森鴎外パーソナルデーター
石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県鹿足郡津和野町町田)
☀星座 ♒ 28°14
☽星座 ♍ 29°17 (24h♍22°14~♎6°21。因みに13時15分以降は♎の☽)

第1室 本人の部屋 ♒ ☀
第2室 金銭所有の部屋 ♓ ☿・♀R
第3室 幼年期の部屋 ♈ ♆
第4室 家族の部屋 ♉ ♇
第5室 嗜好の部屋 ♊ ♅R
第6室 健康勤務の部屋 ♋
第7室 契約の部屋 ♌
第8室 授受の部屋 ♍ ♄R・♃R・☽
第9室 精神の部屋 ♎
第10室 社会の部屋 ♏
第11室 友人希望の部屋 ♐ ♂
第12室 障害溶解の部屋 ♑☊R
自由な発想と行動力ある♒の☀を持っていますが、♍に☽だけでなく、年運のアクセルとブレーキである♄R・♃Rが同居しているところを見ると、♍が色濃く効いているかもしれません。
☽は13時以降の生まれなら、♎に変りますが、美的センスと理解の深さから、文学を描くだけでなく、日本の近代美術へ後押しができた事や、気まぐれだけどどこかはみ出しきれず、拘りを見せるとなかなか覆らない。神経質な一面も強く、勉強や研究をする環境が散らかっているのを嫌う辺り、♎の可能性も否定できません。
また第8室授受の部屋にある☽と合の♄R/♃Rは、♓の第2室金銭所有の部屋♓の☿/♀R。♈の♆とは対角となります。感覚は鋭く合理的でありつつ、直観や雰囲気を重視する傾向も潜む性質。海外に惹かれるとか、薬学を通じて活動した背景を持つともいえます。社会的地位は盤石で、お金には困らない半面、情熱的な恋愛はするけれど、結婚となると配偶者の経済問題や、何か揉め事を背負い込む可能性は高い宿命でした。実際、彼は恋愛を謳歌するし、子煩悩な父親になるけれど、進歩的な嫁と懐古的な母の対立で、結婚生活は針の筵だったのです。
♆が第11室友人希望の部屋♐の♂と、火の緊張角度を持っているので、プライドは高く負けず嫌いではあるでしょう。その分、対人トラブルのリスクを宿す半面、♆は海、海外も意味し、♐は冒険と海外(別世界)なので、プラスに取れば海外留学での成果、語学や医学の実りに通じるともいえるのではないでしょうか。軍医の傍ら、精力的に執筆活動や文化教育に携わる事へ役立っていたと考えられます。
1862年は♆が♈に入室した年であり、しかも鴎外が生まれた2月17日の度数は0°06。入室後間もない時でした。
2025年は♆が♈入りした年ですから、社会背景等、見比べてみるのも面白いと思います。
♓の☿/♀Rと調和しているので、絆や繋がりが深い。伝統的な家督相続という意味でも納得ですが、第4室家族の部屋は守りの♉に支配の星♇。森鴎外にとって家族。森家はとても重要な位置を占めています。この♇が第12室障害溶解の部屋♑の☊Rであることが、彼に時代を代表するような運勢を与える背景の一つにも見えてきます。
森鴎外略年表 (ウィキ・森鴎外記念館発行「本を捧ぐー鷗外と献呈本」参照)
1867年(慶応3年)論語を学ぶ。
1868年(明元年) 孟子を学ぶ。
1869年(明治2年)養老館に入学(和津野藩藩校)。四書を読み直す。
1870年(明治3年)五経の外、オランダ語を学ぶ。
1871年(明治4年)藩医の根室悦にオランダ語を習う。
1872年(明治5年)6月父静男と上京。東京到着後は和津野藩下屋敷に身を寄せる。8月向島小梅村(現・墨田区向島)に住む。10月ドイツ語を習うため、本郷の進文学社(私塾)に入学。
1873年(明治6年)6月和津野の実家を売却。母と祖母の清子。弟と妹も上京。11月第一大学区医学校予科(東京医学校に改称。現東京大学医学部)入学。
1877年(明治10年)東京医学校と東京開成学校が合併し、東京大学医学部に改組。本科生となる。
1880年(明治13年)本郷にある下宿「上条」に入る。
1881年(明治14年)3月下宿先が火災に遭い、講義ノートを消失。髄膜炎に罹る。7月東京大学医学部を卒業。父の経営する橘井堂医院(南足立郡千住町)に転居。12月東京陸軍病院課僚となり、医官の道を進む。
1882年(明治15年)徴兵副医官(中尉相当)となる。従七位を授かる。5月プロシア陸軍衛星制度調査が決まる。
1884年(明治17年)6月陸軍衛生制度、衛生学研究のためドイツ留学を命じられる。10月ドイツ到着。ライブツィヒ大学でホフマン教授に師事する。
1885年(明治18年)1月ヴィルヘルム・ハウフの童話を翻訳、2月ドイツ語で「日本兵食論」「日本家屋論」を執筆。5月陸軍一等軍医(大尉に相当)に昇進。10月ドレスデンに戻る。
1886年(明治19年)3月ミュンヘンに移る。ベッテンコーファに衛生学を学ぶ。
1887年(明治20年)4月ベルリンに移る。翌月北里柴三郎と共にコッホを尋ねる。
1888年(明治21年)9月日本に帰国。横浜港着。エリーゼ・ヴィーゲルト来日。10月陸軍大学校の教官就任。
1889年(明治22年)1月「東京医事新誌」の主筆となった後、『読売新聞』に「医学の説より出でたる小説論」を発表。本格的な文筆活動が始まった。3月海軍中将赤松規良の娘登志子と婚約(写真婚)5月下谷区上野花影町(現・台東区池之端)に転居。東京美術学校 専修科の美術解剖学講師に就任。6月新声社同人から訳詩集「於母影」を落合直文らと発表。10月「しがらみ草紙」創刊。軍医学校教官心得に就任。(中佐クラス)
1890年(明治23年)1月「国民之友」に「舞姫」を発表。8月「うたかたの記」発表。9月長男於菟(おと・後に医学者となる)誕生。10月本郷区駒込千駄木町57(現・文京区向丘)に転居。11月登志子と離婚。
1891年(明治24年)1月「文づかい」発表。8月医学博士となる。
1892年(明治25年)1月本郷区駒込千駄木21(現・文京区千駄木/森鷗外記念館)に転居。8月落成した母屋を「観潮楼」と名付ける。11月『しがらみ草紙』にアンデルセンの「即興詩人」の和訳を連載。
1893年(明治26年)11月陸軍一等軍医正(大佐に相当)に昇進。軍医学校長となる。
1894年(明治27年)7月日清戦争勃発11月大陸(戦地)に上陸。
1895年(明治28年)4月陸軍軍医監に任官。5月日清講和条約締結後、帰国となるが広島に留まる。8月台湾総督府陸軍局軍医部長となり、台湾に赴任。10月帰国する。
1896年(明治29年)1月『めざまし草』創刊。3月『めざまし草』に幸田露伴、斎藤緑雨と「三人冗語」連載。4月父・静男死去。
1897年(明治30年)1月浜中東一郎(ジョン万次郎の長男)・青山胤通らと公衆医事会を設立。
1898年(明治31年)10月近衛師団軍医部長兼任学校長就任。
1899年(明治32年)2月軍医監(少将に相当)に昇進。第12師団軍医部長として福岡県の小倉に赴任。6月『二六新報』にて箴言集「心頭語」を連載開始。
1900年(明治33年)1月先妻登志子死去。
1902年(明治35年)1月大審院判事・荒木博臣の長女・志げと結婚。3月第1師団軍医部長となり帰京。
1903年(明治36年)1月長女茉莉(まり・随筆家・小説家)誕生。
1904年(明治37年)2月日露戦争勃発。4月第2軍軍医部長に任官。広島宇部港から戦地へ向かう。
1905年(明治38年)奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。
1906年(明治39年)1月帰国。6月山縣有朋の歌会『常盤会』結成。賀古鶴所らと共に幹事となる。7月祖母静子死去。
1907年(明治40年)3月自宅で与謝野鉄幹、伊藤佐千夫、佐々木信綱らと「観潮楼歌会」を開く。6月西園寺公望が主催する歌会「雨声会」に出席。8月次男不律(ふりつ)が誕生。9月文部省美術展覧会の美術審査員となる。(~大正7年)11月陸軍軍医総監、陸軍省医務局長となる。
1908年(明治41年)1月弟・篤次郎(劇評家・三木竹二)死去。2月次男不律死去。5月陸軍の臨時脚気病調査委員会会長となる。6月「能久親王事蹟」発行。
1909年(明治42年)1月大村西崖と共著で「阿育王事蹟」発行。3月『スバル』に口語体小説「半日」を寄稿。5月次女杏奴(あんぬ。後に随筆家)誕生。7月文学博士の学位を授与される。『スバル』に「ヰタ・セクスアリス」を発表。発禁処分となる。11月「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を発行。
1910年(明治43年)2月慶応義塾大学部文学科顧問となる。三田文学編集委員。3月「青年」を連載(翌年8月まで)
1911年(明治44年)2月三男の類(るい)誕生。9月『スバル』に「雁」を連載(大正2年5月まで)
1912年(明治45年/大正元年)1月「ファウスト」の訳を完結。9月13日明治天皇の大葬の礼に出席。帰りに乃木夫妻の殉死の報を知る。10月『中央公論』に「興津屋五右衛門の遺書」発表。
1913年(大正2年)1月「ファウスト」発行。『中央公論』に「阿部一族」を発表。2月臨時宮内庁御用掛けを務める。
1914年(大正3年)1月『中央公論』に「大塩平八郎」発表。2月『新小説』に「堺事件」を発表。
1915年(大正4年)1月『中央公論』に「山椒大夫」を発表。10月『中央公論』に「最後の一句」を発表。11月大正天皇即位式に参列。大島健一陸軍次官に辞意を表明。
1916年(大正5年)1月『中央公論』に「高瀬舟」を発表。『新小説』に「寒山拾得」を発表。東京日日新聞・大阪毎日新聞に「渋江抽斎」を連載。(~5月迄)3月母静子 死去。4月13日陸軍省医務局長を退き、予備役に編入。
1917年(大正6年)12月宮内庁より帝室博物館総長兼図書頭に任ぜられる。
1918年(大正7年)11月正倉院御物開封に立ち会うため奈良に一時滞在。
1919年(大正8年)9月帝国美術院の初代院長に就任。天皇の諡(おくり名)と元号の考証・編纂に着手
1920年(大正9年)正倉院拝観の特例が開かれる。9月図書寮曝書室が失火。宮内大臣宛に進退伺を出すが不受理。
1921年(大正10年)秋ごろから足に浮腫ができ始め、腎臓病の兆候が出てくる。
1922年(大正11年)4月イギリス皇太子来日。正倉院拝観に合わせて奈良へ出張するが途中体不調で臥す。
6月肺結核の症状が出る。7月6日友人賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。7月7日午前7時死去。興福寺(墨田区向島)に埋葬される。
1927年(昭和2年)墓を禅林寺(三鷹市)に移す際、津和野町の永明寺にも分骨される。
森鷗外惑星history 感性と無意識を育てる☽年齢域0~7歳 1862年(文久2年)~1869年(明治2年)
♍の支配星は☿。書くことや対話、記憶力や勉学には力を貸してくれる☿が社会から受ける地位や富。配偶者の実家との繋がりが人生に影響を与える惑星ですが、鴎外の☿は、第8室に☽があるのは、森鴎外の職歴と創作活動を考えたら頷けます。午後を過ぎて夜の生まれなら、☽は♎。第9室精神の部屋。森鴎外の器用さ、多岐に渡る人付き合いの広さ。海外とのつながりを考えると、第9室天秤の☽もおかしくありません。♎の支配星は♀なので、作家としての美意識等が備わっているとも言えます。
黒船来航から9年後の1862年2月17日(文久2年1月19日)。
石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県鹿足郡津和野町町田)の地で森鴎外は生まれました。本名は森林太郎。(少年期は林太郎、森鴎外、鴎外で表記)
森家は代々津和野藩(亀井家)の典医を務める家柄で、鷗外は静泰(静男)と峰子夫妻の嫡男として誕生します。父の静泰は豪農の息子で、津和野藩に医療の勉学に来ていた所、森家12代当主森白仙(鴎外の祖父)に目をかけられ、峰子の婿として森家に入りました。
殿様について江戸に赴き、勤めを終えて津和野に帰る途中で白仙が亡くなった翌年に鴎外が生まれたことから、鴎外は祖父の生まれかわりともいわれたのです。
大切にしてもらえるものの、林太郎は藩医の嫡男として相応しくあるようにと、母と祖母の熱のこもった教育指導の下、幼いながら7歳で「論語」や「四書五経」を学びました。
開国以降、武家が佐幕と勤皇のどちらにつくか、日々目まぐるしく変わる時代を迎えた日本。林太郎が5歳となる1867年(慶応3年)12月には、明治天皇を中心とした新政府が誕生します。
知性とコミニュケーション☿年齢域7~15歳 1869(明治2年)~1877年(明治10年)
林太郎は藩医の嫡男として生まれた林太郎。大切にはしてもらえましたが、より相応しくあるようにと、母と祖母の熱のこもった教育指導の下、幼いながら「論語」や「四書五経」を学びました。
就学年齢に達した林太郎は、藩校「養老館」に通います。実に物覚えよく、賢い子だったようで「林太郎は9歳にして、15歳の学力あり」という記録が養老館には残っています。
母の峰子は、成績優秀者な息子を褒めつつも「決して慢心してはいけない。津和野で1位になっても、誰の目にも止まらないだろうから、東京に出て家の名、国の名を上げなさい」と、諭しました。
成績優秀な林太郎に、藩から特待生として奨学金が下りる話や、明治政府の要職に就いていた西周(にし・あまね)からは、東京で勉強させてはどうかと誘いもありました。
西周は林太郎の曾祖父の次男が西家を継いで生まれた人で、森家とは縁戚関係。日本初公費留学生として榎本武揚や福沢諭吉と共にアメリカに一人です。帰国後は徳川慶喜のブレーンとなり、明治時代に入るとその能力が買われて政府要職に就きました。
東京住まいなので、林太郎により良い教育環境を与えることは容易かったのです。
幼いうちは落ち着いた環境で生活させたい。そう考える父は、これらの誘いを断り、自ら林太郎に「オランダ語」の手ほどきをします。時代の代わりと共に静泰から静男に改名した父は、穏やかな性格の人でした。しっかり者の妻みね子や祖母清子のように、立身出世を望む苛烈な教育はせず、息子の好奇心に応える接し方で、成長を見守ったのです。
物事が動いたのは、廃藩置県が行われた後の1872年(明治5年)でした。
旧藩主の亀井玆監(かめいこれちか)が、東京住まいとなることから、典医だった静男はこれに同行。この上京に林太郎を伴ったのです。しばらくの間は津和野藩下屋敷に身を寄せますが、医院を開業するため、父は南葛飾郡向島小梅(現・墨田区向島)に転居。林太郎は本郷の進文社でドイツ語を学ぶために、神田の西周邸に寄宿したのです。
医師になることを目指した林太郎は、「官立医学校」(現・東京大学医学部の前身)入学する必要がありました。「官位医学校」の教員は全員ドイツ人。講義はドイツ語で行われていため、ドイツ語は必修だったのです。
1873年(明治6年)実家を売却後、祖母の清子に母峰子。弟の篤次郎に妹の喜美子も上京し、父が経営する医院のある千住に家族は落ち着きました。
同年11月東京医学校予科(後に東京大学医学部と改称)を受験した林太郎。見事に合格します。但し、受験年齢は「14歳~17歳」でした。この時林太郎は14歳を迎えてなく、サバを読んでの受験&合格だったのです。
今では考えられない事ですが、大学制度が構築される過渡期であり、林太郎以外にも19歳で受験した者もいました。
当時の医学校は予科が2年。本科が5年。そして予科から本科に進めるのは30名。
林太郎が入ったドイツ語中位クラスでした。24人中、卒業できたのが11人という厳しい競争と、その実同級生は年上ばかりでしたが、☿年齢域と♀年齢域が交差する1877年(明治10年)同校医学本科生に進学。成績優秀な林太郎は、官費生に選ばれます。
興味・美意識・好奇心 ♀年齢域15~24歳 1877年(明治10年)~1886年(明治19年)
東京医学校が本郷に移転すると、林太郎は西家を出て付属の寄宿舎に入りました。寮も年上ばかりですが、同室の賀古鶴所(かこ・つると。後に日本の耳鼻咽喉科の父と呼ばれる陸軍軍医となる)や、緒方収二郎(緒方洪庵の六男)。小池正直(後の陸軍省医務長)との友好を深めます。特に賀古鶴所は、浜松藩の典医賀古家の長男で、家の期待を一身に受けている境遇でした。互いに共感する部分があり、その付き合いは生涯にわたります。
ドイツ人教官の講義を受ける一方で、ギリシャ語やラテン語も守備範囲な林太郎ですが、医学館の教授佐藤元長に、漢文・漢詩・漢方医学を学びました。
林太郎は漢詩や和歌。江戸時代にはやった絵巻物や、滝沢馬琴の小説に心惹かれていきます。親しくなった賀古や仲間と、毎晩寄席に行って落語を楽しみますが、時々寮まで世話に訪れる祖母の清子は、卒業試験も控えているにも関わらず、文学に夢中な林太郎を心配したようです。(この辺りの思い出話は妹喜美子の回想録に出てきます)
頭の回転が速い分、森林太郎は人一倍比較能力に長けていたのかもしれません。多感な年頃だけに、恋愛への関心も募る反面、自分の容姿に自信が持てない等の悩みが、後に自伝小説「ヰタ・セクスアリス」の下地となりました。
1881年(明治14年)7月4日に林太郎は、東京医学校の本科を8番目の成績で卒業しました。卒業する同級生は70人ほどで、先にも触れましたが、林太郎はサバ読んで入学していますから、皆2~5歳ほど年上ばかり。できる者への妬みがあったり、授業中ドイツ語を聞きながらそのまま漢文に訳し、ノートの端に漢訳の走り書きをするなどの行為が、講師から不況を買ったこと。
卒業試験の時期に、寮が火災に遭い試験用のノートを消失してしまった事も響いたようですが、70人中8番目の成績は、学力の高さを物語っています。
文学にドップリ浸かっていた林太郎は、医者や役人よりも、物書きになることを夢見ていました。当時は東大を主席、もしくは次席で卒業すると、国費留学生となることができたのです。文部省派遣留学生となり、ドイツへ行くことを願っていた林太郎ですが、成績は8番目。しかも文部省の国費留学とは畑違いの分野という現実を前に、卒業後は開業していた父の医院を手伝うに留まったのでした。
この状況を見かねた同級生の小池正直は、自身が陸軍軍医副に任官していた事から、陸軍軍医本部次長の石黒忠直に、森林太郎の推薦状を提出。賀古鶴所も林太郎に陸軍省への入省を勧めました。こうした友人の後押しもあり、同年12月16日に林太郎は陸軍省入り。
陸軍軍医副(中尉相当の役職)の立場を与えられ、東京陸軍病院へ勤務したのです。真新しい軍服に身を包む息子の姿に、両親はとても喜びました。
1882年(明治15年)5月東京大学医学部卒業の8人の中で、最初に陸軍軍医本部付けとなった林太郎は、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査を命じられます。西南戦争を終えて以降、明治政府は、軍事・教育・法制・医療等のひな型を構築しました。その手本に選んだのが、ドイツだったのです。当時のドイツは、プロイセン王国が国土の2/3を占め、複数の君主国家で成り立っていました。
翌1883年(明治16年)3月に全12巻に及ぶ「医政書稿本」を提出した林太郎。
これが高く評価されて、1884年(明治17年)6月。衛生学を納める目的とドイツ帝国陸軍の衛生制度の調査という名目を与えられ、ドイツ留学を命じられたのです。
明治天皇に拝謁のため、賢所を参拝した後、1884年(明治17年)8月24日に、陸軍省派遣留学生として、森林太郎は横浜港からドイツへと旅立ちました。ビルヘルム2世に天才と言わしめた音楽と物理学のエキスパート田中正平をはじめ、日本の各分野における若き精鋭が同じ船で10人。欧州に向かったのです。
旅立ちの日のホロスコープですが、T☀♍入り。T☽♎(終日)に挟まれる形で、♍にT☿と♅が入ります。Node以外はRなし。(林太郎のN☽が♎なら、T☽が合となります)
N☽を12時で見ると、T☿・T♅と合。♃もT♅と合なので、一大チャンス到来。
♒の☀とT♍の☀。♌を進む♃も対角。N♆とT♅の対角なのを、海外への旅立ち。航路を読むことができるでしょう。重い任務でもあるのを♍N♄・T♃に重なるT☿・♅で観ることもできそうです。
♊には入室したばかりのT♇。その先を進む♄がいます。林太郎の♊は第5室。嗜好の部屋で、N♅Rを持っていました。恋愛の傾向はもちろん、嗜好性やギャンブル性を見る嗜好の部屋で、入室してきたT♇が、N♅と近づくのですから、人生一大イベントがあってもおかしくはありません。
1888年(明治21年)9月8日に横浜港に戻っているので、留学期間は約4年。♀年齢域を締めくくるような2年と、太陽年齢域の初頭が当たります。
同年10月7日フランス南部のマルセイユ港に到着した林太郎は、同月11日にドイツ帝国首都ベルリに到着。軍内改革を行っていた時期と符合し、大山巌と橋本綱常(橋本佐内の弟。陸軍軍医官でドイツ留学経験者)が既にしていました。到着の翌日。林太郎は橋本から「衛生学の研究に専念するように」と、行く先の大学と教えを乞うべき大学教授の名。学ぶ順番に至るまでの指示を出します。
この4年の間、勉学のためにドイツ各地に移り住みますが、最初の1年はザクセン州のライブツィヒ大学で、衛生学の権威ホフマンに学びました。ドイツ語は堪能な林太郎でしたが、異国の生活にすぐなじめるわけではありません。そんな彼をサポートしてくれたのが、フォーゲル家の人々や、黒衣の女性ルチウスといった下宿人たちだったそうです。
1885年(明治18年)5月陸軍一等軍医に昇進下林太郎。夏休み中でしたが、ザクセン州の首都ドレスデンで軍事学講習会に参加。9月末には日本兵食論を完成させた林太郎は、これを10月に提出。その後、ザクセン州の首都ドレスデンに向かいました。
予定外の滞在地でしたが、親しくなったドイツ軍軍医ロートの誘いを受け、この地で開かれた軍医講習会に参加することにしたのです。まさに華やかな♀年齢域の仕上げとも言える感じで、王宮で開かれる舞踏会や宮廷劇場での観劇に出向きました。後に描くドイツ三部作の一つを描く下地にもなった実りある旅ですが、軍上層部から規定外のルートと行動を指摘され、次の目的地を目指します。ドレスデン滞在の最終日、ドレスデン地学協会による招待で、講習会に出席。講師はあのナウマンゾウで有名なハインリッヒ・ナウマン。
約10年ほど日本に滞在した日本政府の御用学者だった経緯から、日本をよく知る学者として、ドイツ各地で講演に招かれていました。ナウマンの講演を要約すると、
・日本人は不潔で衛生概念に欠けている。
・欧州のまねごとをしているが、そのレベルが達することはないだろう。
というモノで、日本を蔑み、日本人を侮辱する内容に、強い怒りを覚えた林太郎ですが、講演では反論の場がなかったことから黙っていました。
晩さん会の席で「私は仏教に染まらなかった。何故なら仏教では女性に心がないと教えているからだ」と語るナウマンに、堪忍袋の緒が切れた林太郎は、その場で反論。
最後には同席していた人たちに「日本の美しい心を持つ女性たちのために、自分と一緒に乾杯をしてほしい」と締めくくりました。流暢なドイツ語で、祖国への誤解を訂正、侮辱を払拭する林太郎の姿に、同席したフィンランドの医師は感激し、林太郎同様ドイツに留学している日本人医師に対して、「君たちは森さんに感謝しなくてはいけない。かれは故国の名誉を守り、侮辱した相手に一矢報いたのだから」と述べたそうです。
人生の針路が決まる☀年齢域24歳~35歳 1886(明治19年)~1897年(明治30年)
初々しさと恐れを知らない頃でもあり、果敢にチャレンジすることで自分の社会的立ち位置を確立してゆく年代とも言えます。
♀年齢域と☀年齢期が交差する1886年(明治19年)3月から翌年4月までの間ミュンヘン(バイエルン王国の首都)に滞在した林太郎は、「近代衛生学の父」と呼ばれる衛生学者ベッテンコーフェルの元で学びました。
ミュンヘンでは幾つかの論文を発表する傍ら、洋画家の原田直次郎に、近衛篤麿といった日本人の芸術家や留学生とも、交流の輪を広げました。折しも同年6月バイエルン国王ルートビッヒ2世が、じぃと共にミュンヘン校外の湖で水死体となって見つかる怪事件が発生。林太郎は、この変死事件を題材に「うたかたの記」という作品を描きますが、その際、原田を主人公のモデルにしました。林太郎の主だった小説の主人公は、彼の身近な友人たちがモデルとなっています。
ナウマンの講演内容が新聞に掲載されたのもこの頃でした。
記事を読んだ林太郎は、間違えである箇所を全て丁寧に指摘した上、自身の見解も含めた反論文を作成し、それを掲載先の新聞社に持ち込んだのです。いきなり押し掛けたのではなく、ベッテンコーフェル教授の紹介があっての事でした。今の時代以上に、白人至上主義な当時です。新聞社の編集局長は、持ち込まれた反論文を見て、この日本人が本当にこれを書いたのかと疑いの目を向けたそうですが、ベッテンコーフェル教授の紹介が効いたのでしょう。林太郎の書いたナウマンへの反論は、そのまま新聞掲載されました。
これを読んだナウマンも、反論記事を新聞社に出しましたが、論理的文章というよりも、言い訳に近い内容が掲載されたのです。対して林太郎は冷静かつたたみかける反論を新聞に掲載しましたが、ナウマンから反論はなく、この騒動は翌年1887年(明治20年)1月に終わりました。
同年4月にベルリンに戻った林太郎は、北里柴三郎(後に「日本近代医学の父」と呼ばれるようになる。2025年現在1000円札の人)と共に、「近代細菌学の開祖」ロベルト・コッホに師事。細菌学を学びます。5月の下旬にはコッホの研究所で、日本における脚気とコレラについて。水道中の病原菌に就いて等、いくつかの論文をまとめました。
細菌学を知ったことから、パスツール同様、生ものを口にできなくなった林太郎。果物も加熱しないと食べなくなります。(根が甘党で杏子の砂糖煮は大好物)
風呂のお湯が細菌の温床と考え、風呂ギライになったようですが、この神経質さは☽♍のような気もします。
ドイツ陸軍の全容調査のために留学していた、日本陸軍の川上操六や乃木希典との出会いもベルリンでした。乃木希典とは、帰国後も交流は続きます。ドイツ語に磨きがかかった林太郎。日本からやってきた重要な人たちの世話をすることも求められ、多忙な日々を送ることになりました。
同年9月下旬に第4回万国赤十字社総会が、ドイツのカールスルーエで行われ、石黒忠直(林太郎の上官)と日本赤十字社の代表の通訳として、林太郎は総会に出席しています。
通訳だけでなく、総会最終日には、林太郎自身が演説を行いました。講演が終わると、場内は「ブラボー」と喝采に包まれたのです。石黒達とウィーンまで随行した後、ベルリンへ戻った林太郎。今度は全権大使としてドイツ入りした西園寺公望の通訳を務めました。
文学好きな西園寺は、林太郎の語学力と文才。配慮に関心と感謝の念を抱き、総理になった後、私邸で催した文士の集まり「雨声会」に、林太郎を招待しています。
衛生学と語学を深めるだけでなく、芸術や美術、音楽といった欧州文化を堪能した林太郎は、多忙ながら充実した1888年(明治21年の上半期を過ごしました。
同年6月帰国命令が出ます。
7月5日にベルリンを発った林太郎は、ロンドンからパリ。マルセイユを経由して、横浜に向かう船に乗りました。行きの旅路はワクワクがあったけど、複雑な心境が日記につづられています。留学の最後に不本意な任務を命じられたことや、才能と実績を妬む同僚もいて、必ずしも良いことばかりな日々ではなかったものの、ドイツ留学は自由と充実感を感じられた期間でした。
9月8日に横浜港に到着すると、同日陸軍軍医学舎の教官の任命を受けます。留学の余韻冷めやらぬその4日後、横浜港に一人の若いドイツ人女性が降り立ちました。
彼女の名はエリーゼ・ヴィーゲルト(と言われています)。
森鴎外の名著「舞姫」のヒロインはエリス。そのモデルになった人物でした。林太郎が1887年(明治20年)にベルリンに戻って以降、二人は出会い、恋仲になったようです。
日本に帰国した林太郎を追って、見知らぬ東洋の島国へやってきた二十歳そこそこのドイツ娘。仰天したのは森家の人々でした。
林太郎には、海軍中将赤松則良の長女登志子との縁談話が持ち上がっていたのです。家のためと林太郎の将来のために、何がなんでもこの縁談をまとめたい。強く望む母のみね子と、西周の意向も強く働いていました。が、この件がなくとも、当時は外国人との結婚など考えられない時代。母や祖母は受け入れる気はありません。
その反対を押し切るほど、林太郎は母や祖母に対して、強く出ることができなかったのです。エリーゼの対応は、林太郎の弟篤次郎と、妹喜美子の夫である小金井良精が当たりました。エリーゼと林太郎の間に、何があったのか、何か約束があったのかわからぬままに約一月後、彼女は日本を離れます。その後、二人が再会することはありませんでした。
翌1889年(明治22年)1月読売新聞の付録に「小説論」を発表。読売新聞には、三木竹二と「カルデロンの戯曲」を共訳します。(三木竹二は弟の篤次郎のことで、彼は内科医であると共に劇評家となり、後に演劇雑誌「歌舞伎」を主宰します)
これに感動したのが徳富蘇峰でした。「国民之友社」との縁ができたのです。その他、東京医事新誌にドイツで学んだことや、医学におけるジャーナリズムについて等を、毎号寄稿しました。
同年3月周囲の強い意向に沿って、林太郎は赤松中将の娘登志子と結婚しました。
軍務と執筆活動を並行して行う林太郎ですが、陸軍の軍医の立場から、制約がかかり、東京医事新誌から離れることを余儀なくされます。こっちがダメなら、あっちでやる。とばかりに林太郎は、和歌への関心が高い大学時代の同窓生井上通泰(民俗学者の柳田邦男の兄)。歌人の落合尚文。弟の篤次郎。妹の小金井喜美子(翻訳家・歌人・随筆家。後に「青鞜」の賛助員になる)らと共に、同人会「新声社」を結成しました。
富国強兵を進める時代、経済の活発化だけでなく、文学文芸も華盛りとなり、翻訳物の小説を読むことはできるようになりました。しかし、詩といえば当時はまだ漢詩オンリーだったのです。そこに「新声社」は、略称S.S.Sの名でゲーテやバイロンの訳詩集17編を掲載した「於母影」を発表します。このうち林太郎は、9編の翻訳を手掛けました。
文学好きの若者たちは、文語体に翻訳された情感豊かな西洋の詩に触れ、その余波からロマン主義が生まれていきます。
「於母影」で得た原稿料を元に、林太郎は文芸誌「しがらみ草紙」を発行。評論・随筆・小説はもちろん、翻に様々な分野の論文と執筆活動を展開。
1889年(明治22年)岡倉天心から声がかかり、東京美術学校(現・東京芸術学校)で、美術解剖学の講師を務めました。こうして林太郎の存在が、文壇の中で高まって行く中、1890年(明治23年)1月「国民之友」第69号新年付録に、一編の小説が掲載されます。
タイトルは「舞姫」
将来を嘱望された若き日本人留学生が、ドイツで知り合った美しき踊り子エリスと出会い、恋に落ちるストーリー。これは林太郎の経験から生み出された小説ですが、日本人と外国人の恋愛が目新しい設定で、注目を浴びました。
文学的にも高い評価を受け、作家森鴎外にスポットライトが当たる反面、林太郎と結婚した登志子にとっては、心中穏やかに過ごせる状況ではなかったのです。妊娠中ということも重なり、余計に不安が募ったとも考えられますが、エリスについて喜美子に問いただすこともありました。
同年9月に長男於菟(オト)が誕生します。
この後生まれてくる4人の子どもたち。茉莉(まり)・杏奴(あんぬ)・不律(ふりつ)・類(るい)にも、キラキラネームのような名前を付けました。留学中、外国人には自分の名前「林太郎」が呼びにくかった体験から、ドイツ語や英語でも呼びやすい名前にしたいと、独創的な名前を付けたのです。
とても子煩悩な父親で、子どもたちに自分を「パッパ」と呼ばせていました。
子どもが生まれれば落ち着くと思いきや、生活スタイルや考え方が、根本的に会わない林太郎と登志子夫妻。結婚生活は1年半で終わります。媒酌人を務めた西は非常に憤慨しましたが、林太郎が家を出る形で離婚が成立しました。西周と林太郎の関係は、西がこの世を去るまで修復することはなかったのです。
離婚後は本郷駒込千駄木町の貸家(千梁山房)に転居した鴎外。制約と規律と重責が伴う陸軍軍医の仕事と、自由な作家活動は真逆な感じですが、それで自己を保つように作家森鴎外として文学活動に打ち込んでゆきます。(本編もここから森鴎外と表記します)
これができる辺りは、器用な風星座の☀を持っている証かもしれません。
因みに「舞姫」が世に出た1890年(明治23年)1月。
年運の星♃は♑を航行。♃同士の調和、さらにN♄と調和しています。T♄は♍に入っていて逆行中。N♇やN♂と調和なので、どちらも頑固なため、揉めだすと修復が難しいのかもしれません。
♃は1年ごとに星座を移動しますから、翌年には鴎外のN☀がある♒に入室。人生の耕し期間を迎えて、家庭のことで変化や問題が生じるのもわかる気がします。先妻との離婚後、時期ははっきりしていませんが、鴎外より5歳ほど年下の児玉せきという名の女性が、鴎外や於菟の世話をしていたようです。鴎外が連れてきたのではなく、母の峰子が気に入って、森家の近くに母親と共に住むせき。畜妾が当たり前だった時代なので、今では考えられない不可思議な関係があったのでしょう。
彼女のことは「万朝報」が「弊風一班畜妾の実例」の一編として取り上げています。
1892年(明治25年)1月。家族と同居を考えて、千梁山房の近くに家を買いました。この頃は鴎外を訪ねてくる来客も増えたことから、さらに裏の土地を買い二階建ての住居を新築したのです。(現・団子坂の途中にある現森鴎外記念館)
書斎兼客間であり、軍医としての仕事も行った家の二階からは、この当時東京湾が見えたそうで、その景色が気に入った鴎外は「観潮楼」と名付けました。
因みに鴎外が出た借家千梁山房ですが、その後、夏目漱石が借りて「吾輩は猫である」を執筆しているユニークな足跡が残っています。
同年7月「舞姫」「うたかたの記」「文づかい」といったドイツ三部作。戯曲や詩が20編ほど収録された作品集「美奈和集」が出版されました。森鴎外初の作品集は、話題となり、小説家、翻訳家、芸術的センスを魅せるに十二分の効果があったのです。
9月には慶応義塾大学の審美学の講師を委託されました。
本業は軍医な鴎外。故に講義の際に軍服のまま現れたのです。その姿に緊張する学生もいたようですが、いざ講義が始まると、ドイツ留学で得た哲学を取り込んだ内容の新鮮さと深さに、引き込まれて好評を博します。この頃の鴎外は、美術展覧会などの審査員も務め、若い画家たちを支援していました。
同年11月「しがらみ草子」に連載形式で、アンデルセンの「即興詩人」を和訳して発表すると、和文と漢文を融合させた文脈で、欧州の雰囲気と街並みを綴る鴎外ならではの訳に、若い文豪家や文学好きな読者は夢中になります。
第二軍兵站部軍医部長として、遼東半島に渡り後方支援に従事しますが、日清戦争以降、軍医として実に歴史的汚点。人生最悪の選択が始まったのでした。
日本陸軍省医務局の公式記録によると、日本の兵力240,000人。そのうち戦死を含む死亡者数は13,800人。対する清国の兵力980,000人。戦死を含む死亡者数は35,000人とあります。
清との戦いは日本の勝利に終わり、1895年(明治28年)4月に下関条約が開かれました。
戦勝国となった日本は、清から莫大な賠償金や、台湾割譲の権利を得たのです。これが明治中期の富国強兵の促進剤となり、近代化がより進んだのです。
調印後の5月22日には広島の宇部港に戻った鴎外でしたが、下関条約で割譲された台湾での勤務を命じられました。初代台湾総督府の樺山資紀らと共に、平定前の台湾(乙未戦争)に向かったのです。任務を済ませて、家族の元に戻ったのは同年10月でした。
日本陸軍省医務局の公式記録によると、日本の兵力240,000人のうち、戦死を含む死亡者数は13,800人。この中の4,046人が、脚気による死亡者だったのです。脚気の罹患者数は41,431人。慢性的なビタミンB1不足により脚気は発症するということがわからなかった時代、悪化すれば死に至る脚気は、軍事衛生面で大問題だったのです。
ビタミンという存在自体、気が付かない当時。米は精米した段階で、ビタミンB1が取り除かれてしまうことも認知されはいません。当時の日本陸軍の食事は、肉や魚に野菜も出ましたが、白米が中心でした。陸軍省医務局長の石黒と、欧州帰りの鴎外は「脚気の原因は細菌」という西洋医学説を支持し、白米食を推奨していたのです。
一方の日本海軍は、海軍軍医総監高木兼寛の認識にズレがあったものの、脚気の原因はタンパク質不足と疑い、兵食を麦飯に洋食をチョイス。結果的に海軍は脚気患者の数を減らすことができたのでした。(高木軍医総監は、海軍カレーの生みの親)
白米オンリーに陥る=脚気患者の量産に繋がるという事がわからないまま、陸軍は作戦を展開。輸送が必要な戦地では、潤沢な補給が受けられず、白米だけしか食べられない環境に陥った部隊もあり、これが脚気罹患者増の下地になったのです。
陸軍は理論重視のドイツ医学。海軍は根拠重視のイギリス医学。この違いからくる実例が生じている最中、鴎外は「白米」を推奨し続けました。台湾平定の期間。10年先に起こる日露戦争の時も、その説が覆ることがなく、陸軍は脚気による夥しい犠牲者を増やしてしまうのです。
日頃は理知的であり「疑い」を推奨する自由度ももっていはいますが、時に拘りと美意識と融通の利かなさや正義感が顔を出すと、悪意なく周りに悪影響を与えてしまう人間は、どの星座に関わらず、完ぺきではないのでしょう。
1896年(明治29年)戦後の森鴎外は、文芸雑誌「めざまし草」を刊行。幸田露伴に斎藤緑雨と共に、「三人冗語」連載を始めました。
☀年齢域の終わりを告げるかのように、4月には父・静男が鬼籍にはいります。幼い頃から、穏やかに自分を見守ってくれる父を失うことは、鴎外にとって母との間のクッションを失う大きな欠損となるのでした。
過渡期を迎える♂年齢域35歳~45歳 1897年(明治30年)~1907年(明治40年)
☀年齢域と♂年齢域が交差する1897年(明治30年)1月。浜中東一郎(ジョン万次郎の長男)・青山胤通らと、公衆医事会を設立。衛生学の啓蒙活動に力を入れます。
1898年(明治31年)10月近衛師団軍医部長兼任学校長就任。さらに翌1899年(明治32年)2月には、軍医監に昇進しました。これは少将に相当する位置で、実にここまで森鴎外は順調にエリートコースを歩いてきたのです。ですが、ここで昇進と同時に、第12師団軍医部長として、福岡県の小倉に赴任が決まります。
この件については単に左遷(日清戦争の際、多くの脚気患者を出してしまった引責)前任者の退任による穴埋め人事等、諸説あるのですが、戦地赴任以外は、中央にいた鴎外にとって、福岡への赴任はビックリものだったようです。ところが、実際現地入りすると、
城下町小倉のゆったりした風土。素朴な人々の生活風景が、鴎外にはとても新鮮で、「日本人」としての何かを目覚めさせる機会となりました。
小倉勤務で別な見識を深めてゆく鴎外。九州に来たからこそできる著名人の墓参りを友人たちと楽しみ、語学勉強として、新たにフランス語とロシア語をチョイス。フランス語は宣教師について学びますが、ロシア語は独学でした。
書き物はアンデルセンの「即興詩人」の翻訳や、新聞の投稿。さらにプロイセンの軍事学者クラウゼビッツによる「戦争論」(戦争の考え方や軍事概論等の研究結果や著述をまとめたもの。)の翻訳を進めます。
ロシアとの戦争が避けられない事を危惧する日本軍は、「戦争論」の翻訳が重要な意味を持っていました。鴎外はドイツ語原本の第1編と第2編の翻訳を担当。これは落ち着いた環境の小倉で、腰を据えてかかるのが合っていたのかもしれません。元老山縣有朋は、森鴎外の翻訳家としての才能と力量を信頼してゆきます。
そんな折、1900年(明治33年)1月。離婚した先妻の登志子が、再婚先で結核を発症。亡くなりました。前妻との間に生まれた長男於菟は12歳。彼女との離婚後は独身のままでいた鴎外ですが、母に即されて1902年(明治35年)に18歳年下の荒木志げと再婚することになります。
鴎外は母親が勧めた嫁について、友人賀古鶴所への手紙に、「美術品らしき妻」と書き送っていますが、気に入ったのでしょう。
荒木志げは1880年(明治13年)5月3日生まれ。大審院判事荒木博臣とあさ子夫妻の長女として、東京市芝区西久保明船町(現・東京都港区)で育ちます。二人の兄と妹一人の4人兄弟。佐賀出身の父は、明治維新の官軍の一人で、明船町などに土地を持つ地主でもありました。
本人、♉ということもありますが、琴や生け花を学び、学習院女子部のカワイイ系の美人さん。理想の男性像は、職業こそ問わないが、日本一であることを求めていました。
その願い通り、学習院を卒業後には、金融業で大財閥な渡辺治右衛門の息子勝太郎と結婚にこぎつけます。ところが、美男子で誉れ高かった勝太郎。これまたモテる男で、付き合いのあった新橋の芸者が、彼が結婚するとわかると騒ぎ出し、新聞沙汰となったのです。
その騒ぎに志げの両親が怒って、ひと月足らずで離婚という、今時さながらな経歴を持つ元祖港区女子が志げでした。
どういう縁をもったのかわかりませんが、鴎外の母峰子は志げを気に入り、息子の嫁にほしいと言い出したのです。一般兵ならともかく、上級軍人の婚姻は、国の裁可も必要な時代でしたが、森鴎外の結婚には、それ以上に実母峰子裁量と存在が大きかったのです。
志げの両親は峰子の強引な性質を嫌い、鴎外との結婚に反対しました。一方志げは、名声のある男性が大好き。彼の声が気に入ったと、文壇で名を知らぬ者がいない森鴎外の元に嫁ぎます。
赴任先の小倉に暮らしますが、女中が二人いたというので、家事その他で困ることもなく、穏やかな新婚生活が数か月続きました。
1902年(明治35年)3月第1師団軍医部長の辞令が降りて、東京に帰ってきた鴎外夫妻。
千駄木の「観潮楼」で祖母の清子、母峰子、末弟の潤三郎。そして鴎外の長男於菟と共に同居したのです。が、心の支えになる父は既に他界し、家のことは実質峰子が仕切っていました。ここで志げは、鴎外が軍人になって以降、基本的に給料は峰子が管理している現実を知ります。
これまで自由で「今の時代」な生き方をする志げと、江戸時代さながらな武家の嫁求める姑峰子は、早々から激烈な対立関係となりました。志げを気に入り、嫁に進めたのは峰子ですが、主張がぶつかり合い、どっちも譲る気配はありません。
♂年齢域ならではな気もしますが、鴎外は、嫁と姑のどちらに就くこともできない中、家に帰ると苦悩することになるのです。その苦悩から離れる効果もあったのでしょう、廃刊になっていた「めざまし草」と上田敏の主催していた「芸苑」を合併して「芸文」を創刊。暮れには戯曲を執筆するなど、創作活動に意欲を傾けました。
1903年(明治36年)1月7日長女茉莉が誕生します。娘の誕生に、鴎外はとても喜びますが、志げは支配的で厳しい姑に愛想をつかし、娘と共に実家が所有する持ち家の一つに移り住みました。嫁と長女がかわいい鴎外は家族と共に暮らす「観潮楼」と、明船町の家の間を通う生活を始めたのです。
翌1904年(明治37年)は日露戦争が勃発。2月から1906年(明治39年)1月迄。森鷗外は第2軍軍医部長として、日露戦争に出征しました。(こちらも戦争に関しては、東郷平八郎や明石元二郎、乃木希典等をご参照ください)従軍に際して書いた遺書には、遺産は母と長男於菟で二分するようにと記載。志げが除け者状態ですが、鴎外が軍隊に入隊後、給料はすべて母が管理していたため、余計にこうなったのだと推察します。遺書とは別に、志げにはラブレターを送っていました。
国力差約7倍のロシアを相手に、激戦に次ぐ激戦を重ね、多大な犠牲を払いつつも日本は日露戦争を勝利します。尚、この時点でも脚気の原因が、ビタミンB1の不足によるものとは解明されていません。
「理由は不明だが、麦飯を食べる方が脚気予防ができる」と言って、麦飯の支給を勧めた軍医もいましたが、鴎外は「脚気の原因は細菌」説を覆すことはなく、提案を否定。
戦地在隊合わせて陸軍は約250,000人の脚気罹患が発生。そのうちの約27,000人が死亡しています。これは日清戦争よりひどい数字で、一方で兵食の改良に工夫を凝らした海軍は、脚気罹患は87人でした。脚気の罹患者を減らす結果を出したのです。
一連の責任は陸軍軍医総監(総責任者)の小池正直にある訳ですが、鴎外は第2軍の衛生管理の責任者だったから、当然責任はありました。さらにこの事態が今もなお森鴎外の軍医としての信頼と評価を辛くしています。
出兵の時が1904年の2月。♒の☀なんですね。鴎外のN☀は♒の後半。しかもこの年、♒にT♄があります。♄が一つの星座にいるのは、約2年半。鴎外にとって☀星座に♄がある時の出兵です。T♃は鴎外の♈♆にかぶさるように、♓の最後にかかっています。どっちが1番なのか、力を巡る日露戦争時に、♃が♈入りしていたのも興味深いです。そして悪意はないものの、一つの固執が多くの兵士の命と健康を奪ってしまった脚気への対応。細菌に固執したのは、♋を進むT♆とN♆。♍にあるN♃とT♆の緊張角度。彼のN☀とT♆の調和等があたるとも考えました。(♆を理系、薬価。病気という位置づけで見た場合)
1906年(明治39年)6月。戦後を迎えると、鴎外は親友賀古鶴所と共に、山縣有朋を中心とした歌会「常盤会」の発起人になりました。時に煙たい存在でもある山縣でしたが、趣味は和歌。陸軍の最高位にいる山縣に信頼され、趣味を楽しむ仲となったのも、鴎外の立ち位置を安定させた要因だったかもしれません。
広げるか深めるか♃年齢域 45歳~57歳 1907年(明治40年)~1919年(大正7年)
年齢域で見る際は、社会的地位が安定した熟年層。だからこそ今まで培って事を活かして社会貢献してゆく。できることが問われてくるフェースに入るのです。
♂年齢域と♃年齢域が交差する1907年(明治40年)鴎外は与謝野鉄幹らと「観潮楼歌会」を開き、また、西園寺公望が主催する歌会「雨声会」に出席するなど、文学交流を盛んに行いました。8月には第三子。志げにとっては長男となる不律(ふりつ)が誕生。
10月に鴎外は、陸軍軍医総監(中将に相当)に昇進。ついに陸軍軍医となりました。少年時代に難易度高い医学部受験を勝ち抜き、戦争も乗り越えて、軍医のトップとなった鴎外。内外共に充実期ですが、1908年8(明治41年)弟であり劇評価の三木竹二(篤次郎)が死去するだけでなく、茉莉と不律は百日咳に罹患します。
生まれて1歳くらいな不律は亡くなりました。この件には、苦しむ不律が不憫になった祖母のみね子が医師に頼んで安楽死させたとか(長女茉莉説)、祖母の提案を父が了承していただけでなく、苦しむ茉莉にも薬を飲ませようとした。そこを志げの父親に見つかり断念したとか(次女の杏奴説)。どちらも後から当時の事を聞いて書いていますが、どちらが正しいのか、それはわかりません。またジャッジする必要もないですが、幼い我が子を襲った不幸が、後の代表作「高瀬舟」の背景にあった思うと、考えさせられます。
楽しいことばかりが強調されがちな♃ですが、何でも拡張する「耕運期」でもあるので、シビアさを伴うことはあり。鴎外の家族に起きた件は、その事例と考えることもできます。
工務としては、脚気のことが気になっていたのでしょう。
脚気の原因を解明するために、「臨時脚気病調査会」を発足させます。会長は森鴎外。会員には盟友北里柴三郎。海軍の軍医も含む21人が連なりました。
北里や海軍軍医らは、経過を見て「脚気細菌説」に疑問を呈した見解を述べますが、鴎外は、細菌説から離れなかったのです。(脚気は栄養障害と確定して、調査会が解散するのは、鴎外がこの世を去った後の事になります)
1909年(明治42年)1月。与謝野鉄幹と晶子夫妻と共に、文芸雑誌「スバル」を発行しました。石川啄木に北原白秋。高村幸太郎といった若手の執筆者が、「スバル」に作品を掲載し、一躍注目を浴びます。終わる気配なく続く嫁姑戦争。鴎外はその確執を題材にした現代小説「半日」「ウィタ・セクスアリス」を発表しました。
5月には次女の杏奴が誕生。7月には文学博士の学位を授与されますが、先に掲載した「ウィタ・セクスアリス」が、発禁扱いとなってしまいます。哲学者の父が、青年となった長男に贈る性教育の資料として、自らの性体験を語るという内容は、異色といえば異色ですが、軍医であり文学博士の森鴎外が書くのは問題ありとされたのです。
当時の文学界は、ありのままの真実を描き、美化を否定する自然主義文学が主流でした。鴎外はそれとは異なる反自然主義文学を選択したようです。縁のあった慶応義塾大学で、今度は文学部顧問に就任した鴎外。「三田文学」の編集委員にもなりました。
嫁姑のうっ憤晴らしに、小説を書くことを進められた志げは、女流作家も花盛りな明治後期に、自身の体験をもとに「波瀾」「あだ花」を書き、これを発表します。
1910年(明治43年)鴎外が「青年」を執筆中、社会主義者の男が、明治天皇暗殺を企てたことから大逆事件が発生。幸徳秋水ら数百名の社会主義者や無政府主義者が検挙されたのでした。ほとんどの人が事件と無関係でしたが、当時は社会主義者と無政府主義者の違いもよく認識されていなかったのです。
明星派の歌人で「スバル」の経営を担当していた平出修は、本職が弁護士でした。この事件の弁護を引き受けるため、与謝野鉄幹を通して鴎外の元を訪れます。軍人として明治天皇の暗殺は許せない。かといって無関係な者たちまで捕縛して罪に服させる政府のやり方に問題を感じていた鴎外は、申し出を快諾。
海外の事例を引き合いに出して、社会主義者と無政府主義者の違いを平出にレクチャーしました。鴎外仕込みの平出の弁護を受けた被告の中には、「あの弁護を受けた以上、死んでも遺憾はない」と礼を述べた者もいたそうです。
1911年(明治44年)には末の子類(るい)を出産する志げ。その傍らで執筆活動に勤しみ、「青鞜」「スバル」等の雑誌に作品を寄稿しています。鴎外は「スバル」に「雁」の連載を開始。大逆事件はこの年に幸徳秋水ら12名の処刑をもって幕を閉じます。大逆事件にする鴎外の考えや気持ちは、「沈黙の塔」に刻まれているのでしょう。
1912年(明治45・大正元年)1月鴎外はついに戯曲「ファウスト」の訳を完成させます。
同年7月29日明治天皇崩御によって明治の幕は下り、7月30日大正元年となりました。
真夏の☀なので当然♌。ここに♀も入室中。T♃は♐を進み、T♅が♒。しかも☽も♒を進んでいて、完ぺきではありませんが満月。森鴎外のN☀にかぶさって行きます。
T♄が♊入りする中、T♇は♊の終わりにありました。この♇は、鴎外のN♃とじっくりゆっくりと緊張角度を取っていたのを考えると、幾つかの仕事を同時に進めてきた活動にエールを送っていたとも取れます。
9月13日明治天皇大喪の礼に参列した森鴎外は、その直後、親しかった乃木希典陸軍大将が、婦人と共に殉死した一方に強烈な衝撃を受けます。
西南戦争に参戦した際に、敵に旗を取られた事。日露戦争の旅順包囲戦で多くの兵士を死なせた事への強い自責の念から、自刃しようとしたのを「どうしても死ぬなら朕が世を去った跡にせよ」と、明治天皇に諭された経緯がありました。(乃木希典は既に書いたので、詳細は省きます。気になる方はご参照ください。)
乃木夫妻の殉死を、多くの国民が悲しみますが、一部の若い世代。白樺派の芥川龍之介之に志賀直哉といった新鋭作家は「前時代的」と冷笑し、批判的な発言をしました。
森鴎外は乃木夫妻の葬儀に参列した後、中央公論社に赴いて、一編の小説「興津弥五右衛門の遺書」を提出します。死去した主人を慕い、切腹で殉死する主人公を描いた作品で、乃木夫妻の殉死から、葬儀の間の数日で書き上げました。一方で夏目漱石も、文壇に流れる軽薄な嘲笑をダウンさせるべく、小説「こころ」を執筆しています。
その後鴎外は、時代小説「阿部一族」を中央公論社で発表。
1914年(大正3年)には、第一次世界大戦が勃発。日本は翌年に中華民国へ対華21ヶ条を突きつけます。直接戦地に赴くことはないものの、政府の在り方、軍の在り方に思うところはあったようです。
病に苦しむ弟を殺した主人公と、彼を護送する役人のやり取りから始まる短編小説「高瀬舟」を執筆したのが、発表は1916年(大正5年)1月でした。♃年齢域の初めの方で少し触れましたが、「高瀬舟」は、鴎外自身が病に苦しむ自分の子どもを失う経験、重ねてきた年齢から生み出した作品と知って読むと、また趣が変わると思います。
3月には、良くも悪くも鴎外に影響を与えた母峰子が死去。
同年4月に鴎外は陸軍省医務局長を退官。予備役となった鴎外は、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に弘前藩の典医を務めた史伝「渋江抽斎」の人伝を掲載します。
♃年齢域の総仕上げのように、1917年(大正6年)12月。宮内省から帝室博物館総長兼図書頭に就任。高等館一等に叙せられました。帝室博物館は、現在の東京国立博物館の前身にあたります。
忙しい日々は相変わらずですが、鴎外と志げは、どこかほっとする時間を迎えたのか、穏やかに暮らしました。
社会的重荷を追う♄年齢域 57歳~70歳 1919年(大正7年)~1922年(大正11年)
1919年(大正7年)日本芸術院の前身である、帝国美術院の初代院長に就任する鴎外。と、正倉院御物開封に立ち会うため、約3年間、毎年秋に奈良を訪れる生活が始まります。
文化財の保護や管理という作業をしてくれておかげで、現在に至っているので、そこは感謝すべきと思いますが、♄年齢域にもっとも相応しい森鴎外の業績は「元号の考証、編纂作業」かもしれません。帝室博物館総長兼図書頭に就任した際、元号にまつわる資料から、天皇のおくり名と各元号が採用された経緯を調査したのです。
1921年(大正10年)臨時国語調査会長になり、常用漢字に仮名遣いの修正や改定案について議論をしました。ところが秋を迎える頃、浮腫ができ始め、体調が悪化。腎臓病と肺結核を患います。
1922年(大正11年)4月イギリス皇太子が来日し、正倉院参観する際に奈良へ赴きましたが、途中何回か病臥しました。同年6月15日遂に病床に臥せたのです。
出典で歴代天皇のおくり名を考察できたものの、大化から大正に至るまでの元号の考証はまだ編纂の途中でした。天皇制国家として日本があるならば、天皇制国家の根幹を成す「元号」の研究は、とても重要だと思っていた節のある森鴎外。「明治」「大正」の元号は、過去に他国で使われていた経緯がわかり、調査不足の政府を批判したことがあったのです。病状を考えた鴎外は、これまで一緒に調査をしてきた漢学者の吉田増蔵に、「元号考」の完成を任せることを決めます。大正の次に来る元号は、候補になったことのない文字を」と考え、その意思を吉田に託したのでした。
1922年(大正11年)7月9日。家族と親友の賀古鶴所が付き添う中、森鴎外は腎臓病と肺結核により60歳で息を引き取りました。亡くなる前日には、従二位という官位に叙せられます。礼としてなのか、名誉欲かわかりませんが、使者が来るのに合わせて袴を履いて待っていました。
亡くなる3日ほど前に「余は石見人森林太郎として、死せんと欲ス」と遺言を残した鴎外。その意思は尊重され、森鴎外の墓には、生前に受けた栄誉、称号などは書かれていません。
鴎外の死去から4年後の1926年(大正15年)12月25日大正天皇が崩御なさり、大正時代は終わりました。鴎外の遺著・元号考を託された吉田は、新年号として考案した真新しい「昭和」を世に出したのです。「昭和」は、鴎外にとって満足のいく元号だったのかはわかりません。しかし、彼が後世を生きる日本人に、「真新しい元号」を贈ってくれたことは確かです。




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