彼女が医師を目指したのは、身に起こったアクシデントがきっかけでした。女性が医師になるなどとんでもない。そう思われていた明治時代に、家族の反対もある中、ものすごく努力の末、女性が医師となる道を切り開いた荻野吟子。
洗礼を受けた後は、医療とクリスチャンとして、パートナーと共に北海道の開拓の道を歩みます。自分の意志で自分の生きる道を生きた吟子のホロスコープと、夫妻のシナストーリーを今回取り上げました。

ホロスコープ 1851年4月4日12時設定 現在の埼玉県熊谷市俵瀬町産まれ


☀星座 ♈ 13°45
☽星座 ♉ 10°41(±6°前後あり。♉は確定)

第1室 本人の部屋    ♈ ☀・☿・♄・♅・♇
第2室 金銭所有の部屋  ♉ ☽
第5室 嗜好の部屋    ♌ ☊
第7室 契約の部屋    ♎ ♃
第12室 溶解障害の部屋  ♓ ♀・♆・♂

一目瞭然ですが、東半球のバケット型ホロスコープ。
開拓精神旺盛の♈をバックに、本人の部屋にある☀・☿・♄・♅・♇が輝き、物覚えも良く、明るく活発でしっかり者な彼女にパワーを与えています。対岸にある♎の♃が、☀☿♄の効果をより拡張するので、自己主張と競争意欲も旺盛で、目的を持つと最大限努力する気質に力を貸すでしょう。アウトプットの仕方がうまければ、味方してくれる人も現れますが、社会的慣習との摩擦が起きることも多々あり、波乱を巻き起こします。
金運は♉&☽なので、ベースは悪くないものの、本人だけでは不安定。対人関係の良し悪しが左右するでしょう。さらに☽は第12室の♀・♆・♂とアスペクトをとっています。
自立心が弱いと何事かに浸ることも起こりえますが、♂が共にあるので、目先の実績を出すだけでなく、奉仕活動などにも意識が向く傾向があります。明るく活発でしっかり者。物覚えも良いでしょう。それだけに自己主張と競争意欲も旺盛で、目的を持つと最大限努力します。アウトプットの仕方がうまければ、味方してくれる人も現れますが、社会的慣習との摩擦が起きることも多々あり。

荻野吟子 略歴 (ウィキその他参照)

1851年4月4日(嘉永4年3月3日)武蔵国幡羅郡俵瀬村に住む名主荻野綾三郎、嘉与夫妻の末娘(五女)として誕生。
                名前は「ぎん」(現在の熊谷市俵瀬町)
1863年(文久3年)隣村にある大龍寺の寺子屋に通う。
1868年(慶応4年)武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主長男稲村貫一郎と結婚。
1870年(明治3年) 夫からうつされた病がもとで協議離婚。治療をうけるため大学東校に2年程入院。治療にあたった医師がすべて男性だったことがきっかけで女医を志す
1873年(明治6年) 国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。
1874年(明治7年) 甲府の内藤満寿子の私塾の教師となる。
1875年(明治8年) 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
          名前を「吟子」に改める。
1879年(明治12年) -首席で卒業。典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する私立医学校・好寿院に特別に入学。3年間で優秀な成績で修了。
東京府に医術開業試験願を提出したが、女性の受験は前例がないとの理由で却下。翌年も同様。埼玉県に提出しても結果だった
1884年(明治17年)9月 医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験。吟子のみ合格。
1885年(明治18年)3月 後期試験を受験し合格。女医を志して 15年が経過。父母は既に他界。5月湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。
1886年(明治19年) 診療所が手狭となり、下谷に移す。本郷教会で海老名弾正から洗礼を受ける。 キリスト教婦人矯風会に参加。
1887年(明治20年) 大日本婦人衛生会を設立。
1889年(明治22年) 明治女学校教師・校医となる。
1890年(明治23年) 議会の婦人傍聴禁止撤回運動に参加。志方之善と出会う。11月25日周囲の反対を押し切り志方と再婚する。
1894年(明治27年)夫と共に理想郷を作るために、北海道のインマヌエル開拓に入植。
1896年(明治29年)8月長万部村国縫に転居。夫の姪トミも同居することになり、養女に迎える。
1897年(明治30年)瀬棚町で診療所を開業、淑徳婦人会や日曜学校と言った活動も行う。
1903年(明治36年)京都の同志社へ再入学した之善は、相国寺に隣接する寄宿舎に移り、吟子は札幌へ一時転住。
1904年(明治37年)之善は同志社大学を卒業。北海道浦河教会に牧師として赴任。吟子は大病を患い、故郷熊谷の姉の下で療養。
1905年(明治38年)7月瀬棚に戻る。9月之善は病を患い死去。3年間瀬棚で診療を続け過ごす。
1908年(明治41年) 帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
1913年(大正2年)  肋膜炎にかかり、ついで脳溢血により逝去。満62歳。墓所は東京都の雑司ヶ谷霊園。

☽年齢域&水星年齢域(1851~1866年)0~15歳  歴史が変わる時、五人兄弟の末に生まれた黎明の子

ジョン万次郎がアメリカから日本に帰国した1851年(嘉永4年)。
春真っ盛りの4月4日。荻野吟子は利根川沿いにある武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬町)に住む、荻野綾三郎と嘉与夫妻の5番目の子ども(末娘)として、荻野吟子は生まれました。 生まれた時の名は「ぎん」。(本編は吟子及びフルネームで表記します)

代々に渡り苗字帯刀を許された荻野家は、村人たちの世話をしていた名主で、教育熱心な吟子の父親綾三郎は、家に講師を呼んで息子たちの学習の機会を与えます。
幼い頃の吟子は、講師が家に来ると、それまで遊んでいたのをやめて兄や姉の横に座り、熱心に勉強をしました。知的好奇心が旺盛で、物覚えの良い子だったのは、ホロスコープを観ても頷けるところですね。

吟子の☽年齢期(1851年~1858年)☿年齢期(1858年~1866年)は、嘉永4年~慶応2年に当たり、幕末維新の風が吹く時代ですが、家族の愛に育まれて、吟子は明るく賢い娘に成長してゆきました。

金星年齢域(1866~1876年)15~25歳 ショックな経験から開かれた自分の道

少女に転機が訪れたのは、1868年(慶応4年/明治元年)。
♀年齢域に入り間もない17歳。稲村貫一郎という男の元に嫁いでから起こります。
嫁ぎ先の稲村家は、代々古河藩領の領地上川上村を納める名主でした。時期が戊辰戦争と重なったことから、吟子が嫁いだ頃、古河藩士を父に持つ奥原晴湖(女流南画家)が仮寓していたのです。

夫の貫一郎はその豪農の長男で、聡明で地域発展にも欠かせない人物でした。この縁談は、周囲の羨望ともなった良家同士の婚姻だったのです。しかし、嫁いで間もなく、吟子は夫から淋病を移されてしまいました。熱と痛みは彼女を苦しめ、自由を奪います。
やむなく実家で療養することになる吟子。ペニシリンがまだみつかっていなかったこの時代、淋病も不治の病の一つとされていました。

これまで自由に活発に生きてきた少女の人生は、不慮の事故ともいえる発病で一転、痛みと恥で、人前に出ることができない生活に陥ります。かつて学問を教えてくれた医師松方万年は、病の里下がりに心を重くさせる吟子を案じ、自分の娘萩江を話し相手にと紹介したのでした。
萩江は漢文と和裁だけでなく、時代的にはまだ男性が主流だった茶道に花道を身に着けたハイスペック女子で、元が上昇志向の吟子とウマも合ったのでしょう。彼女と接しているうちに、先の見えない婚姻生活を続けることに疑問を持ち始めた吟子は、自分自身の実力と才能を伸ばして生きる事を模索します。

こうして結婚から2年後の1870年(明治3年)。自身の不徳から、新妻に病を映してしまった貫一郎は、吟子の意を組み、協議離婚が進みます。松方万年の勧めで、病を治すために西洋医学の治療を受けるため、吟子は大学東校付属病院に入院しました。
しかし、新たな人生のための入院でありながら、いざ治療開始となった時、男性に恥部を見せなければならない事に、吟子は大きなショックに見舞われます。
「医師」は男性しかいないし、これは治療のための処置と頭で理解しつつも、強い抵抗と屈辱感の日々に苛まれたのでした。
そんな吟子の視界に、同じような病気を患った女性たちが映ります。恥に耐えながら治療を受ける姿や、男性に診療されることを拒む故に、病が悪化して取り返しのつかない状態になる人もいる。これまで知らなかった世界を知った吟子は、女性たちのための「女医」になることを決意したのです。

19歳。女性としては厄年になりますが、2年前の結婚当時17歳の吟子の第12室。♓に年運の星♃が入り、契約運も上げますが、元々ここに♀と♆。ここに♂も持つ吟子。物事をはっきりしないと気が済まない気質と、正義感にリンクしますが、同時にジレンマの感じやすさ、病に悩む確率は高く、さらに翌年、♃は牡羊座にある彼女の五つ星を刺激し、♅のN♃と対。
数年前から♇が入った♉には、彼女の☽があります。長期的なモノごとの終始がテーマとなり、それが彼女の場合、闘病生活からの脱却だったのかもしれません。
離婚を決めた19歳。ここに揺さぶりをかけるように耕運の♃が拡張したことで、悲しくショックな事もあるけど、その分強い決意を彼女にもたらしたと読みました。(♃についてあえて耕運と記しています。)

目的を見つけたら、それを手にするまで猛然と進むのが、火の星座を持つ人の特徴の一つ。♈に太陽を宿す吟子もそうだったのでしょう。
医師になる道。まして西洋医学は、東京・長崎・千葉という限られた場所でしか学べず、競争率は高い。ただでさえ狭き門なのに、さらに吟子は女性。男性しか医師を目指さなかった時代、この夢は絶望的だったのです。
これまで家族から可愛がられ、何事も肯定的に見てもらえた吟子ですが、医師になりたいという一言に、猛反対を受けました。悩ましい状況を万年先生に相談した吟子は、医学を学ぶ前に、知識を深めることを決めて、故郷に戻ります。

儒学者寺門静軒が妻沼村に作った「両宣塾」に入門した吟子は、静軒の後を引き継いでいた松本万年の塾生となりました。萩江とも切磋琢磨する中で迎えた1873年(明治6年)。
岩倉使節団が帰国し、明治6年の政変が起こるこの年。吟子の父、荻野綾三郎が鬼籍に入りました。父の死後、吟子は再び上京し、皇漢医であり国学者の井上頼圀(よりくに)に、師事してゆきます。元が勉強のできる子だった吟子は、約半年ほどで他の塾生たちを抜く優秀さを見せました。
「井上先生の元には、容姿端麗で知的な女性の弟子がいる」学者の界隈で、こんな噂が流れ出し、吟子は注目を集め始めます。やがて女性教育者の内藤満寿子が訪れ、教授になってくれないかとスカウトに来ました。

学問を深めるのは「女医になる」ためという、明確な目的があった吟子は、これを断りますが、今度は師の頼圀から、後妻にと望まれてしまい困惑した結果、後輩の田中かく子と共に、甲府に移り、内藤塾で助教授として教鞭をとりました。
悪い環境ではないものの、望む夢と現実がかみ合わない日々。悶々とする吟子は、内藤の病気と萩江からの誘いが重なり、女性教員を育成する学校として開校する東京女子高等師範学校(現在、お茶の水女子大)で学ぶことを決めます。

1875年(明治8年)金星年齢域がそろそろ終わる24歳。
医術開業試験制度が開始されたこの年、東京女子高等師範学校第一期生として入学する吟子は、新しい時代を切り開くため、名前に力があった方がいいと、「ぎん」から「吟子」へ変えました。

太陽年齢域(1876~1886年)25~35歳 女人禁制の医学校へ通い、難攻不落な医師試験合格。免許ゲット

燦然と輝く太陽年齢域。1879年(明治12年)。東京女子高等師範学校を主席で卒業します。優秀な吟子の将来を気にした永井久一郎教授は、卒後の進路を尋ねました。
「女医になりたい」予想外の言葉に踊ら着ますが、覚悟の末で話す吟子に、永井は軍医監で子爵の石黒忠悳(ただのり)を紹介します。
女医の必要性に着目した石黒は、いくつかの医学校を紹介しますが、女人禁制が当たり前の医学校。ことごとく断る中で、唯一、宮内省侍医高階経徳が経営する私立の医学校好寿院が、彼女の入学を認めました。

場所は下谷練塀町(現在の秋葉原)にあったと言われる私立医学校・好寿院。当初は吟子だけでなく、数名の女性が試験に合格して通ったのです。開業するための試験が導入されて以来、医師を目指す学生の競争意識は激しくなりました。男同士でも熾烈な所に、女性徒が加わることへの寛容さはなく、いじめや嫌がらせもひどかったようです。
男子同様のはかま姿に高下駄姿。家庭教師で生計を立てつつ、艱難辛苦の3年間。困難や逆境での競走になれば燃える♈の☀を宿す吟子は、女性でただ一人残り、優秀な成績で好寿院を卒業しました。大変だったけど、吟子はこの家庭教師のバイトで、豪商高島嘉右衛門をはじめ、力強い支援者を得ていたのです。

そして同年1882年(明治15年)。東京府に医業開業試験を受験するため、願書を提出
しましたが、女性が受験した前例がないと、受験そのものを却下されました。
翌年も同じ理由で却下され、埼玉県にも願書を出しますが、こちらも却下されてしまいます。何故女性では受験ができないのか、内務省に請願書を出しますが、これも却下。
あまりにも八方塞がりの状況の吟子を見て、石黒忠悳は、内務省衛生局の局長長与専斎に掛け合い、同情した高島嘉右衛門は、吟子が長与と直接会えるように働きかけ、他にも吟子を支援する人々が動き出します。

こうして内務省衛生局の局長長与専斎から「優秀なら別に性別を問わず受けてもいい」という理解を得た吟子は、1884年(明治17年)9月。他の女性たちと共に、医業開業試験を受験できたのでした。この年T♃は♌にあり、♈に宿る吟子の♄♅♇と調和。吟子の持つ♎の♃をT♂が刺激。そして吟子の宿す♓の♂と♆を、♍の☀が照らしています。
努力の成果、勝負強さと成功が読める配置。
さらに1885年(明治18年)3月 。後期試験も合格した吟子は、日本公許女医第一号として、その名を刻みました。3月前半なら、太陽♓。吟子の12室に宿る♀♂♆に光が当たり、後半なら♈に☀が入るため運気は強まります。

幕末明治の西洋医学といえば、楠本イネがいました。吟子が猛勉をしていた頃、既に医師を生業にしていた彼女は、シーボルトの娘で、それなりの医療人脈を持っていましたので、医術開業試験の受験申込も、顔パスだったと思います。しかし彼女は、この時58歳という自身の年齢を考えて、これを見送りました。これも一つの人生の選択で、何の問題もない事ですが、時代的な視点で見ると、彼女が出てこなかったことで、医師としての後ろ盾のない環境で生まれ育った吟子が、突破口を開くことになったとも見えるのです。

女医を目指して15年。34歳にして、遂に湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業することができた吟子。合格から開業までの間に、母の嘉与が危篤となり、一度郷里へ帰っています。占星術的に吟子の太陽年齢域は、日本初女医となるための戦いの熱い時間であり、彼女の受験以降、日本人女性が、医師になるための試験を受けられる道が開かれました。

♂年齢域(1886~1896)35~45歳 洗礼、そして二度目の結婚

♂年齢域の出だしは、華々しく開業医としてスタートを切ります。
「女に務まるのか」と、当初は下馬評も飛びましたが、「産婦人科荻野医院」は、予想を裏切る繁盛ぶりを見せました。新聞や雑誌に、吟子が女医第一号となったことが掲載され、それが告知となって広まり、湯島に構えた診療所は、すぐ手狭になり、翌年には下谷に移転しました。

万難排し、理解者の支持も得て国家試験を受け、手にすることができた医師免許と、診療所「産婦人科荻野医院」は、吟子にとって念願の頂点です。やる気も出る日々ですが、診療を続ければ続けるほど、医師の力では及ばないものを感じ始めました。
当時は「健康保険制度」はまだなく、一般民衆のほとんどが、病気になると治療費をかけて医者にかかることはできず、民間療法や祈祷師を頼る状況だったのです。納税が江戸時代のようにお米ではなく、現金納入となった明治時代の社会制度によって、地方の農村や漁村に生じた貧困から、身売りが後を絶たない現実。吟子自身も苛まれた風習や因習から来る既成概念等、多くの女性を取り巻く環境は、決して良い状態ではなかったのです。

医療と世相の狭間に揺れた吟子は、診療所を下谷に移した1886年(明治19年)本郷教会で海老名弾正から洗礼を受けました。彼女がいつから医師の勉強をしていたのか、はっきりはしませんが、西洋医学の勉強をしている頃には、教会へ通っていた可能性はあったと思います。
元々、人のために役立ちたい気持ちが強く、何事かにはまりやすい気質を持っている吟子。洗礼後は、矢嶋楫子らが組織したキリスト教婦人矯風会の活動に参加しました。プロテスタント系のピューリタン禁酒運動婦人団体の流れをくむ矯風会は、禁酒運動だけでなく、廃娼運動、婦人参政権獲得といった活動を行っていて、身売りによる性病で苦しむ女性たちの救済を思う吟子のニーズに合っていたのです。

活動的な吟子は風俗部長を務め、翌年の1887年(明治20年)には、大日本夫人衛生会を設立。明治女学校で教師・校医も務め、女子教育にも力を入れました。根が活動的で純真な吟子の♂年齢域前半は、女医の仕事だけでなく、女性救済活動も活発に行いますが、広がる人脈が、数奇な出会いを吟子にもたらしました。
「北海道にキリスト教徒だけの理想郷を作りたい」という理想を語る青年志方之善は、新島襄から洗礼を受けた同社大の学生で、伝道のために上京してきたのです。

出会ってほんの数か月、互いに純粋な理想を語るうちに、すっかり意気投合した二人は、
1890年(明治23年)11月25日。周囲の反対を押し切り、結婚したのでした。
相手に悪意はなかったものの、慣例に従っての最初の結婚は、結果的に失敗だった経験を持つ吟子。女医という仕事や女性の救済活動に打ち込む「自分を理解してくれる人との結婚をするのが理想」と、経験上思っていたのかもしれません。
それにしても、吟子39歳。志方とは13歳の年の差婚。今の時代でも波風立ちそうですが、逆境に燃える♈座の吟子。仕事も恋愛も自分で勝ち取ったのです。

志方と吟子の「シナストーリー」

志方之善1864年8月4日熊本県生まれ 時間不明12時設定。
☀星座☽星座 ♌の☀と☽(夜の生まれなら、☽は♍)

ボールタイプのホロスコープをもつ志方。
♌に集中する☀♀☽☿は、吟子の♈の五つ星と調和。吟子の☀♃に志方の♄が重なり、♄同士も対。☽が微妙ですが、吟子の♄と調和なら、これ、タロットで言えば、ソードの6のような感じで、困難ある中での出発。年の差婚も頷けます。吟子の☽に志方の♂♇が重なっているのも、開拓的だし、吟子の☽が、志方の♏♃と☊とも対。
周囲の賛成反対はともかく、結婚する確率は高くなります。

理想の結婚から約半年の1891年(明治24年)5月。志を同じくする仲間と共に志方は、、北海道瀬棚今金へ入植。「神われらと共にいます」という意味のインマヌエルという地名をつけ、開拓をはじめました。いまでこそ広大な農地が広がる地域ですが、当時は全くの未開発地。春から夏はともかく、越冬が困難を極め、一度リタイアして翌年また現地入りしています。
吟子は医療と教会活動の日々を送りましたが、同年10月28日。日本史上最大の直下型地震と言われる濃尾大地震(現在の岐阜県本巣郡)が起こると、被災地の救済活動を始めます。この地震は、死傷者合わせて24,448人。揺れは阪神淡路大震災よりも強かったという記録が残っています。

震親を失ってしまった子どもたちも多く、吟子はクリスチャンの石井亮一と共に、孤児の救済活動に力を入れました。その為に診療所も開放。さらに「聖三孤女学院」という女の子の孤児院を建て、売春業者たちから女の子たちを守れる場所も作ったのです。
理想郷を作るため、北海道のインマヌエルで奮戦する夫の元に向かったのは、これらのことが落ち着いた後の1894年(明治27年)。

♂年齢域と♃年齢域が交差する1896年(明治29年)には、志方の姉の娘竹ノ谷トミを、養女として迎えることになりました。家族が増えて活気づきますが、開拓団が望みをかけた鉱山採掘も、進む気配がないまま、難航は続きます。

木星年齢域(1896~1906年)45~55歳 北海道開拓

入植直後は体調を崩す入植者たちのケアや、健康管理を担当しながら過ごしましたが、
インマヌエルを含む地域に、役所の監査が入ることになり、理想郷を作ろうとした土地から、離れることとなったのです。

1897年(明治30年)北海道南部の瀬棚町に拠点を移した吟子たち。牧師としてキリスト教の布教をはじめる志方の活動費と、自分たちの生活費を捻出するため、この地に「診療所」を開きました。そこには、かつての自分と同じように、夫から病気を移され悩む女性たちが訪れ、熱心に治療する吟子は、お金がないなら、野菜や魚と言った現物で診療代を受け取ることもしたそうです。淑徳婦人会や日曜学校といったキリスト教の活動も、並行して行いました。

同社大へ再入学することを決めた之善は、京都の寄宿舎に移ります。吟子はトミと共に札幌へ一時転住。婦人科と小児科を開業しました。外国人宣教師に日本語を教え、自身は英語を教えてもらう交換学習も行っていたようです。
大学を卒業した之善が牧師として戻ってきた1904年(明治37年)。これまでの無理がた
たったのか、大病を患ってしまった吟子。熊谷姉の家で療養生活を送ることになり、ようやく北海道に戻ると、今度は之善が病を患ってしまいます。

1905年(明治38年)9月23日志方之善は、瀬棚で亡くなりました。吟子はその後も 3年ほど、瀬棚で診療を続け過ごします。拡張がテーマな♃年齢域は、1906年(明治39年)で終了し、♄年齢域に入りますが、まさに北海道開拓編といっても差し支えない時間だと思います。

土星年齢域(1906~1913年)55~70歳 東京の下町に戻り開業

1908年(明治41年)東京の本所区新小梅町(現在の墨田区)に、程よい住まいを見つけた吟子はトミと共に離道しました。夫の死後、瀬棚で頑張りましたが、老いの自覚と、心配してくれる姉の言葉もあり、考えた末、東京へ戻ってきたのです。
この地でも医院を開業して、医師として診療を、クリスチャンとしての女性救済活動も続けました。生活拠点を大きく変えたこと以外は、実に穏やかな日常が進んだ♄年齢域ですが、1913年(大正2年)。境膜炎にかかり病床に伏した後、6月23日吟子は永眠しました。享年63歳。

「人その友のために、己の命を捨てる
これより大いなる愛はなし」ヨハネの福音書15章13節

吟子はこの聖句を愛唱していたそうです。
慣例に従っての結婚から病を患ってしまい、それがきっかけで、女医になることを決意した吟子。家族ですら反対する男性社会と風習という、見えない岩盤を切り崩した情熱と実行力は、♈の女性らしい生き方ともいえます。

さらに洗礼後は、覚醒したようにクリスチャンとして、医療と女性たちを救うための活動。13歳年下の夫と共に、理想郷を作るため、実際北海道へ赴いた行動力は、この聖句を体現した生き方ともいえます。
今回は一人の女性の生き方にスポットを当てたので、時事的な部分はスポイルしましたが、彼女の切り開いた道も、近代史を語る上で重要なものだと思います。