還の上表」が提出される。これにより版籍奉還が進む。
1870年(明治3年)明治新政府の参議に任命される。
1871年(明治4年)廃藩置県 岩倉使節団副使として、奥州を歴訪する。
1874年(明治7年)2月佐賀の乱 台湾出兵に反対し、参議を辞任する。
1875年(明治8年)参議に復帰し、地方官会議議長に就任するも病を発症する。
1877年(明治10年)西南戦争の終結を見ることなく亡くなる。

尚、本編は、改名するまでは、桂小五郎、もしくは小五郎。改名後は、木戸孝允、もしくは木戸、孝允と表記致します。

医者の家に生まれた小五郎 ☽年齢期 0~7歳

1833年~1840年天保4年~天保11年。

長門国萩城下呉服町(現在の山口県萩市)に住む藩医和田昌景(専門は眼科・外科)の長男として、小五郎は生まれました。え? 和田? 桂じゃないの?
そうなんです。小五郎は藩医である和田家の生まれでした。和田家は毛利元就の七男天野元政の血を引くと言われる家柄で、小五郎は毛利家の縁者でした。

長男として出生ですが、この時、父親の年齢は54歳。姉が二人(前妻の娘たち)がいるだけでなく、和田家には男の子が産まれなかったのです。そのため長女が婿をとっていました。その長女が亡くなった後、次女がその婿養子の後添えとなったとか、諸事情があるため、次男として育ちました。

こういう背景もあってか、☽年齢期と☿年齢域の交差する1840年(天保11年)。長州藩士桂孝古の家へ養子に入ります。桂姓を名乗り、「孝允」という諱ももらいました。
こうして藩の隊士組にも名を連ねた事から、90石という禄(今で言えばお給料)を、長州藩からもらうようになったのです。

いたずら盛りな☿年齢域 7~15歳

1840年~1848年 天保11年~嘉永元年

1年後、養母が亡くなったこともあって、籍は「桂家」衣食住は「和田家」という暮らしになります。幼年期は虚弱でしたが、だんだんといたずら好きの男の子に成長。
彼の額にある三日月形の傷跡は、いたずらが過ぎて、怒られた後の名残と言われていますが、そのやんちゃぶりが伺えます。頭もよく、10歳を迎える頃、長州藩主毛利敬親の前で、即興の漢詩と「孟子」の解説を披露し、2回も報奨されました。

1846年(弘化3年)には、長州藩の剣術師範家の一つ内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門します。

剣と学びと友情と ♀年齢域15~25歳

1848年~1858年 嘉永元年~安政5年

☿年齢期と♀年齢期が交差する1848年(嘉永元年)は家族の死と元服いう、人生上の大きな転機が訪れました。
次姉と実母の二人が病死したのです。お向かいの家に養子に入ったものの、ずっと実家暮らしだった小五郎。父親が54歳の時の子だし、家族にはずいぶん可愛がってもらったのかもしれません。二人の死がとてもショックで、一時は出家をするとまで言い出したそうです。

「元が武士ではないから、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」
実父の言葉が効いたのか、その後、元服を迎えた桂小五郎は、長州藩大組士となり、剣術に打ち込みました。
藩校「明倫館」では、吉田松陰から、山鹿流兵法を習います。松陰に「事をなす才あり」と表されたのも、この頃でした。ふたりは間は、師弟関係から徐々に親友と変化。
松陰との縁で、松下村塾にも出入りして、塾生たちとも顔馴染みとなってゆきます。後に起きる長州征伐で、「功山寺挙兵」を成功させ、長州藩を、「倒幕」に染めた高杉晋作とは、明倫館でも先輩後輩の間柄でした。

1852年(嘉永5年)。剣の腕を上げた小五郎に、念願の江戸留学の許可が降ります。ちょうど藩に招かれていた剣客斎藤新太郎(神道無念流)の帰途に同行することになり、江戸へ向かいました。斎藤道場(以降、練兵館)は、江戸の三大道場の一つです。
同期には大村藩の渡辺昇(鞍馬天狗のモデル)がいて、共に切磋琢磨し、神道無念流の免許皆伝をもらった後、入門1年目には塾頭となりました。
他流試合も盛んで、道場破りも多かった時代、近藤勇の道場「試衛館」から、対道場破りの助っ人要請が、練兵館に入ることもあったそうです。小五郎は直心影流の剣豪を破り、近藤勇とも対戦をしていたという、ちょっと面白いエピソードが拾えます。

1853年(嘉永6年)。練兵館の塾頭を務め、剣術に磨きをかける一方、浦賀沖にペリー艦隊がやってきた、「黒船来航」に、世の中は騒然とします。アメリカが幕府に開国を求めてきたこの事態に、長州藩は幕府から、大森海岸の警備を仰せつかりました。
藩主毛利元親の警備隊の一人として同行した小五郎は、自分の目で黒船を見て、外国の造船技術に驚き、刺激を受けます。剣術の師である斎藤新太郎に、伊豆と相模・甲斐を納める代官の江川英龍を紹介してもらうと、お台場の測量や海岸線の測量を見学。さらに砲術や兵法を学び、長州藩に軍艦建造の意見書を、早いタイミングで提出したのでした。

ペリー艦隊が帰国後、第十二代将軍徳川家重は亡くなり、時代は急展開。
日本中の武家社会が「尊王攘夷」「公武合体」「佐幕」に別れて行く中で、毛利元親は、小五郎の軍艦建造の意見書を元に、長州藩での洋式軍艦の建設を決定します。

翌年1854年(嘉永7年。)日本に開国を求めるアメリカの親書を携え、ペリー艦隊が再び日本にやってきました。小五郎は江川英龍に頼み込み、彼の付き人として下田へ同行して、アメリカと幕府の会談を、直接見聞したのです。
技術発展、経済力、政治力。すべてが今の日本との差が大きく、攘夷(外国人を武力で打ち払う)が、正しいかどうか考えあぐねる際中に、ある事件が起きました。
外国への憧れを抱く吉田松陰とその弟子が、密航を決意。ペリーの戦艦に乗り込んだ「松陰の下田踏海」が、それ。

小五郎は松陰に協力する気だったのですが、弟子や友人を巻き込みたくない彼が、断固拒絶したおかげで、幕府と藩から、懲罰が及ぶには至らずにすみました。
条約締結を前に、日本ともめ事を起こしたくないアメリカの意志もあり、二人の身柄は、幕府側に引き渡されます。幕府から知らせを受けた長州側は、頭を抱えました。
松陰への対応に対して、幕府以上に、どこかハッキリしない長州藩政府。小五郎は藩に期待する気持ちが、ダウンしてゆきます。

アメリカと日米和親条約を結び開国した幕府

朝廷の意向を無視し、話を進めたことに激怒する孝明天皇。その怒りに呼応するように、「倒幕」を口にし始める勤皇派の侍たち。世の中が激変する中、小五郎は江川英龍から西洋兵学などを学び、浦賀奉行支配与力の中島三郎助から、造船技術を学びました。

中島は家族ぐるみで、小五郎を歓迎し、短期間でしたが、心の通う交流をしています。(函館戦争で、中島は旧幕臣として、二人の息子と共に戦死しました。明治以降、木戸孝允は恩義を忘れることなく、遺族の保護に尽力を尽くします)

さらに長州藩士手塚律蔵から、英語を学ぶことによって、明治三傑の中で、唯一英語が読める人であったと言われています。
金星年齢域と☀年齢域が交差する1858年(安政5年)。長州藩へ帰国してゆきます。

金星年齢域は、家族の死に目という悲しさもありますが、学問を通じて友が増え、剣術を磨いて名前を轟かす時期でした。大きな時代の流れは、まだ彼のバックグランドで、まだ外枠にいた感じです。

歴史大変革・自身変革「逃げの小五郎」☀年齢域

25歳~35歳 1858年~1868年 安政5年~慶応4年明治元年

小五郎の☀年齢域は、1858年(安政5年)井伊直弼の大老就任に始まり、幕末風雲期ともいえます。日米修好通商条約の問題もありますが、江戸城内では、第13代徳川家定が死去による第14代将軍の座を巡る争いが起こりました。
大老井伊直弼によって、14代将軍は、当時13歳の徳川家茂が就任しますが、この時対抗馬だった一橋慶喜(本人はその気ナシ)と、一橋派(徳川斉昭・徳川慶篤・徳川慶勝・松平慶永)は、隠居や謹慎という立場に追いやられます。
これが安政の大獄の始まりとなりました。

同年。5年間の剣術留学を終えて、長州藩に帰国した小五郎は、長州藩上屋敷で開催された蘭書会読会に参加。兵学書の講師村田蔵六と縁を持ちます。(後の大村益次郎。明治維新の立役者の一人)村田の博識度、有能さに惹かれた小五郎は、彼を藩士に取り立てるよう、藩に働きかけました。
夏には吉田松陰の勧めで、長州藩江戸藩邸の大検使役に任命され、再び江戸へ向かい、秋には一度帰国。年の暮に松陰の自宅を訪ねると、情熱的な松陰の口から、老中間部詮勝の暗殺を聞かされビックリ。
いくら長州藩(毛利家)が、打倒徳川であっても、さすがにそれはまずいと、なだめ説得する羽目になりました。そのかいあって、松陰は老中暗殺を諫めます。
周りもホッとしますが、それもつかの間、別計画を立案し、松陰は藩内で投獄されてしまいました。

因みにこの帰国は、藩命ではなく、小五郎の結婚が理由です。
相手は長州藩士宍戸平五郎の娘で、当時17歳の富子。この頃、小五郎は25、6歳で、10歳ほどの年の差婚でした。それが問題ではなく、実家の和田家のお家の事情に、富子は持たずに、3ヶ月ほどで実家へ戻り、離婚になっています。

1859年(安政6年)。長州藩江戸屋敷の藩校「有備館」の職員を任され、江戸に戻った小五郎は、後輩育成に深く携わりました。他藩の志士や、幕臣との交流も広がる中、吉田松陰処刑という、ショッキングな事件が飛び込みます。
長州藩から身柄を江戸へ移して、取り調べを受けていた吉田松陰。芝居や小説では、井伊直弼が彼を追い詰め、押し問答で嵌めて処刑という筋書きもありますが、当初幕府側も、形だけの取り調べをして、長州に返すつもりだったハズでした。
ところが松陰自ら、老中暗殺の計画を喋ってしまったことから、放っておけず処刑に至ったと言われていますが、安政の大獄は松陰の処刑をもって終わります。
この犠牲は桂小五郎だけでなく、長州藩と松下村塾の塾生に、大きな影響を落としました。

1860年(万延元年)江戸在住のまま、村田蔵六が長州藩士に格上げ。麹町で開講していた私塾「鳩居堂」を、麻布の長州藩屋敷に移します。
勤皇派繋がりで水戸藩浪士による坂下門外の変に、巻き込まれた後、藩命で京都に移動した小五郎は、朝廷や諸藩を相手に外交を行う立場となりました。岩倉具視や大久保利通と、活発に交流する傍ら、松陰が提唱した「航海雄略論」が採用されるよう、久坂玄瑞と共に藩へ働きかけます。

1862年(文久2年)薩摩藩の島津久光公が、勅使大原重徳を護衛する形で、江戸城に乗り込みます。いわゆる文久の改革ですが、朝廷の意向を無視して、開国した幕府に、より朝廷の方が上という意識づけをするための、デモンストレーションでもありました。勅書を平たく言うと、
1 将軍徳川家茂に上洛させること 
2 攘夷を実行すること
3 新たな役職への強制人事。徳川慶喜は将軍後見職。松平春嶽は大老相当職。松平容保は京都守護職、それぞれ任命。
1は小五郎・2は岩倉具視・3は久光公の進言を元に作成と言われています。

これを受ける幕府側は、近年日本中で災害や疫病が起こり、上から下まで、その対応と、黒船以降、開国の業務に追われ、忙しい時でした。
昨年は、日本海を南下したロシア艦隊によって、対馬の一部を占領されるポサドニック号事件が起き、島民は略奪と虐殺の被害に遭ったばかり。

外国との力の差から、対話すらままならない事を、幕府側も実感させられた後で、攘夷に対して積極的になるどころか、勅書は厄介でしかなく、でも朝廷の意向には従わざるを得ない事から、地味に恨みの種となったのです。

小五郎は松平春嶽(大老ではなく、政事総裁職)に攘夷を即す他、対馬藩の志士とも懇意になり、共に神戸の海軍伝習所を指揮する勝海舟の元も訪れました。

志士としての活動と同時進行で、この頃に、運命の女性、三本木という花街「吉田屋」にいた芸妓幾松(当時19歳)とも出会っています。
小五郎が彼女の存在を知った時は、身請け話が決まった後だったのですが、人のものになるなら、自分が欲しい!なのか、知って諦めるのではなく、幾松を落とすことに燃える♌。

通いこんでかなり金も使いましたが、最後は後輩の伊藤俊輔(後の伊藤博文)が、身請け相手の豪商を刀で脅し、身を引かせるという、逸話も残っています。

小五郎のイコールハウスに、幾松のホロスコープを重ねるシナストーリー




幾松のパーソナルデーターを記載します。

1843年11月22日(天保10年10月1日)小浜市(小浜城)
☀星座 ♏
☽星座 ♐ 12時設定ですので、±6度幅がありますが、新月生まれ。
早朝なら、☽♏です。

蠍座の☀から、♈の♇まで、単独のイコールハウスなら、すべて北半球に星が集まる幾松。機敏で器量よし。人気を博して経済を回せるのは、♏の☿☀と第2室に♐の☽♀、☊Rがバックヤードとして効いているからでしょうか。第4室♒に♂♆♃と、第5室の♅Rも、一役買っています。
ただし、♂♂♆♃は、一つ手前の第3室♑の♄との連なりから、子ども時代親子関係等で苦労する面高確率であり。

幾松の幼少期と芸妓時代については、諸説ありますが、父親は若狭小浜藩酒井忠義に仕えていた小浜藩士木崎市兵衛。母親は三方郡の医師細川益庵の娘末子と言われています。どちらも出身は現在の福井県。幾松の幼名は、計(かず)と斗(ます)説あり。(本編は幼名を計と表記)

実際、幾松は家事情が複雑で、出奔した父の消息を追い、母親と兄弟揃って幼い頃、京都に上京してきたそうです。故あって一条家諸太夫の次男といわれる難波恒次郎の養女となったことが、芸妓幾松を名乗るきっかけになりました。
難波の妻が元々三本木の芸妓で、初代「幾松」だったのです。

とにかく利発で、芸の覚えも良く器量よしな計は、目をかけられ14歳で三本木「吉田屋」から芸子デビュー。瞬く間に人気を博し、二代目「幾松」を襲名。
大店の亭主たちは笛と踊りが得意な彼女をひいきにし、山科にある豪家が彼女に貢ぎ、ついに身請けする時に、小五郎と出会ったのです。

シナストーリーですが、不動宮の☀と柔軟宮の☽カップル。
小五郎の♌☀と幾松の♐♀。これは恋愛度高いし、彼の好みの女性というのもわかるし、火の星座同士。小五郎の☀は、彼女の♇にも絡み、彼女の♀に彼の♇が絡むのを見ると、時代に翻弄されつつ生きることが伺えます。

さらに小五郎の♌☀と♒♅の先に、幾松の♆がヒット。♆は、物事ぼかす。恋愛には+要素もあるけど、契約ごとや結婚は、人によっては難易度上がるケースもあり、もたつくことが予想されます。彼女の♆は、♂と♃が挟んでいます。
自由好きだけどこだわる♒。さらに互いの♄は土星座同士で引き合い、こうと思ったら変えない変わらないタフさが、ここでも伺えます。

燃え合っている時は、情熱的な愛。燻れば腐れ縁の愛の両面を抱くシナストーリーと見ました。

1863年(文久3年)幕府には内密に、藩の公費で5人の留学生をイギリスに送り出す事を決定する長州藩。伊藤たちが旅立つ二日ほど前、小五郎や高杉晋作が止めるのも聞かず、久坂玄瑞率いる長州軍が、下関海峡を通過する外国船を無差別に攻撃する攘夷戦争を起こします。
さらに久坂は京都に移動して、破約攘夷活動を開始。これに刺激された急進派の公家も御所で暴れ、ついに八月十八の変勃発したのでした。
これによって過激な公家と長州藩士が、京都から追放される七卿落ちとなり、長州藩京都屋敷に、2,3人の留守居役を置く以外、長州藩の人間は、京都へ入ることを認められなくなりました。小五郎は潜伏活動を行いますが、幕府の検閲が厳しく、帰藩を余儀なくされます。

1864年(元治元年)様子を見ながら再び京都に戻ると、今度は新選組による池田屋事変。そして禁門の変と、大きな事変が続きました。
池田屋事変当日。予定時刻時間より早く、池田屋に着いたため、対馬藩邸に向かった説。池田屋から屋根伝いに逃げた説の二つがありますが、どちらにしても、桂小五郎は新選組と戦わずに、逃げのびています。

八月十八日の変と池田屋事変で多大な犠牲を出し、激怒する勤皇の志士たちですが、世間からも「勤皇の志士は危険」「長州藩危険」のレッテルを張られ、長州藩そのものが、日本の中で孤立してしまいました。
この状況を打開するため、久坂玄瑞をはじめ、志士たちは会津・桑名・薩摩藩を相手に、御所周辺に火をかけてしまったのです。おかげで長州藩が「朝敵」認定されたため、過激な事をしなくても、長州藩士というだけで、会津藩・新選組等から捕縛されるケースも起きました。

藩の要人である小五郎には、執拗な追手が迫ります。腕に覚えのある小五郎ですが、命がけで逃げ、洛内での潜伏活動を続けたことから、「逃げの小五郎」と言われますが、これを陰から支えたのが幾松でした。

新撰組の近藤勇を相手に、幾松が命がけで桂小五郎を庇って逃がす逸話もありますが、いろいろ資料を見ると、彼の逃亡を助けた女は他にも数人あり。
京都にいる事が危うく、但馬の木崎まで逃げた小五郎。一時は旅館の亭主に身をやつし、鳴りを潜めます。彼の居場所を知っているのは、一握りの協力者に、大村益次郎と伊藤博文。野村靖のみでした。

N♄にT♅のスクエア。土に風なので、ままならぬ不透明な厄災。N♅にT♇もスクエア。
 N♇にT♄オポジションもあるので、時間軸が重く、思う様に動けないのは伺えます。勢いだけで戦っても、多勢に無勢でリスクも高く、目立ちたがり屋の♌だけでなく、♍の☿♂♄の計算高さや♑の♆も機能したともいえます。

1865年(慶応元年)幕府の第一次長州征伐が始まると、長州藩内で主導権争いが起きました。ここで高杉晋作率いる正義派軍部が、功山寺挙兵に成功。
事なかれ主義の俗論派から、政権を奪います。
小五郎が長州藩に戻ったのは、第一次長州征伐と、第二次長州征伐の間でした。

この時、但馬の出石から萩城へ戻るまでの旅に、幾松が同行しています。彼の縁者だった幾松は、幕府の厳しい追及を逃れるため、一時対馬藩に匿ってもらいました。そこから但馬に移り、小五郎と再会したのでした。
二人で萩入りした後、小五郎の帰国を喜ぶ藩主から、「木戸」の苗字を賜ると、木戸孝允として、軍政改革と藩政改革に乗り出します。(以降、本編は、桂小五郎を木戸、木戸孝允と記載します)

土佐藩の坂本龍馬達の斡旋でしたが、西郷隆盛・大久保利通と薩長同盟を結ぶため奔走。この同盟によって、長州は薩摩藩を介し、イギリスから新式の武器や戦艦を購入することができました。

1866年(慶応2年)第二次長州征伐が始まり、長州藩が幕軍に囲まれる中、木戸は英仏両国の公使と、馬関で会談。二国は幕府への和議を進めます。
「幕府が仕掛けてきたことだから、幕府が停戦を求めてきたら考慮する」と、返答する木戸の言動に、イギリス公使パークスは、それ以上和議を進めませんでした。
これ以降、パークスと木戸は会談する間柄になります。

第14代徳川家茂の死去による停戦を求めて、宮島にきた勝海舟と交渉したのは木戸の代役の広沢真臣ですが、この時もパークスと話していたそうです。
 この時期から慶応4年(1868年)までの間、四侯会議で長州藩の「朝敵」赦免を取り付け、駆け足のように第15代将軍徳川慶喜による大政奉還まで、物事が進みます。慶喜による大政奉還は、予想外でしたが、倒幕よりも「討幕」に駒を進めるため、小御所会議を開き、王政復古の大号令が発令されました。

1868年(慶応4年)木戸孝允の☀年齢域と、♂年齢域が交差する年の正月早々、旧幕府軍対薩長土肥軍による、鳥羽伏見の戦いが起こります。1月25日木戸は新政府の総裁顧問を拝命し、明治新政府最初のかじ取りを任されたのです。
そしてこの年の夏。岩倉の草案を、木戸が監修する形で、江戸を「東京」と改め、天皇陛下が江戸で執務を取ることを宣言したのでした。

気心知れた三傑への思いを抱いて先に立つ ♂年齢域35歳~45歳

1868年~1877年 明治元年~明治10年

木戸孝允の明治政府での功績というと、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」から始まる五カ条の御誓文がまず出てきます。気難しくて周りからは怖がられる岩倉具視・大久保利通といった、癖のある人からも、安心感と信頼を買った木戸孝允。裁顧問だけでなく、外国事務係、参与というポストに就きました。

江戸時代は「鎖国」という限られた環境で、朝廷から政治と防衛の権限を任された「征夷大将軍」と幕府を中心に、各藩が国として成り立つ地方分権制度でした。日本中にある藩は、殿様を中心に侍が自国と「日本」全体を守る役目と税制も担っていたのです。
納税は米で、自分たちと農家との間に庄屋を儲け、毎年調整を図っていました。

征夷大将軍が権利をすべて、朝廷に返してスタートした明治時代は、天皇を中心として明治政府が幕府の代わりとなります。開国して西洋諸国と貿易を行うため、金が必要になり、国への納税も、「米」ではなく、現金に変えてゆく必要も生じました。
四民平等の国造りによって、これまでの身分制度がなくなる(=侍はいなくなる)に切り替わったことから、国防は全国民の義務になったのです。

税制も防衛もこれまでの「当たり前」を、根こそぎ変えるため、版籍奉還に廃藩置県も行われたのです。この版籍奉還までは、木戸と大久保は協力し合って、乗り切ることができました。

大村益次郎の提唱する「徴兵制」を支持し、伊藤博文・大隈重信・井上馨といった開化派を登用した木戸。急激な変化はよくないと、慎重論に回った大久保との間で意見が分かれ、1869年(明治2年)以降、そりが合わなくなっていきます。
どちらも一里あるし、どちらも頑固。木戸と大久保が動かないと、すべてに支障がでるため、当面の国防は薩長土藩による御親兵が組織されました。

プライベートでは、幾松を東京に呼び、1870年(明治3年)結婚します。
東京に新居を構えての新生活スタートですが、1871年(明治4年)。廃藩置県を行った後、欧州を歴訪する岩倉使節団の全権副使として、木戸孝允は約1年、日本を離れます。

二人の間柄は、木戸が他の女に手を出したとか、幾松も他の男と逢瀬をしたという話も散見しますが、占い的には、☀と♆がオポジションな二人。
情は絡むけど、どこかぐずつきやすい部分があるのですが、実際、じっくりと夫婦で向き合っていられる時間がなかったのもあったと思います。

幕末に結んだ平等条約の撤廃と、平等条約締結を目的とした初外遊でしたが、欧米との国力差を前に、まだ時期が早いと断念する結果となりました。国力差に驚いただけでなく、英仏の街を歩き、労働者階級の困難や、アヘン常習者のひどさ等も観察。ロシアの農村の困窮も見て回り、西洋文化の進んだ部分は認めつつ、西洋の資本主義に傾倒しすぎることに、疑問を抱きます。

日本は富国強兵に舵を切るのが最良の道。
使節団全体の意見が固まり、これを揺るがすことはありませんでした。
西郷隆盛を中心に、板垣退助・大隈重信といった留守番政府を預かった者たちの主張する征韓論。台湾出兵と激しくぶつかり、明治6年の政変を引き起こします。

明治政府を去ることを決意した、西郷や板垣たち共鳴する役人たちもいて、それぞれ故郷に帰ってゆき、それぞれの地域で政府に向けて「自由民権活動」や「乱」を起こしてゆきます。

そもそもの目的は、農民に負わせないための地租改正であり、特権を廃止された武士た
ちが、新しい暮らしにシフトしやすくするための秩禄処分であったはずが、どちらもそれぞれ真逆な形で施行されたことを知った木戸は、これに激しく怒り反発。
 1974年(明治7年)佐賀の乱が起きた時は、大久保の代わりに内務卿を引き受けますが、5月に台湾出兵が決まると、抗議の意を表して参議を辞任しました。

合わない所はあるけど、木戸の政治手腕は欲しい。る大久保利通と井上馨は、木戸孝允になんとか戻ってもらいたくて、1875年(明治8年)。大阪会議に招待します。
木戸は板垣退助を伴って参加し、立憲体制・三権分立・二院制会議の確立を条件に、板垣と共に復職をしましたが、民権派から文句を言われ、大久保から板垣を伴ったことを批判されてしまいます。

その様子があまりにもひどくて、傍らで見ていた福沢諭吉は、「無理して続けなくてもいいんじゃないか」という旨のアドバイスをしたのでした。木戸と福沢は、岩倉使節団帰国後に知り合い、篤しい付き合いをしていたのです。

1876年(明治9年)参議を辞任したものの、内閣顧問を仰せつかりました。この頃、かなり体調を崩してきていた木戸ですが、明治天皇の奥羽・函館巡幸に随行。
明治天皇に供奉して日光の東照宮や宝物を見学しています。町民から輪王寺の三仏堂の保存をしたいと懇願される記録を見ると、明治天皇の人柄はもちろん、木戸の人の話を丁寧に聞き、庶民の暮らしを大切にしたい姿勢が伺えます。

岩倉具視が困るくらい、明治天皇からの信認が厚い木戸。彼の体調への配慮もあってか、この年の秋、宮内省出仕となりました。明治天皇をはじめ、皇室の方々と関わる穏やかな時間は、約半年後で止まります。
1879年(明治10年)2月。西郷隆盛が西南戦争を起こしたのでした。

即、西郷軍征伐の任に当たりたいことを希望する木戸。
大久保利通も、親友への鎮撫役として自分が派遣されることを希望。
この大先輩の同時希望に、「待った」をかけたのが、幕末からこの時に至るまで、維新三傑の背を見てきた伊藤博文でした。

有栖川宮熾仁親王が鹿児島県逆徒征伐総督と決め、国軍が出動してゆきます。
拠点が大坂となるため、木戸は明治天皇と共に、京都へ出張して、この戦争を見守ることになりました。

長期化してゆく西南戦争。西郷のことを案じていた明治天皇が、気鬱になってゆくのをみた木戸は、騎馬による洛内散策に陛下を誘いました。馬に揺られながら、西郷との思い出がある地を、ゆっくりと散策しつつ、明治天皇と木戸孝允、二人で語り合う時間を作ったのです。
それも束の間で、春先に病が悪化した木戸は、遂に病床に就いてしまいました。(大腸がんによる肝臓転移)

木戸の屋敷を見舞う明治天皇を前に、自分からの力で、起き上がることができないほど容体が進んだ木戸は、介助をしてもらってなんとか体を起こし、感謝の意を述べたと言われています。
 その後5月26日。京都別邸において駆け付けた大久保利通の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」そう、言葉を残して木戸孝允は、この世を去りました。 
最後の最後まで、明治政府と西郷の両方を案じていたのでしょう。

享年45(満43歳没)は、あまりにも若すぎると思いますが、この後9月24日西郷隆盛が西南戦争で自刀しました。西郷は49歳。
翌年1878年(明治11年)5月14日。紀尾井坂付近の清水谷で、大久保利通が、複数名の不平士族に襲撃を受け、47歳で落命しています。

生前の大久保の言葉を引用するなら
>維新の精神を貫徹するには、30年の時が要る。それを借りに三分割すると、
明治元年から10年までの第一期は、戦乱が多い創業の時期であった。
明治11年から20年までの第二期は、内治を整えて、民産を興す建設の時期。
明治21年から30年までの第三期は、後進の賢者に道を譲り、発展を待つ時期<
その第一期で、明治三傑それぞれが、まるで時代の一部を持ち去るかの如く、鬼籍に入り、伊藤博文や井上馨たちが引き継いったのは、時代の妙かもしれません。 
新時代の政府の基礎、国の基礎に尽力を傾けた木戸孝允。
彼に会う人は、その良く聞く姿勢、話し方に惹かれたといいます。

是非、大河ドラマの主人公になってほしいと、書きながら思いました。