明治を語るのに外せない人物であり、日露戦争を勝ち戦に導いた一人東郷平八郎。

海外からは「アドミラル・トーゴ―」「東洋のネルソン」と称され、ソ連の抑圧に苦しむ国の人たちには、希望を与えました。大勲位菊花章頸飾を受けるだけでなく、TIMEの表紙を飾った初日本人。元帥府に叙せられた人でもあります。それ故に、日本海軍の中では無視できない存在になってしまい、往年には問題も生じました。

今回はそんな東郷平八郎にスポットを当てます。

東郷平八郎ホロスコープ




1848年1月27日 出生時間不明 鹿児島県鹿児島市加治屋町生まれ(現住所)
 ☀ ♒ 06°21
 ☽ ♎ 21°31

出生時刻不明のため、正午設定。第一室(本人の部屋)とするイコールハウス。ASCとMCは使用していません。その為、第1室は、太陽星座の♒になります。
☽は第9室(精神の部屋)♎の21°なので、±6度どちらにしても♎。
東郷平八郎は☀も☽も風星座。

北半球(円の下半分)と、東半球(左半分)に星が多く、第5・7・8・10・12室には、星の入室なし。個性的且、個人的な楽しみを大事にする傾向があり、人生上、何らかの趣味を持っている可能性大。北半球型の人は、家庭重視といわれがちですが、出世ができないとか、望めないのではなく、ホームベースや、組織重視な性質が強いというのを、視野に入れても良いのかもしれません。

☀と同じく☿♆も♒にあり、☽と同じ♎には☊があります。
☀と☿は☊と。☽と♆は調和と好奇心の風。より多くの人から、良き影響を受けて、返すことのできる運気がありそうです。♆はナイーブであり、心理と体調にも深く関わります。インスピレーションも司り、科学者や海軍にとっても重要な星でもあります。

気になるのは、この♆が第2室(金銭所有の部屋)の魚座♄と合。♄は運勢的に必要なモノを残して後はポイっとしてしまう効果と、地道に積み上げる事に味方するので、一獲千金を狙うには向きません。もし、金銭的な部分で、さほど困らずにいたとしたら、それ以外の部分でだいぶシビアな経験とかをする可能性あり。

☽と調和する♆は、第11室(友人希望の部屋)♐を背景に持つ火の♀と、プラス星座の二等辺三角形を構成。(但し、午前0時近くには構成されない)心地よい組み合わせが、性格にマイルドさを与えるのか、周りから好かれやすい傾向をもたらし、ある意味ちょっと得な配置かもしれません。

私見ですが、社会的、歴史的成功をもたらす人は、♃~♇の位置やアスペクトが、より重要と判断しています。東郷の♃は♋を背景に第6室(健康勤務の部屋)にあって、社交的で面倒見の良さや、細部にこだわる面が生かされると、きめ細やかな対応ができて、非常に良い感じですが、♃はホロスコープの中で唯一逆行。

♉の♂。そして♄との調和が、女性格星座の二等辺三角形を構成していますが、♄と♃もたらすものが、健康面に出てくると難儀するかもしれません。
♇は♅と共に第3室♈にあり、どちらもまるで運勢の背骨のように、☽とはオポジション。さらに♇と♀が調和。♆と♇は努力次第で好転可能な、セクスタイル。

世界的に有名人となった運勢的な部分は、これらのアスペクトにあるような気がします。
さらにここはこれらの星々や、アスペクトがサクセスストーリーの後押ししていったのか、彼の履歴と人生を見て見ましょう。

年表(ウィキ、その他資料を参照)

1848年1月27日(弘化4年12月22日)薩摩藩鹿児島城下の二本馬場に住む。薩摩藩士・西郷実友・益子夫妻の四男として生まれる。幼名は仲五郎。
1862年(文久2年)14歳で元服。平八郎実良と名乗る。
1863年(文久3年)薩英戦争 初陣。
1867年(慶応3年)薩摩藩、春日丸を英国から購入。
1868年(慶応4年・明治元年)戊辰戦争。春日丸に乗船。新潟・函館まで転戦。
1871年~1878年(明治4年~明治11年) イギリスのポーツマスに官費留学。
1878年(明治11年)帰国後、結婚。相手は海江田信義の長女てつ子(当時17歳)
1884年(明治17年)8月8日清仏戦争 天城艦長として命令を受ける。
1893年(明治26年)ハワイ革命  浪速艦長として邦人救出作戦。
1894年~1895年(明治27年~明治28年)日清戦争。
1899年(明治32年)佐世保鎮守府司令長官就任。
1901年(明治34年)舞鶴鎮守府司令長官就任。
1903年(明治36年)10月 常備艦隊司令長官任命が降る。12月第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命される。
1904年(明治37年)日露戦争開戦。
1905年(明治38年)5月27日 日本海海戦。この年から1909年(明治42年)まで、海軍軍司令部長。
1907年(明治40年)伯爵を授爵。
1911年(明治44年)英国ジョージ5世戴冠式に出席する東伏見依仁親王の随行。
1913年(大正2年)4月元帥府に叙せられ、元帥会議への出席が可能になる。
1914年(大正3年)御学問所で裕仁内親王(昭和天皇)の教育係に任命。
1926年(大正15年)大勲位菊花章頸飾を受賞。11月『TIME』の表紙を飾る。
1934年(昭和9年)5月30日 崩御 喉頭癌の他、複数併発。
1934年6月5日 国葬

東郷平八郎 history

●☽年齢域 0~7歳 1848年~1855年(弘化4年~安政2年)&
●☿年齢域 7~15歳 1855~1863年 (安政2年~文久3年)

1848年1月27日(弘化4年12月22日)薩摩藩士の西郷実友と、益子(堀与三左衛門の三女)夫妻の四男として、東郷平八郎は生まれます。五男一女の6人兄弟ですが、長女・次男は夭折のため、平八郎は4番目という位置づけ。

彼が生まれた鹿児島城下の加治屋町は、城下の中でも下級に当たる武士たちが住まう地域でした。平八郎が生まれる20年ほど前に西郷隆盛が誕生し、その兄弟や、大山巌。山本権兵衛も生まれ育ってきた土地でした。
平八郎の幼名は仲五郎。(本編は東郷、平八郎、もしくはフルネームで表記)

☽年齢期もそろそろ終わる6歳の頃、平八郎は郷入りしますが、それまでは武家生まれの母に、厳しくかつ愛情深く、育てられました。
郷中とは、道・学問のみならず、万事に質実剛健な薩摩藩士としての生き方・作法などを、先輩が後輩に、伝え育む薩摩藩独特の教育システムです。稚児(こちご6~10歳)・長稚児(おせちご10~15歳)・二才(にせ15~25歳)、長老(おせんし 妻帯した先輩)と、年代区分されていて、先輩後輩の関係が、非常に濃厚でした。

平八郎は、示現流を薬丸半左衛門に習い、川久保清一の塾で漢学を納め、西郷隆盛の家で、習字を習ったそうです。この頃隆盛は流刑中だったため留守。次兄の西郷吉二郎が、平八郎に書道だけでなく、四書五経を教えました。

人懐こく小柄な平八郎を、吉二郎は大変可愛がったそうです。薩摩男子にとって、西郷隆盛は憧れの的。その自宅で勉学を習うだけでなく、隆盛のことだけでなく、京都の話や神戸海軍操練所で学ぶ土佐藩の坂本龍馬の話を聞いた平八郎は、自分も早く志士になって、国のために働きたいと、心躍らせる少年時代をすごしたのです。

☿年齢期が、もうすぐ終わる14歳に元服。平八郎実良と名乗りました。
大久保利通曰く、「東郷はおしゃべり」という逸話もあるので、少年時代は、ちょっと賑やかだったかもしれません。
●初陣から戊辰戦争を経験する♀年齢域 
●15~24歳 1863~1872年 (文久3年~明治5年)

☿年齢域と♀年齢域が交差する1863年(文久3年)薩英戦争が起きました。
平八郎は父と兄たちと共に戦へ参加。初陣となります。

薩英戦争の発端は生麦事件。薩摩藩主の父久光公が、公武合体運動の推進のため、京都から勅使を伴い、江戸城へ乗り込んだ目的を達成して帰る途中、生麦村を通過した時起こりました。手前から、大名行列に道を譲るよう警告したにもかかわらず、割り込んできた英国人一行に、薩摩藩の家来たちが警護の士のため切り付けたのです。

この死傷事件の折り合いがつかず、薩摩藩対英国軍の間で、局地戦に発展したのですが、当初英国は、生麦事件の解決と補償の要求をのませるため、武力行使は術として用いるだけのつもりで、軍艦で鹿児島湾に乗り込みました。ところが前藩主島津斉彬公の元、西洋列強と戦う日が来ることを念頭に、準備と訓練をしてきた薩摩藩です。

交渉ではなく交戦となりました。英国軍のロケット砲の威力までは想定できず、鹿児島の城下1割は焼かれましたが、英国軍も想定外の艦隊一艘大破。艦長をはじめ死傷者は、薩摩藩よりも多いという予想外の結果になりました。
平八郎は、久光公の護衛隊を担当しながら、この戦を通じて「海から来る敵は海で防ぐ」というとを学びます。

再交渉に当たって、薩摩藩は生麦事件の犯人については、逃走中とし、賠償金の2億5000ポンドを、幕府から英国に支払わせています(返金せず)。このことが縁となり、薩摩藩と英国の間に「お互いをもっと知ろう」という機運が生まれて、武器その他、貿易が始まりました。
城下町を焼かれ、痛い経験をした薩摩藩は、1864年(元治元年)海軍に力を注ぐため、開成所を開きます。1866年(慶応2年)には、開成所の中で、陸軍方と海軍方に分ける通達が出されました。平八郎は家老小松帯刀が海軍掛を務める海軍方に進んだのです。
そしてこの当時、幕府の海軍奉行だった勝海舟からも、操艦技術を教わりました。

1868年(慶応4年・明治元年)20歳を迎えた平八郎は、薩摩藩が英国から購入した大型軍艦春日に乗船。三等砲術士官として、阿波沖海戦を皮切りに、宮古湾開戦、函館戦争と、戊辰戦争を経験することになります。陸戦に参戦していた弟の実武(五男)は、会津戦線で悪疫に罹患してしまい、17歳の若さで亡くなりました。

函館戦争では、敵の砲弾が味方の船に命中し、目の前で多くの仲間が犠牲になる中、春日は救助活動を行います。榎本武揚率いる旧幕府軍の船は、砲撃せず春日を見逃しました。
平八郎は、極限の中で旧幕府軍の「武士道精神」を見たのです。

戊辰戦争が終わった後、世の中は西洋化に向かって動き出し、鉄道にも関心が高まっていました。機械好き。新しいものに抵抗がない性格なら、魅力を感じるのはありそうな気もしますが、加えて戊辰戦争の体験もあって、平八郎が鉄道技師になることを希望します。

「日本が世界と渡り合うためには、海軍が必要」

西郷のこの一言を聞いて、平八郎は海軍に進んだとされていますが、当時、進路選択に悩む山本権兵衛にも、西郷は似たようなことを言ってリクルートしました。(権兵衛の場合は、そのまま勝海舟への紹介状付きでしたが)この時期の西郷は、海軍に力を入れたかったので、若い薩摩藩士には「海軍coming!」をしたのかもしれません。

いずれにせよ平八郎は、腹を決めて海軍の軍人となり、新政府の軍艦龍驤(リョウジョウ)に見習士官として乗り込みました。

1871年(明治4年)に、海軍第1回の英国留学のチャンスが到来します。
この件には、大久保に「留学させてください」と頼んだものの、よい事がもらえず、それどころか「あいつはおしゃべりだからダメ」と、大久保が他の人に漏らしたという話を、さらに別の人から聞いて、落ち込んだ末、西郷隆盛の所へ行ったら、「任せなさい!」と、二つ返事で話が進んだという通説があります。

気難しい大久保と、後輩の面倒はしっかり見る西郷の気質を考えたら、さもありなんの話ですが、海軍中将小笠原長生が「東郷元帥詳伝」に記すため、東郷から思い出話を聞いたところ、二人の名前が出てくることはありませんでした。
留学に選考されたであろう数人で、選抜の成否がわからないから、当時あたると有名な芝三島町の易者の所に行って、占ってもらったという話が出てきます。

実際、英国留学の12名の一人に選ばれたわけですが、選考基準はハッキリしていません。
●世界恐慌に揺れる時代に、英国での生活。そして帰国☀年齢域
●24~34歳 1872~1882年 (明治5年~明治15年)

留学期間は1871年~1878年(明治4年~明治11年)の6年間。☀年齢域の間の半分は、英国生活になります。国の公費留学で、当初、日本側は王立海軍兵学校を希望しました。英国側の事情でそこは叶わず、イングランド南岸に位置するゴスポートの海軍予備校バーニーズアカデミー。その後、商船学校で学ぶことになったのでした。今時代と違い、洋服も靴もない時代の留学。体に合うものを探すのも難しく、服の着方も知らなければ、靴を履いて歩くこともなかった彼ら。準備も扱いも大変だったようです。

海軍予備校バーニーズアカデミーは、現代なら中学生くらいの若年層が通う学校のため、平八郎からみたら、弟と思える年齢の生徒に混ざり、学習と生活を送りました。
英語で遠慮なく、からかってくるのが効いたのか、おしゃべりな性格が、すっかり無口になったという逸話がありますが、「沈黙の提督」の基礎は、この時期に作られたのかも。
約1年後、高等数学の一部を学ぶことが目的で、日本公使館の世話でケンブリッジへ移り、牧師の家で下宿生活をしています。

1873年(明治6年)日本では大久保や木戸といった「世界」を見てきた者たちが、西郷隆盛と板垣退助たちの推す征韓論を、政策のテーブルから下げ、富国強兵に舵を切ったことから、明治6年の政変があり、世界ではウィーン市場の株が大暴落しました。
これが引き金となり、世界恐慌が起こったのです。欧米各国は、保護関税政策の強化や、アジア諸国における熾烈な植民地の取り合いを興し、帝国主義時代の到来といってもいいでしょう。

今、朝鮮に手を出すことで、清やロシアをはじめ、大国に付け入るスキを与えるより、富国強兵を急ぐ方が先という考えは、時勢的に見ても、あながち間違ってはいなかったものの、急な変化を即した分、取りこぼしたものや、失ったものも多く、それが1877年(明治10年)西南戦争という形に集約されたのかもしれません。

国内が変わって行く中、平八郎は、遠洋航海の実習だけでなく、軍人として必要な勉強の他、国際法に英語・仏語・聖書学も学び、「学業優秀」「品行方正」と評価を得て、1878年5月帰国の時を迎え、その帰路で、西南戦争と西郷隆盛の自刀を知ったのです。

「もし、私が日本に残っていたら、西郷さんの元にはせ参じただろう」

これは西郷の死を悼んでの言葉です。幼い頃、吉二郎に習字を習い、隆盛の話を聞かせてもらった平八郎にとって、どれほどショックだったでしょうか。
実兄の壮九郎は、西郷の元西南戦争に従軍。城山攻防戦で自決していますから、平八郎も日本にいたら、同じ道をたどった可能性は、高かったと思います。

帰国すると平八郎は、「扶桑」に乗船しました。留学期間が長かったのもあって、英語と薩摩弁で号令を行ったため、船員が号令の意味がわからず、統制の取れない事態が起きたそうです。見かねた同僚が注意をしても、かなり強引に我流の号令で押し切った模様。
何か言われると、意固地になるのは、なんとなく水瓶座っぽいかなと思います。

薩摩藩の重鎮、海江田信義の長女てつ子(テツと表記されることもあり)と結婚し、以降、幾多の戦艦の艦長を務めることになりました。
●経験を積み上げる♂年齢域 
●34~45歳 1882年~1893年(明治15年~明治26年)

1884年(明治17年)8月8日ついに清仏戦争が起きたのです。ベトナムの植民地化を、ずっと狙っていたフランスと、ベトナムの権利は我にあり!と、宗主国を主張する清。二国の間で、戦争が起きたことから、台湾海域が封鎖される懸念があり、日本はこれを避けるため、当時外交官だった原敬(平民宰相のあの人です)を天津に派遣。フランス領事リヒテル・リューベルと連絡を取り合います。

さらに榎本武揚が清駐公使として天津に赴きました。総理衙門の慶郡王と会談し、調停役を試みますが、清国側の条件と折り合わず、和平介入は進まなかったのです。
この戦争では、台湾沖での海戦(日本の目と鼻の先です)が行われ、平八郎は「天城」の艦長として、アメデ・クルーベが率いる極東艦隊の馬江海域の海戦や、台湾に上陸するフランス陸軍を観察しました。

普仏戦争によって、清はフランスに賠償金を払う他、ベトナムを含めたインドシナをフランス保護化とするのを認めます。(正確にはフランスの植民地化)
きな臭さもある半面、この頃横須賀では、海軍御用達の料亭「小松」ができて、海軍も街も活気づいてきました。顔立ち整っていて、英国帰りの雰囲気がある平八郎、結構芸者衆にモテたようです。

1886年(明治19年)には大佐となり、順調な出世をしますが、リュウマチに気管支炎と言った病気に悩まされました。療養をしながらも国際法を学び、鍛錬も怠らなかった辺りはさすがです。

1891年(明治24年)西郷従道海軍相の下で、山本権兵衛が海軍省大臣官房主事となり、海軍のテコ入れが進むこの年、療養明けの平八郎は、防護巡洋艦(二等巡洋艦)浪速(なにわ)の艦長に就任しました。

1893年(明治26年)。米海兵隊の支援を受けたハワイ入植のアメリカ人農場主が、ハワイ国王リリウオカラ二女王と島民に対し、アメリカ併合するようにクーデターを起こました。いわゆるハワイ革命が起きたのです。
彼らは臨時政府を樹立して、軍艦「ボストン」の主砲を王宮に向け、女王に退位を迫りました。ハワイには多くの日本人が住んでいるため、その現地邦人救出と、ハワイ王朝が日本に援助を求めたことから、浪速が戦艦金剛を伴い、向かったのです。

ホノルル港に着くと、戦艦ボストンを2艘で挟む形で錨を降ろし、「武力による王朝への弾圧、それによって一般市民の生活が危険に晒されたため、その安全と保護に当たる」と、声明を出しました。これが効いたのか、クーデターは見送られ、女王を支持するハワイ先住民たちは、日本海軍の援護に歓喜します。

平八郎にとっては、♂年齢域が終わり、♃年齢域が始まる年で、このハワイ革命での対応が名を知られるきっかけになるのでした。ちなみにハワイですが、翌1894年(明治27年)7月に女王は退位し、アメリカに併合されました。
●世界に名を轟かす♃年齢域 ・ハワイ革命と日清戦争
●45~57歳 1893年~1905年(明治26年~明治38年)
 
同年7月の下旬。現在の大韓民国北西部にあたる豊島沖海域で、清国軍が呼んだ増援勢力と、日本海軍が鉢合わせしたことから、戦闘となります。
これは日清戦争の宣戦布告前の早朝の出来事でした。
日本側は吉野・秋津洲・浪速の三艘。清国側は済遠・広乙。ここに操江と、もう一隻、陸軍兵の移動・輸送するため、チャーターした英国商船高陞号が加わります。

高陞号に停止を求め、臨検を行った結果、清国政府に雇用された船であること。英国の船員たちは、清兵に脅されていること。1100名の清兵と大砲14門、その他武器を、仁川に輸送中だったことがわかりました。これは黙って透すことができません。
平八郎は船長トーマス・ライダー・ゴールズワージに、随行を求めると、船長側は異存がないものの、これを避けたい兵士側が随行を拒否。約2時間近く平八郎は清兵側と問答の末、高陞号の乗組員たちに向かい、「艦を見捨てよ」と警告。さらに船を撃沈させる信号旗を掲げます。

英国人たちが、海に飛び込んだことを確認した上で、魚雷で高陞号を撃沈。
乗船していた清国兵のほとんどは死亡。浪速に向かって泳いできた外国人船員は、すべて救助され、この海戦による日本軍側は、死者も戦艦の被害もなく終わりました。が、高陞号の撃沈に英国は態度を硬化させ、日本に向けて抗議の嵐が起きます。

その中で、英国人の国際法学者が、東郷平八郎の行った命令は、全て国際法に沿った合法の範囲であると、正しさを立証したことでクレームは鎮静化。むしろ、国際法に違反していたのは、兵士や武器を勝手に輸送していた清だったことが発覚しました。世界的には、清国のイメージダウンにつながったのです。
ハワイでのアメリカの戦艦相手への威嚇。日露戦争直前の豊島沖海域戦で、東郷平八郎の名前が、世界に浮かび上がりました。

その後、甲牛農民戦争が朝鮮内で起こります。助けを求めた朝鮮王朝に答えるように派兵した清。現地邦人の救出これを押さえるため、日本も軍を派兵したことから、ついに日清戦争は始まったのです。
黄海海戦に参戦後、平八郎は1895年(明治28年)1月に威海衛海戦。
陸海合同で臨んだ日清戦争を勝ち進み、日清戦争は日本側の勝利に終わります。

下関条約締結後、少将へと昇格した平八郎は、ハワイ共和国一周年式典のために、再びハワイを訪れました。ここで共和国政府側は、浪速に向かって「建国1周年の祝砲」を要請。
「その要を認めず」にべもなく返事を返して平八郎は、祝砲を打たなかったのです。
各国もこれに習って、何処の国の軍艦も祝砲を打たない式典となり、この時の言動も、国際的に東郷平八郎の評価を高めました。

1898年(明治31年)中将に昇級後、佐世保鎮守府司令官。2年後には、当時新設の舞鶴鎮守府初代司令官に就任します。
1903年(明治36年)10月。海軍のトップとなった山本権兵衛に、呼び戻されると、常備艦隊司令官に任命。さらにこの年の年末、連合艦隊が編成され、第一艦隊兼連合艦隊司令長官という大役が降りました。第一艦隊兼連合艦隊司令長官は、山本と長年の親友であり、誰もが認める大ベテランの日高壮之丞と思っていただけに、本人も周りもこの人事に大激震が起こりました。

東郷平八郎を選んだ理由を、山本が明治天皇に説明する際「彼は運のよい男ですから」と言ったとする逸話もありますが、日高の健康問題と、国際法にのっとって冷静に「高陞号」撃沈した平八郎の仕事ぶりと、経歴による繰り上がりが実情。作戦参謀は、あの秋山真之が起用されていきます。

1904年(明治37年)2月6日~1905年(明治38年)9月5日。日露戦争は、東郷平八郎にとって、♃年齢域の仕上&♄年齢域に移行する年に当たっています。
朝鮮半島と満州を巡って、ロシアと日本の間で起きたことから、戦地は満州南部・遼東半島・黄海・日本海でした。旅順にいるロシアの主力艦隊を、無力化させるため、平八郎は旗艦である軍艦「三笠」に乗り、連合艦隊を率いて、遼東半島の旅順を目指します。
下関条約で得ることができるはずだった遼東半島は、ロシアとフランス・ドイツによる三国間干渉で、日本はあきらめた土地でした。

相手の旗船は撃沈させたものの、港の封鎖までには至らず、さらに、一日で6艘ある戦艦うちの2艘を沈められます。山本も平八郎も、心理的には相当参ったといいますが、部下たちにはそれを見せず、平静を保ち全体の士気を高めました。
そこに世界最強と言われるバルチック艦隊が、バルト海からウラジオストックを目指してやってくる事が判明。一刻も早く旅順を落とさないと、えらいことになるが、海軍だけで旅順の攻略は難しいと判断した結果、陸軍の旅順攻略を要請します。

陸軍第3軍を指揮する乃木希典大将と手を組んだ戦いに、ロシア側は旅順の艦隊をウラジオストックに移動させることを決めました。ウラジオストックに向かう敵戦艦に対して、秋山の考えた丁字戦法が失敗するものの、連合艦隊は猛攻撃でロシア艦隊を沈めました。
●勝って兜の緒を締めよ♄年齢域 
●57~70歳 1905年~1918年 (明治38年~大正7年)

1905年1月陸戦は過酷を極めます。多大なる犠牲を払いながら、乃木大将は難攻不落の旅順要塞を攻略。さらに1905年3月。ロシア軍の拠点奉天を叩くために陸軍は進軍します。
3月10日に奉天を占領し太平洋側のロシア艦隊は、壊滅に近い状態となりました。政治的には日本側の依頼を受けたアメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルトが、このタイミングで、両国への和平交渉を始めますが、ロシアはこれを拒否。

戦争のために搾取や酷使を続けたロシアの国内では、国民の不満が溜まり、旅順の敗北をきっかけに内乱が頻発しました。これを誤魔化し、抑えつつ5月になれば、世界最強のバルチック艦隊が極東に着く。戦局が打開できて、国内も抑え込めるとロシアは踏んでいたのでした。

奇しくも5月27日。連合艦隊とバルチック艦隊による、日本海開戦となる訳ですが、当日午前10時のホロスコープと、東郷のネイタルを重ねてみました。



進行中のホロスコープのみAscとMCを加え、☽も固定です。
平八郎のN☀・☿とTAsc対角。N♂とT♂も対。♏♂はRですが、これはかなりエネルギッシュ。☀同士の調和。♃と♂。♃と☽の調和等、成功が読めそうな組み合わせ。
N♆♄とT♄の合、そこにT☽も関わり、思った通りに進まない。九死に一生な感も漂います。

N☽とTMC。MCにはT♀とN♇合。N♀は対岸にある♊の♇と対。これらが生きるための支えになっているとも見えますし、♓のT♄が一つの時代を溶かして終わらせ、残した骨組みから、新時代に入っていくことも考えられました。

未明から早朝にかけて、既に偵察活動が始まっていましたが、ウラジオストックを目指して進むバルチック艦隊と、対馬海峡で待ち構えていた連合艦隊が実際戦ったのは、10時台。戦闘は30分程度です。
「晴朗なれど、波高し」のおかげで、秋山の考えた機雷は水雷艇が使えず、仕掛けることができないまま。そして連合艦隊は、目算を誤り、敵艦隊の正面に出てしまったのでした。

西に進路を取れば、敵艦隊の総攻撃から逃げることは可能。しかし、平八郎はあえて東に艦隊の進路を取り、バルチック艦隊総攻撃の形を取ったのです。
 これが世に言う東郷ターンというやつですが、まさに命がけの戦いでした。
敵に向けて容赦なく攻撃した連合艦隊は、水雷艇3艘沈められただけで、世界最強のバルチック艦隊を、対馬海峡で壊滅させました。
相手は大国ロシアのバルチック艦隊。誰もが想像しなかった、海戦史上まれにみる大勝利を、日本海軍は果たしたのです。世界を脅すために動かした船を失い、国内紛争が強まるロシアは、和平交渉に臨むしかなく、日露戦争を終わらせる路が開きました。
勝利の立役者が、旗艦三笠に乗り、連合艦隊を率いた東郷平八郎の名は、世界に轟きます。

ロシアの圧政に苦しむ小国は、有色人種の小国が、勝ったことを喜びました。オスマン帝国では、子どもが生まれると「トーゴ―」と名付けることもあったそうです。欧州列強もロシアの弱体化はありがたい話だし、同盟国であるイギリスは、彼を「東洋のネルソン」と称賛しました。
 戦いに勝った後の敵軍の負傷兵の救出と看護、特に捕虜となった司令官のロジェストヴェンスキーを見舞った事も、平八郎が評価された要因になりますが、これは彼がまだ若い三等砲術士官の頃、函館戦争で榎本武揚が見せた、武士道が基になっています。
何より連合艦隊が解散した時の訓示。

「勝って兜の緒を締めよ」

名台詞にもなっているこの訓示は、勝って嬉しいけど、手放しには喜べない現実。これがわかっていたからこそ、慢心する事なかれと、若い兵士を諭したのもあったと思います。
日露戦争は最初から過酷な戦いでした。戦争を避けるため、和平を模索していた伊藤博文は「この戦に勝ち目はない。国の命運をかけて戦うのみで、勝利を考えてはいけない。尽くすだけ尽くすのみ。もしロシアが九州に上陸することがあるのなら、自分も一兵卒として戦場に赴く覚悟だ」といい、陸軍で指揮を執った児玉源太郎も、「現地からの戦況報告の半分は、敗戦の報告と覚悟しておけ」でした。

海軍を鍛え上げ、平八郎を連合艦隊司令長官に任命した山本権兵衛も「艦隊の半分は沈める覚悟」だったのです。戦力30万、そのうち88490名の戦没者(詳細は除きます)。
二百三高地等、映画のタイトルにもなっていますが、悲惨な戦闘を陸軍を率いた乃木大将は、最愛の息子を二人、この戦いで失っています。

勝ち戦だけど、これ以上戦争を継続することが出来ない日本は、交渉の難航、悪化から再び戦になる事を避けるため、ロシアに賠償を求めることができず、9月5日のポーツマツ条約締結がなされました。(同日、補償の取れないことに激怒した民衆が、日比谷焼き討ちデモを起こしています)

連合艦隊解散後、平八郎は、海軍軍司令部長に就任となります。海軍全体の作戦や指揮を統括して、1909年(明治42年)まで在任。1906年(明治39年)には、日露戦争の功績で大勲位菊花賞と金鵄勲章のW授与。翌年には伯爵を授爵。1911年(明治44年)乃木大将と共に、英国ジョージ5世戴冠式に出席する東伏見依仁親王の随行をしています。

明治天皇が崩御された後、日本は大正時代を迎え、世界は第一次世界大戦に染まっていきました。そんな1913年(大正2年)元帥府に叙せられ、元帥の称号を持つ東郷平八郎大将となり、元帥会議に出席できる立場を得ます。御学問所で裕仁内親王(昭和天皇)の教育係に任命されると、内親王殿下の教育に専念したため、御学問所が廃止されるまで、元帥会議は欠席し続けました。

♄年齢域は、運勢的に削るものと与えるもの真骨頂という感じです。
●英雄故に‥‥
●♅年齢域 70~84歳 1918年~1932年(大正7年~昭和7年)

元帥会議に顔を出しはじめた1921年(大正10年)。平八郎は、提督たちにワシントン海軍軍縮会議の事で、お伺いを立てられました。
時代的には第一次世界大戦がもたらした傷が深く、軍縮ムードが漂っていたため、海軍軍縮会で、米英と日本の主力艦の割合も10:6と、削減が求められます。抱艦隊主義の提督や将官は、この決定に強い不満を抱き、軍縮会議へのお伺いを立てました。海軍の中では、重要案件を決める際、元帥にお伺いを立てるのが、「しきたり」となっていたのです。

「石炭弾薬などを惜しまず、緊張充実した演習をなさしむ事」「軍縮で主力艦が削減されるなら、飛行機・航空機を作ればいい」と、平八郎は返事を述べますが、不服な彼ら。
諭すつもりで、さらに「訓練に比率も制限もないでしょう」と、言ったのですが、海軍上層部の艦隊主義派は、発言のすべてを伝播させず「緊張充実した演習をなさしむ事」を切り取り、若い兵士は猛特訓にさらされたのでした。発言の一部を利用されたのです。

1926年(大正15年)には、大勲位菊花章頸飾を授与。同年日本人初、TIMEの11月8日号で表紙を飾りました。これらの華やかさの上で、1929年(昭和4年)3月。最古参の元帥となったことから、平八郎の存在力&影響力の強さが、海軍の中でさらに増したのです。
現場主義の実践軍人の平八郎は、基本軍縮には抵抗感もあり、手段として船がダメなら飛行機造れ!となったのでした。元々機械好きな一面もあり、ほんの一時ですが、鉄道技師にも興味を持った彼です。空軍への関心があっても不思議はありません。

艦隊派の提督たちは、巧みに平八郎を利用して、1930年(昭和5年)ロンドン軍縮会議では「絶対に7割にすること・協定がまとまらない場合は、条約の破棄をするように」と、ワシントン会議の時とは違う強固な言葉を引き出したのでした。
この時全権を担っていた若槻礼次郎は、頑張って7割の手前、6.975まで、保有数を上げる交渉をし、調印に至るのですが、軍令部は不満を抱きます。

「ここまでやってくれたからいいじゃないという、条約賛成派(=海軍省派)」「どこまでも7割にこだわる軍令部の艦隊派」に、海軍は二分別してしまったのでした。

世界情勢や、関東大震災後の日本の財政を考慮することが、平八郎にできなかったのが、痛いと事です。条約賛成派は、やがて大角人事で予備役に回されますが、平八郎の死後なので、直接関わっていたかは定かではありません。しかし、立場的に影響力を持つ分、軍部と政治に携わる複雑な影、予想外な展開になるのは、ある意味♅年齢域らしいと言えなくないですが、晩年期の東郷平八郎の評価を残念にしていいて残念です。

神格化されたとはいえ、人間ですから、死期は訪れるもの。1934年5月30日東郷平八郎は、 86歳でこの世を去りました。死去する前日侯爵となりますが、天皇陛下の使者が伝えに来たこと等も、尊敬されている証だったのでしょう。
「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」小学生が書いたメッセージが、有名ですが、当時の人たちにとって、彼は本当に英雄として教えられていました。6月5日には国葬が執り行われ、各国の要人、そして横浜港には各国の儀礼艦が集まりました。同盟国だった英国は、30年以上前の日露戦争の時の彼の功績を忘れず、「東洋のネルソン提督死す」と哀悼しました。

1940年(昭和15年)渋谷区に。1971年(昭和46年)福岡県福津市に、東郷神社が創建されます。神社の建立は、彼の生前から持ち上がった話で、陸軍が乃木神社を建てたことへの対抗意識もあって、造られた経緯があります。本人は「絶対やめてくれ」と言っていましたが、特に今渋谷(原宿)の東郷神社は、多くの人の憩いの場、結婚式場にもなっています。

大東亜戦争後、どうしても軍人の評価が辛めの日本ですが、功績や時代背景を学んで、きちんとした評価を下せるといいなぁと思います。


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▲日露戦争当時の三笠


▲三笠の艦橋から見た景色。