5つの名を持つ最強剣士

沖田総司と双璧をなした剣士で、近藤・土方と同様、新選組ファンに愛される斎藤一は、住まいだけでなく、名前も数回変わっている謎な人でもあります。
どんな星の元に生まれたのか、さっそく観てみましょう。

いつものように略歴&ホロスコープです。

斎藤一略歴(ウィキその他、参照)

1844年2月18日(天保15年1月1日) 山口右助・ます夫妻の次男として江戸で誕生。
1863年(文久3年)壬生浪士組(のちの新選組)結成。
1864年(元治元年)池田屋事件・蛤御門の変。
1867年(慶応3年)油小路の変・天満屋事変・大政奉還。
1868年(慶応4年)鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争・会津藩に留まる。
1869年(明治2年)越後高田で謹慎後、斗南藩士として下北半島へ赴く。
1874年(明治7年)会津藩大目付高木小十郎の娘・時尾と再婚。東京移住。警察官となる。
1877年(明治10年)別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として西南戦争参戦。2年後に報奨を授かる。
1888年(明治21年)麻布警察署詰外勤警部として勤務。
1892年(明治25年)退職。
1894年(明治27年)東京高等師範学校附属東京教育博物館の看守に奉職。
1899年(明治32年)東京女子校師範(現お茶の水女子大)庶務掛兼会計掛
1915年09月28日(大正4年)胃潰瘍により死去71歳

ホロスコープ



太陽星座 ♒ 28°36
月星座  ♒ 25°43
第1室 本人の部屋    ♊
第2室 金銭所有の部屋  ♋
第3室 幼年期の部屋   ♋
第4室 家族の部屋    ♌
第5室 嗜好の部屋    ♍
第6室 健康勤務の部屋  ♏
第7室 契約の部屋    ♐ ☊R20°41
第8室 授受の部屋    ♑
第9室 精神の部屋    ♑ ☿2°36 ♄1°39 ♆21°27
第10室 社会の部屋    ♒ ☽25°43 ☀28°36 ♃7°28
第11室 友人希望の部屋  ♓ ♅0°22 ♀1°22 ♂19°05 ♇21°18

見事に北半球に星が集中。バンドルタイプのホロスコープ。
0度と60度のアスペクトが多くなるのも特徴の一つで、90度ほぼなし(MC/キロンなどを読んでいません)「こだわり派」な面が強く、特化したものを持つ傾向が強いです。
誕生時間不明ですが、正午で25度。☀が♒の28度。新月生まれの☽♒という認識でいいと思います。
しかも♆も仲良く一緒。普通に接している範囲では人当たり良く問題なし。対話はできるけど、口軽くなく余計な事を言わない。それだけに人によっては、本音が何処にあるか見えないと感じてしまうかも。 人との交際にも独自性が出そう。

♒には、♄と☿もあります。この組み合わせは、ハウス関係なく、引っ越し・転勤・転属をはじめ、移動が起きやすいのが特徴。しかも変化を起こしやすい風星座の♄☿なので、人一倍変化。流転は起こしやすいですが、プラスに出るとキャリアアップします。
流転の間に思わぬ人と縁ができて、社会的な立場を得て行けるのは、7室♐の☊。☀と♃の合。☀と☽の合。そして♈にある♂♇合でしょうか。

明けの明星・宵の明星が導く幕末 ♀年齢域。

播磨国明石藩の足軽だった山口右助が江戸に下り、旗本鈴木家の家臣となった後に、生まれた斎藤一。この時の名前は山口一。(本編は斎藤一、斎藤と表記します)なので彼の出身は江戸になります。
☽が守る0~7歳。☿が伸ばす7歳~15歳も過ぎ、趣向が伸び出す♀の年齢域になり、ようやく本人のことが出てくるのですが、なんと口論相手の旗本を切ってしまうというバッドな事件。場所は江戸小石川(現在の文京区小石川)。

この時の年が19歳ということですが、18歳だった可能性もあり。京都にいる父の友人、剣術道場主吉田某の所に身を隠したという経緯を見ると、家族仲はそれなりに悪くなかったのではと推察。道場では師範代を務めたということですが、♂♇は伊達じゃないという所でしょうか。集団の中で光るものを持っている斎藤は、やがて新選組に入隊します。

え?斎藤一は、近藤勇の道場「試衛館」に出入りしていたんじゃないの?
永倉新八が残した記述には、斎藤は試衛館に出入りしていたとされているので、疑問に思う方も少なくないでしょう。清川八郎が集めた浪士組には不参加で、近藤が京都に滞在した試衛館の一同に、武具を届けさせた際、斎藤の名前はなかったという話もある上、斎藤には身を隠す事情もあり。既に京都在住で、隊士募集の告知を見て加入したのも、十二分に考えられます。

いずれにしても、斎藤一の名が世の中の表に出たのは、1863年(文久3年)。
芹沢鴨一派と近藤勇ら一派が壬生浪士組を結成し、京都守護職を務める会津藩藩主・松平容保公の預かりとなった時からです。
♀年齢域の磨きが掛かる時期とも合致。剣の腕と性格を買われたのか、20歳で副長助勤に抜擢。翌年の元治元年(1864年)には、池田屋事変で土方隊として活動します。
事件後に幕府と会津藩から手厚い恩賞を与えられました。
その後第一次長州征伐に向けて、さらに組織化される新選組の中で、斎藤一は三番隊組長を任されるだけでなく、撃剣師範も務めます。

土方の信頼が厚い=汚れ役の引き受け手でもあり、荒木田左馬之助・武田観柳斎・谷三十郎らの内部粛清も、斎藤が行ったといわれています。これに関しては、どこまでが事実かはわかりませんが、伊藤甲子太郎一派が分派した高台寺党に、間者として入り込んで、油小路事件を成功させたのは斎藤の功績でしょう。
土方は斎藤を重宝し、彼が強い剣士であったことは真実で、永倉新八は自身の弟子に、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」語っています。
しかし1867年(慶応3年)の晩秋、第15代将軍徳川慶喜が大政奉還をした後、1868年(慶応4年・明治元年)早々に鳥羽・伏見の戦いが始まり、時代の風向きは変わりました。

英国から新型の銃や兵器を、潤沢に買い付けた薩長土肥の軍勢を前に、刀と旧式の武器で戦う幕府軍は、苦戦を強いられた末、錦の御旗を前に逆賊扱いを受けてしまいます。
斎藤だけでなく、新選組も個人の強さではどうにもならず大敗。
江戸に戻った後には甲州勝沼に転戦し、斎藤は常に最前線で戦いますが、戦局が覆ることはありませんでした。やがて千葉の流山で隊士を逃がした近藤勇は新政府軍に投降。
その後斬首刑となります。

江戸に戻った斎藤は、土方歳三ら新選組残党と合流。この時点で新選組全盛期を支えた沖田総司・永倉新八・原田左之助等の姿はなく、幹部クラスは土方と斎藤の二人だけになっていました。大鳥圭介率いる伝習隊や秋月登之助ら旧幕軍部隊と共に、北進して戦いますが、宇都宮城の戦いで、足を損傷した土方は戦列を離れます。
治療のため若松城下に向かった土方の代わりに、新選組を率いたのが、斎藤一でした。
会津藩の指揮下に入り、白河口の戦い、激戦の母成峠の戦いにも参加しますが、敗戦により若松城下に退却。土方と合流したのはこの退却の最中だったのです。

土方や大鳥たちは再起をし、仙台に転戦してゆきますが、ここで斎藤一と数名の新選組隊士は、会津に残留を決意しました。
会津戦争の期間は1868年6月10日 - 1868年11月6日ですが、この1868年は斎藤一♀年齢域最後の1年でもあります。
彼の♀年齢域を彩って価値を高めたのが新選組であり、その新選組をバックアップしたのが、会津藩であり松平家だったこと。手厚い報奨を貰えたことへの恩義等、一方ならない思いがあったのでしょう。

因みにこの数年間。斎藤一が死線を潜り抜け、生き残ってきた占星術的理由は、彼が生まれながらに持つ、北半球に集まる星々をトランジットの♃が通過したからかもしれません。その♃、会津戦争を迎えた夏には、♈で♆と合。斎藤一の♂♇を刺激。またこの頃は、N☀☽♆の対局にT☀。N☿♄の対局に☿が入ってきます。
この辺りを見ても、組織移動や厳しい戦いは否めない感じ。
「新選組の隊名と共にこれ(会津)に死なん」という斉藤の言葉が示すとおり、会津藩士とともに、彼は新政府軍への抵抗を続けました。会津藩が降伏した後も、斎藤は戦い続け、藩主松平容保が派遣した使者の説得を受け、ようやく投降したのです。

一方で当時の会津領民はどうだったかというと、藩が新政府に徹底抗戦の構えを見せたことから、領民は苛酷な租税を課された上に、戦渦に巻き込まれたのでした。
新政府軍の拠点確保の阻止という名目で、一部の村を焼き払ったことも恨みとなったと思います。進軍してきた新政府軍に反発するよりも、大量の人夫・馬・軍資金等の徴発に応じる者までいたそうで、征服者の新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼び捨てにしていたそうです。

熾烈な戦は武家だけだったわけですが、降伏後の斎藤一は、捕虜となった会津藩士とともに、旧会津藩領の塩川。後に越後高田で謹慎生活を送りました。
そして斎藤一の♀年齢域最後であり、☀年齢域最初の年1869年(明治2年)。会津松平家は再興を許されます。陸奥国内で3万石程度。猪苗代か下北半島のどちらかを、松平家側で選べたのですが、東京で捕虜となっていた旧会津藩幹部が下北半島を選択しました。
藩名は新たに斗南藩と命名され、斎藤も斗南藩士として、下北半島へ赴いたのです。

☀年齢域は新たな人生 再婚・改名・就職は日本初お巡りさん。

斗南藩領五戸に移住した斎藤一は、篠田やそという女性と結婚しました。
篠田家は会津藩の名家で、飯盛山で自刃した篠田儀三郎(白虎隊士中二番隊)の遠縁にあたるそうです。会津の冬も厳しいですが、さらに厳しい極寒の下北半島への移住で、多くの凍死や餓死者を出しました。斎藤の環境も安易ではなかったと推察はできるので、何か事情はあったのでしょう。そやと離婚をした後、1874年(明治7年)3月17日。
元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚しています。

上仲人は元会津藩主松平容保公。下仲人は三人いて、元会津藩家老の佐川官兵衛・山川浩(大山捨松の兄)・倉沢平治右衛門という会津藩首脳部が固めた婚姻でした。
時尾夫人は大変面倒見の良い優しい女性で、やがて二人の間には男の子三人が授かりますが、この婚姻の時に何故か藤田五郎に改名。同年7月東京に戻り、就職先は警視庁。
斎藤一はお巡りさんとして人生のリスタートを切ったのです。

1877年(明治10年)これは青年戦争の年ですが、内務省警視局で警部補に昇任した斎藤一は、同年5月に、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として、鹿児島に向かいます。会津からすれば、恨み晴らしでもあったこの戦には、下仲人を務めたくれた佐川官兵衛と山川浩も参戦しています。(佐川は戦死)

☀年齢域の輝かしい時であり、33歳。近藤勇が鬼籍に入った満年齢も33歳。土方も同じような年で明治2年に戦死しています。推測の域を出ませんが、何か感慨深いものがあったかもしれません。戦地で俊敏に斬りこんだ斎藤一は、敵弾で負傷するも奮戦しました。
それが当時の東京日日新聞(現・毎日新聞)に報道されたそうです。そして☀年齢域が終わり、♂年齢域が始まる1879年(明治12年)の10月。
西南戦争への功労で、政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与されました。

1881年(明治14年)警視局が廃止されたことで、一旦軍省御用掛の身となりますが、警視庁の再設置により11月に巡査部長に返り咲き。1888年(明治21年)には、麻布警察署詰外勤警部として勤務しました。
当時の麻布警察は増上寺の近くにあり、斎藤一はそこからほど近い実家である山口家の土地(現在の泉ガーデンタワー入口付近)を買い、妻と三人の息子暮らしたそうです。
♂年齢域は、仕事の充実期であり、家族も大切にしていたのでしょう。

お巡りさんから学生たちを守る仕事にシフト♃年齢域。

♃年齢域に入って3年後の1891年(明治24年)。この年は警視庁が人員削減を行ったのです。文京区の本郷警察勤務になったものの、人員削減のあおりを受けて1892年(明治25年)12月には退職しています。しかしこれで終わらないのが♃年代域。
教育者の高嶺秀夫(元会津藩士)の紹介で、1894年(明治27年)4月から1898年(明治31年)まで、約4年。東京高等師範学校(現筑波大学)の附属東京教育博物館(湯島聖堂構内にあった現・国立科学博物館の前身)の看守を勤めています。

一方で奥さんの時尾も仕事のスタイルが、この時期変わりました。
警察を退職した後、2年ほどそれなりに過ごせたのは、奥さんも働く共稼ぎだったからなわけです。時尾はこれまで東京女子高等師範学校(現お茶の水大学)の寄宿舎で、舎監をしていましたが、体不調のため休職することになりました。
今の時代よりもはるかに不便な明治時代ですが、仕事に家事に育児。多くの女性は活動的でした。時尾も働く女性だったのでしょう。自宅を寄宿舎にすることを思い付き、現・文京区本郷4丁目13~14番地の家を借りて、寄宿舎を始めたのです。

妻は自宅で寄宿舎を営み、夫は博物館の看守を勤めつつ、東京高等師範学校の撃剣師範もしていたという世話好き夫婦は、仲が良かったのでしょう。斎藤一は長男の勉、次男の剛、三男の龍雄にも、剣術や武士の心得を教えていたようです。
>父はたびたび竹刀を持って物陰に潜み、自分たちが帰宅すると不意打ちして『士道不覚悟!』と叱った。
「武士たる者は、玄関を出るときは頭から先に出るな、足から出よ、不意に斬りつけられた場合、頭をやられれば致命傷だが、足ならば倒れながらも相手を下から突き上げて殺すことができる」と説教をよく受けた事を、孫にあたる藤田實氏が、自身の父の勉(陸軍士官学校第9期。陸軍歩兵中佐)から聞いたという話。

学生に剣術を教えていた時、誰もその竹刀に触れることができなかったという逸話も残っていますが、まさに最後の侍だったのかもしれません。
♃年齢域の最後であり、♄年齢域が始まる 1899年(明治32年)に退職をすると、今度は東京女子高等師範学校の庶務兼会計掛として、1909年(明治42年)60歳まで勤めます。
事務方仕事の傍ら、女生徒の登下校時、人力車の交通整理もしたそうです。お巡りさんだったのですから、交通整理はお手の物ですよね。
1904年(明治37年)~1905年(明治38年)の日露戦争で、長男の出兵があったものの、
生活は穏やかで山川浩や高嶺秀夫との親交も長く続きました。

♅年齢域に入って間もない1915年(大正4年)。永倉新八が鬼籍に入った後、秋分を越えた9月28日。斎藤一は東京府東京市本郷区真砂町の自宅でその生涯を閉じます。
会津戦争の時、残ると決めた福島県会津若松市の阿弥陀寺に葬られました。享年72。
床の間で結跏趺坐をして往生を遂げたという言い伝えも残っていて、それはいかにも幕末の剣士斎藤一らしいといえます。
それ以上に動乱の幕末期を刀で生き抜いた先で、妻子と友に恵まれ、地道で穏やかな晩年を歩めたのは、ひとえに彼の人柄によるところが大きく、その証が結跏趺坐かもしれません。