歴史を紐解くと、ペストやコレラ等の疫病が多くの人の命を奪い、治療方法と病原の撲滅のために戦った過去を見ます。日本でも疱瘡(天然痘)、「命定めの病」と呼ばれた麻疹をはじめとする病魔は、多くの人を苦しめました。
天然痘の治療として、牛痘苗の使用が広がったのは幕末の黎明期。率先して取り組んだ
のが、蘭学医であり教育者の緒方洪庵です。門人の一人福沢諭吉に「類まれなる高徳の君子」と呼ばれた人で、橋本佐内に大村益次郎をはじめ、洪庵が開いた大坂適塾から巣立つ者の多くは、様々な分野で近代日本を率いていきました。
今回は医学と人材育成力を注いだ時代の父、緒方洪庵の星回りと人生を見ます。
それではいつものように略歴とホロスコープからです。

緒方洪庵略歴 (ウィキその他資料参照)

1810年8月13日(文化7年7月14日)備中足守藩(現在の岡山市北部)藩士(瀬左衛門)の三男として誕生。母は石原光詮の娘・キョウ。幼名は騂之助(せいのすけ)
1825年(文政8年)元服した後、足守藩大坂蔵屋敷の留守居役となった父と共に大坂へ出る。(現・大阪市北区堂島3丁目)
1826年(文政9年)中天游の私塾「思々斎塾」に入門。4年間、蘭学と医学を学ぶ。緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とする。
1828年(文政11年)江戸へ出て坪井信道の塾へ入塾。
1830年(天保元年)坪井の師、宇田川玄真にも学び医学を深める。
1836年(天保7年)長崎へ遊学。この頃から洪庵と号した。
1838年(天保9年)大坂に戻り、津村東之町で医業を開業。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。(現・大阪市中央区瓦町3丁目)天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。後に6男7女を設ける。
1845年(弘化2年)過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入し適塾を移転。
1849年12月21日(嘉永2年11月7日)鍋島藩から出島の医師オットー・モーニッケが輸入した痘苗を得る。古手町に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。(現・大阪市中央区道修町4丁目)
1850年(嘉永3年)郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。
牛痘種痘法は、牛になる等の迷信が障害となる。
1858年6月5日(安政5年4月24日)幕府が牛痘種痘を公認。コレラ発生。
1860年(万延元年)除痘館を適塾南に移転。(現・大阪市中央区今橋3丁目)
1862年(文久2年) 健康上の理由から固辞するが、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦。年の暮れに「法眼」に叙せられる。1863年7月25日(文久3年6月11日)江戸の医学所頭取役宅で突然喀血。窒息により死去。享年54(数え年)。墓所は大阪市北区同心1丁目龍海寺、東京都文京区向丘2丁目高林寺。
1909年(明治42年)6月8日 贈従四位。

1810年8月13日(文化7年7月14日)05:30 現在の岡山市北部生まれ

ホロスコープ



一説によると卯の刻生まれということなので、朝5時~6時くらいを目安に時刻設定。
どこまでも一説なのでASC、MCは使用せず。

太陽星座 ♌ 19°23
月星座  ♑ 20°19

第1室 本人の部屋   ♌ ☿(23°12)
第2室 金銭所有の部屋 ♍  ♀(27°18) ☊(♎6°35R)
第3室 幼年期の部屋  ♎  ♅(♏10°26)
第4室 家庭の部屋   ♏  ♆(♐6°16R)♄(♐8°40R)
第5室 嗜好の部屋   ♐  ☽(♑20°19)
第6室 健康勤務の部屋 ♑  
第7室 契約の部屋   ♒
第8室 授受の部屋   ♓  ♇(16°32R)
第9室 精神の部屋   ♈
第10室 社会の部屋   ♉ ♃(29°01)
第11室 友人希望の部屋 ♊ 
第12室 障害溶解の部屋 ♋  ♂(♌2°06) ☀(♌19°23)

大らかな♌の☀は12室のギリギリ終わり。他の惑星とメジャーアスペを持たず。☿は1室で☀とコンジャンクション。
北半球(ホロスコープの下)に星が多く、南半球は8室の♇10室の♃・12室に♂☀。計四つの星があります。
彼はとてもバイタリティーのある人で、仕事熱心。活動的かつ温厚とされていますが、
♌の♂は♐の♆♄と火属性の調和。地道な♑をバックに5室の☽が、個人の財運と物事の巡りを司る第2室の♀と調和。♀は傍らにある☊と共にも穏やかな角度を取っていますので、彼の性格に一役買っていそうです。
そして☽は、癒しと浄化の♓を背景に持つ授受の部屋8室の♇とも緩やかに繋がり、♇と3室の♅とのつながりは、彼の思考と対人関係に+要素を与えています。
気になる4室の♄♆。ここは家族の部屋でもあるので、家族環境を見てみると、彼の父の佐伯瀬左衛門惟因は、備中国2万5千石木下家に使える下級武士ですが、藩の経済をはじめ訴訟に関わる仕事を担当する知識人でした。
母の名はキョウ。夫婦の間には、4人の子供が生まれましたが、長男は夭折。
次男の左馬之助が後継ぎとなり、和歌が得意な姉のキチは、後に吉備津神社神官に嫁いでいます。末っ子の洪庵は4番目に生まれの三男ですが、長男が亡くなっているため、次男となっています。
生まれつき体が弱く、8歳の頃疱瘡に罹患したこともありました。
健康な兄のように、将来に武芸に励んで士官することに難しさを感じた10代前半、長崎にシーボルトが来日したことから、蘭学や西洋医学のうわさ話が耳に入るようになります。
一方でコレラが流行り出し、親しかった近所の人や、身の回りで大勢の人が亡くなるのを観た少年洪庵は、医学の道を選択しました。
しかし父は洪庵にも兄のように武士として士官することを望み、彼の選んだ進路希望に大反対したのです。これらのことは、厳しい抑制とあいまいさが漂う♄♆のコンジャンクションも、大きく影響しているように見えます。しかし、この♄♆。
♉を背景にした10室の♃とオポジション。
♃は、1室の☿と凛としたつながりを持ち、2室の♀☊とは調和。12室♌の♂ともつながっています。♄♆はマイナス効果だけでなく、♃とつながることで医学での社会的貢献や、多くの若者たちを精神的に導く、塾長としての下支えになっていたと思えます。

少年は大志を抱いて、医術の道へ進む。

備中国賀陽郡及び、上房郡の一部(現在の岡山県)を領有した足守藩。藩主木下家に仕える父惟因は、江戸や大阪を仕事上行き来する忙しい身の上でした。洪庵も成長すると共に、父親の手伝いであちこち移動しています。
1825年(文政8年)元服して田上惟章(たがみこれあき)と名乗った年の秋、父の仕事のために大阪に赴くと、オランダ文化を学ぶ蘭学塾の一派である中天游の私塾「思々斎塾」へ入門しました。医学の他に国学や神道、蘭学にも造詣が深い中天游から、洪庵は幅広い分野の知識を得ることができた洪庵は、任期が終わり国に帰る父と、一旦は帰りますが、学問を続けたくて、大阪へ出ていってしまいます。
医師になることを反対していた父ですが、次男には学問をさせるために大阪に出したと、足守藩に報告。これが受理されているので、洪庵は脱藩扱いにならずに済みました。そして緒方三平(のちに判平と改める)と改名をしたのは、半ば家出同然で中天游に弟子入りしたことが、理由と思われます。
蘭学と医学に打ち込む洪庵を非常に愛でた師の中天游は、さらなる学びと技術を深めるために、江戸へ出ることを進めます。

弟子入りに必要な費用を作るために、旅先で医師に蘭学や西洋医学を教えながら江戸へ着いたのは、一年後の1831年(天保2年)。洪庵21歳の時です。
蘭医学坪井信道に師事しますが、♐の♄♆による試練なのか、♑の☽も効いているのか、大阪で学んでいた頃よりも生活は厳しく、按摩などのアルバイトで生計を立てながら、勉強するという環境でした。困難であっても地道に努力を重ねる洪庵に、坪井も支援の手を差し伸べ、さらには自身の師である蘭学の大家宇田川棒斎を紹介しています。(棒斎は杉田玄白の教え子で、蘭学事始にも出てくる有名人)
宇田川から薬学も学ぶようになった洪庵は、二人の師から信頼を得て、やがて翻訳をはじめとした病理学関係の編述を、頼まれるようになりました。
この頃手掛けた「病学通論」は、特に代表作といわれる3つの著作のうちの一つです。
さらにこれは面白い偶然で、洪庵が坪井信道に師事した頃、父も藩命で江戸詰めを命ぜられました。そして厳しくも充実の4年間を過ごし、坪井の塾で塾頭へと成長する頃、父は江戸詰めの任を解かれ、休息を与えられています。
1835年(天保6年)。一緒に故郷足守へ帰郷することになりますが、この時代ですから徒歩移動。旧暦の日付で2月20日に江戸を立ち、3月12日に足守に着いた記録が残っています。東京から岡山間を、20日程度で帰った計算になりますね。
しかし故郷に帰って間もなく、洪庵の元に中天游の訃報が届きます。

師中天游を慕っていた洪庵は、すぐに大阪へ向かいました。しばらくの間、天游の塾で蘭学を教える日々を送りますが、その翌年1836年(天保7年)。
天游の子である耕介と共に、長崎に向かいます。
長崎で2年間ほど蘭学を学んだこと。彼が「洪庵」と号したのは確かです(本編は洪庵で統一しています)が、出島のオランダ人医師ニーマンの下で医学を学んだ説と、シーボルト事件1828年(文政11年)の影響で、この頃の長崎にはオランダ人医師は来日していなかったという説が出てきます。ニーマン説が圧倒的に多く、この辺りはちょっと謎ですが、2年後 1838年(天保9年)の春。大阪に帰る頃から、緒方洪庵の運気が大きく動き出します。

西洋医学と蘭学塾の開花

大阪に戻った洪庵は、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業すると共に蘭学塾を開きました。
塾名は「適々斎塾」。洪庵は自身の号を適々斎としていますが、これは荘子が著した書物(太宗師篇)にある「人の適を適として、自らその適を適とせざる者」=人からどうのということではなく、自分の信じた道を進んでいく。という言葉から来ていて、塾名にこれを当てたのです。「適塾」は「適々斎塾」が正式名称になります。(本編も「適塾」を採用)

この年の3月。♓には一足先を進むT♀を追いかけるように、☀♂♅が7室の終わりで一塊になっているのですが、このTの♀と☀♂♅と隙間に、洪庵のN♇がすっぽり入っています。しかも対岸にある♍のT♃とはオポジション。そして、N☀☿と♇♒を進むT☿もオポジション。♉を進むT☽は、♏にあるN♅とこれまたオポジションと、洪庵の社会デビューを飾るような華やかな配置です。
蘭学医天游に学び、江戸では坪井信道とその師である宇田川棒斎に教えを請い、彼らから高く評価されている洪庵が開いた適塾は、世間からの注目を集めました。
さらにこの年、天游門下時代の先輩である億川百記の娘・八重と結婚。洪庵28歳、八重17歳。二人はやがて6男7女の計13人子供を設けますが、建物の1階を自分たちの住まいにし、二階を教室及び、塾生の生活の場として使います。
♏の終わりを♐に向かって進むT♄は、Nの♄♆との距離を縮め、やがてとも合になってゆきますが、拠点を設けて生活の根幹が変わる。薬学や医学面で新たに動き出すことが運命づけられているようにも見えますが、(♆、病理や化学にも関わる星です)この年、生活スタイルがガラリと変わりました。
勉強の習熟具合によって進級をさせる適塾は、学級分けを行い、常に切磋琢磨する環境だったようです。医学中心でしたが、5日~6日に一度の割合でテキストに書かれているオランダ語の解読を行ったり、会読という問答試験を取り入れ、蘭学の基礎教育も重視しました。
折しもモリソン号事件と、江戸幕府の鎖国政策を批判した高野長英と渡辺崋山らが捉えられ、処刑された蛮社の獄(ばんしゃのごく)が起こり、蘭学に対する風当たりが一層強まった時期ですが、将来を考えた洪庵は、臆することなく西洋医学を取り込んだ治療と蘭学塾を続けます。
5年後の1843年に天王寺屋という商家を購入し、適塾を移転。1868年(明治元年) 適塾閉鎖までの25年間に、教えを受けたいと願う人が後を絶つことがなく、およそ三千人の入門生があったそうです。

塾生の中には長州藩の志士久坂玄瑞の兄久坂玄機をはじめ、
橋本左内 思想家 安政の大獄により処刑。享年26歳。 越前国福井藩。
佐野常民  日本赤十字社初代総裁。伯爵。佐賀藩。
大村益次郎 村田良庵という名で入塾。医師であり軍師。日本近代陸軍を創設。長州藩。
福沢諭吉 蘭学者、著述家、啓蒙思想家、慶応義塾創設者 中津藩。
大鳥圭介 医師、蘭学者、軍事学者、工学者、教育者 播州赤穂出身で医師の息子。
高松凌雲  箱館戦争の際の蝦夷政府軍の病院長。筑後国(現・福岡県)出身庄屋の息子。
杉亨二  日本の統計学者、官僚、啓蒙思想家、法学博士。日本近代統計の祖。長崎出身
その他にも、各分野のスペシャリストがこの塾で学んだ後、明治以降の日本に貢献しています。
大日本帝国陸軍軍医で、お玉が池種痘所設立。漫画家の手塚治虫の曾祖父で、歴史漫画『陽だまりの樹』の主人公でもある手塚良仙も適塾の塾生でした。
1 人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、ただ己を捨てて人を救はんことを希ふべし。
8 病者の費用少なからんことを思ふべし。命を與ふとも、命を繋ぐの資を奪はば、亦何の益かあらん。

これは塾生たちに向けた塾の12か条。訓戒の第一条と第八条のですが、今風に言うと
1 医者がこの世に生きているのは、自分のためではなく、他人のためである。
私利私欲を捨てよ。有名になることなど考えてはならない。ただ人を救うことだけを考えよ。
8 診療代を高く取ってはならない。治療で命を救ったとしても、命をつなぐのに必要なお金を奪ってしまっては本末転倒ではないか。
となります。
洪庵自身が苦労人だったことと、包容力のある♌の☀。社会性を重んじる♑の☽。
♉の♃等の星々が、性格と相まって慈愛を深めているのか、患者一人一人にとって最良の処方を常に考え、西洋医学を極めようとする医師としては珍しく、洪庵は漢方にも力を注ぎました。

塾生たちの学習態度には厳格な姿勢で臨みますが、塾生を叱責する時は、決して声を荒らげることはなく、笑顔で教え諭したそうです。
「先生の微笑んだ時のほうが怖い」塾生からそう言わしめるほど、効き目があったようですが、この辺りは理詰めな♑の☽♍の♀が効いているかもしれません。
叱責された塾生へのフォローをしたのが、1822(文政5年)生まれの若き妻の八重でした。
父の億川百記は師の中天游と同様、自身の後輩であった洪庵の人柄と才能にほれ込んで、娘を嫁がせたのです。
電気もガスもない時代の育児と家事を続ける。当時は当たり前の環境でしたが、これだけでも大変だったのは、容易に推察できると思います。その上、夫は塾生に厳しい分、まだ幼い自分の子供たちに厳しく、何より自分よりも年長の塾生たちの世話がセット。
評価の高い適塾の塾生たちも、この頃はまだ血の気も多い若者で、洪庵に叱責されるものも多かったようです。紙漉き職人から医師への道を歩んだ父を持つ八重は、時に塾生をなだめつつ、時に教え諭すことも多かったそうです。
タロットカードなら、女教皇&ペンタクルのクィーンというところでしょうか。
福澤諭吉が腸チフスを患い、中津藩の大坂蔵屋敷で療養していましたが、洪庵は彼を手厚く看病し治癒しています。診察や教育活動など多忙を極める洪庵ですが、時として友人や門下生とともに花見や舟遊びを楽しみました。
この辺りはレジャー大好きな♌気質があると思いますし、♌には☿もある洪庵。古典への造詣の深さや、和歌を最も得意とし、歌会を好んだのは☿も一役買っていそうです。
適塾が近代の日本に必要な人材を育成し、また医師としての事業が成功したのは、洪庵の運勢もありますが、八重の宿す運勢と内助の功も十二分にあったと思います。

そして適塾は、明治早々一度解消しますが、培われた学びが大阪大学へと受け継がれてゆきます。

医療事業への貢献。天然痘(疱瘡)・コレラとの闘い。

天然痘は死亡率が非常に高く、助かっても顔に醜いかさぶたの跡が残る恐い病気でした。
当時のヨーロッパや中国は、予め弱小化した天然痘の種を人に植え付ける「人痘種痘法」を取り入れていました。一定の効果もありますが、人に直接天然痘の種を植えるため、そのまま天然痘にかかってしまい、助けられなくなることもあって、非常にリスキーな手法だったのです。
1796年。イギリスの医師ジェンナーが、牛を介して採取した天然痘の種を人に植えると、強い免疫ができる「牛痘種痘法」を発見すると、状況は変わり、治療方法として世界的な支持を得るようになりました。
日本にも関連する本や、種も入ってきましたが、種の保存方法が確立していなかったため、種を人から人へと、植え継いで絶やさないようにする必要があったのです。

この問題を解消するため、洪庵は適塾を塾長に任せると、佐賀藩が輸入した種を譲り受け、大阪に除痘館を開きました。郷里の足守藩からも要請があり、「足守除痘館」を開き切痘を施します。
この治療法に飛びついた医師もいましたが、それは一時的で、「害ばかりで益がない」と言って離れ出す者も出てきたり、巷には「種痘をやると牛になる」と、根も葉もない迷信が流布され、立ち消えそうになりました。
天然痘による死亡者を減らすため、洪庵をはじめ研究者たちは、正しい内容を書いたチラシによる啓もう活動だけでなく、患者から治療費を取らずに実験台となってもらい、努めたそうです。関東から九州までの186箇所の分苗所を維持しながら、根気強く種痘治療を定着させてゆくと、今度はもぐりの牛痘種痘法者が現れる事態もでてきました。

地道な活動を続けて、罹患者の減少という結果も出てきたことから、安政の大獄に揺れ
る1858年(安政5年)。幕府は牛痘種痘を公認しました。免許制になったことで、種痘があらぬ金儲けに利用されたり、医者では無い人間に悪用されることを規制できるようになったのです。
最初の官許は大阪除痘館に降りました。天然痘で亡くなる人も減り始め、やれやれとい
うところに、長崎でコレラが発生します。
罹ればなすすべもなく人が亡くなるので、「コロリ」とも呼ばれたコレラは、洪庵が少年の頃に西日本で流行した病でした。
コレラに関しては、この時代より先の1928年。イギリスのフレミングによってペニシリンが発見されるまで、どこの国も苦心していています。二回目の発生を起こした日本は、大阪や江戸まで広まり、大変な猛威をふるいました。
洪庵の訳書「扶氏経験遺訓」にもコレラの記述があり、当時の医者たちはこれも参考にしましたが、長崎に来たオランダ人医師ポンペの治療法と記述内容が違っていたので相当に戸惑ったそうです。
マラリア用の薬である「キニーネ」を使うと効果があると、オランダ人医師のポンぺが言ったことから、「キニーネ」を採用する医師も多かったのですが、こ国内では取れない物質を輸入するため、全く間に合わないという事態に陥ってしまいました。
見かねた洪庵は、西洋の医書を参考に『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を、短期間で書き上げて出版し、医師らに100冊を無料配布しています。
急いで書き上げられたこともあって、内容に対して批判する者もいたようです。
昼はコレラの患者を診て、夜は寝る間を惜しんで執筆活動に勤しんだことから、元が丈夫ではない洪庵は、体調を崩し、しばらく診療ができなくなったと言われています。

1860年(万延元年) 英語の必要性を察知した適塾は、門人の箕作秋坪から、高価な英蘭辞書二冊を購入。洪庵自身も含めて英語学習を開始してゆきます。
そして洪庵の業績を認めた江戸幕府は、将軍とその家族を診察する「奥医師」と、西洋医学所頭取としてのリクルートを始めました。
蘭方医であり奥医師の伊東玄朴らの推挙があってのことですが、足守藩木下候の侍でありつつ、大阪で町医者をしていた自由人洪庵にとって、この誘いは魅力を感じなかったのでしょう。健康上の理由もあり、出仕要請を一度固辞します。
度重なる幕府の要請に折れ、江戸に出仕することになりました。

再び江戸へ。若き将軍夫妻の典医となる

1862年(文久2年)。長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな。」という歌を残した洪庵。
歩兵屯所付医師の選出も命じられたことから、手塚良仙をはじめ7名ほど推薦。自身は、将軍徳川家茂の侍医となり「法眼」に叙せられています。
当時の医師としては、最高位に座ったのです。富と名声を手にしました。
基本的に洪庵は人付き合いのうまい方で、社交的な面もあったのです。蘭学者をはじめ全国の医学者、漢学者や萩原弘道などの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと幅広い付き合いは、すべて着の身着のままでの交際。彼の土俵の上で行われてきました。
将軍家に使える生活は、これまでと世界が違ったのです。将軍の前に出ても礼を失しない衣服や道具を新調し、身分に相応しい家来を雇わなければなりません。
地位が高い分に応じた出費に無駄を感じた洪庵は、息子へあてた手紙にこのことで愚痴をこぼしています。
蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じてピストルを購入したという記述もありましたが、江戸での生活を自分の土俵とする前に、ストレスが健康と精神を蝕む方が速かったようです。
1863年7月25日(文久3年6月11日)。
その日はあまりにも唐突にきました。
昼寝から目覚めた後、突然の喀血で緒方洪庵は窒息死してしまったのです。
場所は江戸の役宅。享年54歳でした。
疫病立ち向かって多くの人の命を救い、将軍家に使えることができた人の人生としては、
あまりにも急で、あっけなかったのです。
ほんの数日前、顔を見ていた福沢諭吉は「二、三日前に先生のところへ行ってちゃんと様子を知っているのに急病とは何事」(『福翁自伝』)と嘆きました。洪庵の友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸が火災の時に、和宮の避難に同行して炎天下に長時間いたことを、急死の原因とみていますが、真相は謎のままです。

洪庵亡き後、適塾は1868年(明治元年) に幕を閉じるまで、塾生たちに守られました。未亡人となった八重は、明治元(1868)年に大阪に戻り、元種痘所で暮らします。
結婚当初、名塩の里(兵庫県西宮市)にある実家から仕送りがあると、夫の事業にそれを用
立てることもしていた八重は、洪庵がこの世を去った後、子供たちの養育に力を尽くしました。それに応えるように、息子たちは幕府留学生として、ロシア・オランダ・フランスへと旅立ちます。
適塾時代と無謀人となった後。どちらにしても全く苦がなかったとは思いませんが、夫
婦双方の実家同士が仲が良く、元塾生たちは大阪に来ると顔を見せに立ち寄って、成長した洪庵の子どもたちとも、懐かしく語り合いました。
1886年(明治19年)65歳で八重は亡くなりますが、門下生から明治政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が2000人ほど、葬儀に参列しています。
彼女の生き方には派手さもないし、今時な感覚ではないけれど、親や夫に言われること
にただ我慢して従ったわけでもなく、凛として生きたからこそ、生前の洪庵が慕われたように、実に多くの人から慕われたのでしょう。

緒方洪庵が種痘を広めてくれたことを土台に、福沢諭吉や北里柴三郎。野口英世といった医師たちが近代医療を確立して,それが現代につながっているのを見ると、歴史って深いし、これも一つの大きな財産に思えてきます。