五千円札や一万円札に比べると、千円札は誕生から今日まで入れ替わりがあります。
1 日本武尊と建部神社 1945年8月17日~1946年3月2日
2 聖徳太子      1950年1月7日~1965年1月4日
3 伊藤博文      1963年11月1日~1986年1月4日
4 夏目漱石      1984年11月1日~2007年1月4日
5 野口英世      2004年11月1日~ 2019年9月現行
6 北里柴三郎     2020年以降(予測では2014年11月1日と言われている)
という順に並びます。そして今回は、旧千円札の夏目漱石を取り上げました。
「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「三四郎」をはじめ、数々の代表作は誰もが人生のどこかで触れる作品群。小説家の前職が教師だったことも周知ですが、漢文や俳句をたしなみつつ、英文学家・評論家の顔を持ち、多くの文豪に影響を与えた夏目漱石。いったいどんな星のもとに生まれたのか観てみます。まずは略年表から。

1867年2月9日(慶応3年1月5日)大政奉還、王政復古の大号令。
牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)夏目直克(なつめ なおかつ)と千枝夫妻の5番目の子として誕生。金之助が本名。漱石は正岡子規から譲り受けたペンネーム。
1868年(慶応4/明治元年)戊辰戦争/四谷太宗寺門前の名主・塩原家の養子に出される。
1870年(明治3年)天然痘の影響であばたが残る。
1876年(明治9年)塩原夫妻が離婚したため生家に戻る。復籍はかなり先になる。
1881年(明治14年)母千枝死去。
東京府第一中学校正則科(現東京都立日比谷高等学校)入学するが、中退し、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学する。
1884年(明治17年)第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。
1887年(明治20年)長兄・次兄がどちらも肺病で死去。漱石自身下宿先でトラコーマに罹る。
1888年(明治21年)夏目姓に復籍。第一高等中学校予科を卒業。
1889年(明治22年)正岡子規と出会う。子規の『七草集』の批評を漢文で書く。
1890年(明治23年)帝国大学英文科入学。 
1891年(明治24年)『方丈記』の英訳。
1892年(明治25年)- 東京専門学校(現早稲田大学)の講師となる。
1893年(明治26年)帝国大学卒業、大学院に入学。高等師範学校(のちの東京高等師範学校)の英語教師となる。
1894年(明治27年)  日清戦争。
1895年(明治28年)松山中学(愛媛県尋常中学校。現愛媛県立松山東高等学校)に赴任。貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いをして結婚。
1897年(明治30年) 実父・直克死去。
1900年(明治33年)イギリス留学。
1902年(明治35年)正岡子規死去 享年34歳。
1903年(明治36年) 第一高等学校講師と東京帝国大学文科大学講師を兼任。
1904年(明治37年)日露戦争。
1905年(明治38年)「吾輩は猫である」を発表。
1906年(明治39年)「坊ちゃん」を発表。
1907年(明治40年) 朝日新聞社に入社。教職を辞め職業作家の道を進む。「虞美人草」を朝日新聞に連載。
1910年(明治43年)胃潰瘍により入院、大量の吐血をする。
1912年(明治45年)明治天皇崩御 改元 大正となる。
1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発/ 桜島大噴火/「こゝろ」を連載開始。
1916年(大正5年)12月9日 胃潰瘍が原因で死去 享年49歳。

49歳。鬼籍に入るにはあまりにも早い年齢ですが、漱石が生まれたのは大政奉還、王政復古の大号令が発令された江戸時代末期。国も動乱期なら、幼年期の環境も変動の激しい状況が続いたのです。ホロスコープを見てみると、
太陽星座 水瓶座 19°56。
月星座  牡羊座 12°22。
12時設定ですが、月が牡羊座にあるのは確定とみてよいでしょう。

第 1室 本人の部屋    双子座  
第 2室 金銭所有の部屋  蟹座 ♅4°44 ♂11°44
第 3室 幼年期の部屋   蟹座
第 4室 家庭の部屋    獅子座
第 5室 嗜好の部屋    乙女座 ☊23°44
第 6室 健康勤務の部屋  蠍座  ♄23°39
第 7室 契約の部屋    射手座  ♀(♑3°47)
第 8室 生と死の部屋   山羊座 
第 9室 精神の部屋    山羊座 ♃15°46 ☿17°58 ☼19°56(いずれも♒)
第10室 社会の部屋   水瓶座
第11室 友人希望の部屋 魚座  ♆10°42 ☽12°22(いずれも♈)
第12室 障害溶解の部屋 牡牛座 ♇13°13



ホロスコープの上部。第10室を除いた南半球に星が集まり、その中でも第9室にある水瓶座の☼☿♃の三連星がひときわ目を引きます。
北半球は第1室の♅と第2室♂。そして第6室♄のみ。完ぺきではないけれど人生観やモノの見方に独特な感覚をもちやすい傾向ありなバンドルタイプ。

漱石の核ともいえる水瓶座の三連星を支えるように、第6室の♄第12室の♇と重低音な緊張角度を形成。こだわりの強さから人一倍の努力すると、憂いごとも長引くことを暗示しています。そして三連星と軽やかな調和を結ぶ第11室の☽と♆は、勉学や研究を武器に文学の世界に進むことや、青年期以降の彼の人脈を後押ししたのでしょう。 教師から文筆業へ人生の駒を進めたのを物語っているようです。

♄は第8室の☊との緩やかな調和が、人生に不安定な色合いを付け、それを背景にするように、蟹座の♅は♂と共に、第7室山羊座の♀と対。第11室牡羊座の☽♆とは緊張角度を持つため、生い立ちの揺らぎと人生に苦悩をもたらしますが、特に晩年のこだわりや情念が潜む作品を育てる土壌にもなっています。


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翻弄と勉学の人生

幕末維新の混乱期。江戸・牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)で地域一帯の名主を務めていた夏目小兵衛直克と千枝夫妻の末子として、漱石は誕生します。
つけられた名前は金之助。「この日生まれた赤子は大泥棒になる」という迷信があり、その庚申の日に生まれたことから、厄除けの意味で「金」の文字を入れたという名前を付けられました。

夏目家は今でいう早稲田界隈を束ねる代々名主(税務署と公証人役場と弁護士事務所のような仕事)でしたが、祖父の代で道楽三昧で家は傾き、それを仕事まじめな直克が建て直したのです。生活には困りませんが、五番目の末っ子を両親とも望んではなく、漱石は生まれてすぐに四谷にある商家へ里子に出されました。
引き取り先の家に弟の様子を見に行った姉は、店先に寝かされたまま放っておかれている姿を見て、不憫になり連れ帰ってきてしまいます。直克の書生役である塩原昌之助の養子となったのは、その後のことです。

ここまででも変動のある生い立ちですが、3歳の時に疱瘡(天然痘)に罹患。残った痘痕はコンプレックスの種となり、7歳を迎えるころ、養父の昌之助が女性問題などを起こしたことが発覚。やがて塩原夫妻は離婚。
漱石は夏目家に戻りますが、直克と昌之助の間にあった信頼も破綻し、あおりを受けるように、夏目家への復籍は21歳の頃までかかってしまいました。

自堕落になった昌之助は、朝日新聞社で働くようになった頃の漱石に金の無心もしています。後の自伝的小説『道草』はこの養父母との関係を題材にしていますが、彼の持つ良くも悪くも憂いごとも長引く星回りも、この複雑な人生模様を物語っていると思います。

大人の事情で振り回された子ども時代。小学生の頃は転校もしています(すべて都内)が、市谷小学校から菊華小学校(現都立お茶の水小学校)への転校は、東京府第一中学(現都立日比谷高校)を狙っての転校ともいわれています。
勉強は得意だった漱石は、母親の死と重なった年の春。晴れて第一中学へ入学を果たしますが、大学予備門(のちの第一高等学校)の受験必須科目である、英語の授業がないのがわかると、あっさりと中退。漢学・文学を志していた漱石は、漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)へ入学します。

しかし、二松も中退。これは警視庁の翻訳課に勤める長兄が、秀才の末弟には英語を学ばせて出世させたいと願い、文学の道を阻んだことが原因と言われています。
凝り性と気まぐれが同居する水瓶座。そして☽は♆とともに牡羊座にあり、記憶ばっちりなおとめ座に♄を持つ漱石は、不安定な生い立ちと顔に残った痘痕から来るコンプレックスも相まって、頑固で感情の起伏も激しい性格でしたが、学力はとても高かったのでした。それだけに家族は過剰な期待を寄せたのかもしれません。

英語を学ぶために神田駿河台の英学塾成立学舎へ入学した漱石は、兄の見込み通り英語に長け、無事に大学予備門予科に入学。(現東大教養学部・千葉大学医学部・同薬学部の前身)しかし、その後予科二級の進級試験は、虫垂炎を患ったことから落第を経験します。
悔しい思いをしたのが励みと強迫観念になったのか、自活のため私立学校で教師をしながら学業に励む漱石は、ほとんどの教科において主席をキープしたそうです。

二十歳を迎える頃、長兄と次兄が相次いで肺病で亡くなり、自身もトラコーマに悩まされつつ、ようやく夏目家へ復籍。この辺りも水瓶座の三連星と、何かと時間のかかる♄。そして♇の影響があるのかもしれません。

盟友との出会いと英国留学

そして第一高等中学校予科を卒業し、同校本科英文科に入学した漱石は、日本近代文学に多大な影響を与えた歌人正岡子規と出会います。(1867年10月14日松山生まれ)
自由民権運動に影響を受け、政治家になる事を志して愛媛県から上京してきた子規ですが、俳句や短歌を含む創作好きな文学青年でした。

子規は漢詩や俳句などの文集『七草集』を作り、学友たちに回覧しますが、その巻末に漱石が漢文で批評を書いたことに感激し、友情が深まったエピソードは有名。
漱石は常に講義を受け特待生になっていきますが、自由気ままな子規は気が向けば出席し、漱石にノートを見せてもらうことが多かったという話や、夏目漱石の「漱石」は「漱石枕流」という負けず嫌いを表す故事成語で、子規が持つ数あるペンネームの一つで、頑固で怒りっぽい漱石にぴったりだと譲った逸話があります。

創設間もなかった帝国大学英文科で特待生に選ばれる漱石は、子規の他にも多くの学友が関わり、文学青年同士で楽しく過ごせた時間の裏側で、淡い恋心を抱いていたといわれる三兄の嫁登世との死別もあり、神経衰弱や悲観主義にもとらわれていたようです。
J・M・ディクソン教授から、「方丈記」の英訳を頼まれ、北海道へ籍を移すなど、兵役のがれのために小細工もしつつ、東京専門学校(後の早稲田大学)の講師を勤めました。
子規の故郷である松山をはじめ、大学の夏休みを利用して岡山や神戸を訪ね滞在。学年末試験に落第し退学をするという子規の手紙を受けとると、再び松山を訪ねています。

帝国大学を卒業した後、高等師範学校の英語教師になり、本格的に教員人生がスタートする漱石ですが、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え出し、肺結核を患ってしまい心身共にWパンチ。座禅なども試しますが効果はなく、まるで逃げるように職と東京の暮らしを捨て、旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任する経緯は、変わる時は何もかも変えてしまう風属性と、♆も絡む気がします。

静養しながら俳句結社「松風会」に参加。人脈と俳句を深めてゆく漱石は、三年後に松山を出て、英語教師として熊本の第五高等学校(熊本大学の前身)に赴任。
親族の勧めもあり、貴族院書記官長・中根重一の長女鏡子と見合いをして、結婚生活をスタートさせます。この頃漱石の俳句活動は成熟し、俳句結社の紫溟吟社を立ち上げますが、新妻は最初の子を流産してしまったことから精神的にも病み、穏やかな家庭生活とは縁遠かったようです。公私の明暗が続く中で、長女筆子が生まれた後に、漱石は文部省から英語教育法研究のための英国留学を命じられました。

ロンドン滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれていますが、初めての海外暮らしは物価高と官給の学費に苦悩。凝り性で突き詰める傾向を持つ漱石は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、シェークスピア研究家のウィリアム・クレイグの個人講義を受けつつ、文学論の研究を進めます。
研究に取り組めば取り組むほど、英文学研究への違和感がぶり返し、親友正岡子規の訃報なども重なり、極度の神経衰弱に陥ったために留学は2年で帰国となりました。

帰りの道中、たまたま同じ船にドイツ留学を終えた精神科医斎藤紀一が乗り合わせ、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、漱石が精神病を患っているためと心配したそうです。
帰国後は第一高等学校と東京帝国大学で教鞭を取りますが、前任が情緒豊かな小泉八雲だった東京帝大では、どこまでも分析的な硬い漱石の講義は不評を買い、第一高ではやる気のない態度だった生徒藤村操を叱責します。その数日に彼が華厳の滝で入水自殺を図ってしまったことから、漱石の神経衰弱は進み、明大などでも教鞭をとるものの、妻子とは約2か月別居します。


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心を和らげるための書き物から作家の道へ

子規つながりで知り合った高浜虚子が見舞いに訪れ、精神衰弱を和らげるために書き物を進めたのはこの時期で、処女作『吾輩は猫である』を執筆。
子規門下の会「山会」で発表したのがきっかけで、子規の友人柳原極堂が創刊した俳句雑誌「ホトトギス」に、同作品を読み切り掲載。好評なことから続編を書くこととなり、続けて『倫敦塔』『坊っちゃん』を掲載、次々にヒット作となります。

作家としての道を進む漱石の元には、小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りし始めて「木曜会」が作られました。ここに門下生として内田百間や芥川龍之介をはじめ、多くの作家が集い今もなお読み継がれる作品群が生まれてゆきます。

漱石は職業作家として進むため、教職を辞め朝日新聞社に入社。
初めての作品『虞美人草』の連載を開始し、一見順風なようですが、その陰では長きにわたった養父昌之助との腐れ縁があり、漱石は神経衰弱や胃病に蝕まれてゆきます。
友人中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行などもしますが、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃の病気が悪化。

入院をすることになった漱石に、門下の一人松根東洋城が転地療養を勧めます。思い切って伊豆の修善寺に赴きしますが、ここで大吐血を起こし「修善寺の大患」を発生。
生死の間を彷徨う体験をしますが、これがその後の彼の作品に影響を与えたといわれています。容態が落ち着き元の病院へ再入院。その後も胃潰瘍をはじめ病気に苦しめられつつ、執筆や講演活動も行う漱石は1916年(大正5年)12月9日。『明暗』執筆途中に体内出血を起こし自宅で死去するまで、彼は執筆を続けたのでした。

作家としての歳月は10年ほどで、作品を世に出してゆく宿命の中には、生い立ちの苦悩と病魔と闘いが織り込まれた夏目漱石。家庭人としてみると、難点もつきますが、人間のエゴイズムを燻りだす後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』を生み出した背後には、☼☿♃の三連星をはじめ、星々も一役買っていると思います。
そうならざるを得ない生い立ちや、彼の気質に星回りも視点に入れて、もう一度読んでみてもいいかな。と、彼のホロスコープを見ながら思いました。


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