平塚らいてう<出生時のホロスコープ>


1886年2月10日 出生時間不明 東京府麹町(現在東京都千代田区)生まれ
☀ ♒ 21°20
☽ ♈ 27°35 (☽ふり幅 ♈21°19~♉3°55。16時半以降♉入り)
☿ ♒ 10°31  ♀ ♓ 5°07R  ♂ ♍ 23°44R 
♃ ♎ 5°19R ♄ ♋ 1°51R ♅ ♎ 7°19R  
♆ ♉ 22°47 ♇ ♊ 1°08R ☊ ♍ 16°24  (Rは逆行の意味)

第1室本人の部屋に☀☿.第2室金銭所有の部屋♀。ここを一グループ。
☽が♈なら、第3室幼年期の部屋。16時半以降、夜生まれなら♉第4室家庭の部屋です。私見ですが、彼女の体格と声帯の弱さ。マイペースさを考えると、♉の可能性は高いと
見ました。♉には♆もあり、家族の部屋にベールが掛かっている状態。
第5室し好の部屋♇。第6室健康勤務の部屋♄までを、二グループ。
第8室授受の部屋☊♂R 第9室精神の部屋の♃Rと♅Rを、三グループと、だいたいですが、グループ分けできるので、スプレータイプのホロスコープと観ました。

順応性が高く、才能を伸ばすことが容易。趣味も悪くないでしょう。しかし、納得がいかないとへそを曲げることや、束縛と感じると、対抗意識が芽生える性質が潜んでいるので、人との間に摩擦生じるもしれません。
好奇心旺盛。自己主張もはっきりな♒☀☿。一人も平気でありつつ、この星座が内包する特有の博愛主義が、周囲の賛同や共感を求めてしまうという矛盾。納得がいかない限り、絡み症になる傾向もはらむでしょう。♉の♆と緊張角度が、オリジナリティや、センスを醸し出し、マイナスに働くと気が変わりやすく、物事がうやむやになりやすい可能性あり。

第4室のテーマとなる、「家庭」「家族」に対して、わだかまりや、こだわりを抱くと、人生への影響は大きいでしょう。凌駕するのであれば、第1室の☿。第5室の♇は、風の調和を持つので、知性・教養のアウトプットを応援。話すのも書くのも、一味違うモノを出せる人です。

個人の財運や、物の巡りを観る第2室が、♀R。安定財源は持てますが、散財の気、恋愛や趣味にはまるとつぎ込む癖は潜んでいます。しかもこれが、第5室し好の部屋♇と緊張角度。何かを終わらせ、始めてゆくことに力を貸すでしょう。恋愛は一気に住む傾向が強く出ると、相手次第では周りが難儀します。♀Rは、第6室健康勤務の部屋ある♄Rと調和。好きなことを仕事にして、強い影響力も持ちますが、理想と現実のすり合わせや、対人関係で悩みも生じます。

社会的な財運や、配偶者の実家からの支援。性生活を観る第8室が、♂Rと☊。何事に対しても果敢に挑む姿勢が、世間に止められれば大成功。配偶者が浪費家な場合は、経済的苦労をする可能性あります。

第9室の♃と♅どちらもRですが、彼女の人生のカギを握る組み合わせ。何かとチャンスには恵まれるでしょう。追及意欲が旺盛な分、抽象的なことに論理性を持たせようとして、宗教学や学問研究にのめりこむ性質が強く出ると、独特な創作活動で周囲に影響を与えたり、オカルティズムに走るかもしれません。
星に関係するかは定かではありませんが、本人の「満足度」が原町分目でも足りるのか、十二分に食べても周りを見て「まだ足りない」と感じるか。内在する気持ちの根源を、より内(自分)に求めるのか、より外(社会)に求めるのかで、精神性や思考が進む傾向が変わります。

らいてう惑星history

●☽年齢域 0~7歳  1886~1893年(明治19~26年) 家庭生活一変の少女時代

1886年(明治19年)2月10日。東京麹町で、平塚らいてうは、平塚家の三女として誕生します。本名は平塚明(ひらつかはる)。明子と表記するケースもあり。(本編はペンネームの平塚らいてう。またはらいてうと記します。)
平塚家は、相模・三浦氏の流れをくむ名門で、元紀州藩士だった父の平塚定二郎は、東京外語学校に学び、明治政府に勤めます。ドイツ語の講師を務めたこともある秀才で、らいてうが生まれる頃は、最高行使(現会計検査院検査官)。彼女が生まれた翌年、欧米へ視察巡遊に赴くため、約1年半ほど家を空けました。
母の光沢(つや)は、徳川御三家の一つ安田家奥医師の飯島家へ、両親が夫婦養子として入った家柄で、武家の娘として育ちます。三味線が得意。

らいてうは生まれつき、声帯が弱く、声が出にくかったらしく、あまり話さないおとなしい子だったようです。家庭内は、欧米風な明るく自由な雰囲気が漂い、二人の姉と祖父母。両親に可愛がられて育ちました。

彼女が生まれる頃、日本は明治中期。政治体制も内閣制度に代わったばかりで、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。1889年(明治22年)には、大日本帝国憲法発令されます。
富国強兵と、経済構造のフル改造によって、明治時代の日本は、急速に大きく変わりました。工業の発展により、地方都市にも工場が増えたこと。徴兵制もあって、豊かな農地を持つ豪農でない限り、収穫期以外は仕事がない次男、三男も、職にありつけるようになったのです。
貧しい農村や漁村から、人が離れて働くようになり、東京や大阪は人口増加。地方都市にも活気が出るので、良い面もありましたが、庶民は戸別で現金納付となった税金を払いつつ、生計を維持するため、重労働に付いたのでした。、足尾銅山の公害問題等起きますが、劣悪な労働環境が多い実例でもあります。

教育も、徳川時代から一変。特に国を背負ってゆく若者たちは、親世代まで習ってきた日本文化と道徳とは、まったく違う西洋の言語、社会学、化学等を学びました。
過去の文化や風習が良くても、そここだわり、欧米文化を取り入れるのを、おろそかにすれば、日本は彼らの属国になってしまう。
当時のエリート層は、日本の独立を守るという使命感と同時に、欧米の学問を学び、彼らと肩を並べることを、非常に意識したのです。それで奮起するだけにとどまらず、強い効果は、拒絶反応も生みやすく、日本文化=過去を封印する傾向に走ったのでした。

1890年(明治23年)「教育勅語」が発布されますが、これは権威の象徴でも、押しつけでもなく、法令ではないため、当初は何ら強制力もありません。
国の未来を思う故に、先祖が紡いできた日本の文化や歴史を、未来ある若者たちが恥じる姿を観て、心を痛めた明治天皇が、お考えを示したものでした。
当時の若者たちは、「あれは庶民のものだ。我々には関係ない」「一般の者たちは、それでいいが我々は違う」と認識。「教育勅語」を庶民のものとして位置づけたのです。
小学生に「教育勅語」の暗唱を強いるのは、教員の評価が変わった明治後期に入ってからでした。
エリート層が進んで学んだ当時の西洋は、「歴史・伝統・文化を敵視し、解体しなければ意味がない」ルソーの「進歩主義」と、[労働者のために、資本主義は打倒しなければならない」な「社会主義」が、根を下ろしていました。
打倒徳川で戊辰戦争を起こし、明治政府を樹立した事態の空気と、親和性も高かったのでしょう。らいてうの父も、その時代を生きた人でした。
この年は、第一回帝国議会開催の年でもあり、「窮民救助法案」は、第一号法律案として、提出されますが、「一部の困窮者を救うために、なぜ税金を使うのか」と、国民救済救護は否決されています。
「庶民の日本」「エリート層の日本」の二極化が進む世の中で、弱い庶民の受け皿になったのが、皇室と、正義感や博愛主義の強い社会主義者、宗教団体でした。宗教団体や社会主義者は、国粋主義の火ともったエリート層でもあったのです。

1892年(明治25年)そんな時代の風の中、らいてうは、富士見尋常高等小学校(現・千代田区富士見小学校)に入学しました。庭から一歩、社会に足を踏み出してゆくのですが、☽年齢域と☿年齢域が交差する頃、家の中の雰囲気が、一変したのです。
●☿年齢域 7~15歳 1893~1901年(明治26~34年)

1894年(明治27年)日清戦争の年、平塚家は本郷区駒込(現文京区)に引っ越しました。
小学校も転校となりますが、変わったのは、それだけではありません。らいてうが大好きだった「西洋風」の明るく自由だった家が、「和風」へと様変わりしたのです。
 変えたのは父でした。戦争の空気の中で、西洋かぶれ的な雰囲気も一段落。文学をはじめ、エリート層の中にも、日本の良さを見直す傾向が出てきたのです
薩長土肥カラーの強い明治政府の中、らいてうの父は、紀州藩出身。秀才とはいえ、エリート高官の位置にのし上がり、それを維持するのに苦労をしたのだと思います。
本人、祖父母や妻も価値観の根底には、武家文化が残っているので、和風への変化に大きな抵抗は、なかったのでしょう。しかし、生まれてまだ10年にも満たない、「現代」しか知らない幼い子供の心には、それがどう映ったのでしょうか。

家の中で一番力のある父親(ある種の権力)が、これまでの楽しかった世界を、壊してしまった。そう映ったのかもしれません。おとなしいだけでなく、従順な性質ならその時は、多少ショックでも、わだかまりも少なく済んだかもしれません。
♒に☀を持ち、♎に♃♅を持つ、らいてう。もともと声帯が弱く、声を出して話すことにストレスを感じることから、家族ともあまり話さない性格だったそうですが、独特の美意識を持っています。まだ幼いのも相まって、うまく表現ができないもどかしさも手伝って、父親に対してわだかまりの種を宿したかもしれません。
こうしてらいてうは、日清戦争後の時代の空気と、父親を頂点にした家の重い空気の中、子ども時代を過ごします。

1898年(明治31年)父の強い勧めで、らいてうの進路先は、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現お茶の水女子大付属高等学校)になりました。令嬢としてふさわしい教養と嗜みを身に着ける事や、「良妻賢母」という言葉は、らいてうにとって、なんら魅力のないものだったのです。納得できないことには、屈しない精神を持つらいてうは、気の合った学友と「海賊組」というグループを作って、「修身」の授業をボイコットして、周囲を困らせたようです。何処までも想像で,仮説の域を出ませんがここで父の定二郎、娘にしっかりと向き合い、柔軟な態度を見せたら、よかったのですが、それどころか、もしかして、「お前がしっかりしなかったからだ」と、妻を叱ったのかもしれません。
夫に対して、口答えせず仕える母親の姿等を垣間見て、「良妻賢母」って、損。嫌だ。と、多感な娘時代、より強い嫌悪感を抱いた可能性はありそうです。

1895年(明治28年)4月17日に下関条約が結ばれました。

・清国は朝鮮半島の独立を認める事。(朝鮮に手を出さないということ)
・遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲る。
・賠償金3億1100円(当時の金額です。今なら40兆円以上)

ところが、条約締結直後、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉で、日清戦争の勝利が覚めるほど、内閣も国も一時騒然となりました。戦後直後の日本に、他国と揉め事を起こす余力はありません。伊藤内閣は、遼東半島をあきらめたのでした。
それでも7年間にわたり、清から多額の賠償金を取れたことで、日本の子どもたちは、すべて小学校へ通えるようになり、通信網等の国内ライフライン整備が進みます。
八幡製鉄所が作られたのも、この頃でした。
●♀年齢域 15~24歳 1901~1910年(M34 ~M43)

「女子を人として、婦人として、国民として教育する」成瀬仁蔵が創設した日本女子大の教育方針に、心惹かれたらいてう。母の助言もあり、頑固な父親を説得。
「家政学部ならいい」と許可をもらい、1903年(明治36年)4月日本女子大三回生として入学しました。長沼千恵子(後の高村婦人。智恵子抄の主人公)、木村政子と出会い、学生生活を謳歌する一方で、来賓として、よく大学を訪れて講和を行う、大隈重信に「傲慢な感じの爺さん」女性実業家の広岡浅子に対して、「いやな人」と評した記述があります。

翌1904年(明治37年)2月日露戦争が始まりました。
日本女子大にも、次第に国粋主義が漂い出し、幻滅したらいてうは、心の安定を、宗教書や哲学書に求め、没頭してゆきました。
キリスト教にも、関心を持ちましたが、ピンと来ないまま、心迷子を続けていたある日、学友が持つ禅の本が目に留まります。この小さなきっかけから、らいてうは「禅」に出会い、学友木村政子を通じて、日暮里にある禅の道場「両忘庵」に通いました。

日露戦争は、帝国ロシアを相手に、満州南部と遼東半島。黄海と日本海で、日本は熾烈な戦いを続けた戦争です。開戦前は、マスメディアも、イケイケ気味を主張。威勢の良い軍人や政治家もいましたし、戦争をするべきだと言う庶民もいました。が、政府と軍首脳部は、慎重かつ用意周到な準備をしつつ、国力差7倍の戦など、できるなら避けたかったのが、本音でした。実際戦争が始まると、国民は重税に出兵、供出等が課せられ、厳しい現実を目の前にするのです。

1905年(明治38年)3月奉天会戦の勝利を上げた日本陸軍。国内では「三国干渉で、遼東半島を奪ったロシアを、このまま追撃して叩き潰せ」という世論が起こりました。これに同調せず、日本政府は、アメリカを巻き込み、和平交渉の準備に取り掛かります。
 5月27日日本海海戦の勝利をもって、日露戦争の主だった戦闘は終わりました。国内だけでなく、海外も日本の勝利に沸きます。講和交渉を活発化したい日本政府ですが、
「ロシアは戦争に負けたのではない。アメリカが仲裁に入ったことで、引き分けにしたのだ」これがロシア側ニコライ二世の言い分でした。

欧州方面に100万の兵力が、無傷で残っているロシアにとって、日露戦争は、局地戦の一つでしかないのです。片や日本は、人、物量、経済いずれも尽きていました。
8万8千人以上の日本人兵士が犠牲となり、勝つために世界から借金をした日本が、これ以上ロシアと戦えば、国が滅びる状況だったのです。

同年9月ポーツマス条約が結ばれました。

・日本の朝鮮半島における優越権を、ロシアは認める
・日本・ロシアの両国の軍隊は、鉄道警備隊を除き、満州から撤退。
・樺太の北緯50度以南の領土は、永久に日本の領土とする。
・ロシアは東清鉄道の内、旅順~長春間の満州支線。付属地の石炭租借権を、日本へ譲渡。
・関東州の租借権の譲渡。
・ロシア沿岸の漁業権を日本人に与える。

樺太の南は完全に日本の領土。それ以外は租借権とはいえ、権利を得ることはできました。しかし、ロシアから賠償金は、一銭も取れなかったのです。

当時のマスメディアは、日本政府がロシアに対して、賠償金が取れないまま、条約を結んだ事を、大きく批判。その煽りに乗った多くの日本人は、怒りの矛先を、ロシアではなく、日本政府へ向けたのです。全国で政府批判の集会を起こりました。
 その最たるものが、暴徒化した国民が、官邸や警察署。新聞社などを襲撃し、東京に戒厳令が引かれた日比谷焼き討ち事件です。
 1906年(明治39年)1月桂内閣は退陣。立憲政友会の西園寺公之が、総理大臣となりました。政治的には戦後復興と台湾・朝鮮統治を含んだ、向こう10年の桂と西園寺による桂園時代が始まるのです。

世の中が騒然としている戦後、らいてうは禅に没頭しました。悟りを開き、慧薫(えくん)禅子いう道号をもらい、日本女子大を卒業します。卒後は両忘庵で禅の修行を続けながら、二松学舎(現二松学舎大学)で漢文。女子英学塾(後の津田塾大学)で、英語学習に励みました。

1907年(明治40年)成美女子英語学校へ入学すると、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に衝撃を受け、海外文学にはまり込みます。♀年齢域も、磨きがかかって来る21歳。
英語講師の生田長江から、「閨秀文学会」へと誘われ、良き刺激を受けて処女作「愛の末日」を書き、回覧誌に掲載しました。すると「閨秀文学会」の講師を務めていた森田草平から、初小説の感想の手紙をもらいます。これがきっかけで、二人は急接近。
夏目漱石の門下生で、妻子がいるけど愛人もいて、色濃い沙汰の絶えない森田。どこか不思議な魅力があったのでしょう。気にすることなくデートをするらいてう。やがて二人は、イタリアの作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオの「死の勝利」に共鳴します。

1908年(明治41年)3月21日<わが生涯の体系を貫徹す。それはわがCauseによって斃れるなり。他人の犯すところに非ず>「恋のため、人のために死ぬのではなく、自己を貫かんがためなり、自己のシステムを全うせんがためなり」
遺書を残したらいてうは、森田と共に、塩原へ向かいました。
両親がすぐに捜索願を出したことも奏して、まだ雪が残る塩原温泉の尾頭峠を、さまよっている二人は、翌日に発見。保護されます。

らいてうは親の元へ戻り、森田は、なんと夏目漱石の自宅に、匿ってもらいました。この漱石の読みは正しく、マスコミも世間も、「官僚の家庭に育った令嬢が、妻子ある文学者と心中未事件」に、勢いよく食いついたのです。ノーガードならいてうは、顔写真付きで、あることない事を書き立てられました。風評被害を受けた「閨秀文学会」は、休会。日本女子大学の名簿から、らいてうの名が消されます。(現在は復活)
騒ぎの鎮静化も含め、森田は妻と離婚の上、らいてうと結婚するのが収め処。そう考えて平塚家を訪れた漱石。文学少女が、バカな弟子に騙されて…とも思っていたのか、漱石は、ここで想定外の展開に見舞われます。

「結婚なんて全く考えてない」

呆れた顔で、平然と自分を見つめるらいてうの姿。二人とも死のうと思って、一昼夜、月に照らされた雪山を歩き、壮大な風景に感動。まるで他人事のようにいう彼女を見た時、相当な驚きがあったようです。  
その驚きが、小説「三四郎」に出てくる、無意識、無自覚なまま、男を翻弄させるヒロイン美禰子に、反映されました。

1908年(明治41年)自分のしたことに対する、世間の反応と、周りへの波及効果が激しいこと。両親の間にも、何かあったのかもしれません。精神的に参ったらいてうは、しばらくの間、長野県の山間部で静かに暮らしました。年末に帰京します。
1909年(明治42年)漱石の勧めで、森田は事件を題材にした小説「煤煙」を書き上げ、朝日新聞に連載。当時注目された事件の小説化は、世間受けも上々で、森田は一躍文壇に上がりました。

森田とらいてうシナストーリー


森田草平 1881年3月19日 岐阜市生まれ 出生時間不明

☀星座 ♓  ☽星座 ♏(☽24h幅 ♏0°39~14°05)

らいてうと森田ですが、ホロスコープを観ると、彼女の☀に、森田の♂。
☽に関しては、どちらも時間が正確ではないものの、森田の☽は♏。時間帝によっては、らいてうの☽と引き合います。
ただし、彼女の☽。森田の♃♄と重なります。さらに♉にある二人の♆。男女の仲としては、進まない可能性は大。

森田は♀♆が重なりますから、美を求めるとか、文学に傾倒するのは自然、ただし、満足すると逃げたくなる気質が、彼の♓の☀の柔軟さに拍車をかけ、女性関係があやふやになりやすい傾向を秘めています。
文学肌の森田が見せるソフトな対応と言葉は、らいてうにとって、どこか不思議で、新鮮味があったのだと思いますし、一つ先の星座には、惹かれるという十二星座らしいことも要素にあったかもしれません。

1909年(明治42年)併合に慎重だった伊藤博文が、ハルピンで安重根に暗殺されました。これによって、朝鮮半島の併合が加速。日清戦争以降、日本政府は、国内だけでなく、清や朝鮮、台湾からの留学生にも、学びの門を開放。中国が民主化することを助け、双方の国が、活発に関わり、共栄共存できる道を期待して、留学生を受け入れたのでした。
明治初頭に、日本の若者たちが、これまでとは全く違う西洋の文化や社会学、言語を学ぶ過程で、進歩主義や、社会主義が根付いていったように、アジアからきた留学生は、日本の大学で、進歩主義、社会主義に触れて行ったのです。
●☀年齢域 24~34歳 1910~1920年(M43~T9)

起業、恋愛、結婚、出産育児と、人生の一大イベントが、矢継ぎ早に起こるらいてうの
☀年齢域は、まさに灼熱の輝きといっていいでしょう。
1911年(明治44年)6月日本初、女性による、女性のための文芸社「青鞜社」を、立ち上げました。物集和子、中村初、保持研子といった文芸女性が、呼びかけに集まります。数年前に塩原心中事件の女子大生が、プロデューサーと知ると、マスコミから、注目の的となるらいてう。会社設立資金は、娘が結婚する時にと、準備していたお金を、切り崩してくれた母の支援でした。

「青鞜」の名付け親は、恩師の生田長江。18世紀のロンドンで、文芸愛好家な女性たちの会に集うメンバーが、みな青い靴下(実際は、灰色に近いらしい)を履いていたことに由来。知的な女性を意味する「Blue stockings」=「青鞜」にしたそうです。
9月には、女性の感性の開放を目指した文芸雑誌「青鞜」を出版。表紙は長沼智恵が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」で有名な「そぞろごと」を寄稿。
創刊に際して、初めて「平塚らいてう」の名を使い、熱い信念を記載します。
<元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さねばならぬ。(一部抜粋)>
 スェーデンの教育学者エレン・ケイの思想に触れ、その考えに関心を寄せたのもこの頃でした。

この年は2月21日幕末から続いた日本悲願、関税自主権が回復する事もあり、開放的な空気が、国内にあったのもしれません。文芸雑誌「青鞜」は、世間から、非常に注目されました。その分、賛否両論も激しく、多くの女性から、共感、励ましの手紙が寄せられ、男性からは冷ややかな評価や、揶揄があったようです。

1912年(明治45年)読売新聞が「新しい女」というタイトルで、連載を開始。第一回目は、夫が留学しているフランスに旅立つ与謝野晶子を取材します。世の中に「新しい女」というキャッチが流れ、型にはまらない、自由に生きる女性が、注目されました。青鞜で活動を続ける女性たちは、奔放にそとでカクテルやビールを飲み、それも話題になる時代だったのです。

7月30日明治天皇が崩御なさり、皇太子の嘉仁親王が即位。元号は大正と変わる夏、姉を見舞うために訪ねた茅ケ崎で、らいてうは、運命の人と巡り合います。

青年の名は奥村博史。水墨画家木下藤次郎の研究所に通う画学生で、1889年(明治22年)生まれ。北原白秋が主催する文芸誌「朱鷺」の出版元、東雲堂の若旦那、西村陽吉を介して、出会った二人は、落ちるように、理屈抜きの恋に火が付きました。
それを知った青鞜の尾竹紅吉。奥村の親友新妻莞が、執拗な邪魔をするため、心理的に参った奥村は、らいてうに別れの手紙を送って離れていきます。
「池の中で二羽の水鳥たちが仲良く遊んでいたところへ、一羽の若い燕が飛んできて池の水を濁し、騒ぎが起こった。この思いがけない結果に驚いた若い燕は、池の平和のために飛び去って行く」
その後、恋のサクセスストーリーの如く、帝国劇場で上演される「ファウスト」が、きっかけで再会。二人は復縁してゆくのです。らいてうに送った別れの手紙。実は、新妻莞が書かせたものと判明しますが、それにしても、文章の一文「若い燕」は、年上の女性の愛人になる若い男性の代名詞として、今も使われているのが、面白いですね。

1914年(大正3年)本来両親に送るべき私信『独立するに就いて両親に』を、青鞜の2月号で、発表するらいてう。明治・大正時代。恋愛結婚が全くなかったわけではありません。なので、そこは問題ないのですが、嫡出男子優先な家長制度や、良妻賢母と国が決めた婚姻制度に疑問を持つ考え。いつまでも純粋な恋人同士の関係を保ちたい=入籍をせずに、男女が「共同生活」として共に暮らすと主張する、らいてうと奥村のスタイルは、あまりに斬新過ぎました。

二人の新生活に対して、世間の風当たりは、相当厳しかったようです。
国が決めた事や、既存の風習等が、圧力となり、女性の生き方を不自由にしている。その様々な縛りや、価値観から、開放されることを旨とする青鞜は、この頃、無政府主義的なカラーがさらに強まりました。
「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自由になる」という旨の記事を、福田英子が書き発禁処分。らいてうの処女評論集「円窓より」も、「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」と、発禁になります。

国に忠誠を誓い働く父親と、国や権力、そこに従事する父親を嫌う娘、らいてうとの間も、さらに険悪となっていました。奥村との出会いがなくても、彼女は自活せざるを得ない状況だったと思います。

奥村とらいてうのシナストーリー


奥村博史 1889年(明治22年)10月4日 藤沢市 出生時間不明。

☀♎11°04。☽♒(♒1°01~15°03まで、ふり幅あり)

互いの出生時間は不明ですが、奥村の☀と、らいてうの♃♅が、同じ♎。そして奥村の☽が、♒で、らいてうの☿と合。もし、奥村が夜遅くの生まれなら、らいてうの☀と号となります。♓にあるらいてうの♀と、♍で差向う奥村の♀♂。
長く共に暮らす相手として、☀・☽・♀・♂が成立しています。入籍を気にしない。この世の法には、従属しない。これを読み取るとするなら、二人の♆♇でしょうか。

らいてうは、♉の終わりに♆があり、♇は奥村と同じ♊。二人とも年齢差が2,3年なので、♅以降の星は、大きくずれません。♆と♇は、既存の価値観に縛られたくない。圧を感じるものから逃れたい、という傾向も、見せているのかもしれません。
因みに明治天皇が崩御された日。♆は♋24°R。♇は、♊29°23でした。
甲羅を壊して、古い水を出すように、二人は「既存の結婚」「肉が定めた家庭」とは違う形を、作る相手を見つけたのかもしれません。

かくて共同生活をスタートさせ、仕事に全力を傾けたいらいてう。ですが、生活環境の激変。妊娠から来る体調不良によって、これまでのような活動や執筆に、思いブレーキがかかりました。
1915年(大正4年)年明け早々に、青鞜の発行活動を、伊藤野枝に委ねます。その後、9月奥村が結核で茅ヶ崎の「南湖院」に入院。12月には長女を出産。入籍していないため、平塚家から分家して、子供の戸籍を入れる等、劇的な一年が過ぎていきました。彼女の年齢は、28~29歳。そう、西洋占星術的には、サタンリターン(土星回帰)を迎えたのです。
青鞜のその後ですが、当時伊藤と交際していた大杉栄が、元カノの神近市子に刺される「日陰茶事件」によって休刊。事実上の解散となりました。

1917年(大正6年)らいてうは長男を出産します。産後、なかなか戻らない身体のまま、二人の子供の育児と家事作業。奥村の絵は、売れないため、家計はらいてうの仕事に、かかっていました。初めて体験するままならない時間が続く中で、らいてうは、「国はもっと母親を保護し、妊娠、出産、育児期のフォローをするべきじゃないか」と、「母性保護」を考えます。

1918年(大正7年)与謝野晶子が、婦人公論で、「女子の徹底した独立」を掲載しました。<国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない>という、自分とは真逆の考えに、嚙みつくらいてう。二人の考えの相違は、山川菊栄と山田わか等を巻き込み、「母性論争」に発展。ようやく第一次世界大戦が終わり、スペイン風邪が世界に蔓延する中、一年ほど続きます。これがまた人の目を引き付けることになりました。

1919年(大正8年)☀年齢域を仕上げる年、婦人公論1月号で、『現代家庭婦人の悩み』というタイトルで、らいてうは<家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず>と主張します。家事の労働対価という話題、現代も出てきますが、実は大正時代の頃からある話なのです。
同年夏。愛知県の繊維工場を視察しました。明治時代は、鉱業も産業も発展しますが、女性だけでなく、12歳以下の子どもも、昼夜関係なく、有害で危険な労働環境で働いていたのです。

工場法成立が、1911年(明治44年)。施行は1916年(大正5年)なので、らいてうが見学した時は、幾分の改良、改善はされているはずですが、同じ場所で何時間も同じことを繰り返し、黙々と働く女性たちの姿に、「こんな環境で働いていて、女性が自立した生活なんて無理」らいてうは、絶望に近い怒りを感じたのでした。
常に抑圧からの解放を求めて模し、行動してきたらいてうは、家庭や家族、労働環境から、女性を解放すために、広範囲な婦人解放を進めるべきと考えます。それには女性だけの団体運動が必要と、市川房枝、奥むめおの協力を得て、11月24日「新婦人協会」を立ち上げました。

時勢的な流れを説明しますと、併合した朝鮮半島に、二個師団ほど軍を起きたい陸軍に対し、財政難を理由に、NOと言った第二次西園寺内閣ですが、直後に陸軍大臣が辞任。後任の陸軍が決まらないまま、解散に追い込まれました。(軍部大臣現役武官制の、悪い部分が出ました)。
1912年(明治44年)第三次桂内閣が始まりますが、桂は長州出身。陸軍と藩閥がバックでした。日露戦争の際、ロシアから賠償を取らなかった総理でもあるたけ、国民から大ブーイングが起きます。

「万機公論に決すべし!」に始まって、民衆の不満に、可燃剤を加えたのが、憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅でした。「政府は憲法に従え」「閥族打破!」「皇室を大切にしろ」と、人々が飛びつきやすいネタを巻き、見事に第一次護憲運動が燃え上がり、暴徒化する人々を前に、第三次桂内閣は、総辞職したのです。(大正の政変)

「政治とは、一部の特権階級のものではない。広く国民のためにある。普通選挙を行って、国民の代表者を決め、選ばれた人たちに政治を行ってもらう」吉野作蔵の「民本主義」もこの頃に出てきた考え方でした。護憲運動の活発化で、政治に不満、不審を抱く民衆が、様々な思想運動に関わる大正デモクラシーが起きたのでした。
●♂年齢域 34~45歳 1920~1931年(T9~S6)

らいてうの火星年齢域は、活動の舞台がより社会へとアップします。
「新婦人協会」が誕生したのも、発起人たちの気持ちだけでなく、時代背景がありました。機関紙「女性同盟」の発行等もありましたが、会の動内容は、大きく二つ。

・治安維持法第5条の改正のための請願
・花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請願

当時は治安維持法第5条によって、女性が「集会に参加する事」も、女性が「集会を主催すること」も禁止していました。これを改正しない限り、政治活動も、選挙権を求める活動もできません。
花柳病は、政治活動に関心が強かった市川や奥にとって、そこまで熱の入る内容ではなく、花柳界の女性から、性病を移されて悩む話を聞いたらいてうが、活動に盛り込んだようです。双方、意思の疎通が図れなかったことから、しだいに軋み和音が強くなり、活動開始から、2年後の1921年(大正10年)らいてうは、運営を退きました。

市川も渡米のため「新婦人協会」を離れます。以降「新婦人協会」は、奥と坂本真琴が中心になって活動。1922年(大正11年)11月治安警察法第5条2項」の改正には成功しますが、「新婦人協会」の会としての活動は、ほぼ終わりました。

第一次世界大戦が起きた欧州では、物資の不足が相次ぎ、ロシアは長引く戦争への不満から、労働者や軍人たちが一斉発起。1917年(大正6年)ロシア革命が起こりました。
 1914年(大正3年)以降、欧州へ物資の安定供給ができる日本は、大戦景気に見舞われます。1918年(大正7年)連合軍の勝利に終わった大戦。富山の米騒動や、シベリア出兵。爵位がない事から、「平民宰相」と呼ばれた原敬が、初政党内閣をスタートさせまるこの年、日本の戦争特需も終わりました。欧州にモノが売れなくなった日本は、戦後不況を迎えます。産業を活発化させたことで、都市部は労働人口が急増しましたが、経済の風向きが変わり、不況の色合いが濃くなると、貧困問題や労働問題が拡張しました。

明治時代、国民の貧困問題に取り組んできたのは、主に篤志家や皇室でした。しかし、数が増えると、救済にも限度があります。大正時代の著しい社会問題に向き合ったのは、キリスト教と、心ある社会主義者でした。国防や国際問題、道徳や家庭制度には、重きを置く保守層、社会的な弱者救済には、どうも関心が薄く、貧しい庶民の救済のため、キリスト教が慈善運動を展開。
社会主義者は、労働環境を改善しようと、労働組合作って資本家と交渉。心優しき故に、社会のために取り組もうとする学者、役人、軍人や政治家も、社会主義に惹かれたのです。

1921年(大正10年)。中華民国で中国共産党が結成されました。伊藤野枝・山川菊江が、社会主義婦人団体「赤瀾会」を結成。らいてうと「新婦人協会」を相手に、批判を展開しますが、らいてうは家族と共に、転地療養のため、東京を離れています。原敬首相が、東京駅で、国鉄職員中岡艮一に、暗殺される事件が起こったのも、同年11月でした。
翌年の夏、日本共産党が産声を上げ、12月ソビエト社会主義共和連邦が誕生します。

1923年(大正12年)9月1日関東大震災が起きました。亡くなった方や行方不明者が10万人超え、東京、神奈川、千葉等、広範囲被災する未曽有の大災害が、戦後不興に被さったのです。帝都は瓦解。組閣中だった第二次山本権兵衛内閣は、対応のため始動。
モラトリアムを発令し、日本銀行に特別融資を行うようにしました。内務大臣後藤新平は、道路拡張、インフラ整といった大規模な、都市計画を実行。上下水道等が整備されるのです。

アメリカ・イギリス・インド・オランダをはじめ、10か国以上、日本政府に対する義援金や、医療救援などを行ってくれたのです。その半面、あらぬデマが流れ、それに釣られた人たちが、朝鮮の人々や。共産主義者の命を奪うという悲しい事も起きています。
 復興と外交に力入れる山本内閣ですが、同年12月27日。皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が、無政府主義者の難波大助に狙撃される「虎の門事件」が起きたことから、責任を取る形で解散しました。

次に登板した清浦圭吾内閣。キャストを超の付くほど貴族院で固め、世論は大ブーイン
グ。犬養毅の革新倶楽部。加藤高明の憲政会。高橋是清の立憲政友会が、第二次護憲運動を展開し、清浦内閣を解散に追い込みます。

1926年(大正15年)12月25日大正天皇の崩御により、裕仁親王が即位。元号も昭和に
代わりました。翌年1927(昭和2年)震災手形の処理を巡って議会が行われた時、若槻内
閣の片岡直温大蔵大臣が、「東京渡辺銀行の破産」と失言した事から、仰天した国民が銀行に押し寄せ、取り付け騒ぎが発生したのです。他にも鈴木材木店の倒産により、巨額の債務を抱えていた台湾銀行が。経営難に陥ります。こうして政府当局による、経済対策の間違えや、緊縮に舵を着たことから、昭和金融恐慌が起きたのでした。東北方面は、飢饉も重なり、困窮する農村や漁村は、娘を売る家も続出したのです。

総辞職する若槻内閣に代わり、大蔵大臣に高橋是清を起用した、田中儀一内閣が発足。詳
しくは別の回で書きますが、約3週間のモラトリアムを発令。是清は昭和恐慌を見事に抑
えました。

転地療養で東京を離れたらいてうは、震災後に千歳烏山へ転居。奥村が成城学園の美術講師を務めるようになり、その後、砧喜多見(現成城町)に、自分で設計した家を構えます。
1929年(昭和4年)ニューヨークでの株式大暴落によって、世界恐慌勃発が発生。
1930年(昭和5年)♂年齢域の仕上げを迎えたらいてう。社会主義政党に物足りなさを感じ、生活協同組合活動「我らの家」を始めました。この頃は、消費と生活に意識を傾けるらいてうですが、国家総動員法によって、活動も生活も思いのままにできなくなります。高群逸枝らの無産婦人芸術連盟にも、関わってゆきました。
●♃年齢域 45~57歳 1931~1943年(S6~S18 )

1931年(昭和6年)満州事変が起きる年、産児制限の視点で、避妊・中絶を肯定するらいてうは、石本静枝らと、日本産時調節連盟を結成します。
1938年(昭和13年)「我らの家」を家庭購買組合と合弁させました。
1939年(昭和14年)「手のひら療法」というハンドヒーリングに目覚めます。声が出にくい体質から、必要なこと以外は話さない一面を持つらいてう。精神世界と現実世界を紐づけて考えるのは、抵抗のない人ですが、家族の健康や自身の健康を意識したのでしょう。 1941年(昭和16年)らいてうは奥村姓に入籍します。子供は既に成人を迎えていますが、これで嫡出子となります。今でこそ当たり前な事実婚。強い信念を曲げてまで、行ったのは、戦争に向かう時代の空気も手伝ったのと、父の死が絡んだのかもしれません。

書く意欲や、権力に抵抗する情熱が、この頃はダウンしていたようです。占星術的に言えば、♃年齢域のフィナーレに向かい、♄年齢域に近づく時期なので、グンと重い運気とも言えます。
♃年齢期の終盤となる1942年(昭和17年)から1947年(昭和22年)。姉が用意してくれた住まい。茨城県小文間(元取手市)へ、夫と共に疎開したらいてうは、農業体験の日々を過ごしました。

時代的な流れを見ると、1932年(昭和7年)海軍の青年将校が、犬養毅を暗殺した五・一五。1936年(昭和11年)陸軍の若い将校たちが、政府要人を襲撃した二・二六事件をはじめ、殺伐とした事件も増えています。第一次世界大戦後の不況から、持ち直す機会を逃すような震災恐慌、さらに昭和恐慌と、いずれも政府側、対策を頑張るのですが、個人の財布のひものように、今は苦しいから節約と、緊縮に舵を切って。長期にわたるデフレを招いたのも、立ち直れない要因でした。

不透明な経済不況は、人を疑心暗鬼にさせます。より多くの人の役に立ちたい、貧しい人を救いたい。それには財閥や資本家と癒着している政府のままではだめだ。かつて心ある志士たちが、国の危機を憂いて、徳川幕府を倒したように、新たな国を作るべく昭和維新を起こそう。

地方からできてきた若い青年将校たちを、「維新を起こす」という意識を持つよう、働きかける者たちが、軍の中にもいたのです。純粋な気持ちと正義感は、物事を見る目を失う効果を起こしがちですが、五・一五事件、二・二六事件は、その典型例と言えます。
五・一五事件の犯人である青年将校たちの減刑を求めて、署名活動が、当時展開されました。国を憂い、国を変えて国民のために。という気持ちを込めた犯行声明が、多くの人の心を打ったのかもしれません。しかし、思考と行動を煽動され、目先の正義感だけで、他者を殺害するのは、マインドコントロールされたテロ行為なのです。

第二次世界大戦に向かうまで、目に見えた赤狩りではなく、国際的な関係、日本国内の政府内・大学・軍隊等、重要な機関等に、実に見えない形で、日本が戦争へ向かうような道筋。敗戦することで無政府状態になるような画策があったことが、ここ近年わかってきています。この辺の経緯は、別の人物を書く際、盛り込んでいこうと思います。
●♅年齢域 70~84歳 1956~1970年(S31~S45)
●♆年齢域 84~85歳 1971年(S46 )

1960年代は、日米安保反対運動が激化してゆきます。永田町だけでなく、各大学まで荒れる時代、公害病問題も、深刻化しました。アジア圏では、韓国動乱にベトナム戦争が起きています。
1962年(昭和37年)いわさきちひろ・野上弥生子・岸輝子らと、新日本婦人の会が結成されると、らいてうは、その代表委員となりました。
1964年(昭和39年)長年連れ添った夫奥村博史が、この世を去ります。
1966年(昭和41年)「ベトナム話し合いの会」を結成。♅年齢域と、♆年齢域が交差する1970年(昭和45年)「ベトナム母と子保健センター」を設立に、尽力しました。自伝の制作にも取り掛かりますが、胆嚢・胆道癌を患い、東京千駄ヶ谷の代々木病院に入院。

1971年(昭和46年)5月24日に死去します。享年85歳。
同居していたお孫さんの話では、とても小柄で声は小さく、言葉の少ない人」だったそうで、世間一般の人がイメージするらいてうと、身近な家族が知っている彼女には、不思議なズレがあるようです。

時事としては、新幹線が開通し、東京オリンピックが開催され、日本は高度経済成長時代を迎えます。東名高速道路も、この頃開通。小笠倭諸島の返還等、希望的な事も出てきてますが、安田講堂事件、よど号ハイジャック事件も起きてきて、騒然とする事も並行しておきました。この辺辺りまで来ると、「知ってる」「聞いたことある」という方が、多いと思います。

今回、非常に長くなりましたが、明治大正の時事を書かないと、彼女が意識を構築した時代背景がわからないので、明治大正は丁寧に。昭和に関しては、彼女の活動の勿れに重きを置きました。平塚らいてうが、何故、女性の自由、抑圧からの自由を求めたのか。
 幼いころ、大好きだった家庭環境を、父親から一方的に変えられてしまったことに、端を発している。ホロスコープと履歴を見ながら、そう思いました。

与謝野晶子との母性論の違いも、根っこは、双方が育った環境の違いに、端を発していると考えました。与謝野は、商家の娘で幼いころから店の手伝い、家事、親戚づきあいもこなす長女。略奪婚をした経緯はあるけど、筆一本で子どもたちと旦那を養った女性。
 らいてうは、三人姉妹の末っ子で、都会に住むお嬢様。思い悩むことはあっても。青鞜以外で、働いたことはなく、必要もありませんでした。奥村との生活の中で、子どもを産み育て、ままならない壁に、はじめてぶつかった時、助けを求めたい気持ちが、国からの母子保護に向かったのでしょう。

キリスト教の腐敗によって、共産主義が生まれたことも、父性=権威を嫌悪する事につながるので、権威を嫌いつつ、自分の自由行動の結果、できた「子供」を保護することを求める彼女の根底には、どこか「強いなら、守ってくれないの?」と。父親に向ける気持ちに通じると推察しています。