秋山好古ホロスコープ

1895年2月9日(安政6年1月7日)伊予国松山藩生まれ 12時設定
太陽星座 ♒ 20°08
月星座  ♌ 11°35  (3°56~19°13)



12時設定なので、☽の振り幅はありますが、第1室(本人の部屋)♒の☀に、対面となる第7室(契約の部屋)♌の☽。そう満月生まれの人です。☽は終日♌でオポジション。
しかも時間が進むにつれて、角度はタイトになります。☀も☽も不動宮。
第4室(家族の部屋)♉にある♂と、差向う第10室(社会の部屋)にある♏の♅もオポジション。
手堅さと豊かさを好む♉。賞賛されることや遊び大好き♌。深く根を下ろす専門性や、人との絆が命の♏。気ままも好きだけど、個性と知性と博愛から得た信念は曲げない♒。
これらの星座にある☀と☽と♂が、スクエアを描いています。☽と♅こそ、絡んでいませんが、♅と同じく、第10室にある♄が☽とスクエア。そのため、完全形ではありませんが、秋山好古のホロスコープは、不動宮のグランドクロスに近い形をしているとみて、いいでしょう。
第2室(金銭所有の部屋)♓には、知性と技術の☿。お金と愛と美の♀。☊があり、これらの星々は、第10室の♄・♅と調和。本人の嗜好や恋愛の傾向を観る第5室♊にある♇♆♃(すべてR)とは、柔軟宮のスクエア(緊張角度)を形成。
外でも活躍するけれど、北半球に星が多いことから、家庭、家系。のみならず、自分が所属するグループ等の面倒をみたり、何かと責任を持つ立場に立ちやすい傾向あり。
実際、好古は三男ですが、家系を継いでいるので、あながち外れてはいないと思います。
基本的に面倒みよく、かわいいものとかも好きですが、強靭でパワフルな運勢を持っているのは確か。それに見合うだけの人との大きな衝突や、艱難辛苦も付きまとうので、一般的な「穏やか」からは遠い人生を歩みやすい傾向あり。
自己主張はハッキリ。認めてもらいたい気持ちだけが強いのではなく、実行力で難しいこともガンガン実行に移していくタイプ。良くも悪くも頑固で融通が利かない所があるため、人によっては、付き合い方に苦労するかもしれません。

秋山好古年表(ウィキその他、資料を参照)

1859年2月9日(安政6年1月7日)伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)にて、松山藩士秋山久敬と貞夫妻の三男として生まれる。
1866年(慶応2年)藩校明教館に通う。勉学に励みつつ、銭湯の水汲みや釜焚きに番台などの仕事をしながら、家計を支える。
1868年(慶応4・明治1年)末の弟真之が生まれる。
1875年(明治8年)納金不要で月8円の学費を支給される。官立大阪師範学校に入学。
1876年(明治9年)官立大阪師範学校卒業。愛知県立名古屋師範学校附属小学校に勤務。
1877年(明治10年)依願免職。陸軍士官学校に入校。
1879年(明治12年)陸軍士官学校卒業。陸軍騎兵少尉。東京鎮台配属。
1880年(明治13年)東京鎮台騎兵第一大隊付。同年3月 秋山家の家督相続(病身だった長兄則久の代替)。正八位に叙位。東京鎮台騎兵第一大隊小隊長に異動。
1883年(明治16年)任陸軍騎兵中尉。その後陸軍士官学校騎兵科教官に異動。叙位七位。
陸軍大学校(1期)入学。同年6月真之を東京に呼び寄せて、学費・衣食住の面倒を見る。
1885年(明治18年)陸軍大学校卒業。参謀本部勤務。
1886年(明治19年)任陸軍騎兵大尉。
1887年(明治20年)7月サン・シール陸軍士官学校へ入学した久松定の補導役として、フランスへ渡り、自身も自費留学で騎兵戦術を学ぶ。
1890年(明治23年)腸チフス発病。12月父・久敬が松山で死去。
1891年(明治24年)12月13日帰国。騎兵第一大隊中隊長に異動。
1892年(明治25年)母の貞を東京に招き、同居する。
1893年(明治26年)佐久間正節の長女、多美子と婚姻。
1894年(明治27年)長女興志誕生・日清戦争開戦。10月日清戦争出兵
1895年(明治28年)6月帰国。
1898年(明治31年)騎兵実施学校長となる。長男信好誕生
1900年(明治33年)義和団事件制圧のため天津へ出征。
1903年(明治36年)騎兵第一旅団長となる。
1904年(明治37年)日露戦争開戦 第一旅団を率いて、旅順攻略に挑む。
1905年(明治38年)3月奉天会戦・5月日本海海戦の後、日露戦争終結。ポーツマス条約 母貞の死去
1906年(明治39年)2月帰国。四女治子。第2回万国平和会議に専門委員として出席(オランダ・ハーグ)。
1909年(明治42年)陸軍中将。
1912年(大正1年)仏国派遣大使接伴委員。
1913年(大正2年)長兄則久没。
1915年(大正4年)近衛師団長。
1917年(大正6年)次兄正 没。
1918年(大正7年)真之 没。
1920年(大正9年)教育総監兼軍事参議官。
1923年(大正12年)予備役を仰せつかる。
1924年(大正13年)北予中学校の校長に就任。
1929年(昭和4年)退役。
1930年(昭和5年)北予中学校校長を辞任。上京後に発病。同年11月4日 死去。

好古 惑星history

●☽年齢域 0~7歳 1859年~1866年(安政6年~慶応2年)

伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に住む松山藩士秋山久敬と貞夫妻の三男として、秋山好古は生まれました。幼名は信三郎。
秋山家は足軽より一階級上の位で、徒士という身分でした。家禄10石程の下級武士で、裕福とは無縁でしたが、父の久敬は大柄な体格に合う穏やかな性格の持ち主で、教養深く、生まれた子供たちの名前は、すべて漢文からつけています。
好古の名前の由来は論語の一節「信好古」。(本編は、フルネーム、および好古で統一)。

好古が生まれた頃、徳川幕府は、井伊大老の安政の大獄真っただ中。全国各地で起きた大地震とコレラの蔓延。海外との慣れない貿易の三重苦を抱えていました。徳川親藩の松山藩は、人も経済も幕府に拠出したことで、連鎖的に財政難に陥っていったのです。
☽年齢期をすごす好古は、後に生まれてくる末っ子の真之とは真逆の、虚弱で泣き虫という性格だったといわれています。しかし、やはり男の子。だんだんにしっかりしてくる…という感じでしょうか。☿年齢域に入る7歳の頃、藩校明教館に通うと同時に、好古は、家計を助けるために、風呂屋で働き始めました。

●☿年齢域 7~15歳 1866年~1874年(慶応2年~明治7年)

佐幕か勤皇か。そのどちらかに武家社会が染まる慶応年間。)五男の真之が生まれたのです。1868年4月12日(慶応4年3月20日)江戸城が明け渡される直前でした。
藩の財政難は、下級武士である秋山家の台所事情も直撃し、あまりのことに両親は、生まれたばかりの赤子を、お寺に預ける事を考えます。
「赤ちゃんを、お寺に預けちゃいやだ。うちが勉強して、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるから」と、相談している間に、割って入った好古。兄のおかげで、真之は実家に留まることができたのですが、やがて母親が肝を冷やし続けるガキ大将へと成長します。
●有言実行♀年齢域 15~25歳 1874年~1884年(明治7年~明治17年)

働きながら、学問に取り組む少年好古。ある日、「月謝と生活費がタダ。しかもお小遣い支給」という話を耳にしました。1875年(明治8年)思い切って、官立大阪師範学校(現・大阪教育大)を受験すると、見事に合格。納金不要で入学して、毎月8円の学費を支給されるチャンスをつかんだのでした。教員免許を取るため、頑張って勉強に励み、翌1876年(明治9年)7月には卒業。

愛知県三等訓導を拝命して、愛知県立名古屋師範学校付属小学校に勤務となりました。この当時の金額で月収30円。今の時代では35万前後、というところでしょうか。時代的にも、当時18歳の好古にとっても、この金額はかなり高給取りになったのでした。
田舎の家族を養うにも十分ですし、学校の先生になったことを、田舎の両親や兄弟も喜んだと思いますが…西南戦争の起きた1877年(明治10年)2月。唐突に依願退職をして、東京へ上京。陸軍士官学校に入学したのです。

時代の風に煽られるタイプでもなく、先生になったことに失望したわけでもなく、明確なエピソードがないので、これは仮説ですが、師範学校を受験できるのは19歳。年齢を偽って入学し、卒業後、教員職に就いたことからバレてしまって、やむなく陸軍へと進路変更したのかもしれません。

騎兵科を選択したのは、他の兵科よりも1年早く卒業ができて、お給料が出ること。
♎に星はないけれど、父親譲りなのか、好古は体格よく、四肢も長めだったことから、騎兵としての適性もあったのでしょう。因みに欧州では伝統のある騎馬兵。即戦力だし、伝令や諜報活動もする重要かつ、出世コースだったのですが、騎士がいない日本は事情が違いました。なんでも西洋化の時だったので、組織しましたが、日本産の馬が20頭ほどの二個大隊で、誰も何も期待していなかったそうです。

1879年(明治12年)陸軍士官学校騎兵科を卒業すると、翌年には東京鎮台騎兵第一大隊付となった好古。この頃は、現在の市ヶ谷の近くあった元旗本の佐久間家に下宿していました。入隊以降は、酒豪の上官に気に入られ、よくお宅に呼ばれて、酒をふるまわれていたと言われています。
この年、秋山家長男の則久が病身のため、三男の好古が22歳にして後継ぎとなりました。
家督相続は男女の別を重視しますが、それ以上に、生まれた子供の順番が、大事だったりします。一番目の子が家督を継げない場合、二番目ではなく、三番目(奇数)の位置の子に取らせる方が良いのです。

次男を選ばず、郷里の松山から遠くに住む好古を選び、次男、四男は他家に養子として出している辺り、父親である久敬の知識深さを知る一旦かもしれませんね。

1883年(明治16年)陸軍士官学校教官となると同時に、出来立ての陸軍大学に入学します。共感と学生の兼任生活。世話になった下宿を離れ、新生活と共に、末弟の真之を、東京に呼び寄せました。生まれたばかりの赤子をお寺に預けることに異を唱え、自分がたくさんのお金を稼ぐからと言ったのが、9歳の時。

時は巡り、16歳を迎えた弟のために、学費だけでなく、大学受験に関する経費と生活のすべてをみたのです。有言実行な「優しいお兄ちゃん」ですが、同時に妙なこだわりを持つ好古。「ぜいたくは敵」を徹底し、生活用品は本当に最低限で済ませていました。
末弟が東京へ行くからと、帯を新調してあげた次兄を叱り、いよいよ本人がやってくると、兄弟で一つの茶碗を使いまわす生活が始まるのです。「金がなくて買えないのではない。男は生涯たった一つの事をなせば成る。その為に身辺をきれいにしておくんじゃ」驚く真之にそう諭して、ご飯を分け合ったとか。

真冬の寒い時でも、弟に足袋一つ履くことを許さない辺りは、融通きかない、ケチな兄貴に見えますが、後に海軍で活躍する真之は「自分がこうしていられるのは、兄好古のおかげ」と、芯から感謝の逸話を残しています。
それは好古が、真之に対して、恩着せがましいことを言わなかった事も、大きかったかもしれません。
●出ばなをくじかれ、真価を拾う☀年齢域 25~35歳 1884年~1889年(明治17年~明治27年)

伊藤博文が、日本初内閣総理大臣となる1885年(明治18年)。
好古は陸軍大学を卒業し、参謀本部勤務となりました。帝国大学を目指していた弟の真之が、進路を変更し、海軍兵学校へ入学したことで、学費援助も一段落。参謀本部でバリバリ仕事をする気満々の出端をくじく、話が持ち込まれます。

渡仏遊学して既に久しい松山藩の旧藩主久松定謨(ひさまつさだこと)ですが、サン・シール陸軍士官学校へ入学が決まりました。旧家臣たちから、相応しいお付として、フランスへ渡る役が必要。そうだ!奴がる!と、好古が選ばれたのです。
これは軍からの命令ではなく、制度的には既にもうないハズの「藩」の命令でした。
軍人としての出世街道が目の前。しかもドイツ式の兵学を学んだ好古にとって、フランス行きは、魅力のない話だったのです。しかし、先祖代々世話になった松山藩への恩義には、報いなければならないのが家長の立場でした。

学友たちと文学を極めるため、帝国大学を目指して勉強を重ねてきたのに、家に経済力がないため、泣く泣く進学を諦めて、人生の進路を軍へと変えた真之の気持ちを、好古は実感したかもしれません。
1887年(明治20年)軍務を離れ7月私費留学で、フランスに渡りました。

一年後には、視察のために訪仏した日本陸軍のトップ山縣有朋と縁を持ち、軍事視察でフランスに赴いた乃木希典とも出会います。
「自己を犠牲にして、人を助ける武士道は、社会主義より上である」
新聞記者と乃木の間に入り、通訳を務めた好古は、社会主義旋風真っただ中のフランスで、雰囲気にのまれることなく、堂々と語る乃木に感銘を受けました。さらに母屋よりも馬小屋を大切にする彼の姿勢に、騎兵である好古は、他者には抱かない敬意を持ったのです。義理から発生した上の私費留学でしたが途中で公費留学に変えてもらえるし、元々身長が高く、彫の深い顔立ちと四肢の長い大きな体格。日本人離れした陸軍で鍛え上げているので、所作もキリっとしている好古。フランス人受けしたようです。(彼は猛烈な風呂ギライですが、その辺も実は、合ったのかもしれません)

腸チフスを発症して高熱が出ても、日頃と変わらない生活を続けた逸話も残しましたが、
日本にいてドイツ式を学んだだけで満足していたら、優れた騎馬戦術を体得することはできなかったのです。

1891年(明治24年)日本へ帰国しました。
久しぶりの母国ですが、前年の暮に父は他界。一方で真之も砲艦比叡に乗船し、エルトゥールル号遭難事件の被災者たちを、母国トルコに送るためイスタンブールに向かっていたため、父親の死に目には会えなかったのです。
軍務に復帰すると、騎兵第一大隊中隊長と士官学校馬術教官も兼任しました。

フランスで学んだ騎兵研究も継続しつつ、忙しい日々ですが、田舎で一人暮らしになった母を東京に呼び寄せました。
これで親孝行もできると思った時、雇っていた女中が、母の持っていたお金を盗んでしまう事件が発生します。女中を解雇したことを含め、顛末を仲の良い同僚にこぼしたら、
「家の中に主婦がいないから、こんなことが起きるのだ。結婚もせずに、お母さんにこんな苦労をいつまでかけている君も悪い」と、たしなめられる始末。
それでも友人の言葉に利がある。

そう思った好古は、「結婚する気まるでなし」だった考えを改め、お嫁さん探しを始めました。その第一条件は、母の気に入る女性。
そんな動機で?と思われるかもしれませんが、こうして☀年齢域の終わりとなる1893年(明治26年)。好古35にして、一人の女性が、秋山家に嫁いできます。
嫁いできた女性の名は、佐久間多美子。

好古が陸軍へ入るために上京して間もない頃、世話になっていた元旗本佐久間家の長女でした。二人の間には、二男五女の子どもが授かりますが、好古の結婚した第一動機は、見事にクリアしていて、嫁姑の中は、とても良好だったそうです。
●戦火の幕開け ♂年齢域 35~45歳 1893年~1903年(明治27年~明治37年)

1894年(明治27年)の夏。長女の興志の誕生と、日清戦争が重なりました。
日清戦争は、清と日本による戦争で、1894年(明治28年)7月25日~1895年(明治29年)4月17日(11月30日説あり)戦場は、朝鮮半島から遼東半島。黄海海域となっています。

儒教色の強い清は、「眠れる獅子」とも言われ、アジア諸国を支配する強大な国という認識が、自国と西洋諸国にありました。
貢物をして来た国には、その倍の返礼をすることで威厳を保つという、朝寓関係によって、東南アジアの国々をはじめ、朝鮮半島や琉球なども属国と位置づけていたのです。東端にある小国だった日本は、清の支配から縁のない状態で、歴史が進んだのでした。

それが近年、鎖国を解いて近代化した上、これまで自分たちが支配してきた朝鮮を支配すると言い出している。これはおかしい。要約すると、清はそう考えていたのです。
ところが現実は、西洋諸国による植民地化が進み、清はイギリスとアヘン戦争。さらにフランスとの戦いに敗れ、ベトナムを失ったばかり。
ここに、シベリア鉄道の線路を引くことと、不凍港を欲するロシアが、満州から朝鮮半島からを狙っていた状況だったのです。

列強国の植民地拡張の脅威を回避するため、鎖国状態のまま清の属国でいるのか。
近代化する日本のように開国して、自国を発展させつつ、両国が協力し合い、どこの国の属国にもならずにいるのか。
ロシアが狙う朝鮮は、王朝も国内も意見が割れていました。
国王の高宗王。王妃である閔妃とその一族。国王の父である太院君。王朝内は、それぞれに考えが違うだけでなく、清との朝寓関係を保つことを望んでいた太院君と、閔妃は世継ぎ問題を含め、関係は激烈に悪かったのです。(元々太院君が連れてきた嫁ですが)

かつて閔妃とその一族は、日本と密接であろうと近づきました。日本軍の協力を得て、自分たちの軍隊を作り、既存の国軍と、給料その他に大きな格差をつけたのです。そのため、旧軍の軍人たちは、1年以上も給料が貰えませんでした(当朝鮮の給料はお米で支払っていました)。やっと支払った思えば、一ヶ月分しか支給しない王宮に、不満を募らせた旧軍の兵士たちは、王妃一族と日本公館を襲撃する壬牛事件(1882年)を起こしたのです。

裏で暗躍したのは太院君と言われていますが、公使館に勤める役人をはじめ、日本人が襲撃されました。あまりのことに見かねたイギリスによって、長崎に逃げることができた人はいましたが、朝鮮人が日本人を助けるケースはなかったと聞きます。
この様子から、日本側の勢力が弱くなった。そう判断した閔妃は、清の実力者李鴻章の懐刀といわれた袁世凱に近づいたのです。
袁世凱は太院君を清に連れてゆき、幽閉しますが、朝鮮の支配階級を支配しやすくするため、彼を懐柔した上で朝鮮に戻したのでした。

国に戻った大院君の関心事は、長男の子を王位につけることと、閔妃とその一族を、宮廷から追い出す事だけ。政事に対して関心は薄く、清と日本のどちらに対しても、ハッキリしない態度を繰り返したのです。結果、国民の生活は苦しくなる一方でした。
民衆の中に王朝への不信と不満が募り、東学という宗教団体が反乱を起こしたことに呼応して、1894年(明治明治27年)1月。朝鮮内で民衆による「甲牛農民戦争」が起きたのです。

閔妃は袁世凱に救援を求めました。これに応えて軍を派兵しますが、先に日本と結んだ天津条約に違反したこととなり、日本も軍を朝鮮半島に軍を派遣したのです。朝鮮側は難色を示しますが、違反をしたのが妃側なので、受け入れざるを得ません。一つの国に、異なる二つの国の軍隊が駐留することで、日清戦争の導火線となったのです。
話を好古に戻しますが、長女が授かって間もなくのことでした。フランスから帰国して日清戦争までの約3年間、研究と教育に熱を注いで育成した騎兵七個大隊を率いて、出征してゆきます。

騎士の西洋と武士の日本では、使う武器はもちろん、馬上での戦闘スタイル、馬の用途種も全く違う歴史を経ていました。そのため、陸軍を創設するにあたり、騎兵の高い機動力と、攻撃力を備えていることを、当時の日本側に理解できる人物がおらず、物まね程度に設置したのです。好古が入隊し、さらにフランス仕込みの騎兵を習ってきたことから、偵察や奇襲、敵陣営の霍乱等も含めたスペシャリスト騎兵科に変わっていったのです。

日清戦争での好古は、騎兵第一大隊長として、金洲や旅順攻略の任に就き、遼東半島の大地で、敵国の清だけでなく、日本軍にも、騎兵の持つ戦闘力の高さをみせつけました。銃弾が飛び交う戦地でも、酒好きな彼は常に飲んでいた逸話が残っていますが、上官がピリピリしているよりも、豪快でいる方がいいという判断なのか、定かではありませんが「酒を飲んでも飲まれることはない」きれいな酒好きだったそうです。

1895年(明治28年)下関条約が結ばれた後に、三国間干渉を引き起こしたロシアによって、日本は遼東半島の割譲を諦めざるを得なくなりました。以降、ロシアに対する警戒心を一層持つようになります。好古は6月に帰国。地位も上がり、次女の健子の誕生後、陸軍騎兵大佐に昇格しました。長男信好が誕生する頃には、騎兵学校の校長として、次世代育成に力を注ぎます。

1900年(明治33年)清で義和団事件が起こったことで、制圧のため天津へ出征したロシアが満州に留まり始めたので、好古たちも天津へ出征します。その後日英同盟が締結される頃まで、清国駐屯軍参謀長として留まりました。
1903年(明治36年)4月。好古は習志野に向かいます。日清戦争での戦績が功を奏した騎馬隊は、旅団司令部の下、騎兵第13連隊と騎兵第14連隊によって構成された実に大きな組織騎兵第一旅団に変貌し、好古はその第2代団長となったのでした。
●激戦 ♃年齢域 45~55歳 1904年~1914年(明治37年~大正3年)

好古の♃年齢域の始まりは、日露戦争が始まる年でもあります。
1904年2月から1905年9月が、日露戦争の期間となりますが、そこに至るまでの導火線は、非常に長かったのでした。鎖国を解いて、西洋諸国と国交を結び始めた頃、日本海を南下したロシア軍の船が、突然対馬に上陸。島民を虐殺し、半年ほど居座ったのです(ポサドニック号事件)。

この経験を踏まえて、明治時代初頭から日本政府はロシアを警戒してきました。
勝って終わった日清戦争後、下関条約が締結されると、ドイツとフランスを従えたロシアが、文句をつけてきたのです。この三国間干渉によって、条約で決まった遼東半島の割譲の権利を、日本は手放さざるを得なくなりました。
以降、約10年。「ロシアと戦うべき」と、勇ましく主張する声もありましたが、日本とロシアの国力差は7倍。戦争時となれば、広大な国土を貫くシベリア鉄道が、人員も物資も、送り放題な大帝国と、人員も金もない小国が戦って、どっちが勝つかは、明らかです。

負ければ、戦勝国の属国となり、国民の生命、財産もすべてはく奪される事になるため、うかつなことができない日本政府は、できるだけ戦争への回避策を取りつつ、万が一に備えて、戦う下準備をきました。

清が列強諸国に宣戦布告をした義和団事件を起こして以降、ロシアは満州に留まり、南下政策の拠点づくりを始めます。日本にとって最も近い外国である朝鮮は、清の顔色を窺い、日本にも顔色を窺い、どっちつかず外交を続けてきました。そして満州に入った、ロシアとの歩幅も縮めるようになったのです。
ロシアが朝鮮を支配下にするのは容易く、そうなれば日本に責め入るのも造作なくなります。国がなくなるのは時間の問題になる。

事態がわかっている者たちにとって、これは切実な恐怖でした。
ロシアを警戒するイギリスと日本が、日英同盟締を結んだ後、1903年(明治36年)に、日本政府はロシア手に領土交渉を試みますが、これが決裂。
南下政策を諦めさせるには、自国の存続をかけて、満州にいるロシア軍を追い出す以外、道がなくなったのでした。これがおおざっぱな日露戦争に至る背景です。

戦には莫大なお金がかかります。資金不足の日本は「外資調達」を考え、その命を受けて、欧米に旅立ったのが高橋是清でした。しかし、負け戦に金を出す国などありません。開戦当初は誰も耳を傾けなかったのです。
ところが、実際始まったら、予想外に勝ち進む日本軍。鴨緑江の戦いの頃、「日本ってマジ強い?」「もしかして、これ儲けになるんじゃ?」と、風向きが変わり、ロスチャイルド家の代理人ジェイコブ・シスが、2億ドルの資金提供をしてくれたことに始まり、金策の目途が立ってきました。海外への莫大な借金と、国民の人も金も物も供出することで、戦線への補給を支えられたのです。

当初日本をなめていたロシアは、ウクライナ地方に住む半農戦闘集団コサック兵を投入。すぐに終わると思っていたのに、予想外の苦戦を強いられました。機動力と戦術に長けたコサック兵が、思わぬ苦戦を強いられたのは、好古の率いる第一旅団の存在だったのです。
飛行機もミサイルもなく、兵の技量がモノ言った時代、騎兵が行う任務はとても多く、偵察や側面からの援護等、敵の霍乱など、様々にこなす事を求められました。好古が育て上げた第一旅団は、従来の騎兵にはない、歩兵や砲兵。工兵を伴う特殊な戦闘集団となり、その戦い方も、彼らには、予想できない戦い方だったのです。

ロシアにとってこの戦争は、国民の意思ではなく、王室の意向で始めた戦でした。むしろ国内は、目の前の労働問題、経済問題が大きくて、国民の不満が募っていたのです。
そこに戦の苦戦から、王室に対する国民の不満は上がる一方でした。
国民の留飲をさげる事も含め、ロシア皇帝は、勝ち戦に塗り替えるため、世界最強言われたバルチック艦隊(バルト艦隊)の極東派遣を決定。5月に彼らを出港させたのです。

この情報は日本を震撼させました。
ウラジオストックに駐留する極東艦隊と、バルチック艦隊が合流したら、日本海軍壊滅し、大陸で戦う日本軍の元には、兵員も物資も送ることができないだけでなく、本土上陸を余儀なくされます。国内兵力はわずかなので、応戦は無理。国土は完全に奪われます。
5月にバルト海を出港したバルチック艦隊が、日本海に着くまでの間に、何が何でも決着をつけないといけない戦となったのでした。その為、旅順要塞攻略を前に、隊を二分し、満州へ向かう部隊をわけたのです。

大本営と現地の意識のズレ、指揮官の指揮が悪かった等の話もありますが、旅順要塞攻略に至るまでも、おびただしい数の犠牲を払った日本陸軍。塹壕を使っての戦闘や、近代要塞戦の経験がなかったこと。ロシアが機関銃を使ったのも苦戦の要因でした。
1905年1月(明治38年)。苦戦と犠牲の連続の中、戦い続けた日本軍は、開戦から一年を迎えようとする時期に、旅順要塞をようやく落とすことができたのです。

その後は、−20度を下回る厳冬の満州で、日露両軍とも膠着状態となりました。
雪解けまでは、さすがのロシアも本気を出してこないだろう。
そうタカをくくる若いエリート参謀たちに、好古は「敵襲に備えて万全の体制を」と、進言しますが、旧世代の親父の話を、若いエリートたちは完全にスルー。その結果、起きたのが、黒溝台会戦の戦いでした。守りの手薄な日本軍陣営の最左翼を、10万のロシア兵に襲撃されたのです。日本軍殲滅の危機と言われる熾烈な戦を、辛うじて凌ぐことができたのは、手薄な最左翼陣営を守っていたのが、他ならない第一旅団だったからでしょう。

日露戦争と共に♃年齢域が始まる好古ですが、♊を進むT♇は、何年もかけて好古の持つN♇と♆を刺激。黒台会戦の時、T♇はN♃に近づいています。
♒のN☀にT♄が掛かるのも、T♂が、♏にあるN♄と重なるのも、命からがらの激闘を、示しているともいえます。秋山好古を紐解いてゆくと、10万人のコサック兵を相手に8000人で戦って勝った伝説が出てきますが、黒溝台はそれだけ厳しい戦いでした。

2月21日~3月10日。「日露戦争の関ヶ原」と言われた奉天会戦を迎えます。旅順よりも内陸の清の領土ですが、既にロシアのものになっていました。ここを潰さない限り、ロシアは体勢を立て直し、朝鮮半島と日本侵攻の危機は解消しない日本。奉天を取られたら、侵略の拠点を失うロシア。どちらも譲れない大死闘になったのでした。
3月2日。第一師団は、乃木希典率いる第三軍に合流します。

日本軍は約25万人。ロシア軍約31万人以上が、奉天で激突する激闘となったのですが、部下に下がってくれと言われも、好古は陣営の中に入るより、戦場に立っていました。
極度の風呂ギライで、洗濯もろくにしないため、異臭とシラミがつきものでしたが、指揮官としての統率力、部下を鼓舞する姿勢は群を抜いていたと言われています。
参戦者が多い分、戦死者、負傷兵の数もこれまで以上でした。両軍とも旅順要塞戦を上回る、甚大な死者を出した奉天会戦の終盤。

奉天会戦最終日のホロスコープですが、印象的なのは、牡牛座に並ぶT☽♀♃。ものすごくラッキーな組み合わせ。元々不動宮の星が強めな好古。♉にはN♂があって、黒溝台戦の時、N♄の上にあった♂が、♅の上に異動。ここでN♂/♄の対に、T♂が来ることで、粘りのある戦いとも読めます。♓を進むT☀☿コンビが、N☿を刺激するのは、知性とテクで、既成概念を越える事を意味しているかもしれません。N♃にT♇がぐっと近づいているのも、勝利を読み取ることができます。ただし、T♆が近いことで、ぼかし効果もあるため、勝ちに暗雲来る予感もあり。ほどほどが肝心とも取れますし、戦後交渉を暗示しているのかもしれません。

この戦で好古がとった作戦は、あえて馬を降りて、馬ごと銃で敵を薙ぎ払うという、騎兵には思いもつかないものでした。旅順では痛い目にあわされた機関銃を投入し、阿修羅のような激闘の末、3月10日。辛うじてロシア軍を追い詰め、ついに撤退させます。
追いかけて倒すと意気込む参謀もいましたが、両軍とも旅順要塞戦を上回る、甚大な死者を出した奉天会戦。日本は弾薬も兵士も、完全につきかけていたし、満州の戦場だけなく、本土の国力も限界でした。

日露戦争の目的は、満州からロシアを追い出し、南下を諦めさせることでした。
その目的さえ達成できたなら、戦後交渉に入る方が適切と考えた大山巌は、速やかな撤退を選択します。戦は始めるよりも、終わらせる方が難しいと言われていますが、アメリカのセオドアウーズベルト大統領に仲介を頼んだ戦後交渉に、命を懸けた外務大臣小村寿太郎も、とても大きい存在でした。
一方でロシアは、ストライキや暴動がさらに増え、国内鎮圧のために、軍隊が必要な状況に陥っていたのです。それでも戦後交渉に後ろ向きだったのは、バルチック艦隊が日本海に着けば、起死回生のチャンスあり。本気でそう思っていたのでした。ところが、日本海海戦で、ロシア海軍は、日本海軍に叩きのめされて大敗。

陸も海もロシアの負けが確定した日露戦争は、新興国日本の勝利。世界中がこの現実に仰天したのです。西洋諸国の植民地となっていた有色人種の国には、小さな有色人種の国でも、大国に勝つことができる希望を抱き、特にロシアの圧政に苦しんできた国々は、わがことのように、日本の勝利を喜んだのでした。

好古が満州を離れ、日本に帰国いたのは、1906年2月。母の死も、ポーツマス条約が結ばれる日も、すべて過去になっていました。日常が戻り、騎兵監に就任。四女の治子が生まれた後、第二回万国平和会議に、専門委員としてオランダのハーグへ飛び立ちます。
1913年(大正元年)の秋には、フランス派遣大使接伴委員となり、国際的な対応を任されました。この広がりは、♃からのプレゼントかもしれません。
●必要なものを必ず残す♄効果な♄年齢域 55~70歳 1914年~1929年(大正3年~昭和4年)&召され江う時を迎えた♅年齢域 70~71歳 1929年~1930年(昭和4年~昭和5年)

秋山家の長兄則久が、他界した翌年。♄年齢域を迎えました。
陸軍人生は相変わらずで、近衛師団長となった後、朝鮮駐箚軍司令官として、一年ほど日本を離れます。帰国した年に、次兄の正牟も他界。これに続くように、弟の真之が病気で鬼籍に入ってしまいました。仕事は順調。過程はしっかり者の妻、多美子が守ってくれているので安心でしたが、♄年齢期の初頭は、秋山家の事で、心痛めることが続きます。

特に真之は幼い頃から、自分がずっと気にかけ、経済的にも面倒をみてきた弟でした。東郷平八郎のスカウトで連合艦隊の主任参謀となり、日本に勝利をもたらした弟の事を誇りに思っていた好古にとって、真之の死は、これまで以上につらかったようです。
残された真之の妻もまだ若く、幼い甥っ子や姪っ子の行く末を案じた好古は、伯父として経済的にも精神的にも、彼らの支えになっていきました。

1924年(大正13年)既に予備役となり、軍務から距離を置いた好古に、思わぬ仕事が舞い込みます。それが故郷松山にある北予中学校の校長先生という立場でした。
陸軍でも教育に携わりましたが、若い頃に一度先生になった事のある好古は、再び学校の先生になって、辞任する1930年(昭和5年)まで、多くの生徒の背中を見守りました。
これは♄ならではの「運勢上、その人にとって必要なものは、必ず残す」効果。土星の優しさが、体現されたとみていいと思います。

日清日露戦争の英雄でもある好古。学生だけでなく、周囲からも戦争の時の話が聞きたいと、言われることがありましたが、それはさらりとかわし、何一つ自慢することはなかったそうです。戦勝したものの、とても多くの人の命が失われたのが戦です。
それを軽々しく口にしないのも、秋山好古の人柄なのでしょう。

1929年(昭和4年)♅年齢期を迎えた好古は、完全に退役。翌年の1930年(昭和5年)3月には、教育者として第二の人生をささげた北予中学校長を辞任します。
大の酒好きが祟ったともいえますが、7月に上京すると、体調を崩して養生しますが、10月に陸軍軍医学校へ入院し、11月4日。息を引き取りました。
江戸時代後期に生まれ、激動の明治時代を軍人として守り抜き、西洋諸国と肩を並べる日本を教育者として生きた秋山好古。

司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」で脚光を浴びましたが、とても魅力のある人物なので、是非、多くの人に知っていただきたいです。