武士に憧れつつ、少年時代から明治天皇に使える高貴な生まれ育ち。型にはめられた生活は苦手な自由人です。明治初頭フランスに10年程留学し、学問・芸術・思想等、自由の洗礼を受けて帰国。伊藤博文の腹心となり、政界の道を進みました。
後に立憲政友会の総裁となり、桂園時代では桂太郎と交代で総理を担当。
個性あふれるその人生と星回りを観てみます。

まずはホロスコープ。

1849年12月7日(嘉永2年10月23日)出生時間不明 京都府京都市 誕生

太陽星座 ♐(14°57)
月星座  ♍(18°07)

柔軟宮の太陽と☽の持ち主です。☀は☿と第一室で同室。☽は第10室で♃で同室、これまで自分が見てきた限りで言うと、☽と♃ペアを持つ人は、比較的豊かな生活ができる家柄や、事業成功など金運は悪くない傾向あります。

ホロスコープに散らばる星々は、三つのコンジャンクションを軸に、だいたい3グループに分けることができるので、形としてはスプレータイプに近いとみました。

☀星座は♐。言語と技術の☿が同じく第1室にあります。この☀は、第10室♍の♃☽と、緊張角度をとっていますが、柔軟宮星座同士。緊張に耐えられないデメリットも潜みますが、順応性の高さに一役買う可能性あり。理のあることも言うので、比較的若いうちから、活躍の場を得られる可能性も秘めています。さらに☀は第5室♈の♅と、☿は同じく第5室の♄と調和。古典を尊重しつつ、斬新なモノへの好奇心も強く、個性的なアウトプットが可能。人生上、移動や引っ越しが多い方になるでしょう。(☿♄は移動)

没個性で安心するタイプではなく、束縛嫌いな自由人。己の感性に忠実で、周りが呑み込めない。二歩三歩先を行くので、周囲がついていけない一面も持っています。
我慢が苦手で、空きっぽさから、チャンスを止めてしまうことも有り。

恋愛も多岐になりそうで、下手をするとスキャンダルを起こしがち。♄はブレーキ効果があり、慎重さが武器になりますが、トップ志向で行動力のある♈を、バックにしているのと、第10室社会の部屋♍の♃とオポジション。

歯車がかみ合わないと修正に時間がかかるのと、短気で神経質な性質も秘めていて、これに関しては、奥様をはじめ身近で彼のフォローをする家族は、かなり難儀をした模様。
もう一つオポジションはあって、これが第4室♓の♆と第9室獅子座の☊。
アートや文学の世界を楽しむ感性の他、♆には海外との縁という意味もあり、☊との効果も相まって、異文化との多くの人と趣味や文化を共有。それを広めてゆくのには役立ちそう。実際、西園寺は総理時代、自宅に文豪たちを招待し、歓談の場を設けています。

人を引き付ける華やかさ。美食家な面も持ち合わせているので、今の時代なら京都で文化人の集うカフェ・バーのオーナーとか、サロン経営等も似合うかもしれません。
第4室は家族、家庭環境を観るという事もあるのか、親族関係はどこか移ろいやすく、身内の前では、感情の激しい部分を見せる一面にも、影響を与えているのかもしれません。
さらの♆は、第12室の♏♀と共に、水星座の音色を奏でています。

遊び心が文学だけでなく、恋愛模様に彩を与えているようですが、遊び心もわかる西園寺公望。実際かなりモテまして、若い頃から華々しい噂の堪えない人物ではありました。
奥様と言える人は、三人ほどいますが、どなたも入籍はしていないので、そこがまた他の人とは違う一面です。

☊は♅と♇という時代の星ともアスペクトを取るので、時代に影響されて生活を送るよりも、影響を与える側に立つことも表示。その分歴史的責任ものしかかったのでしょう。

西園寺公望年表(ウィキその他、資料参考)

1849年12月7日(嘉永2年10月23日)右大臣徳大寺家当主徳大寺公純と、妻の末弘斐子の次男として山城国京都(現京都市)に誕生。
1851年(嘉永4年)朝廷の官職西園寺師季の養子となる。同年7月、当主の死により家督を相続。
1860年(万延元年)11歳にして御所に出仕。祐宮親王(後の明治天皇)の側近となる。
1868年(明治元年)戊辰戦争に参加。越後戦で苦戦の後、新潟府知事に就任。
1869年(明治2年)東京に移り、政府の洋学機関の開成校へ通う。9月京都で私塾立命館を創設。
1870年(明治3年)12月フランス留学 翌年2月パリ到着。
1880年(明治13年)10月21日帰国。
1881年(明治14年)東洋自由新聞社社長に就任。
1882年(明治15年)伊藤博文の憲法調査に随行。翌年帰国。
1884年(明治17年)華族令公布 侯爵を授けられる。
1885年(明治18年)オーストリア駐在特命全権公使となる。
1891年(明治24年)欧州より帰国。
1893年(明治26年)貴族院副議長となる。
1894年(明治27年)日清戦争 朝鮮へ大使として派遣。第二次伊藤内閣で井上毅の代役で文相となる。
1898年(明治31年)第三次伊藤内閣 文部大臣就任。
1900年(明治33年)立憲政友会創立に関わる。
1901年(明治34年)第四次伊藤内閣で総理大臣臨時兼任。
1903年(明治36年)立憲政友会第二代総裁となる。
1904年(明治37年)日露戦争開始。上海・揚子江等へ渡航。年内帰国。
1906年1月7日(明治39年)第一次西園寺内閣スタート。
1907年(明治40年)駿河台私邸で雨声会を開催(文士の集い)
1908年7月14日(明治41年)第一次西園寺内閣解散(第二次桂内閣がスタート)
1911年8月30日(明治44年)第二次西園寺内閣スタート。
1912年12月21日(大正元年)第二次西園寺内閣解散。
1913年(大正2年)立憲政友会の総裁を辞任。京都の別邸清風荘に拠点移動。
1914年(大正3年)第一次世界大戦始まる。
1919年(大正8年)1月 世界大戦講和会議使節として欧州へ出張。6月 ベルサイユ宮殿で講和条約に調印。8月帰国
1920年(大正9年)公爵となる。
1926年(昭和元年)最後の元老となる。
1936年(昭和11年)静岡県の別荘坐漁荘より、二二六事件後の政局のため上京。
1940年(昭和15年)11月24日 坐漁荘にて薨去。12月5日国葬。

武家の時代の終わりの始まり☽年齢0~7歳☿年齢域7~15歳1849年~1864(嘉永2年~元治元年)

公家の中でも摂家に続く、清華家の格を持つ名門徳大寺家。その当主徳大寺公純(とくだいじきんいと)、妻の末弘斐子夫妻の次男として、1849年(嘉永2年)西園寺公望(さいおんじきんもち)は生まれました。幼名は美丸(よしまる。当ブログでは西園寺、公望、もしくはフルネームで表記)。
2歳になる頃、同じ清家の西園寺家の養子となります。ところが、その年に当主の西園寺師季が薨去したことから、幼少の身で西園寺家の家督を継ぐことになりました。

公望を育てた相模という名の乳母は、早熟教育なのか、単に彼女が奔放だったのか、10歳を迎える前に、酒・たばこを覚えさせたそうです。宮内省が管轄する学習院で勉学に励みつつ、武士に憧れた公望少年は、乗馬や武芸を好みました。若い頃の写真には、帯刀している姿が残っています。
この辺りは、自由好き、乗り物好きな♐の影響がありそうですね。

1860年(万延元年)御所に出仕すると、祐宮親王(後の明治天皇で3歳年下)の側近となります。幼い頃の明治天皇と、従兄弟、兄弟感覚で接する公望、家柄的には不自由がない身ですが、家族関係には不鮮明な部分がありました。

実の両親である徳大寺夫妻には、公望の他にも上と下に子どもが数人いますが、全員が庶子扱い。また公望が養子に行った先の西園寺家では、26歳の当主師季が亡くなっています。親族間の不安定な部分は、公望の第4室♓にある♆が、物語っているのかもしれません。

戊辰戦争の後、フランスで政治と文化の洗礼を受けた充実期。♀年齢域15歳~25歳1864年(元治元年)~1874年(明治7年)☀年齢域25歳~35歳1874年(明治7年)~1884年(明治17年)

異国の風が、国内を勤皇か佐幕かに色分けしてゆく時代に、少年時代を過ごした公望。激しい倒幕活動に参加することもなく、堅苦しい公家社会の色にも染まらず、福沢諭吉の書いた「西洋事情」等を読み、外国への関心を高めていました。
誰を前にしても臆さずに自分の意見を言う姿が、岩倉具視の目に留まります。

王政復古の大号令を迎えた際、何の実績もないまま、参与という大役に抜擢された公望は、歴史の表舞台にいきなりデビュー。
鳥羽伏見の戦いを始めんとするところまで来て、多くの公家はしり込み。観てみぬふりを決め込もうとしますが、これを一喝し、薩長に就くと言い切った公望を、岩倉は褒めたという逸話があります。

公家としてはダークで計算高い岩倉的には、明治天皇に最も近い公望を手名付けて、立ち位置の強化。ゆくゆくは自分の後釜狙い育成等もあったと思われますが、見てくれもいいし、弁も立つので、まぁ期待したのでしょうね。

ばっちり♀年齢域の19歳。「目立つ」のも頷けますが、戊辰戦争が始まると、ご満悦で彼を官軍の飾雛にします。山陰道鎮撫総督となった公望は、自費で馬を買い出陣。ここはほぼ無血で落ちました。その後、北陸道鎮撫総督となり、河井継之助が守る長岡藩と死闘を経験。会津征討越後口大参謀として、銃弾の飛び交う会津戦争では、最前線にいました。
この働きが評価され、1868年(明治元年)10月後半。新潟府知事という辞令が降ります。しかし軍人になりたくて、そのためのフランスへ留学を考えていた公望にとって、この辞令は魅力を感じなかったのでしょう。

翌年2月東京へ戻ってしまいます。当時も今の時代も、フランスの大学入試は、バカロレア(大学入試資格試)に合格をしないと、資格が得られません。その準備として、木戸孝允と大村益次郎の勧めで、開成学校に進み、フランス語と法制について学びました。
思い立ったら即行動。それが良くも悪くも射手座の性質ですが、9月早々、無断で京都へ帰省してしまった公望は、大村益次郎暗殺事件の際、掠るように難を逃れました。これが無断外泊だったのもあり、一週間ほど謹慎処分を受けると、自宅で私塾を開校します。これが後に立命館大の基となります。

さらに公望。宮中でも騒動を起こしました。開国派な岩倉でさえ、まだ公家独特のスタイルだった1871年(明治3年)。つい最近まで武士に憧れて、腰に大小を差して歩いていた風変わりな若者が、颯爽と断髪&洋装で宮中に参内に現れたのです。
実父の徳大寺公純をはじめ、頭の固い公家たちは大仰天。新世代感覚とのジェネレーションギャップ。さらには、より薩摩人脈な岩倉にとって、土佐藩や長州閥と気が合い、親密に付き合う公望に、制御しづらさを感じたのか、フランス留学は、彼を遠ざける都合の良いネタとして、早まったのかもしれません。
1871年(明治3年)12月。急に官費で留学に出立することになりました。

普仏戦争の影響から、米国船による渡航となり、途中アメリカに寄港。第18代ユリシーズ・シンプソン・グランド大統領と面会した後、翌年1872年(明治4年)フランス到着。パリに入ったのが2月。
公望が持つ♐の☀と☿が♊を進むT♃と対。N☊は、♒のT☀と対。

N♅♇にはT♆が近づいてきています。大転換の冒険ともいえ始まりが、見て取れますが、占星術的にも大移動な留学早々、念願のパリに着いた公望は、約10年の間に、政治学者ミエール・アラコスの私塾で学んだ後、ソルボンヌ大学で、初日本人学士となります。
着いた早々、革命政府パリコミューンを目の当たりにし、<恥知らずの人々が愚民を煽動した>と酷評し、鎮圧したフランス政府を評価しています。フレンドリーで、忌憚なく話す公望は、アラコスに気に入られました。

彼の塾でジョルジュ・クレマソー。ガンペッタにフロッケーといった、急進共和派と非常に親しく付き合い、さらに中江兆民をはじめ、何人かの日本人留学生とも意気投合。思想的学びと人脈を広げます。
育ちがいい彼は、パリの女性にもモテたようで、ロマンスも楽しみつつ、駐フランス日本公使館の嘱託として、和歌の仏語訳への協力等、文化関係への協力も行いました。♀年齢域充実期と、☀年齢域の前半。

普仏戦争と欧州恐慌吹き荒れる中、セーヌ川の左岸にあるカルチェラタンで、社会主義思想や政治を語り合い、フランスやヨーロッパの知識や文化を、ふんだんに吸収して1880年(明治13年)10月。
日本へ戻ったのです。この時の星回りで印象深いのは、公望の♅♇に、T♄が入ってきたこと。進行中の♃と♄どちらも♈にあり、♅は♍にありました。

公望の♃☽は♍にあります。木星は一年で抜けますが、♄、さらに♅となると、星座への滞在時間が長く、その人のネイタルの星に影響しますから、公望の環境も一波乱、二波乱あったのは、その影響もあったかもしれません。

その人波乱は、帰国後は留学生仲間の一人、松田正久の誘いを受けて、新聞社の社長になったことでしょう。その新聞とは、板垣退助を中心とした自由党結党に向けて準備された、『東洋自由新聞』でした。
自分が社長。幹事・松田。編集委員が光妙寺三郎。ここに主筆として中江兆民を呼び込み、留学仲間で何かができることが、公望にとっては楽かったか、気楽にOKしています。同時進行で明治法律学校(後の明治大学)から、行政法の教授として招かれ、新橋にいた才色兼備な芸子玉八(小林菊子)との出会いもありました。

帰国以降、充実の日々が回り出し、1881年(明治14年)3月18日。
『東洋自由新聞』は、創刊されたのです。総じておとなしめな内容だったものの、公家の生まれで政府の本流にいる公望が、自由民権運動を即す新聞社の社長であること自体。岩倉具視をはじめ宮中と明治政は、容認できませんでした。
実兄の徳大寺実則から、社長を辞めるよう猛プッシュが始まり、思想的には社会主義寄りの公望大反発。とうとう明治天皇から「内勅」が下され、やむなく新聞社を退職してゆきます。

『東洋自由新聞』そのものは、発行部数が伸びず、短期で廃刊になり、この騒動の後も公望は、留学仲間との交流を続けました。板垣退助の歓迎パーティーにも出向くのは、いかにも彼らしいのです。
T♅がN♃☽に効いたのか、後継者探しに苦心した岩倉の策が効いたのか、どちらにせよ、西園寺公望の人生に変化をもたらしたのでしょう。国会設立の準備機関である参事院の議官補となった公望は、翌年1882年(明治15年)。

憲法調査として伊藤博文の随員に加えられ、欧州に向かいます。
フランスの法制を調べる際、完全にフォローができる公望の対応をみた伊藤は、「使える奴」と判断。ウィーン大学では、ローレンツ・フォン・シュタインから、共に憲法思想を学びます。約一年後、帰国する頃の公望は、完全に伊藤派のブレーンとなっていました。

外交の顔となる♂年齢域35歳~45歳1884年(明治17年)~1894年(明治27年)

☀年齢域の完了と♂年齢域開始の1884年(明治17年)。華族令公布で、侯爵のとなった公望は、1885年(明治18年)から1891年(明治24年)までの6年の間、大使として、日本と欧州の間を活発に行き来します。最初の赴任先オーストリア=ハンガリー帝国では、ウィーンに滞在中の陸奥宗光と意気投合。1886年(明治19年)6月、一度帰国しますが、駐ドイツ帝国公使兼ベルギー公使となるため、1888年(明治21年)6月に出国。ドイツ滞在中、菊子との間に初めての子ども新子が生まれました。

最初の妻と言われる菊子は、旧士族(旗本)の娘で、生活苦のために新橋で芸子をしていたのです。才色兼備な彼女を気に入った公望と、一暮らすことになりますが、彼の母斐子(あやこ)と一緒に住むのが同義語でした。
常に飛び回っている公望は留守も多く、また都内を転々と引っ越したそうで、なかなか落ちつかない私生活ですが、その間菊子は公望の母から、和歌や文学に触れ教養を深めたそうです。

彼女の他に後二人ほど、公望の奥さんといえる女性と暮らしますが、いずれも入籍はしないままでした。彼の実の両親である徳大寺夫妻もそうなのと、運勢的にも家庭の部屋が海王星なので、一般的な家庭観とは違っているのかもしれません。
ドイツ帝国大使にベルギー公使・ローマ法王庁の特別全権公使も勤め上げました。

1891年(明治24年)日本に戻ると、功労者に勲章を授与する賞勲局総裁を任され、民法商法施行取調委員長を兼任。その後は貴族院副議長と、法典調査会副総裁にもなっています。

政治家として稼働する♃年齢域45歳~55歳1894年(明治27年)~1904年(明治37年)

公望の♂年齢域と♃年齢域の狭間1894年(明治27年)は、日清戦争の年でした。
第2次伊藤内閣の文部大臣井上毅が病気で辞任した後、公望が、文部大臣の椅子に座ります。大久保利通の次男牧野伸顕を文部次官にして、義務教育の4年制を6年に引き上げます。中川小十郎を文部大臣秘書官に抜擢し、京都帝国大学(現在の京都大学)創設を進めました。中川は現立命館大学の創設者となりますが、戊辰戦争の時、親の代から公望と縁があって、ずっと目をかけられてきたのです。

優秀なブレーンを使いながら、西洋式教育の必要性。女子教育の発展を唱え、日女子大の創設を進めます。
親友陸奥宗光が病気のため、外相代理を引き受けたことから公望は、1895年(明治28年)乙未事件後の韓半島情勢も担当。翌年、陸奥が正式に辞任したことを受けて、文部大臣と外相との兼任が決まりました。

ところが第二次伊藤内閣が解散。第2次松方内閣が始まります。立場は継続ですが、親分が変わってしまったことから、公望は考えた末に両大臣を辞任。法典調査会副総裁も辞めて、1896年(明治29年)フランスに向かいました。

教育制度の在り方、軍の内閣統制などの研究をするため、第二の故郷フランスに行ったハズですが、虫垂炎に罹り、これが重症化します。周囲は安静と治療の優先を進めますが、強引に帰国したのでした。大使時代にリウマチを発病して以来、これが持病となって付きまとい、悩みの種になっていたところに虫垂炎を患ったので、つらさが増したかもしれません。

療養している夏の終わりに、親友陸奥宗光の訃報が届くのでした。
つらく悩ましい年が過ぎ、1898年(明治31年)1月。
第三次伊藤内閣が発足すると、再び文部大臣に返り咲き、第二次教育勅語の作成に取り組みますが、虫垂炎の後遺症に悩まされ、長くは持たずに辞任しています。

思うままに動く西園寺公望にとって、♃年齢域は、健康への自信を無くす実に重い期間ですが、後半になるにしたがって徐々に変わってきます。

1900年(明治33年)立憲政友会(以降政友会と表記)創設に協力した公望は、総務委員の一人となりました。この年の10月に第四次伊藤内閣がスタートしますが、病身の伊藤に代わって、12月中旬まで西園寺公望が、内閣総理大臣代理を務めています。

さらに1903年(明治36年)内閣を組閣するため、政友会総裁を辞任する伊藤から、公望は後釜に座るよう、指名されました。政友会の実務や運営は、後に平民宰相と呼ばれる原敬を中心に、一部のメンバーが行っているので、ほぼノータッチだったのです

総理の椅子そして元老院へ ♄年齢域55歳~70歳1904年(明治37年)~1919年(大正8年)

1904年は、日本存続の命運をかけた日露戦争の年であり、公望の♃年齢域と♄年齢域が交差する年でもあります。
国の未来を背負った総理大臣桂太郎は、野党第一党であった政友会の№2原敬と密談を重ね、総裁の西園寺公望を次の総理の椅子に据えるから、見返りとして、政友会の議会協力を取り付けました。

この経緯から1906年(明治39年)1月7日。桂内閣から譲り受ける形で、第一次西園寺内閣がスタートします。政友会は与党となり、原が内務大臣。そして旧友松田正久が法務大臣を務めます。他の藩閥や前内閣のフォローを受けつつ、日露戦争の戦後処理と日露協約締結。カリフォルニアの抗日運動へ対処等に当たっていきました。またこの頃、国内にも労働運動が起きはじめ、社会主義もより活発になりますが、リベラルな感覚の公望は、これを一つの考えとし、特に過激なモノでない限り、取り締まることはなかったのです。

ホロスコープ的には、N☀☿に対して、T☿が♐を刺激。T冥王星が♊にあって差し向かい。♊には、☽も入ってきています。
N♆にT♂が入り、対岸の☊を刺激。対人関係に熱が伝わります。しかしN♆とT♆の調和もあるので、楽しめることも有るけど、時代の不透明さや長続きの保障は微妙。調和はN♂とT♂。N♃とT♃。もあり、立場が上がる時期であるといえます。

1907年(明治40年)6月17日~6月19日までの3日間。公望は当時神田駿河台にあった私邸に、多くの文学者たちを日替わりで招いて宴を行いました。
国木田独歩と巌谷小波等が世話人となり、総勢22名。招待者で欠席をしたのは、夏目漱石と二葉亭四迷に坪内逍遥の三人で、漱石に会いたがっていた公望は、これにがっかりしたようです。教育と文学の展望と、公望なりのサロンやカフェ文化への憧もあって、企画した宴は雨声会(うせいかい)という名称が付き、1914年(大正3年)まで7回ほど開催されました。

翌年、元老(山縣とか松方とか)たちから、逓信大臣と大蔵大臣の更迭を求める圧力がかかり、持病も進んでいたこともあって弱気になっていた公望は、自身も合わせて辞表を提出します。結果、公望だけ辞表は却下。
ゲンナリしている所に、桂が組閣を意識していたのを知り、交代しましょう!となって、第二次桂内閣と入れ替わりを決めます。病気を理由に政友会の活動からも引き気味になり、会の実質の指導者は原敬となりました。

桂とは政党はちがえど、気が合った公望。>「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」<というほどで、伊藤と井上を介して養子にした八郎を、桂の秘書官にしたり、双方共に愛妾を同伴し、酒を酌み交わすほど打ち解け合っていました。
1911年(明治44年)8月末、第二次桂内閣を引き継いで、第二次西園寺内閣が発足します。第一次と違うのは、政友会のカラーが強く出ている内閣人事で、これは原の考えあってのことでした。

主な対応としては、明治天皇の崩御。大正天皇の践祚でしたが、これに関しては、公家でなおかつ、天皇家とも親しい西園寺公望が総理の時で、実に良かったのではないかと思います。さらには辛亥革命後の中国への対応も起こり、政局が難しい時に、やり手の原と公望の間で、鉄道利権に関してぶつかってしまいます。

1912年(大正元年)12月軍備縮小が理由で、陸相の上原勇作が要求していた二個師団増設が議会で通らず、上原が辞職します。代わりの陸相が見つからない第二次西園寺内閣は、12月5日に総辞職することになりました。
陸軍に顔が効く桂が、手を回したという噂が世間に流れ、これが第一次護憲運動の火付けになりました。鉄道利権を巡って、原と公望の関係もこの時かなり怪しく、元老はいう事を聞かない桂と公望に、余計な図り事をした可能性はあります。

実際、元老からの自立を意識した第三次桂内閣は、政友会から内閣不信任案が提出るだけでなく、燃え始めた第一次護憲運動を、山縣や大隈がマスコミを通して扇動。群衆の暴動暴発によって、第三次内閣は発足早々つぶされました(大正事変)。
 内閣不信任案を止めたくても、自分の党すらどうにもできなかった公望に、大正天皇から、桂辞職後の後継首相を決める元老協議への参加を求められます。

後継首相は公望が推した山本権兵衛海軍大将に決まり、内閣組閣を見届けると、留任の声を背に公望は生まれ育った京都に戻りました。

1914年(大正4年)第一次世界大戦の余波を受ける時代、政友会総裁の立場を原に譲りますが、公家出で多くの大学を創立させ、総理を経験し、元老に加えられた公望。政界復帰の声が途絶えることはありませんでした。組閣の都度、呼ばれることも考え、比較的東京に出やすい場所として、主な拠点京都から静岡県興にある旅館、水口屋の勝間別荘に移すと、♄年齢域を締めくくるように1918年(大正7年)天皇から大命降下を受けました。一両日の猶予をもらい辞退。

後継首相に原敬を推し、原内閣の後継人的な立場に立ったのです。

最後の訪仏 ♅年齢域70歳~84歳1919年(大正8年)~1933年(昭和8年)

第一次世界大戦後の講和会議使節として、パリ講和会議に出席が決まったのが、♄年齢域と♅年齢期が重なる1919年(大正8年)1月。
健康上の理由で辞退をしたものの、説得されて20年ぶりのフランス行きが決まりました。決定の遅れと、公望が乗船するために船を作り替える必要があり、全権が出発した後、一月遅れで出港しています。

同行は娘の新子とその夫となった八郎。妾の奥村花子。お付として近衛文麿。ここに名門料亭なだ万の主人楠本萬助と、板前の二人が乗船。これは現地で日本食のパーティーを開くためで、船倉には日本食が5トンも積み込まれたという、エピソードが残っています。
 パリに到着する頃には、先に行った全権大使たちが仕事を進めていました。
20年ぶりの訪仏ということもあり、旧友クレマンソーの語るフランス語を、聞くことはできても、言葉を返すことができなくなっていたのです。

6月にベルサイユ宮殿で講和条約に調印。8月帰国という間、会議中に話すこともなく、設置されたクレマンソーとの対談のみだった公望に、吉野作蔵は痛烈な批判をくだしました。しかし、山東問題が紛糾し、日本代表団の中から、帰国を即す声が出てきた時、>「国際連盟問題は山東問題よりも重要であるとし、自分一人でもパリに留まる」<という公望の言葉が、日本代表団内部に影響を与えたようです。
          
1921年(大正10年)東京駅で原敬が暗殺される事件が起きました。周囲が騒然とする中、山縣と協議の末、後継首相として高橋是清蔵相を選びます。高橋是清内閣によって、政友会の党内内閣が継続することが決まり、周囲は沸きますが、>「政友会の内閣と云ふも、政友会内閣に非ず、陛下の内閣と思ふ。」<と、公望は、党内政党優先の考えではありませんでした。

時には対立し、時には協調した山縣有朋が亡くなった後、関東大震災を挟んで1924年。松方正義が死去することで、最後の元老となった西園寺公望は、誰一人元老に加え
ることなく、皇室と各内閣を見守ります。

大正天皇の崩御から、1926年(昭和元年)昭和が始まりますが、大きな爆発事件やテロが起きる中、政党の総裁が首相を務める内閣政治は、五・一・五事件1932年 (昭和7年) 5月15日。「話せばわかる」の犬養毅まで続きました。

最後の元老♆年齢域1933年(昭和8年)~1940年(昭和15年)84歳~92歳没

1936年(昭和11年)静岡県の別荘坐漁荘より、二二六事件後の政局のため上京。
当初公望も標的とされていた二二六事件。しかし住まいが都内ではないため、愛知県豊橋市にあった陸軍教導学校の生徒120人を使い、坐漁荘を襲撃する計画を立てます。これに将校の一人が、生徒を利用することそのものに反対し、襲撃計画は中止されたのでした。

報告を受け、高橋是清が殺害された事だけでなく、信任する斎藤内大臣が殺害、鈴木侍従長が重傷を受けたことに大きくショックを受けます。

具合の悪さと心的ショックも大きい事変の後、3月に入って上京して首相選びに苦心しました。適任と思っていた近衛文麿がこの時は辞退。一転二転の末、広田内閣が組閣されますが、1937年(昭和12年)第一次近衛内閣を組閣後、盧溝橋事件をはじめ人事面等様々な経緯を見て、>「よほど日本もしっかりやらないと、みんなから馬鹿にされることになる」<と、自分が近衛を選んだことを後悔することになったのです。

たびたび体調を崩すようになった公望は、それまで恒例にしていた御殿場の別荘への避暑も行わず、昭和15年(1940年)の夏は静養していました。
第二次近衛内閣が組閣され、ずっと反対し続けた日独伊三国軍事同盟を成立させてしまったことを知り、>「まあ馬鹿げたことだらけで、どうしてこんなことだろうと思うほど馬鹿げている」<と、心底嘆いたそうです。

同年1940年(昭和15年)11月24日 。幕末から昭和初期まで、政の中心にいた西園寺公望は、静かな坐漁荘にて薨去しました。

12月5日に国葬を執り行い、多くの人にその死は悼まれました。