西郷隆盛を兄のように慕い、大久保利通亡き後の明治政府で、薩摩藩を代表する存在となった黒田は、伊藤博文に次いで第2代目総理大臣の椅子に座った人物です。 
しかし、故郷の鹿児島には、彼の銅像も石碑も記念館もありません。何故そうなのか、星回りと共に、その人生を見てゆきたいと思います。

経歴(ウィキ&各種資料参照)

1840年11月9日〈天保11年10月16日〉薩摩国鹿児島城下新屋敷通町(現在の鹿児島県鹿児島市新屋敷町)に住む薩摩藩下級藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれる。
1862年(文久2年) 生麦事件。随行の一人として遭遇する。
1863年(文久3年)薩英戦争後、江戸で砲術を幕臣・江川英龍に学び皆伝を受ける。
1866年(慶応2年)薩長同盟。盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説く。大坂で西郷吉之助と桂小五郎の対面を実現させる。
1868年(慶応4年)鳥羽・伏見の戦い。薩摩藩の小銃第一隊長として参戦後、          山縣有朋とともに北陸道鎮撫総督・高倉永祜の参謀に任命される。鯨波戦争に勝利・長岡藩と新発田藩を攻略。西郷と共に米沢藩と庄内藩を帰順させた後、一度帰国。
1869年(明治2年)箱館戦争が始まり、清水谷公考中将の参謀を命じられる。榎本武揚に降伏を勧め、函館戦争を終結させた。中山清(せい)と結婚。
1870年(明治3年)樺太専任の開拓次官就任。
1871年(明治4年)1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行。米国の農務長官ホーレス・ケプロンが顧問に赴くことを承諾。
1873年(明治6年)ケプロンの献策に基づいた基盤整備事業を見直し、即効性を求めて産業振興に重点を移す。征韓論に際し、内治重視の立場から西郷らに反対する。
1874年(明治7年)陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられる。
1875年(明治8年)樺太・千島交換条約
1876年(明治9年)朝鮮と交渉する全権弁理大臣となり日朝修好条規を締結。
1877年(明治10年)西南戦争 
1878年(明治11年)肺を患っていた妻の清死亡。あらぬスキャンダルが飛ぶ。
1881年(明治14年)開拓使官有物払下げ事件
1887年(明治20年)第1次伊藤内閣の農商務大臣
1888年(明治21年)第2代内閣総理大臣となる。大日本帝国憲法の発布
1889年(明治22年)改正の条件に外国人の裁判官を置くという別の不平等が、国内の反対を受け倒閣。首相辞任後、枢密顧問官となる。
1892年(明治25年)第2次伊藤内閣の逓信大臣になる。
1900年(明治30年)脳出血のため死亡。享年61。葬儀委員長は榎本武揚であった。

ホロスコープ1840年11月9日 鹿児島県鹿児島市

太陽星座 ♏ 16°49
月星座  ♉ 08°14



第1室 本人の部屋    ♑ ♆(♒12°07) ☊(♒23°30)
第2室 金銭所有の部屋  ♓ ♅(16°34)
第3室 幼年期の部屋   ♈ ♇(18°25)☽(♉08°14)
第4室 家庭の部屋    ♉ 
第5室 嗜好の部屋    ♊
第6室 健康勤務の部屋  ♋
第7室 契約の部屋    ♋
第8室 授受の部屋    ♍ ♂(17°20)
第9室 精神の部屋    ♎
第10室 社会の部屋    ♏ ☀(16°49) ♃(26°41)☿(♐09°04)
第11室 友人希望の部屋  ♐ ♀(14°34)♄(19°57)
第12室 障害溶解の部屋  ♑

12室にこそ惑星はありませんが、東半球に星が集まっているボール型のホロスコープと考えていいと思います。実際黒田はカンも鋭さだけでなく、自身の知識や経験をフル活用することで、戊辰戦争で越後方面の戦局、函館戦争を勝ち進んでいます。
9室精神の部屋にある♏の☀も重要ですが、♐にある☿・♀・♄の三惑星がホ目立つと思います。☿はギリギリ第10室社会の部屋。♀と♄は第11室友人希望の部屋に分かれますが、粘り強い話をする傾向を秘めたこの三惑星。第2室金銭所有の部屋♓の♅とスクエア。
♀と♄は、第8室授受の部屋♍の♂ともスクエア。第3室にある♈の♇とトリン。
そして☿と♀は、第1室本人の部屋の♆とセクスタイルを形成しています。
仕事絡みの移動が起きやすく(転勤のある仕事に就きやすい傾向)、対人関係において拘りや癖が出やすいのもあり。
♏の☀は、第3室幼年期の部屋♉の☽と不動宮のオポジション。第2室金銭所有の部屋♓の♅と、第8室授受の部屋の♍の♂の柔軟宮のオポジション。
どちらも女性星座の組み合わせ。
☀は♂とセクスタイルも形成し、これも女性星座同士。
そして黒田の☀と☽は、個性を光らす♆とスクエア。
☊は♇とセクスタイル。第10室の♃とのスクエアとなっていて、インスピレーション豊かで、人の質を見抜く目、人の面倒見の良さも持ち合わせていますが、感情の起伏による気の弱さ、エキセントリックな面も潜んでいます。

異文化の激突が生んだ新たな道

薩摩藩には武士の子供同士で学び合う郷中(ごじゅう)という、独特の育成プログラムがありました。西郷隆盛と一回りほど離れて生まれた黒田清隆。二人は先輩後輩の関係で、黒田の通称は仲太郎・了介。明治時代に子爵となった黒田清綱(黒田清輝の伯父であり養父)の遠縁という説アリ。
示現流の使い手で、後年宗家の東郷重矯(とうごうしげかた)から皆伝を受けた黒田が時代の片鱗に接するのは、教科書にも出てくる幕末事件の一つ「生麦事件」からです。
1862年9月14日(文久2年8月21日)。武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)で、文久の改革を行った薩摩藩主島津茂久の父・島津久光が京都へ戻るために行っていた大名行列と、対抗から馬に乗ったイギリス人4名が、鉢合わせした際に発生した殺傷沙汰です。
総勢400名の大名行列の中に、黒田清隆もいました。
近づくことも、横切ることもNGの大名行列。そんなことをしたら、たとえ子どもでも問答無用で斬られる事が当時の決まり事でした。しかし、外国人には通用しません。
1858年(安政5年)に結ばれた安政の五か国条約(アメリカ・オランダ・フランス・ロシア・イギリスが該当国。日米修好通商条約もこの中の一つ)によって、該当国の外国人が、日本で何らかの犯罪をした場合、彼らの国の法で裁くことが決まっていました。
注意と警告はできても罰することはできないのです。制止するように求めても、4人のイギリス人は止まらずに、馬を進めて大名行列の中に分け入ってしまいました。(意思の疎通が図れなかった可能性大)久光公を守るために刀の柄に手をかける家臣たち。黒田は仲間の抜刀を止めていました。
4人が久光公の乗る籠の近くまで距離を詰めた時、とうとう家臣が切りつけてしまい、イギリス側は1名が死亡。2名が重傷を負ってしまったのです。
この事件は東海道の宿場界隈に広がり、幕府は苦虫をかみつぶし、庶民は殿様思いの薩摩藩を褒めました。アメリカのニューヨークタイムズに報じられる事で、主要国にも知れ渡ります。イギリスに同情する意見もありますが、道理をわきまえないイギリスの非礼を責め、主君を警護した薩摩藩士を褒める意見もありました。

憤慨したイギリスは、江戸幕府と薩摩藩の両者に賠償と謝罪を求めます。世界各地に植民地を持つ大英帝国は、アジアの端にある未開の国がいう事を聞くのは、当たり前と思っていました。外国とのもめ事を避けるため、イギリスの要求をのむ幕府。しかし薩摩藩は、犯人の身柄引き渡しも重ねての賠償金要求を、あっさりと拒絶。
未開の国に属するさらに小さな藩が「無礼を働いたのは、そちら。当方謝る筋なし」という態度を取ったのです。大激怒したイギリス政府は、幕府からの賠償金を積んだ艦隊に、薩摩藩攻撃を命じて、鹿児島湾に向かわせました。
こうして1863年8月15日–17日(文久3年旧暦7月2日–4日)薩英戦争は起こったのです。イギリス艦隊による砲撃で、薩摩藩の砲台は破壊され、薩摩藩の城下町10分の1(約500軒)ほどが焼かれました。しかしこの戦争、イ摩藩の大砲による応戦で、ギリス艦隊側も一艘撃沈されてしまい、多数の戦死者と負傷者が出ています。
自国側に犠牲が出た戦報告に驚くイギリス本国。
近代兵器で戦争を仕掛けられ、公武合体や攘夷熱が一気に冷めた薩摩藩。(賠償問題は幕府に棚上げ)両者ともこの戦争を機に、互いを観る目が変わり交易が始まります。その潮流が黒田だけでなく、この時代を生きる多くの志士の人生にも影響を与えました。
再び江戸へ赴き、砲術の皆伝を受けた黒田は、西郷吉之助(隆盛)に目をかけられます。
交渉事がうまく、フットワークが軽い黒田は、西郷や大久保に信頼され、長州と薩摩の間を取り持つ薩摩側の連絡係として働きました。
1866年(慶応2年)薩長同盟は結ばれますが、西郷吉之助と桂小五郎(木戸孝允)の対面の実現は、使者として長州に赴いた黒田の功績も一役かっています。

東北を凌駕した戊辰戦争。クライマックスは函館戦争へ。

1868年(慶応4年)薩摩藩の小銃第一隊長として、鳥羽伏見の戦いに参戦した黒田は、長州藩の山縣有朋とともに、北陸道鎮撫総督・高倉永祜の参謀に任命されました。
北越から庄内までの戦線を進軍。気候・地形も相手となる越後戦に、新政府軍も苦戦しますが、黒田は新発田藩を降し、新潟を占領。秋田に上陸して西郷と合流します。
荘内(庄内)藩は、1864(元治元年)禁門の変以降、新政府軍とは因縁浅からずの仲で、1867年(慶応3年)には、幕命による江戸薩摩藩邸焼き討ちに関わっていました。
新政府軍への抵抗がかなり強かった庄内藩に対し、快く思わない者もいましたが、西郷と黒田は、これまでのことは幕命で行った治安維持活動の一環であり、複数の藩と共同で仕事をしただけ。という見解で庄内藩に接したのです。
 庄内藩にこだわったのは、日本一の豪商本間家の取り込みもあったと思いますが、米沢藩同様、庄内藩にも寛大策を持って帰順させました。 折衝の間、西郷は姿を見せず、城受領までの対応は、すべて黒田が行っていました。
庄内藩中老の菅実秀(すげさねひで)は、黒田との会談で西郷の考えに感化され、明治時代、西郷を訪ねて江戸と鹿児島を訪れています。

一旦鹿児島に帰った黒田は、翌1869年(明治2年)。清水谷公考中将の参謀を命じられ再び上京。軍務官として函館戦線に向けて東京を出港しますが、同年5月6日(明治2年3月25日)宮古湾で、榎本武揚率いる旧幕府艦隊との海上戦に遭遇します。

江戸城が無血開城となった後、徹底抗戦を主張する榎本たち旧幕府軍は、奥羽列藩同盟が敗れた後、新政府軍が手薄の蝦夷地(後の渡島国)の箱館に向かい、五稜郭を拠点に榎本を総裁にした箱館政権を樹立ました。しかし、その矢先、旗艦開陽丸を暴風雨で喪失し、新政府軍に対して海上戦力で劣勢となってしまったのです。戦力不足に頭を抱えたところに、宮古湾に新政府軍の艦隊と輸送艦数隻が入港する情報をキャッチ。
この艦隊の中に、以前アメリカと引き渡しについて、自身が交渉をしていた甲鉄があるのを知った榎本は、戦闘力の高い甲鉄を入手できれば、今後の対外交渉において有利にと考え、海軍奉行たちの奪取計画を了解したのでした。
予め陸兵を乗りこませた箱館政権の回天・蟠竜・高雄の三艦に、外国旗を掲げて宮古湾に入港させ、攻撃開始と同時に旗を日章旗に換え、戦艦甲鉄に接舷。潜んでいた陸兵が、甲鉄に斬り込んで舵と機関を占拠するという計画で、だまし討ちですが、奇計を用いることは、万国公法で認められていたので違反にはなりません。
いざ決行の夜。暴風雨に遭遇してしまい、3艦を繋いでいた大綱が切れて、2艦のみで宮古湾に入ったのでした。

外国旗を揚げた2艘の船が湾内に近づく情報を受けた黒田は、念のため斥候を出して船の確認するよう、海軍に促しましたが、旧幕府軍を軽視していた新政府海軍は、黒田の要望を受け付けず、そのままにしていたのです。
その結果、翌日、旧幕府軍によるアボルダージュ作戦(接舷による白兵戦)が決行されました。土方歳三率いる新選組の残党と、彰義隊(上野戦争)の残党が、抜刀隊として参戦した接舷奪取作戦は、旧幕軍の回天よりも新政府軍の甲鉄が重武装であったことからも分が悪く、失敗に終わりましたが、新政府軍も痛手を受けました。

北海道の江差に上陸した黒田は、旧幕府軍との最終戦の総指揮を執ります。
攻撃の手をゆるませず、優秀な人材を助命のため内部工作を怠らない黒田は、敵を五稜郭に追い込みながら、熱心な降伏説得を敵の総大将である榎本に向けました。
その熱心さに榎本はオランダ語で書かれた「万国海律全書」を、新政府軍に渡します。
当時の航行に関する国際法の全書で、これからの新政府で使ってくれるようにと渡された黒田は、この本の持つ価値だけでなく、内容を熟知している榎本に感銘を受け、酒5樽と鮪5本を彼に贈っています。この時、両者の使者であった箱館病院長高松凌雲により、榎本は投降を承諾し、黒田に自身の命と引き換えに部下の助命を願い出て、函館戦争は終結しました。高松凌雲は大阪適塾で福澤諭吉と同門の間柄です。榎本は諭吉の妻の縁者でもあるため、早い段階で黒田の方に嘆願があったのでは、という節もあります。

北海道の守りと開拓。西郷との別れ。

箱館戦争が終わった年の師走に結婚した黒田は、1870年(明治3年)。開拓次官として北海道の開拓を指揮してゆきます。
1855年2月7日(安政元年)の日露和親条約以降、ロシアは広大な北海道南下を目論み、樺太に人を送り込んでいました。未開発の原野をロシアから守り、どう開拓をするか。開拓使の事実上のトップを務めながら、黒田は政府首脳として活躍しました。
1871年(明治4年)アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を視察。米国の農務長官ホーレス・ケプロンと縁を持ち、彼が北海道の開拓顧問に赴くことをはじめ、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇い入れる「お雇い外国人」の招請の道を開きました。
これによってクラーク博士の来日も実現し、後に新渡戸稲造や内村鑑三といった明治から大正の学問、農業を支える者たちの学び舎が作られたのです。

忙しい最中の黒田でしたが、助命嘆願活動も地道に行っていました。榎本への厳罰を求める新政府に対し、榎本のために頭を剃髪にして、各方面に頭を下げ奔走する彼の姿を見た西郷は「まことに頼もしい人物」と褒めたそうです。
1872年(明治5年)。榎本武揚は特赦により出獄しました。喜ばしい反面、隣国の李氏朝鮮との交易をめぐり、海外視察から帰国してきた岩倉使節団と、西郷をはじめとする征韓論派と意見が分かれてしまいます。
やがて征韓論に同意する者たちと共に西郷隆盛と板垣退助は、1873年(明治6年)明治六年の政変を起こし、それぞれ郷里に帰っていきました。

西郷と距離のできた黒田は、陸軍中将に昇格後、参議兼開拓長官の任に就くと、榎本をはじめとする五稜郭戦の生き残りたちを起用。日本とロシアの間に樺太・千島交換条約を締結させ、明治政府を通じて北海道移住者を募集します。
これが北海道開拓動員制度=屯田兵なのですが、旧幕軍に仕えていたことで厳しい暮らしを強いられる者たちや、廃刀令をはじめ身分制度もなくなり、武士として生活ができなくなる者たちを中心に、職と生活の場として北海道を与えることで、開拓と防衛の強化を図るのが目的でした。
これは徳川政権が終わり、政権が移行することで、多くの武士が職を失うことを見越した龍馬と西郷が、大政奉還前に思い描いていたプランでもあり、龍馬は暗殺されなければ自ら北海道開拓を考えていたのです。
そのプランの具体化と定着を、屯田兵制度として黒田は実体化したのでした。
 江華島事件(こうかとうじけん)では、特命全権弁理大臣に任命され、日朝修好条規の締結も行い、政治家としての立場も重くなってきた黒田ですが、江華島事件も含めての征韓論。ロシアとの樺太紛争解決などについて、完全に意見が食い違ってしまった西郷との関係は、西南戦争1877年(明治10年)によって終止符が打たれます。

西南戦争が始まると、政治家から黒田は一時武官に復帰。征討参軍として熊本城の攻防戦に臨み、反乱軍を鎮圧しました。打ち取る側も打ち取られる側も、同郷同士、とてもやりきれなかったのでしょう。山縣有朋が到着すると、黒田は征討参軍を辞任します。
そして入れ替わりのように、黒田が手塩にかけて訓練した屯田兵が鹿児島に到着。
この戦闘で彼らは存分に活躍しました。後に屯田兵は、徴兵に苦労した日清日露戦争にも参戦しています。西郷の死をもって終わった西南戦争ですが、明治維新を共に戦った者たちの心に傷を残しました。その影響が顕著に出たのが、黒田なのかもしれません。

ストッパーを失った重鎮

西南の易からまだ時期も浅い翌年の春。肺を患っていた黒田の妻清が亡くなります。
翌々日には荘厳な葬儀が行われましたが、葬儀も済んで間もなく、「夫人は病死ではなく、酒に酔って帰った黒田が斬り殺した。「否、殴り殺した」という噂が流れ出し、それが新聞記事にもなって、大スキャンダルが発生しました。
実は黒田。酒で暴れる気があり、見かねた木戸孝允(最強武術家(柔術家)と言われていた)に取り押さえられ、毛布で簀巻きにされたまま、自宅へ送り返されるエピソードと、これだけなら笑い話でも済みますが、開拓長官時代に酷い奇行をやっているのです。
御用外国人クラーク博士(『少年よ、大志をいだけ!』のあの方です)と、一緒に乗船した船の中で口論となったうっぷん晴らしで、船に設置されている大砲を陸めがけて打ち放し、数件の民家を破壊。罪もない漁師の娘を殺してしまったのでした。
この件は示談金で済ませていましたが、その上での妻殺しスキャンダルだったのです。
しかも黒田と妻の清は、日ごろから彼の女性問題で不仲といううわさも流れていました。
伊藤博文と大隈重信は、法による処罰を主張。当の本人の黒田は辞任を希望します
その辞任に待ったをかけたのは大久保利通で、彼は周囲をいさめ黒田を説得し、同郷で大警視の川路利良に、事の真相の調査を命じました。
川路は医師を伴って埋葬した清の墓を開け、遺体確認した上で病死と結論付けて、この一軒に幕を引きますが、調査から約二週間後、紀尾井坂で大久保利通が暗殺され、自首した犯人達が持っていた<斬奸状>には、大久保利通断罪の一つに「黒田清隆の妻殺しの一件」が掲げられていたそうです。
事の真実はわかりませんが、黒田に対する世間の疑いの目は、晴れてなかったのです。

日ごろは豪胆な黒田ですが、酒に弱く酒乱の気があるのを、ホロスコープで観るとするなら、武士としての男らしさと、☀と☽が持つ女性性星座との不協和音。♈♐♒といった男性星座にも星はありますが、♆のあいまいさや♄のブレーキ。♇の重さが伴うため、固着に陥りやすく、♆と☀(どこか揺らぎ安い弱さと浸りやすさ)。♅と♂の力の柱。
♂は♄、♅90°でしょうか。♅は♀と°セキスタイルではありますが、対人運の☊と♄の組み合わせも、人付き合いに癖を伴うでしょう。
 前年の西南戦争の頃から、黒田のN♅にT♄がかかっていること。
奥様が亡くなった時は、♒の☽で、N♆合。N♄とT♄はスクエア。N♂とT♄オポジションです。♓に♅を持つ黒田にとって、良くも悪くも運勢の締め付けが行われる時期になり、大きな変化が来ていたとみてもいいかもしれません。

いずれにしても自分を律してくれた木戸・西郷に続いて大久保を失い、精神的ストッパーを失ったまま薩摩閥の重鎮となった黒田は、開拓使の廃止方針が固まると、北海道開拓事業が見直しとして、開拓使の官営設備を同郷の人物に払い下げを企画しますが、これが新聞に開拓使官有物払下げ事件と報じられます。
薩摩閥へのえこひいきとして、世間から強い批判を浴びて払い下げは中止。黒田は開拓長官を辞任しますが、それだけでは済まず、明治十四年の政変となり大隈は失脚します。
6年後の1887年(明治20年)第一次伊藤内閣が発足し、農商務相を務めた黒田は翌年の1888年(明治21年)。第2代内閣総理大臣となります。
在任期間は1888年4月30日- 1889年(明治22年)10月25日大日本帝国憲法の発布及が主な仕事でしたが、憲法制定には深く関与してなかった黒田は「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」という超然主義の演説を、鹿鳴館で行っていました。

大隈重信が主導した不平等条約改正交渉の失敗によって、大隈自身が襲撃されたことから、通算544日の短命政権でしたが、スキャンダルを抱えて世間の目が厳しい黒田は、総理の椅子に座ることに消極的だったのも要因かと思もわれます。
「大隈どん、貴君の片足を失ったのは、私の片足を失ったより残念じゃ」
重傷を負った大隈を見舞った黒田の言葉が残っていますが、元々対立していた大隈の入閣交渉をしたのも彼で、自由民権運動のリーダーである後藤象二郎等も説得しています。
必要とあれば榎本の時同様、相手が政敵であっても懸命に説得する黒田の度量に、相手は共鳴し、協力を約束させられる不思議な調整能力を持っていました。

酔って大砲を誤射して民間人の死亡者を出した件。
開拓使官有物払下げ事件(これは酒ではなく彼の拘りが原因)
内閣辞職後、条約改正案に反対していた井上馨への鬱積で、真冬の深夜に酔ったまま井上邸内に忍び込んで、奥方を刀で脅かした事件。

それでも総理辞任後、枢密顧問官、第2次伊藤内閣の逓信大臣。1895年(明治28年)枢密院議長と、今時なら考えられない話ですが、明治政府の中枢に用いられたのは、平素の能力が高かったからでしょう。
北海道の守りと開拓である屯田兵を組織したことは、近代史上もっと評価してもいいのではないかと思います。かつては酒が入って暴れても抑えてくれた明治の三傑がいましたが、彼らがいなくなった後、自分の弱さと向き合えなかった黒田は、愚行奇行を繰り返し、長州閥に疎まれ、同郷の人々も離れていきました。
1900年(明治33年)脳溢血で他界(享年59歳)するまで、身近な付き合いをしたのは旧幕臣たちで、葬儀委員長は榎本武揚が務めています。
「酒は飲んでも飲まれるな」ではありませんが、どんなに素晴らしい業績を出した人でも、自制を失うほど飲んで暴れ続けるなら、本人は孤独になるし、評価も色あせてしまいます。郷里に黒田清隆の博物館も銅像もないのは、これが理由なのかもしれません。