高橋是清・鈴木貫太郎の回で、触れた二・二六事件。今回はその二・二六事件の首謀者側にいた青年将校安藤照三の星読みhistory+αで、二・二六事件について書きました。

近年は渋谷にある二・二六事件の慰霊碑が、JKの間で「告白スポット」とか、「パワースポット」となっていると聞いて、ドビックリ。
昭和期の事象として教科書にも載っていて、テストの答案に年号を書いたけど、事件の経緯や詳細はよく知らない。という方も少なくないと思います。昭和恐慌と五・一五事件からの流れ、事件後の影響を含めて今回取り上げました。

まずは、安藤輝三。二・二六事件を起こした青年将校の一人ですが、まじめで人を思いやれる穏やかな人柄を、秩父宮雍仁親王は愛され、統制派の永田鉄山にも信頼されていました。事件当日、安藤の行動で九死に一生を得た鈴木貫太郎侍従長は、後に昭和天皇の命を受けて、総理大臣となり日本を終戦に導きます。時代を繋ぐ役目を果たした人物とも言える安藤輝三。さっそく彼の星回りと人生を観ていきましょう。

安藤照三 パーソナルデーター

1905(明治38)年2月25日  出生地 金沢市 出生時間不明のため正午設定。
☀星座 ♓ 5°51
☽星座 ♏ 19°15 (☽24h 00:00 ♏12:11~♏26°14)


第1室 本人の部屋 ♓ ☀
第2室 金銭所有の部屋 ♈ ♀・♃
第3室 幼年期の部屋  ♉
第4室 家庭の部屋   ♊ ♇R
第5室 嗜好の部屋   ♋ ♆R
第6室 健康勤務の部屋 ♌
第7室 契約の部屋   ♍  ☊R
第8室 授受の部屋   ♎
第9室 精神の部屋   ♏ ☽・♂
第10室 社会の部屋  ♐
第11室 友人希望の部屋 ♑ ♅
第12室 障害・溶解の部屋 ♒ ♄・☿

スプラッシュタイプに近いホロスコープ。
穏やかで知識も深く、周りから見ても話しやすい性格的で、上からはかわいがられ、下からは慕われるタイプです。理想の上司や先輩というイメージで観てもいいでしょう。
☀星座は魚座。正確な位置はわかりませんが、☽は終日♏。下弦に向かっています。
☀星座も☽星座も水属性。☀は第5室「嗜好の部屋」♋の♆R緊張角度。対角の第7室「契約の部屋」♍の☊Rと、綱引き状態。♋の♆Rは、第11室「友人希望の部屋」♑♅と、引っ張り合い。理想・願望・現実の境界があいまいな故に、自堕落生活を送りそうですが、安藤照三の場合、倫理観はしっかりしているので、そこはクリア。ただし、妙な処で断り下手面はあると思います。主張ははっきりしているし、上昇志向も強いけど、乱暴ではなく闘争的な言動は取らないでしょう。
第2室「金銭所有の部屋」♈♀♃。誠実な人柄と地道な仕事ぶりで社会的信用をつけられる運勢。12室「障害溶解部屋」♒の☿♄とのアスペクトは、思わぬ引っ越し、移動の起きやすい人生になりやすいでしょう。元々優しい性格なので、悲しみに同化いやすいとも取れます。

安藤照三略歴 (ウィキその他参照)

1905年(明治38年)2月25日 中学校の英語教師安藤栄次郎の三男として誕生。本籍地は岐阜県揖斐町。
1912年(明治45・大正元年)7月29日 明治天皇崩御 7月30日 大正天皇即位。               
1921年(大正10年)仙台陸軍幼年学校に進学。
1923年(大正12年)士官学校に入学。
1924年(大正13年)予科卒業。歩兵第三連隊第6中隊配属となる。指導係は秩父宮雍仁親王中尉(昭和天皇の弟君)
1926年(大正15年)7月士官学校を、340人中207番の成績で卒業。(第38期)10月25日任歩兵少尉、補歩兵第3連隊に配属される。12月25日大正天皇崩御。昭和天皇即位。(昭和に改元)
1929年(昭和4年)10月25日任歩兵中尉に昇進。第3大隊第11中隊附。
1930年(昭和5年)8月~1931(昭和6年)6月まで陸軍戸山学校で甲種学生。ロンドン海軍軍縮会議。
1931年(昭和6年)満州事変。静岡県出身の房子という女性と結婚。
1932年(昭和7年)3月15日 五・一五事件。
1933年(昭和8年)日本青年協会の富永半次郎・青木常盤と共に、鈴木貫太郎邸訪問。
1934年(昭和9年)8月1日歩兵大尉昇進。補第3大隊副官となる。
1935年(昭和10年)1月17日補第2大隊第6中隊長となる。 
1936年(昭和11年)2月26日 二・二六事件で、鈴木邸を襲撃。7月12日銃殺刑。 享年31歳

安藤暉三 惑星history ☽年齢域 0~7歳 1905~1912年 明治38~明治45・大正元年/ ☿年齢域 7~15歳 1912年~1920年 明治45・大正元年~大正9年

大国ロシアと新生小国日本の間で起きた日露戦争。その佳境ともいえる1905年(明治38年)2月25日。安藤輝三は石川県金沢市で誕生します。父の名は安藤栄次郎。中学校の英語教師で、明治36年4月~明治40年8月の間は、金沢の学校に勤務していました。
このため輝三の本籍地は、家族と同じ岐阜県揖斐町(現・揖斐川町)ですが、出生地は金沢市となっています。(出身地と出生地が同じか、違うのか。ホロスコープを作る上で、見落としてはいけないポイントです。)
安藤暉三の☽年齢域(幼少時代)は、明治時代の幕が閉じてゆく時代。
約9万人近い犠牲と、18億以上の経費(そのほとんどは外国債)を払って、日露戦争に勝利した日本ですが、ポーツマス条約を結ぶ際、国民が望んだ敗戦国のロシアから賠償金を取ることができませんでした。国力差7倍の国と争い、ほんの局地戦に勝っただけで、準備さえ整えば何度でも戦う気のロシアを相手に、日本はこれ以上争えない状況だったのです。日本側の事情は知らないまま、国内のあちこちで日本政府に不満を抱く人たちによる、デモが起きてきます。(この辺りは、桂太郎・小村寿太郎の回を参照してください)
一方で台湾統治に日韓併合等も進み、関税自主権を回復した翌1912年の真夏。
明治天皇が崩御され、大正天皇の即位を持って、大正時代が始まりました。
安藤輝三の☽は、心地よさや安定よりも、生き延びることに対して情熱を燃やしやすい♏。しかも♂と合。物静かだけど、負けず嫌いなチャレンジャーで、過酷な中でも心身共に強くあろうとなります。
父栄次郎は、郷里の揖斐町にいた頃、幕末の頃に尊王攘夷を掲げた思想家の棚橋衡平(岐阜県出身の教育者)から、国学や儒学。漢学等を学んでいました。家庭の中で輝三は、まじめな父の影響と、時代の波長も受けながら育ちます。

輝三少年の☿年齢域は大正時代と共に始まりました。金沢で生まれた後、神奈川県・鹿児島県に石川県。長野県に栃木県と、父親の転勤に併せて何回か転校を経験します。安藤の☿は、♓の一つ手前にある変化の風属性♒にありました。♄と合なので、望む望まないの別なく、移動運コンビを持っているので、らしいとも言える状況です。

1914年(大正3年)7月28日。♋28°♆と♌5°☀のタッグが、運勢の振り子を激しく揺らすように、♒♅9°Rと対角形成する中で、サラエボ事件に端を発した第一次世界大戦が起こりました。戦争への道筋をつけるように、♅には♒を逆行する♃が近づいています。
当時の日本陸軍は、最強と言われたドイツ軍から学ぶことが多い環境でしたが、日英同盟がある以上、イギリスが参戦すれば味方をしないわけにはいきません。
話が二転三転する中で、同年10月。ドイツ東洋艦隊の拠点であった中国山東省の青島戦に参戦するものの、それ以外は、戦地が欧州だったため動いてはいません。そして日本国内は、欧州各地に物資を供給する拠点となったことから、好景気に恵まれたのです。
大正ロマンに護憲運動も起きる躍動的な時代。感受性と共感性が豊かな♓の☀を持つ輝三少年は、江戸時代に民衆のために、自身の命を投げ打った大塩平八郎の生き方に深く感銘します。仁愛のために尽す大塩平八郎は、吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与えますが、純真な暉三は「身を殺し、以て仁を為す」を、自らの信条としました。
1918年(大正7年)11月11日。♋♇♃と、♏☀♀のトライン。♒の☽と♌の♆のオポジション。マイナーアスペクトながら、ピリッと辛い♏の♄と♓の♃の45°が、物事の終わりを告げたのか、第一次世界大戦は終結します
♒♅期らしく拡大傾向にあり、これまでの戦争を上回る兵器や弾薬の消費量。飛行機、毒ガス等といった兵器も投入なされました。さらに大量に作られる兵器生産や補給に、民間施設の利用や民間人(非戦闘員)も駆り出され、国家総動員戦のひな型戦争となったのです。
兵器開発や兵士の確保に予算を投入するため、戦時中の欧州各国は金本位制を止めて、ガンガン造幣しました。戦争が終わったので、金本位制に戻ることを考えますが、刷ったお金が市場に溢れている状態です。戦前の通貨価値に戻す、近づけるためには、市場の紙幣を回収するため自然と緊縮に傾きまました。そこに戦争による人道問題から、軍縮ムードが促進。スペイン風邪も流行り出したのです。
これまで特需景気に沸いていた日本は、終戦と共に過剰設備による経済恐慌が発生。経済の風向きが変わり、シベリア出兵に大失敗と下降期に入りました。
☿年齢域と♀年齢域が重なる1920年(大正9年)。軍縮ムードと大きな社会不安が漂う世相の中、安藤輝三は宇都宮中学を卒業。仙台陸軍幼年学校に入学したのです。

♀年齢域 15~24歳 1912~1921年 大正9年~昭和4年

♀年齢域は伸び盛り&多感な年代で、将来に向けて本格的に何かを学ぶ時期。
仙台陸軍幼年学校に進んだ輝三は、2年後に士官学校へと進学しました。士官学校は文字通り現役兵科将校を育成する学校。より専門的な軍事学を専攻する本科。旧制高校で学ぶ学科を専攻する予科の2コースに分かれていて、予科を終えた学生たちは士官候補生として、隊付き勤務を行う義務が付帯されていました。
関東大震災後の1924年(大正13年)。士官学校の予科を卒業した安藤は、歩兵第3連隊第6中隊に配属が決まります。指導係は昭和天皇の弟君・秩父宮雍一仁親王でした。 
優しく穏やかな安藤輝三を、秩父宮内親王は気に入られたそうです。(当時は天皇陛下のみならず、皇位継承権のある弟君は軍人になることを義務付けられていました。)
白人至上主義が当たり前な時代、アジアの国々を植民地としか見ていない西洋列強。そのアジアでは、日本と中華民国の間で、満州の権益を巡る争いが起きつつありました。
関東大震災が起きた直後の年でもあり、国内外問題山積の日本には、アジア全体を取りまとめる事もできなければ、欧米列強から信用を取り付けることも難しい。
そう考えていた秩父宮内親王は、時々代々木練兵場の小高い森に、安藤たち士官候補生を誘い、これからの日本はどうあるべきかを、彼らに問いかけることもあったそうです。

翌1925年(大正14年)加藤高明内閣は、陸軍大臣の宇垣一成中将の主導による大規模な軍縮を断行しました。これは世界的な軍縮の波を受けて行う政策で、当時宇垣の下で働いていた陸大出身の永田鉄山(当時高級課員)は、解雇される兵士の行き場を確保するため、公立の学校に現役の将校を配属して軍事教育を施す法令「陸軍現役将校学校配属令」作成に携わります。が、それで職を追われるすべての軍人が救われる訳ではありません。
多くの兵士がリストラされ,各師団が消滅しました。各地にある師団の規模が、いつの間にかその地域の格付けにもなっていましたが、その格付けも崩れ、国民側からは軍部を軽視する風潮も生まれてきます。

1926年(大正15年)7月。20歳となった安藤は、370人中207番の成績で士官学校38期を卒業しました。同期には、権力者への反発心と強い嫌悪感を抱く磯部浅一がいます。
当時の士官学校校長は真崎甚三郎少将。荒木貞夫中将と共に宇垣閥から冷遇されていた人物で、宇垣には反発心を抱いていました。宇垣が主導したことから「宇垣軍縮」とも呼ばれた軍縮で、解雇された者だけでなく、内部にも宇垣に不平や恨みを抱く者はいましたが、長州閥の基盤を引き継いでいる宇垣の派閥は強く、簡単に手が出なかったのです。

日本陸軍は超学歴社会でした。参謀本部直轄の陸軍大学を卒業しないと、参謀本部や陸軍省といった中央への配属。軍政や軍の改革に携わることはできません。試験内容が厳しく、入学を断念した青年将校も多かった陸大を、高成績で入学、卒業した永田鉄山中佐は、軍の命令で戦地視察のために、戦争の欧州に向かいました。
国民総動員となった第一次世界大戦を見てきた結果、この先、避けては通れぬ戦争が起こる前に、日本に国家動員法の制定と、軍制改革が必要と考えたのです。
陸大に進まない将校も沢山いました。彼らの主な任務は、徴兵で故郷の農村や漁村から離れて来た兵卒の訓練や指導です。安藤輝三もその一人でした。同年10月歩兵少尉となった安藤は、東京第1師団に所属する歩兵第3連隊に配属を命じられました。
同年12月25日大正天皇が崩御されたこの日。昭和天皇の即位を持って、元号は昭和と変わったのです。

翌1927年(昭和2年)3月14日第五十二回議会は、関東大震災後に発行した手形が、不良債権化しつつあった事から、政府が日銀にそれを引き取せたモラトリアム措置。短期のつもりが長引いて継続中。三回目の延長を審議する予定でした。ところが、ここで
「東京渡辺銀行が、とうとう破綻をいたしました」第一次若槻内閣の大蔵大臣片岡直温の大失言が出ます。
「銀行がつぶれたら、今持っている手形をお金に替えてもらえなくなる」と、不安が人々の間に広がり、これまでジリジリと燻っていた金融不安が爆発。中小銀行を中心に、日本中で取り付け騒ぎが起きました。日銀の非常出金によって、収まるかに見えましたが、4月に入ると鈴木商店(商社)が倒産。台湾銀行の不良債権問題などが浮上し、揺り返しのような金融不安の波が起きます。事態を沈静化させたのは、若槻内閣に代わり組閣した田中儀一内閣で、大蔵大臣の椅子に座った高橋是清でした。
国民の目に見せて安心させるため、「間に合わなければ、片面だけでも良い」と言って、急ピッチで200円券を増刷させる是清。この目論見は功を奏し、銀行に行くと店頭にお金が積まれている光景を見た人々は、「お金がある」と認識し、騒ぎは収まったのでした。

☀年齢域 24~34歳 1929年~1936年 昭和4年~昭和11年&二・二六事件

1929年(昭和4年)は、世界恐慌。安藤の♀年齢域と☀年齢域が交差する年で、歩兵中尉に昇進。第3大隊第11中隊附に任官します。長くなりますが、彼の1936年(昭和11年)までの☀年齢域。二・二六事件当日と、その後の話に入りますが、まずは世相から。(長めになります)

1929年(昭和4年)7月2日「金解禁・財政緊縮・非募債と現賃」「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて、立憲民主党総裁の濱口雄幸が内閣を始動しました。「金の解禁」とは、一定量の金を標準的な経済単位とする通貨制度。「金本位制度」に戻ることを意味しています。当時アメリカは戦後景気に沸いていて、世界経済に影響を与えてました。
前年の1928年(昭和3年)6月フランスが新平価(5分の1切り下げ)で、金輸出解禁を行なったことから、主要国の中で金解禁をしていない国は、日本だけとなります。
日本は終戦後の過剰設備による経済恐慌。関東大震災や金融恐慌と続いたこともあり、軍部をはじめ各方面からは、金本位制に戻る政策に反対も強く、機会を先延ばしにしていたのでした。
活発化している軍部の動きを抑えて、長い不況から日本国民を解放するには、金の解禁が不可欠と考えた濱口内閣は取り組む気満々。大蔵大臣に元日銀総裁の井上準之助を起用し、あえて国民や民間企業にも負担を強いることで、高コスト高賃金を抑える手に出たのでした。
「経済が厳しければ、節約すればいい」誰もが思いつく方法で、家庭経済が中心の国民には、理解しやすい政策を、最新メディアだったラジオを使って、総理自ら国民に訴えたことも好感度もアップ。徹底した緊縮財政と金融の引き締めを行った濱口内閣は、約3億円の正貨を準備できました。ところが…。
1929年(昭和4年)10月24日アメリカで株の大暴落が発生します。正貨不足で、欧州のデフレの上に、世界経済に影響を与えていたアメリカで株が大暴落したことから、やがて4人に1人が失業者となった世界恐慌が始まりました。  
そのほぼ一月後を迎える同年11月22日。日本政府は、翌年1930年(昭和5年)1月をもって金解禁に踏み切ることを公布したのです。濱口総理が愛国社の佐郷谷留雄に東京駅で銃撃された数日後のことでした。

1930年(昭和5年)1月11日。世界恐慌の最中、日本経済もデフレ状態の中、政府は予定通り金本位制への復帰を進めます。割高な戦前の頃のレートを選択していたため、円高を加速させてしまい、輸出業は大打撃。為替相場を維持するため、さらなる緊縮政策を取ったことから、物価・実質賃金の大暴落。都市部では会社の倒産が相次ぎ、失業率は増大します。農産物は豊作に伴う米価の下落も重なり、東北の農村や漁村で壊滅的な被害が広がりました。
翌1931年(昭和6年)は一転、冷夏による凶作となります。冷夏は1935年(昭和10年)まで続き、農村は娘を身売りさせないと家族全員が餓死するほど、追い詰められる昭和恐慌の幕開けとなったのでした。その間に1934年(昭和8年)3月3日M8.1 の地震と大津波が、三陸を襲ったのです。
世界恐慌の影響と天災も重なりましたが、良かれと思って進めた緊縮財政と、旧平価ではなく、新平価での解禁を主張するエコノミストの声も聞かず、金本位制に舵を切る時期を見誤ったことが、昭和恐慌を深刻化させたのでした。

政治家の怠慢とか、やる気のなさではなく、役人の利権や財界との癒着等でもなく、家庭感経済の感覚で、国の経済を行った経済オンチが実情であったことも知らず、徴兵で田舎から出てきた年若い兵卒たちが、姉の身売りや家族の窮乏を泣きながら話す姿。あまりの話に陸軍の若手将校は、心を痛めます。
自分の給料の大半を、兵卒や彼らの家族のために割く者たちもいました。
「輝三さんは、話をしますか?」心配した親族が、奥さんに尋ねるほど、物静かな旦那さん安藤輝三。この頃、静岡県出身の房子さんという女性と結婚し、新婚ほやほやな時期でした。房子夫人はどう思っていたのか、定かではありませんが、新婚夫婦の暮らしは慎ましく、輝三も兵卒たちに給料を渡していたのです。

永田鉄山を中心とした「一夕会」は、この頃、軍の改革や国家の在り方を議論し合いますが、陸大出身でないと、ここに入ることができません。不況と飢餓が蔓延する厳しい世相の中、正義感はあれど、軍内の改革に携わることができない将校たちは、思想家北一輝の著書「日本改造法案大網」に共感します。版権を譲られた活動家の西田税(元陸軍)によって発行された北一輝版国家改造計画書です。
「明治維新の本義は民主主義にある」と主張する北は、明治維新以降、日本は天皇を代表とした民主国家となった。しかし、政党政治に明け暮れる政治家に官僚。利権に群がる財閥といった特権階級の者たちが、天皇と国民の一体化を阻んでいる。彼らは天皇陛下を誑かす「君側の奸」であると批判し、「天皇と国民が一体化した民主主義国家」の樹立を提唱します。
国家改造計画書なので、天皇と合体した心ある国民(今時風に言うなら意識高い系)による、クーデターを起こすこと。後の新政権樹立の進め方といった革命の起こし方。さらに財界の解体と私有財産の制限。皇室の財産削減等も書かれていて、皇室を肯定しつつも、その存在を縮小、資本主義を否定する共産主義的なテイストが、盛り込まれていました。
正義感はあれど、軍内の改革に携わることができない将校たちは、昭和恐慌の打開して国民を救うため。天皇政治の実現には、天皇陛下と国民の間を分断する「君側の奸」を倒す必要がある。そう思うようになり、「昭和維新」「尊皇討奸」を合言葉に結束し、訴え始めます。

1931年(昭和6年)9月18日満洲奉天付近の柳条湖で、満州鉄道の線路が爆破される柳条湖事件が発生。関東軍を指揮していた石原莞爾中佐は、当初中華民国の犯行と言って、満洲一帯を占領しました。(後に石原中佐の自作自演がわかる)
時の総理大臣は民政党の若槻禮次郎。満州事変を収束できなかった責任から、同年12月13日に若槻内閣は総辞職。次に総理の椅子に座ったのは、政友会の総裁犬養毅でした。
これを好機と捉えた永田鉄山は、政友会の人脈を活用して、教育総監本部長の荒木貞夫を、犬養内閣の陸軍大臣に就任させることに成功します。気さくな性格な荒木は、面倒見もよく、青年将校たちに声をかけては、彼らを自宅に招いて飲み明かす事も多い人でした。日本軍を「皇軍」と呼び、飲みながら「対ソ主戦論者」で意気投合する荒木を、青年将校たちは「改革派」と信じて、陸軍大臣就任を歓迎します。
陸軍大臣となった荒木は、参謀次長に真崎甚三郎を就任させ、軍の中央から宇垣閥や桜会の一掃を始め、空いた席に自身が信頼する陸大出身者を座らせました。さらに自分を信棒する青年将校たちを、東京第1師団に集めます。集められた陸大出身&青年将校たちは、「天皇親政による国家改造を目指す」「ソ連を仮想敵国とする」を指針とする新派閥「皇道派」を形成しました。

強引な荒木のやり方に、疑問や反発心を抱いた軍人、陸大出身たちは、永田鉄山少将の元に集まります。「皇道派」ほど組織化はしないものの、政府との連携を強め、「国家総力戦を想定した技術と近代化を進める」「中国への拡大」を進めたい永田が中心となったグループ「統制派」ができてゆきました。
1931年(昭和6年)12月13日日本経済0.4%の時、第29代総理大臣となった犬養毅は、外務大臣を兼任しながら内閣を始動。金融恐慌を納めた高橋是清が、大蔵大臣に再登板すると、金輸出再禁止。これまでとは真逆なリフレ政策に舵を切りました。
国は積極的な財政出動を行い、国内にお金を流すのが重要と判断した是清は、デフレ脱却のためにあえてインフレを起こしたのです。これによって日本は、世界恐慌から脱してゆくのですが、リフレ政策の効果が出る前の1932年(昭和7年)5月15日日曜日。首相官邸で犬養首相が暗殺される五・一五事件が起きたのでした。
事件の主犯は海軍の青年将校。三上卓中尉に古賀清志中尉たちです。(計画の中心人物だった藤井斉は、出征先の第一次上海事変にて戦死)主な凶行理由は、政党政治への敵視と、2年前の1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議(各国の保有艦の割合を定める条約)の締結内容でした。
当時海軍軍司令部は、米英10割、日本7割を主張。全権大使の一人若槻禮次郎は、米英10割に対し、粘りの交渉を進めて日本6.975割で条約を締結します。この内容に海軍省は納得しましたが、海軍司令部の多くは激怒。青年将校たちも不満を募らせました。不発に終わりましたが、三上卓は、もう一人全権大使である財部彪海軍大臣が、ロンドンから帰国した所を暗殺する計画を立てたのです。

当時政友会の犬養毅と鳩山一郎が、軍令部の反対意見を無視しての条約調印は、「統帥権の干犯」に当たると言い出したことから、議会も荒れました。統帥権とは「天皇が軍隊を指揮・統率する権限」のことです。
犬養たちは「統帥権の干犯」を政権争いの道具として持ち出し、「兵力量の決定権も統帥権に含まれる。政治家は軍部の意向を無視できない」と主張しました。これが国会の中だけでなく、軍令部と海軍の青年将校や、民間の右翼団体も痛烈な政権批判を展開。日本中を巻き込む論争に発展し、わかりやすい経済政策(首を絞める結果になったけど)と軍縮で、人気を得ていた濱口内閣に逆風が吹き出します。
東京駅で濱口総理が狙撃された理由も「統帥権の干犯問題」で、負傷した体で議会を続けた無理から、1931年(昭和6年)4月13日に首相を辞任。8月26日に亡くなりました。
それでも「統帥権干犯問題」は収まらず、クーデターによる国家改造に向けて、海軍将校たちは、立正護国堂の住職・井上日召(宗教家であり政治運動家、テロリスト)。西田税(元日本陸軍軍人で思想家)。大川周明(思想家・国家社会主義者)と陸軍の青年将校とも、活発に交流しました。
農本主義の橘孝三郎が主催する「愛郷塾」の塾生たちを、農民決死隊として参加させたことで、農民の決起という大義名分を得てた海軍の青年将校たちは、陸軍の青年将校たち(後に二・二六事件を起こすメンバー)にも、決起を呼びかけますが、陸軍の青年将校たちは、時期が早いと動かなかったのです。
民間人と違い、軍務による制限や制約がある海軍将校たちに、見切りをつけた井上は血盟団を組織し、陸軍の一部「桜会」と連携。3月と10月に事件を起こしました。どちらも未遂で終わりますが、1932年(昭和7年)2月9日井上準之助大蔵大臣の暗殺。同年3月5日三井財閥の団琢磨が射殺される事件は、血盟団の活動家による犯行で、その後警察により、一網打尽となりました。

その末に犬養毅暗殺(五・一五事件)が起きたのです。主犯は国家改造を目指す海軍の青年将校たち。恨むなら条約を結んだ若槻禮次郎ですが、「今の日本の状態は政府が悪い」「時の総理大臣は悪人」という単純な不満と怒りから、犬養毅が暗殺対象となりました。
皮肉な見方をすれば、犬養たちが持ち出した「統帥権干犯問題」が、彼ら青年将校を決起させ、ツケが返ってきたとも取れますが…。
一転二転の末、計画は5月15日に決行。日曜日で自分たちが休暇外出が可能。来日中の喜劇王チャップリンの歓迎会が首相官邸で行われるため、首相は在邸と踏んで決まったようです。(チャップリンの歓迎会は予定変更。家族は不在のため難を逃れました)  
安藤たちは関与しませんが、襲撃隊に陸軍士官学校本科生も含まれていたのは、元々は陸海共同での決起を目指していたのが要因。暗殺対象のリストには、この決起に反対した西田税も入ってました。
犯行人数は全体で約20名ほど。9名で、拳銃・手榴弾・短刀を持ち、官邸の外に、内大臣邸・立憲政友会本部・三菱現行本店・警視庁・日本銀行・変電所(農民決死隊7名が担当。都内戦域を停電にすることはできなかった)・西田宅を襲撃しますが、犠牲者は犬養毅と警察官1人でした。計画の内容が杜撰だったため、大事に至らなかったのです。 

事件発生後、五・一五事件は約1年ほど、報道管制が引かれました。
安藤輝三は部下の士官候補生たちに対して、「犬養首相は腐敗堕落した政党政治家の中で、数少ない清貧気骨の士であった事だけは、知っておいてほしい」と述べ、その一方、訓示で政治の腐敗と農村の窮乏に手を打たない政府へ、厳しい批判を行いました。その内容に若い候補生たちは心打たれたと言われています。

1933年(昭和8年)3月3日午前2時30分。現・岩手県釜石市の東方沖約200㎞を震源とするM8.1 (気象庁推定)の地震が発生。三陸海岸までの距離があったことから、地震そのもよりも、約30分後に到達した大津波によって、甚大な被害が出ました。
昭和恐慌の最中、東北の農村は、さらなる痛手を受けたのです。
同年5月17日陸軍省、海軍省、司法省が合同で、五・一五事件の概要を公表します。犯人たちの動機にも触れていて、新聞各紙によって、それが余すことなく、情に訴える見出し付きで、世間に報道されました。
長引く不況と震災で疲弊している国民は、自分たちを顧みることなく、政党政治に明け暮れる政治家。政治家と癒着している財閥たちに、強い不信感を抱いていたのです。
それだけに国家の革新を目指した若い将校たちが、腐りきった政党・財閥・特権階級を打破するために、五・一五事件を起こしたとする報道に、多くの人が共感し、強い同情の念を抱きました。裁判が始まると、彼らの主張と政治批判の場と化し、大日本共産党や日本国家社会党といった政治団体も動き出して、世間では減刑運動が盛り上がります。

三上が作詩した「青年日本の歌」が持て囃され、1148000名の減刑嘆願署名が寄せられ、
禁固15年以下という判決で幕を閉じた五・一五事件。社会的な影響として、憲政の常道の崩壊・軍部の台頭が上げられますが、メディアの情に訴える報道と、世間の風潮が、同情による甘い判決の起因になったこと。二・二六事件を決起した青年将校たちにも、甘い期待を抱かせたのは否めない。そう筆者は考えます。
因みに主犯の一人である三上卓ですが、度重なる恩赦で、1938年(昭和13年)7月。5年足らずで出所後は、近衛文麿のブレーンとなり、大政翼賛会の傘下団体の理事に就任。
戦後はクーデター未遂事件を引き越して、1971年(昭和41)年に死去。古賀清志は、1997年(平成9年)89歳まで存命しています。
1833年(昭和8年)震災後のある日、安藤輝三は、二人の青年を伴い、とある人物を訪ねました。彼らを温かく迎え入れたのは、鈴木貫太郎(予備役海軍大将)です。この頃の鈴木貫太郎は、天皇陛下に奉仕する侍従長を担っていました。27歳の青年将校たちを、快く邸に招いただけでなく、親しく歴史観や国家観を説き諭したそうです。
懐の深い鈴木の言葉に、安藤は感銘するところがあったのでしょう。「今日は誠にありがたいお話を伺って、胸がサッパリしました」と、深々と頭を下げ、帰り道では「鈴木閣下は見ると聞くとは大違いだ。あの方は西郷隆盛にそっくりだ」と、強い敬意の念を述べています。

犬養内閣退陣後、海軍大臣を務めていた斎藤実海軍大将が第30代総理大臣となり、内閣を発足しました。陸軍大臣は荒木の留任となりましたが、国家観やビジョンのない荒木は、この頃になると、皇道派からも見限られていて、1934年(昭和9年)1月23日に陸軍大臣を辞任。後任の陸軍大臣には、陸軍大将林銑十郎が着きます。これまで皇道派寄りと見られていましたが、林は過激な皇道派を見限っていました。統制派のリーダーである永田鉄山を、軍務局長に就任させます。軍部中央に戻った永田は、林の権力をバックに、皇道派の重鎮を排除して、統制派の軍部復権を進めます。

同年8月1日安藤は歩兵大尉。補第3大隊副官となりました。11月には、安藤と士官学校同期だった磯部浅一一等主計と、皇道派同志の村中考次大尉が、士官学校の生徒と共謀して、元老や重臣襲撃するクーデター計画が漏洩しました。
磯部と村中は、拘束監禁されますが、不起訴。但し、翌年に停職を言い渡されます。この計画には安藤も加担したとされますが、安藤は罪に問われませんでした。磯部たちの計画そのものが、士官学校に派遣されていた参謀本部付の辻政信大尉(統制派)によるでっち上げ説もあるのです。皇道派の駆逐を進める際、過激な磯部たちを黙らせる狙いがあったのかもしれません。

1935年(昭和10年)1月27日。安藤は29歳で歩兵第3連隊の第2大隊第6中隊長に就任しました。第6中隊は、安藤が尊敬してやまない秩父宮殿下が中隊長を努めた由緒正しい「殿下中隊」です。案じる思いもあったのでしょう。人事には、秩父宮殿下の口添えもあり「第6中隊の伝統を守ってくれよ」と、秩父宮殿下は、直接安藤を激励します。
「皇道派」に属している安藤は、中隊長に就任の際、直属の上司・井出宣時歩兵第3連隊長に、自ら「直接行動はいたしませぬ」の証文を提出しました。
「統制派」の永田も、安藤の第6中隊長就任を喜んだ一人でした。第6中隊長として、安藤が下士官と将校の教育計画の企画をしたことが、永田に伝わると「安藤なら大丈夫だ。教育の構想、講師の人選、運営など一切は安藤に任せて、決して干渉をするな」と、予算付きで快諾。「皇道派」の中にあって、強引な決起よりもあくまで合法的闘争の道を主張する安藤輝三は、秩父宮殿下に永田鉄山からも信頼されたのです。
一方で永田による「皇道派」の駆逐は続きました。同年7月15日。教育総監の真崎甚三郎が、つい更迭されます。これに「皇道派」の青年将校たちは激怒。荒木と真崎は、軍事参議官会議の場で抗議しますが、渡辺錠太郎陸軍大将に言いくるめられました。
その言いくるめた渡辺が、空いた教育総監の椅子に就任したことから、「皇道派」の怒りは、永田鉄山に向かいます。その頃、「粛軍に関する意見書」を軍内でばら撒いた上、軍の体制を批判した磯部と村中は、8月2日に免官となりました。
同年8月12日。安藤とも親交のあった「皇道派」の青年将校相澤三郎中佐が上京。白昼の陸軍省内で永田鉄山を惨殺してしまいます。
当日、西田から事件の予兆を聞かされた磯部は陸軍省に向かい、永田の死にショックを受けている中央幕僚たちの姿を見て、嘲笑しながら昭和維新の完遂を決意。その後、磯部と村中の動は「皇道派」の重鎮山下奉文軍事調査部長や真崎とも接触。昭和維新の決起の賛意を確信しました。

クーデターはまずい。そう思った安藤は、1936年(昭和11年)2月上旬。15~ 6人の将校を連れて、山下邸を訪問します。磯部や村中は、昭和維新の断行を主張しますが、安藤は決起には反対の立場を取り続けていました。
山下は安藤たちに、数日前に自身が面会した相澤の近況と、開廷中の裁判の様子を伝えます。相澤の裁判は1月28日から始まっていて、「皇道派」は、公判を「統制派」批判に利用する法廷闘争を展開していたのです。山下は相澤を擁護し、話題が第31代岡田総理大臣(1934年7月8日~1936年3月9日)の事に移ると「岡田なんかぶった斬るんだ」と、述べる有様でした。

「決起趣意書」を携えて安藤は、野中四郎大尉と共に、再び山中邸を訪れます。野中大尉は、「皇道派」ではなく、相澤事件と公判を通じて、安藤たちと知り合った人物でした。
「決起趣意書」は昭和天皇に決起の理由を伝達する訴状のことで、<昭和維新を妨げる理由として、政治家や官僚、および統帥権を干犯する軍人たちがあり、これらの奸賊を我々が誅滅しました>といった内容で、その他に、真崎を総理大臣とした軍事政権の樹立。その準備として戒厳令を敷く等、かなり具体的な要望も盛り込んでありました。
山下は無言のまま「決起趣意書」の数か所を添削し、黙認という立場を取った模様。これが「皇道派」の将校たちに弾みをつけました。
2月18日に開かれた青年将校の会合でも、安藤はこれまでと同様、決起には反対の姿勢を見せます。「安藤が起てば、三連隊は動く」(陸だと1000~3000人。2個大隊程)と呼ばれるほど、兵卒から信頼と支持をえている安藤と違い、免官している磯部と村中は、軍を動かせる立場にありません。安藤抜きではクーデター失敗が明らかでした。

「皇道派」の青年将校たちの不穏な気配を察知した「統制派」は、青年将校の多くが所属している東京第1師団歩兵第1連隊や、歩兵第3連隊の満洲派遣を決定。
2月22日に通達します。出立は3月1日。青年将校たちはこの決定を「昭和維新の妨げ」と捉え、満洲派遣前の「2月26日」に、決行を決めました。
「同志を見殺しにはできない」と、安藤は昭和維新に参加を決意します。
天皇陛下を誑かしている政治家や官僚、軍人たち君側の奸。いわゆる暗殺対象も決まりました。自分たちは権力の行使をする「統制派」や「桜会」と異なり、君側の奸を排除する役目を果たすのみ。後は、昭和天皇に全てをお委ねして、自分たちは腹を切る。
青年将校たちは、昭和維新を完遂した後、腹を切る思いがあったのです。ですが、同じように腹を切る覚悟の上で、五・一五事件を起こした三上たちに、全国から同情の嘆願書が届いて、刑期が「15年」と短くなったことから、世間は味方についてくれるという、甘い気持ちが内在しても、不思議はありません。
攻撃側人数約1500人。襲撃場所は16か所。軍上層部と交渉する者と、部隊を率いて各地を襲撃したり占拠する者に別れて行動するなど、様々なことを決めてゆきます。
翌2月23日。東京には36㎝の雪が積もりました。

二・二六事件

(細かい部分は端折りますが,気になる方は、「二・二六事件」を検索してみてください)

ホロスコープは、決行日と終了した日です。


2月26日 AM5:00



2月29日 PM17:00
 第1室 国家・国家イメージ・国民や民衆
 第2室 財政・金融市場・金融機関・国内取引
 第3室 輸送・郵便・交通・通信・メディア・教育・文学・文字
 第4室 土地・家屋・不動産・農業・農作物・飼育・鉱山・気象・野党
 第5室 投機・証券取引・植民地
 第6室 健康・衛星・兵役・軍隊・警察・消防・公務員・労働者
 第7室 外交・条約・同盟連盟・紛争・ビジネス・合意
 第8室 税金・証券・債務・遺言・相続・損失・社会保障・国際金融
 第9室 外国・宗教・教会・法律・立法・研究・投資
 第10室 政府・与党・国会・真相・上流社会・大統領
 第11室 通貨・議会・地方自治体
 第12室 密約・密室・慈善事業・刑務所・拘束・スパイ・内なる敵
12室に分けることは同じですが、個人を見る時と、事象を見る時、その部屋が持つ意味合い。天体の意味合いがちょっと違います。2月26日なので、☀は♓に入って日も浅く、♓6°3。♄も♓にあり、これが11°なので緩めなコンジャンクション。大きく方向性を変えるようなことや、教訓になるようなことが起きやすいですが、☀♄なのでかなり重め。
これが12星座ラストの♓にあるのも意味深く、しかもどちらも7室♍♆Rと、オポジション。理想的契約や合意を求めての行為。何かを終わらせる予兆とも取れます。ただし♆なので、どこかすっきり感がない。この♆は、第11室の♐♃と緊張角度。♑☊Rとは調和。土星座同士の方が、相性は良さげですが、成功のために困難を伴ったり、足の引っ張り合いみたいなことも起こりそう。♐♃は第2室の♈☽と調和。協力者や資金提供者もいるのがわかります。(実際、事件直後に永田町一帯を占拠した時、青年将校たちは赤坂で、支援者たちと祝いの酒を飲んでいます。差し入れを持ってくる人もいた模様)
第3室♉に入って間もない♅は、第6室の♋♇。第1室♒の☿。第12室♒の♀と緊張角度。二・二六事件は、陸軍の将校たちが中心となり、破壊と生をかけた戦いととれます。
事件が終わる2月29日(閏年なので29日まで)青年将校が逮捕される時間の17時で、ホロスコープを取りました。期間が短いので、大きく変わるのは、ASC・MC・☽。
♈の月で始まり、♊の☽で終わっていること。26日のASCは、♒で、29日は♍。MCは深淵の♏で始まり、守りの♉で終わっています。よく見ると、29日は♍♆が第1室。まるで反転したように見えるホロスコープです。
♆と♓の☀♄は、対立する考えが同時多発する感じで、オポジション。第9室の♉♅は、生きることへの厳しさ、敵味方をはっきりさせる効果も含んでいるようです。因みに昭和天皇は、☀♉。今回ピックアップしている安藤輝三は、2月25日生まれ。実年齢31になっていますが、約30年に1回巡ってくるサターンリターンが終わったばかりな年に、関わっています。彼の第2室♈に♀♃があり、これが1936年2月26日には、♈に♂と☽が来ます。献身的で優しい彼が、計画に参加したこと。3連隊を動かせるほど、部下が慕うひとなので、この人の参加で、下士官の参加人数が変わったことや、☽♃割とお金絡むので、金切りがうまくいくとか、あったのかもしれません。安藤の♇Rは♊にあり、二・二六事件が幕を閉じた2月29日。☽は♊というもの意味深く思います。

天皇陛下を誑かしている政治家や官僚、軍人たち君側の奸。いわゆる暗殺対象も決まりました。自分たちは権力の行使をする統制派や桜会と異なり、君側の奸を排除する役目を果たすのみ。後は、昭和天皇に全てをお委ねして、自分たちは腹を切る。
青年将校たちは、昭和維新を完遂した後、腹を切る思いがあったのです。ただ同じように腹を切る覚悟の上で、五・一五事件を起こした三上たちに、全国から同情の嘆願書が届き、刑期が「15年」と短くなったのを見ていることから、世間は味方についてくれるという、甘い気持ちが内在しても、不思議はありません。
攻撃側人数約1500人。襲撃場所は16か所。軍上層部と交渉する者と、部隊を率いて各地を襲撃したり占拠する者に別れて行動するなど、様々なことを決めてゆきます。

2月26日明け方。まだ暗い闇に紛れて青年将校たちは、重機関銃。軽機関銃、小銃、拳銃、銃剣、軍刀等を携えた1473名の下士官を率いて、各自の持ち場に向かいました。下士官兵は、積極的に参加した者もいれば、任務としての出動と思っていた者もいたのです。
安藤の襲撃相手は、鈴木貫太郎侍従長。来訪したことがあり、邸宅の間取りがわかっていると自ら申し出たのでした。但し表向きな理由。暗殺するなら、せめて自分の手でという思いもあったようです。
午前5時
磯部・村中・香田清貞大尉等と約150名の兵で陸軍省を占拠。
野中大尉ら約400名が警視庁を占拠(警察権発動停止を目的)。

午前5時5分頃
中橋基明中尉が約100名の兵を率いて高橋是清邸を襲撃。(岡田内閣の大蔵大臣)
是清を殺害。
坂井直中尉と150名の兵が、当時内大臣だった斎藤実邸を襲撃。殺害に成功。
夫がハチの巣にされるのを目の当たりにした春子夫人は、「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃を乱射する将校と、倒れた斎藤の前に立ちふさがり、制止させようと筒先を掴んだため、腕に重症を負いました。直に手当がなされますが、化膿とショックで一週間近く高熱が続いたそうです。

午前5時10分頃
栗原安秀中尉ら300名で総理官邸を襲撃。銃撃戦の末、警察官4人を殺害。
岡田総理を射殺(後に岡田の義弟松尾伝蔵と判明。岡田総理は女中部屋の押入れに匿われて、後に無事が確認される)
安藤輝三大尉、約150名の兵を伴い鈴木邸を襲撃。
部隊を二つに分けます。最初に鈴木を発見したのは、永田曹長の部隊でした。堂入曹長の発砲命令と共に、数発の銃声が鈴木貫太郎を襲います。安藤が襲撃部屋に到着した時、兵士たちに囲まれて倒れている鈴木。夫に庇い寄り添う、たか夫人の姿がありました。まだ息がある鈴木。トドメを刺すため軍刀を抜いた安藤に、
「老人ですから、トドメはやめてください。どうしてもというなら、私がいたします」と気丈に訴える、たか夫人。その姿に、軍刀を収めた安藤は、「鈴木侍従長閣下に敬礼する」と号令。戦闘状態を解除して、たかの前に歩み出て「まことにお気の毒なことをいたしました。我々は、閣下に対して何の恨みもありませんが、国家改造のために。やむを得ずこうした行動をとったのであります」と語りました。
「あなたはどなたです」たかがと尋ねると、「安藤輝三」と答え、静かに兵を撤退させたのでした。蘇生の可能性はない。そう思えたほどの重症を鈴木が負ったことと、たかに感銘を受け、トドメを刺さなかったのです。(鈴木貫太郎については、鈴木貫太郎の回を参照ください。)

野中隊に占拠された警視庁ですが、通信機器は外部とつながっていました。警視庁の各部署長は、既に状況を把握。神田錦町警察署に「非常警備総司令部」が設置され、各襲撃先から続々と惨状が知らされますが、ほぼ同時多発襲撃だったことから、止めることができませんでした。
安藤の率いる部隊が引いてすぐ、たかは電話で急報&宮内庁の医師の派遣要請を、昭和天皇に伝えます。甘露寺受長侍従から事態を知った昭和天皇は、「とうとうやったか」「全く私の不徳の致すところだ」と言って、軍装に着替え、執務室に向かいました。
夫の貫太郎が侍従長なら、妻のたかは昭和天皇が4歳から15歳の時まで、皇孫御用掛として使えていた女性。昭和天皇にとって、とても親しく身近な間柄だったのです。なのでダイレクトに情報が入ったのでした。
イギリス流の立憲君主制「君臨すれども統治せず」の立場を厳守する昭和天皇でしたが、事件を起こした青年将校を「賊軍」と呼び、敵意を抱きます。
5時20分
斎藤の書生から、斎藤邸襲撃の一報が、木戸幸一内大臣秘書長に入ると、瞬く間に小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の秘書原田熊雄、らに貴族院議長を務めていた近衛文麿にも伝達されました。
温厚で天皇陛下の信任厚い鈴木実が、一方的に殺害された事。庇った奥様も重症を負ったことに全員大激怒。反乱軍の成功に結びつく暫定内閣や、後継内閣を成立させない。宮中グループの意見は、即座にまとまります。こうして昭和天皇の元に、内大臣から全力で反乱軍鎮圧の旨が上奏されました。
青年将校たちは、君側の奸を自分たちが排除した後の事は、昭和天皇に委ねる政策でしたが、実務能力の高い宮中グループの存在を意識していなかったのです。昭和天皇と宮中グループを敵に回した時点で、昭和維新は失敗でした。この時点で青年将校彼らは、それを知る由もなかったのです。

午前5時40分
河野寿大尉ら8名、元内大臣の牧野伸顕を襲撃。難を逃れています。
午前6時
安田優少尉ら30名杉並区上荻にある渡辺錠太郎教育総監宅を襲撃。陸軍省に連行の予定が暗殺となる。クーデター発生から約1時間経過しているので、渡辺の立場上、事態を知らないのが不自然で、内通者説もある。
午前6時35分頃
後藤文夫内務大臣の邸宅が襲撃されるが、外出中で難を逃れた。

一方で、6時30頃、磯部と香田は現陸軍大臣川島義之大将と会見を行います。川島は「皇道派」と「統制派」のどちらにも属さない軍人でした。「決起趣意書」を読み上げた香田は、「事態が安定するまで選挙態勢を維持」「真崎等、皇道派の重鎮を陸軍省に招致」等、要すると、川島はこれを受け入れました。
午前8時頃、荒木・真崎・山下等、皇道派の重鎮が陸軍省に訪れます。勲一等の勲章を胸に付けてやってきた真崎は、青年将校たちにねぎらいの言葉をかけた模様。
午前9時頃
青年将校の「決起趣意書」を携えた川島陸軍大臣は拝謁。普段は背広姿な昭和天皇が、大元帥の軍服を着用しているのを理解できないまま上奏しました。
「どうしてそんなものを読み聞かせるのか、事件を鎮圧せよ」と、一括された昭和天皇は、その後何度も本庄繁武官長を呼び出し、「速やかに事件を鎮圧せよ」と命令されました。

宮中がそんな状況とも知らず、安藤の指揮の下、多くの部隊が東京朝日新聞をはじめとする各新聞社。永田町・霞が関一帯を占拠します。そこに足を踏み入れたのが、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐(満州事変の首謀者)でした。下士官たちは、石原に銃口を突きつけますが、「何が維新だ。この石原を殺したければ、直接貴様の手で殺せ」と、怒鳴る気迫に、発砲できなかったという話があります。
石原も無茶苦茶な一面がありますが、多くの下士官を巻き込んだ将校たちのクーデターに腹を立てて、陸軍相官邸に乗り込むべく足を運んだのでした。
「皇道派」と「統制派」の争いこそあれ、同じ陸軍。軍部の中には青年将校たちに同情し、「子供のしりぬぐいをしてやろう」的な心境な者もいたのです。正午には軍事参議官たちによる非公式会議が行われ、「穏便に事態を収拾させる」という方針が決まりました。

岡田内閣の閣僚達も動き出して、首相臨時代理に後藤文夫内務大臣が指名されます。後藤は事件の責任を取り、内閣総辞職の意を昭和天皇に提出しますが、「時局の収拾を優先せよ」と返されたことから、辞表は一時預かり。内閣は存続となりました。
昭和天皇と宮中グループは、反乱軍の成功に結びつく暫定内閣や、後継内閣を成立させない方針でいましたが、ここで内閣総辞職をしたら、皇道派主体の内閣ができた危険もあったのです。 

2月27日午前3時。真夜中に戒厳令が宣告され、九段の軍人会館に、戒厳令司令部が儲けられました。これは事態の収束を川島に強く働きかけた石原莞爾(満州事変の首謀者)による案で、青年将校たちの鎮圧を目的としたものでした。司令官は香椎浩平中将が司令官となり、石原が改元参謀に任命されますが、香椎は青年将校たちに同情的で、武力鎮圧に躊躇します。
「日本改造法案大網」の「クーデター後は、天皇の命で三年間憲法を停止し、全国に戒厳令を敷く」という構想を模して、昭和維新に「戒厳令を敷く」を盛り込んだ青年将校たちには、今、目の前で敷かれた戒厳令が、「昭和維新を果たすために敷かれた戒厳令」か、「自分たちを鎮圧する戒厳令」なのか、区別がつきませんでした。
一方海軍ですが、鈴木貫太郎(予備役海軍大将)は危篤状態。斎藤実(退役海軍大将)が惨殺されたこともあり、26日午前には徹底抗戦を発令しています。
午前8時20分に参謀本部から「青年将校は原隊復帰する事」という奉勅命令が上奏され、昭和天皇は即裁可しました。青年将校たちは兵を収めないと「逆賊」確定となったのです。
昭和維新、クーデターは完全に失敗となったのですが、陸軍首脳部は同情的で、本庄繁武官長は「青年将校の精神だけでも認めてほしい」と、昭和天皇に上奏しました。
「凶暴な将校に許しを与える必要はない」と、一蹴されます。
さらに12時45分ごろ。ハッキリしない状況に昭和天皇は「朕自ら近衛兵団を率いて、鎮定に当たらん」と、徹底鎮圧の指示を川島陸軍大臣に伝達。
13時頃、岡田総理の生存確認と救出の一報が入り、内閣瓦解の必要は消えました。
この状況を受け、ようやく陸軍全体で「青年将校鎮圧」にシフト。青年将校たちが心のよりどころとした真崎甚三郎は、あっさり裏切って原隊復帰を呼びかけたのです。

2月28日0時。青年将校に奉勅命令が伝わりました。
敗北の色が濃い中、将校自決と、下士官の原隊復帰を条件に、昭和天皇に勅使を派遣してもらい、自分たちの意志を伝えたいとする栗原中尉の意思は、本庄を通じて昭和天皇に上奏されますが、「自決するなら勝手に為すべく、此の如きものに勅使など以ての外なり」と、本庄を叱責。クーデターに対して、徹底的な態度を崩さなかったのです。
同日16時。戒厳司令部は、ついに武力鎮圧を表明しました。対する青年将校たちは、首相官邸・陸軍省・参謀本部・山王ホテル(この当時は赤坂)に布陣して、徹底抗戦の構えを取ります。安藤の率いる部隊は、山王ホテルに立てこもりました。
この頃には青年将校や下士官の家族にも、クーデターのことが知らされて、ビックリした数百人の父兄が上京。兵第3連隊司令部前に集まっていたのです。安藤の妻も、軍部から知らされるまで、何も知らない一人でした。

2月29日午前5時10分には討伐命令。8時30分には攻撃開始命令が下されます。陸海軍たちは、青年将校たちを包囲しつつ、ビラ、ラジオ、アドバルーン等をフル活用して、投降を呼びかけました。集まった家族や、直属上官の涙ながらの説得等もあって、攻撃開始命令から6時間後の14時頃、下士官たちは原隊に復帰し、陸相官邸に集まる青年将校たち。 
彼らが自決することを想定した陸軍首脳部は、30あまりの棺桶を準備しました。
「軍法会議で昭和維新の正当性を訴える」と主張する野中大尉の言葉に、将校たちは自決ではなく、生きる道を選択します。
投獄に反対した安藤。安藤と死ぬつもりでいた第6中隊の隊員は、誰も欠けることがなく、抗戦を続けました。
磯部の説得でようやく銃を引いた安藤は、兵士を整列させると。最後の訓示を与えた後、「吾等の第六中隊」の歌を皆で合唱。歌が終わった瞬間、自らに向けて拳銃を発射したのでした。異変に気付いた部下が、発射直後に制止に入ったことから手元が狂い、昏倒した安藤は陸軍病院で手当を受けて、一命を取り留めました。
17時には、青年将校たちが逮捕され、昭和維新(二・二六事件)は幕を下ろします。
皆を説得した野中大尉ですが、説得の途中で山下や井出宣時大佐に連れ出されますが、その後自決しました。青年将校たちは、強要と認識しますが、実際は本人の遺志なのか、強要があってのことか不明です。 
1936年(昭和11年)3月9日。二・二六事件直後の3月に、岡田内閣は責任を取り内閣総辞職。元老西園寺公望は、血統・社会的名声共にある近衛文麿貴族院議長を最適任者とみなします。二・二六は身近な人を殺されたことで怒った近衛ですが、根本は改革主義で心情的には「皇道派」に近い人でした。テロリズムを抑え込む象徴として、自分が取り立てる事に反発し、第32代内閣総理大臣には、広田弘毅が就任します。
荒木と真崎は3月10に予備役となりました。(黒幕説のある真崎甚三郎は、9月25日無罪判決)無派閥だけど、青年将校に同情的だった川島陸軍大臣、本庄繫武官。香椎中将も予備役。山口と牟田口を含む「皇道派」の多くは、予備役を免れますが、中央から左遷されて大陸送りとなります。
「皇道派」は壊滅し、「統制派」が陸軍内と政府に影響力を持ってゆくのでした。実際、広田内閣では軍部の様々な要求を吞み、なんと「現役の中将か大将しか陸軍大臣になれない」軍部大臣現役武官制を復活させます。予備役になった荒木や真崎にも、陸軍大臣になれる道があるチャンスを潰すのが目的でした。しかし、軍部大臣現役武官制は、内閣に不満を持った陸海軍が、大臣を辞任させ、後任の大臣を出さなかった場合、その内閣は無条件で総辞職しなければならない代物。おかげで内閣は軍部の意向を無視はできなくなり、軍部の発言力が増してゆく状況で、日中戦争に太平洋戦争を迎えたのです。

青年将校たちが、昭和維新の正当性を訴える事を望んだ軍法会議ですが、4月28日に行われました。回復した安藤もこの日に裁かれますが、非公開。動機の審理も行われず、迅速に進みます。昭和維新の正当性や精神を訴える機会はなかったのでした。
五・一五事件に永田を惨殺した相澤事件は、通常公開で行われ、それ故に、青年将校の主張や思想を世論に訴えたり、同情を引く場と化した事を鑑みての裁判だったのです。
7月5日には17名が死刑判決。関係者には有期刑の判決が下りました。(7月3日には相澤が銃殺刑となっています)
7月12日旧東京陸軍刑務所敷地内で、磯部浅一・村中幸次を除く15名に、死刑が執行され、安藤輝三も亡くなります。刑場の隣は、過去に安藤が秩父宮殿下から教えを受けた代々木練兵場がありました。安藤は死の間際に「秩父宮殿下万歳」と、叫んだそうです。

広前の歩兵連隊で大隊長を務めていた秩父宮殿下は、二・二六事件が起きた時、許可を取った上で、翌日の夕方(2月27日ですね)には上京し、昭和天皇に拝謁なさいました。
「叱られたよ」と28日には述べており、安藤たちの嘆願、もしくは減刑を昭和天皇に求めたのかもしれません。
襲撃後、命を取り留めた鈴木貫太郎は、安藤の刑死を知ると、「安藤がとどめを刺さなかったから、自分は生きることができた。彼は私の命の恩人だ」「首魁のような立場にいたから、やむを得ずあぁいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べて、彼の死を偲びました。
傷の経過のために侍従長こそ退任しますが、この後に昭和天皇の願いで、鈴木は、1945年(昭和20年)4月7日から、時代の大役を引き受けます。二・二六事件当日、安藤が行った事が、太平洋戦争の末期に、大きな影響をもたらしたのでした。

1937年(昭和12年)8月14日北一輝と西田税は民間人ですが、青年将校たちの理論的指導者として、死刑判決が下ります。8月19日磯部・村中と共に刑が執行されました。
クーデターに駆り出された下士官たちは、原隊に復帰こそできましたが、参加前と後で、隊長や他の隊員たちからの対応が変わり、つらい思いをしたそうです。大陸等の最前線に駆り出され戦死した者もいました。

大日本帝国憲法では、「天皇は輔弼する国見大臣の署名がないと国策を決定できない仕組み」でしたが、二・二六事件は、岡田啓介総理大臣不在。斎藤実内大臣。リフレ政策で日本を昭和恐慌から救った高橋是清大蔵大臣の暗殺。鈴木貫太郎侍従長重症と、極限に近い緊急事態でした。青年将校に対して、同情する軍部の空気をものともせず、昭和天皇の鎮圧への毅然とした態度が、事件を収束させたといえます。
その後2月26日は昭和天皇にとっても、重要な日となり、毎年この日は祝い事から離れ、静かに過ごされていらしたそうです。

今回は個人にスポットを当てつつ、二・二六事件当日の星回りも加えて、一つの事件が起きた背景、その後を追い含めまとめました。
飢饉に苦しむ農村からやってくる兵卒に心痛め、弱い者たち、苦しむ者を顧みない国や政府に憤る青年将校に限らず、純粋な正義感をもっていたとしても、テロは殺人と破壊行為でしかなく、二・二六事件を起こした彼らの行動は、その後軍部と政府の均衡を崩してしまったし、それが日中戦争や太平洋戦争への影響となりました。断じて認められるものではありません。その中で安藤輝三という青年将校は、上官に期待され、下士官から慕われ、統制派とか皇道派という立場を越えて、信頼される人であっただけに、鈴木侍従長同様、惜しい若者を死なせてしまった哀しさがあります。