山岡鉄舟ホロスコープ

最後の将軍徳川慶喜の命を受け、江戸へ向かって進軍する東征軍の前に立ち、江戸城無血開城の道を切り開きますが、あまり表には出てきません。
明治時代になると、静岡県知事を務めますが、西郷隆盛に乞われて明治天皇の従者となりました。今回は、剣も書も禅も通じるオールラウンダー。山岡鉄舟の星回りです。


1836年7月23日(天保7年6月10日)江戸本所(現墨田区)生まれ 出生時間不明

☀星座 ♌ 0°12  第1室本人の部屋
☽星座 ♏ 19°23 (☽のふり幅 ♏12°52~♏26°27)第4室家庭の部屋。

第2室金銭所有の部屋 ♍・第5室嗜好の部屋 ♐。星の入室なし。
第1室本人の部屋♌には、☀と♀R。目立つのも無理のない組み合わせ。さらに一つ手前の第12室障害・溶解の部屋♃とも、コンジャンクション。三連星だけど、部屋は分かれているので、ステリウムとは見ません。

吉運度の高い☀・♀・♃とのコンジャンクションは、人に好かれる内面と外見を備える山岡は、体格が抜群に良かったのもあり、武術に秀で、さらに勉学にも強い。良いとこづくめの感がありますが、♀がR。第7室 契約の部屋の♒♆Rがオポジション。第3室幼年期の部屋♎ ♄とは、スクエア。♄は♆ともスクエア。禅や書と関わりに一役買っている気もしますが、色ごとへの誘惑をはじめ、引き算やマイナス要素も、考えたほうがいいでしょう。第3室の♄と、第4室家族の部屋の蠍座の☽は、鉄舟の幼年期、家族との繋がり。実際、全てが順風満帆な人生ではなかったことを物語っているようです。

第8室授受の部屋が♓♅R。メジャーアスペを持つのは、第12室の☿。器用で仕事人。独特な人や物とのめぐりあわせを持つ、山岡の楽屋裏とも言えます。
月運の身近な星では、♀R。♆以下、☊まで、すべてR。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
そう西郷隆盛に言わしめ、歴史の転換点を切り抜けた山岡♌の太陽は、♀まで一緒。欲がないわけでもないし、立場の継続や、上を望むこともできたと思いますが、いい意味で権力萌えにならなかったのは、♀のR。♀と♄のスクエアをはじめ、♅・♆・♇といった時代の星たちの逆行も、関わっているかもしれません。

山岡鉄舟年表(ウィキその他、複数の資料。ブログなどを参照)

1836年7月23日(天保7年6月10日)江戸本所(現墨田区)生まれる。父は御蔵奉行小野朝右衛門(600国)、母は磯。鹿島神宮の神職塚原石見の次女(剣豪塚原卜伝の血筋)
1845年(弘化2年)久須美閑適斎より神陰流(直心影流)を習っていたが、父が飛騨郡代となったため、家族で高山へ移住。北辰一刀流の井上清虎に剣を学ぶ。
1848年(嘉永元年)禅を学ぶ
1850年(嘉永3年)弘法大師流入木道51世岩佐一亨から、52世を譲られ「一楽斉」を名乗る
1851年(嘉永4年)母の死去 享年41歳
1852年(嘉永5年)父の死去 享年78歳 兄弟と共に江戸へ帰る。
1855年(安政2年)講武所に入り、千葉周作らに剣術。山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。静山急死の後、実弟の謙三郎(後の高橋泥舟)らに望まれ山岡英子(ふさこ。静山の妹)と婚姻。山岡家の婿養子となる。
1856年(安政3年)講武所の世話役となる。
1857年(安政4年)清河八郎の他、15名で尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成
1862年(文久2年)幕府による浪士組が結成され、親友中條金之助と共に、取締役となる。
1863年(文久3年)将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、清河の動きを不審に感じた幕府により、浪士組は江戸に呼び戻される。清河暗殺後、謹慎処分を受ける。中西派一刀流の、浅利義明と試合をするが、勝てず弟子入りする。禅の修行にも熱を入れる。
1868年(慶応4年)精鋭隊歩兵頭格となる。3月慶喜公から直接の命を受け、東征軍大参謀西郷隆盛と、駿府で談判。江戸城無血開城の道、徳川家の安泰を、西郷に約束させる。維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。
1869年(明治2年)静岡藩権大参事・藩政補翼となる。清水の次郎長と懇意になる。*咸臨丸事件/牧之原台地開墾の責任者、中條金之助に茶の栽培を助言。
1871(明治4年)茨城県参事、伊万里県知事
1872(明治5年)西郷のたっての頼みを受け、宮中に出仕。10年間の約束で、明治天皇の侍従となる。
1873(明治6年)5月皇居炎上
1874(明治7年)西郷隆盛説得のため、内勅を九州に派遣させられる。
1880(明治13年)無刀流の開祖となる。京都天龍寺の滴水和尚の印可を受ける。
1881(明治14年)新政府による維新功績調査に、勝海舟が提出した「勲功書」には、勝がすべてやったように記載。山岡それを知るも放置した結果、無血開城の実情を知る局員から、三条実美→岩倉具視に、話が回る。岩倉に呼び出され、「事実は後世に残さねばならない」と説得される。
1882(明治15年)徳川家達より、徳川家の家宝である名刀「武藤正宗」を賜る。西郷との約束通り致仕。
1883(明治16年)維新に殉じた人々の菩提を弔うため谷中に普門山全生庵を建立する。
1885(明治18年)一刀流小野家宗家第9代小野業雄から、瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承、一刀正伝無刀流の開祖となる。
1887(明治20年)5月24日 功績により子爵に叙せられる。
1888(明治21年)7月19日9時15分 皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌。享年53歳。家督と爵位は長男の直記が相続。葬儀は22日に行われるも、豪雨。明治天皇の内意があり、四谷の自宅を出た葬列は、皇居前で10分ほど止まった。全生庵への会葬者は5千人に上ったと記されている。

山岡鉄舟惑星history

●☽年齢域 0~7歳  1836~1843(天保7~14年)

天保の飢饉真っ只中の1836年7月23日(天保7年6月10日)江戸の本所で山岡鉄舟は、生まれました。通称は鉄太郎。諱は高歩(たかゆき。本編は鉄舟。および、山岡鉄舟で統一します)。
父親は、幕府の御蔵奉行を務める小野朝右衛門高富。母は磯(磯女イソメとの記載もあり。本編は、磯で統一します)。常陸の国鹿島神宮神職・塚原石見の次女で、継室として小野家に嫁ぎました。先祖にはあの塚原卜伝がいます。「継室」とは、最初の正室と死別、または離婚の後、当主の正式な再婚相手として、嫁いできた妻のこと。後妻さんの事です。彼女は三番目の妻で、小野朝右衛門とは、相当な年の差婚。初産は鉄舟でしたが、このため彼は小野家の四男だったのです。
裕福ではなさそうですが、武芸一家の四男五子の立場で生まれた鉄舟。親や異母兄弟たちに大切にされ、幼年期を過ごしました。物心がつくころには、学問や武芸の稽古を始めます。

●☿年齢域 7~15歳 1843~1851年(天保14~嘉永4年)

母親が信心深かったのか、観音様を信仰し、朝、夕、礼拝を欠かさない少年時代。9歳になると、久須美閑適齊から、神陰流(江戸時代に竹刀と防具を定着させた直神陰流)を習いました。直神陰流は、鹿島神宮の流れを組むことから、これは母方の影響大というところでしょうか。
1845(弘化2年)飛騨郡代の辞令が父に下り、小野家は高山陣屋のある飛騨高山へ、移住しました。高山陣屋は、幕府の直轄地(天領地)である飛騨高山の陣屋として、177年間。25代の代官・郡代が政務を司った所で、現在は観光名所の一つになっています。
飛騨高山で家族と過ごした鉄舟は、武道だけでなく、弘法大師流入墨道51世岩佐一亭の元で書を極め、禅、漢学、絵画も極めて行きます。

☿年齢域と♀年齢域が交差する15歳。異母兄弟の小野古風と共に、伊勢参りに出かけた鉄舟。
1日十里(40キロ)を歩く旅は、長雨の道中となりました。伊勢の白子(鈴鹿市の伊勢街道にある宿場町)に着くころは、ひどい悪天候だったそうです。朝夕茶菓を供えて礼拝する観音様信仰を続けている鉄舟。この日も下男に命じて茶菓を買い求め、供えて礼拝をしますが、いつまで経ってもひれ伏したままでした。さすがに気になった異母兄が声を掛けたら、眠っていたそうです。よほど疲れていたのでしょうね。
この出来事は、後年、小野古風と鉄舟の間で、笑い合えるエピソードになっています。
●♀年齢域 15~24歳 1851~1860(嘉永4~万延元年)

1851年(嘉永4年)母の磯が病のため死去した年の暮れ、父の招きでやってきた井上清虎から、北辰一刀流を習いました。翌年1852(嘉永5年)には、父も他界します。
臨終の際、父は遺産と共に、磯との間にできた子どもたちの行く末を、兄である鉄舟に頼んだのでした。高山の宗猷寺(臨済宗)に両親を弔った鉄舟は、弟たちと共に、異母兄弟が暮らす江戸へ戻ります。この時、一番下の弟は、まだ2歳になるかどうかの幼子でした。

江戸へ戻ると、弟たちの世話の日々が始まります。 一つの人生の転機ですが、年運の星♃は、♏を進行。鉄舟のN☽を刺激。♄は対岸♉で、N☊Rを絞り込みます。さらにこの年、♅も♉。♇が入室仕立てという星回りです。保守力の強さ。それを改革しようとする力、始めと終わりを司る力も揃うのが、日本の変革期を告げているようで、興味深いです。
翌1853(嘉永6年)は、黒船来航に日本中が大騒ぎ。開国論・攘夷論が飛び交うようになります。その最中、鉄舟は、父が残してくれた遺産を弟たちに分け、旗本への養子へと出して行きました。

1855年(安政2年)井上清虎の支援もあり、講武所に入った鉄舟は、千葉周作に剣術。山岡静山に忍心流槍術を学びます。武芸の練度をあげてゆき、充実の日々が、やっと戻ってきた感じですが、この年の初夏。山岡静山が死してしまったのです。困った山岡家。静山の実弟謙三郎(高橋泥舟)らに強く望まれた鉄舟は、この時16歳だった山岡の妹英子(ふさこ)と婚姻。
父から託された遺産の残りから、100両ほど、持参して婿養子になりました。
小野鉄舟が、山岡鉄舟となったのは、婿入りしてからです。

1856年(安政3年)剣の腕が抜群に伸びたことから、講武所の世話役になり、面倒を見る側に回った鉄舟。翌1857年(安政4年)千葉道場繋がりで、清河八郎と出会います。
清河は1830年11月24日(文政13年10月10日)生まれの庄内藩士。鉄舟より、6才ほど年上。剣術だけでなく、彼の説く「尊王攘夷論」に、鉄舟は耳を傾けました。清河も聡明な鉄舟を、良き理解者として信頼したようです。
♀☀が交差する1860(安政7&万延元年)桜田門外の変が起きました。強い衝撃を受け、尊王攘夷だけでなく、国の未来を憂う若者たちが、清河八郎の開く文武両道の塾に集まります。これが「虎尾の会」の結党となり、15名の同志に山岡鉄舟も、名を連ねていました。
●☀年齢域 24~34歳 1860~1870(万延元~明治3年)

鉄舟の☀年齢域は、ズバリ幕末維新の激動期。
尊皇派な清河の言動は,過激さを増し,やがて「虎尾の会」のメンバーが、タウンゼント・ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺したことから、幕府は清河八郎および、清河塾を監視対象に起きました。
1861年(文久元年)口論の末、幕臣を切り捨てた清河。追われる身となりますが、これを機に、尊王攘夷と倒幕を説くため、諸国を回り歩く清河の活動を、鉄舟は支えました。

「急務三策」(1攘夷の断行・2大赦の発令・3天下の英材を育成)を、松平春嶽に取り次いだのも鉄舟です。手を焼いていた尊皇派の浪士を、手元にまとめる幕府側の狙いもあり、第14代将軍徳川家茂の京都上洛に際して、先供として「浪士組」が結成される道筋ができました。
当時牛込に道場を構えていた近藤勇が、仲間と共に京都へ向かう、あの「浪士組」ですね。

1863年(文久3年)松岡万と鉄舟は、清河の企画した「浪士組」の取締役を任されます。予定通り、将軍到着前に、浪士組が上洛すると、「将軍警護は表向きの理由。本来の目的は、攘夷決行の先鋒である」と、清河は浪士たちを集めた真の目的を、表に出ます。しかも、翌日、攘夷決行の建白書を、朝廷が受け取ったことから、不信一色に染まる幕府は、浪士組に江戸への帰還命令を下しました。
近藤勇の試衛館組と、水戸藩の芹沢鴨一派は、当初の目的通り、将軍警護を旨とすることを決め、京都に残ります。他の200名近い浪士組を率いて、江戸に戻った鉄舟は、高橋泥舟と共に「朝廷より勅命である」と、幕臣たちに攘夷を促しましたが、その話に耳を貸す者はありません。

1863年5月30日(文久3年4月13日)清河八郎は、赤羽橋(現麻布十番付近)で、幕府が差し向けた6人の刺客に襲われました。急報を受けた鉄舟は、義弟であり同志の石坂周造に、清河が所持している攘夷の連判状と、その首を奪い取ってくることを命じます。
石坂が現場に向かった時、既に清河は斬られて絶命していました。現場で検視の役人が到着を待つ町役人に、石坂は誰が斬られたのか尋ねます。
「清河八郎」の名を聞くと、「長年探した仇討の相手だ」と言って、刀を抜き、清河の遺体めがけて切りつけたそうです。騒然とする役人たちをしり目に、どさくさに紛れ、清河の懐から、連判状を奪還。首を持ち、そのまま逃奔したというくだりが、鉄舟の妻、英子の「女士道」にも書かれています。

攘夷の連判状が、清河の懐にあったままなら、鉄舟をはじめ、「虎尾の会」の同志は、みな捕縛されていたでしょう。最大の危険は、避けられましたが、過激な尊王攘夷を唱える清河グループとして、山岡鉄舟は、幕府より謹慎を命じられます。後に鉄舟と泥舟。石坂周造、小野飛馬吉(鉄舟の末弟)は、清河八郎の首を、小石川の伝通院に埋葬しました。
清河を失ったのも、心理的な安定を欠く、遠因かもしれませんが、この当時鉄舟を悩ましたのが、剣術です。「剣鉄」という異名が付き、江戸では向かうところ敵なしの腕を持つ鉄舟でしたが、西派一刀流の浅利義明と試合をした際、勝つことができませんでした。剣技に惹かれ、浅利に弟子入りをしています。

1867年11月9日(慶応3年10月14日)第15代将軍徳川慶喜は、二条城において、大政返上上表を、明治天皇に奏上。翌日にこれが勅許されます。これが大政奉還。
家康以降約300年の徳川幕府は幕を閉じ、武家政治はなくなったのでした。朝廷からすれば、何百年ぶりな「政治」を行う権利が戻ったわけですが、即戦力で国を動かせるスキルは、ありませんでした。
欧米列強の国々が、日本を植民地化するために、隙をうかがっている状況の時、徳川家を中心に、出来上がっている政治体系で国を動かす方が、負担がない。朝廷と慶喜の意見は一致していたのです。

政権を返しても、徳川家が安泰なまま、物事が進むなら意味はない。
武力討幕を目指して、準備してきた薩長土肥の志士たちは、反幕府派の公家をまとめていた岩倉具視と連携し、尾張藩・越前藩・安芸藩・土佐藩・薩摩藩の5藩による王政復古の大号令を、起こしました。これが1868年1月3日(慶応3年12月9日)の事です。

1868年1月27日(慶応4年1月3日)薩摩藩(というよりも、西郷隆盛)の計略に乗ってしまった幕府側によって、鳥羽伏見の戦いが始まりました。しかし、薩長軍が掲げる錦の御旗によって、旧幕府軍は戦意を喪失してしまいます。
総崩れとなって、大阪城に集まる旧獏軍を鼓舞したはずの慶喜公は、同年1月30日(慶応4年1月6日)の夜。最も身近な者たちだけに「散歩に行こう」と声をかけ、大阪湾から開陽丸で、江戸に戻ってしまったのでした。翌日。新政府軍は、「慶喜追討令」を発令。
旧幕府軍は「朝敵」という立場に立たされたのです。 

唐突な将軍の帰還を受けた江戸城も、一時騒然となりました。やがて重臣会議が始まると、主だった幕臣は、新政府軍への抗戦を主張。その総てを退けた慶喜公は、勝海舟と大久保一翁に事態収拾を一任し、朝廷への恭順の意を示すため、自ら上野寛永寺の大慈院で謹慎したのです。
1868年3月5日(慶応4年2月12日)総攻撃をかけるため、江戸へ向かってくる東征大総督に対し、恭順の意を伝える使者を派遣する事を考えた慶喜公は、使者として、高橋伊勢の守(高橋泥舟)を選びました。ところが泥舟は、精鋭隊として、慶喜公の身辺警護のため、片時も傍を離れる事ができません。(精鋭隊は、勝海舟が集めた慶喜の警護を行う組織。その中でも勤皇思想を持つ泥舟は、慶喜公が最も信頼していたため、自害防役もかねていた説もあり)
泥舟は迷うことなく、自分以上の適任者として、義弟の山岡鉄舟を推薦しました。
すぐさま慶喜公の元に呼ばれた鉄舟は、直々の命を受けたのです。

「3月5日山岡鉄太郎に会う。一見その人となりに感ず。同人申す旨あり、益満生(薩摩藩士益満休之助)を同伴して、駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜんと云う。われ是を良しとし、言上を経てそのことを執らせしむ。西郷氏へ一書を奇す」
これは勝海舟が書いた「海舟日記」にある、山岡鉄舟と会った時の様子ですが、この日、鉄舟と勝海舟は、初顔合わせ。

勝海舟の首を狙ううわさ話。かつて清河八郎らと組んだ経緯からも、海舟は、山岡鉄舟に、良い印象を持っていなかったのです。
江戸城無血開城を実現するための、西郷隆盛との事前交渉は、難易度の高く、何より生きて帰れる保証もありませんでした。果たして任せていいのか。疑問を抱いていた海舟ですが、直接本人に会いうことで、高橋泥舟が使者に押したことも理解し、すべてを託す決意を固めます。

この時山岡鉄舟、刀を知人に借りるほどの困窮と、剣の伸び悩みを抱えていたのです。剣豪として、誰もが認める腕もありましたが、ただ一人、浅利義明には叶わないままでした。それら個人的な事情を、一旦置き、薩摩藩藩士の益満休之助を案内役に、駿府城へ向かいます。
西郷の命を受け、江戸市中で攪乱工作を行って捕縛された益満は、「虎尾の会」の仲間で、山岡とは顔なじみでした。とはいえ、既に東海道は、新政府軍が抑え、賊軍である旧幕府側の者が、通ることは非常に難しい状況でした。その中を、白昼堂々と「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄舟まかり通る」と名乗り、通過してゆく山岡鉄舟。

あまりに浪々としたその姿に、新政府軍側の兵は、あっけにとられたそうです。
それでも駿府に入る手前、危機は訪れました。薩垂井峠(さったとうげ)を一晩で越えようとして、官軍の攻撃を食らったのです。辛くも逃げ込んだ宿屋「望嶽亭」の主が機転を利かし、難を逃れた鉄舟は、船で清水へ向かうことができました。宿屋の主と共に、山岡鉄舟を助けたのが、なんと、清水の次郎長というのは、面白い歴史裏話です。

身長188㎝。体重115㎏の巨漢というのもありますが、威風堂々とした姿は、まさに♌そのもの。山岡の本領発揮ともいえる一幕で、この時鉄舟32歳。☀年齢域の後半に入っています。
1868年4月7日(慶応4年3月15日)に、江戸総攻撃をする予定で、進軍していた東征軍。駿河に到着した鉄舟。伝馬町の松崎屋源兵衛宅で、西郷隆盛が向かい合ったのは、1868年4月1日(慶応4年3月9日)でした。



1868年4月1日(旧3月9日)は、♈の☀真っ盛り。しかも♆も一緒。どこか移ろいやすさも含みますが、見事なほど、山岡鉄舟の♇と被ります。
N♅とT♅は水星座のトリン。しかもT☿とN♅。同じ♓。1868年は、♃が♓にあったし、特に3月4月は、♂も♓。ここは鉄舟にとって8室で、社会から受け取るものが、実に大きな使命だったこと。主君である徳川慶喜。さらには皇室への忠誠というのもが、概念ではなく、深い「情」の繋がりであることを物語っているようにもとれます。

鉄舟のN☽。正確な時間がわからないので、12設定ですが、♉にあるT♇と♀とオポジション、鉄舟のN☊Rもあり。T☀♆と、N☊Rが、西郷隆盛と山岡鉄舟の会談を、歴史の表舞台から、一歩下げたかもしれません。
N☿とN ♃の間に、T♅と☽が来ていること。鉄舟の☀ともコンジャンクションするのは、時勢の妙でしょうか。時代の変革時と、そこに携わる人の持つ星は、面白い絡み方をするものです。

西郷が聞く耳持たなければ、殺されてもおかしくない状況でした。それをわかった上で、敵陣の中を通ってきた山岡鉄舟。西郷隆盛も感じるものがあったのでしょう。
勝の書状を受け取った西郷は、徳川慶喜公の意向を伝え、朝廷に取り計らうよう申し入れる鉄舟の話を聞くと、5つの条件を示しました。
・江戸城を明け渡す。
・城内の兵を向島に移す。
・兵器を全て引き渡す。
・戦艦を全て引き渡す。
・将軍慶喜を備前藩に預ける。

慶喜を備前藩に預ける件以外、全て承諾する鉄舟。西郷は「朝命である」畳みかけますが、
「もし、島津公が、同じ立場だったら、貴殿はこの条件を受け入れないはずである」
その肩に江戸八百万の命と、主君の命を預かり、死を覚悟してやってきた山岡鉄舟。最後の最後まで、主君への忠誠を貫く姿に、西郷隆盛は、自身が命がけで守りたかった島津斉彬公を、思ったのかもしれません。
篤姫や和宮様からも江戸の攻撃の中止。徳川家の嘆願は、既に届いていましたが、徳川慶喜という人物がわからず、明確な返事を保留にしていた西郷は、 山岡の忠誠心を見て、将軍の身の安全を保証したのです。

西郷隆盛も180㎝。体重110㎏と言われる大男。親友の大久保利通も長身ですが、他の人を見る時、ほとんど目線を上げることはなかったと推察。剣豪として、その名が轟いている山岡鉄舟は、西郷の目線を上げさせる大男でした。たまたまな事かもしれませんが、この身長差もまた、一つの演出効果になったかもしれません。

同年4月5日(慶応4年3月13日)勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも、山岡は立ち会いました。この会談は、先に鉄舟と西郷の間で話し合われた内容の、最終確認になります。翌4月6日(慶応4年3月14日)公家、大名向けに、五箇条の御誓文が発布。
1868年5月3日(慶応4年4月11日)江戸城無血開城が行われました。前後に小競り合いや、上野戦争も起こりますが、完全な明け渡しです。
265年目にして、城の主が変わるこの日。☀は♉で♇とコンジャンクション。
☽は♍で♊の♀とスクエア。♈♃とオポジション。♃と♐♄のアスペクトがトリンといのも、時代読みだと終わりと始まり、世界への一歩ということかもしれません。

江戸総攻撃を避け、無血開城の道を開いた山岡鉄舟は、功績によって若年寄格幹事に昇進します。慶喜公は、謹慎先の水戸へ向かう前に、鉄舟の労をねぎらい、自ら「未国俊」の短剣を鉄舟に与えたのでした。
江戸への総攻撃が回避され、彰義隊が上野で官軍と局地戦を展開します。鉄舟としては、無血開城したのに、戦をする理由はないと、彰義隊を説得しに行きますが、聞き入れられることはなかったのでした。上野戦争は、圧倒的な武力差により、一日で彰義隊は壊滅。江戸市中が、戦場にならぬよう、西郷の配慮があったようですが、進軍する官軍の勢いは止まらず、会津戦争。北越戦争と激化してゆきました。

1868年9月3日(慶応4年7月17日)江戸が東京と改称された二日後、慶喜公は、水戸から船で駿河清水へ移動。静岡の宝台院に入ります。翌年の秋に謹慎が解けるまでの間、旧幕臣に会うことを避けましたが、勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟・新門辰五郎の4人だけは、フリーパス。いつでも訪れ、慶喜と歓談しました。
400万石から70万石へと、家禄を減らされた徳川宗家を継いだのは、弱冠5歳の徳川家達でした。駿府一円に、遠江国と奥陸奥を加えた領地で、家禄配分や、江戸から静岡に移住してくる者が増える等、山積する問題があったことから、鉄舟は幹事として、静岡藩のために働き始めるのです。
明治初年当時、幕臣たちの救済事業として、牧之原台地を開墾し、「茶」の生産を進めるよう、アドバイスしたのが鉄舟でした。現在「静岡茶」は有名ですが、山岡鉄舟が発案だったのです、

清水の港に新たな問題、咸臨丸事件が起こりました。
同年10月31日(明治元年9月16日)旧幕府軍海軍副総裁の榎本武揚は、奥羽列藩同盟を支援するため、主力艦隊を率いて品川沖を脱走。北へ向かうつもりが、房総沖で暴風雨に遭い、破船した咸臨丸は、修理のために下田から清水港へ入ります。
これを明治政府が見逃すはずもなく、富士・武蔵・飛龍の三隻で、咸臨丸を襲撃。乗組員は白旗を上げて降参しますが、元徳川家家臣たちは皆殺しにされ、遺体は海に捨てられました。
政府軍側は「賊軍である咸臨丸の乗組員の遺体を弔う者は、賊軍である。この掟を破るものは、厳罰に処す」という旨の高札を、町中に立てますが、海に浮かぶ遺体の回収はしません。死臭が漂う港一帯に住む人たちは、非常に困りますが、咎をかけられるのを恐れて、何もできなかったのです。
事態を見かねた清水の次郎長(本名山本長五郎)は、夜中に遺体を回収。すべて無縁墓地に埋葬したのでした。数日後、駿河藩役所に出頭尋問を受けますが、
「死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬するのが悪いというなら、次郎長はどんな罰でも、喜んでお引き受けいたします」と、即答する次郎長。

☀年齢域の締めくくりとなる1869年(明治2年)。権大参事・藩政補翼という要職に就いた山岡鉄舟ですが、咸臨丸事件の経緯に感動し、「壮士の墓」の文字を揮毫したのです。
「学のある先生が書いてくれるから、ありがたい文句が書かれているんだろうが、難しい言葉を丸のみにして覚えるだけなら、九官鳥にもできることで、相手が読めないような文を書いて寄越す人間が、立派とはおもえない」
と、自分にあてた鉄舟の手紙について、率直に言う次郎長から、鉄舟は「言葉は相手に伝わらなければ無意味」という事を、改めて学び、考えたそうです。
長年に渡り、剣の他、学問と書。禅を収めてきた鉄舟から見て、次郎長は「これまでの学問」とは違う新鮮な智慧の持ち主だったのでしょう。
こうして山岡鉄舟と、清水の次郎長の付き合いが始まるのです。
明治天皇の京都行幸の際、東京土産として「味付け海苔」お持ちになりますが、これはみやげ物は何がいいか、という問いに、鉄舟が山本海苔店に依頼した事から、生まれたものでした。
●♂年齢域 34~45歳 1870~1881年(明治3~14年)

♂年齢域に入った山岡鉄舟。1871年(明治4年)廃藩置県に伴い、明治新政府に出仕。茨城県参事や、伊万里県権令も努めますが、西郷隆盛たっての頼みを、期間限定で承諾します。
明治天皇は20歳直前。(即位の時は15歳)小国の日本が、世界と対等になるためには、君主である明治天皇が、知・情・意・体いずれも鍛え上げられた存在でなければならない。そう考え、案じた西郷隆盛は、これまでの皇室特有の「天皇陛下の教育は貴族だけに限る」を撤廃。君主の傍らにいて、武芸と教育ができる存在として、山岡鉄舟を推薦したのです。
鉄舟の豪胆さと学の深さ。無欲さを、知っている西郷は、これほどの適任者はなく、明治天皇のためになると、猛烈に口説きました。鉄舟は都度,固辞しましたが、1872年(明治5年)6月。「10年限定」で、明治天皇の従者となることを承諾します。

豪胆な武芸話も好きな明治天皇。深酒の際「相撲を取ろう」と鉄舟にかかってきたのを、やり過ごし、諫言をするエピソード。皇居の仮宮殿が火事に見舞われた際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけて、天皇皇后両陛下の身を案じた話も有名ですが、微笑ましい話は、向島の花見でしょうか。
1875年(明8年)4月東京向島にあった旧水戸藩下屋敷を行幸された、明治天皇皇后両陛下は、花見の席で、吉野の八重桜の花びらが乗るあんぱんを、お召し上がりになると、大変喜ばれました。試行錯誤して作り上げた木村屋初代安兵衛を誉め、「引き続き納めるように」という両陛下のお言葉をただいたのです。この献上は、鉄舟による引き合わせでした。

木村屋初代安兵衛と鉄舟は、維新の前。剣術を通じての縁があったのです。銀座の煉瓦街で、日本人の口に合うパンを作る中村親子に、試食を勧められ鉄舟。
西洋パンとは違い、酒種を使って作る生地に、餡を包んで焼き上げるパンに、好奇心を擽られ、味も「うまい」と太鼓判を押したのです。
陛下に召し上がっていただく場として、花見は最高の場でした。

前年、鉄舟は大久保利通の頼みを受けて、西郷隆盛説得のため、鹿児島に赴いたのです。
反乱を抑えるよう、頼みに来たことは、西郷もわかっていたのでしょう。鉄舟に渡した西郷の書は、全て薄墨で書かれていました。
死を決意している西郷を、止められる者はない。悟った鉄舟は、東京へ帰ったのです。いつとは言えないが、近い将来、西南戦争は避けられない。大久保利通をはじめ、明治政府側が悟る中、桜あんぱんが結ぶ、天皇皇后表陛下と、木村屋安兵衛の縁は、微笑ましく、鉄舟にとっても救いの一時だったかもしれません。
尚、関東大震災によって、本物は焼失しましたが、木村屋の看板は、この当時、山岡鉄舟の直筆によるものです。

明治時代は始まりと共に、日本中を大きく塗り替えました。特に都心部は、ガス灯に電車、食生活等も様々な変化があり、庶民生活も著しくかわったのです。文明開化の華やかさと、国の骨子である通貨・納税がすべて変わったので、煽りを受けた人たちも少なくありません。
武家政治を終わらせた以上、武士がいらなくなる。そのことを理解していた西郷隆盛が、明治天皇の元を去り、1877年(明治10年)ついに、西南戦争が始まったのです。
病身の為、参戦できなかった木戸孝允が、同年夏に亡くなり、西郷隆盛も亡くなる年は、明治天皇にとっても、心理的に辛い時期だったのでしょう。鉄舟は明治天皇の傍らにいました。
1878年(明治11年)大久保利通が紀尾井坂で襲撃され、時代を牽引した三大人物の死と共に、明治前期の幕が閉じる年。明治天皇は、北陸・東海方面の御巡幸に向かわれ、鉄舟は供奉して行きます。

♂年齢域の終わりを迎える1880年(明治13年)禅の悟りを開いた鉄舟。京都天竜寺の滴水和尚から、印可を受けました。剣術にも変化が現れ、無刀流を開いてゆきます。
●♃年齢域 45~57  1881~1888年(明治14~21年)

1881年(明治14年)政府が明治の功績調査を進めると、勝海舟の提出した勲功録には、江戸城明け渡しを、全て自身が行ったと記載。それを読んだ鉄舟、おかしいと思いつつ、勝のメンツをつぶすのも何なので、放置を決め込み、何も提出せずにいたのです。無血開城当時のことを覚えている局員が、これは変だと、三条実美に伝えたことで、これが岩倉具視に伝わりました。
結果、岩倉に呼び出された鉄舟は、「手柄は勝に譲るにしても、事実として後世に残さなければならない」と説得され『慶応戊辰三月駿府大総督於西郷隆盛談判筆記』を、提出することになったのでした。

1882年(明治15年)19歳となった徳川家達から、徳川家を守った感謝の証として、鉄舟は徳川家の宝刀「武藤正宗」の名刀を賜ります。これを聞いた岩倉具視は、即当時一流と言われた漢学者を呼び、名刀の由来と鉄舟の功績を「正宗鍛刀記」に、したためさせました。
実力者が好きな岩倉らしい、祝い方だと思います。
西郷と交わした約束の10年にも当たるこの年、山岡鉄舟は従者の任から離れますが、明治陛下たっての希望で、再度、宮内省御用掛けとなりました。

1883年(明治16年)維新に準じた人々を供養したい、鉄舟の思いが形になり、江戸城の守り本尊であった、葵正観世音菩薩が座る普門山全生庵が、谷中に建立されます。署にも積極的に取り組みました。生涯100万枚の書を書いたといわれる山岡鉄舟が、頼まれれば、嫌がることなく、無償で書いたのです。そこに自然と金も集まりました。
剣の師である浅利又七郎との再戦の機会も巡り、迷いの消えた鉄舟は、師から「一刀流夢想剣」の認可を与えられます。

自身の道場「春風館」を開くと、鉄舟の人柄、剣の腕に惹かれてくる人たちが、集まります。
同時並行で、宮内省管轄の皇宮警察の道場「済事館」を創設。当時は西南戦争で活躍した抜刀隊の流れをくむ「警察庁剣術」が、隆盛を誇っていましたが、鉄舟は「宮内省剣術」を指導し、対抗できるまで、のし上げたのです。
時代の変化により、剣術や槍術。柔術が衰退することを嘆いた鉄舟は、日本の武術を振興する「剣槍柔術永続社」を設立。明治の名だたる剣豪を、剣術教授方に任命し、次世代育成にも力を注ぎました。

1885年(明治18年)一刀流小野宗家第9代目小野業雄から、瓶割刀と朱引太刀。卍の院を継承。一刀正伝無刀流の開祖となったのです。頼まれれば書を書くスタイルは、変わることなく続き、1887年(明治20年)5月24日子爵に叙されました。

1888年(明治21年)7月19日9時15分。皇居に向かって結跏趺坐のまま、山岡鉄舟はこの世を去ります。死因は胃癌。享年53歳。家督と爵位は、長男が相続。葬儀は22日(誕生日の前日)に行われますが、この日は豪雨でした。
強い内意があり、四谷の自邸を出て谷中に向かう葬列は、皇居の前で10分ほど止まったそうです。明治天皇は、高殿から目送されました。
全生庵の会葬者は、5000人を越えたと言われています。

門人村上俊五郎は、殉死の可能性を心配され、四谷警察が保護。他にも、殉死するところを発見され、止められた門人、葬儀後、鉄舟の墓の前から、離れることなく留まる者もいました。
これらは鉄舟が望んだことではありません。実際、「鉄舟のいない世に、生きる価値なし」と、後追い殉死をした者もいました。
正しい選択とは思いませんが、そう思わせる程、深く、強い生き方をした山岡鉄舟には、計り知れない魅力があったのでしょう。
歴史の教科書に功績を記載するのは、もちろん、人物像を学ぶ機会を、多くの学生に与えてほしいと願います。

亡くなった日時、場所もわかるので、ホロスコープは書けますが、あえてアップしませんでした。強いて言えば、T☽が♐に入り、♃が♏の終わりに来ています。関心のある方は、ご自身で見てください。