カミソリ陸奥に見出された経験と知性。諸外国の公使に「ねずみ公使」と呼ばれた外交官小村は日露戦争のポーツマス条約と、幕末に結んだ不平等条約を撤廃、関税自主権の回復を行いました。どうにもならない貧乏エピソード。ポーツマス条約締結を決めた時など、星読みと織り交ぜながら、見てゆきたいと思います。

小村寿太郎ホロスコープ1855年10月26日(安政2年9月16日)


誕生時間不明(12時設定)
宮崎県日南市飫肥(日向国の飫肥藩)生まれ。
☀星座 ♏ 2°8
☽星座 ♉ 12°59 (24時間☽のふり幅♉5°52~♉20°02)


第1室(本人の部屋)☀・☿。
第7室(契約の部屋)に、☊・☽・♇・♅。♉のステリウム。
第11室(友人希望の部屋)♂・♀。

散らばり感のあるホロスコープです。形としては、スプラッシュタイプと言っていいでしょう。♉のステリウムと、♂・♀のある♍は、土星座。
☀星座♏の他、水星座に星があるのは、第5室(嗜好の部屋)♓♆。
♃のある第4室(家族の部屋)は、♒。♄のある第8室(授受の部屋)は、♊で、どちらも風星座。火の星座の部屋には、星が入っていないこと。
いずれも、不動宮星座と柔軟星座ばかりで、活動宮に星がないというのもの特徴です。
☀と☿が近いことで、情報収集力は高く、これが同じく水星座の♓の♆と、知性と流動のトリンなので、多種多様なことに興味を持ち、知識の幅も広いでしょう。♉のステリウムと、☀。☽と☿のオポジションを見ると、満月生まれというのもわかります。

性格的に円満で、努力家。ですが、どこか抜け目なく、かなり独創的な活動をするため、人によっては、苦手意識を抱くことも起こりえます。
社会からのめぐり合わせ(自分以外の人、物事)を見る第8室♊の♄と、♏の☀は、スクエア。この2つの天体は、♍の♂ともセキスタイルで、影響し合うので、何事にも過敏に反応する♊のマイナス面を抑えているとも取れます。

小村寿太郎年表(ウィキ・その他資料参考に作成)

1855年10月26日(安政2年)9月16日日向国飫肥藩下級武士小村寛平と梅(梅子説あり)夫妻の長男として、生まれる。
1859年(安政6年)私塾に入塾
1861年(文久元年)飫肥藩校振徳堂へ入校
1868年(明治元年)鳥羽伏見の戦い・振徳堂東寮入寮
1869年(明治2年)振徳堂卒業・長崎留学
1870年(明治3年)大学南校(東大の前身)
1875年(明治8年)ハーバード大学入学(文部省第1回留学生)
1877年(明治10年)ハーバード大学法学部卒業。専修科に進む。西南戦争で、恩師小倉処平 戦没
1878年(明治11年)専科卒業後、ニューヨークにある弁護士事務所で研修
1880年(明治13年)帰国。その後司法省に勤務。
1881年(明治14年)旧幕臣朝比奈孝一の娘マチと結婚・判事就任
1884年(明治17年)外務権少書記官・公信局勤務 
1885年(明治18年)外務省通訳局勤務
1888年(明治21年)外務省通訳局局長就任
1893年(明治26年)清国公使館参事官・清国公使館一等書記官。清国臨時代理公使就任
1894年(明治27年)日清戦争勃発。北京から帰国し、外務省政務局長就任。
1896年(明治29年)外務次官就任(外務大臣は大隈重信)
1898年(明治31年)米国公使就任
1900年(明治33年)ロシア公使・清国公使就任
1901年(明治34年)外務大臣就任
1902年(明治35年)日英同盟調印・男爵を叙す
1904年(明治37年)日露戦争勃発
1905年(明治38年)ポーツマス条約調印(9月5日)
1906年(明治39年)外務大臣辞職・枢機顧問官・英国大使
1907年(明治40年)伯爵 授爵
1908年(明治41年)外務大臣再任・条約改正準備委員長
1910年(明治43年)第2回日露協約調印・韓国併合
1911年(明治44年)条約改正(幕末に結んだ不平等条約が終わる) 
1912年(明治45年)8月25日第2次桂内閣総辞職。外相を引退。神奈川県葉山へ移住。11月26日 死去 享年56歳。12月2日 外務省葬が執り行われる。

小村寿太郎惑星history

●☽年齢域 0~7歳 1855~1862 (安政2年~文久2年)

1855年10月26日(安政2年9月16日)小村寿太郎は、日向国飫肥藩に使える小村寛平・梅夫妻の長男として、生まれました。これは、明治政府を悩ませた不平等条約である、日米和親条約・日露和親条約が締結された翌年に当たります。(名前の寿太郎の表記には、「壽太郎」と記す書物もあり。本編は小村寿太郎・もしくは寿太郎と表記します)

小村家は18石取りの下級武士。飫肥藩と藩を尋ねてくる客人の中継ぎ役を行う、町別当役を担っていました。そのため、小村家の屋敷は、町人が住む地域にあり、敷地内に「客屋」という、宿泊者専用の棟があったのです。
 飫肥藩に用事のある人は、この「客屋」に泊まり、小村家から、要件を藩に取り次いでもらうのでした。全国地図を作成した伊能忠敬も、こちらに滞在しています。

そのため、小村家は藩外の情報も早く入り、農・工・商ともつながりが深く、経済に明るい家出した。寿太郎の母・梅(梅子という表記もあり。本編は梅と表記します)は、商家の生まれなのも、頷けます。
長男として、生まれた寿太郎(第二子で7人兄弟)ですが、産後、梅は体調を崩して、満足に母乳を与えることができず、母乳不足が、彼の体格に影響を与えたという話が、まず出てきます。小村の身長は、156㎝と143㎝説もあり。
156㎝だと、当時の日本人男性の平均身長で、特別「低い」わけではありません。ポーツマス条約等、外国人を含む数人で写っている写真を見ると、143㎝の方が有力だし、「低い」といえます。背が伸びなかった説は、なんともですが、虚弱な体質だったようです。

母の体調は回復しますが、人の出入りの多い小村家は多忙で、月年齢域(幼年期)の寿太郎の面倒は、祖母の熊が見ました。優しくも厳しいおばあちゃんは、毎朝、弁慶の話や源平合戦。豊臣秀吉の話など、読み聞かせたそうです。これは武士道精神を含め、小村の人格形成に、大きな影響を与えたのでしょう。
4歳で私塾に通う寿太郎。常にそろばんを持ち歩き、広い農地を持つ叔父の仕事を手伝ったそうです。☽年齢域が終わる頃、藩校「振徳堂」に、寿太郎は入学。
通学したての頃は、祖母が毎朝手を引いて登校。朝一番にやってきて、素読の指南を受けました。
●☿年齢域 7~15歳 1862~1870年 (文久2年~明治3年)

虚弱気味で寡黙で、うつむきがちな寿太郎(常に本を読んでいたため)イジメにもあったようです。ところが、剣術の稽古では、どんなに大きな相手でも、臆せずち向かってゆきました。成績優秀で、句読師(教師)の間でも、注目されます。

その一方で、下級武士の家の子なので、学費を免除してもらう代わりに、門番や給仕等の仕事をしなければなりません。動きの素早い寿太郎、サクサクと手際よく仕事をこなし、勉強に勤しんだそうです。

1868年(慶応4/明治元年)鳥羽伏見の戦いに始まり、戊辰戦争真っ只中な時期、13歳になった寿太郎は、振徳堂東寮の寮生になりました。本来は14歳以上の者が対象ですが、師の言いつけを守る素行の良さと、入学から約8年。無遅刻無欠席を貫いた信頼。学業成績がものを言っての特別入寮です。父親の願いも聞き届けられ、「将命」を引き受けることも決まりました。これは、校内外の清掃と雑務。校門の開閉を引き受ける役で、今でいう用務員さんに清掃業的な仕事です。対象となるのは、品行方正な者に限り、認められると、学費を免除してもらえる制度でした。

学問好きな寿太郎。卒業が近くなる頃は、家業を継ぐのが順当なれど、古典や儒学の学者への憧れ。6歳年上の叔父のように、戊辰戦争に参戦する思い、鼓笛隊に入って、官軍を鼓舞することに惹かれるなど、夢が膨らみます。
夢多き少年寿太郎を導いたのは、句読師を務めていた小倉処平でした。安井息軒の「三計塾」(江戸)で学を積み、「飫肥藩の西郷」と呼ばれた人物です。新時代には英語必須と考えた小倉の提言で、「振徳堂」で鍛えぬいた学生三人を、長崎の英語学校「致遠館」に、留学させることになるのですが、寿太郎は、その一人に選ばれました。

1869年(明治2年)世の中は、版籍奉還が進む年。小倉と父親に背中を押された寿太郎は、オランダ人宣教師フルベッキが教える「致遠館」を目指し、長崎へ向かいます。ところが、ここですれ違い発生。フルベッキは、明治新政府の求めに応じて、東京の大学南校(現、東京大学)で教鞭をとるため、東京へ移動。「致遠館」も、廃校になっていました。

寿太郎、長崎に留まり「英語独案内」というテキストを片手に学習。居留地の外国人に、積極的に話しかけるなど、独学で英語を学んだそうです。
●♀年齢域 15~24歳 1870~1879年 (明治3~明治12年)

☿と♀年齢域が重なり合う1870年(明治3年)。寿太郎に東京で学ぶチャンスが、巡ってきました。大藩出身者が集まりがちな大学南校ですが、文部省権大丞の任に着いた小倉処平は、小藩出身でも学力に秀でる者は、藩の規模に応じて入学ができるよう、政府に働きかけたのです。
 こうして貢進生制度が実施され、小村寿太郎は東京に呼ばれました。長旅や、なれない生活で体調を崩しますが、見事に南校に入学。貢進生の中でも、優れた50人に選ばれ、官費生となりました。

1873(明治6年)大学南校が改組され、開成学校となります。寿太郎は、法学部に進み学年成績は2位。1位は鳩山和夫(鳩山由紀夫氏は曾孫に当たります)で、大正時代の教育者となる杉浦重剛。後に高平・ルート協定を結んだ高平小五郎が、同級生となります。
 勉学熱心な小村、東京開成学校でひたすら学問に打ち込みますが、国内だけでは飽き足らなくなり、学友たちと海外留学ができるよう、文部省へアプローチをかけました。真摯な学生の声を聞いた政府は、留学生をアメリカへ送ることを決定します。

1875年(明治8年)第一回文部省海外留学生11人に選ばれた小村。20歳でハーバード大学へ留学するため、アメリカに渡りました。英語文化が日本に入ってきたばかり。辞書すらないに等しく、洋服さえ珍しい時代に、ハーバード・ロースクール(略称H.L.S。ハーバード大学の法科大学院)へ進んだのです。
気に入った論文は、すべて暗唱。翻訳もする小村の記憶力は驚異的で、成績は優秀。誠実で法律論も筋が通る等、小柄な東洋人の留学生に対し、周囲の学生たちは敬意を払って対応したそうです。体格や身長が、人の人格を決めることはない。の見本ですね。一年後には、金子堅太郎も入学。寮では同室だったとか。

伸び盛りの黄金期ですが、この頃、日本国内の情勢は、刻々と変化していました。
1877年(明治10年)寿太郎の恩師小倉処平は、西南戦争で西郷側に着き、和田峠の戦いで自刀しています。小倉は恩師というだけでなく、彼の妻・為子が、寿太郎の父・寛の従兄弟でした。何かと目をかけ、寿太郎の成長を楽しみにしてくれた小倉の死は、心中穏やかではなかったでしょう。
ハーバードを卒業すると、さらに1年。専修科に進んで学んだ寿太郎。机上で学んだ法律が、社会でどう生かされているのか。これを学ぶため、ニューヨークの米元司法長官エドワーズ・ビアポンドの法律事務所に、訴訟見習いとして勤めました。

♀年齢域と、☀年齢域が重なる 1879年(明治12年)警察制度視察のため、視察に訪れた大警視川路利良の通訳をしています。  
●☀年齢域 24~34歳 1879~1889年 (明治12~明治22年)

1880年(明治13年)11月語学力と法学の知識。経験も引っ提げて、寿太郎は帰国しました。12月に法務省入り。条約改正交渉のための法典整備を進めたい明治政府は、法学に堪能な人材を欲していたのです。

幕末期に結んだ各国との条約には、「領事裁判権」がありました。このため、外国人が日本で犯罪を犯しても、日本の法律も裁判が適用されず、泣き寝入り状態だったのです。
輸入品にかかる関税を決める権限「関税自主権」もなく、諸外国それぞれとの協定税率(雑に言うと、相手側の言い値)にいいようにされていたのです。これが国内商業に悪影響をもたらしました。(この辺りは、近代史の授業でも習いますね。)

法務省入りした小村は、20代で大阪控訴裁判所判事、大審院判事といった要職に就きました。ハイエリート待遇ですが、数年ぶりに見る漢文で書かれた公文書に悩み、薩長閥の中で小藩出身。しかも恩師が西南戦争で西郷に着いた事も、薩長カラーの強い職場は、小村にとって、居心地の良い環境ではなかったようです。

1881年(明治14年)9月。見合いを進められたのだと思いますが、寿太郎は結婚します。 
お相手は、旧幕臣の朝比奈孝一の娘町(マチ・町子の表記もあり。本編は町で統一します)。写真を見ると、すっきりした顔立ちの美人さんで、1865年東京生まれの17歳。明治女学校で高等教育を受けたハイソなお嬢様でした。

10歳の年齢差違もありますが、町はいかにも深窓の令嬢らしく、実家から仕送りをもらい、女中を雇って家事全般を当たらせます。自分の母、祖母も姉妹も、仕事と家事の両立をこなしていた環境で育った寿太郎。洋裁も料理もしない新妻は、大の芝居好きで、実母と連れ立って、よく芝居を見に行くのに驚きますが、それ以上に、彼を悩ませたのが、彼女の性格でした。
急に激昂し、言い争いになると、暴言を吐き、物を投げつける町。感情の起伏が激しい妻に、すっかり参ってしまった寿太郎。元々酒好きだったこともあり、早々に女郎屋通いを始めたのです。その頻度は、友人や先輩が心配するほどでしたが、1883年5月に長男欣一誕生。
  
翌1884年(明治17年)6月、法務省から外務省へ移ります。英語とアメリカの法律に詳しい者はいないかと、外務省公信局長浅田徳利から、杉浦重剛がリクルート相談を受けたこと。井上薫の秘書官斎藤修一郎の押しもあって、外務省への引き抜かれたのでした。 
 電報文章の翻訳を主とする公信局に配属となります。能力の高さと、合理性を優先する性質。そこに若さも伴ったのか、上司とぶつかることもあったようで、1886年(明治19年)政務局と通信局に別れた際、翻訳局に移動。

夫婦仲は?なれど、長女の文子が誕生と、出世コースからは外れるけれど、落ち着いた仕事について、はたから見れば悪くない人生でした。が、この年、父の寛が営む飫肥商会が倒産。父の負債を肩代わりしたことから、寿太郎は莫大な借金(今でいうと約2億円)を負ったのです。
占星術的に見るなら、T♆が、第7室(契約の部屋)♉に集まるN☊・☽・♇・♅を触り終えて、仕上げをかける如く通過した所です。♆はとても緩やかに進む星で、入室は1875年。
小村がアメリカ留学した年です。この年の小村の誕生日、T♆は、♉1°37なんですね。♆は、ゆっくり、こっくりと彼の契約の部屋を、13~14年かけて進んだのでした。

さらに借金を背負った年。T♃は♎を進み、T♄は♋を進むという具合。翌年の誕生日を迎える頃、♏♃入り。♄は♌入り。フィクストサインの星座(♉・♌・♏・♒)は、運勢の溜め時、グッと重くなるのです。T♇が♊を進んでいるのも、軽快さは損なわれるでしょう。借金問題が解消するのは、約10年後の1896年(明治29年)。♂年齢域真っ只中となります。
当時小村は高給取りの方でしたが、給料の大半が、借金取りに持っていかれました。翻訳関係の内職なども行いますが、借金取りが、自宅・職場の両方に押しかけ、自宅には、動かすことのできない大きな柱時計と、長火鉢。座布団が2枚という状況にまで陥り、長男の欣一は、栄養不良で夜盲症に罹りました。
それでも恩師小倉処平の遺児2人に充てる養育費を、絶やすことなく支払い続け、一張羅のフロックコートを羽織り、雨の日でも傘を差さず、電車や人力車を使わずに、徒歩で外務省に出勤したそうです。
 
1888年(明治21年)翻訳局長に就任。大の酒好き寿太郎は、借金返済日の前後は、深酒して自宅に帰らないことが、よくありました。さらに外務省の宴会には必ず参加。会費を払わずに、人一倍飲み食いする姿に、呆れてしまう者も出てきました。
宴会の日程を、あえて小村に伝えないようになるのですが、事前に情報を察知して、必ず現れる地獄耳。その的確さに、同僚たちは、「尋常な者ではない」と、小村を評するようになりました。

そんな飲み会行脚の傍ら、条約改定交渉の反対運動にも、内密で参加します。これは外親友の杉浦重剛らが、結成した乾坤社同盟に関わっていた事もあるのでしょう。
国益と誇りを重視する小村は、鹿鳴館外交な井上馨外相の改正案が、どうにも合わなかったのでした。
●♂年齢域 34~45歳 1889~1900年 (明治22~明治33年)

時間があれば、本を読む寿太郎。仕事的には今一つパッとしないまま、借金の返済。飲み会出席も相変わらずでした。眉を顰める者もいましたが、それでも学生時代からの友人は離れず、本人が作った借金でもないことから、援助を申し出たり、減額手続きなどを進める声もありました。人にお願いすることに重さを感じる寿太郎は、「もう慣れたから」と、断っていたそうです。

大きな転機が訪れたのも、「飲み会の席」で、外務大臣陸奥宗光は、通商局長の原敬に、紡績に関する英単語の意味を尋ねました。ところが答えたのは、原ではなく寿太郎だった。
単語の意味だけでなく、紡績にまつわる様々な話を解説できたのでした。これがきっかけで、陸奥は小村寿太郎を、外交官に抜擢するエピソードがあります。
借金返済のため、ジャンル問わず翻訳の内職をする賜物で、小村寿太郎、いろんなトリビアを持っていたのでした。

陸奥にスカウトされた時期が、はっきりしないのですが、まさに転機到来の時期で、1891年(明治24)11月には、寿太郎の☀がある♏に、♅入室。対岸の♉に集まるN☊・☽・♇・♅にも、影響を与えます。さらにT♃は♓を進み、一つのタームの終わりを告げると共に、小村のNか♆に近づき、これまでとは違う時間が始まる感ありな気配。
小柄に貧相。毒舌家の変わり者で、ただ酒を飲みに来る癖のある小村を、日本の顔となる外交官にするのは、やめた方がいい。そう反対する者もいました。自身も毒舌家な上、原敬に星亨といった、一筋縄ではいかない異才を発掘している陸奥宗光。そこは全く気にしなかったのです。
 
1893年(明治26年)11月。清国公使館参事官として、北京に着任。これは時勢を読んだ寿太郎の希望でした。アメリカ留学の経験もある小村だから、最初の駐在はワシントンでいいだろう。
そう思っていた陸奥も、この判断にはびっくり。外交官を志す日本人は、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツに憧れ、誰も進んで清に行く者はいなかったのでした。
着任して早々、寿太郎は駐清臨時代理公使に昇進。用意周到な小村。下調べはしたでしょうが、実際見ると違うということがあったのか、日本語で書かれたものだけでなく、清国に関する英文の文献も、可能な限り取り寄せ、読み込みます。
あらゆるところに顔を出し、海外の公使とも積極的に交際。絶えず動き回る小柄な彼を見る欧米の外交官たちは、「rat minister(ねずみ公使)と呼ぶようになりました。

1894年(明治27年)日清戦争が起きる年ですが、その前の2月。朝鮮王国で東学党の乱(甲牛農民戦争)が起きます。当時の朝鮮は、国内の経済的な混乱が続き、国民の不満が募っているところ、日本と「日朝修好条規」を締結。国の方針を鎖国から、開国に変えたばかりな混乱期に、重税を課したことから、王朝に対する反発が強まりました。そこに新興宗教団体の東学党現れ、政府に改革を要求しつつ、暴動を起こしたのです。
元々不満がくすぶっていたので、暴動は瞬く間に国中に波及。顔色を変えた朝鮮政府(正しくは閔妃一族)は、鎮圧させるため援軍を清に要請した。という流れなのですが、ここで外交官小村が、動きました。

「天津条約に基ずいて、日本も派兵します」
陸奥宗光の指示もありましたが、タイミングを逃さず、小村は外交官として、日本の派兵を清に通告。こうして朝鮮政府と、東学党をはじめとする農民軍は、既に停戦となる6月上旬。清と日本の両国が、朝鮮に軍隊を派遣したのでした。
駐留の必要は、もうなかったのですが、清も日本も軍を引かなかったのです。
海外文献や情報と、実際、自分が見た清の状況を精査した結果、今の清国は、日本軍の相手にならない。欧米からのアジア植民地化政策を、阻止するには、清国の協力は必要不可欠と考え、陸奥外相の指示通り、朝鮮半島における日清対立では、日本の正当性を主張。

清国軍撤退を要求しつつ、朝鮮の内政改革を、日清共同で進めるよう、働きかけます。
陸奥も寿太郎も、本音は開戦でした。しかし、各国公使の前では、日本は戦争を望んではいないと、ふるまったのです。
7月16日ロンドンで、陸奥をはじめ青木周蔵駐英公使らと、英外相キンバリーによって、日英通商航海条約が調印されました。条約の発効は、5年先になりますが、幕末期に結んだ日英通商航海条約のうち、「領事裁判権」と「関税自主権の一部(協定関税率)」が改定されたのです。

日本はイギリスという大きな後ろ盾を得て、不平等条約を結んでいた15か国と、同条件の条約を締結しました。7月31日国交断絶を清国に伝え、翌8月1日寿太郎の独断で、早々に北京大使館を引き払いますが、同日、陸奥宗光が宣戦布告をしているんですね。偶然なのか、二人の間で、裏打ちがあったのか、ここは歴史の謎ですが、阿吽の呼吸とは、こういうことを言うのかもしれません。 
開戦後、小村は第一軍民政長官として、盛京省安東県に派遣。9月には、第一軍司令官山縣有朋大将の部下という立場で、朝鮮半島の仁川に上陸します。日本軍が占領地域で、乱暴や略奪を行わないように、掟を作成して、軍の秩序と誇りを守るよう指導しました。
この働きは、山縣だけでなく、第三師団長の桂太郎からも、高い評価を得ています。

1895年(明治28年)日本の勝利に終わった日清戦争。4月17日に、清と下関条約を結ぶに至ります。清の全権は、李鴻章。日本は総理大臣の伊藤博文・外務大臣の陸奥宗光。
二人を補佐する役として、小村寿太郎も同席しました。しかなり大雑把ですが、まとまった内容は、下記のとおりです。
・清国は、朝鮮半島の独立を認める。
・遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本へ渡す。
・賠償金2億両(当時の日本円で、3億1千万程)を日本に支払う。
・清国は新たに4つの港を開港する(沙市・蘇州・杭州・重慶)

この調印直後、寿太郎は腸チフスに感染して緊急入院。この間に起きた三国干渉には、携わっていないため、詳しい内容は省きます。一月後には、退院できましたが、頬はこけて、目の周囲がくぼみ、罹患前と容貌が変わってしまいます。
(日清戦争の経緯・下関条約・三国干渉に関しては、陸奥宗光をはじめ、別の回で取り上げているのでご参照ください)

日清戦争後、朝鮮では親日派の金弘集内閣が組閣しますが、1895年10月王妃の閔妃が、殺害される乙未事件の発生。国際問題に発展することを恐れた日本政府は、病み上がりの小村寿太郎を、駐朝弁理公使として赴任させました。
関与を疑われる者は、国外退去させるなど事件の収拾に奔走。親日派の金弘集内閣の全面支援をする寿太郎ですが、儀兵闘争の激化。国王高宗の強固な反日主義によって、対策には相当苦心したようです。

その状況で、11月下旬、親ロ派と親米派によるクーデター(春生門事件)を未然に防ぎましたが、1896年(明治29年)2月には、国王の高宗がロシア公館に逃亡し、そこで執務を続けるという露館播遷が発生。これまで支えてきた親日の金弘集が、民衆に斬殺されてしまい、親露派反日政権が発足します。
朝鮮半島の利権が、ロシアに渡ってしまう不安から、日本国内に、小村に対する批難が上がりました。暗殺を口にする者もいたそうです。

5月14日ロシアとの関係改善と、朝鮮における日本の影響力を守るため、小村は朝鮮ロシア総領事カール・ウェーバーと「小村・ウェーバー協定」を結ぶに至ります。ロシア公館に滞留中の高宗の遷宮のため、日露両軍隊の駐屯定員等を、取り決めることが、主な内容でした。日本は、ロシアと同数の兵力を、朝鮮に駐留することが認められたのです。
日本国内の批判が強い中、粘り強く交渉した小村を、陸奥宗光は高く評価しました。

一月後には、ニコライ2世の戴冠式のため、サンクトペテルブルクを訪問した山縣有朋と、アレクセイ・ロバノフ・ロストフキー外相の間で、山縣・ロバノフ協定が結ばれています。
小村寿太郎が駐朝公使は、1年にも満たない短期でした。彼の借金問題こそ、消化され頃ですが、激変続きの中、鮮烈な経験を積んだ期間ともいえます。

同年6月。日本に呼び戻されると、原敬に代わり、外務次官に着任します。
肺結核に伴う療養のため、外務大臣を退任する陸奥宗光は、辞める直前、小村を外務次官に任命したことから、2年3か月。西園寺公望・大隈重信・西徳二郎と、3人の外相の下で働くことになったのでした。

西徳二郎は、サンクトペテルブルク大学で学び、ロシア公使を10年務めたロシア通。日露関係が、微妙な時期に外務大臣となっているので、小村にとっては、安定感のある仕事ができた時期ともいえます。韓国問題のほか、列国の対清活動。アメリカ合衆国のハワイ併合に関する諸対策に当たりました。
大韓帝国での鉄道敷設権の確率には、力を入れたようです。

一方ロシア公館で執務をとっていた朝鮮国王の高宗ですが、1897年(明治30年)2月20日李氏朝鮮の宮殿・徳寿宮に戻りました。小村が40代に入って間もない頃です。清国の属国で亡くなった李氏朝鮮は、同年10月12日国王高宗は、皇帝に即位。国名も「大韓帝国」と変えました。
 
1989年(明治31年)ロシアは大韓帝国にほど近い位置にある、遼東半島先端部の旅順港・大連湾を、清国から租借します。この状況で、西徳二郎外相と、駐日ロシア公使ロマン・ローゼンの間で、「西・ローゼン協定」が締結。
寿太郎にとっては、火星年齢域が仕上がりになる頃ですが、9月中旬。駐米大使に任命されます。18年ぶりに渡米。11月にワシントン入りしました。この当時の日米間は、大きな懸案もなくて、ニューヨークに出向いたり、旅行をする余裕もあったりと、小村の外交官歴の中では、平穏な時間となっています。フランス語の学習に取り組み、アメリカ史に関わる書物を大量に読んだそうです。
●♃年齢域 45~57歳 1900~1912年 明治33~明治45年

♂年齢域と♃年齢期が交差する1900年(明治33年)2月23日ロシアへの移動を命ぜられます。T☽♃♅が、♐に揃い。対する♊にT♇という、かなりアクティブな配置。♍にある寿太郎のN♂と、T♃が調和。N♃は♒で、ここにT♂も入り、熱く動きのある星回り。

ロシアに着任し、駐露大使となったのは、5月後半でした。この頃清では、山東省で発起した義和団の活動が活発化。河北省一帯にも広がり、その数20万人に達します。
清朝を重んじ、西洋人の滅洋を掲げる義和団は、6月に北京へ入城。現地の領事館で働く日本人や、ドイツ人を殺害し、西太后が連合軍を相手に宣戦布告しました。日本を含めた連合8か国はこれを鎮圧。10月以降、清国と列強の講和交渉が始まると 日本側は、小村寿太郎を交渉役に選び、駐清公使への転任を命じたのです。

寿太郎が、北京に入った1901年(明治34年)1月には、交渉の大枠は決まりますが、賠償金などの諸問題が山積という状態でした。清を含めた11ヶ国と、協議その他を重ねた小村寿太郎、9月7日に「北京議定書」をまとめ上げます。
 自国民の保護のため、北京への駐兵権獲得と賠償金等、日本には満足度の高い内容でまとまったことから、「日本の外交に小村あり」と、内外から称されるに至たります。

遡る事3か月ほど前の1901年6月早々、講和会議交渉の真最中の小村に、思わぬ誘いの打診が入りました。新内閣発足にあたって、総理となる桂太郎が、「外務大臣就任」の要請をしてきたのです。
T☀♊の時期で、当時♊には、☀の他、♀♇と、少し離れた位置に☿♆があり、この☿♆が、寿太郎のT♄を刺激。立場や場所に動きがあってもおかしくは、ないですね。
「あの政権は、短命に終わる。損をするから断るほうがいい」
友人たちは、口をそろえて見解を述べました。実際、桂内閣は、3ヶ月ほどで終わるだろうと、当時うわさが流れてはいたのです。
「義和団の乱」の後、ロシアは満州を占領。恐らく議定書を締結しても、撤兵させることはない状況を踏まえ、<3ヶ月あれば、日英同盟結べる>という判断の下、周囲の忠告を聞かないで、寿太郎は入閣を決めました。

北京議定書調印のため、帰小村が正式に外務大臣に就任するのは、9月21日。留守の間は、曾禰荒助大蔵大臣が、兼任をしています。
寿太郎のN☀にT♀。N♀にT☀♏と♍という組み合わせも面白いですが、♏に入った♀は、☀だけでなく、対極のN♇ともアスペクトを取ります。さらに。T♃と♄は、♑にあるので、N♇と調和。華やかさのある出世。かなりの大役を任されることが見て取れます。
寿太郎の読み通り、北京議定書締結後、ロシアは満州から兵を引くことは、ありませんでした。この状況に懸念を抱いたイギリスは、対ロシア対策として、東洋の中で近代的発展を遂げる日本に、同盟締結話を持ち掛けて来たのです。

これは寿太郎の帰国直前の事で、桂内閣は、イギリスと同盟交渉する一方。ロシアとも協商交渉を開始。交渉の中身は、韓国の権益保持を目的としたものですが、イギリスから見たら、これは面白くない話でした。
「どっちを取るのさ!」と、外務大臣就任直後の小村に、イギリス側は詰め寄るのも、むりはありません。
過去の行動から、ロシアは協定や協商を結んでも、必ず裏切る。と判断した小村は、元老会議の席で「ロシアと組むメリットはない。日英同盟の優先」を主張。

こうして、1902年(明治35年)1月30日 
・イギリスの清における特殊権益。清と韓国における日本の特殊権益は、相互承認。
・第三国と戦争となった場合、他の一方が中立を守る。
といった内容を含む日英同盟は、締結したのです。
日英同盟を締結した小村は、功績に対し、男爵の爵位と賜金1万円が与えられました。

同年4月。ロシアは清国と満州還付条約を締結。撤兵を約束しますが、実際は兵力を都市部から、鉄道区域に移動させたに留まりました。翌1903年4月8日を起源とする、第二次撤兵は何も行わず、条約不履行。後日、撤兵の為の新条件を、清国に突きつける有様。
「韓国は日本の安全保障にとって重要な国」
これは、当時も今も変わらない事で、当然、小村も同じ考えだったのです。
小村は元老たちと協議の末、8月から駐日ロシア公使として、交渉を始めますが、「大韓帝国北緯39度以北は、中立地帯」を提案してくるロシア側。
「西ローゼン協定」さえ、反故にするロシアに、日清戦争より約10年。避けられるものは、避けようと努力しつつ、対ロシア戦に備えてきた日本ですが、交渉はもはや無意味。小村をはじめ、政府、元老も、そう認識する者が増え、戦争による解決の声が出てきました。

1904年(明治37年)1月山本権兵衛海軍大臣は、開戦に同意。2月4日の御前会議で、ロシアとの戦争が決定し、2月10日ロシアに宣戦布告をしたのです。
(西郷従道・山本権兵衛・東郷平八郎・秋山好古・秋山真之・児玉源太郎・桂太郎・明石元二郎等、個別に日露戦争に触れていますので、戦線に関しては今回省きます)

戦争遂行のため、韓国と日本の関係を強固にする事を考えた小村。2月23日駐韓公使林権助の主導で、「財務や外務といった重要事項に関して、日本の相談が必要であること」を盛り込んだ日韓議定書を締結しています。
国内外の世論を味方につけ東京日日新聞等の新聞で、戦争に至る経緯を開示。これは一定の効果があって、戦争勝利に向けて国民の意識がまとまりました。
外交特使として、金子堅太郎。末松謙澄を選ばれ、2月24日に渡米するに辺り、これまでのロシア側の非協力的な交渉態度によって起きた戦争であることを、訴えることを伝えました。金子は、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの旧知であり、小村にとっては、ハーバード時代の後輩で、日露戦争終結に至る際、非常に重要な役割を担います。

イギリスにも特使を派遣。日英同盟の継続交渉なども進める中、苦戦もする日露戦争ですが、1905年(明治38年)1月1日難攻不落と言われた旅順要塞を、乃木大将率いる陸軍が落とし、5月28日日本海海戦で東郷艦隊が、バルチック艦隊を壊滅させ、歴史的勝利を上げました。予想外のロシア惨敗というタイミングで、小村は、開成学校以来の友人・高平小五郎駐米大使を通じ、ルーズベルト大統領に、日露講和の斡旋を求めたのです。
ルーズベルト大統領は了承。7月4日に小村・高平コンビが、日露講和会議の全権委員に選ばれました。
日露戦争で約20億の戦費。180万の将兵を動員して、死傷者数約20万人の日本は、戦争の継続は、到底無理なライフ0な状態。それに比べて国力7倍のロシアは、鉄道を使って陸軍を増強することが可能。時間をかければ、壊滅した海軍も、立て直しも可能。戦争の継続はできたのです。

ロシアが講和条約締結に応じたのは、革命に向かって国内が大混乱に陥っていたからでした。(これは、明石元二郎の戦績でもあります)それでも、日本のライフ0。満身創痍で戦争継続は無理と知れば、簡単に条約締結の交渉を蹴って、実力行使に出てくる。そうなれば、もう戦力のない日本は、確実にやられる。という状況だったのです。
内情が知られないようにする必要がありました。そこで、一計を案じた寿太郎.日本の新にも事実を乗せず、連日にわたり、「日本大勝利」のみ報じさせたのでした。 

この報道に,多くの日本国民もすっかり魅せられ、講和条約に基づいた多額の賠償金や、領土の割譲に歓喜します。小村が日本を出発する際は。大声援で送り出したのでした。
これから行う講和条約は、国民の望むものとは違う。それをわかっている小村は、興奮する彼を見て、傍らを歩く桂太郎に、「帰国の際は、まったく逆になっているでしょうね」と述べたそうです。
歓喜であれ、絶望であれ、興奮に染まった世論を納得させることは難しい。小村はそれもよく知っていました。
 
小村と高平が、ポーツマスに到着したのは、♌の☀が、寿太郎のN♃とオポジションとなる8月8日。♍T☿がN♂とコンジャンクション。静かな闘志というところでしょうか。ロシアのウィッテ全権と、ポーツマス条約に調印したのは、約一月後の9月6日です。
♑に♅入室。これが寿太郎のN♄とポジション。T♄は♒でN♄は♊で、風の調和。本当に必要な物事以外は、吹き飛ばします。
マスメディアに向かい、流暢に対話するウィッテ全権。対する小村は「我々は新聞の糧を作るために、やってきたのではない。談判をするために来たのだ」とそっけなく、マスメディアには、完全なる秘密主義を貫きました。日露講和条約の、主だった内容は下記のとおり。
・日本の朝鮮半島における優先権を認める。
・鉄道警備隊を除き、日露両国の軍隊は撤退する。
・ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を、永久に日本へ譲渡する。
・ロシアは沿海沿岸の漁業権を、日本人に与える
・ロシアは東清鉄道の、旅順~長春間の南満州支線と、附属地の石炭の租借権を
 日本へ譲渡する。
・ロシアは関東州(旅順・大連を含んだ遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。

朝鮮半島の優先権と、満州における租借権を獲得することで、ロシア南下による東アジアの脅威は、取り除かれました。条約的に、悪い内容ではないのですが、日清戦争の時のように、賠償金が取れると、舞い上がっていた日本国民は、大幻滅したのです。
民衆の激しい怒りは、日本政府に向き、「日比谷焼き討ち事件」を引き起こしました。
「小村斬首せよ」とテロを誘発する声だけでなく、小村の自宅も襲撃されたのです。辛くも家族は避難し、無事でしたが、小村が横浜港へ帰還する10月16日。「日比谷焼き討ち事件」から、一月は経過していますが、防衛上、長男の欣一以外、迎えに行くことができない状況でした。

新橋駅で小村寿太郎を罵倒する声はすさまじく、死ぬ時はもろともの覚悟で、桂と山本は、寿太郎が撃ち殺されることがないように、両側からを抱きかかえ、総理官邸へ向かったというエピソードが残っています。
新聞による報道のみを信じていた国民は、小村寿太郎の行った講和条約の功績。日本の置かれている状況も、理解していませんでした。それは小村の望む形だったのです。敵であるロシアを欺くには、味方を騙せなくては、意味がないから。
「日比谷焼き討ち事件」や、自分に対する罵声に、寿太郎自身は「国民の士気盛んなるものあり、国家の前途また洋々たりである」と述べ、国民の士気の高さを賞賛したのでした。
罵倒されることに、一切怒りを向けることがなかったのです。

日露講和条約が締結される頃、ルーズベルト大統領の意向を携えた、アメリカの起業家エドワード・ヘンリー・ハリマンが来日していました。大統領の意向。それは、日本が譲渡されるであろう、東清鉄道南満州支線を日米で共同経営しようというもの。
日本は莫大な経費の掛かる鉄道事業には自信もないし、金もない。東南アジアへの進出に後れを取っているアメリカは、満州に進出したい。ここは持ちつ持たれつで行きましょうと、「桂・ハリマン協定」の予備協定覚書が、10月12日結ばれるのでした。
 ポーツマスから帰国した小村寿太郎。満鉄は日本が獲得した、数少ない利権と、これに立腹し、満鉄の鉄道経営が高く、モルガン系の企業(ハリマンのライバル)から、融資を受ける目途がある事を盾に、協定破棄を主張。桂・ハリマン協定は、破棄されました。

日露講和条約の仲介を役を果たしたアメリカ政府とすれば、非常に面白くない結果になったのです。アメリカで反日的な動きや、黄色人種への差別が助長された背景には、この協定破棄もあったとされています。
 日本は韓国と「第二次日韓協約」を締結する11月17日。寿太郎は、特派全権大使として北京に赴きました。日露講和条約で、満州の権益獲得した日本ですが、清国の同意は得ていないのです。交渉には苦心しますが、12月22日に、清と満洲善後条約を締結。遼東半島先端の旅順・大連は、25年間の期間日本の租借地になります。

1906年(明治39年)日露戦争と、それに伴い諸問題を一通り解決した桂内閣は、1月7日に総辞職。小村も外務大臣を辞任しています。3年で終わるといわれた桂内閣は、5年で幕を閉じ、政権は西園寺公望にバトンタッチ。枢密顧問官となった小村は、外交の一線から身を引きますが、8月に駐英大使として、ロンドンに赴任。
1908年(明治41年)7月14日第二次桂内閣の発足に合わせて、再び外務大臣に起用されました。冷ややかになったアメリカとの関係改善のため、寿太郎は外務大臣として、ある企画を仕掛けます。
10月18日世界航海中のアメリカ艦隊が、日本を訪れた際、日本国民総出で出迎えるという趣旨で、政府だけでなく、民間主催の式典などを各地で展開。友好的な雰囲気を作り盛り上げる中、高平駐米大使に、日米協商の交渉を進めさせました。これが功を奏し、高平とルート国務長官の間で、日米両国の領土に相互不可侵と、通商の自由を盛り込んだ「高平・ルート協定」が締結。日米関係の修復に一役買います。
この他、日英同盟の継続をはじめ、各国との友好維持、関係改善に努力する中、1909年(明治42年)5月寿太郎は、胸膜肺炎を患い、一次は執務をできない状態でした。

復帰後は、韓国併合をまとめます。当時韓国は、既に日本の保護下にありましたが、ロシアに歩み寄りがちな姿勢が見受けられた事、儀兵闘争も激化する事から、このまま保護下に置くか、併合という形で統治するか、日本国内でも、意見が割れていたのでした。
アメリカとは新大統領タフトと結んだ「桂・タフト協定」「高平・ルート協定」、ロシアとは「ポーツマス条約」の他、近年「日露協定」も結び、イギリスとは「第二次日英同盟」と、日本は列強国と様々な協定・条約が結びましたが、その際、韓国の権益保持の承認も得ています。そもそも日露戦争は、ロシアの南下政策を、阻止することが目的とした戦争でした。韓国が自国を統治できていれば、しないで済んだともいえる戦争であり、その後の韓国のに、自国を統治する能力を問題視されていたのです。

この事から、併合に関して、西洋諸国で反対する国は、ほぼありません。さらに同年10月26日。併合の件では、一番穏健といわれる伊藤は、非公式ですが、満洲問題と韓国併合について、ロシアの高官と話し合うため、ハルピンに着いた矢先、民族運動家安重根に射殺され、日本と世界を震撼させます。
これらの経緯を経て、1910年(明治43年)小村55歳の時、「韓国併合条約」は調印されました。こうして日本は、名実ともに列強の仲間入りを果たしたのです。

唯一残った関税自主権の完全回復。これはアメリカを中心に進みました。アメリカとしても、日本との関係悪化は、望んでいなかったし、小村寿太郎もアメリカを嫌っていたのではありません。かつての「桂・ハリマン協定」破棄は、日本の権益へのアプローチの仕方に、反発したのでした。
1911年(明治44年)2月21日アメリカとの関係調整に、心血を注いだ結果、「日米通商航海条約」が締結されます。日本は関税自主権の完全回復を達成すると。その後、イギリス・フランスとも、新通商航海条約が結ばれました。

T♓☀とN♍♂が、オポジション。寿太郎の☀星座♏には、T♃があり、これがN☿と仕事ペアを組み、♏の☀と対面の♉♇のオポジションに、T♄が共鳴。過去の清算。掘り起こしが読み取れます。
条約改正という大きな節目を経て、第2次桂内閣は、8月25日総辞職。寿太郎は、外務大臣を辞任するだけでなく、政界から引退したのでした。ポーツマツ条約締結後、肺尖カタルで倒れ、韓国併合の1910年には、2度ほど手術も受ける等、様々な病気と闘いながら、熾烈な執務を行ってきたのです。

引退後は、葉山の自宅で、読書と酒を慎ましく楽しむ日々を過ごしました。11月に入ると、横になる日が増えます。枕元にはアルフレッド・テニスンの詩集を置き、親友杉浦重剛が訪ねてくる際は、喜んで長話をしたとか。しかし、容体は悪化し、桂太郎と寺内正毅が尋ねてきた時は、会話することができなくなっていました。
1911年11月26日小村寿太郎は、親しい友人と、家族に囲まれ、この世を去ります。満56歳。

日本を悩ませた不平等条約が結ばれたのは、1858年(安政5年)。これが約53年もの間、明治政府を悩ませることになったのです。
条約を結んだ頃の日本は、まだまだ情報も、対外交力も不足。明治時代を迎えて、新政府一同、不平等条約の中身に気づくものの、植民地が欲しい欧米列強が、無条件で改正に応じるわけはありません。

伊藤博文・井上馨・大隈重信をはじめ、多くの人が、条約の撤廃に苦心の末、日清戦争直前の1894年7月16日(明治27年)に、陸奥宗光青木周蔵駐英公使。英外相キンバリーによって、日英通商航海条約が調印されました。これで幕末期に結んだ日英通商航海条約のうち、「領事裁判権」と「関税自主権の一部(協定関税率)」が、ようやく改定されたのです。その後、まるで見えないバトンを渡すように、病に倒れる陸奥宗光は、小村寿太郎を後釜に据えました。
日露戦争にポーツマス条約経て迎えた1911年(明治44年)。関税自主権の回復を果たした後、小村寿太郎は、この世を去ったのです。条約改定のために、供えられたとも言える小村の人生は、公私ともに、かなりハードですが、良き友が身近にいた所に救いがあると思います。12月2日には、外務省葬が執り行われました。 

ヒステリーで家事もしない奥さんの町も、夫が親の借金を肩代わりしたため、かなり苦労します。持っていた着物だけでなく、家にある金目のものは売り払うのに、借金取りが尋ねてくる夜は、夫は帰ってこないで歓楽街を飲み歩き。子どもたちを養うにも難儀。
それもようやく落ち着いたと思えば、ポーツマス条約締結後、賠償金が取れないことに、怒る民衆の標的となり、小村家も襲われました。
本当に苦労続き。それでも別れないで、子どもを育て上げ、夫を見送ったのですから、すごいです。これまで書いてきた人の奥様は、良妻賢母が多く、町さんは新鮮でした。

小村の死から約8か月後、1912年7月30日明治天皇が崩御されました。時代は大正を迎えるのです。自分の仕事は、後世の人が判断すべきであるとして、日記は一切付けなかった上、秘密主義を貫き、手紙などもほとんど残っていない小村。
これも♏の☀がなせる業でしょうか。成しえた事と、エピソードが烈すぎる小村寿太郎。
もっとスポットライトが当たっていい人物だと思います。