10月も終わりに近づいた、ある晴れた日。
ゆっくり弧を描きながら、空を泳ぐように飛んでいる鳥を見ながらつらつら思った。
「そうか~。もう11番目の月が巡ってきたのね」と。
すると年初めの頃に立てた計画や目標が、電光掲示板のように頭の中に思い出されてくる。
11月を迎える頃には“ここまできていないとマズイ”事や、 “すでに終わっていないと困る”、“かたづけ終わっていて当然”であるべき諸々のこと。
困った、困った。n
かなり、大幅に遅れを取っている。
でも、心の中のどこかでは、うっすらと思っている。
「まだ11月だから大丈夫。12月がある。それにイザとなれば・・・」と。

これは、まるで小学校時代の夏休みの終わりを再現するような話だ。
大胆不敵にも夏の間中、毎日メイッパイ遊び、8月29日の日めくりを見た途端に血相を変えて宿題の山に突撃開始。
ドリル・宿題帳・読書感想文・作文・絵日記・課題の押し花など等、一心不乱に取り組み始める。
ドリルは最終ページに答えが書いてあるので写せば◎と思っていたものの、答えの部分は渡される時点で切り取られていた事に気が付き、押し花は短期間では絶対に無理な代物だと悟る。
さらに絵日記に至っては絵の部分は海で遊んだ、川に行った、花火を見た、スイカを食べたと、スイスイ絵を描けば終了と踏んでいたものの、日付以外に当日のお天気と気温を書き込むようになっている事に驚く!
刻々と進む時の残酷さに焦りが出てくる8月29日深夜。

この時点で出来ている事と言えば計算と国語のドリル、夏休み帳の半分。
そして、にわか押し花。
ただし29日の時点では、まだ電話帳(昔のは分厚かった)の下で半分生の状態。
感想文は、まず本を読むところからスタートしなくてはいけないので到底間に合わないと感じ、小さい頃の愛読書だったナイチンゲールの絵本を必死で思い出して涙ながらに綴る。
もはやこのあたりで涙ぐましいシーンになっているが、翌日は更に大変な展開となる。

布団や電話帳に挟んだ押し花を恐る恐る見ると、到底新学期の提出には無理そう。
やはり、どう考えても絶対に間に合わないのが押し花である事には間違いない。
そこで私は小さな知恵を絞って考えた。
そうだ!アイロンをかけてみよう!と。  )^o^(
この苦肉の策は、後で担任の先生によって見破られることになるものの、あまりにも冴えたアイディアだったので御用にならずに無罪放免となった。
ヤレヤレ・・・。

さて、ついに31日の朝を迎え、小さな知恵は藁にもすがるおもいで更に研ぎ澄まされる。
「そうだ!おばあちゃんは毎日欠かさずに日記を書いている」お天気と温度も書いているかも?
その閃きと共に、おばあちゃんは一日中孫の宿題の片棒を担がされるはめになったのだった。
(実は祖母は絵の名人。ひまわりや海の波やらスイカの種まで細かく書き込み、完成した時には素晴らしい絵になっていました)

土壇場でのパワーの凄さ。
これは「イザという時には」と、人に言わしめる根拠の無い自信のひとつだ。
本当にどこからやってくるのだろうか。
これは仮説だが、ピンチに際しての緊急避難方法を体内時計は知っている。
そして私の幼児体験は、身体の中にしまわれている時計がまだまだ覚えているらしい。

しかし、だからといって毎回このパターンではいけない。
まだ湿っている押し花やにわか絵日記、絵本で読んだナイチンゲールの感想文を想いだすだけで恥ずかしい。
だから「イザと根拠の無い自信」の関連は心の中に封印しつつ、こんにちを迎えたはずだが・・・。

またもや、スイッチON?
危ない、危ない・・・と思っている。
もはや宿題を手伝ってくれるおばあちゃんもいないことだし・・。
ここは何としてでも、11月は今までの分を取り戻す頑張りをみせなくてはね。

ところで、ふと思ったことがひとつ。
みなさんは神様にお願い派? それともありがとう派? かしら。
私の場合はいつも「ありがとうございます」
何かある前にお願いするのではなく、何かあってからそのアクシデントが小さく済んでいることや、例え大騒ぎになったとしても何とか、収まるべきところに収まっていることへの「ありがとう」です。
先日近所の神社を訪れたとき、このページを読んでくださっている人たちは、どちら派かなぁ・・・と思ったので書いてみました。

11月は一年の中で最もセンチメンタルな季節。
芸術に親しみ、月を眺め、読書を楽しみ、自分の心の中をじっとのぞきこんでみてね。今まで、まだ見つけていない芽の存在を感じることがありそうよ。

       エミール



この夏もらったうれしい贈り物。ベランダの鉢植えに黄色い花が咲いていました。なんとインゲン。美味しくいただきました。種を運んでくれた鳥さん、ありがとう。