西郷隆盛の盟友。木戸孝允とも並ぶ明治の三傑の一人大久保利通。
国の制度を根幹から切り替え、新時代へと導いた明治時代の功労者で、立派な髭の写真や、郷里に立つ銅像を見るとスラっとしてカッコいいのです。しかし、西郷や木戸ほどは何故か目立たず、周囲からは「怖い人」言われる節もある大久保利通を、今回はピックアップ。

内閣制度がまだ発足する前、黎明期のリーダー的政治家である彼が、どんな星の元に生まれたのか、ホロスコープ&略歴から考察して見ましょう。

1830年9月26日(文政13年8月10日)のホロスコープ

薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町生まれ。


太陽星座 ♎ 2°30
月星座  ♑ 12°14

完ぺきではないけれど、ほぼシーソータイプのホロスコープ。
理性と感情のバランスを取る性質は十分。そこに♎の☀が独自の美意識を+α。
♑にある☽は♃と♆に挟まれ、12室にある♍の☊♀と調和。優しさと年長者に可愛がられる要素も備えていますが、こだわりが強くでると神経質な面が強調されそう。実利に沿った自分流の美意識や清廉潔白さも曲げません。
☀と同じく第1室にある☿は♆と緊張角度。頭の回転が速いだけでなく、ひらめきや思考を後押しします。

知的な趣味を好む傾向もあって、今の時代なら難易度の高いゲームを攻略するゲーマーになるかも。まじめは美点ですが、緻密で淡々とこなすスキのない仕事スタイルを、人にも求めてしまうと、まわりから煙たがられる傾向アリ。
☀に対して♓♂(水)と♈♇(火)が対。♇は始めと終わりがテーマですが、責任感・プライド・品格も守備範囲。リーダー的立場には立ちやすいでしょう。♑の♃☽と緊張角度も持っているので、自分の有利な方向に交渉を持ってゆく聡さも有しています。

♄とアスペクトを取るのは☿のみ。生活環境の変化は大きく、引っ越しや細かな移動の経験が起きやすいのと、思わぬ損失をこうむるかも傾向もあり。また♄が11室なので、能力は買われるし信頼されるけど、油断のない人、気安さがなく手恐い、という印象を持つ人も出てきそう。
素は優しい人ですが、言葉・見た目でちょっと損をしがちなのが難点です。

大久保利通略歴(ウィキその他、複数資料参照の上まとめています)

1830年9月26日(文政13年8月10日)薩摩藩士大久保利世と、妻福の長男として誕。
1844年(天保15年)元服。通称を正助(しょうすけ)、諱を利済。
1846年(弘化3年)記録所書役助として働き始める。
1850年(嘉永3年)お由羅騒動で謹慎処罰を受ける。
1853年(嘉永6年)島津斉彬が藩主となり復職。
1857年(安政4年)西郷と共に目付となる/精忠組結成/結婚
1858年(安政5年)斉彬死後、西郷に代わって精忠組を指揮する。
1860年(万延元年)御小納戸役に抜擢され藩政に関わる。
1862年(文久元年)島津久光から一蔵と名付けられる。
1865年(慶応元年)利通に改名。
1866年(慶応2年) 薩長同盟を結ぶ
1867年(慶応3年)明治天皇が即位/大政奉還
1868年(慶応4年・明治元年)鳥羽伏見の戦い/戊辰戦争の始まり
1869年(明治2年)版籍奉還
1871年(明治4年)廃藩置県・岩倉使節団の副使として欧米へ渡る
1873年(明治6年)征韓論で西郷と対立/内務卿に就任/地租改正法や徴兵令。
1877年(明治10年)西南戦争を指揮。
1878年(明治11年)5月14日 紀尾井坂の変で暗殺される。享年47才

いたずら小僧 人生の友と出会う少年期。☽年齢域&☿年齢域0~15歳。

琉球館附役を務める大久保利世と、その妻福の元に、利通は長男として生まれます。農村で暮らす郷士ではないものの、大久保家は城下でも下層藩士の身分で、裕福とは無縁の家でした。利通の幼名は正袈裟(しょうけさ)。尚、本編は彼の名を「大久保利通」及び「利通」で通します。少年期の記述は少ないのですが、利通の母は、蘭学に秀で西洋医術を習得した藩医の皆吉鳳徳の次女でした。

利通は祖父の鳳徳は利通を大変可愛がり、利通が月年齢期~水星年齢域にかかる頃、亡くなっています。おそらくですが、この頃加治屋町に引っ越し。三つ年上の西郷隆盛をはじめ、吉井友実、海江田信義等に出会っている可能性があります。
剣術はあまり得意でない反面、学問はぬきんでたものがありました。読書好きで頭の回転が速く、おしゃべりではないけど、討論は得意だったようです。

理知的で秀才なだけでなく、温泉で滝水を使った温度調整をいじって温泉客を驚かせるとか、いたずら小僧な一面もあった利通も☿年齢域が終わる1844年(天保15年)に元服。
通称を正助(しょうすけ)、諱を利済と改めます。

島津家のお家騒動に翻弄された金星年齢域(15~25)1845年~1855年 弘化2年~安政2年

1846年(弘化3年)。藩の事務方として働き始めます。ピカピカの金星年齢域を迎えた時期ですが、この頃の薩摩藩は、島津家27代目当主(薩摩藩10代目藩主)島津斉興の後継者の座を巡り、「お由羅騒動」と呼ばれたお家騒動が起きていました。
正妻VS妾の争いでもなく、当事者である斉彬と久光の争いでもありません。どこまでも嫡子・島津斉彬「側」VS側室の子・島津久光「側」の争いだったのです。

「蘭癖大名」の異名を持つ、島津家25代当主島津重豪が作った藩の借金を解消し、財政を立て直すため、薩摩藩天保改革を行ってきた斉興公は、重豪の英才教育を受け、海外に意識を向ける斉彬が快く思えませんでした。藩主に据えたら、財政を再び悪化させることを危惧し、側室お由羅の子久光に家督を譲る事を望んだのです。
一方で島津斉興に緊縮財政によって、中下級武士層の不満は増すばかり。これが能力主義の斉彬を推す原動力となり、当事者を置いて藩を二分したお家騒動は、斉彬派の藩士に処分が下る事態に発展します。

多くの藩士が切腹、遠島や謹慎となる中、大久保家も家禄停止。父は島流しに、利通は謹慎処分が降ります。西郷隆盛は困窮する大久保家を支援しながら、斉彬の藩主擁立のため、多くの下級武士と共に動きました。
この流れが西郷と利通を中心とした「精忠組」を形作ります。

筑前福岡藩主・黒田斉溥(斉興公の叔父)の元に、斉彬派の薩摩藩士たちが援助を求め、事態は老中首座である阿部正弘の耳にも届きました。
この頃日本の沿岸には、外国船の漂着・襲来事件が多発していて、対策に苦慮した幕府から見て、外海と縁のある薩摩藩主は、海外事情と時世に明るい斉彬が望ましかったのです。越前福井藩主・松平慶永や、伊予宇和島藩主・伊達宗城も動き出して、お家騒動はやっと沈静化。

1851年(嘉永4年)薩摩藩第11代藩主に斉彬が就任すると、罪に問われていた多くの藩士が処分を解かれ、利通も復職。島流しにされた父親も帰ってきて、大久保家は両親と利通。3人の妹の6人家族がそろいます。
これからの時代、徳川幕府存続のためには、強力な公武合体と開国が必要と主張する斉彬公は、薩摩藩内の改革を進めながら、徳川斉昭・徳川慶勝・松平慶永・伊達宗城・山内豊信と共に幕政にも関わりました。
1853年(嘉永6年)西郷隆盛は斉彬のお庭番となり、内命で京都や大阪等、行動半径を広げ、利通は御蔵役に昇格しました。

静かに燃える☀年齢域 25~35歳は幕末変革期薩長同盟への道 1855年~1865年 安政2年~慶応元年

第13代将軍徳川家定の元へ、島津家から篤姫を嫁がせた頃、☀年齢域を迎えた大久保利通は、ズバリ出世します。まずは1857年(安政4年)西郷と一緒に徒目付へと昇格。藩内だけでなく熊本なども一緒に回り、多くの志士と交流する中で、精忠組の中でも一目置かれる存在になりました。
この年の暮、利通は薩摩藩士早崎七郎右衛門の次女満寿子と結婚。妻の満寿子は記述も少なく、性格もよくわからないですが、1840年(天保11年)生まれの17歳(20歳説もあり)。彼女はともかく、20代早々、お由羅騒動で結婚期を逃していましたが、利通27歳。役職付きとなり、家禄が安定して家庭をもったのです。

翌年の1858年(安政5年)井伊直弼が大老に就任。第14代将軍は徳川家茂に決まり、日米修好通商条約調印に調印したことが、孝明天皇の逆鱗に触れました。
勤皇と佐幕に別れ、日本中が騒ぎ出す中、安政の大獄が始まると、一橋慶喜をはじめ、斉彬公にとって、気心知れた一橋派の大名たちに、謹慎処分が降りました。
第14代将軍の座を巡った争いに敗れただけでなく、井伊大老の強硬な言動に異を唱えるため、5000人を率いて斉彬公は上洛を計画します。しかし、そのための訓練を実施した時、急死してしまうのでした。

薩摩藩、そして江戸城にいる篤姫に激震が走ります。直系の子どもたちは既に夭折しているため、藩主は甥の忠義が継ぐことになりますが、幼いため、薩摩藩の実権は、父親の久光公が握ることになりました。
異母兄の斉彬公を慕っていた久光公は、遺志を継いで、兄の理想とする公武合体を自身の手で実現することを旨とします。しかし、先のお家騒動の影響から、久光公に対して拒絶反応を示す藩士も多く、西郷隆盛はその急先鋒でした。

曲折の末、まとまることなく、西郷は奄美大島に島流しとなったのです。遠島になった西郷の支援と精忠組をまとめる傍ら、利通は吉祥院の住職乗願と囲碁を打ち始めました。
久光公と揉めるよりも、自分たちの尊王攘夷活動に近づいてもらう方が、理に適っている。そう判断して殿様の囲碁相手のもとに通った利通は、短期間で大の囲碁好きを唸らせるほど腕を上げます。久光公が読みたがっている本を探し出し、そこに薩摩藩士たちの思いを伝えるメッセージを添えて渡すことにも成功。

亡き兄の描いていた公武合体を実現し、薩摩藩が幕府の中枢に入ることを望んだ久光公は、返事を返しただけでなく、利通の手腕を認めて取り立てました。
この辺りは見事ですが、☀と♇。☀と♂。♍の☊♀と♑にある♃☽♆。☿と♆が交渉上手な面とか、用意周到を、知的なゲーム好きな性格を、サポートしているのかもしれません。
殿様から信頼を得た利通は、「御小納戸役」に抜擢されて、薩摩藩の政治に直接関わりました。久光公の信頼を、一身に浴びて「大久保一蔵」の名を賜り、内命を受けて京都に赴きます。蟄居(謹慎)のため、洛外を離れて静かに住まう岩倉具視卿を訪ねました。
学の深さと知恵の岩倉(♏)単純で面倒見の良い久光公(♐)。♎に☀を持つ利通にとって、接していて心地よい相手だのかもしれません。
坂本龍馬や中岡慎太郎とも、ここで縁を持ったと言えます。この頃の久光公と利通、岩倉卿は、穏便に公武合体を進めたかったのです。和宮降嫁に一役二役買った岩倉卿は、むしろ過激な攘夷派が京都にやってきて、行動を起こすことを嫌っていました。

むしろ過激な攘夷派の暴徒を警戒し、これを抑えるように久光公に臨みます。
ここが好機とばかりに、薩摩藩士を束ねるには、西郷隆盛を本国に戻すことが必要と、利通は殿様に熱心に語り掛け、久光公はこれを承諾しで西郷を呼び戻しました。
久光公は、京都・江戸への上洛に伴うことを西郷に求めますが、久光公に不躾な態度を取った上、勝手に京都へ行ってしまったのです。

西郷が加わることで、尊王攘夷派の志士たちが暴動に走るのではないか。これを懸念した久光公は、利通を単身で京都へ向かわせました。京都寺田屋で、顔見知りの志士たちを相手に、何度か説得を試みた利通。しかし、自分たちにはこれしかない!と、情熱任せに京都の町に灯を放つ攘夷行動を正義とする仲間と、折り合いはつきません。
1862年(文久2年)。朝廷と幕府に三事策を求めた久光公が、兵を率いて入京したのが説得のタイムリミットとなり、利通は久光の命令を実行に移しました。

それが世に言う寺田屋事件です。薩摩藩士同志で斬り合った末、8人の犠牲者を出し、勝手な行動を取って久光公の逆鱗に触れた西郷は、徳之島に二度目の島流しとなりました。  
久光公をさらに恨む西郷。情を抑えて職務を優先した利通は、御小納戸頭取(今でいう私設秘書)に昇進し、久光公と共に江戸へ向かいます。

江戸城に着いた久光公は、幕臣たちを前に改革人事を告げます。
徳川慶喜は将軍後見職。松平慶永は政事総裁職。松平容保には、物騒になった京都を守護する京都守護職を新設して与える。
岩倉卿と利通が考えた筋書きでしたが、亡き兄の遺志を継いで、薩摩藩が幕府と朝廷の間を取り持つのが理想である。そう考えていた久光公から見ても、これは最良策でした。

慶喜をはじめ、みな感謝するだろうと思っていたのです。しかし、開国に災害・疫病等、実務対策に追われる幕臣たちにとって、迷惑な話でしかなく、慶喜もいい顔はしません。
勅使を同行しているため、無下にできず受け入れたのでした。
そこに気付かないまま、帰路に就く久光公。この気持ちのズレが、幕府と薩摩藩の亀裂を生む第一波となるのです。

帰路においては生麦事件が発生。(生麦事件に関しては、黒田清隆の回で書いています)
その後、補償を求めてきたイギリスを袖にした薩摩藩に、激怒したイギリスは、鹿児島の港に7艘の軍艦を送り込み、砲撃をしてきたのです。
1863年(文久3年)世に言う薩英戦争。大久保利通は作戦指揮官でした。イギリス艦隊の打つ大砲が、鹿児島の町を焼きましたが、薩摩藩も黙ってはいません。斉彬公の置き土産である大砲によって、イギリス艦隊に大打撃を与えます。結果、痛み分けの戦争によって多くの薩摩藩士の意識は、外国を打ち払う攘夷より、彼らのように近代化することで、対等の力を得る方にシフトチェンジ。

昨日の敵は今日の友とばかりにイギリスは、気骨のある薩摩を認めて、双方講和を結びます。財政再建後、黒字となっていた薩摩藩は、教育と技術の輸入を始め、富国強兵に乗り出しました。

1864年(元治元年)この頃京都は、過激な攘夷派がどんどん増え、幕臣側と一触即発の状況になります。これを抑え込むためには西郷隆盛が必要。
そう判断した利通は、再度、久光公を 説得して西郷を解き放ちます。
西郷も前ほどの無茶ぶりはせず、禁門の変では会津藩と共に、御所を警護する薩摩藩を指揮。長州藩を撃退。あまりにも過激すぎたため、朝廷と幕府双方から敵とみなされた長州藩は、討伐対象となってしまい、「第一次長州征伐」が起きました。

この時西郷は交渉役となり、単独で長州に乗り込み、長州を降伏させまます。
これで西郷の名は、日本中に一気に轟くのでした。
1865年(慶応元年)。太陽年齢期と火星年齢期が交差する年、利通は「大久保利通」と改名します。この頃は完全に、久光公の側用人となり、藩の中で絶大な立場に立ちました。
一方で長州藩と薩摩藩の志士たちの間では、交流が盛んになってきます。

公私共にアグレッシブな♂年齢域35~45歳 1865年~1875年 慶応元年~明治8年

慶応年間から始まる大久保の火星年齢域は、公私共に激動で鉄火な時代でした。
朝廷と幕府の公武合体で、欧米諸国の植民地化になることを避け、日本を守りつつ開国。
朝廷と幕府を守る双璧は、会津藩と薩摩藩という見解は、同じだったはずの徳川慶喜と久光公ですが、慶応年間はここが大きく崩れて、瓦解します。

1866年(慶応2年)。態度が思わしくない長州藩に対して、幕府は第二次長州征討を起します。反対意見もありましたが、前回の長州征伐で、朝廷と幕府双方の敵となった長州藩は、孤立しているので落とすのは容易。そう判断しての出兵でした。
しかし、薩摩藩は出兵拒否。二回目の長州征伐が始まる前に、土佐藩の坂本龍馬を仲介に、薩摩藩は西郷と小松帯刀。長州藩は桂小五郎(木戸孝允)が代表となって、密かに薩長同盟を締結していたのです。これには大久保は深く関与し、あれこれ知恵も出していますが、表に出ることはありませんでした。

薩摩藩の出兵拒否は、薩長同盟によるもので、事情は知らずとも慶喜と幕臣側の一部は、4年前の久光公による押し付け人事(幕臣目線)に着いた種火が燻り、薩摩藩の態度に疑いを持ちます。これが第2波。

第一次長州征伐から、たった一年半ほどで長州藩は、最新式の重火器で幕軍を迎え打ち、窮地に立たせる軍事藩として蘇生したのです。そこに大阪で指揮をしていた第14代将軍徳川家茂が、病死するという逆風が幕府に吹きました。
第二次長州征伐は、停戦となる中、慶喜の薩摩藩への不信がさらに顕著になります。

双方が物別れになるのが、1867年(慶応3年)に開かれた四侯会議でした。
・第二次長州征伐が停戦状態にあるため、長州の立場をどうするのか。
・諸外国と開港の約束を交わしたものの、孝明天皇の強い反対で進まなかった兵庫港開。孝明天皇の崩御を受けて、問題を迅速に進める必要がある。
大きくはこの二つのお題があり、国主導の会議にも見えますが、これは朝廷や幕府が開いた正式な会議ではなく、薩摩藩と土佐藩が音頭を取って、京都で開かれた諸侯会議です。
新将軍となった慶喜にとって、どちらも大きな課題ではありましたが、兵庫港開港問題は、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国と、慶喜は直接話し合っていて、朝廷から勅許が得られれば済む話でもあったのです。

それをじりじりと待たされている所に、不信感たっぷりの薩摩藩から、会議を持ち掛けられたのが慶喜の立場でした。
開国を進めつつ、幕府を救い、長州藩を救うには、求心力が落ちている幕府から、様々な権限を雄藩連合側へ移し、朝廷を中心の公武合体政治体制を取るのが最良。
その主導権を握る野望もありましたが、薩摩藩と土佐藩はそう考え、朝廷側は岩倉卿が動き、久光公を頂点に殿様から藩士一体で、四侯会議の準備を進めてきたのです。

薩摩藩への不信感を募らせていた慶喜は、兵庫開港の勅許を得るものの、大久保たちが進めてきた四侯会議を、短期で頓挫させました。それどころか、泥酔状態で久光公に絡み、二人の間に戻らないヒビ割も入れたのです。この経過が第3波だったのでしょう。
これを機に、大久保利通をはじめ薩摩藩は、武合体論から武力倒幕へと意識が変わりました。岩倉卿の協力の元、長州藩と連携し討幕の準備を進めます。

同年11月9日。誰もが予測しなかった大政奉還が起きました。
徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏を行ったので、「征夷大将軍」はなくなり、倒幕の必要はなかったのですが、事態は「徳川家を討つ=討幕」に代わっていたのです。
岩倉卿は、王政復古の大号令を発令させ、翌年1868年(慶応4年・明治元年)鳥羽伏見の戦いで、徳川家を朝敵とした戊辰戦争へと激化したのでした。
ケンカも戦争も、ある日突然起きるものではありません。
いろんな経過のズレや欲望、不理解。策略の果てに議会が機能せず、目に見えた武力戦は最終段階で起きてくるのです。

1868年10月23日東京を遷都して明治に改元。明治新政府がスタートします。
(1月1日に遡って新元号・明治を適用しています)
大久保利通は薩摩藩の代表として、政治の中枢に入りました。江戸時代の幕藩体制は、各藩が「国」でした。領民は藩に年義を納め、藩から幕府へと上納するため、教育も税制も国防も、基本は各藩任せの地方分権だったのです。

西洋諸国から植民地化されないため、新政府はこれを根こそぎ切り換え、教育・税制・国防を中央に集める中央集権国家にする必要がありました。とはいうものの、300年近く続いたシステムを、いきなり「捨てて」と言ったら暴動や内乱が起きやすく、これに乗じて他国が攻めてくる危険も上がります。できるだけ速やかに、穏やかに切り替えることを大久保利通と木戸孝允は考えた末、下地として行ったのが、版籍奉還でした。
まずは、各藩の殿様に県知事という立場とお給料で、留飲を下げてもらい、藩が所有していた土地(版)。そして人民(籍)を、すべて朝廷に返すという奉還は、後の廃藩置県を速やかに進める布石でもあったのです。

1871年(明治4年)廃藩置県によって、全国にある藩を撤廃し、明治政府による直接管理へと駒を進めた大久保利通は、大蔵卿に就任。木戸孝允や伊藤博文と共に、13年前に結んだ不平等条約の解消。これを求めて岩倉使節団として欧米へ旅立ちました。
しかし、欧州列強の発展ぶりと政治体系を目の当たりにし、各国の要人と会談する中で、現段階の日本に条約を覆す制度も、彼らを認めさせる力もないことを痛感。
まずはどこの国も認める国力をつけるための産業・金融・工業・教育・衛生等、様々な分野を発展させる事を学ぶ旅にシフトします。

留守政府を預かる西郷の元に、大久保からイギリスでビール工場を見学したこと等を書いた手紙が届きました。集合写真も添えていますが、岩倉卿を除く4人。大久保だけでなく全員洋装なのを見た西郷は、大久保には遠慮のない分、欧米に感化されていると、厳しい返事を返しています。
留守を預かる日本政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論が持ち上がりました。戦争ではなく、自分が説得に行く決意を固めた西郷隆盛が、はやる者たちを抑えて決定権を持つ岩倉使節団が帰国するのを待ちました。

1873年(明治6年)隣国と諍いを起こせば、これに乗じて清やロシアが攻めてくる危険が高いこと。今の日本は国力をつける時期で、そのためのプランを考えていた大久保と岩倉使節団は反対を唱え、ぶつかり合った結果、西郷や板垣退助たちを追い出す形になったのが明治6年の変です。
大久保は内務省を設立し、自ら内務卿となって、教育改革の学制。国民の直接納税システムの地租改正。徴兵令を進めました。
幕末期は殿様の背後で動いていた大久保ですが、明治に入ると、本人が直接、前面に出て国策を動かしてゆきます。「富国強兵」のための殖産興業政策も、その一つでした。

1874年(明治7年)。火星年齢域が仕上げにかかる年、佐賀の乱が起きます。
明治政府を去った者たちは、それぞれ故郷に戻り、後の地反乱や自由民権運動を起こし、明治政府を悩ませますが、佐賀の乱もその一つでした。
この時大久保は、自ら隊を引いて出兵。明治政府を利開いた仲間であった江藤新平らを、容赦なく鎮圧しています。台湾出兵後の交渉のため、清に出向くなど、かなりハードワークな中、妻の満寿子が子供を伴って上京してきました。

西郷を政府を追い出した。このことで地元は政府関係者の家族を冷遇。大久保家も肩身の狭い暮らしになり、東京へ住まいを移したのです。
当の西郷は、国に帰った当時、大久保や他の者に対して、個人的な怒りは見せなかったそうですが、その後、征韓論を反対した明治政府が、朝鮮王朝に対して強硬な条約を結んだことから怒り出したという節もあります。

いすれにせよ結婚から約16、7年。基本留守が多かった利通。手紙のやり取りが多い夫婦で、四男一女は妻がワンオペ育児。事情はどうあれ、やっと一緒に東京で暮らし始めました。忙しいのは変わらない大久保ですが、奥さんにも優しく、土曜日の夕食は必ず家族で食べる。それをとても楽しみにしていたそうです。
新しいものを好む大久保は、紅茶が気に入って、家庭でも良く飲み、客人にも振舞っていたとか、息子たちの将来を考えて留学させたり、末子である娘をたいそう可愛がり、出勤前には必ず抱っこしていたというエピソードが残っています。

仕事に対しては、一寸の狂いも許さない厳しさを持っていますが、子煩悩で優しい家庭人の面も備えているのも、大久保の魅力でしょう。

武士をなくす事を目指して進めてきた政策が恨みを買う♃年齢域45~55歳1875年~1878年明治8年~明治11年

1876年(明治9年)大久保が主導権を持つ明治政府は、秩禄処分と廃刀令を断行します。
秩禄処分とは、華族士族には一定の禄を支給していたのですが、これをお取り上げし、期限付きの上、わずかな利子しか受け取れない公債に替えたことです。無期限の政府支出を抑えるのと、華族士族の経済活動の活発化を狙ったものでした。
廃刀令は、軍人・警察と閣僚たちが、正式な式典で正装する時以外は、帯刀を禁じる内容です。

明治時代に入って、良くも悪くも江戸時代まであった決まり事を、少しずつ変えてきました。国民平準化いうことを意識した時代には、国防も国民がするため、「武士」は必要なく、士族だから刀を持つ。という理由がありません。
既に亡くなった坂本龍馬をはじめ、大久保や明治政府の中枢にいる者たちは、これを目指していたのです。しかし「徳川幕府から時代が変われば、自分たちはもっと良くなる」と、漠然と思って、勤皇側に着いた人たちは絶望が増し、各地の反乱、自由民権運動の燃料になったのでした。

1877年(明治10年)2月。ここに至るまでの背景にあり、激化した西南戦争が起きます。西郷も最初から指揮をしてよりも、暴徒化するのを抑えていた立場であろうと、彼の気質を知る大久保は思っていたのです。
戦況が進む中で、西郷が西南戦争の中心にいると知ると、愕然として彼を説得するために、鹿児島に行こうとするのを伊藤博文に止められました。
版籍奉還から廃刀令に至るまで、武士の特権と誇りをなくす法案を断行したのは「大久保利通」である。反乱軍をはじめ多くの人が認識し、政府への不満=大久保への恨みとなっていたのです。

行けば確実に殺されるため、伊藤をはじめ明治政府は、彼の鹿児島入りを止めました。(これは木戸孝允も同じ)
大久保は京都から指揮をし、政府軍として西南戦争に参戦した黒田清隆をはじめ、大山巌。西郷従道(隆盛の弟)といった西郷隆盛をよく知り、慕っていた者が、参戦してゆきます。彼らは二度と薩摩に帰ることない決意を固め前線に出ました。
明治三傑の一人木戸孝允が、明治天皇と西郷の事を案じつつ、この年の5月に亡くなります。
京都で戦況を見守っていた大久保の元に、西郷が自刃と西南戦争が終結を知らせる手紙が届いたのは、9月の後半でした。

1878年(明治11年)5月14日。西南戦争による精神的、経済的打撃を残す明治政府の中で仕事を続ける大久保は、福島県令の訪問を受けます。これからの10年は、内務生理と殖産の時期と話したその後、皇居に向かいました。
馬車で紀尾井坂付近の清水谷(現・東京都千代田区紀尾井町)に差し掛かった時、6人の不平士族の襲撃を受け、暗殺されてしまったのです。(享年47歳)

大久保を恨む者たちの中には、強硬政治の断行だけでなく、不要な土木事業や公共投資で無駄遣いや、私服を肥やしているうわさもありました。
しかし、彼が亡くなってから判明したのは、8000万(当時の換算で1億6千万くらい)の借金。
これは欧米の機械や技術の導入。東大農学部の前進である、駒場農学校の設立。岩崎弥太郎の三菱汽船への援助等に、私費を投入してできたものでした。

厳しい政策を進める傍ら、国のためになることは私費も投じる。実に清廉潔白な彼は、政治的断行はしましたが、お金はかなりクリーンだったのです。大久保をよく知る債権者たちは、遺族に返済を求めることはしませんでした。
彼の死は国葬をもって送り出されますが、薩摩の人たちの思いは複雑でした。西南戦争で西郷を失ってから、間もないのもあったのでしょう。

☀と♇。太陽と♂のオポジションが負けず嫌いの熱い部分も備えていますが、風星座のバランス感覚と公共性。実利的な感覚が「情」で動くより「理知」で動く大久保利通を支えた気がします。
いずれにしても、西郷を語る上でも、そして明治を語る上でも欠かすことのできない存在であり、今の時代の基を築いてくれた時代の恩人だと思います。