日露戦争を勝つために、20年来の友ではなく、東郷平八郎を起用した私情を挟まぬ面もありますが、この時代には、ありえないほどの超愛妻家でもありました。
今回は総理大臣編&シナストーリーを含めた、星読み人物話です。

まずは、山本権兵衛本人のホロスコープを観てみましょう。

1852年11月26日(12時設定)現在の鹿児島市加治屋町生まれ



☀星座 ♐ 4°40
☽星座 ♉ 26°55 (ふり幅♉20°~♊2°)

北半球、第4室(家庭の部屋)に♆があるものの、シーソータイプのホロスコープとみていいかと思います。星が集中しているハウスは、特にその人の思考パターンや行動と、関わると言われていますが、山本権兵衛は、第1室本人の部屋♐に、☀♃☿♂。
第6室健康勤務の部屋♉に、♇♅♄、さらには☽が入っています。なので、第1室と、第6室は人生に影響のあるハウスとなります。

束縛嫌いで自由人。物事の捉え方に柔軟性と、多角性を持つ傾向が伺えます。
☀は♃と合。♃は年運だけでなく、♐の守護星。日頃から明朗快活ですが、目的意識がハッキリした時の自己主張を、より引き立てる効果があるでしょう。
 同じく第1室には、♂と☿があり、第7室のほぼ終わりにある☊と対。闘争心も人一倍で、激しい戦いを好む傾向はありますが、弁も立ち、人に動かされるより、動かす側に立ちやすいでしょう。掴んだ情報を活用する感覚もあるので、知的戦略も組める面が出てくると、対人関係では、情より理を選ぶこともありがち。

その第6室(健康勤務の部屋)♇・♅・♄。すべてRであるのも特徴。♅と♄は合。責任感強く、仕事の仕方は合理的だが、融通が利かないため、もめ事を越しやすく、上に立つと思わぬ責任を取らされることも起こりそう。
人生のブレーキ役であり、もう一つの年運の星♄と、革命と革新の♅とのコンビは、第1室の☀♃と共に、第4室♓♆を支えているようにも見えます。ここに山本権兵衛が、日本海軍の父となる運命の秘密が隠れているのかもしれません。ともすれば、敬遠されがちの♆ですが、海を統べる・インスピレーションも守備する星ですので。

彼を描く上で外せないのが、奥様となった登喜子さんとのラブストーリー。第11室(友人希望の部屋)にある♎の♀と、第6室健康勤務の部屋)♉の♇が、一途な恋愛を物語っているかどうかは、先の本編を観ていただきたいところですが、ロマンチストというか、思ったら行動、思った瞬間に行動、納得がいかない時は実力行使。な傾向に色を添えているとみて、いいかと思います。

さらに♉には☽があります。誕生時間不明なので、±6°のふり幅がありますが、☀と♃コンビと対角。彼が満月生まれであることはわかります。
♐の自由さに♉ならではの地道な感覚をまとった彼が、果たしてどんな人生を歩んだか。年表とエピソードご覧下さい。

山本権兵衛年表(ウィキ含む複数の資料参照)

1852年11月26日(嘉永5年10月15日)薩摩国鹿児島城下加治屋町に住まう。薩摩藩士山本五百助盛珉の六男として生まれる。
1867年(慶応3年)15歳で薩英戦争従軍
1868年(慶応4年・明治元年)16歳で戊辰戦争従軍
1869年(明治2年)西郷隆盛の紹介で勝海舟の元を訪れ海軍の道を目指す。
1874年(明治7年)西郷を慕い鹿児島に帰省するが、説得を受け兵学寮に戻る。
1876年(明治9年)ドイツ海軍「ヴィネタ号」10ヶ月の遠洋航海留学。
1877年(明治10年)航海中に、西南戦争を知る。帰国後結婚。
1887年(明治20年)海軍次官樺山資紀の欧米視察に随行。
1889年(明治22年)海軍大佐就任。巡洋艦「高千穂」等の艦長を歴任。
1891年(明治24年)西郷従道の推薦にて海軍大臣官房主事に就任。
1894年(明治27年)海軍副大臣として日清戦争参戦。
1898年(明治31年)第二次山縣内閣の海軍大臣に就任。
1902年(明治35年)日英同盟締結。男爵に叙せられる。
1904年~1905年(明治37年~明治38年)日露戦争 海軍大将に昇進。
1906年(明治39年)海軍大臣を辞任
1907年(明治40年)伯爵に陛爵
1913年(大正2年)元老大山巌の支持で組閣の大命が降り、第一次山本内閣誕生。
1914年(大正3年)ドイツの造船会社から海軍交換への賄賂が発覚し、総辞職。
1923年(大正12年)加藤友三郎首相急死を受けて、第二次山本内閣発足。
1924年(大正13年)裕仁親王(昭和天皇)暗殺未遂事件(虎の門事件)の責任を取り、内閣総辞職。
1933年(昭和8年)12月9日 前立腺肥大症を患い自宅で死去(享年82歳)

元気盛りな☽年齢域(0~7歳)1852年~1859年(嘉永5年~安政5年)

権兵衛は、薩摩藩城下加治屋町に住む薩摩藩士山本五百助盛珉の六男として、生まれました。幼名も権兵衛。諱は盛武。(本編はフルネームもしくは権兵衛で表記)

父の仕事は右筆及び槍術師範。兄弟数も多い分、競争心と観察力は磨かれたと思います。やんちゃで、元気者の権兵衛。体格の良さもありましたが、とにかくケンカに強かった。
男の子同士が取っ組み合ってケンカしている最中に、「権兵衛が来たぞ!」の声を聞くと、殴られる前に全員が逃げ出したという逸話があります。

権兵衛の生まれた加治屋町という地域は、西郷隆盛や大久保利通をはじめ、東郷平八郎も出身地。☽年齢期が終わる頃から、薩摩藩の下級武士の子たちが通う郷十に通いますが、暴れん坊で通ったようです。(薩摩藩独自の、文武両道青少年教育システムで、上級生が下級生の面倒を看るもの)

薩英戦争に従軍した☿年齢域(7~15歳)1859年~1867年(安政5年~慶応3年)

周りが手に余る権兵衛でも「怖い」と思った人が、静かに表情も変えず、理詰めで対応する大久保利通。日に日に状況が変わる幕末の時期、西郷や大久保といった先輩の影響を受けながら、少年期を過ごした一人でした。

1867年(慶応3年)生麦事件が発端の末起きた薩英戦争に、兄と共に年齢偽って参戦。怖いものがわからない年齢ともいえますが、砲弾の飛び交う中、弾運びを手伝ったそうです。

西郷の勧めで海軍の扉を開く♀年齢域(15~25歳)1867~1877年(慶応3年~明治10年)

♀年齢域に入った翌年。戊辰戦争が起きます。各藩兵士募集はしましたが、基本18歳以上。しかし、ここも権兵衛。年をごまかして従軍。
「戦で負傷するなら、弾に当たるより刀傷がいい」そう兄と言いながら、歴史の転換といえるこの戦を、潜り抜けました。薩英戦争に続けて、戊辰戦争を経験した権兵衛の胆力は、かなり鍛えられたと思います。

戦火が落ち着く1869年(明治2年)。身の振り方に迷った権兵衛は、西郷隆盛を訪ねました。将来に悩み、自分の元を訪れた後輩のために西郷は、「日本のために海軍の軍人になれよ」と、一通の紹介状をしたためます。その紹介状を手に、17歳の権兵衛が向かった先は、勝海舟の自宅でした。

「本当にやるの? メッチャ厳しいよ。続かないからやめたら?」

江戸弁でさらりと言って、門前払いを決め込んだ勝海舟ですが、その後、権兵衛は何日も勝の自宅に通い込みました。
そのしつこいに、勝が根負けして、開成所に入所。(文久3年に開設された幕府の洋学教育研究機関)さらに海軍操練所から海軍兵学寮進むのですが、実戦を全く経験していない講師に、兵法を教わることにガッカリします。

少年時代に実際の戦を経験した権兵衛は、同じように戊辰戦争をかいくぐった学生たちと共に、机上だけの抗議をする講師に対して、授業中詰問攻めの後、暴れて学級崩壊を起しました。

♐の☀が奔放さに役買っていると思いますが、♂と対の☊が、火と風の旋風を起こし、♉に固まるプライドの♇と♅♄も、未成熟な精神だと制御が効かず、回りを巻き込んでの、問題行動を起こす糧になったようにもみえます。そのまま辞めさせられる所ですが、当時の海軍は、陸軍参謀本部に属している状況でした。

優秀な人材は、陸軍を目指して入隊するため、欠員もあり、一人も漏らせないという事情もあったのです。教授たちが頭を抱えるほど、暴れん坊だった権兵衛も、
ようやく卒業を目の前にした1874年(明治7年)。
明治6年の政変で、明治政府を離れ、薩摩に帰った西郷を追って、鹿児島に帰省してしまったのです。

この当時は、西郷を慕った多くの若者、明治政府に不満のある者が、やっていることを放り出して、鹿児島へ向かっていました。
しかし西郷は、自分を慕って戻ってきた若者たちに、元居た場所に戻り、学問や技術を磨き国に対して尽くすことを諭します。そのまま残る道を選択した者もいましたが、権兵衛は海軍兵学寮に戻ることを決意。
海軍大輔・川村純義に詫びを入れて復学し、海軍兵学校を卒業したのでした。

1876年(明治9年)海軍少尉に任官した権兵衛、ドイツ留学が命じられます。
留学といっても、机上学習ではなく、約10ヶ月のドイツ戦艦「ヴィネタ号」に乗船し、海軍の実地研修を受ける演習航海でした。
♀年齢域は、目的がしっかりした学びや、進路にも大きく関わる変動の時期です
が、人生が動く時だからこそ、運命の出会いもあるのです。

権兵衛にとって運命の出会いは、海兵仲間とひいきにしていた品川の女郎屋。意中の女性は、店に売られてきたばかりの娘トキでした。(当時17歳。本編は登喜子で統一)
あか抜けない越後生まれの登喜子が気に入った権兵衛は、彼女が新潟の貧しい農村の家に生まれたこと。父親が病気になり、借金の形に売られてきた等、身の上を知ると、なんとか、ここから出して生涯の伴侶としたいと思います。

身請け金を払う事で済ませる話でが、ここで権兵衛、仲間に相談したのは、金の工面ではなく、登喜子を店から強奪する事でした。
「何、バカなことを」とか、「頭冷やせ」「嫁ならもっといい家の女にしろ」と、
思わず止めた仲間もいたと思います。が、それでも薄幸の少女を思い、一途に説得をする権兵衛の真剣さに、みんな手伝う事になり、女郎屋の二階から、登喜子を密かに降ろし、知り合いの下宿に匿うことに協力したのでした。

この騒ぎは何?という話ですが、後日、権兵衛は女郎屋に身請け金を払い、10ヶ月の演習航海に出ています。環境が一変した登喜子も結構大変で、兵衛が帰還するまでの間に、海軍士官の妻としての教養を身に着けることになるのです。

恋と船と世界をまわる☀年齢域(25~35歳)1877~1887年(明治10~明治20年)

♀年齢域から☀年齢域と交差する1877年(明治10年)は、「ヴィネタ号」で世界の海を回りながら、航行士や砲術士といった基礎を学ぶ年となりました。
艦長のグラフ・モンツは、日本の留学生たちを歓迎し、軍事技術のみならず、政治・経済・哲学・法律等も教えてゆきます。

「ヴィネタ号」がケープタウンに港寄した時、西南戦争が起きたこと。西郷の死を、英字新聞で知り、相当なショックを受ける権兵衛ですが、激情のまま暴れることはせず、留学の目的地であるドイツを目指しました。
10ヶ月にわたる航海の間で、服装、礼儀、西洋式の生活態度に至るまで、高い教養を身に着けているモンツから、指導してもらった権兵衛ですが、それだけではなく、元々宿す方向性。自己を律して目的を追行する性質を開花させたのです。

日本に帰国した権兵衛は、海軍少尉任官に任官。同年12月。
薩摩閥は士族ではない平民の娘との結婚は異例で、いろいろと言われる中、権兵衛は構いなく登喜子と結婚します。(登喜子への改名は、婚姻の時)

山本登喜子1860年6月6日新潟市生まれ



☀星座 ♊ 15°34
☽星座 ♑ 15°04
  
生年月日の記録があったので、登喜子のホロスコープ&二人のシナストーリーを観ることができました。柔軟宮の☀を持つ二人。
タイミングが合わなければ、彼が登喜子を観て一目ぼれもなかったわけですが、♊の☀を持つ登喜子。権兵衛の♂に登喜子の☀。権兵衛の☀♃に登喜子の♅は、ハプニングと千載一遇の出会いとなる可能性を秘めています。

権兵衛の☀♃は、登喜子の♀と調和しているので、遊びの恋愛よりも結婚を考えた可能性は高いと読んでよいでしょう。どちらも牡牛座に♇があり、権兵衛は♅と♄も登喜子の♇にガッチリと重なっているため、年の差カップルを含め、互いの先祖の中に、縁があって引き寄せた出会いかもしれません。

♊の☀を第1室としてみたら、♌の♄は第3室。登喜子が幼い頃から苦労が絶えない環境にいたこと伺えます。この時代、貧困にあえぐ北陸や東北の農村・漁村から、身売りは多々ありましたが、彼女を薄幸にしておかなかったのは、第2室の♋♃♀と第8室(授受の部屋)♑の☽と♂。さらに♒にある☊も重なる対かもしれません

・礼儀を重んじて質素を旨とすることを目的とすべき事。
・夫婦睦まじく、生涯互いに仲良くいる事。
・夫婦としての義務を破るのでなければ、いかなる場合も離縁は許さず。
・家事の整頓は妻の仕事。
・家に属することのすべては、妻の責任(自由)に任せる。
・家財は以妻子を養育する余沢なれば妻の外他より口を入るを許さず。
・一夫一婦は国法の定むる処なれば 誓て之に背ざる事。

これは結婚の際、権兵衛が登喜子に立てた誓いです。
今の時代感覚からすれば、ありえないと思う方もいると思いますが、彼はこれを妻だけに守らせてはいません。自身も終生守りました。廓もあって、お妾さんの一人二人当たり前の時代。エリートとなった権兵衛、お金にも困りませんが、深酒もタバコ癖もなく、女性は奥さん以外、見向きもしなかったのです。

結婚して数年後、海軍中尉に昇格した権兵衛は、妻を自分が乗る軍艦に招いたことがありました。やってきた登喜子を自分で艦内エスコート。一通り見学が終わると、妻を伴いボートに乗りこんで、桟橋に向かいます。ボートが桟橋に着くと、登喜子の草履を手に桟橋を先に渡った権兵衛。跪いてその草履を、彼女の前に揃えたのでした。

一部始終を見ていた兵学校生徒、将校たちは、彼の行動を冷笑しますが、権兵衛は一向に気にせず、「妻を敬うことは、一家に平和と秩序をもたらすことである」と、さらり返したのです。 グラフ・モンツから学んだ教育の中には、女性への敬意や、レディーファーストも含まれていたのでした。

妻にはとても優しいが、仕事場では歯に衣着せぬ権兵衛。勝海舟の後を引き継いて海軍卿となった榎本武揚と意見が合わず、大げんかになり、非職になることもありますが、☀年齢域は、順調に海軍士官としての経験を積んでゆきます。
因みに明治政府は、陸軍フランス式。海軍イギリス式を採用していました。しかし、普仏戦争以降、陸軍はドイツ式に移行しています。これにはドイツ軍参謀少佐を招いてから本格化するので、1887年(明治20年)以降とみていいと思います。

日清戦争後、未来を見据える♂年齢域(35~45歳)1887年~1897(明治20年~明治30年)

その1887年(明治20年)。権兵衛にとっては、☀年齢域から、♂年齢期に変わる年でした。木造戦艦「天城」の艦長から、海軍大臣伝令史となり、海軍次官樺山資紀の欧米視察に随行します。この視察で各国の戦艦、艦隊戦をはじめ海軍制度を学び、新たな時代の海軍を肌で感じています。
1年後に帰国すると大佐に昇進すると、国産初巡洋艦「高尾」の艦長、二等巡洋艦「高千穂」の艦長を歴任しました。

火星年齢期に磨きが掛かる1891年(明治24年)。海軍大臣西郷従道から、海軍省大臣官房主事に任命されます。西郷従道は、西郷隆盛の実弟です。隆盛を慕っていた薩摩閥からすると、兄と同じ道を行かなかった従道とは、西南戦争以降、とても微妙な関係になっていて、話しかけづらい雰囲気もあったのです。

「何故、兄に賛同しなかったのか」
思ったことは、ストレートに言う権兵衛。ドイツ留学から帰国して間もない頃、自分が納得しないのと、薩摩閥と従道の間に流れる空気がイヤで、彼に詰問しています。
「兄弟揃って帝に背いてはいけない、他の者への影響が大きすぎる」
そう心配した兄も気持ちを思い、また自分には自分の仕事と考えがあって、兄に従わなかった事と、率直に答えた従道。かつて権兵衛も、海軍兵学校を飛び出して、故郷で西郷に諭された身です。なにか通じるものがあったのでしょう。
以来、二人の間に親近感と信頼が生まれたのでした。

日清戦争が目前となった1893年(明治26年)。軍大臣副官に昇格した権兵衛は、陸軍首脳陣に「海軍権」という新しい概念をレクチャーし、陸軍参謀本部に含まれていた海軍司令部を正式に独立させました。ようやく日本海軍司令部を単独設置となったのです。
これによって陸主海従だった関係が、陸軍と海軍同列となり、「戦時大本営条例」の制定もあって、1894年(明治27年)日清戦争の勝因にも繋がりました。

勝ったはずの日本ですが、三国間干渉によって、遼東半島の一部(旅順・大連)を領有することを断念。負けた清では、各国の侵攻が活発化し、日本が諦めた旅順・大連にすかさずロシアが入り、軍事基地を整え始めます。
この経緯を観て、明治政府はロシアの南侵を警戒し、兵衛は、日本海軍を近代的で強い軍隊にするためのプランを作成、実行に移しました。

「こんなに削って大丈夫?」

西郷従道も心配したのは無理もなく、海軍改造計画には、権兵衛とも親しい者や、薩摩藩出身の者も多数含まれた局長、部長クラスを含む、100名近くのリストラが含まれていたのです。
維新の功績で今の地位にいる者だけは、日露戦争の勝機はなく、この人事は私情を挟まず、個々の能力を観ての判断であること。緊急の場合には、予備役を入れるという説明に、西郷は首を縦に振りました。

前代未聞の人事に、海軍内に大反発が起きます。新聞各社も『権兵衛大臣の独断専行』なる見出しで騒ぎ立て、山縣有朋をはじめ、伊藤博文も引きつった顔を見せる中、「なにかあったら、自分が一切の責任を取る」と、太っ腹な態度を示す海軍大臣西郷従道。こうして大リストラは、断行されたのでした。

カレーに肉じゃが。すべては勝てる海軍目指した日露戦争♃年齢域(45~55歳)1897年~1907年 (明治30年~明治40年)

第二次山縣内閣の海軍大臣に就任した権兵衛。これは♃年齢域に入って間なしの1898年(明治31年)でした。2年後の1900年(明治33年)清が戦布告をします。
これは侵攻する外国への抵抗勢力である義和団を、西太后が支持したことから起きたことですが、日本とロシアを含む8か国が、共同で清に出兵しました。結果、清は北京議定書を受け入れることになり、さらなる半植民地化が進むことになったのです。

多くの国が軍隊を撤退させる中、ロシアは部隊を増強し、これを満州に留めました。
満州の南には大韓民国があり、ここを押さえられたら、日本への侵攻は容易になるのです。帝国ロシアと日本の国力差は7倍と言われていました。
日清戦争の戦勝ムードや、三国間干渉の恨みはあっても、明らかに国力差のある国を相手に、勝てる見込みは薄く、可能な限り政治交渉で戦になるのを避けつつ、迎えたのが日露戦争なのです。

負ければ日本はロシアの植民地。ロシアは日本を取れば、植民地と太平洋に出る拠点を作れるため、そう簡単にはあきらめません。国力差のありすぎる相手とわかっているからこそ、権兵衛はこう言っていたのです。
「ロシア軍艦を全滅させるためには、日本の軍艦も半分は沈める覚悟だ」と。
簡単に勝てる相手ではないこと。軍に多くの犠牲が出すのを覚悟の上で、リ勝つための準備を多角的に始めたのでした。

有能な若い士官を、英米、ロシアに留学させる他、能力のある者が、どんどん上に上がれるように制度も変えて、やる気を出させます。当時、軍隊の悩みの一つに、脚気がありました。これは栄養不足が原因で、日本全国的な問題でもあったのです。
これを改善するために、食事を根底から見直しました。カレーライスや肉じゃが。パン食も取り入れたメニューの効果は抜群で、軍人たちの健康改善が進んだのです。

海軍条項の早期同意などを進め、日英同盟を積極的に支持しました。これが外交協力に
繋がり、小村寿太郎と共に男爵に叙せられています。勝てる準備が整うまでの間、政界では「戦争反対」を唱えつつ、その一方で、船の造船や装備に補修。補給体制を整えるため、国内の製鉄所や造船所を整備しました。
戦艦の燃料は石炭ですが、カロリーが高く、より煙の出が少ない英国産の石炭に決め、これを輸入。備蓄してゆきます。国産の新型戦艦建造を進める傍ら、英国やアメリカからも戦艦の購入も積極的に行いました。しかし、資金繰りは厳しく深刻でした。

「それは買わねばなりません。議会で追及されたら、二人で二重橋の前で腹を切りましょう。それでその戦艦が手に入れば、安いものです」
かなり強引というか、無茶苦茶な話ですが、相談された西郷従道は、違憲を承知で、予算流用することを決めてしまいます。こうして二人の男が命がけで、英国から購入したのが、敷島型戦艦の四番艦「三笠」でした。
しかし、西郷従道は1902年(明治35年)7月18日に他界。そのため三笠の姿、勝利を実際見る事はなかったのです。
 
西郷従道亡き後、海軍のトップとなった権兵衛は、海軍司令部を独立させただけでなく、陸軍と同等に予算をつけることも可能にしました。これまでと真逆に「開戦賛成」を口にし、連合艦隊司令官に、東郷平八郎を任命します。
連合艦隊司令官は、権兵衛と20年来の友だった日高壮之丞と、当の日高と周囲は信じ切っていました。片や指名された東郷は、舞鶴鎮守府長官を務めていましたが、病弱なこともあり、予備役寸前な立場だったのです。

独断専行と批判を浴びる中、海軍大臣として、この人事を断行してゆく権兵衛。
何故、彼を起用するのかと、尋ねた明治天皇への答え「東郷は運の良い男でありますので」という逸話は有名ですね。(もちろん、これ以外にありますが、それは東郷の時に)
東郷平八郎と権兵衛は、揃って海軍大将に昇進しています。

陸軍と海軍は、日本を守る対等な位置関係であるべき。これ理想としていた権兵衛を、よく理解していたのか、陸軍を押さえていた大山巌は、島国の陸軍である以上、「まずは海軍がよろしいと言うまで、陸軍を大陸に送る作戦は行わない」と、後々まで発言したという逸話がありますが、戦時中、大陸へ渡る陸軍を守る海上権を重視します。
ウラジオストック艦隊との闘い。陸軍との共同作戦で、旅順のロシア太平洋艦隊を壊滅させることで、船舶の安全な航行を図るよう海軍を動かしてゆきました。

1905年(明治38年)5月27日。日本海の対馬沖で、帝国ロシアが誇るバルチック艦隊を相手に、東郷平八郎が率いた連合艦隊は、激戦の多大なる犠牲を払う大激戦を勝ちます。
開国から40年弱の小国日本が、帝国ロシアとの闘いに勝った日露戦争。
驚きと称賛が世界から沸き起こります。特にロシアの圧政に苦しんでいた国々は、この勝利をわがことのように喜び、司令官の東郷を「東洋のネルソン」と称賛したのです。

日本軍が強かった。運が良かった。と言えば、それまでですが、バルチック艦隊の遠洋航海と、英国の協力も勝因に含まれます。
スエズ運河を航行する増強部隊と、希望峰周りの航路を取った部隊との合流後、インド洋を東に向かうはずのバルチック艦隊。このランデブーのタイミングが、合わなくてもたつきました。さらに日本海を目指すまでの間、インド洋を越える長い航海となるため、彼らは補給や修理に休息等を、主だった港で取る必要がありました。

世界の主要だった港は、英国の支配を強く受けていました。ここで日英同盟が機能し、バルチック艦隊の補給や、彼らの体力を削ぐのに成功したのです。かなり大変なやりくりをして、戦艦や石炭を英国から買った事も、ここに繋がります。
 アメリカは日露両国の仲裁国となりましたが、予め船を買い上げていることも、仲裁役を頼みやすい要素になったのでした。
日露戦争といえば、乃木大将に東郷平八郎。秋山といった軍人の功績も多大ですが、内閣を押さえた桂太郎。戦争を切り抜けるための資金確保のため、欧州に飛んだ高橋是清。
国際関係も視野に入れて、勝つために練り上げた、山本権兵衛の戦略と手腕も、勝敗の下地になっていたとみて良いと思います。

1904年(明治37年)2月10日~1905年(明治38年)9月が、日露戦争の期間ですが、始まる前を合わせて約8年。実質的に海軍のトップとなった権兵衛の運勢はどうかというと、♃年齢域のほとんどの期間を、日露戦争に費やしています。

♃年齢域に入ると♄が♐を航行。♅も♐入り。彼は♐に星が集中していますから、☀♃♂☿が、♄と♅の刺激をもろ受けます。しかも♅、1904年(明治37年)2月♐の後半に位置します。日露戦争を迎えるまで、彼が行う様々事の背中を押したのかもしれません。そしてこの時の権兵衛、星回りはどうかというと、N☀は♊にあり、♐の☀♃と対。

T☿と♃が♉でNの♄♅♇と合。N♆に、T♄と☽が掛かっているのも、海戦という意味では興味深いです。勝ち戦の時、主だった責任者の星回りは勝ちの形が多いですが、明治天皇・総理だった桂太郎。そして山本権兵衛もまた、勝ち筋を持っていたと思います。

戦闘が終わると、直ちに負けたロシア兵士の救出。敵主力艦に乗っていた船長への手厚い介護もしっかりと行ったことも、日本海軍の評価につながりました。
1906年(明治39年)1月。斎藤実に後は任せて、海軍大臣を辞任した権兵衛は、♃年齢域の締めくくりのように、1907年(明治40年)伯爵に陛爵されます。

第一次山本内閣♄年齢域(55~70歳)1907年~1922年(明治40年~大正11年)

辞任したものの、山本権兵衛が海軍の重鎮であることは変わりありません。陸軍の首脳陣との繋がりも深く、彼の陽気な性格もあると思いますが、藩閥に属しつつも、政党政治や国会も寛容。これは伊藤博文の立憲政友会にも理解を示します。
ついに薩摩閥の元老大山巌が指示し、西園寺公望の後釜として、権兵衛に組閣の大命が降りました。第2次松方内閣から、15年ぶりの薩摩閥の総理誕生ですが、政友会を与党として、1913年(大正2年)2月20日山本内閣は発足します。

因みにこの時、権兵衛のN♆にT☀合。N☀♃にT♅がセクスタイル。T☀がスクエア。
T♄がオポジション。♄は牡牛座の終わりを航行していました。大正デモクラシーが活気づき、♊に入った途端、情勢が様変わり…という事もありますが、政権では陸軍大臣が決まらないと組閣が出来ない。この軍部大臣現役武官制を改正し、軍部の横暴を抑止しました。その後ドイツで発生したシーメンス事件が、検察の調査から海軍高官への贈賄疑惑が起こり、1914年(大正3年)4月16日。一年二ヶ月で終わりました。

続いて第二次大隈内閣が発足しますが、海軍大臣に就任した八代六郎は、権兵衛と斎藤を予備役に編入します。この人事に猛反対をしたのが、東郷平八郎と井上良馨の両元帥。 
予備役になったら、元帥への昇格の道が閉ざされるからです。しかし、重鎮の人事介入が、変な悪例として残るのは良くないと、権兵衛は予備役へ移りました。

このため山本権兵衛、元帥にはなっていないのです。そして第一世界大戦(1914年7月28日から1918年11月11日)に関して、まったく口を挟んでいません。
もし彼が元帥として、海軍を率いていたら、陸軍と海軍の不要ないがみ合いも、避けられた可能性はあったと思います。

愛する妻と共にいる時間を選んだ♅年齢域(70~84歳)1922年~1933年(大正11年~昭和8年)

世の中の表に権兵衛が出てきたのは、約9年後。70歳を過ぎてからになります。
1923年(大正12年)9月1日は、東京だけでなく、広範囲にわたり、甚大な被害に見舞われた関東大震災が起きた日ですが、その翌日9月2日。時の首相加藤友三郎が急死したことから、西園寺公望の推薦を受けて、第二次山本内閣の大命が降りたのでした。
この時、加藤内閣から引き継いだ海軍大臣は、娘婿の財部彪です。

壊滅状態の帝都を復興させるため、帝都復興院を組織。総裁には内務大臣の後藤新平を起用し、幹部を彼の腹心やブレーンで固めます。内務省や鉄道省からも、優秀な人材を集め、都市計画・土木建築にも力を入れました。
その他に普通選挙の実現を進めていきます。しかし、同年12月27日。
共産主義者の難波大助による摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)狙撃未遂事件が発生。場所が東京市麹町区虎ノ門外だったことから、虎の門事件とも呼ばれますが、1924年(大正14年)1月7日。第二次山本内閣は、引責による総辞職となりました。

実績と経歴から、元老に選ばれておかしくない権兵衛。実際、西園寺が亡くなった後を考えて、元老の候補に挙がるものの、話が進むことはありませんでした。
当の西園寺と、山縣有朋の側近平田東助は、元老は西園寺公望をもって終わらせるという、強い意向があったのです。元老がダメでも、枢密院議長職があるさ!と、こちらも進められますが、権兵衛は断りました。

対外的に活躍するよりも、家族。とりわけ妻登喜子との時間を、大切にしたかったのかもしれません。日露戦争を勝ち戦に導いた後、総理にも就任した権兵衛ですが、その妻として登喜子が表に出てくることは、全くありませんでした。
彼女が出たいと言えば、権兵衛は快くOKしたと思いますが、それがない所を見ると、妻の気持ちを尊重し、無理強いをしなかったのでしょう。山本夫妻には5人の娘に長男の6人の子どもがいました。さきほどの財部彪は、長女いねと結婚しています。

1933年(昭和8年)3月30日。登喜子が亡くなる日のことです。
この頃は権兵衛も自力で歩ける体調ではありませんでした。そこで子どもたちに頼み、妻のいる二階の部屋へ連れ行ってもらいました。横になっている妻の手を取り、しみじみと語りかけ、「俺も後を追っていくから」と、登喜子を慰労して、一旦自室に戻った権兵衛。

夜、どうにも気になり、再び妻の部屋を訪れると、間もなく登喜子は息を引き取ったそうです。「霊柩車が出る時、自分が寝ている部屋から見えるようにしてくれ」と、頼む老いた父の願いを、子どもたちは速やかに受け入れました。
約8か月後の同年12月8日。日本海軍の父と呼ばれた山本権兵衛は、妻の登喜子を追うように、この世を去ったのです。享年81歳。