お札シリーズ新札編。今回は5000円札の津田梅子です。
津田塾大学の創設者であり、近代女子教育に貢献した人物であるのは周知だと思います。日本人女性初留学生としても認知されている人で、集められた5人の少女たちの中で、
最年少の6歳。大山捨松の回でも少しだけ津田梅子に触れましたが生涯の親友でした。

アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を歴訪するため、1871年12月23日(明治4年11月12日)に横浜港を出港し、1873年9月13日(明治6年)に帰国した岩倉使節団。
日本の近代化のために海外で、様々なことを学ぶこの一行は、岩倉具視を頂点に伊藤博文・木戸孝允・福沢諭吉・大久保利通といった明治時代の中核を担う政府首脳陣と、留学生を含む総勢107名。留学生の中には武者小路実篤の父、武者小路実世もいたりしますが、青年とおっさんばかりの集団に、アメリカへ留学する5人の少女も乗船したのでした。風習も言語も違う異国で何年も学ぶために、年端のいかぬ娘たちが5人。親元を離れ、沈没する危険も含む長い船旅をしたのですから、今時の留学とは全然違うすごい話です。
アメリカに着いた後、2人は環境の違いになじめず、ホームシックなどで帰国。
山川捨松(大山捨松)と永井繁子(瓜生繁子)。梅子の三人は異文化の中で勉学に励み始めます。
今でいうなら帰国子女な経歴の持ち主、津田梅子。
どんな運気と気持ちの持ち主なのか見てゆきたいと思います。
いつのように略歴(ウィキ。その他参照)。そしてホロスコープです。

1864年12月31日(元治元年12月3日)津田仙・初子夫妻の次女として江戸で生まれる。幼名うめ「むめ」
1871年12月23日(明治4年11月12日)岩倉使節団と共にアメリカへ向かう。満6歳。日本弁務館書記チャールズ・ランマン家(ジョージタウン)で暮らし、コレジエト・インスティチュートへ通う。
1873年(明治6年)キリスト教に目覚め、特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。国にいる家族あての手紙も英文になる。
1878年(明治11年)コレジエト校を卒業。私立の女学校アーチャー・インスティチュートへ進学。
ラテン語とフランス語等の語学と自然科学や心理学、芸術も習得。
1882年(明治15年)帰国。高い教育を受けてきたスペックの受け皿がないこと。
日本語や風習を忘れたギャップに悩み、
儒学の価値観が色濃い日本の女子教育に落胆。
1883年(明治16年)伊藤博文から桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。
下田から日本語を習い、自身は桃夭女塾の英語教師として
教鞭をとる。
1885年(明治18年)学習院女学部から独立した華族女学校(現在の学習院女子中・
高等科)の英語教師となる。
1889年(明治22年)再度留学のため渡米。生物学の研究に打ち込む。3年の留学期間中に、
    日本人女性留学のための奨学金設立を発起。
アメリカ、することになります。公演や募金活動などを行う。
1892年(明治25年)帰国。再び華族女学校で教鞭をとる。
1894年(明治27年)明治女子学院でも講師を務める。
1898年(明治31年)万国婦人連合大会デンバー会議に「日本の女性代表」として出席し、
スピーチをする。
ヘレンケラー訪問とナイチンゲールとの会見。
1900年(明治33年)官職。念願の女子英学塾(後の津田塾大学)を創立。
1919年(大正8年)現役を引退。転地療養を始める。
1929年(昭和4年)脳出血のため他界 享年 64歳。

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ホロスコープ


第1室 本人の部屋    牡羊座 ♇(♉11°25)
第2室 金銭所有の部屋  牡牛座 ♂(♊19°53)
第3室 幼年期の部屋   双子座 ♅(26°55)
第4室 家庭の部屋    蟹座  
第5室 嗜好の部屋    獅子座 
第6室 健康勤務の部屋  乙女座
第7室 契約の部屋    天秤座 ♄(29°02)☊(♏7°10)
第8室 生と死の部屋   蠍座  ♃(♐15°14)
第9室 精神の部屋    射手座 ☀(♑9°46)
第10室 社会の部屋   山羊座 ☿(25°14)
第11室 友人希望の部屋 水瓶座 ☽(9°27)♀(19°53)
第12室 障害溶解の部屋 魚座  ♆(♈5°36)


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コツコツとしかもガッチリと目標に向かって努力する山羊座の☀(第9室精神の部屋)と☿(第10室社会の部屋)。語学や教養に抜きんでる要素になりますね。
周りから見る本人イメージ(第1室本人の部屋)は、穏やかさ大好きなお牛座ですが、♇なので自覚無自覚問わず、「目立つ」「硬い」「ちょっと怖いかも」がセットされ気味。
♇は対岸の蠍座☊(第7室 契約の部屋)と対なので、引っ張られるよりは引っ張る側に立ちやすく、結ぶ縁は深くなる可能性を持っています。
実際、津田梅子に関する資料を見ていると、地道・まじめなコンサバ女性がイメージされます。それはもちろんその通りなんですが、お牛座効果なのか、どこかかわいいし、趣味はラグジュアリー。
☿は双子座の♂(第2室金銭所有の部屋)と調和し、部屋は分かれますが、♅(第3室幼年期の部屋)にもあり。♅は、天秤座の♄(第7室契約の部屋)と、水瓶座の♀(第11室友人希望の部屋)と調和。しかも☽も同じく水瓶座(9度なので、前後見ても月は水瓶座)。
牡羊座の♆(12室 障害溶解の部屋)が、調和なので音楽や芸術への感覚を持たせている感アリ。これらの星々が、独特の個性を放つ性質と、実はお転婆でおしゃべり好きな面も潜ませています。
そして☽や♀とハーモニーを奏でる射手座の♃(第8室生と死の部屋)。
これが苦心もするけれど、めぐり合わせと授受の良さをサポートする人生の要になっています。


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武士の娘からアメリカンでアッパーミドル女子へと進化

幼い娘の留学を決めたのは実の父津田仙でした。後に青山学院創設に携わり、日本の三大クリスチャンとなる仙ですが、開港派の佐倉藩主堀田正睦の家臣でした。
旧姓は小島。藩命でオランダ語と英語の他、洋学や砲術も学んでいましたが、1861年(文久3年)その語学力を買われ、徳川御三卿の一つ田安家に仕える津田家に婿養子に入りします。
外国奉行の通訳に抜擢された後、幕府発注の軍艦引取り交渉でアメリカへ派遣される小野勇五郎の通訳として、1867年(慶応3年)。福澤諭吉、尺振八と共に通訳として随行し、一足早くアメリカを見てきたのでした。
旧幕臣なので明治時代には前職を失いますが、語学力があるので築地ホテルで通訳をはじめます。ホテルに勤めだすと、西洋人の口に合う西洋野菜が著しく少ないことに気づき、西洋野菜の農業を展開。これが北海道開拓使という職に結びつき、北海道開拓使の実権を握っていた黒田清隆(薩摩藩出身)との縁をもたらします。
黒田は日本の女子を欧米へ留学させ、女子教育に力を注ぐよう政府に働きかけていた人物でもありました。岩倉使節団に女子も留学生として随行させる企画が生まれ、黒田との縁もあって、梅子を応募させたとみるのは自然な気がします。
一足先に西洋文明を見た父の仙は、国内にいるよりも留学させる方が、娘に未来があると思ったのでしょうね。父親が語学に明るい人だったので、梅子は挨拶や簡単な会話を教えてもらって送り出されているかもしれません。
ちなみに梅子の姉、長女の竹子は安家の奥女中として勤めています。後に当主との間に徳川宗家を継いだ徳川家達と、達孝の男子二人を産みましたので、津田家と徳川家はご縁があり、梅子と徳川家達はいとこ同士になります。

アメリカに着いた少女たちは、ワシントンDCのジョージタウンに入りますが、二人ほどホームシックで早期帰国。山川捨松と永井繁子は、ニューヘブンに移動。
それぞれホストファミリーの元に暮らし始めます。捨松と繁子はほどほどに近い地域に住み、比較的会いやすかったのと、ニューヘブンにはイエール大学に留学していた捨松の兄山川健次郎(元白虎隊・超秀才)がいて、三人は頻繁に行き来をして日本語を話す機会を作っていました。
梅子は最初の受け入れ先である日本弁務館のチャールズ・ランマン宅で暮らし、ピアノと英語以外に他言語、理系を含めた勉学に励みます。子どもがいないラマン夫妻は、明るくおしゃまな梅子を、一人娘として可愛がりました。
裕福なアメリカの家庭に暮らし、恵まれた環境で多感な少女時代を過ごす梅子。
意識形成にも影響を与えたのでしょう。家族にあてた手紙も日本語は最初だけで、後はすべて英語になっていきました。ランマン夫妻は強制しなかったものの、プロテスタント系のキリスト教にも入信してゆきます。
捨松や繁子も時々ランマン家を訪ねてきて、ガールズトークを楽しんだようです。
その際も、英語でジョークを飛ばす梅子は、とてもおしゃべりな女子だったそうですが、
捨松たちほど意識して日本語を使う環境がないまま、時間が流れ、アッパーミドルでハ
イスペックな女子に仕上がったのでした。 


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人の縁がつなぐ女子教育への道=キャリア女性の生き方

繁子は予定通りに帰国。捨松と梅子は留学を延長し1年遅れで帰国。
英語の他、ラテン語やフランス語も堪能で、理数系のバッチリな女子。今の時代なら、職に困らない立場ですが、明治時代の頃は、国がハイスペックな女子教育を目指して送り出したものの、受け入れられる場を用意していなかったのです。
文明開化と言われながら、女三界に家無し。女子の教育とは、嫁ぐためにありな母国に梅子と捨松は心底がっかりします。
それでも繁子と捨松は、結婚し家庭を持っていきます。
通訳が必要なほど、日本語がわからなくなっていた梅子は、会話が途絶え、引き戸の家、靴を脱いで上がる生活がなじめず、何よりも日本式の結婚観が合わなくて、どんなに見合いを進められても拒絶。 外に出る事さえなくなってしまい、それが父との親子関係も気まずくさせてしまったようでした。
 年頃の娘ですし、ひどい男性嫌いでもなく、密かにあこがれた男性かいた可能性もあるけど諦めたのか、クリスチャンになったことも影響しての独身主義なのか、様々な可能性もあり。
恋愛はともかく、結婚に関しては契約の部屋に♄と☊ですから、梅子が海外留学をしていなくてもすんなりと進まなかった可能性は秘めています。(恋愛と結婚は運勢上別物です)
一旦止まったかのように見える梅子の人生。しかし、数奇な縁によって動くのが、8ハウスの木星効果。外務卿だった井上馨が開く夜会に招待されたことから、伊藤博文と再会。
ここで華族女子教育の私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されます。
桃夭女塾で英語を教え、歌子から日本語と日本の風習を学ぶことになった梅子に講師の扉が開くと、次は学習院女学部から独立した華族女学校で英語教師という道ができました。
目指していた女子教育の世界に足を踏み入れた梅子は、厳しさもあるけれど、楽しい先生として勤めてゆきます。そして、アメリカ留学時代に親しくなったアリス・ベーコン(捨松のホストファミリーの娘)が来日すると、刺激を受け、再びアメリカへ留学を決意。
2年間の留学許可をもらい、セブン・シスターズ (大学)のひとつであるブリンマー・カレッジ で生物学を専攻します。
少人数制教育をはじめ現地の環境に接し、日本の風習や女性に関する研究を始めたアリスの手伝う中で、勉強の傍ら日本人女子留学生のための何かができないか考え、奨学金制度「日本婦人米国奨学金」委員会を作り、講演活動をはじめました。

留学を終えて帰国後は、再び華族女学校で教鞭をとります。時代的に女子教育の機運も高まってきて、明治女学院や女子高等師範学校ができたことで、女子の学びの場も増え、梅子はこちらでも英語を教えてゆきます。
そんな折、アメリカのコロラド州で開かれた万国婦人連合大会デンバー会議に、日本の女性代表として、津田梅子に出席を求める旨が届きます。
3000人の聴衆の前に和装で登壇し、日本の女性問題をよどみのない英語スピーチする梅子。大喝采が教育者津田梅子の名が世界から注目を受ける契機を呼び、当時まだ17歳のヘレンケラーと言葉を交わす機会。イギリスから招待で、当時高齢のナイチンゲールを見舞うことにもなり、とても強い感銘を受けたことが梅子の日記につづられています。
巡り合わせと本人が研磨した個性・実力が発揮された結果として、スピーチの成功、時の人たちとの出会いと縁を占術的に観るなら、8室の♃が11室の☽と♀の調和していること。宿命の背骨のようにある津田梅子の1室♇と7室の☊の180度が、個性の輝きに味方をし、トランジットもいい形で運勢を推していると思います。

帰国して間もなく高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布され、教育環境の法整備がさらに整ってゆく中、梅子は官職を辞めて、華族や平民の別なく受けられる女子教育「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立を目指します。
これまでの行儀作法重視の女子教育と違い、進歩的で自由な勉学中心。自立した個性を啓発するレベル高い授業なため、評判も出ましたが脱落者も多く、運営面では独自の教育方針を妨害されないで貫き通すために、資金援助は極めて小規模にしたそうです。
ここには父の仙、捨松やアリスたちの理解と惜しみない協力がありました。

しばらくの間、講師陣は無俸給で教えてゆくこともあったそうです。
専門学校令が公布されて、塾の基盤が整うと国に申請。塾を社団法人とすることから経営面も変わりますが、塾の創業期に健康を損なった梅子は、塾経営の基礎が整うと塾長を辞任し、鎌倉にある別荘で療養生活に入りました。
そして1929年(昭和4年)生涯を日本人女性の教育に生涯をささげた津田梅子は、脳出血のため鬼籍に入ります。
女子英学塾は津田英学塾と改名しますが、校舎は後に戦災で焼失してしまいます。
津田塾大学として落成・開校したのは1948年(昭和23年)。梅子没後19年目となります。

梅子の父仙も学者肌。新島襄・中村正直と並ぶ日本の三大クリスチャンであり、青山学院や筑波大学附属盲学校の創設にも深く携わっている人物ですし、彼女の9ハウスに☀ですから、精神性の高いことや学術。宗教性などに深く惹かれる様子はひめています。
留学がなくても学問には携わっていただろうし、どこかおちゃめでちゃっかりした面もあるので、精神性を社会的にアウトプットできる縁をつかむ人だったと思います。
女子教育にささげた人生でもありますが、やりたいことを見つけて自分のサクセスストーリーを歩んだ女性でもあるので、やぎ座木星な2020年。
改めてこの人をクローズアップしてもいいのかな。とも思いました。

そして今時代、学校があるのも、勉強をするのも当たり前の時代で、どこか一方的に与えられている感もありますが、実に多くの方々が教育の場を整えた人や自分自身が身に着けてきたことを教えてくれる人がいて、その積み重ねがあるから、時代の先端を生きる私たちは、その恩恵を享受して「どの学校へ行こう」と、選ぶことができるのですね。
津田梅子もその先駆者であり、日本が誇るべき女性の一人だと思います。
彼女が5000円札になったら、語学勉強をはじめ、勉強代を梅子さんの紙幣でお願いします。という気持ちで払うと、気持ち引き締まるかもしれません。


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