台湾統治時代、不毛の大地と呼ばれていた嘉南平原に、堰堤長1,273mの「烏山頭ダム」と、総延長16,000㎞の供排水路「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」を建設。
100年を経た今も、地域の人々の生活を潤し、観光地になる、歴史的大公共事業を成しえた八田は、台湾のみならず、故郷の金沢では、歴史の授業で学ぶ偉人の一人です。
どんな星を宿して、運勢を切り開いたのか、さっそく観てゆきましょう。

八田與一パーソナルデーター

1886年(明治19年)2月21日12時設定(出生時間不明)
石川県河北郡今町生まれ(現在の金沢市今町)

☀星座♓2°26
☽星座♎5°13(ふり幅♍27°57~♎12°24。♍の場合は第7室・♎の場合は第8室)
第1室(本人の部屋)♓☀
第3室(幼年期の部屋)♉♆
第4室(家族の部屋)♊♇
第5室(嗜好の部屋)♋♄
第7室(契約の部屋)♍☊・♂R(R=逆行)
第8室(授受の部屋)♎☽・♃R・♅R
第12室(障害・溶解の部屋)♒♀R☿

ほぼスプレータイプな、ホロスコープ。順応性や応用力を、持ち合わせますが、第1室(本人の部屋)にある、☀は、価値を見出せば、艱難辛苦すらいとわずに、常識の境界線をとび越える♓。持ち合わせた傾向は、より強調されるでしょう。
♀以降♅までの惑星は、全てR(逆行)。
トランジット逆行の影響を、受けにくいと言われる特性を、うまく利用できれば、何事も前向きに変えられます。その♀は、第12室(障害・溶解の部屋)好奇心と変革の風を宿す♒の☿と共に、☀と手を離さないステリウム。
思考深く、機知に富む感性で、書くこと・話す事、技術などに携わるよう、八田をけん引したのかもしれません。

ステリウムはもう一組あって、第8室♎の☽と♃Rと♅が、それ。
☽は基本的に♎で観ますが、出生時不明ですから、24時間のふり幅も考慮。
深夜から早朝に誕生なら、♍の可能性もあります。どちらにしても、人当たりはソフトであり、<星は入室の時の方が、星座の影響を受けやすい>この考えが正しいのなら、どちらにしても、♎の影響は強いでしょう。(今回、ホロスコープに、おおよそのふり幅にしるしを記入しています)

子どもの頃から、術が面白く、話し出したら止まらない八田は、数学が得意で、土木の世界で、人の役に立ちたいと夢を抱き、帝大に進学しました。
その学生時代に、八田は学友たちの前で、ライフライン構想を語ったそうです。最初のうちは、興味をもって聞いていたけど、あまりにも大きな構想に、周りはついていけないオーラ発動。「大風呂敷の八田」と言われるようになります。

これは第8室にあるステリウムと、第4室の♇が、トラインを結んでいることから、よく言えば、スケールの大きい思考。なんでも拡張気味になりやすいのは確か。話し上手な部分が、より利己的な方向に作用すると、ウソつきとか、詐欺に流れる傾向もあります。
八田のN♇は、☀☿♀のステリウムと、社会的成功を宿すスクエアを、持っているため、視点が広く、より社会貢献に向かったのでしょう。ただし、話を聞く相手が、対等もしくは、より大きい運勢を宿していないと、理解しにくいのはあると思います。

☿♀コンビは、第3室の♉♆と、緩めなスクエアを形成。大地の守護である♉の♆が絡むので、独特のこだわりや、守りの姿勢を見せることもあるでしょう。ここに、彼の面倒見の良さが、加味しているのかもしれません。
このホロスコープ。メジャーアスペクトに、セクスタイルとオポジションがありません。そしてグランドトリンも形成していませんが、わりとすんなり才能を伸ばし、「これだ!」と思う事、納得できる事には努力を惜しまないだけに、世紀の一大事業を成しえたのかもしれません。

八田與一略年表

(Wikipedia・その他資料参考)
1886年(明治19年)2月21日石川県河北郡今町村(現・金沢市今町)八田四郎兵衛・サトの五男として誕生。
1892年(明治25年)花園村立花園尋常小学校入学。(四年制)
1896年(明治29年)森本尋常高等小学校入学。(三年制)
1899年(明治32年)石川県立第一中学校入学。(五年制)
1900年(明治33年)父・四郎兵衛死去。
1904年(明治37年)第四高等学校大学予科二部工科入学。
1907年(明治40年) 東京帝国大学工学部土木科入学。
1910年(明治43年)7月東京帝国大学工学部土木科卒業。8月28日台湾総督府土木部技手に任命・工務課勤務
1912年(明治45・大正元年)台湾島内を調査旅行。
1914年(大正3年)台湾総督府技師、民政局土木局土木課勤務衛生工事係となり、浜野弥四郎のもとで衛生工事に従事。
1916年(大正5年)フィリピン・ジャワ・ボルネオなど、調査旅行。人事異動で監査係となり、発電・灌漑事業を担当。「桃園埤圳」の設計・監督を行う為、土木課に戻る。
1917年(大正6年)米村外代樹(16歳)と婚姻。発電ダム建設地点調査と、嘉南平原の調査実施。灌漑事業計画を進める。
1919年(大正8年)長女誕生。八十名の部下と共に嘉南平原の測量調査を開始。兼任臨時台湾総督府工事部技師・工事課勤務設計係となる。嘉南平原の工事設計案・予算案完成。
1920年(大正9年)総督府から、公共埤圳官佃溪埤圳組合事務嘱の件が、許可される。長男誕生。
1921年(大正10年)官田渓埤圳事業着工。
1922年(大正11年)次女誕生。アメリカ合衆国・カナダ・メキシコのダム視察実施。烏山頭出張所長拝命・烏山頭に転居。烏山嶺隧道起工、ガス爆発事故発生、死傷者50名余り。
1923年(大正12年)関東大震災の影響で、嘉南大圳の工事中断。リストラを行う。
1924年(大正13年)嘉南大圳の工事再開・烏山頭堰堤排水用隧道竣工。濁水渓導水路・給水路完成、灌漑開始。三女誕生。
1925年(大正14年)四女誕生。
1926年(大正15・昭和元年)烏山頭堰堤の本工事開始。母サト死去。金沢へ帰郷。
1927年(昭和2年)次男誕生。
1929年(昭和4年)五女誕生。烏山嶺隧道竣工
1930年(昭和5年)烏山頭堰堤竣工・組合技師を解職し、組合技師顧問となる。台湾総督府技師に任命され、務局土木課勤務となる。台北市に転居。
1931年(昭和6年)六女誕生。
1934年(昭和9年)勲六等瑞宝章授与。
1935年(昭和10年)中華民国福建省主席陳儀の依頼で、灌漑施設の調査を実施
1936年(昭和11年)「福建省管見」と題して、論文「台湾の水利」に発表。
1937年(昭和12年)兼任台湾総督府専売局技師、塩腦課勤務。
1938年(昭和13年)勲五等瑞宝章授与。
1939年(昭和14年)勅任官待遇。勲四等瑞宝章授与。
1940年(昭和15年)台湾都市中央計画委員会幹事。台湾国立公園委員会幹事
1941年(昭和16年)日本・朝鮮・満州・中華民国の主なダム視察。
1942年(昭和17年)陸軍省より「南方開発派遣要員」としてフィリピン派遣。5月8日 東シナ海において遭難殉職。
1944年(昭和19年)與一の銅像供出。
1945年(昭和20年)外代樹、子供をつれて烏山頭に疎開。外代樹、烏山頭ダムの放水路に投身自殺 享年四十五歳。
1946年(昭和21年)組合によって八田夫婦の墓が、烏山頭に建立される。

八田與一☆history

●月年齢域・0~7歳・1886~1893年(明治19~明治26年)

石川県河北郡花園村(現在の金沢市)は、豊かな田園地帯で、かつては加賀100万石と謡われた地域です。1888年(明治19年)2月21日この地に住まう豪農、八田四郎兵衛・サト夫妻の五男として、八田與一は誕生しました。(本編はフルネームもしくは、八田、与一と表記)

村人からの信任厚い父は、50を越えて誕生した末の息子を、たいそう可愛がったそうです。地域でも豊な家に生まれた與一は、やさしい両親の元、姉一人、兄四人の兄弟に囲まれて、すくすくと育ちました。
☽年齢域が終わる頃、自宅の前にある花園村立花園尋常小学校(現在、金沢市立花園小学校)に入学します。

この小学校は、今も地元の子どもたちが通っていて、校歌とは別に、「八田與一技師を称える唄」があり、校庭には、台湾の実業家から贈られた、八田與一の銅像があります。
校舎の1階には、特別教室『花園異人館』が常設。金沢市の歴史館とは、また違った感覚で、いつでも八田與一の功績を、見る・触れることができるのです。
地域の人たちにとって、大切な偉人、八田與一ですが、5,6歳の頃の與一少年は、そんなこと思いもせずに、毎日、学校へ通っていたのでしょうね。

八田の☽は、♍なら契約の部屋。♎だと、授受の部屋で、ここは配偶者の親族との絡み、社会的恩恵を、どれだけ受けられるか、授受なので、どれだけ社会に対して、自分を還元できるかを、
責任を含むのですが、♃と♅がRだから、効果半減とはいえ、見事な☽・♃・♅のステリウム。

少年時代、環境に守られて、穏やかに過ごした事は、伺えます。
●☿年齢域・7~15歳・1893~1901年(明治26~明治37年)

知的好奇心がいっぱいな與一少年。4年間の小学校生活が終わると、森本尋常高等小学校へ進学しました。明治政府は、国民の教育水準を上げるため、義務教育を導入しましたが、この時代はまだ、子どもの労働が禁止されていなかったのです。国防と貿易の関係上、税制制度を変えた明治時代の社会は、エリート層と、一般民衆層の二重構造化が進みました。

エリート層や、経済的に豊かで、親の理解がある家庭の子なら、高等小学校に進学できましたが、経済が苦しい家庭、教育に関心のない家庭の子は、10歳前後で働きに出たのです。
工場や炭鉱、農業、漁業、または大棚への丁稚奉公等、子どもが働く場は多岐にあり、その労働環境は、過酷な場所多かったのでした。これらの問題は、1911年(明治44年)工場法が公布され、施行された1916年(大正5年)以降、変わってゆきました。(法律は、公布と施行の間に、必ず時間経過があります)

話を與一に戻しますが、☿♀Rと☀とのステリウム効果も相まって、☿年齢域は、勉強大好き盛りで、1899年(明治32年)には、石川県立第一中学校入学。恵まれた環境ですが、翌年には大好きな父四郎兵衛が亡くなり、寂しい思いも経験しています。
実家が細ければ、ここで勉学を諦めて就職もあったと思いますが、お母さんをはじめ、兄弟の理解と援助もあった與一は、中学で5年間学んだ後、金沢市にある第四高等学校大学予科二部工科に入学しました。

この年は、水星年齢域と♀年齢期が交差する1904年(明治37年)。世の中は、日露戦争まっしぐらでしたが、八田與一は、これまで以上に広域から、優秀な学生が集まる環境で、知的な洗礼を受け、哲学者の西田幾太郎に学び、努力で勉強を進めたのです。
●♀年齢域・15~24歳・1904~1913年(明治37~大正2年)

第四高等学校大学予科二部工科で学ぶ與一は、土木業に自分の進路を見出し、♀年齢域花盛りの1907年(明治40年)帝国大学に合格。
念願の工学部土木科へ入学するため、東京に上京しました。ここで出会ったのが、帝国大学工学部で教鞭をとっていた広井勇です。

広井は札幌農学校2期生で、新渡戸稲造・内村鑑三宮部金吾等と同期でした。卒後に自費で、欧米へ6年ほど留学。帰国後は、30歳で小樽築港所長を拝命した5年後、小樽北防波堤の設計と施工を行った人物です。実績と経歴が、政府の目に留まり、37歳で東京帝大教授に抜擢された広井は、「技術は人々を豊にするためにある」という価値感の持ち主で、八田與一にとって、講義のみならず、経験談もすごく魅力的だったのでしょう。

この頃、周りの学生からは、言う事が大きい「大風呂敷の八田」と、言われていた與一ですが、一見突拍子もない、ライフライン構想等、風呂敷話を耳にした広井は、「八田に内地は狭すぎる。杓子定規な役人には、疎まれるだろう。八田の風呂敷は、外地でこそ生かされる」と、台湾行きを進めたのでした。

ここで日本が台湾統治にいたるまでの経緯に、少しだけ触れます。
緑豊かなアジアの島である台湾は、地理的な関係で、歴史を通して様々な国が領有を主張しました。大航海時代の欧州では「オランダフォルモサ」「スペインフォルモサ」と、呼ばれたのです。オランダもスペインも、アジア圏の支配統治の拠点として、台湾を使いました。近隣である清とは、歴史を通して接点があり、日本が明治維新を迎える頃、台湾は、事実上、清の統治下になっていました。

1871年(明治4年)宮古島の島民が、台湾に漂着した際、原住民に殺害される「宮古島島民殺害事件」が発生。明治政府は、台湾を納めていた宗主国の清に、島民を殺害された賠償を求めます。しかし、清は態度をハッキリさせないままでした。誠意ないその態度に怒った明治政府は、台湾へ、軍隊の派兵を決断。(征韓論は反対したのに、台湾派兵をしたことで明治政府内も、実はかなり揉めました)これに慌てた清が賠償金を払い、大事にはならずに済みましたが、その後、台湾は、清とフランスの戦争の舞台となったのです。

列強国の植民地化を警戒した清は、放置状態だった台湾の近代化を進めましたが、日清戦争の末、下関条約で台湾は割譲されたのでした。以降、1895年(明治29年)~1945年(昭和20年)大東亜戦争終了までの50年。日本は台湾を統治したのですが、下関条約が決まった時、当の台湾からすれば、他国同士の争いの結果、自分たちの島が、勝手に割譲されるのですから、怒り心頭になるのは当然です。激しい対日行動が起きました。

清の支配下で、台湾総督を務めていた唐景崧は、台湾民主国を宣言し、台湾北部で日本の近衛師団と交戦しましたが、結果逃亡。台北城は、無血開城となりました。北部は掌握できましたが、農村地帯の多い南部は、龍永福を中心に、さらなる激しい抗日戦が続いたのです。
1万4000人以上もの血を流した末、圧倒的な軍事力の差を前に、降龍永福が厦門へ逃げ出し、約150日近く続いた、抗日戦は終わりました。

ようやく日本は、台湾統治を行うのですが、次は亜熱帯気候と、劣悪な衛生環境という、大きな問題に直面したのです。当時の台湾は、清が開発に入った、北部の都市部を除き、道は整備されてない上、都市部にさえ、上下水道はありませんでした。
歴史を通して、入れ替わり立ち代わり、様々な国が台湾を支配しましたが、ライフラインを作り、島民の生活を省みることはかったのです。

抗日戦のさなか、戦死者よりも、病死者の数上回った記録がありますが、その原因も、衛生環境の悪さにありました。現状を前にして乃木希典は、「日本人の生命と政府の財産を守るため、この国をフランスに売り払っては」統治を止めるよう、伊藤博文に勧めたといいます。

その台湾総督に、あえて志願したのが、陸軍三羽烏の一人、児玉源太郎でした。(台湾総督在任期間1898-1906年)日清戦争の後の防疫事務に、従事した後藤新平を伴い、1898年(明治31年)台湾へ渡った児玉は、二輪三脚でライフラインの構築構想、マラリアなどの感染症対策と、島民の暮らしを含めた衛生環境向上に、勤めたのです。

東京帝国大学工学部土木科を卒業した八田與一が、台湾総督府土木部技手として、台湾へ渡った1910年(明治43年)は、統治の地ならしの後、具体的に作り上げる時代した。
八田を含め31人の若い技手が、14人の技師の下、着いて、事業を進めてゆくのですが、技師の一人、浜野弥四郎は、衛生工学の学者でもあり、台湾の上下水道の父と呼ばれています。

浜野の下で、新人八田與一は、嘉南市・台南市・高雄市等、上下水道の整備を担当し、多くの事を学びました。
●☀年齢域・24~34歳・1910~1920年(明治43~大正12年)

♀年齢域と☀年齢域が交差する1910年(明治43年)は、明治末期。日露戦争後、勝ち戦だったのに、ロシアから賠償金を諦めた国。戦争による人員的な損失も大きく、日本国内は、明治政府への不信と不景気が浸透いていました。

総経費、19億8612万円(当時の金額で)と言われる日露戦争。大増税の税金投入もありましたが、14億7329万円が、国債で補われています。そのうちの約13億は、外国債でした。
これは高橋是清が頑張ったから、成しえた事なのですが、他国から借りた限りは、返済をしなければなりません。当時から返済を始めて、完済をしたのは、1986年(昭和61年)と言われています。

大正時代から、昭和の初め、東北の農村地帯等は、ひどく貧しい状況でしたが、日本政府は、海外への返済と、先に併合した台湾同様、後から併合条約を結んだ朝鮮半島への、投資と近代化も推し進めました。統治した2国が、日本と同じように発展し、共存共栄を図る事で、欧米列強からの植民地支配を避ける策とも考えていたことから、経済と人材の供給を絶えることなく、続けたのです。

1914年(大正3年)技師に昇進した八田與一は、浜野の設計で作られた「台南上水道新設工事」に従事しました。曽文渓を水源に、水源地と浄水場を設ける事業は、台南市3万人の人口に対して、10万人の飲料水を供給する大掛かりなもので、八田は喜んで取り組んでいましたが、2年後、人事異動の命が下ります。

監査係として、発電所作りの他、灌漑事業を、担当することになった與一は、後ろ髪惹かれる思いで、現場を離れました。しかし、ここで不思議な事が起きます。
当時の日本政府は、多数の貯水池がありながら、水不足になると完全に干上がり、生態系への悪影響や、住民生活も危機的な状況に陥る台北の桃園を、問題視していました。これは放置できないと判断した事から、土木科に任せる事になったのです。このような経緯から、ちょっと回り道をして、他の経験を積んだ最年少の技師八田が、土木課に呼び戻されたのでした。

♀年齢域まで積み上げてきた学力を生かす、☀年齢域の八田與一は、総事業費約770万4000円。細かい貯水池を繋げ、水を安定供給ができる「桃園埤圳」に8年の歳月を費やし、取り組みます。

運勢が大きく動く時は、仕事だけでなく、生活環境も変わり時。郷里の金沢に暮らす兄たちから、見合いの話が持ち込まれた時期でもありました。
仕事に打ち込むのはいいけれど、30にもなった末弟が、独身のままでいるのは良くないと、心配した兄たち。金沢市でお嫁さん探しを始めたのです。すると、その話を聞きつけた、医師米村吉太から、「うちの娘はどうでしょうか」と申し出があったのでした。
相手の顔も、ロクに顔も見ない、話もしていない状況ですが、当の與一は、信頼している兄からの話なので、承諾しています。

米村外代樹さんは、金沢第一高等女学校を、首席で卒業した才女。写真は少ないのですが、才識兼備な日本人女性で、この時まだ16才。今の時代感覚だと、結婚には早すぎる年ですが、当時の良い家のお嬢さんなら、縁談があっても、おかしくはありません。
相手は地元の豪農の息子で、帝国大出。国家事業を営むエリートで、学歴と職種は申し分なかったのですが、年の差15歳と、結婚=台湾に移住。この2点が、米村家では心配の種となり、揉めたようですが、父の吉太郎が押切りました。あまりにも才女すぎる娘を、受け入れてくれる先がないと、心配したのかもしれません。

1916年(大正6年)八田與一は、一回り以上年下の外代樹と、結婚したのでした。

新婚早々ですが、台湾南部の嘉南平原の調査に取り組みます。
広大な嘉南平原は、土壌が良くなく、降雨が少ないため、乾けば著しい旱魃。この地で暮らす農民たちは、生活水の確保もままならない生活をしていました。ところが雨季になると、年間の雨量の約9割が集中。排水が悪いため、全てを飲み込む大洪水が起きるのです。

旱魃と洪水を繰り返す状況を知り、愕然とした八田與一。考えた末、ここに水路を引ければ、台湾最大の農地ができて、住民たちは、安心して水も使える。
大掛かりな事業になるが、無理ではない。そう思いついたのです。

1918年(大正8年)長女が誕生した年、八十名の部下と共に與一は、嘉南平原の測量調査を開始。南北に別れる川から、満水面積1,000ha。有効貯水量1億5,000萬万m3力のダムと、平原一帯に、まるで蜘蛛の巣のように細かな水路(16,000㎞)を作り、田畑に水が供給できる灌漑事業、合わせて行うこという、一見無茶苦茶なプランを立てました。

最初は唖然とした上司や技師仲間も、八田のあまりの熱意と、裏打ちされた計画を聞くうちに、嘉南平原の工事設計案・予算案に協力。台湾総督府の年間予算の、三分の一を、当てることになるプランを、台湾総督府と日本政府に提出。この時の台湾総督府は、日露戦争当時、児玉源太郎の部下であった明石元二郎でした。

ダムだけでなく、約50万人の農民が住まう広大な土地に、1万6000㎞の水路を張り巡らす、嘉南大圳の建設。地球の全集が4万㎞から考えて、規模の大きさが想像できますが、この内容を精査した明石は、本国への建設予算獲得に尽力してゆきます。

折しも日本の国内は、米騒動が起きていました。元々台湾には、食糧増産のために農産物を増やす目的もあって、日本政府は投資してきたのです。その為には、開発を進め、地域で働く農民が、豊かにならなければいけません。時代政策を誤った事もあり、急激な食糧増産の必要に迫られた日本政府は、できるだけ短期間で、力を入れる必要が生じていたのです。
交渉上手な明石が、八田與一と、日本政府の間にいたことも、タイムリーでしたが、この南台の改造は、時代の要求とも合致したのでした。べらぼうな総督府の要求に対して、半額は「国費」負担。もう半分は、受益者が「官田渓圳組合」を結成、施行するという形で、ついに建設の許可が下りたのでした。

八田與一の星回り的には、T♅が、♒の終わりを進み、N☀・☿・♀のステリウムを刺激している事。T♀は♊に入室。これがN♆と♇を地劇。T♃は、♊を抜ける準備に入っていますが、Nの♋♄とコンジャンクションを始めています。♋には、T♇もあり、新たな命を守り育むために、堅い甲羅を割って、改善を進めるような意図を、含んでいるかもしれません。

☀年齢域と、♂年齢域が交差する1920年(大正9年)。
国から予算を含めた大事業が許可されると、八田與一は、国家公務員を辞職しました。組合お抱えの技師となる方が、事業に専念できると、考えたからです。この年、八田家では、長男が誕生しました。
●♂年齢域・34~45歳・1920~1931年(大正9~昭和6年)

♂年齢域は、「烏山頭ダム」と「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」を完成させることに、捧げた10年とってもいいでしょう。
翌年1922年(大正11年)には、次女も誕生して、賑やかになる八田家ですが、與一はアメリカ合衆国・カナダ・メキシコのダム視察に行きます。この見学を通して、八田はコンクリートをほとんど使用しないセミ・ハイドロリックフィル方式を、採用。

これは日本同様、台湾も島国で、地震が多く、硬めのコンクリートを大目に使うより、粘土や砂などを使った柔軟な素材の方が、耐震性があると、考えたからです。(この読みは大正解)

帰国後、烏山頭出張所長拝命。家族を伴い、烏山頭に転居したのでした。
ダム建設は、長期に渡る仕事なので、建設に関わる全ての人が、できるだけ現場から近い所で、家族と共に生活できる方がいい。そう考えた八田は、従業員たちが住むための、街づくりも行ったのです。簡易的でも、遊興施設や、医院。学校なども設け、福利厚生を心がけました。
総責任者である自身も、烏山頭で暮らしを選んだのです。

順風満帆で着手しましたが、工事を開始した途端、ここで大トラブルが発生。
ガス爆発事故が起きてしまいました。50名あまりの死傷者を出したことから、自身も失意のどん底の中ですが、責任者として、遺族の元を一軒ずつ訪れて、頭を下げる八田與一。
遺族の中には、「何があっても、このダムを作ってください」と、いう人もいたそうです。

さらに翌1923年(大正12年)は、與一の姉が他界し、日本全体としては、関東大震災が発生という、公使ともに凶事が重なりました。
本国の首都が、大損壊したことから、事業は一時中断となり、着くべきはずの予算が縮小。

現場ではリストラの必要も出てきたのでした。有能な人は、どこでも重宝されるので、引き留めなかったそうです。むしろ積極的に、転職の世話をしたという逸話が残っています。
実力勝負であると同時に、エネルギッシュな分、危機的な時でもある♂年齢域の前半は、八田與一の人生で、最もハードな時期だったと思いますが、諦める事なく、仕事を続けました。

1924年(大正13年)には、三女誕生。嘉南大圳の工事再開に、烏山頭堰堤排水用隧道竣工。濁水渓導水路・給水路完成、灌漑開始したのです。危険な現場にも、常に自らが先に立ち、日本人も台湾人も関係なく接する八田與一の姿は、現場で働く人たちに、無言の信頼を根付かせてゆきました。
四女が誕生した後の1926年(大正15・昭和元年)は、ついに烏山頭堰堤の本工事が開始しますが、まるで一つの時代を締めくくるように、郷里の母が亡くなり、一度金沢へ帰郷しています。

1929年(昭和4年)五女誕生と重なるように、烏山嶺隧道が竣工しました。
翌1930年(昭和5年)には、烏山頭堰堤竣工。大事業が終わりを迎え、組合技師を解職した與一は、組合技師顧問になります。台湾総督府から、技師として、内務局土木課勤務に戻る命が下ると、自ら会長となって「公友会」を立ち上げます。

ガス爆発事故の他、約10年に渡るダム建設工事では、落盤事故などもあり、134人の方々が、亡くなりました。その名前を事故で亡くなった順に、もちろん、日本人と台湾人の区別などなく、石碑に刻んだのです。「殉工碑」を建立した後、八田は、妻と子どもたちを連れて、台北へ帰りました。
●♃年齢域・45~57歳・1931~1945年(昭和6~昭和20年)

嘉南大圳組合本部が、台南市に移転した1931年(昭和6年)。♂年齢域と、♃年齢域が交差するこの年、公友会では、都賀田勇馬が作った八田與一の銅像除幕式が行われます。
ダムができたこと。水路できたことで、嘉南の人たちは、生活水を手に入れる苦労から、介抱され、二毛作が可能となったのです。感謝の思いを、八田に伝えたい。
その強い思いが、銅像になったのです。本人は、まったく乗り気ではなかったのですが、1919年(大正6年)浜野が離任で台湾を去る際、台南水道に、浜野の像を建立したのは、他ならない八田與一でした。これでは、拒みにくいですよね。

八田家では、6番目の四女が誕生。二男四女の計八人。子沢山の大所帯になりました。夫が大事業に取り組んでいる間、妻として嫁いできた外代樹は、見知らぬ土地で、子育て奮戦時期を送ったのです。携わったことは違いますが、夫婦どちらも頑張った10年と思います。

翌年には、台湾全島土地改良計画に取り組み、新たな課題を見つけてゆく與一。
1935年(昭和10年)中華民国福建省首席陳儀の依頼で、灌漑施設の調査を実施。これは招待ということもあって、外代樹婦人を伴っています。
1938年(昭和13年)には、勲五等瑞宝章を授与され、翌1939年(昭和14年) 勅任官待遇。勲四等瑞宝章授与されました。

1941年(昭和16年)高等官二等三級に昇格した八田與一は、日本・朝鮮・満州・中華民国の、主要なダムを視察。この年の12月。ついに大東亜戦争が、始まります。
(大東亜戦争に関しては、別の回で触れます)

1942年(昭和17年)5月。陸軍省から、「南畝開発派遣要員」として、フィリピン派遣の命が下った八田與一は、三人の部下を伴い、広島の宇品港から大洋丸に乗船しました。
しかし、船が目指したフィリピンの港に、着くことはありません。五島列島付近を航行中、アメリカ海軍の潜水艦「グレナディア」の魚雷に、撃沈されたのです。

5月8日攻撃に巻き込まれ、八田與一は、命を落としました。享年56歳。
死亡時の星回りを、克明に描く気はないのですが、T♄と♅が、♉の終わりにあり、八田與一の♆と♇を刺激。また第8室にあるN☽♃♅のステリウムに、T♆がヒット。社会的に大きな授受を運命づけられた人が、時代の波に呑まれてゆくことを示しているとも取れます。

八田の遺体はすぐに見つからず、しばらく時間を経て、萩の漁師に引き揚げられたそうです。
未亡人なった外代樹は、1945年(昭和20年)。子どもたちを連れて、烏山頭に疎開しました。地元の人たちは、八田の妻子を温かく迎えますが、敗戦によって、日本は台湾、韓国の併合を解き、日本人は、本国へ引き上げる事が決まります。
外代樹は「兄弟、姉妹、仲良くらしてくださいね」という旨の遺書を残し、夫が作った烏山頭ダムの放水路に、身を投げてしまいました。享年45歳。

彼女の真意は、わかりません。どこまでも推察ですが、16歳で家族の元を離れて、台湾の八田與一の元に嫁いだ彼女は、馴染みの人が、誰もいない孤独な状態だったこと。育児に重なる出産の連続。目先に追われ、寂しさを感じる暇もなかったとも言えるし、寂しい気持ちに蓋をしていたのかもしれません。今と昔を比べれば、明治生まれの女性は気丈でしたが、気軽に「実家を訪ねる」もできない中、彼女の心の支えは、ただ一人、夫だったとしたら、急に失って、心が折れてもおかしくはありません。

愛する夫を追ったであろう、彼女の死は、当時、貞淑な妻の鏡と言われました。
悲しんでいたのは確かで、貞淑な妻も、間違ってはいません。が、それが強調されることで、母まで失った、当時のお子さんたちが、あまりにも不憫になります。
気の毒な夫妻の死に、台湾の人たちはとても悲しみ、「八田與一、外代樹の墓」と刻んだ墓石を立てて、手厚く弔いました。

5月8日八田與一の命日は、今の時代も、慰霊に訪れる人が途切れることがありません。それは、短腕の人たちが、八田への感謝の思いが絶えることのないように、自国の歴史の教科書に、彼の功績を載せている事もあると思います。

現地の人たちが、感謝の印で立てた銅像は、戦時中の供出の際、行方不明となり、後に発見されて、元の場所に設置されました。その後、蒋介石時代に、再び撤去。1981年に、ダムを見下ろせる元の場所に戻ったそうです。不思議なエピソードですが、それだけ現地の人から、慕われる人である証だと思います。日本でも、時代の先駆者の一人として、八田與一を学ぶ機会を増やしたほうが良いと思います。