榎本武揚出生時(N)ホロスコープ

※Nは出生時・Tは進行中

1836年10月5日江戸下谷御徒町(現台東区浅草橋)生まれ 12時設定
太陽星座♎11°53
月星座♌7°35(月のふり幅00:00♌1°34~/23:59♌13°39)
12時設定なのでASC/MCは、組み込んでいません。因みに、この日のASC♌・MC♈です。

星の配置から見て、2グループ。もしくは4グループに分けられるので、シーソー&スプレータイプなホロスコープ。第1室本人の部屋♎☀と、第7室契約の部屋♈♇Rのオポジション。交渉事には、秀でた才も与えられるでしょう。嗜好の部屋第5室♒♆Rは、第10室社会の部屋♂。友人希望の部屋第11室☽♃と三本のオポジション。☽の成育次第,、という面はあるものの、☽♃コンビは、基本的に人の巡り&お金の縁は悪くありません。

榎本の場合は、対極が♆R。リアリズムや理系的なことに、一役買っていますが、とかく着地観がなく、ふわふわ♆。相手に振り回されたり、詐欺にあいやすい傾向も出ます。
第2室☿♄移動と変化コンビは、♆Rとビンビンのスクエア。第8室授受の部屋♉☊とオポジション。第2室が個人の対人関係と金銭のめぐり。第8室は、配偶者の親族や社会から受けるものを司りますが、ばっちりと引き合う組み合わせが、彼の人間模様と、数奇な運勢を物語っている気もします。

第11室♌には、☽♀♃。ベネフィック祭りですが、特に♀は、第6室健康勤務の部屋♓♅Rともオポジション。このため、時期や状況の変動、対する相手の変動。かなり移動の多い人生を過ごすことを、暗示しているようです。人柄がよくて、つい「なんとかしてあげたい」と、まとめられる側の人ではなく、まとめる側になりやすいタイプです。

略年表

(ウィキ・その他、複数資料参照)

1836年10月5日(天保7年8月25日)江戸下谷御徒町柳川横丁三味線堀の組屋敷生まれ。父は御徒目付榎本武規・母ことの次男として誕生。
1847年(弘化4年)11歳 近所の田辺石庵に入門。儒学を習う。
1851年(嘉永4年)昌平坂学問所に入学
1853年(嘉永6年)昌平坂学問所修了。
1854年(安政元年)函館奉行の堀織部正について、蝦夷地をまわり、サハリンまで行く。
1857年(安政4年)長崎伝習所2期生として入学。機関学・化学を学ぶ。
1858年(安政5年)海軍伝習所を修了。江戸の築地海軍操練所教授となる。ジョン万次郎の私塾で英語を習う。
1862年(文久2年)オランダ留学。
1863年(文久3年)オランダのロッテルダムへ到着。船舶運用術・砲術・蒸気機関学の他、国際法を学ぶ。
1866年(慶応2年)開陽丸が竣工したことを受け、留学を終えてオランダを離れる。
1867年(慶応3年)3月横浜港に帰着する。5月軍艦役・開陽丸乗組頭取(館長)に就任。オランダ留学生仲間林研海の妹たつ(奥医師・林洞海の長女)と結婚。
1868年(慶応4年・明治元年)鳥羽伏見の戦い・阿波沖開戦で勝利。江戸に戻り、海軍副総裁となるが、旧幕府艦隊を率いて奥羽列藩同盟の支援に向かう。奥羽列藩瓦解により、函館へ向かい五稜郭を占領。蝦夷地平定宣言。士官以上の選挙によって総裁となる。
1869年(明治2年)3月25日宮古湾海戦。新政府軍参謀黒田清隆は、函館市街を制圧。旧幕府軍に降伏勧告の使者を送る。榎本、これを拒否。回答状とともに、「海律全書」の焼失を避けるため、新政府軍参謀に贈った。黒田清隆の熱意ある説得に応じて降伏。旧幕府軍幹部は、全員東京の兵部省軍務局糾問所の牢獄へ収監される。出獄まで、黒田、福沢諭吉の助命嘆願が始まる。
1872年(明治5年)特赦により出獄。親類宅で謹慎。3月6日放免。黒田が時間を務めていた北海道開拓に四等出仕として任官。末北垣国道らと、海路北海道へ向かう。以降、函館・日高・十勝・釧路等、資源調査を行う。
1873年(明治6年)中判官に昇進。同年夏、再度北海道へ。熊石(現八雲町)の石炭山の
調査。石狩山地で空知炭田を発見。対雁に「榎本牧場」を開き、小樽に「北辰社」を設立。中露特命全権公使の澤宜嘉が病死。
1874年(明治7年)1月10日榎本を領土交渉使節に閣議決定。中露特命全権公使に任命され、3月10日横浜出港。6月サンクトペテルブルクに到着。
1875年(明治8年)5月7日樺太・千島交換条約を締結。6月13日マリア・ルス号事件、アレクサンドル2世の裁定が下り、日本が勝訴。
1878年(明治11年)7月26日サンクトペテルブルクを立つ。シベリア鉄道で横断する。10月4日汽船函館丸で小樽到着。10月21日に帰京。
1879年(明治12年)11月外務大輔となる。
1880年(明治13年)海軍卿に就任。
1882年(明治15年)皇居造営事務副総裁に就任。8月全清特命全権公使となり、妻子を伴い北京へ赴任。
1884年(明治17年)天津条約締結に尽力する。
1885年(明治18年)清国駐在を免ぜられ帰国。12月22日内閣制度発足。第1次伊藤内閣の逓信大臣に就任。
1887年(明治20年)子爵に叙せられる。
1888年(明治21年)4月30日黒田内閣 逓信大臣留任と、農務省大臣を7月まで兼任。電気学会を設立。初代会長。徳川育英会の設立。
1891年(明治24年)3月6日東京飯田橋に「育英學」設立(現東京農大)。大津事件ロシアへの謝罪使節有栖川威仁親王の随行員を命じられる。
1892年(明治25年)第1次松方内閣総辞職に伴い、外務大臣を辞任。枢密顧問官となる。
1893年(明治26年)植民協会の立ち上げ。
1894年(明治27年)1月22日第2次伊藤内閣発足。農商務省大臣に就任。
1897年(明治30年)足尾銅山鉱毒事件に携わる。津田仙とともに現地視察。
1898年(明治31年)富山県で発見された隕石から日本刀「青龍刀」を制作。皇太子に献上。
1900年(明治32年)8月23日盟友黒田清隆死去。葬儀委員長を務める。
1905年(明治38年)海軍中将を退役。
1908年(明治41年)夏 闘病生活となる。10月26日腎臓病で死去。享年73歳。10月30日海軍葬が執り行われる。

榎本武揚histor

●お江戸生まれな少年時代☽年齢域&☿年齢域
0~15歳・1836~1851(天保7~嘉永4年)

神田明神からも遠くなく、江戸の街中な御徒町。そんなお江戸の御徒町柳川横丁(今の浅草橋付近)三味線堀の組屋敷に住まう、西丸御徒目付榎本武規と、妻琴の男として、1836年10月5日(天保7年8月25日)。榎本武揚は誕生しました。幼名は釜次郎。(本編はフルネーム、もしくは榎本、武揚と表記)

父は数学が得意で、伊能忠敬の弟子を務め、測量に携わったこともある有能な役人でした。天保の飢饉や騒動など、騒々しい時代に生れた武揚ですが、大切にされて育ち、1847年(弘化4年)11歳 近所の田辺石庵に入門。儒学を習らいます。


●最低から最高を叩き出した学生時代。♀年齢域
15~24歳・1851~1860年(嘉永4年~万延・文久元年)

1851年(嘉永4年)武家の男子が通う昌平坂学問所に入学。1853年(嘉永6年)修了時の成績は、最低の「丙」。尚、この年は日本大激震なペリー来航な年でもありますね。
翌1854年(安政元年)函館奉行の堀織部正の従者として、蝦夷地函館(現・北海道函館市)に赴く機会を得た武揚。19才にして、樺太やサハリンまで足を延ばし、測量や調査を行いました。この時の経験が、函館戦争だけでなく、千島樺太交換条約締結の下地となったのかもしれません。1855年(安政2年)江戸へ戻ると、再び、昌平坂学問所に通いますが、途中退学。大目付伊沢政義のツテで、長崎に開校した海軍伝習所の聴講生として参加した後、1857年(安政4年)第2期生として入学しました。

オランダ人講師のカッテンディーケやポンぺから、機関学や化学などを学びました。理系脳な武揚。昌平坂学問所と違い、グングンと成績を上げて行きます。
長崎海軍伝習所は、勉学を深めるだけでなく、伝習所総督の永井玄蕃頭尚志をはじめ、後に函館戦争で共に戦う同士。第一期生だった勝麟太郎(勝海舟)と、縁を持つ場でもあました。
1858年(安政5年)幕府が海軍拠点を、長崎から江戸に移行する時期に、海軍伝習所の卒業が重なった武揚は、築地に創設した軍操練所の教授となります。
操練所の教授を務める傍ら、ジョン万次郎の英語塾へ通いました。英語だけでなく、遠洋航海の経験がある万次郎と、交友を深めます。戊辰戦争で伝習隊を率いた、大鳥圭介とも知己になり、まさに充実感な♀年齢域だったと推察。
●オランダ留学&函館戦争顛末記な☀年齢域 24~34歳
1860年~1870年(万延元年~明治3年)

榎本武揚の太陽年齢域は、幕末と函館戦争絡みなので、盛りだくさん。
留学期間を前半。帰国後から函館戦争を後半。に分けました。

☀年齢域前半・オランダ留学と帰国編

海軍に力を入れたい幕府は、アメリカに3艘の蒸気船の発注と、榎本武揚を含む、内田正雄・赤松則良・田口俊平・津田正道・西周・澤太郎左衛門の7人を、留学させたい旨も併せて伝達しました。当時のアメリカは、「南北戦争」の真っただ中。そんな注文を受ける余裕はなく、申し出を断ったのです。そこで幕府は、蒸気船1艘(開陽丸)を発注と、7人の留学先を、鎖国時代からの長い付き合いがあるオランダに変更。

1862年7月14日(文久2年6月18日)。咸臨丸で品川沖を出発する留学生一同ですが、武揚を含む4人が、麻疹に感染。下田で療養した末、ようやく長崎に到着。オランダ船カリップス号に乗り換えたら、ジャワ島で暴風雨に遭い船は座礁。
無人島へ漂着した所を助けられたけど、何故かセントヘレナ島に立ち寄り、ナポレオンの寓居跡詣でまでする大冒険の後、1863年6月4日(文久3年4月18日)オランダ・ロッテルダムへ到着します。

海軍伝習所時代の恩師カッテンディーケや、ポンぺに歓迎され、ハーグに落ちついた榎本武揚は、船舶運用術・砲術・蒸気機関学・化学のみならず、国際法も学びました。
フランスの法学者オルトランが書いた「海の国際法と外交」を、あまりにも熱心に読み込む姿を見た、オランダ人講師から、帰国前に同本をプレゼントされています。
1864年(元治元年)第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦を、赤松則良と共に、観戦武官として見学。他にも幾つかの戦線を見学しています。デンマークでは、クルップ本社を訪れて、アルフレート・クルップと面会。

フランスが幕府に軍艦建造、購入を提案したことを受けて、内田とパリに赴き、フランス海軍と交渉も行いました。元々交渉は得意な榎本、さらにビジネススキルを磨いたわけです。赤松と共にイギリスを訪れた際は、造船所だけでなく、良質な石炭が取れる鉱山も見学しています。
1866年12月1日(慶応2年10月25日)完成した開陽丸に乗り込み、オランダ・フリシゲン港を出港。翌1867年4月30日(慶応3年3月26日)帰国しました。

幕府に召し出された武揚は、軍艦役開陽丸乗組頭取(艦長)に就任。短期間で軍艦頭となりました。この頃、結婚もしています。お相手は、オランダ留学仲間の妹、林たつ(奥医師林洞海の長女)。個人の人生としては、いい感じですが、薩摩藩がスルーを決め込んだ、第二次薩長征伐は、第14代徳川家茂将軍の病死により、講和が成立したものの、事実上幕府大敗。長州藩は息を吹き返します。第15将軍に就く徳川慶喜ですが、孝明天皇の崩御によって、勤皇派の勢いは、さらに活発化。 武揚が帰国した日本は、かなり様子が変わっていたのです。

1867年11月9日(慶応3年10月14日)第15代将軍徳川慶喜が、明治天皇に政権返上を上奏。大政奉還を行い、徳川265年。武家政治約700年に、終止符が打たれました。
国内紛争の長期化によって、外国勢が日本を攻め込みやすくなるのを防止する目と、第二次長州征伐の状況を見れば、戦っても分が悪いのは幕府。戦をやる理由がありません。
政権を返上したところで、朝廷はもちろん、薩長にも、国政を動かす組織力と経験がない。徳川幕府の260年培ってきた組織力と、事務能力。これを継続して使うのが、最適な選択であることから、位置も立場も変わらないで済むを考えた慶喜の策(土佐藩の建白書効果でもある)が、大政奉還の主だった理由です。

この日、討幕派の公家(朝廷から)長州藩と薩摩藩に「徳川討幕の密書」が下りますが、慶喜の大政奉還によって、「討幕」の必要はなくなり、慌てて密勅を引っ込めるという事態に陥りました。しかし、これであきらめる討幕派ではありません。
徳川慶喜を残す=封建体制が残れば、列強国と対等に交流する国が作れないと、腹をくくる討幕派は、ご御所会議を押し切り、王政復興の大号令が発令されました。

慶喜の立場はなくなり、徳川家の領地は没収。この事態に、会津藩、桑名藩をはじめ、幕臣たちの憤りが募る中、江戸市中では、略奪強盗集団が暴れ回り、彼らが薩摩藩屋敷に逃げ込む事件が起きます。旧幕府方は、暴徒たちの身柄引き渡しを薩摩藩に求めますが、薩摩藩はこれを拒否。江戸警備役の各藩の役人たちも駆け付け、薩摩藩との間で揉め事がエスカレート。ついに薩摩藩邸焼き討ち事件に発展しました。
これは徳川討伐戦の戦を起こす理由を作るため、仕掛けられた罠だったのです。大阪城でこの一報を聞いた慶喜は、「薩摩打つべし」と、盛り上がる幕臣たちを、抑えることができず、戊辰戦争が燻り出したのです。

鳥羽伏見の戦いが始まった1868年1月26日(慶応4年・明治元年1月2日)は、

☀♒5°☽♒19°☿♒6°と、MCまで♒な水瓶座祭り。
ASCは♉20°♀♓4°♂♑29°♃♓9°♄♐3°♅♋9°R ♆♈12°♇♉14°R。

という配置になっています。

☽が☀を追い越しているので、新月明け。時代の終焉と&始まりは、♒の新月から始まったのでした。♒といえば、革命改革の♅が守護星ですね。進行中の♅は、♋で逆行。古きを壊して、新を作り出すということでしょうか。まるで硬い甲羅を破って、古い水を全て流すことを物語っているようです。

太陽年齢域後編・函館戦争と一冊の本が救った命

☀年齢域の後半ですが、まだ鳥羽伏見の戦いも始まっていない1868年1月26日(慶応4年1月2日)京都での軍議に参加するため、艦隊を率いて、年末に大阪湾入りしていた武揚。年明け早々の朝。鹿児島に向かって出港する、薩摩藩の平運丸を攻撃します。
猛然と抗議する薩摩藩に対し、「薩摩藩亭焼き討ち事件以来、幕府と薩摩藩は交戦状態にあり、港湾封鎖は問題ない」国際法を元に返す武揚に、グの音も出ない薩摩藩でした。

第1室♎と対極第7室♈に、N☀とN♇のオポジションを形成していますが、このN♇に、T♆が重なります。武揚のN♆は、第5室♒。♋♂とオポジション。ここにT☀・☿・♂が、コンジャンクション。この星の一群と、☽は少し離れていますが、♒の対極♌のN♃♀☽とオポジションと、かなり強烈。武揚が生まれた日のMCも、♌。勝ち戦という配置です。

1868年1月27日(慶応4年1月3日)入京しようとする徳川慶喜公を、阻止しようとした薩摩藩兵が、放った銃声から、ついに鳥羽伏見の戦いが起こりました。
兵庫港から出港した春日丸と翔凰丸に、開陽丸は停止を求めますが、これに応じないため、日本史上初の、蒸気機関艦戦。阿波沖海戦となります。翔凰丸は自沈。春日丸には、若き日の西郷従道と、三等砲術士官だった東郷平八郎が、乗船していました。

海戦は幕府軍の勝利となりますが、陸戦は、新型の兵器で挑む薩長軍に苦戦する上、彼ら陣営に翻る錦の御旗に、心理的ダメージを受けて、完全敗退します。
深刻な状態のため、大阪城へ入った武揚にも、アクシデントが発生しました。

1868年1月30日(慶応4年1月6日)T☽は♈で♆とコンジャンクション。武揚のN♇と☀を刺激しています。慶喜公は、桑名藩主と会津藩主等、最も近しい人たちを、散歩と称して連れ出し、艦長不在の開陽丸に乗り込み、江戸へ向かったのでした。
僅かの間に乗り逃げされた榎本武揚。船乗りとして、相当ショックなハズですが、前代未聞な総大将の敵前逃亡がわかり、騒然とする大阪城内で、彼は、実に的確な動きを見せたのです。

勘定奉行並の小野友五郎に依頼し、大阪城にある軍資金(18万両)や武器、その他必要なものを、大阪湾に運び出させました。榎本自身は、鳥羽伏見の戦いで傷ついた旧幕軍負傷兵を、富士山丸に乗せるため、指揮を執っています。
海路で江戸を目指した翌日。新政府軍から、「徳川慶喜追悼令」が発令されました。
旧幕府は完全に朝敵となったのです。
第15代将軍徳川慶喜の逃亡劇の理由は、今もって不明ですが、彼が徳川家よりも皇室重視な水戸徳川家出身であったことも、要因かもしれません。

江戸へ戻った榎本武揚は、海軍副総裁に就任。新政府軍に対する徹底抗戦を、主張しますが、慶喜公はこれを却下。幕府の全権を勝海舟に一任して、上野寛永寺で謹慎生活に入ったのでした。
1868年5月3日(慶応4年11日)江戸城無血開城が、無事執り行われますが、新政府軍から、旧幕府軍が所有する艦隊の引き渡しを求められ、ブチ切れた武揚は、要求を拒否。
悪天候を理由に、品川沖から安房国館山へと、脱走を試みますが、これは勝海舟の説得を受け入れて、富士山丸・観光丸・翔鶴丸・朝陽丸の4艘を、新政府軍へ引き渡しました。

明治天皇が江戸に入りした後、江戸が東京と改名ました。何故、首都が京都ではなく東京かというと、260年かけて造られた世界屈指のインフラと、多くの武家屋敷を、大使館として使用できる目算もあったからです。
慶応から明治と改元した1868年10月31日(明治元年9月16日)。
「檄文」と「徳川家臣大挙告文」の2通を、勝海舟に託した榎本武揚は、開陽丸・回天丸・千代田形・神速丸・美賀保丸・威臨丸・長鯨丸・蟠竜丸の8艦隊を率いて、江戸湾を出港しました。

会津戦争に北越戦争と、激戦が続く過程で、結成された奥羽列藩同盟の援護のため、仙台港を目指す艦隊には、若年寄永井尚志・陸軍奉行松平太郎。上野戦争の彰義隊や遊撃隊の生き残り。フランス軍事顧問団のジュール・ブリュネと、アンドレ・カズヌーボも加わり、総勢2000人が乗船したと記録されています。
仙台港へ到着した頃、板垣退助率いる迅衝隊に、会津藩は陥落。奥羽列藩同盟は瓦解という状況でした。土方歳三と共に、仙台藩主に談判を試みた武揚ですが、仙台藩は降伏を選択します。

ここで大鳥圭介と伝習隊。仙台藩を脱藩した額兵隊に、土方歳三を含めた新選組の残党。桑名藩主松平定敬等を含めた3000名が、榎本艦隊に乗船。立ち寄った石巻港で、新政府軍宛に「旧幕臣とその家族を救済のための蝦夷地開拓」「ロシアの侵略に備えた皇国の北側の守備」という旨の『嘆願書』を提出して、蝦夷を目指しました。
明治政府は、これを却下しますが、文面を見ると、榎本たちは、旧幕府軍で蝦夷を開拓をして、ロシアから国を守ることが目的で、共和国を作る野望や、日本を割る意志はなかったようです。

イギリスとフランスは、旧幕府軍と新政府軍の動きを警戒し、両国とも函館に駐留している自国民を守るために、軍艦を函館港に派遣しました。
榎本は両国の艦長、領事館領事とも会談しています。二国ともこの件には、不干渉。アメリカは局外中立の立場をとりました。榎本たちの「蝦夷共和国」の由来ですが、イギリス公使書記官アダムスが、後年に発行した著書に、彼ら旧幕府軍の事を「repblic」と紹介したこと等が、「蝦夷共和国」という呼び名につながったという説があります。

1868年12月3日(明治元年10月20日)旧幕府軍は、函館の北にある鷲ノ木(現森町)に、上陸。函館の幕府軍と交戦。函館戦争が幕を開けます。T☀は♐を進行していますが、♄も入室しているため、スピード感に難あり。T♆も♈をゆっくりと進み、ずっと武揚の♇を刺激。T☽は☊Rと共に♌を進行。N☽♃♀と合。♏にあるN☿♄コンビに、T♀がヒット。

旧幕府軍は、五稜郭占拠に成功します。新政府側に就いた松前藩の攻略戦も、うまくいきました。短期的に見れば、星回り的にもありかなと思いますが、♄効果発動なのか、これから始まる壊滅の序章のように、江差湾へ入った開陽丸が座礁。沈没してしまったのでした。榎本武揚、これは大ショックだったと思います。
1869年1月27日(明治元年12月15日)蝦夷地平定を宣言して、旧幕府軍官士以上の入れ札を行い、榎本武揚は、総裁となりました。日本初の選挙は、榎本たち旧幕府群です。

1869年3月15日(明治2年2月3日)陸奥宗光が前倒し交渉を行ったことから、明治新政府に、アメリカから、装甲艦甲鉄が、引き渡されました。春到来とともに、榎本脱走軍討伐を行うため、新政府は津軽に陸軍を終結。甲鉄を含めた艦隊を宮古湾に集結させます。
この新政府の動きと、新型船の情報を知った榎本たちは、状況打開のため、歴史的にも稀な移乗攻撃(アポルタージュ)を計画。世にいう宮古湾海戦です。

船は所属先がわかるように、国旗を掲げることを義務付けられていますが、害を加えないなら、どこの国の国旗を掲げても、違法にはならないルールがありました。旧幕府軍は、これを利用。他国の国旗を掲げた回天・蟠竜丸・高雄の3艘で、宮古湾内に入り、停泊中の甲鉄に接舷し、奪取する予定でした。
1869年5月6日(明治2年3月25日)に踏み切りますが、暴風雨で蟠竜丸がはぐれ、高雄は機関故障したため、拿捕されることを恐れて焼却。回天のみで、実行したことが無理に繋がりました。艦長の甲賀源吾は、敵の砲撃を受けて、深手を負いながらも、戦闘指揮を取り続けて戦死します。

この宮古湾戦には、土方歳三方歳三が参戦し、新政府軍の春日丸には、東郷平八郎が乗船していました。回天で一歩の引かずに指揮を執り続けた、艦長の姿に、東郷は「甲賀という男は、あっぱれな勇士だった」と、賞賛しています。

1869年5月20日(明治2年4月9日)旧獏軍討伐のため、長州藩の山田顕義が指揮官となって、1500人の新政府軍が、江刺から上陸しました。西郷隆盛に、「あの小童、用兵の天才でごわす」と言わせた山田の戦略によって、人員も、物資も不足気味な旧幕府軍は、分散させられ。退却を余儀なくされます。
土方率いる伝習隊や、大鳥圭介の部隊が、踏ん張りますが、陸軍参謀黒田清隆が乗り込むと、戦争は激化しました。

土方歳三の戦死が有名ですが、函館湾から五稜郭に向けて、甲鉄が放った砲撃により、古屋作左衛門の他、多数の死傷者が出ています。古屋作左衛門は、函館病院の院長の、元将軍侍医高松凌雲の兄でした。
五稜郭陥落を前に、これ以上の抵抗は、犠牲を増やすだけで意味はないと判断した黒田は、高松凌雲を介して、榎本武揚に、武士の名誉は守る旨の降伏勧告文を、送ったのです。
勧告を受け入れなかった武揚ですが、武士の礼を持って接してくる黒田に感謝して、「新たな日本に必要なことが書かれている本です。ここで燃してしまうことなく、役立ててほしい」と、一冊の本を託しました。
「海の国際法規と外交」。武揚がオランダ留学から帰る際、講師に贈られた本を手にした黒田は、本の内容よりも、そこにびっしりと書き込まれた、手書きのメモに仰天。国の未来を考える榎本武揚は、新時代に必要な人材と確信したのでした。

同年6月25日(旧5月16日)撤退命令を拒否し、降伏勧告も拒絶。抵抗交戦を試みた千代ヶ陣屋が、陥落する際、守将中島三郎助と息子たちは、壮絶な最期を遂げました。中島親子の死を悼んで、後に死守した地域を「函館市中島町」と命名したそうです。(今は吸収合併で名前がかわっています)

夜。黒田から礼状と共に、酒5樽。鮪5匹が、五稜郭に届きました。礼状を受け取った榎本は、政府軍に休戦を求め、幹部たちと、降伏に向けて話し合ったのです。(武揚、隙を見て、切腹しようとしたのですが、仲間に止められました)

6月27日(5月18日)降伏が成立して、函館戦争は終結。約1年半続いた戊辰戦争が、ようやく終わりました。降伏の会談に際し、死を覚悟していた榎本と旧幕府軍ですが、黒田は実に丁重に迎えます。この日の武揚の星回りですが、♎N☀♐T♄がとセクスタイル。♌N☽♃にT☊がコンジャンクション。♒☽がオポジション。
♏のN☿♄は、♋を進むT☀・☿と調和しているので、理解者を得て、辛くも生き延びるとみても、よいかと思います。

数日後。共に戦った将兵たちは、弘前藩等に身柄を預けられましたが、翌年には釈放。犯罪者ではないし、責任者の立場でもない者には、寛大だった模様。(食わせる余裕もなかったのが本音)
旧幕府軍幹部は、熊本藩兵の庇護の下、北海道を離れて東京へ護送され、兵部省軍務局糾問所(現千代田区丸の内)の牢獄に収監されました。

旧幕府軍7人、一般罪人と同じ牢に、全員バラバラで入りますが、戦火を潜り抜けてきた兵たち。瞬く間に全員、牢名主になったとか…。
政府内では、木戸孝允をはじめとする長州閥は、「極刑・厳罰」を主張。黒田は{榎本武揚は、明治政府と日本に必要な男だ」と言い、旧幕府軍幹部の処置を巡り、真っ向対立。答えの出ない時間が、約2年半続き、黒田は榎本たちの助命嘆願に奔走しました。
●駐露特命全権公使として、千島樺太交換条約の締結 ♂年齢域・34~45歳
1870~1881年(明治3~明治14年)

牢獄からスタートする♂年齢期。榎本武揚の母と、自分の妻が遠縁にあたる(両者面識はなかった)のと、元上司が、榎本の妹婿元外国奉行・江連義則という縁から、福沢諭吉も助命嘆願を行っています。
助命嘆願をやり続けた、黒田清隆の願いが効いたのか、1872年(明治5年)1月6日特赦によって、榎本武揚の出獄が決まりました。しばらくの間は、親戚宅で謹慎。

3月6日晴れて放免となった榎本武揚を待っていたのは、黒田が次官を務める北海道開拓使。四等出仕として任官すると、1872年(明治5年)5月の末、鉱山検査巡回のため、北海道に赴きました。函館を始めに、日高・十勝・釧路と、資源調査を行い、日本初の気象観測所を、函館に設置。

1873(明治6年)石狩山地の空知灰田を発見。分析結果も良質な灰層と出しますが、お雇い外国人講師の一人、ケプロンに難癖をつけられ、難儀もしますが、石狩川沿いの対雁(元江別市)に「榎本牧場」を開き、国から小樽(元小樽駅周辺)の土地20万坪の払い下げを受けて、「北辰社」を設立します。

当時政府は、二つの問題を抱えていました。一つは、1872年(明治5年)横浜で発生したマリア・ルス号事件の裁判。問題が起きた横浜で解決せず、ペルーと日本の両国同意の上で、ロシア皇帝アレクサンドリア2世が、仲裁に入る国際裁判となったこと。
もう一つは、ロシア帝国を相手にした領土問題です。
この頃の樺太は、日ロ両国の国境があいまいで、両国の国民が雑居状態でした。

ロシア東の果ての樺太を、流刑地として使っていたために、やってくる人は、ほぼ犯罪者なため、余計に揉め事が絶えない状況だったのです。被害を受けるのは、日本人。殺人も起きるため、著しい被害から邦人を守るため、国境画定交渉が必要になったのでした。
同年10月。駐露特命全権公使に決まった澤宣嘉が、病死してしまったのです。そこで、困った明治政府は、澤の代役として、榎本武揚を選びました。

1874年(明治7年)1月10日領土交渉使節。14日には、日本初の海軍中将。18日には、駐露特命全権公使に任命と、雪崩のごとく、与えられたこれらの肩書に、地政学と国際法をフル活用して、サンクトペテルブルクへ乗り込んだのです。
日本は新政府成立後まだ数年。ロシアは世界に名を轟かす巨大帝国。力の差は歴然で、いつ樺太に住む日本人を殲滅し、ロシア領と言い切られても、力のない日本は、黙って泣き寝入りするしかない状況でした。

武揚は大国攻略のため、ロシアの情勢を観察すると、既にセルビア・モンテネグロにオスマントルコといった国々と、ロシアとの間に、火種が燻っていることに目を付けます(3年後には、露土戦争勃発)。広大な領土を持つ故に、兵力を西と東に分散して、同時に事を構える事は避けるロシア。さらに首都サンクトペテルブルク(当時)をはじめ、中枢は、欧州寄りです。今の様子だと、西のバルカン半島問題の方が、より重要で、樺太には、そこまで固執しないと踏んだのでした。

いざ交渉が始まると、現地のロシア人による、日本人殺害事件等を例に持ち出し、記録を見せろ、犯人の名前を提示しろと要求。流刑に処した後の者のことなど、ろくに記録も取らないロシアは、返答に困ります。そこに、さらなる揉め事が起きたので、「日本は我々のような文明国とは言えない、文明的な国である我々と、対等な条約は結べない。と言って、日本に不平等条約を結ばせたのは、そちらです。自分たちの文明が生んだ国際法を、自分たちが守るのは、当然ですよね」と、国際法を盾に追及。対応するロシア側は、役人の階級が上がる一方でした。

1874年6月18日皇帝アレクサンドリア2世とも謁見しますが、♌に♅が次入っていて、武揚のN☽♃♀の力を押し上げるように、働きます。さらに謁見の日、T☽も♌。T☽と♅は、本人のN☀にラッキーを運び込む手伝いをし、一つ手前の♋では、守りの戦いをフォローする如く、T♀☿が、N♂と接近。♉☊Rに、T☊Rが合。これで印象が悪いわけはなさそうです。しかも♃は、武揚の12ハウス♍にあります。

顔の広い恩師ポンぺの協力を得ながら、マリア・ルス号の裁判を進めつつ、ロシア外交省を相手に、領土交渉を続けた武揚。
「揉め事が多い原因は、国境のあいまいさ」と、お互いにとって、改善の必要性を促し、
「樺太をロシアに譲る。変わりにロシア領の千島と交換しないか?」という交渉に、ロシアが乗ってくる巧みさは、国際法の熟知と、交渉力。榎本の腹の座り具も見事ですが、風星座の交渉力ともいえるかもしれません

1874年6月18日皇帝アレクサンドリア2世と謁見した日のホロスコープ


♎に♃が入る1875年(明治8年)5月7日。外務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフと、日露間に千島樺太交換条約が締結。
同年6月ロシア皇帝アレクサンドリア2世が.ペルー側の要求を退け、「日本側の措置は、一般国際法に文字条約にも違反せず、打倒」という判決を下しました。
現状、歴史の教科書には、「千島樺太交換条約」の一文が、載っていればいいほう。

人種問題でもあるマリア・ルス号裁判は、ほぼスルーされていますが、国際競争に勝てなかった頃の日本にとって、このダブル金星は、とても重要な一歩だったのです。

大役を済ませた武揚。ドイツの工場や鉱山等、西欧をゆったりと視察して、1878年(明治11年)7月末、サンクトペテルブルクを離れました。帰国は、シベリア横断の旅です。
よりロシアを知るためと、日本に蔓延する「恐露病」を、何とか軽減する目的も兼ねての長旅でした。途中、北海道に寄り、小樽で古代文字調査を行ってもいます。
東京の自宅に帰ったのは、10月21日のことでした。

1879年(明治12年)には、外務大輔と議定官を兼任。日本人の移住や、移民などにも関心があったことから、渡辺洪基らと、東京地学協会を設立。翌年には、海軍卿に就任しますが、薩摩閥とうまくいかず、これは単発で終わりました。
●内閣発足。逆賊から外務大臣となる♃年齢域 45~57歳
1881~1893年 明治14~明治26年

♃年齢域に入った1882年(明治15年)皇居造営事務副総裁に就任。がロシア宮廷に赴いた経験を買われ、前年に皇居造営御用掛となったのですが、これで皇室との関係が、より深いものになっていきました。
同年8月12日には、駐清特命全権大使となり、妻子を伴って北京へ赴任します。翌年末には、李鴻章と会談を行っていました。1884年(明治17年)朝鮮で起きた甲申事変から、伊藤博文を全力サポートして、天津条約締結に貢献します。

1885年(明治18年)清国駐在の任を解かれて、帰国したこの年の12月22日に、内閣制度がスタートし、榎本武揚は、第1次伊藤内閣の逓信大臣に就任します。
感慨深いものがあったのか、プライベートでは、旧幕臣の子弟への奨学金支給が可能となるよう、徳川育英会を設立。
3年後の1888年黒田内閣では、逓信大臣と、黒田が担当していた農商務大臣を、井上馨が担当するまで兼任。この年は、電気学会も創設。初代会長となっています。

1889年(明治22年)2月11日。大日本帝国憲法式では、儀典掛長を務めて、なかなか輝かしいのですが、暗殺された文部大臣森有礼の後任として、文部大臣となった際、明治天皇が切望した。徳教育の基準策定には、上の空。翌年の地方官議会で、知事たちから怒られ、更迭というポカをやっています。

1891年(明治24年)3月徳川育英会の流れで、飯田橋に商業科・普通科・農業科の「育英学」を設立。管理長となりますが、このうちの農業科は、現東京農業大学の前身となりました。同年5月11日。来日していたロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドヴィッ千
・ロマノフが、滋賀県大津市で、警備に当たっていた津田三蔵に、斬りつけられて負傷するという大津事件発生します。

武揚は、ロシアへの謝罪使節有栖川宮威仁親王の随行員を命じられました。ロシア公使から、使節派遣は不要と表明があったので、この件は稼働しなかったのですが、外務大臣の青木周蔵が、引責辞任したため、後任として外務大臣となっています。
 青木が取り組んでいた条約改定交渉も引継ぎ、♃年齢期の仕上げのように、1892年(明治25年)には、条約改定案調査委員会を立ち上げました。ポルトガルが経費削減のため、総領事を廃止する際、同国の領事裁判権を撤廃しています。
同年8月8日。第1次松方内閣総辞職に伴い、外務大臣を辞任。

●♄年齢域57~70歳1893~1906年
明治26~明治39年

そぎ落とし効果もあれば、耕し効果もある♄年齢域に入った武揚。
1894年(明治27年)1月22日。第2次伊藤内閣の農商務大臣に就任します。日清戦争もあり、海外依存度の高かった鉄鋼を、国内でも十分に生産できるようにと、政府は新たな製鉄所の建設計画を進めていました。

1896年(明治29年)製鉄所建設の予算成立となりますが、この年は足尾銅山事件も、大きな問題となります。鉱毒被害が深刻化しますが、鉱業停止を命じなかった国に、その理由を求めて、質問状を提出したのが、田中正造です。
田中が政府を非難する演説を行った際、上京してきた1000名の陳情団と、農商務大臣だった武揚は、面談していますが、被害者たちの反発を募らせる結果となりました。

谷干城と津田仙(津田梅子の父)の助言から、現地視察を行い、大隈重信に相談した後、鉱毒調査委員会を設置した後、責任を取って農商務大臣を辞任しています。
強者と向かうと、攻略に燃える榎本武揚。明治新政府・ロシア帝国・清国等、これまで渡り合ってきた相手は、いずれも強かったのですが、公害病の被害者は弱者です。
全く違うアポロ―チが必要な相手を前に、切り替わらなかったのでしょう。

メキシコ開拓にも手を出したのも、♄年齢域でした。
コーヒーで成果をあげるつもりで、植民団の資金集めも行っています。長崎海軍伝習所時代に、コーヒーを知って以降、コーヒーが気に入った武揚。オランダ留学の時に、カフェを楽しみ、コーヒーの木を観に、ボゴール植物園を訪れてもいます。

何らかの形で、コーヒーに携わりたかったのか、熟年層になり、金銭的にも余裕があって、ついに手を出した感もありますが、コーヒー栽培を目論んでのメキシコ入植は、♄年齢域の背景のように、1900年(明治33年)失敗で終わりました。
時事交渉は得意でも、財テクや農地開拓といった分野には、向かなかったのかもしれません。尚、1900年は盟友黒田清隆が永眠。武揚は葬儀委員長を務めています。
●巨星が落ちる♅年齢域・70~84歳
1906~1908年(明治39~明治41年)

♅年齢期を迎えてまもない1908年7月。体調が思わしくなった榎本武揚は、10月26日。享年73年の障害に幕を閉じています。

♀の輝きと☀と♂が持つ先鋭的闘争心で、25歳~45歳は、波乱と激動の中を戦い抜いた榎本武揚。実に多くの人物と関わり、その死にも接してきました。
脆弱だった時代の日本が、ロシア相手に対等な交渉ができたのは、強い役を相手に燃える、彼ならではですし、函館戦争後、黒田清隆がかばった功績も大きいと思います。

♃年齢期は、旧幕臣の子どもたちの招来を考え、入植事業にも関心を示し、他の事にも手を出しますが、いずれも♄年齢期で手放すことだらけ。
芽吹いたのが、小笠原諸島でのコーヒー栽培でした。

1876年(明治9年)。小笠原諸島が、日本の領土と、国際的に認められて以降、地道に育てられた小笠原コーヒーは、1915年(大正4年)大正天皇へ。1928年(昭和3年)昭和天皇へと、献上されました。
日本のコーヒーの歴史を語る時、「国産コーヒーの父」と言われる榎本武揚の足跡は外せず、軍人や政治家とは、また違う面白さを持っています。