第一次桂内閣では日露戦争を勝ち戦に導く動力源となり、鮮やかな戦後処理を行って、国難を乗り越えましたが、国民からは怨嗟を買っています。第7番目総理大臣となった西園寺公望と、交互に総理を勤めた「桂園時代」等、様々な切り口のある人物。
今回は後半にシナストーリーも載せています。
 
まずは桂太郎本人のホロスコープと略歴です。

1848年1月4日 12時設定 長門国阿武郡萩町(現山口県萩市)生まれ


太陽星座 ♑
月星座  ♐ 

第7室契約の部屋にある♋の♃以外は、東半球から北半球に星が多く、ほぼバンドルタイプ型なホロスコープ。♃は第1室本人の部屋♑の野心家な☀ですが、契約運を助ける♃の土と水のオポジション。第4室家庭の部屋の♈♅と第10室♎の☊が、火と風のオポジションという、4エレメント&カーディナルサイン(♈・♋・♎・♑)のオポ。
行動力のある人とですが、ギラギラ感がなく、雰囲気もマイルド。

周囲に認められ、社会的地位も上がる運気も備えていますが、ハードルの高い難問や、内心無理…と思っても、やらざるを得ない状況に追い込まれる傾向アリ。
第5室嗜好の部屋が♉の♂は☀と調和。欲しいとなれば、粘り強く頑張ってしまうタイプ。第2室の♆とはセクスタイル。♆が♀とスクエアなのを見ると、好みに対する独特なこだわりや美意識を持っているようにも見えます。

対人関係を大事にする反面、家族関係や夫婦関係に悩まされることが潜んでいて、寂しさや喪失感から恋愛に走ると、思わぬ苦労苦しみがついて回る。第12室は障害溶解の部屋。欠けてゆく☽は感傷的な悲しみを、☿は言文によるチャンスと困難を潜ませています。

桂太郎略歴(ウィキその他、複数資料参考)

1848年1月4日(弘化4年11月28日)長門国阿武郡萩町(現在山口県萩市)生まれ。長州藩士馬周り役桂與一右衛門の嫡男として生まれる。
1860年(万延元年)藩の西洋式操練に参加して鼓隊に編入
1864年(元治元年)毛利元徳の小姓役となる。
1866年(慶応2年)第2次長州征伐では志願して戦う。
1868年(明治元年)戊辰戦争 奥羽戦線で鎮撫副総督澤為量の参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦。敵の寝返りは成功するが戦績は振るわず。賞典禄250石を受けている。
1870年(明治3年)賞典禄250石でドイツ留学。
1873年(明治6年)経費が底をつき帰国
1874年(明治7年)野田歌子と結婚 後に1男2女を儲けるが1886年死去          
1886年(明治19年)伊藤博文内閣は、陸軍の軍制改革を進めるが、これに反対する。宍道貞子と結婚 1男1女を儲けるが1890年死去。
1894年(明治27年)日清戦争 名古屋の大日本帝国陸軍第3師団長として出征。
1896年(明治29年)台湾総督。       
1898年(明治31年)第三次伊藤内閣 陸軍大臣となる。
1900年(明治33年)義和団の乱 中国に兵を派遣する・政治と距離を取る。
1901年(明治34年)第11代総理 第一次桂内閣を組閣。
1904年(明治37年)日露戦争。 
1905年(明治38年)日比谷焼き討ち事件。
1906年(明治39年)1月7日第一次桂内閣終了 
1908年(明治41年)7月14日 - 1911年(明治44年)8月30日第二次桂内閣
1912年(大正元年)12月21日- 1913年(大正3年)2月20日 第三次桂内閣
1913年10月10日(大正2年)東京府東京市芝区三田 没

人生の黎明期は、幕末の序章。☽年齢域0~7歳/☿年齢域7~15歳。1848年~1863年

ペリー艦隊が浦賀沖にやってくる5年前、長州藩の萩で桂太郎は誕生します。
幼名は寿熊。(本編は、太郎、もしくは桂太郎で表記します)
毛利家と桂家の縁は、鎌倉幕府の時代に遡ることができる家柄で、太郎の父は長州藩士馬廻役桂與一右衛門。長州藩の上士です。母の喜代子も武家の出で、その弟であり太郎の叔父にあたる中谷正亮は、吉田松陰の親友でした。

1859年(安政6年)安政の大獄で刑死した松陰の後、松下村塾を引き継いだ叔父から、少年時代の太郎は、学問と武士としての心得を学びました。

過激な勤皇、攘夷を求める長州藩は、下関を通過する外国船に砲撃を仕掛けるようになり、これが元で諸外国と揉め、馬関戦争に発展。高杉晋作が騎兵隊を組織した頃でもあり、元服が間近な年だった太郎も、いくつかの戦に参加しました。

幕末動乱期&海外へ飛び出す青春時代♀年齢域 15~25歳 1863年~1873年 (文久3年~明治6年)

1864年(元治元年)純粋なのか血の気が多いのか、国内でも過激な活動を起こした長州の志士たちは、ついに禁門の変等を起こし、朝廷と幕府の双方から危険視されます。
第一次長州征伐が起きる頃の太郎は、城内で毛利元徳の小姓役を務めていました。再び前線に出るのは、1866年(慶応2年)第2次長州征伐の時。
これは志願での参戦で、村田蔵六(大村益次郎)の指揮下に入ります。

石州方面の戦いで圧勝する中、無駄のない村田の戦術と知性に魅了されました。戊辰戦争が始まると、隊を率いて奥羽各地を転戦。久保田藩を新政府側に寝返らせ、仙台藩軍に壊滅的な打撃を与えました。新庄藩を寝返らせることはできましたが、苦戦を強いられています。部隊の戦死者、負傷者も多く出しましたが、戦績を評価されて、賞典禄250石を与えられました。

戊辰戦争で得た250石を元手に、1870年(明治3年)帝政ドイツへと私費留学します。
少年時代から海外への関心があった太郎に、語学と見分を広める留学を進めてくれたのが、尊敬する村田蔵六でした。横浜で語学勉強をしている時に、村田は暗殺されてしまい、背中を押してくれた言葉は、遺言のようになったのです。

当初はフランスを目指すつもりが、普仏戦争でフランスがドイツに負けた事などもあって、留学先をドイツへ変更。しかし、私費留学の現地生活はかなり苦しかったようで、岩倉使節団がドイツを訪れた際、木戸孝允(桂小五郎)の元を訪ねて、官費留学への待遇切り替えを求めています。

元は同じ桂姓。親戚ですが縁は浅く、叔父と親しい木戸は、太郎を「中谷の甥っ子」と目をかけていました。1873年(明治6年)7月。岩倉使節団が帰国すると、殺気立つ明治6年の政変等、気の抜けない時期に、木戸は太郎から頼まれた官費留学への待遇切り替えを進めています。しかし、タイミングが合わなかったのか、真相はわかりませんが、桂太郎。
10月半ばに留学を打ち切って帰国したのでした。

運勢的に見れば、♀年齢域の終わりであり、☀年齢域が始まる年。
新たなステージが始まるため、予定通り行かない部分は出てきやすいのでしょう。

日本陸軍創成期と変化するアジア情勢☀年齢域 25~35歳1873年~1883年 明治6年~明治16年

徳川幕府から明治政府に変わる幕末維新、世界は欧米諸国による植民地支配全盛期でした。有色人種の独立国は日本を含め、片手で数えられるほどしか、残ってなかったのです。

交易している国々が、政策を変えて植民地化に乗り出す可能性。不凍港を求めるロシアの南侵。この二つ危惧が新生日本政府の大きな悩みでした。
凍らない港を持ち、世界を支配が目標なロシアは、欧州も狙っていましたが、どの国も強く、簡単には落ちません。そのため発展途上の極東を侵略候補に入れていたのです。

1860年(文久元年)日本海を南下したロシア軍は、対馬に上陸。ここを取れば、朝鮮半島にも日本海沿岸にも攻め込むことができると、踏んだのでしょう。島民への殺戮と暴行略奪を行った上、半年ほど占領した前歴があります。(ポサドニック号事件で検索できます)

江戸幕府は抗議しますが、耳を貸さないどころか、食料や女をよこせと要求を突き付けてくる状況でした。イギリスに間に入ってもらって、なんとか収まったのです。
この記憶が生々しい日本政府は、ロシアが脅威となったのでした。そしてこれは清と朝鮮にとっても脅威と考えたのです。一国で回避するのは厳しいが、清と朝鮮。そして日本の三国が同盟を結ぶことで、欧米と対等な力を持ち、植民地支配の脱却を可能と、ロシアの南進を防げることになる。朝鮮は徳川時代に交易をしていた数少ない国の一つでした。

双方の国の発展のためにも、良き協力関係を築きたかった明治政府は、政府樹立早々に朝鮮へ挨拶状を出しています。しかし、それはどこまでも日本視点でしかなく、清と朝鮮どちらの国も、弱小国の日本が開国し、欧米化してゆくのを快く思わなかったのでした。
このズレから、様々なことがかみ合わず、日本国内は征韓論を巡り、論争や政府内の分裂も起きた中、1874年(明治7年)桂太郎は帰国します。

木戸の推薦で陸軍大尉に任官。陸軍のトップだった山縣有朋から、徴兵制について問われると、ドイツ参謀本部と徴兵制が旬だった欧州留学もあって、迷うことなく「賛成」と答える太郎。

武士が国防を担っていた時代に終止符を打った明治政府は、身分制度をなくすことを目標に、すべての国民が国防に参加することを目指していました。ここに平等と徴兵制の意味があったのですが、新政府時代になれば、江戸時代よりも良い職に就けるのではないか。
そう考え、明治維新を後押ししてきた者たちや、武士であることに誇りを持つ者たちから見たら、徴兵制は夢を壊す施策だったのです。

村田蔵六の暗殺も、徴兵制導入に反発した者たちの仕業で、徴兵制を進める話は、政府内にも反発がありました。
とても気を遣う時期だっただけに、同郷の若者の口から「賛成」と聞いた山縣は、とても喜び、桂太郎を自分の派閥に加えてゆきます。大きな後ろ盾を得た太郎、私生活では野田歌子と結婚。翌年1875年(明治8年)には、駐独日本公使館付武官に任官し、再びドイツへと向かいます。みっちりとドイツ式の軍制を学び、3年後の1878年(明治11年)に帰国すると、参謀本部の設置に携わりました。

参謀本部が設置されると、西日本の管轄だけでなく、日朝修好条規の締結後、開国した朝鮮と、朝鮮の宗主国と自負する清の情報収集と、観察も含む管西局局長に就任しました。
本人が現地にいくこともあれば、将校を派遣することもあったようです。
☀年齢域がそろそろ終わる1882年(明治15年)。

朝鮮軍の反乱と、それに乗じて日本に不満を募らせる民衆が、日本大使館を襲撃する壬牛軍乱が起きました。この事件で邦人が犠牲になる中、清が介入して朝鮮に軍隊を駐在させます。日本は朝鮮だけでなく、清との対立を深めることを懸念。
更なる軍の近代化が必要になってきます。

日清戦争への道のり ♂年齢域:35~45歳 1883年~1893年 明治16年~明治26年

大山巌の欧州軍事視察団に、桂太郎が選抜された1884年(明治17年)この年の暮、朝鮮で甲申政変が発生。清の属国となることで政権を維持していた李氏朝鮮と、国の解放を求める開国派の争いが再び高まります。改革派の金玉均は福沢諭吉や渋沢栄一とも交流を深めた人物で、これを支援するように、在朝日本軍は戦いました。

そこに宗主国を自負する清が、1300人の軍隊を投入。日本軍の奮戦で清の軍隊の力を削ぎますが、改革派は破れます。朝鮮は清をバックにした王朝が勝ち、甲申事変に携わったものとその家族は処刑。

翌年早々に日本は朝鮮政府と漢城条約を結びますが、朝鮮国内には紛争の火種が幾多もあり、日本政府は戦争回避をするため、伊藤博文を特命全権大使として清に派遣。
清は北洋通商大臣の李鴻章に全権を与え、幾度かの交渉の末1885年(明治18年)。
天津条約を結びました。
・日清両国とも朝鮮から撤兵。
・今後の朝鮮への出兵は、お互いに事前通告。

大まかに言うと、この2点ですが、ここに至るまで両国ともに相当数の犠牲が出ているのと、これは日清戦争の9年ほど前。第一次伊藤内閣が発足した年でもあります。
話を桂太郎に戻しますが、欧州視察から帰国すると、陸軍少将に昇進。
翌1886年(明治19年)には、陸軍次官のポストに就き、躍進と出世街道を進んで軍政の人となります。伊藤内閣が命じる陸軍の組織改革は進めるけど、経費節減には反発。
プライベートの方では1男2女を儲けた妻の歌子が病死。同年内に宍道貞子と再婚しています。

1890年(明治23年)11月。山縣有朋内閣の下、第一回帝国議会が開会。国民の代表として多くの自由民権運動家も選ばれ、議会の席に着きました。衆議院の予算先議権を持つ彼らが、明治政府に向けた要求を要約すると『減税』『戦争に勝て』の2点になります。
税制に関しては、現金の直接納税に変えたことから、平等どころか富裕層と貧困層の二極化が進んだのが明治時代。不満はわからなくはありません。
しかし、減税すれば、国の予算はその分減ります。戦争で勝て!でも資金力がなければ、準備もままならず無理ゲーな話。

朝鮮半島・清とのいざこざが続く中、あちらは反日が募り、日本国民もこの2国に対して心穏やかではなかったのです。しかも自由民権運動の代表の一人は、征韓論で明治政府と別れた板垣退助。過激なものわかります。
何より予算先議権を持つ以上、彼らを無視はできません。軍政担当として、議会対策を任されていた桂太郎は、荒れる議会の中、わずかな削減案で、軍の予算を確保。

第一回目の議会を何とか乗り切ります。議会も大きな峠でしたが、家庭にも波が立ちました。後妻として嫁いだ貞子が、この年、二人の子を残して死去しています。
翌年の1891年(明治24年)。第三師団長として名古屋に赴任しました。そして♂の最後
を飾るような出会いも起きます。着いて早々、歓迎の祝賀が名古屋で一二を争う料亭香雪軒で開かれ、ここで店の娘可那子に一目ぼれ。

口説いて事実婚から一年後、ついに三回目の結婚をしています。

日清戦争 そして第一次桂内閣誕生。♃年齢域 45~55歳1893年~1903年 明治26年~明治36年

1894年(明治27年)7月25日。第二次伊藤博文内閣の時に、懸念していた日清戦争が起きますが、種火は一年前に朝鮮で起きた甲牛農民戦争です。李氏朝鮮政府の下、重税にあえぐ農民が、役人の不正を警察に訴えたら、その農民が捉えられる事件が発生。これに激怒した東学党という新興宗教が政府を相手に武力発起し、これに庶民が加わって国内騒乱となったのです。

これを鎮圧できない李氏朝鮮は、清に武力介入を要請。清の軍隊が動くことを知った日本政府は、朝鮮に住む邦人の安全と帰国のため、天津条約に基づいて軍を派遣しました。
両国が自国に兵を送り込んでくると李氏朝鮮は、慌てて国民と和解。国内紛争を押さえますが、清と日本どちらに対しても態度が煮え切らず、日清両国の政治的交渉が決裂。
日本と清間の宣戦布告となったのでした。
そのため開戦は1894年8月1日となります。

山縣有朋を司令官とする第1軍に所属する桂太郎の第三師団は、野津道貫の率いる第五師団と共に、9月中旬。下関から仁川に上陸。平壌攻略戦に参戦します。さらに北上して、
中韓国境地帯に進軍。10月下旬には九連城を占領。ここで第五師団は内陸へ、太郎の三師団は、川沿いから河口向い南下しました。11月には大狐を占領してゆきます。

12月に入り海城攻略を命じられた三師団は、氷点下の中で凍傷と戦いながらなんとか進軍。海城を攻略したものの、地の利は清に有利でした。補給路を断たれ、敵と寒さと飢えの中で激戦を経験します。海城戦の他にもシビアな戦闘は他でもありましたし、犠牲も出ましたが、全体的にみると、日本軍が清国軍を下して圧勝。

勝因は軍人個々の強さもありますが、(この頃の日本人は、マジに強い人いました)日本は近代型の軍隊として、綿密な作戦計画や動員計画。それを統率する指揮力を重視した戦いを展開したのです。

1895年(明治28年)4月17日講和条約(下関条約)が締結されます。
清からの朝鮮独立。賠償金(7年年賦で2億両。国家予算の6倍)。そして台湾/澎湖列島/遼東半島をもらう領土分割が決まりました。
祝賀ムードに沸く日本ですが、下関条約から約一週間後、フランス・ドイツを伴ったロシアが、遼東半島を清への返却を要求してきます。これが領土分割に難癖をつけた三国干渉ですが、ロシアにとって遼東半島は、極東への足がかりの土地。

日本による支配を進めたくなかったのです。不躾な三国干渉ですが、交渉が長引けば清との講和条約にも影響が出る。そう判断した伊藤博文(第三次伊藤内閣。52歳)と外相の陸奥宗光は、日本は遼東半島の権利を抜きに、講和を進めました。

♃年齢域に入って間もなく日清戦争に出兵した桂太郎は、海城での激戦による心労で、帰国すると病気療養に入りますが、1896年(明治29年)軍務に復帰。
6月に台湾総督の任に就きます。そして1898年(明治31年)陸軍大将への昇進。第三次伊藤内閣で、陸軍大臣となり初入閣しました。軍政の頂点であり、内閣の一員。
軍人でもあり政治家という立ち位置に立ったのです。

議会にも顔を出すことになった桂太郎は、衆議院議員の中でも顔が広い星亨(ただし、利権大好き。言動はダークで敵も多い)と懇意になりました。「要求を受け入れてもらえるなら、軍予算に協力する」と、ギブアンドテイクで、議会を乗り切ります。
これが功を奏したのか不明ですが、続く第一次大隈内閣、第二次山縣内閣でも陸軍大臣は留任。この時は、参謀格も兼任しています。この間1900年(明治33年)に清で発生した義和団の乱で、日本軍を出兵させました。動乱は収まるものの、難しい国際情勢の中の派兵と、国内政治政争に疲れて心身を患い、転地療養もしています。

第四次伊藤内閣(これまでの藩閥ではなく、立憲政友会を与党とする事実上の政党内閣。最後の最後で西園寺公望がピンチヒッター)で、辛うじて陸軍大臣を続けますが、途中で児玉源太郎に代わってもらっています。
鉄道建設や利権。政党内の内紛で、第4次伊藤内閣は1年と持たず204日で崩壊しました。井上馨に大命降下が降りますが、頼みの綱の渋沢栄一が大蔵大臣にならない。支持母体の立憲政友会はガタガタなため、井上は自ら辞意を表明。
対ロシア戦が色濃い大国難の中、政府をまとめ、軍略もわかる男は放っておかれることがなく、明治天皇は桂太郎に組閣を命じました。

♃年齢域残り3年&日露戦争3年前の、1901年(明治34年)6月。
第1次桂内閣が誕生しました。在任期間は1681日と長いですが、今みたいに総選挙=内閣総辞職な時代ではないことも要因。小村寿太郎が外務大臣として初入閣。
明治維新の志士だった「元老」と呼ばれる者は、一人もいないため、当時の世論は「二流内閣」と揶揄した模様。

気難しい人を前にしても、にこやかな笑顔で人の肩を軽くポンと叩き、雑談交えながら、じっくりと相手の話を引き出して、こちらとの妥協点を見出してゆく桂太郎は、協力を取り付けるのが実にうまく、あの伊藤博文に「十六方美人」と言わせ、癖のある衆議院議員の星亨(桂内閣発足後、一月も経たないうちに暗殺される)を味方につけました。

野心満載N♑の☀と、庶民的で人の面倒見の良い♋♃の太郎のオポに、T♃♄が君臨。この年は♑に♃♄あったのですね。
T☀は対面の♊。には♇♀があって、Tの三つ星。太郎の☽を押し上げています。
☽の位置の正確さは微妙ですが、♐にあるのは確か。♊の終わりにはT♆が♋のT☿と合。♐の終わりにある太郎の☿にエネルギー上げる配置。本人の人柄、持ち味に星回りも追い風なので、人を和ます笑顔で、さわやかに肩を軽くたたくニコポンで、交渉進める業にも磨きかける感じで、ヒットしています。
☀なのか、♐の☽と☿がもたらす効果なのか、いろいろ考えますが、注目を浴びる。大役を仰せつかる時というのは、大きく星が動きますね。

商業会議所の設置法案(日本商工会議所の前身)を定めた翌年1902年(明治35年)には、あの日英同盟を締結しました。実はこの話。日・独・英の三ケ国協定をドイツが持ちかけたのがきっかけです。イギリスがその気になって誘いのテーブルに着くと、何故かドイツはスルッと抜けて二国同盟になったのでした。
これは普仏戦争でフランスに負けた、ドイツの事情から来ています。仏と露が親密になると自国が挟まれる。この危機を避けるため、手練手管の外交を展開したビスマルクをですが、ヴィルヘルム二世が罷免してしまいました。

降ろした途端、露仏同盟が出来てしまったのです。
二国に挟まれた状況になって、初めて焦ったヴィルヘルム二世は、ロシアの目を戦力の薄い極東に向けさせました。これによって日本は三国間干渉に悩まされたのですが、さらにフランスがロシアに協力し、露仏VS日英の四国間で争えば、ドイツ安全と考えたのです。

日英同盟ができたことから、日本は満州に入り込むロシア軍の撤兵を、ロシアに求めました。しかし、力がモノをいう時代。国力のない小国の要求など、ロシアはスルー。一方でロシアは東のバルカン半島で、オスマントルコとオーストリアと、三国間で争っていました。その為、兵力を東西に分散していましたが、この時期マケドニアを巡って、ロシアとオーストリアと手を組んだのです。おかげで戦局はロシア有利となり、その分、兵力を極東へ向けることが可能になりました。

ロシアの目的は不凍港と植民地です。この好機を逃すはずがありません。
桂太郎内閣は、この事態に戦争が始まることを確信しました。

人口が訳4倍差の日本とロシア。歳入は日本約2億9000万円。ロシア約20億8000万円。差が歴然とし過ぎていて、日本に勝ち目などなかったのです。
戦わなくても、不凍港と奴隷を求めてロシアは日本を奪いに来る。
戦って負けても植民地。

どちらに転んでも、日本が終わることになるのを回避するため、伊藤博文は政府と別に単独で、ロシアと交渉を続けていたのです。
満州と朝鮮半島での権益は認めるけど、39度線から南下はしないでほしい。
これが伊藤の提示した内容の要約ですが、ロシアは首を縦に振ることなく、ついに1904年(明治37年)2月10日日露戦争は始まりました。

歳重責と重圧と転機を背負う 土星年齢域:55~70歳 1903年~1918年

抑制効果満点で、運勢的にいらないものはそぎ落とし、必要なものを残す♄。その♄年齢期に入った桂太郎の幕開けは、総理就任&日露戦争と見ていいと思います。
経済力のない日本政府。国民だけに重税という負荷を負わせるのではなく、戦争資金捻出のため、高橋是清をアメリカ・イギリスに向かわせ海外で公債募集を行いました。

この時桂太郎、英国とつながりが深い伊藤と井上(長州藩時代、二人は留学している)の協力を取り付け、是清がイギリスの銀行にもお願いをしやすい様に遠隔支援。戦費工作の傍ら、議会対策も進めます。民主主義国家である日本は、戦争中でも議会や選挙を止めることはできません。

当時の第一党は立憲政友会(以降政友会と表記)でしたが、予想以上の戦勝報告に、他の党もわりと協力的だったそうです。しかし、戦争の最中に政治が揉めたらあかんと、政友会の№2原敬と交渉をひっそりと行い、利権もちゃんとある内容に納得した原敬から、政友会の協力を取り付けます。

多方面に動く桂太郎ですが、奥さんの可那子は病気療養で、自宅にいない状況の中、心身すり減らす日々の連続。明治の元老たちは、やつれる彼の身を心配したのです。事前に井上などとも相談をした上でのお膳立てで、山縣が太郎を新橋に飲みに連れ出しました。
そこで懇意にしていた当時売れっ子の芸者お鯉(当時24歳。本名は安藤照)を、紹介しています。チャキチャキな江戸っ子で明るいお鯉。

桂はすっかり気に入りました。当時はお妾さんがまかり通る時代です。囲うことはアリですが、お鯉の住まいは、閑静な地域での優雅な暮らしではなく、なんと総理官邸。
元老承認の下、総理官邸に「お鯉部屋」という和室が作られたのです。

ここで、今回2個目のホロスコープ。桂太郎&お鯉さん シナストーリー。

お鯉 1880年 12月8日 東京生まれ 誕生時間不明


♐の☀
♓の☽

桂の♀とお鯉の☿。(どっちも♏)桂の☿とお鯉の☊(どっちも♐)だけなら、お馴染みさんで終わった感もありますが、桂の☽とお鯉の☀が♐で合。
これは男女の仲見る時には、大きいな要素です。さらにプラス要素として、桂の♅とお鯉の♃合。桂の♃とお鯉の♅セクスタイルもアリ。

ただし、お鯉の♀と桂の☀はズレている。桂の♆♄にお鯉の☽(♓の8°ふり幅見ても彼女の☽が♓なのは確か)、桂の♇にお鯉の♄。桂の♂にお鯉の♆なので、相思相愛でも婚姻に結びつく、長く共に暮らすという視点で見ると、無理のある恋愛。訳ありカップルになりやすいと思います。

14歳で花柳界に入り、早くに結婚。離婚を経た後、花柳界に戻ったお鯉は、売れっ子芸者となり、自由な暮らしをしていました。妾にするなら「生涯の事を考えてほしい」と希望するお鯉に、桂は守ると約束して、戦時中の総理官邸。扉一枚向こうは政治家、役人、軍人が仕事の顔で行きかう特殊な場所で、桂の世話をしてゆく生活が始まるのです。・

1905年1月1日。ロシアの旅順要塞が落ちた後、3月10日日露戦争最大の陸戦と言われる奉天府の戦いに、日本は勝利します。大勝利に世界が沸き立ち、日本は戦勝ムードに染まる中、満洲軍総司令官大山巌の名代で、総参謀長官の児玉源太郎がやってきて「引き際が肝心、ロシアと和平交渉をしてくれ」と、政府に伝えに来たのです。
負け越しても、ロシアはいくらでも手が打てる余裕がありました。
一方日本軍は人員も経済も玉切れ寸前。もし、資金不足に気付かれ、長期戦に持ち込まれたら、確実に日本軍は負け。日本は壊滅します。

議会に参加する議員、政党の中にも、国民同様に実際の状況を全く知らない者はいて、日清戦争の時よろしく、ロシアから取れるだけ取ることを期待していたのです。
ロシアに譲る形で講和を成立させないと、交渉引き伸ばしや戦争継続になる。勝ち戦が負け戦に変わることが、伝わる雰囲気はまったくない中、第一次桂内閣は、日本存続のために、講和条約の閣議決定を押し進める方向に舵を切りました。

5月27日。日本海の対馬沖で、総合艦隊司令官東郷平八郎率いる日本海軍が、バルチック艦隊を撃沈させ、日本の国内がさらなる戦勝ムードに酔う6月。
予め仲介をお願いしたアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が、日露両国に講和勧告を提案します。8月10日には、ポーツマツ日露講和会議に臨みますが、この間にロシアをはじめ各国に、日本は長期戦ができない事を悟られないため、日本陸軍をあえてロシア領の樺太に上陸させ、やる気あり!を見せて時間を稼ぎました。

仲介のアメリカとは、お互いの利を保証し合うタフト協定を結び、ポーツマツ日露講和会議の傍らでは、第二次日英同盟締結を進めています。

1905年(明治38年)8月28日。御前会議が開かれ、講和成立方針が決定されました。
「旅順・大連の租借権」「南樺太と周辺の漁業権」「東清鉄道の一部利用権(ロシアが満州に作った線路)」「朝鮮半島の優越権」が、講和の内容です。
戦争のため増税に耐えた国民は、一銭も取れない講和に、強烈な拒絶を示し、議会でも反対運動が起きました。それでも第一党の政友会が講和を支持。

9月1日休戦定義書に調印がなされ、日露戦争は終戦を迎えます。
結果を見ると、かつて伊藤が提示した39度線より南下をしないどころか、日本領土からはるか北にロシア軍を押し戻しました。陸軍海軍どちらも歴史的大勝利を収めたことで、世界に「日本軍強い」を刷り込んだのでので、簡単には攻めてはこないでしょう。 
日露戦争で物量を欲しがったのはロシアです。日本は植民地の危機を交わし、安全な国を継続できる状態にするのが目的でした。

日本側の日露戦争の目的は、達成されたのです。しかしそれは国側の事情で、そこに住む国民の目戦は違いました。目先の利がないことに、怒る国民の気持ちも、小村も桂もわかるし、予想していましたが、そこを飲み込んで講和を進めたのでした。
国民の怒りと不満は暴徒と化して、国に向かい、警察や政府関係機関を襲撃する「日比谷焼き討ち事件」に発展したのです。

お鯉も標的となり、「お鯉を殺せ」と探され、実家には危害が及びました。責任を感じた太郎は、彼女に手切れ金を渡しますが、受け取り拒否。
奥さんの可那子が、療養から帰ってくるまで、二人の関係は続いたのです。

1906年(明治39年)1月7日桂太郎は辞任。立憲政友会トップ西園寺公望が総理となった第一次西園寺内閣が、1908年(明治41年)7月14日まで続きます。
これは日露戦争が始まる前、政友会の原(後に平民宰相と呼ばれますが、利権に敏感)と交わした密約の一つで、「講和条約の内容を問わず賛成に回ってくれる代わりに、西園寺公望に総理の座を譲る」を実行したものでした。

西園寺内閣では、日仏協約と日露協約を日本は結び、かつてロシアをけしかけたドイツを孤立させます。山縣有朋の画策(妨害?)で総辞職となる時、元老が口を挟む前に、総理の椅子をすかさず桂に譲り、第二次桂内閣につなげたのでした。
1908年(明治41年)7月14日 ~1911年(明治44年)8月30日第二次桂内閣。
1911年(明治44年)8月30日~1912年(大正元年)12月21日まで第二次西園寺内閣。
1912年(大正元年)12月21日~1913年(大正2年)2月20日
と、桂と西園寺が交互に内閣を組閣する桂園時代は、二人が公私共に仲が良かったことを含め、政権運営や法案を通しやすくすることも狙いでしたが、維新の元老の影響力で総理を決め、国を引っ張るのではなく、次世代の力で国の運営ができる体制を作るのも目的の一つだったのです。

第二次桂内閣でもトピックいくつかありますが、一番大きいのは関税自主権の回復でしょう。成立には小村寿太郎の力も大きいですが、安政年間から慶応年間に結ばされた条約の改定は、維新をけん引してきた政治家の悲願だった条約改正。
これがやっと果たせた日本は、名実ともに列強国入りを果たしたのです。
これらの実績を盾に、桂太郎は元老から距離を取りました。次世代政治家が時代を作る上で必要な事ですが、これが山縣には裏切りに見えたのでしょう。

しかも山縣派政党政治が大嫌い。鉄道の建設と利権を巡って、政友会の一部と意見が合わなくなった経緯もあり、新党を作ろうとする桂太郎の動きを警戒します。
第二次西園寺内閣がスタートすると、桂は二大政党制を学ぶため、イギリスへ視察に出ますが、明治天皇の崩御を知り急いで帰国。すると山縣は新天皇(大正天皇)を守る補佐として、内務大臣兼侍従長を言い渡しました。

こうして桂を政治から遠ざけて、宮中に押し込めしまった山縣ですが、西園寺内閣は陸軍師団を増やす問題で揉めて瓦解。頼みの綱だったハズの元老も、みんな年取りすぎたのか、状況に対してキビキビと動ける者はなかったのです。
こうして1912年(大正元年)12月21日桂太郎、第三次内閣を組閣。さらに党利党略の政党ではなく、日本の国益を優先する政党を立ち上げる準備に勤しみました。

翌年1913年2月上旬。新聞記者たちを太郎は自宅に集め、イギリスの二大政党制を目指した、新党立憲同志会の立ち上げを公表します。
しかし、その願いは国民に届きませんでした。敵対してしまった山縣や、新たな政党が立ち上がることを阻止したい各政党の、息のかかったマスコミよって、民衆は政府への不満を焚きつけられ、煽られていたのです。

民衆は国会に押し寄せ、包囲して内閣退陣の要求を迫りました。一部は完全に暴徒化して、国よりの情報を書く新聞社や、警察署を襲いました。これが大正事変。
日本民主主義の幕開けとか、前進という記載を多く見かける「大正デモクラシー」の内訳です。人の話をちゃんと聞かず、仕掛けられたネタに煽られた民衆が、暴れ出したのが実情とわかると、議会制民主主義とは?となります。
この暴動を抑えるため、第三次桂内閣は二か月弱で総辞職。
そして同年10月10日。桂太郎は脳血栓で永眠します。必要な時期に国の重荷を背負って、時代の変化と共に去ったのが、いかにも♄年齢期ともいえますが、歴代総理の中でも激動を潜り抜けた一人であり、日本を守った英雄として称されて相応しいと思います。

暴動の際、手切れ金を受け取らず、桂太郎を支えたお鯉。彼女がどうなったかというと、療養先から帰ってきた正妻の可那子から、太郎へのお目通りは禁じられ、葬儀への参列も許されませんでした。(厳しい話ですが、可那子も太郎に見初められて正妻になったので、夫のここ一番を支えられなかった悔しさとか、嫉妬とか・・複雑な思いはあったと推察)この辺り、ホロスコープ的には、限定的交際を表していると思います。

彼女宛の遺産が遺書に明記されていたので、桂と出会った当時の彼女の希望、「生涯の事は考える」は守られました。後に銀座でcafeを開店。帝人事件に巻き込まれた後は、目黒にある五百羅寺の尼となっています。1948年(昭和23年)8月14日没。