当時はまだ珍しく貴重だったレコードの売り上げ枚数2万枚とも言われる歌は、トルストイ原作「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」。歌ったのは新劇界の若手女優松井須磨子。今回は激動と解放・ロマンあふれる大正時代に、ヒット曲を歌った松井須磨子にスポットをあてました。情熱と情念も絡む星回りを見てみようと思います。

松井須磨子(本名小林正子)

1866年(明治19年)3月8日 出身地 長野県埴科郡清野町(現長野市松代町清野町) 
出生時間不明 正午の月を使用。

☀星座 ♓ 17°59
☽星座 ♈ 12°10 (24H 00:00 ♈6°00→23:59 ♈18°23)

   

   第1室 本人の部屋   ♓ ☀・☿
   第2室 金銭所有の部屋 ♈ ☽
   第3室 幼年期の部屋  ♉ ♆
   第4室 家庭の部屋   ♊ ♇
   第5室 嗜好の部屋   ♋ ♄
   第6室 健康勤務の部屋 ♌
   第7室 契約の部屋   ♍ ♂R ☊R
   第8室 授受の部屋   ♎ ♃R ♅R
   第9室 精神の部屋   ♏ 
   第10室 社会の部屋   ♐ 
   第11室 友人希望の部屋 ♑
   第12室 障害溶解の部屋 ♒ ♀R

シーソー型の変形というべきでしょうか。第1室~6室の北半球に6つ。南半球は第7、8室に11、12室に5つ星が入っているホロスコープです。
第1室、本人の部屋♓の☀と☿を越えた隣、第2室金銭所有の部屋♈に☽があるので、新月を越えたばかり。ロマンチックで情の世界を自由に泳ぐ♓の☀に、12星座のトップである♈の☽。新たなことを始めてゆく、目的に対して強いライバルがいるとか、高い障害があるほど、「勝ちたい」「得なければ気が済まない」ので、やる気を出すととことん頑張るタイプ。しかも人気仕事。大衆を相手にした商売をすることで財を得ることも可能。注意点は、手段選ばずにはしったり、気分でお金を使う傾向を納めないと、収入と支出のバランスを崩してしまうリスクを持っています。

第3室幼年期の部屋は、堅牢な♉に、気分や雰囲気で色変わりする♆。相性は微妙。☿との調和があるので、直感が優れていれば+効果ですが、ミスマッチが強く出ると、ぼんやりした傾向も強くなります。この♆は、隣の第4室家族の部屋♊♇と合。土と風の合ともいえる組み合わせは、家族のしがらみや、自分の幸せよりも、家庭、家族を優先する状況や、それに対する本人の葛藤があったと読んで良いでしょう。
第4室の♇と第5室の♋♄は、どちらも入室したばかり。第5室は本人の好みや恋愛の傾向を観る部屋で、♋も♄も保護要素が強く、趣味は実益を兼ねる。一つのことに拘ると長く続く傾向が出てくるでしょう。この♄は♓の☀と緊張角度。どちらも水星座なので相性がいい分、駄々洩れの愛になる懸念はあります。
第6室星がなく、南半球になる第7室契約の部屋は♍♂と☊。どちらもRがあるので、安定した穏やかな契約や関係を維持するのに努力は必須。衝動的になりすぎになければ、大打撃は回避可能。さらに☊Rは、第8室授受の部屋(生と死の部屋)♃Rと合。ギリギリな合なので、相手が悪くなければ経済的には困らないともとれます。第8室は婚姻関係の相手側親族との関係や、自分もしくは血族以外の財運とのつながりを見ます。
松井須磨子はここに♃と♅も合。♓の☀と☿とは運勢の背骨のように対極。ワンチャン前進できる運は持っていますが、♃♅どちらもR(逆行)。一つ手前の第7室♂☊もR。さらに第12室障害溶解の部屋(目に見てではわからない、隠れたもの)の♒♀もR。
愛するものへの拘り。心を捉えるのは好きだけれど、捕らわれるより自由でいたい気持ちがそよぐ♒♀Rが彼女の人生にもたらす成功と落とす影役回りをしますが、南半球にある星は、全て逆行でした。ストレートな効き方はしないが功を奏することもある。そんな独特な星の配置です。

松井須磨子年表(ウィキ、その資料参照)

1886年(明治19年)3月8日 長野県埴科郡清野町に住む士族(旧松代藩士)小林藤太の              五女として生まれる。9人兄弟の末っ子。本名は小林正子。              (戸籍上の誕生日は1886年11月1日となっている)
1891年(明治24年)上田町(現・長野県上田市)に住まう長谷川友助の幼女となる。        17歳までは、長谷川正子となる。 
1901年(明治34年)養父長谷川友助が死去。実家に戻るが同年中に実父の小林藤太も死去。
1902年(明治35年)麻布飯倉の「風月堂」に嫁いだ姉を頼りに上京。戸板裁縫学校(現・         戸板女子短期大学)に入学する。
1903年(明治36年)戸板裁縫学校を卒業。親族の世話で縁談が進み、千葉県木更津の旅館兼小料理屋鳥飼万蔵と結婚。病気がちなのを舅に疎まれて約1年で離婚。万蔵から淋病を移され、失意の自殺未遂。
1904年(明治37年)淋病の治療中に、東京師範学校地理科の生徒前沢誠助と出会う。
1907~1908(明治40‐41年)牛込高等演芸館で荒川重秀(哲学博士)秀才の演劇に出る。1908年前沢誠助と再婚。11月前沢が東京俳優養成所の日本史講師となる。女優を目指すが挫折を味わい、整形手術をするのはこの頃。
1909年(明治42年)坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第一期生となる。(別科性対応)
1910年(明治43年)前沢と離婚。
1911年(明治44年)5月文芸協会第1回目公演「ハムレット」オフィーリア役。10‐11月文芸協会第2回目公演「人形の家」ノラ役。
1912年(明治45年)5月文芸協会第3回公演「故郷」マグダ役。1913年(大正2年)不倫関係が発覚、文芸協会を追われる。7月抱月・沢田正二郎、松井須磨子らで芸術座を旗揚げ。10月芸術座第1回公演「モンナ・ヴァンナ」モンナ・ヴァンナ役。12月芸術座第2回公演「サロメ」サロメ役。
1914年(大正3年)3月26日「復活」カチューシャ役。劇中歌「カチューシャの唄」が大ヒットを飛ばす。
1915年(大正4年)抱月と共にロシア帝国ウラジオストクを訪れ、プーシキン劇場にて、ロシアの劇団との合同公演を行う。5月芸術座第5回公演「その前夜」エレーナ役。劇中歌として「ゴンドラの唄」を歌い、これがヒットする。
1917年(大正6年)トルストイ原作「生ける屍」主題歌「さすらいの唄」(作詩北原白秋作曲中山晋作)。約半年ほどでレーコド売り上げ27万枚と言われている。同年北原の作詩で「今度生まれたら」というレコードを出すが、あるフレーズが当時の文部省に猥褻扱いを受け、発禁となる。逆にこれで注目の的となり、レコード売上が上がり27万枚を更新する。
1918年(大正7年)11月5日 スペイン風邪により島村抱月が死去(享年47歳)。
1919年(大正8年)1月芸術座第12回公演「カルメン」カルメン役。1月5日 松井須磨子死去 (享年32歳 抱月の後追い自殺)

松井須磨子惑星history ☽年齢域0~7歳1886~1893年(明治19~明治26年)

大政官製から内閣制に変わった翌年の1886年(明治19年)3月8日。未来の歌姫松井須磨子は、長野県埴科郡清野村(現長野市松代町清野)に住む士族小林藤太とゑし夫妻の娘として生まれます。9人兄弟の末っ子(五女)。本名は小林正子。
戸籍上の誕生日が同年11月1日となっていますが、本編はウィキその他の資料を参照に3月8日を採択。尚、デビュー前は正子で統一します。
1889年(明治22年)2月に大日本帝国憲法が発布。同年7月には、東海道本線が全面開通することで、近代化を進める時代の速度は加速します。
1年後の1890年(明治23年)7月)第一回目の衆議院議員選挙が行われたのでした。画期的に変わってゆく面もあれば、まだまだ江戸時代の残像を引きずり、身分制度や風俗なども残っていた時代。正子の父、藤太は東京に出て商売を試みますが、慣れない仕事に財産をつぎ込み、長野に帰った経緯があります。子だくさん家庭の小林家。上の子がいればいるほど、見本や張り合う相手がいるのが下の子。夢見がちな部分と遠慮なしな部分などが共存する正子は、実に切磋琢磨しく育ったのかもしれません。

1891年(明治24年)物心つく頃の正子は、父の妹が嫁いだ上田町(現・長野県上田市)の長谷川友助の養女となります。今の時代の感覚では、特殊なことに思われるかもしれませんが、昭和初期くらいまでは、子どもができない兄弟の家に、末の子が養子養女として入る事はわりとありました。姓が小林から長谷川に変わるだけでなく、小学校も出生地の松代ではなく、上田にある尋常小学校に通います。

☿年齢域7~15歳1893~1901年(明治26~明治34年)

世界が驚く日本の勝利で幕を閉じた日清戦争。下関条約が締結した直後、日本中に沸く勝利の空気を破った三国干渉(仏・独・露)が起こりました。(この辺りの詳しい内容は、山本権兵衛や、西郷従道等の記事をご参照ください。)
日本の国内はさらに富国強兵で活気づく頃、☿年齢域に入った正子は上田市にある尋常小学校小学校へ通います。正子は父が好きで、家族仲も良かったのでしょう。夏休みや冬休みは、松代の実家に帰省することもあったようです。
白黒つけないと気が済まない性質が潜む水星座の☀を持つ正子。強大にも鍛えられているし、恐らく、口も手も出る子だったのでしょう。男の子たちとケンカしても負けない気の強さから、刃物で額に傷をつけられたこともあったとか。
初オリンピックがアテネで開催され、世界の距離感と世の中が大きく変わる中、1900年(明治33年)を卒業します。☿年齢域と♀年齢域が重なる翌1901年(明治34年)。養父である長谷川友助が他界。一旦実家の小林家に戻ったのですが、同年中に実父の小林藤太も亡くなります。
その身辺が大きく変化する年は、♃・♄いわゆる年運の星。社会天体な♅~♇。あるいは☊も注目点ですが、1901年(明治34年)の彼女の誕生日のホロスコープを見ると、第5室♋N♄の対極第11室♑にT♃♄が入っています。♑の♃は、♊にある彼女のN♃♅を刺激し、彼女の♓☀は、♐を進む♅に刺激を受け、望むと望まざるとにかかわらず、外的世界観が様変わりしてゆくことは伺えます。

♀年齢域15~24歳1901~1910年(明治34~明治明治43年)

1902年(明治35年)日英同盟から時代は日露戦争へ入ってゆく激動期。激動の波と星の後押しもあったのか、正子は思い切って、麻布飯倉の「風月堂」に嫁いだ姉を頼りに上京しました。姉夫婦との間柄は良かったのでしょう。都会的なお嬢さんとしての作法を身に着けさせ、嫁がせようと考えたようで、手先が器用な妹を戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学させます。
元々どこか人を引き付けるものがある正子。商売に慣れないのは最初のうちで、彼女が店を手伝うと、お菓子の売り上げが上がったそうです。翌年1903年(明治36年)に戸板裁縫学校を卒業しますが、縁談話には困らない状況でした。親族の世話で話が勧み、正子は17歳で千葉県木更津にむかうため、船で東京湾を渡ります。
相手は千葉県木更津の旅館兼小料理屋鳥飼万蔵という若者。ところが、この結婚は約1年で破局。離婚に至り故郷の長野へ帰ったのでした。
松井須磨子が書いた「牡丹刷毛」という随筆集には、「夫の両親は、実の親のように自分を可愛がってくれ、実の父にも見えた」と書かれています。しかし、姑と反りが合わなかったとか、病気がちな事を舅に疎まれて…という説があり、これには虚構も混ざっている可能性があります。夫の万蔵には放蕩壁があった事。僅か1年の婚姻生活で、淋病を移された事等、真相はこの辺りに潜んでいるのかもしれません。
故郷に帰った正子はものの、出戻りを家にはおけないしきたりから、長谷川家の菩提寺・大英寺で養生することになりますが、いずれにしても、多感な時期に結婚。放蕩がちな夫から性病を移されるとか、正子は相当ショックを受け、自殺未遂を起こしました。
柔軟宮星座である♓に太陽を持つ正子。自己憐憫にかられるのも無理はないでしょう。

1903年(明治36年)1月♊の最後を走るT♆が、N♋♄に近づいていきます。さらに♑にあるT♃と♄は、彼女のN♆と調和。彼女のN♃はT♆と緊張角度。同年2月上旬、T♃は♒に移動。12月には正子のN♃はT♋の♄と緊張角度。♋入りしたこの♆は、彼女のN♄と合。身体は気をつけた方がいい。身辺流動的のなりやすいのは想像に容易いです。
1904年(明治37年)日露戦争で日本が勝利をするこの年。正子は東京師範学校地理科の生徒前沢誠助と出会いました。悲観一色の状況に、変化が起こります。
元々学校の先生で、須坂地域の尋常小学校で教えていたが、東京師範学校で学ぶために休学。正子との出会いは東京という説もあるようですが、前沢の郷里は長野県埴科郡坂代町。郷里で接点があってもおかしくはありません。理知的で学のある前沢とは、会話も弾んだのでしょう。正子の心の傷を癒すだけではなく、児童文学作家の巌谷小波と縁がある前沢は、演劇とも接点があったのです。正子、ここでお芝居を観る側ではなく、演じる側に立つ機会を得た説もあります。

1907年(明治40年)前沢と一緒に再び東京を目指しました。翌1908年(明治41年)川上貞奴が帝国女優養成所を創設。日本で女優という職業が産声を上げた年に、前沢と正子は結婚したのです。牛込高等演芸館で、荒川重秀博士主催のお芝居に出演する機会を得たり、前沢が東京俳優養成所の日本史講師となったことで、正子は芝居がグッと身近にるに連れて、平凡で変わらない日常から、非凡な日常への脱却。女優への道を進みたい欲が出てきたのです。
一方で、これまで芝居といえば勧善懲悪ものが主だった日本の演劇界。学問や美術芸術留学経験者も増えてきた明治後期。欧米的な新しい演劇の導入をしようという機運が盛り上がります。坪内逍遥と共に文芸協会を創設した早稲田文科の文学者島村抱月が、協会の新部門として。演劇研究所を設立したのもこの頃でした。これまでの芝居を「旧劇」と呼び、西洋文化が織りなす新タイプの芝居を「新劇」と呼んだのです。

女優になることを望み、夫が務める東京俳優学校に入るべく考えた正子。前沢も主事の桝本清と研究生の田口栄三と妻を引き合わせますが、女優の育成はしていなかったこと。 
こうして正子は文芸協会の演劇研究所への入所を目指して、オーディションにトライしたのでした。この時の面接官の一人が、後に愛人関係となる島村抱月です。
力強い声と体格が良いことは高評価されて、一度合格をもらいますが、結果は不採用。
風月堂では看板娘的な存在でもあった正子、大ショックを受けました。
女流作家長谷川時雨別も「厳密に言ったら美人ではなかったかもしれないが、野生な魅力が非常にあるタイプ」と、生前の松井須磨子を評しています。おそらくですが、容姿は普通。外見的美しさ以上に、舞台上の雰囲気作りがうまかったのでしょう。では何が足りなかったのか。
文芸協会は、総理大臣経験者で早稲田大学初代総長でもある大隈重信が主宰。顧問の坪内逍遥は、日本の文学の近代化に貢献した人物。そこにハイエリートの島村抱月がいる格式のある団体でした。演劇研究として英文の講義や、英語朗読も行うため、入学の段階で英語ができないのは致命的だったのです。
そこに尋常高等小学校しか卒業していない田舎娘が、気持ちと夢いっぱいに「女優になりたい」で面接を頼んだのでした。面接で好印象がもらえても、学が足りない正子は退学にならざるを得なかったのでした。

アルファベットすら知らなかった正子は、猛勉強の末、わずか3ヶ月ほどで、シェイクスピアを読み解いたそうです。ものすごい集中力ですが、その負けん気は、あらぬ欲を掻き立てました。東京俳優学校の桝本も絡んでいたようですが、容姿にコンプレックスだった正子は、美容整形を受ける決心。
明治時代初期に、美容整形なるものがある話はあるものの、技術も何も確立されていない明治後期。筋に蝋を流し込んで、鼻筋を整えるなど、考えること自体が突飛なことと思われそうな時代に、正子は夢を実現するために実行したのでした。
1909年(明治42年)通った鼻筋と、文芸協会演劇研究所に合格を手にしました。
行動力ありきな正子ですが、蝋は熱に弱く溶け安いため、体温によって柔らかくなってしまい、ズレに悩んだり整形手術の後遺症で顔が炎症を起こすなど、引き換えたものは多々あったようです。
因みに1914年出兵者7000万人以上といわれる第一次世界大戦勃発。多くの負傷兵の治療目的で美容整形は飛躍的進歩を遂げました。整形するのをもう少し待てば、彼女が背負った術後の悩みはダウンしていたと推察されます。
星回り的には、前年の1908年(明治41年)3月8日(彼女の誕生日)T♄が♓28度。ほぼ終わりですね。正子の♃・♅と対極。♋を進むT♆は、彼女のN♄と距離を取り、N☀と水星座同士、調和してゆきます。彼女の☀は♓。☀と♆の調和は、センスアップや不思議な効果をもたらします。

坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第一期生となった正子は、厳しい指導の下、気が付けば何人もいたはずの研究生が、一人二人と欠けてゆく中で演劇に浸りこみました。
文芸協会第1回目公演「ハムレット」が1911年(明治44年)の5月に決まると、主役のオフィーリア役を射止めます。努力の成果でもありますが、あまりにも演劇一辺倒になり、家事をしなくなったのも事実。夫の前沢と時に大ケンカとなり、勝気な正子は、夫にDVを加えた経緯もあったようでした。彼女の負けん気の強さは筋金入りで、研究生仲間も、うっかり「田舎娘」と言おうものなら、火鉢を投げつけたという逸話があります。
♀年齢域と☀年齢域が重なる1910年(明治43年)。それは舞台を踏む直前ということなので、後半になると思います。結婚生活は破綻した二人は離婚しました。

☀年齢域24~34歳1910~1919年(明治43~大正8年)

彼女にとって二度目の離婚経験。12月のホロスコープを見ると、N♋♄にT♊の♇が合。
彼女のN♇の対極が♏を進むT♂。♉にある彼女のN♆が、♑を進むT♅と調和しているので、良い悪いではなく、心変わり。
どちらも主張をゆずることなく、自分の道を選ぶ感はありますね。さらにここからは☀年齢域が始まる正子。
1911年(明治44年)5月帝国劇場で一週間。「ハムレット」が上演され、正子は芸名「松井須磨子」として、主役デビューを果たします。当初は出身地にちなんで「松代須磨子」にするつもりが、これを聞いた人が、「真っ白須磨子」に聞こえると茶化したことから、「松井須磨子」となったとか。(ここから本編も正子改め、松井須磨子、もしくは須磨子と表記いたします)
5月上旬は♉の☀。そして☿♄が♉を進みます。♉☀は、須磨子の♆と♊の♇とゆっくりと手を取ってゆくし、T♂が彼女の☀にチャレンジ精神をともします。
「ハムレット」は観客から高評価を博し、同年10月文芸協会の第2回公演「人形の家」が決まります。須磨子は主人公ノラを演じることが確定。ノルウェーの劇作家イプセンの名作「人形の家」とは、弁護士の夫に仕えていた従順な妻が、ある日夫の不誠実に気付き、夫から自立してゆくサクセスストーリー。
平塚らいてうが、月刊誌「青鞜」を創刊したのも1911年であり、日本の進歩的文化人の間に、フェミニズムの風が吹き始めた時に、「人形の家」が決まったことから、文芸協会第2回目公演に、文学界や世間は注目しました。
「ノラ役のしぐさは、押しつけがましくて好みではない」
イギリス留学経験のある夏目漱石は、観劇した際の辛口感想をこのように残していますが、一般的にはおおむね好評。歌舞伎とは全然異なる自然なセリフに新鮮さを感じたようです。松井須磨子は女優として滑り出し好調、芸協会の舞台に欠かせない存在となり、明治の終焉から大正の幕が上がる時代に出演し続けたのです。

ところが出る杭は打たれるの鉄則が発動。1913年(大正2年)スキャンダル砲がさく裂し、須磨子と島村抱月の不倫が暴露されました。この時須磨子は独り身ですが、島村は妻子ある身でした。
文芸評論家・演出家・劇作家・小説家であり、新劇運動の先駆けな島村抱月(本名佐々山瀧太郎)は、1871年2月28日(明治4年1月10日)生まれで、島根県那賀郡小国村(現・島根県浜田市)出身。実家が貧しくも幼少期から優秀で、小学校卒業後は苦学の末、浜田町の裁判所書記官を務めます。その才が、裁判所検事を務めていた島村文明の目に留まり、学費援助を受けて上京。早稲田大学へと進学しました。
佐々山家の長男として生まれた抱月ですが、1891年(明治24年)島村家の養子となり、その後、文明の姪の市子と結婚した経緯があるのです。
早稲田大学の留学生として、1902年(明治31)から3年ほど、イギリスのオックスフォード大学と、ドイツのベルリン大学で学び、帰国後は早稲田大学文学部の教授を務める傍ら、恩師の坪内逍遥と共に文芸協会を立ち上げた抱月。日本に新劇を根付かせようと、協会に演劇研究会を立ち上げたのも彼でした。実力派のハイエリートな島村抱月が、研究所の看板女優である松井須磨子との不倫を起こしたのです。
恩師の島村文明への裏切りとなる。世間だけでなく、坪内逍遥も眉を顰めました。
早々に二人を別れさせ、抱月を文芸協会に残すことを考えますが、「自分が文芸協会を去る。代わりに須磨子を残してほしい」という抱月の言い分に、それはさすがに勝手が過ぎると坪内は激怒 須磨子を退会させてしまいます。

信頼厚かったはずの二人の関係まで、ギクシャクさせてしまった不倫ですが、須磨子と抱月のシナストーリィーを見ると、抱月の誕生日1871年2月28日なので、一回り以上の年の差カップル。



♓の☀コンジャンクションはしませんが、♀が同じく♓。
☽は♊。当日中に☽が星座をまたぐことはなく、風気質の月。♃が一緒なので、子どもの頃は財運薄くとも着実に稼げるし、悪くはないでしょう。
抱月の♓の♀と第8室♎の♂Rに、須磨子の♓☿と、♎の♃♅Rが、挟まれるのをみると、ビジネス絡めたパートナー関係。
須磨子の☽と抱月の♆合。須磨子の♒♀Rと抱月の☿。須磨子の♋♄と抱月の♋☊。
これだけ見ても、近いけど離れやすい関係だったり、素直に結婚に進む関係ではないけれど、抱月にとっては妻が悪いわけでもないけれど、自分が惚れて結婚してはいない。須磨子は自分の意思で選んだかわいい女。気に入った相手が現れたことで、☀も☽も柔軟宮なので、これまでの恩。常識という枠を飛び越えてしまったのでしょう。
須磨子にとっては、うまくいかない異性関係を終わらせる砦のような相手。既に彼とのつながりを持っている妻や娘がいることが、負けたくない意識の起爆剤だったのかもしれません。懐古的で硬い感覚から、自由な形の恋愛を求めだした時代でもあり、最先端な形を進んだカップルでもあったのです。
因みにスキャンダルですが、♉の♄後半にも影響与えてきたT♄が、須磨子の♊N♇にヒット。♅はホームベースの♒を進んでいるので、良くも悪くも掘り起こし。何かを変えてゆくことで転換を図るという意味もあるのでしょう。 
1913年(大正2年)文芸協会を出た島村抱月は、早稲田大学も退職。
同年7月には、沢田正二郎、松井須磨子らで芸術座を旗揚げします。不倫けしからんと騒いだ世間ですが、芸術座誕生に、バッシングすることなく、同年10月芸術座第1回公演「モンナ・ヴァンナ」を上演すると喜んで観に行きました。
売れせん女優の須磨子は、モンナ・ヴァンナ役を演じ、12月芸術座第2回公演「サロメ」サロメ役を演じるなど、勢いは止まることなく、舞台を成功させました。
1914年(大正3年)3月26日トルストイ作「復活」が上演されます。カチューシャ役を演じる須磨子は、劇中歌「カチューシャの唄」を歌うと、これが空前の大ヒットを飛ばしたのです。蓄音器が普及し始めたのもありましたが、「カチューシャの唄」は、高価で珍しくもあったレコードが2万枚売れ、日本初「歌う女優」として認知された須磨子。 
なんとこの年、彼女の♒N♀をT♃♅が重なります。運爆上げ感ありますね。♒を進む♃ということは、次の星座は須磨子の☀星座がある♓入りです。
1915年(大正4年)2月早々、T♃は♓に入りますが、♇も♋入りなこの年、須磨子は島村抱月と共にロシア帝国ウラジオストクを訪れています。プーシキン劇場にて、ロシアの劇団との合同公演という大舞台を踏みました。
5月には、芸術座第5回公演「その前夜」が上演されます。エレーナ役を務めた須磨子は、         劇中歌として「ゴンドラの唄」を歌う。これは今の時代にも時には耳には流れるので、「命短し恋せよ乙女」と聞けば「あ!」となる方もいらっしゃるでしょう。
大正時代は遠い昔のように思えますが、大ヒットは大正時代。音楽機器は違いますが、今の時代のように生活の中で、音楽を楽しむ人がいたとわかると、親近感が出てきます。

1917年(大正6年)はロシア革命の年ですね。ロシア文学に傾倒していた抱月は、トルストイ原作「生ける屍」を成功させました。作詩北原白秋作曲中山晋作コンビで、主題歌「さすらいの唄」が作られ、これも須磨子が歌い、レーコド売り上げが、約半年ほどで27万枚を記録したと言われています。
同年北原の作詩で「今度生まれたら」というレコードを出ました。しかし、「かわいい女子(おなご)と寝て暮らそ」という歌詞が、当時の文部省から猥褻扱いを受けてしまい、発禁となったのでした。
初女優、初歌う女優だけでなく、初発禁を食らう女優ともなった訳です。一方世間は、「手に入らなくなる」となると、欲しくなるのが人間のサガ。逆にこれで注目度が上がり、レコード売上は上昇。他にもアメリカ曲を原曲にした「バラの娘」等、いくつかの歌も歌い、ヒット曲を飛ばす松井須磨子。
いかにも華々しい☀年齢期すが、光強ければ、影もまた強しで、舞台から降りた須磨子は、整形手術の後遺症に苦しんでいたのです。時には鼻を中心に顔が腫れるため、冷やしながら寝込むことがあった模様。また、パートナーの抱月は劇団を成功させてビジネス展開も考えますが、須磨子は常に自分を見ていてほしいと思っていたようです。  
須磨子の抱月への独占欲は強いものがあって、不倫報道以降、父を案じて劇団を訪ねてきた抱月の娘に、唾を吐いたという話も目にしました。離婚2回の痛手もある須磨子。抱月に対して、ビジネスパートナーでいるよりも、一人の女として接していたようです。

1918年(大正7年)米騒動に第一次世界大戦終戦。シベリア出兵と大事が続くこの年、日本は初平民宰相原内閣誕生に沸きますが、世界を席巻するスペイン風邪の上陸によって、。町中を歩く人は、みなマスクをつけて歩くようになりました。
そのスペイン風邪に島村抱月も感染。同年11月5日活動拠点であった芸術俱楽部の居室で急死してしまいます。享年47歳。あまりにもの展開ですが、須磨子は気丈に芸術座の公演を続けました。
翌1919年(大正8年)は☀年齢域と♂年齢域が交差する年ですが、1月5日芸術座第12回公演「カルメン」を有楽座で行い、カルメン役を演じている最中のことでした。抱月が亡くなった芸術俱楽部で自殺してしまいます。(享年32歳 抱月の後追い自殺)
須磨子は遺書をしたためており、抱月の墓に埋葬されることを望むとありましたが、いくら遺言とはいえ、これを抱月の妻は拒否。(これはこれで立場はわかりますね)

死因に限らず死に関するホロスコープは公開しませんので、自殺時のものは控えますが、
多くの人がその名を知ることになる人生とは、強い運を持つのは確かですが、その比重を背負って生きるよう本人の器も育てる、鍛える必要が生じます。それがいい形で出るケースもあれば、本人にとってきつい現実が続くこともあるようです。
松井須磨子にとって、前沢がステップを変える役として現れ、島村は彼女の運勢を仕上げのために現れたようにも見えますが、男と女の関係は時に倫理と常識も壊す効果も有しているので、いつの世も難しいですね。