野球好きなのも周知な人ですが、帝国大に入学した頃から、不治の病との二輪三脚の人生となりました。大学を中退して新聞記者となる傍ら、俳句を世の中に定着させて幕を閉じた人生は、あまりに早すぎますが、鮮烈で生き生きとした言葉の術師の星回りを、時代背景を含めて、見ていきましょう。

正岡子規ホロスコープ


1867年10月14日 12時設定 出生地現・愛媛県松山市花園町
☀星座 ♎ 20°18
☽星座 ♈ 27°31 満月生まれ(♈20°38~♉4°28の幅。夜は♉の可能性あり)

第5室の♃R・第10室の♅・第12室の☊R以外の星は、第1室と第2室。対岸の第7室と第8室の東西に分かれています。シーソータイプに近いホロスコープとみてよいでしょう。ステリウムなのは、♏をバックにした第2室「金銭所有の部屋」にある☿/♂/♄のみ。

個人の人生における金銭、人やものとの巡り合わせを観るのが、第2室「金銭所有の部屋」ですが、書くこと・学習・伝達等に影響を与える☿と、負けず嫌いの闘争心な♂が、コンジャンクションしているだけでも、書くことや技術を生業にする傾向を物語りますが、子規の創作活動に燃料を与えたのは、この第2室の星々といえそう。

少し距離を取った所にいる♄も、単純に観れば、「物資的な欠乏感」を与えていると取れますが、古き繋がりや伝統を紡ぐ役を、彼に与えたのかもしれません。何故なら、♄は宿命視点で、その人に重要なものは必ず残します。

対角となる第8室は、遺産相続や、配偶者の親族との関わりと、性も観ることをも含んだ「生と死の部屋」。そう呼ぶのが一般的ですが、個人の枠を超えた、社会的な巡り合わせや、運勢の授受を観るのが、本筋と考える私は、ここを「授受の部屋」としています。

子規の第8室は、形あるもの、綺麗なもの、おいしいものが大好きな♉をバックに、♇Rが鎮座。時の番人の如く、物事の終始を意味し、先祖との繋がりを観る♇。子規の♇は逆行で、時代の変化期に生まれた人の象徴にも見えますし、☿・♂・♄ともオポジションを形成しています。
なかでも♂と♇Rは、かなり強めのオポジション。エリート層の教育が、西洋一辺倒に染まる時代の中で、流されることなく、血筋の守りの中、和の学問を愛で、俳句の革新活動を興した子規の人生を、彩っているようにも見えます。

第1室「本人の部屋」♎の☀と、美意識の化身のように寄り添う♀。
♀は♎の守護星であり、テーマの根本が「生きる喜び」なので、調和する座相が多いと、恵まれた恋愛や、芸術的な才能を持つ人生となります。☀は、対局の第7室「契約の部屋」 ♈の♆と☽どちらともオポジション。(夕方以降、オポジションが解けていきます)

♀/☽もオポジション。こちらは☽が♉に移動しても、オポジションが解かれません。
夕方以降夜になるに連れて☽は、☿・♂と、運勢の綱引き相手を変えていきます。
頭の回転が速く、気まぐれ。遠慮のない相手程、言葉がきつくなる面を見せる傾向もあったりします。心の琴線に触れたものにこだわったりも強く、どこか純粋で、憎めない人。
食いしん坊だったことも鑑みると、子規の☽は、♉の可能性もアリ。

母親に愛され、血族から大切なものを受け継いだ子規。家庭に対しての憧れも抱きますが、夢を追い過ぎる傾向も強く、落ち着いて暮らす人生には、障害となるでしょう。

第5室「嗜好の部屋」にある♒の♃R。☽とはセクスタイル。どちらの星も♀と繋がり、
生きる喜びや、自由な創作活動を楽しみ拡張するトライアングル。♃が逆行というのが、はかなさを物語っている気もします。

「芸術は爆発だ!」とばかりに、第10室で律動と異彩を放つ♅は、☀・☿・♂に躍動感を与え、闘争心に薪をくべています。野球に熱中したことを占星術的に観るとすれば、どこか過激で熱い、♂/♅かもしれません。この♅、♇Rと☊Rと共に、水と土の二等辺三角形を形成。専門性や独自性。特殊技術に力を貸しているようです。

第8室も第12室も、本人以外の要素が強く、感性や人の心に作用する力はあるので、時にシビアですが、多くの人の心に浸透し、親しまれる作品。人の心に落とし込む力を支えてきたのかもしれません。

正岡子規 年表(ウィキ、その他HP含む資料参照)

1867年10月14日(慶応3年9月17日)伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)松山藩士正岡常尚と八重夫妻の長男として誕生。
1870年10月25日(明治3年10月1日)妹の律が生まれる。
1872年(明治5年)父正岡常尚が病死(40歳)。母方の大原家が後見となり、家督を相続。伯父佐伯半弥に習字を習う。12月3日太陽暦が採用され、この日が明治6年1月1日となる。
1873年(明治6年)外祖父大原観山の私塾に通い、素読を習う。広末小学校入学。
1875年(明治8年)1月勝山学校へ転校。生涯の友秋山真之と出会う。4月祖父観山死去。土屋久明に漢学を学ぶ。松山藩士族の年禄が奉還され、正岡家には一時金1,200円が与えられる。(後継人管理)
1879年(明治12年)廻覧誌「桜庭雑誌」「松山雑誌」を出す。勝山学校卒業。
1880年(明治13年)松山中学入学 数人で漢詩の会「同親会」を結成。
1883年(明治16年)大学予備門受験のため、松山中学を退学。叔父加藤拓川の同意を得て上京。日本橋浜町の旧松前藩主久松邸に寄宿。拓川の指示で陸羯南を訪ねる。10月共立学校入学。(現・開成高校)
1884年(明治17年)9月東京大学予備門入学(後の第一高等中学。現東大教養学部)
この頃から俳句を作り出し、ベースボールに熱中する。
1885年(明治18年)夏に帰省した折、秋山真之の紹介で和歌を習う。
1887年(明治20年)松山の大原其戎の元を訪れ、作品を見せる。其戎が主宰する「真砂の志良辺」に俳句が掲載される。
1888年(明治21年)第一高等中学校予科卒業。本科へ進級。
1889年(明治22年)菊池謙二郎の実家がある水戸まで、友人と徒歩旅行。5月に喀血して「子規」と号す。
1890年(明治23年)7月第一高等中学本科卒業。9月帝国大学文科大学哲学科入学。
1891年(明治24年)1月国文科に転科。河東碧梧桐・高浜虚子に俳句を教える。
1892年(明治25年)2月幸田露伴に小説を見せるものの不評。『獺祭書屋俳話』の連載を開始。12月叔父の紹介で日本新聞社入社。家族を東京に呼び寄せる。
1893年(明治26年)俳句の革新運動を始める。帝国大学を退学。『獺祭書屋俳話』の単行本化。
1894年(明治27年)日清戦争 従軍記者となり、遼東半島へ向かう。森鴎外と知り合う。帰路に体調悪化。松山へ帰省。
1897年(明治30年)俳句雑誌「ホトトギス」創刊。与謝蕪村の存在を、世に知らしめる。
1902年(明治35年)9月19日 東京都台東区子規庵にて人生の幕を閉じる。享年34歳。
(当時、日本の学校は、秋始まりでした。4月始まりとなった理由と経緯は、総理大臣松方正義の回で書いていますので、良ければご参照ください。)

惑星年齢域history ☽が語る幼年期 0~7歳 1867年~1874年(慶応3年~明治7年)

伊予松山といえば、小説「坊ちゃん」の舞台。夏目漱石ゆかりの地ですが、正岡子規とその親友、後に日露戦争で活躍する秋山真之。兄の秋山好古の生まれ故郷です。
藩校「明教館」を持つことを誇りとしていた松山藩は、江戸時代の頃から、教育が盛んな藩でした。幕末の長州征伐、鳥羽伏見の戦いには、徳川親藩の立場で参戦したことから、「朝敵」とみなされ、明治時代を迎えると、この地の出身者である若者は、立身出世を志しても、冷遇される立場に立ちやすかったのです。

1867年10月14日(慶応3年)。江戸幕府が終わるまさに直前、松山の城下町に住む馬
廻役松山藩士正岡常尚と、その妻八重の長男として、正岡子規は生まれました。
名は常規。幼名は処之介(ところのすけ)。本編は、ペンネームの正岡子規、もしくは子規で、統一します。

八重の父、子規にとって外祖父となる大原観山有恒は、松山藩の儒学者でした。その影響もあるのか、大原家はインテリジェンスな家系で、三男の大原恒忠(加藤拓川)は、後に外交官、政治家となった人物です。
子規が生まれた当時、正岡家には、父方の曽祖父常武の後妻小島久もいて、久は子規をずいぶんと可愛がったとか。父の正岡常尚は、酒に弱く、深酒をする癖がありました。

☽年齢域は、幼年期を司りますが、子規の幼年期は、江戸時代が幕を閉じて、日本が様変わりする黎明期を背景に時間が進みます。さらにまだ記憶もおぼつかない乳児期に、市内引っ越しと、自宅の火災を経験。なので、どこか不安定さがありますね。

1870年(明治3年)10月25日には、妹の律が生まれました。
律の☀は、♏1°30。☽は♏8°です。12時設定なので、☽は±6°の考慮は必要ですが、律の☽が♏であることは決定。満月生まれの兄と、新月生まれの妹なのでした。
さらに彼女の☀☽と、子規の☿・♂が重なります。幼い頃の子規は、気弱で引っ込み思案だったようで、いじめられ子。妹の律は、ガンとしたしっかり者で、気が強く、兄を庇ったような記述も散見します。

子規のホロスコープはオポが多い上、特に☀と♆のオポを持っています。
さらに♅と♆がスクエア。感受性豊かな分、様々な影響も受けやすいのでしょう。あまりにも敏感故に、幼い頃は「気弱」という形で現象化するのかもしれません。

1872年(明治5年)もそろそろ物心着く頃の3月。父常尚が亡くなりました。
酒がたたり、体を壊したのが原因と言われています。子規はまだ幼児だったことから、大原家と、叔父加藤常忠が後見人となり、父亡き後の正岡家の家督を相続しました。

大原観山有恒は、孫の名前処之助を、「軟弱な名前じゃわい!」と言って、半ば強引に、「升(のぼる)」と改名してしまいます。その開運効果、はたまた改名効果なのか、子規は伯父さんの元で習字を習い、大原観山が開く私塾に通い、素読を習い始めます。
父を失った後、母の八重も頑張りますが、女一人で幼子二人を育てるのは大変でしたが、大原家の庇護と愛情を受けて、子規と律は幼年期を過ごしました。

☿が育む少年期 7~15歳 1874年~1882年(明治7年~明治15年)

☿年齢域を迎える頃、国は一段と富国強兵へと舵を切ります。
欧米と同等の国力を持たないと、植民地化される危険。不凍港を求めるロシアの南侵の危険は確かにあったので、国の選択も間違えではありませんでした。
エネルギッシュな魅力を放つ文明開化を迎え、生活も便利になる一方で、江戸時代を生きてきた者たちから、当たり前だった社会構造が、どんどんなくなってゆく時でもあったのです。

江戸時代は藩が国の役目をし、幕府はそれぞれの国を統括する役目を担いました。防衛はすべて侍が行い、納税がお米(年貢)で済んだのです。農村漁村には、地域を束ねる庄屋さんがいて、藩との橋渡しを担い、農民は年貢の帳尻を合わせてもらえました。
このシステムが機能していたことから、各個人、各家庭のダメージを下げることができ、村内で困っている家や弱者を、地域全体でフォローする形も取れていたのです。地域や時代によっては、あこぎな役人や庄屋もいたと思われますが、手ひどい搾取ばかりではなかったから、徳川300年は保てたのでした。

明治時代は藩を解体し、身分制度を外し、国防はすべての国民の義務に代わります。
海外との貿易問題を含め、国の安定した財源、予算の確立が必要な事から生じた貨幣の変更、納税も個人現金納付型へシフト。このシステムの変更によって、年月が進むに連れて、富める者と貧しきものの差が開いて行ったのです。特に地方は顕著でした。

教育や価値観も変化が起きてきます。江戸時代は、伝統を継承することが尊く、先祖を重んじ、親に従に従う事も、学びにあったので、自宅・寺子屋・藩校や私塾も、江戸時代は、方向性がすべて同じで済みました。
欧米のものがドッと押し寄せた新時代は、学問の方向性も「新時代を生きるため」となり、「西洋を学ぶべし」と、西洋の言語・学問・思想・技術を学ぶ環境に変わりました。
かつての武家や、豪商の子どもたち、いわゆるエリート層の子どもたちは、家と学校の教育の方針・方向性が、不一致となる中で、西洋の学問へと移行したのです。

これが親世代と、幕末維新生まれのニューエイジの間に、価値観のギャップ、精神の断裂を産みました。新時代の学生たちのすべてが「徳川時代のものは古きもの」と、軽んじた訳ではありませんが、日本の将来(=自分の将来)を考えた時、「どんなに伝統があるものでも、我々はそれを選べない」「過去を選んだら国は終わる」と、彼らは伝統文化に背を向けざるを得なかったのです。
折しもこの当時の欧州は、「まずは既存のものを壊す事」が、優先される進歩主義と社会主義が大流行。受け入れる日本も「古き武士の時代」を壊して、新時代を作ったばかりのため、「伝統を壊す感覚」のマリアージュとばかりに、フィットしたのかもしれません。
ごく自然に、社会主義が浸透していったのです。

このような世相を背景に、子規は社会への第一歩、学校に通い出しました。
周囲が西洋の学問に染まっていく中、おじいちゃんや母親だけでなく、血族から、和の学問を教えてもらえる環境にあったことが、子規の文学の敷石となったのでしょう。
家の近くの学校から、藩校「明教館」をリニューアルした勝山学校へ転向する頃、升(のぼる)と改名してくれた祖父、大原観山が亡くなりました。

松山藩から士族に家禄が奉還されることから、旧士族の正岡家にも、1.200円の一時金(現在なら3000万ほど)が支払われます。家禄を継いだとはいえ、まだ7歳。土屋久明に漢学を学び始めた子規に代わって、後見人の叔父大原恒徳が管理します。
一つ下の秋山真之と親しくなり、文芸を楽しむ仲間ができたのも、勝山学校からで、子規の☿年齢域は、環境と対人関係に変化をもたらしました。
漢詩を作って土屋の添削を受けるかと思えば、葛飾北斎の絵の世界に魅せられて、森知之から『画道独稽古』を借りて、模写に夢中になり、戯曲や軍談等にも触手を伸ばして行きました。

自由民権運動が、活気づく世の中で、政治にもアンテナが伸びた子規は、多くの学友たちの前で、演説等もしています。幼い頃の引っ込み思案な性格は、何処?というほど、活発になり、1879年(明治12年)には、回覧誌「桜亭雑誌」「松山雑誌」を作成。
書いたものを、まとめて回覧するおもしろさにハマりました。
1880年(明治13年)松山中学に進学すると、三並良・森知之・太田正射・竹村鍛と、漢詩のグループ「同親会」を結成。漢学者河東静蹊の指導を受けています。

生きる喜びと仲間の死 ♀が満たす青年期 15歳~25歳  1882年~1892年(明治15年~明治25年)

♀年齢域を迎えた子規は、目指せ!政治家という気概から、大学予備門受験を志し、松山中学を中退。1883年(明治16年)16歳で、人生初上京を実行。寄宿先は、日本橋浜町の旧松前藩主久松邸で、勉学環境&人生スケールが、広がっていきます。
上京してくると、さっそくお上りの許可をくれた後見人の叔父加藤拓川の元を、友人三並良と共に即訪ねました。

大原家の三男である大原恒忠は、廃絶した縁戚の加藤家を興して、当主となったことから、加藤姓を名乗っていたのです。拓川は号。11月にはフランスへ留学が決まっている拓川は、司法省法務学校の同級生であり、親友の陸羯南を甥っ子に紹介しました。

「いかにも田舎から出たての書生ッコだが、どこか無頓着で、大人じみたところがある」
日本のジャーナリズムの覚醒期を生きた陸羯南は、訪ねてきた親友の甥を見た初印象を、そう語っています。広前藩の茶坊主という経歴もあると思いますが、知識層の意識が西洋に染まる中で、民族的伝統を重んじ、「国民主義」を織り交ぜて、政治家とも対等に論じ合う彼が、新聞社を立ち上げるのは、もう少し先。

政治や法科に魅力を感じる少年だった子規ですが、陸と引き合わせた叔父の判断は正しかったのでしょう。
この出会いをきっかけに、陸羯南は後に正岡子規を導く人物となるのです。

同じころ、子規の影響を受けて、太政大臣になることを目指した秋山真之も、松山中学を中退し、兄の秋山好古を頼って上京していました。(以降、フルネームか、真之と表記)
幼馴染の二人は、、10月共立学校(現・開成高校)に入学しました。

1884年(明治17年)子規の☀星座である♎に、♅がやってくるこの年。「筆まかせ」を書き始めました。さらに寄宿先の久松家が行っている、育英事業常磐会の給費生10名の一人に選ばれます。月額7円が毎月支給され、大学入学後は、10円になるので、これはやる気が出ますね。この年の9月。子規は東京大学予備門入学。
同級生には南方熊楠と山田美妙、芳賀矢一。そして夏目漱石がいますが、すぐに親しくなったわけではなかったようです。

正岡子規と言えば俳句ですが、同時に上がって来るのが野球。この頃の子規は、学友たちから「のぼさん」と呼ばれていました。呼び名をもじってベースボールを「ノボール」と言って、親しんでいたそうです。
ベースボールが、「野球」と言われるようになった原点は、正岡子規にあったのですね。
因みに小柄で運動神経の良い真之は、ゲーム戦略を立てるのがうまかったようですが、スポーツ大好き少年ではないのに、野球に夢中な子規を見て、周囲は「何故?」という反応だったのです。

1885年(明治18年)学年試験には落第。夏帰郷すると、真之の紹介で、歌人井手真棹に、和歌の手ほどきを受けました。東京に戻る時は、真之と梅木脩吉と一緒に、連歌を楽しみ、到着後数日、秋山兄弟の下宿で過ごしています。
9月新学期が始まると、同郷の清水則遠が、子規の下宿に同居してきました。真之は、兄の元を離れ、子規の下宿の近くで、一人暮らしを開始。子規の落第によって、三人は同級生となりました。  

ここに神谷豊太郎・関甲子郎・井林博政・菊池譲二郎が加わり、「七変人評論」ができたのです。知性と心を研ぎ澄ませ、何の遠慮もなく、互いを批評し合えるのは、学生時代ならではの特権。存分に謳歌し、寄席通いも活発に行っていたのは、とても微笑ましいです。ところが、楽しい時間は束の間でした。

1886年(明治19年)春。清水が脚気でこの世を去ってしまったのです。
あまりにもあっけない友人の死を前に、憔悴する子規。その様子を案じた真之は、しばらくの間、子規の部屋に同居しました。しかし、数か月後、部屋に手紙を置いて出て言ったのです。下級武士だった真之の実家は、財政が厳しく、これまでずっと学費を兄の秋山好古に頼っていたのでした。
この現実に悩んだ末、真之は帝国大学へ進む道を断念。自立のために、海軍兵学校へと、人生の進路先を変更したのでした。

海神も恐るる君が船路には灘の波風しずかなるらん。
いくさをもいとはぬ君が船路には風ふかばふけ波たたばたて

これは帰省する真之に、子規が贈った和歌です。
当時の資料を散見すると、真之が去った後、寂しさからか、子規の下宿生活は少し雑になった感もあります。それでも俳句をはじめ、創作への熱。野球好きなのは変わることはありませんでした。
1887年(明治20年)夏休みに帰省した際、松山三津浜の師匠大原其戎の元を訪れ、俳句を見てもらう機会を得ています。一月後、其戎が主宰する「真砂の志良辺」に、その俳句が掲載されました。

1888年(明治21年)幼い頃、かわいがってくれた養祖母小島久が死去したこの年、第一高等中学校予科を卒業します。
向島長命寺境内にある月香楼に、7月は籠り、「七草集」を執筆。8月は江の島鎌倉へ遊びに行きますが、初めて喀血したのでした。
9月本科に進級が決まると、月香楼を引き払い、ついに常磐会寄宿舎へ入ります。

1889年(明治22年)落語好きと知って、話しかけたのがきっかけで、夏目漱石と親しくなりました。人をひきつける不思議な魅力と統率力がある子規。英語力だけでなく、自身の俳句や短歌をまとめた文集「七草集」への評論を、見事な漢文で返してきた漱石の奥深さ。どちらも引き合い、認め合い、生涯の友となってゆきます。

春には僚友と共に、友人の実家がある茨城県まで歩いて旅をして、楽しき学生生活再び
な感じもありましたが、翌5月9日の夜。再び喀血に襲われました。すぐに収まらず、一週間ほど喀血が続きます。その間、鳴いて血を吐くと言われる時鳥(ほととぎす)に、自身を例えた句を、幾つも読み、「子規」と号するようになったことは、周知と思います。
肺結核という診断結果が降ると、「啼血始末」を書き出し、俳句の分類にも着手。
暮にはボール会を立ち上げて、上野公園の空き地で、2回ベースボールを行いました。

1890年(明治23年)第一高等中学校本科を卒業。9月には、ついに目指した帝国大学文科大学哲学科へ、進学してゆきます。一つのゴールが見えた時、まるで変化の訪れのように、幸田露伴の作品に触れたのでした。

時代に埋もれた俳人の復活と逝去 ☀年齢域 24歳~34歳  1892年~1902年(明治25年~明治35年)

☀年齢域は、その人が☽・☿・♀年齢域に吸収し、培ったものを土台にして、自分の人
生を輝かせる時であり、人によっては、重荷もまた付加される時期でもあります。何故、重さが加わるかというと、この年齢域には、過剰なものは削り、必要なものは残す♄の28年周期も加わるからです。

子規の場合は、♎を航行していたT♅が28度。隣の♏へ抜ける準備ように、り♎の後半に差し掛かます。9月には、子規のN☀/☽に対して、♎を航行するT♅がコンジャンク
ション&オポジション。何かポキンと折れた感がありますが、1891年(明治24年)2月。
国文科に転科しました。この転科は、漱石の友人の影響もあるという節もありますが、幸田露伴の「風流佛」に傾倒し、哲学から文学に傾いたとも考えられます。

♅は、約7年ほど、一つの星座に滞在しますが、7年ほど遡ると1884年(明治17年)「筆まかせ」を書き始め、東京大学予備門に入学した頃。子規の学生生活謳歌は、♎に入った♅が起こした風かもしれません。
3月後半から4月上旬、房総半島を旅し、「かくれみの」の執筆。夏の帰省は、木曾路を回りながら松山を目指します。師走に入ると、常磐会寄宿舎を去り、駒込追分町に転居して、小説「月の都」を執筆し始めます。

1892年(明治23年)書き上げた小説を携え、幸田露伴の元を訪れますが、小説よりも俳句の方が、評価が高かったのでした。
この経験から、小説家になることを諦めた子規は、住まいを下谷区上根岸に移します。
陸羯南宅の隣に住み、木曾の紀行文「かけはしの記」を「日本」に連載をはじめました。
俳句の革新に着手しながら、7月の学年試験を受けますが、落第。退学を決意した子規は、秋から冬にかけて、給費生も辞退して、日本新聞社に入社。

母と妹を東京に呼び、家族3人の暮らしという、一大変化を興したのです。学生から社会人への変化は、♈を進むT♃と、♏を進むT♅効果かもしれません。
T♃は、子規のN♆☽とコンジャンクション。同時に、対岸の☀♀とはオポジション。
♏にあるN☿♂に、T♅が影響するので、環境がガラリと変わります。

1893年(明治26年)、過去の終止符と、新たな門出が交差するように、帝国大学の退学と、新聞連載していた『獺祭書屋俳話』の初単行本出版が重なります。さらに7月から9月にかけて、東北を旅した子規は、「芭蕉雑談」の連載を始めました。

1894年(明治27年)日清戦争に向かって騒然とする世の中。住まいを羯南宅の東隣に移します。家族と住むだけでなく、句会を行う拠点「子規庵」としました。
現在も子規庵は、保存会の方々に守られ、そのままの形で残っていて、かつて多くの文化人や友人が、子規を訪ねたように、今も子規を訪ねる人たちの庵となっています。
家庭向き新聞「小日本」の編集長となり、小説や短歌を発表。経営の問題もあって、発行から約半年ほどで、「小日本」は休刊になりますが、挿絵画家などとも顔見知りとなり、人脈の幅が広がりました。

1895年(明治28年)♄周期が1ターン終了を迎えるこの年、近衛師団付の従軍記者として、遼東半島に渡ります。4月17日日清戦争講和(下関条約)となり、日清戦争は終結したので、長い期間の従軍ではないものの、森鴎外と知り合い、日清戦争の戦地にありながら、俳談に沸きました。それでも持病を持つ子規にとって、戦地も復員船も、最悪の環であった事には、変わりません。

日本に向かう帰国船に乗りますが、船の中で喀血が続き、神戸に上陸すると、そのまま入院となります。重体の子規を看病するため、母と、子規の弟子となっていた河東碧梧桐と高浜虚子が、神戸に駆け付けました。
治療と看病の甲斐あって、幸いにも命の危機を回避します。須磨保養院に転院した後、8月の後半には、退院するまでに回復します。そのまま東京へ帰るのではなく、子規の足は、松山で教師をしている漱石の元に向かいました。

そのまま一月以上、漱石の下宿に滞在します。漱石に「鰻丼を奢るから」と言って、一緒に鰻丼を食べて、彼に代金を払わせた逸話も、この頃の事ですが、連日開かれた句会に、子規も参加しました。
三森幹夫が「蕪村句集」を発刊した年でもありますが、子規が江戸時代に埋もれた俳人与謝蕪村に惹かれたのも、時期が重なるかもしれません。
10月に松山を離れ、広島・大阪・奈良を回って東京に戻りますが、道中だんだんと腰痛に悩まされ始めます。

1896年(明治29年)子規庵の句会に、森鴎外と夏目漱石参加しました。
俳句活動にも熱が入りますが、2月頃から左腰部が腫れ、激痛のため歩行困難に陥ってしまいます。結果は当初疑ったリュウマチではなく、脊髄カリエスでした。結核菌が脊髄を蝕み、発症したのが原因とされています。自力歩行が難しくなるものの、過ごしやすい秋には、比較手調子がいいと、人力車で街を移動することもありました。

1897年(明治30年)「ほとゝぎず」が創刊。
腰部の膿を取り除く手術が行われた後、新聞「日本」に「俳人蕪村」の連載をはじめますが、病状が悪化してドクターストップもかかります。
体を蝕む病と闘いながら、蕪村の研究。自身の創作活動と、後輩育成を続ける子規。その活動を、陰で支えていたのが、母と妹の律でした。臀部や背中に穴が開いて、流れる膿を取ったり、介抱と生活の世話をした二人がいたからこそ、子規庵で執筆や句会ができたのです。

不治の病に苦しむ甥っ子への情と、年頃なのに嫁にもいかず、時に兄妹げんかをしながらも、兄の看病に明け暮れる姪の律が不憫に思えたのか、加藤拓川が出資することで、赤十字の看護婦が一月ほど看病に入っています。
師走を迎える頃、第一回目の蕪村忌が、子規庵で開催されました。
この時、参加者は20名ほどです。

1889年(明治32年)。同じく子規庵で、2回目の蕪村忌を行いました。参加者は46名と、前回の倍以上に増えています。これは江戸時代に埋もれていた与謝蕪村を、世に知らしめ、再生させた証であり、子規の熱意の表れといえるでしょう。
記録をみていると、蕪村忌以外の時も、子規庵には、実に名だたる文人、著名人、関係者が訪れています。子規も基本的に動くことが大好きな性質なので、時々、人力車での外出をしたり、母と妹を食事に連れ出すようなことも、していたようです。

1899年(明治32年)夏頃には、座ることすら困難となりました。寝返りを打つ際、激痛が襲う体を、麻痺剤で緩和しながら、短歌・随筆・俳句を書き続けます。(口述もあり)
1900年(明治33年)二人の友が、子規庵を訪れました。一人はロンドン留学する前に、顔を見に来た夏目漱石。その後、喀血によって、床に横なったままの生活となった子規を見舞ったのが、秋山真之でした。

アメリカへ留学のため、しばらく日本を離れることとなった真之が、思い切って訪れたのです。少年時代に、同じ道を進むことを夢見た二人。
どちらも境遇は変われど、久しぶりの再会です。どんな会話をしたのか。わかりませんが、真之がアメリカへ旅立った後、送別の句を子規が新聞に掲載したものがあります。

君を送りて おもうことあり 蚊帳に泣く

友への思いと、病魔によって、動けない自分の辛さを込めた子規の思い。察するに余りある句に、秋山の返しが、2年半後に届いた年賀状に記されています。

遠くとて五十歩百歩の小世界。

子規が横になっていたその部屋に、小さな地球儀が置いてあったこと。横になったまま、その地球儀を手にして眺める子規を思う秋山の気持ちが、<どんなに遠くに感じる外国も、手を伸ばせば届く小さな世界に過ぎない。>という句を生んだのでした。

☀年齢域の終わりが近づく1901年(明治34年)。藤の花十種を読み、9月には子規が描いた糸瓜やパンの絵も載せた「仰臥漫録」をつけ始めます。
1902年(明治35年)痛みを抑えるため、毎日麻痺薬を使う様になります。痛みから来るいら立ちから、律に当たり散らすこともあったようですが、新聞「日本」の連載「病牀六尺」を書き続けました。

最後の蕪村句集輪講会が、9月10日子規の枕元で行われた後、彼岸の入りを前にした9月19日午前1時。正岡子規は鬼籍に入ります。享年34歳。
「糸爪咲て痰のつまりし仏かな」
世辞の句の一つですが、子規の忌日9月19日を「糸爪忌」と呼び、現在も行われています。
新聞の連載「病牀六尺」は、亡くなる2日前まで、執筆していました。

作品に命を吹き込む時には、等価交換が必要なのか、ジャンルと洋の東西を問わず、芸術家や音楽家は短命な人物が多いのです。正岡子規もその代表的な一人に思えます。
彼は個人の人生を生きた人ですが、江戸時代に埋もれてしまった俳句を、新時代感覚に読みあげるだけでなく、与謝蕪村という人物と作品を再生して、小林一茶・松尾芭蕉と並べるまで引き上げました。

100年以上経つ今も、その影響は大きく、作品は深い感銘を与えている子規。
創作へのエネルギーと、病との闘いは熱く、磨けば磨くほど洗練される♎の☀♀が織りなす、言葉の術師であり、和の言霊師と言っても良いでしょう。

満月生まれの兄の介護と世話を続けた律。新月生まれの彼女は、兄亡き後に共立女子職業学校(現共立女子校)に通います。裁縫を習って卒業後、母校で教員となっているので、優秀な人材だったのでしょう。結婚もしますが、何故か2回離婚。その後は子規庵で裁縫を教えつつ、老いた母を看病します。

女性の独立運動が叫ばれていた時代に、押し黙るとか、単に我慢ではなく、兄の介護、母の介護と、20代以降は介護が伴走する律の生涯。病の辛さから、時に子規は不平不満を彼女にぶつけましたが、受け止めてくれるからこその甘えだったかもしれません。
彼女なくして、正岡子規の活動は語れず、彼女が子規の作品や子規庵の保存に勤めたことで、日本の文学界は、尊い遺産を残してもらえた。そう思う限りです。