先の大戦で日本が何故、国家総動員の道を選択したのかを観る際、キィーになる人物なので取り上げようかと、ホロスコープを観たら、実に「星の逆行」が多い人であることを知り、この辺りも含めて、考察してみました。

永田鉄山ネイタルデーター

1884(明治17年)1月14日 出生時間不明
出身地 長野県諏訪郡上諏訪町本町(現 諏訪市)



☀星座 ♑ 23°24
☽星座 ♌ 12°37 (24h ♌5°42~19°26)

第1室 本人の部屋    ♑ ☀
第2室 金銭所有の部屋  ♒ ☿R ♀
第3室 幼年期の部屋   ♓ 
第4室 家庭の部屋    ♈
第5室 嗜好の部屋    ♉ ♆R ♇R
第6室 健康勤務の部屋  ♊ ♄R
第7室 契約の部屋    ♋ 
第8室 授受の部屋    ♌ ♃R ☽ ♂R
第9室 精神の部屋    ♍ ♅R
第10室 社会の部屋   ♎ ☊R
第11室 友人希望の部屋 ♏ 
第12室 障害溶解の部屋 ♐
出生時間不明なので、誕生星座を第1室として30度ずつ12室。1月14日生まれなので、☀は当然♑。ホロスコープの形は、スプレータイプ。物事を多面、多角的にとらえ、環境への順応性も高いマルチタイプ。束縛されることを嫌うけど、筋が通った話は聞く冷静差を持つ傾向がありますが、オールマイティーに仕事をこなし、折衝もうまい永田らしいと思います。
☽星座は終日♌。午前0時に近ければ、♃Rと合が強く、23時台ならば、♂と合となる。成功意欲は人一倍旺盛。個人の財運と物事のめぐり合わせを見る第2室「金銭所有の部屋」が、♒。ここに水星(☿)Rと♀。記憶力抜群。勉強も仕事もテキパキと進める性格ですが、優しく面倒見がいいことから、信頼と人望が集まるでしょう。経理事務、直接お金を扱うことにも向いています。
第3室と第4室には惑星がなく、第5室「嗜好の部屋」が守りと安定の♉。海王星(♆)と♇が入っています。♀とは緊張角度ながら、♆とのコンビなので、雰囲気の良さ(感じの良さ、話し方などは丁寧)をもたらす。特異なセンスや才能を魅せる♇が、有能さをバックアップ。この二つの星は、スケールの広い社会や時代。世相を観るのにも使いますが、若い頃から優秀で、周囲に期待をもたらした永田を物語っていると言えます。
ライフスタイルを司る第6室「健康勤務の部屋」♊の♄。何に対しても誠実に対応する性質が、責任ある仕事に就かせはしますが、期待しすぎる部下や外野に悩まされる可能性あり。♊なので、ちょっとイライラ感も持つ可能性はありますが、感情任せに人に当たることは少ないでしょう。♄は♇とコンジャンクション。下手をすると打ち消し合いを起こしますが、♒の☿Rとトリン。第8室の木星(♃)Rとセクスタイルというアスペクトを持っていて、地道さの燃料になれば強いでしょう。
第7室「契約の部屋」♋には星がなく、第8室「授受の部屋」♌。0度に♃。☽。♂が18度にあり、☽以外はR。深夜生まれなら、☽は♂とコンジャンクションとなります。
この「授受の部屋」一般的には「生と死の部屋」と呼ばれていて、その人の死に方や遺産に関する事。性生活を主に観ます。(センシティブなので、あまりダイレクトにふれませんが)第2室の対向であることから、社会的な財運、めぐり合わせや影響もはいります。 
永田の第8室は、真夏の星座♌。さらに星が三つ入っていることから、第8室は、主要な要素になります。♑からはずれますが、♒とは対向。故に♀と♂。☿と☽がオポジション。☽と♂は厄災を意味する面もあるので、永田の最後を考えると何ともですが、比較的財運と人脈には恵まれていたのでしょう。
第9室「精神の部屋」のほぼ終わり、♎28°に天王星(♅)♑の☀調和。雰囲気だけで流れることなく、抽象的なことを具現化しないと落ち着かない性質が強い。センスの良さが光るのでしょう。 

このホロスコープの特徴は、水星座に星がないこと。金星(♀)を除く惑星がことごとく「逆」Rであること。
☀と☽は逆行しませんが、水星(☿)以降、冥王星(♇)までの8惑星と、node(☊)は、それぞれ逆行をします(緑川は☊以降の天体は使用しません)
星の逆行は西洋占星術的見解で、実際天体がバックするわけではなく、地球が惑星を追い越したり、惑星に追い越される際、視覚的に見える現象のことです。
その天体が地球から見て反時計回りなら「巡行」。その天体が地球から見て時計回りに進んでいると見えるなら「逆行」と考えます。
その人のNホロスコープ(誕生時のホロスコープ)を観る際、惑星が逆行している場合、R表示が着きます。一つか二つあるという人もいれば、全く逆位置がない人もいます。
今回ピックアップした永田鉄山。ホロスコープを観たら、なんと☀☽♀以外の惑星は、すべてR表示が着いていました。大雑把なくくりですが、1883年の12月~1884年の1月に生まれた人たちは、惑星逆行が多いとも言えます。

逆行する星が全くない人は、疑うこともなければ、忖度なしのマイペースワールドが強く出るといわれているし、逆行が多い時に生まれる人は、振り返ったり、読み込んだり、裏読みとかをナチュラルにやってしまう傾向が強いと言われています。この辺りも踏まえて、永田鉄山のホロスコープと、星空historyを進めたいです。

永田鉄山略年表 (ウィキその他資料参照)

1884(明治17)年1月14日 長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)、郡立高島病院院長永田志解理の四男として誕生する。
1890(明治23)年 高島尋常小学校に入学→諏訪高等小学校へと進学。
1895(明治28)年8月26日 父永田志解理が死去。10月 東京市牛込区愛日尋常高等小学校に転校。
1898(明治31)年9月 東京陸軍地方幼年学校へ入学。
1903(明治36)年5月 士官候補生となる。兵科は歩兵に指定され、歩兵第3連隊附
1904(明治37)年10月24日 陸軍士官学校(第16期生)を主席で卒業。11月1日 陸軍歩兵少尉任官。陸士同期の岡村寧次・小畑敏四郎と共に、陸士第16期三羽烏と称される。
1908(明治41)年 陸軍大学(23期)入校。
1910(明治43)年11月 陸大卒業 52名中2位。1位は梅津美次郎(後の陸軍大将)。恩賜の軍刀を賜る。
1920(大正9)年 駐スイス公使館付駐在武官となる。
1921(大正10)年10月27日ロシア公使館付武官の小畑敏四郎少佐。岡村寧次少佐(欧州
出張中)と共に、ドイツのバーデンバーデンで会合を行う。翌日東條英機も合流。
1926(大正15)年 国家総動員機関設置準備委員会幹事となる。内閣の資源局。陸軍省の動員課と統制の設置に携わり、初代動員課長に就任。
1928(昭和3)年 動員課長を辞任。後任は東條英機。
1930(昭和5)年 南次郎陸軍大臣の下で陸軍省軍事課長となる。
1932(昭和7)年 陸軍少将に昇進。
1933(昭和8)年 陸軍全幕僚会議が開催される。対支戦を考える永田と、対ソ戦準備論の小畑がぶつかり、この対立が「皇道派」と「統制派」を生み出してゆく。
1934(昭和9)年 陸軍軍務局長となる。エーリヒ・ルーデンドルフの政治支配と、総力戦計画に影響を受け、完全な国防国家の建設を提唱する「国防の本義と其強化の提唱」という陸軍のパンフレットを作成、配布。11月陸軍士官学校事件。
1935(昭和10)年7月15日真崎教育総監更迭。(永田の暗躍による陰謀等の説が流れる)7月19日皇道派に流れる噂を真に受け止めた歩兵第14連隊付の相沢三郎中佐は、有未精三中佐の紹介で、永田と面会し辞職を迫る。8月12日 陸軍省の軍務局長室で、相沢に軍刀で殺害される。享年51歳。

永田鉄山惑星history ☽年齢域0~7歳1884~1891(明治17~明治24)年

1884年長野県の諏訪郡上諏訪町に住まう永田志解理・順子夫妻の四男として、永田鉄山は誕生します。永田家は代々高島藩の藩医を務めてきた家柄で、父志解理は郡立高島病院(現・諏訪赤十字病院)の院長を務めていました。温和な性格な人で庶民救済を旨とし、往診の際の車代どころか、診察代を取ることもなかったそうです。
1886(明治19)年までには、無料種痘を7000人以上に施す医療活動を行い、明治天皇から讃えられ、大杯を賜いました。
比較的裕福な家庭の中で、幼い頃を過ごした鉄山。その穏やかで目上を敬い、後輩への面倒見がよい柔和な性格は、父・志解理によるものが大きいように思えます。
☽年齢域もそろそろ仕上げという1890(明治23)年。高島尋常小学校・諏訪高等小学校に入学。後に日本の気象学者となる藤原咲平が同級生。

☿年齢域7~15歳1891~1899(明治24~明治32)年

1895(明治28)年鉄山12歳の夏。最愛の父・志解理が61歳でこの世を去ります。少年鉄山に残した父の言葉が「立派な軍人となれ」でした。
時代は日清戦争の頃で、永田家の次男十寸穂(ますお)が、既に陸軍の将校になっていたこともあったのか、医者も軍人も、世のため人のために生きる職と、志解理は捉えていたのかもしれません。
こうして同年10月。次兄が住む東京に永田一家は移住。鉄山少年は東京市牛込区愛日尋常小学校へ転校して、勉学を積みます。
☿年齢域の仕上げのように、1898(明治31)年9月。東京陸軍地方幼年学校を受験しました。東京陸軍地方幼年学校とは、将来の大日本帝国陸軍の幹部候補生を養成する全寮制の学校で、旧制中学から陸軍士官学校へ進学するよりも、早い段階で軍人としての素養を身に着ける事ができるエリート養成機関。見事に合格した鉄山少年は、父の遺言を胸に、軍政畑の一歩を踏み出したのです。

♀年齢域15~24歳1899~1908(明治32~明治41)年

1903(明治36)年5月。中央幼年学校を次席で卒業した鉄山は、歩兵第3連隊付きとなり、19歳で士官学校(16期生)に進学します。時代は日露戦争目前で、勝つか負けるか、のるかそるかの時代でしたが、将来の日本軍を任せる士官兵を、前線に出すことはありませんでした。
なので永田は 日露戦争の実戦は経験していません。士官学校16期生は、後に東京裁判で絞首刑となる土肥原賢二。板垣征四郎も同世代です。永田は岡村寧次と小畑敏四郎と仲良くなり、周囲から「16期生三羽烏」と呼ばれました。
試験に受かるため、猛勉強をする同級生が多い中、永田は科目外の中国語の勉強に着手。
その様子を見た同級生から、試験範囲の質問をされると、実に丁寧に教える永田鉄山を見て、小畑から「俺たちがみじめすぎるから、せめて勉強のマネでもしてくれよ」と、こぼされるエピソードが残っています。
1904(明治37)年10月24日陸軍士官学校(第16期)を主席で卒業すると、見習士官として、麻布の第三連隊に勤務します。

☀年齢域24~34歳1908~1918(明治41~大正7)年

鉄山の☀年齢域は、日本が関税主権を取り戻す明治時代の後半から、第一次世界大戦が終わる頃までが当たります。
1908(明治41)年。鉄山はついに陸軍の最高峰陸軍大学校に入学しました。階級は中尉の時で、翌年には母方の従妹である轟文子さんと結婚します。
当時の日本は徴兵制ですから、男性なら誰でも軍人にはなれました。しかし、陸軍は超学歴社会。どんなに頭が良くて、人心掌握に長け、実績を積んだ人でも、陸大に入学・卒業しない限り、陸軍の要職に着くことはできなかったのです。よって軍制改革に携わることもできません。そして陸大は、親がどんなに優秀な軍人でも、コネで入れるほど甘い世界ではありませんでした。この頃、東條英機も陸大受験に2年連続でチャレンジ。落ちています。これは東条が学習能力が低いのではなく、進学できるのは全士官の1割り程度という、陸大の試験が激難しいから起きたことでした。(諦めて東大に入る人もいたという状況です)

陸大を卒業するだけでなく、卒業時の成績が重要で、6位以内の生徒には、「恩賜の軍刀」が授与されました。これは陸軍大臣や参謀長官への道も夢ではなく、将来を約束された出世コースに乗る事を意味していたのです。
永田鉄山は優秀な成績と品行方正をキープし、1910(明治43)年11月に、陸大23期を52名中2位で卒業しました。主席は1学年上の梅津美次郎(後の陸軍大将)。
永田と岡村が、小畑敏四郎の家で、後輩の東條のために勉強会を開いたのもこの頃でした。1912(明治45・大正元)年。陸大を卒業した永田は、教育総監附勤務が始まり、東条は陸大試験に合格しています。永田が配属された教育総監附とは、これまでの軍隊教育のあり方を見直す「陸軍教育令」作りを行う部署でした。
時制的には日露戦争後、勝ち戦なのにロシアから賠償金を取らなかった政府への反発や、大正デモクラシーによるこの頃、社会風潮自由を謳歌する分、悪化もしました。陸軍は軍紀の弛緩を問題視していたのです。
当時の海軍は、生みの薩摩。陸軍は長州閥が大きな影響力を持っていたのです。永田は明治維新を切り開き、日清日露戦争を生き抜いた元勲山縣有朋らを相手に、彼らの意見を吸い上げた後、新たな国防方針の構想を含めた「陸軍教育令」の成文をまとめ上げました。
編纂作業を通じて、意見集約しつつ、永田自身、軍隊教育の在り方を模索、追及した時期だと思いますが、真摯な彼の言動は、山縣達元勲をはじめ、陸軍本部は好意的に移り、教育系将校として、まずまずの実績と信頼を得ます。
因みに1913年(大正元年)10月15日のホロスコープを見ると、T♆が♐0°21。T♄♇が♋2°。♇はR中です。T♃は♅と共に、♒を進み、永田のN☿に見識を広げる機会を与えます。

1913(大正2)年8月陸軍歩兵大尉に昇進後、軍事研究のためドイツ駐在武官として、ドイツ帝国に赴任。1914(大正3)年10月まで滞在予定が、8月に短縮となったのは、1914(大正3)年7月28日に、第一次世界大戦が勃発したのが原因。
当時の日本は、世界最強と言われたドイツから、様々なことを学んでいました。しかし、自国がドイツともめてなくても,日英同盟を結んでいる以上、ドイツ対イギリスで戦った場合、ドイツは敵国になります。
やむなく一旦帰国することになった永田ですが、語学力堪能なため、陸軍が放っておくわけがなく、1915(大正4)年にはデンマーク駐在することになりました。
その後スウェーデンにも赴任。つまり、第一次世界大戦中、永田鉄山は、激戦地の欧州にいたのです。民間人も併せて約2千万人近い死者を出した第一次世界大戦ですが、主戦場は欧州。日本はドイツが租借していた中華民国の山東省にある青島の占領をしたくらいで、新型兵器による戦争の様子(重火器、飛行機等)を、知ることはできなかったのです。
鉄山の☀年齢域の仕上げとなる 1917(大正6)年11月。軍部は第一次世界大戦を見てきた彼を、臨時軍事調査委員に任命したのでした。
T♏の☀と鉄山のN♉♆と♇がオポジション。T♒を進む♅は、鉄山のN♀とコンジャンクションであり、対角の♌N♂とはオポジション。
海外視察の話ではありますが、楽しい旅行話ではなく、重要でシビアな内容である事。新たなる武器という事を視野に観てもいいと思います。
鉄山の運勢に重要な♌N♃☽♂が、T♆と♄のコンジャンクション。N♇はと♏☿のオポジションが、シビアな内容を、巧みな洞察力と想像力でわかりやすくアウトプットしたと言えるでしょう。T♃は、♊で逆行中。これが鉄山のN♄と♇とコンジャンクション。
アクセルとブレーキを同時に踏んだような感じですが、彼の報告によって日本陸軍の本部は、今後の戦争の在り方が変わる事に固唾をのみ、また鉄山自身も、日本が敗戦しないためにある決意を固めます。

♂年齢域34~45歳1918~1929(大正7~昭和4)年

☀年齢域の勢いで、人生の過渡期を迎える♂年齢域。
1918(大正7)は、日本がシベリア出兵を開始し、大失敗した年であり、11月に第一次世界大戦は終結します。戦争こそ終わりますが、それまで特需景気に沸いていた日本は、大正デモクラシーも萎むほど、大きな社会不安となった戦後不況が発生。
1921(大正10)年中華民国で中国共産党が結成され、同年11月日本では初政党政治の総理であった原敬が暗殺される事件が起きます。
1923(大正12)年には死者10万人を超える関東大震災が発生し、その傷も言えぬうちに、昭和を迎えるのでした。1927(昭和2)年3月14日。衆議院予算委員会で、時の大蔵大臣片岡直温(第1次若槻内閣)が「東京渡辺銀行が、とうとう破綻いたしました」と言ったことがきっかけで、昭和金融恐慌が発生します。
元々金融不安があった世の中は大混乱。中小銀行の取り付け騒ぎが起こり、4月には鈴木商店の倒産。台湾銀行が休業に追い込まれる中、若槻内閣の代わりに組閣した田中儀一内閣の大蔵大臣となった高橋是清の名案で、危機を脱したのです。
その後、1929(昭和4)年。ニューヨークで、世界恐慌の発生。当時の政策の失敗が昭和恐慌を招きました。

話を鉄山に戻しますが、1917(大正6)11月。大戦の結果を客観的に分析していた鉄山は、臨時軍事調査委員で、欧州最強と言われたドイツ帝国が連合国に敗北した戦の経緯を、軍部に報告します。
彼によってもたらされた情報によって、兵器や弾薬の消費量が、これまでの戦争を上回っていたことだけでなく、武器の生産や補給に、民間施設の利用や民間人(非戦闘員)が、駆り出された事。
各国の軍同士が、限られた場所で戦闘を行ったこれまでの常識とは第一次世界大戦は、様相が異なる「国家総力戦」であった事は、軍部にとって大きな衝撃でした。
永田自身、実際に自分の目で戦地を見て「国家総動員体制」の必要性を、痛感したのです。ここで日本史上はじめて「国家総動員体制案」が出てきたのでした。

ところが1919年(大正8年)パリ講和会議以降、国内外問わず、「軍備にお金かけなくていいでしょ!」「戦争反対」という反軍主義や軍縮論が広がっていきます。日本にとって、大きな脅威だったロシア帝国が崩壊したこと。政府への不満もあり、メディアと一般大衆の思考は、この波に乗りました。
「今後の戦争は、各国の軍同士が戦うだけでなく、国民を巻き込んだ国家総動員体制による総力戦となる」という現実を前に、頭を抱える軍部首脳や、永田の認識とは異なった方向に進んだのです。 
沸き上がる世論を見て、永田は平和な世界を作る事には賛同する。けれど、次に戦争が勃発する際は、世界は「国家総力戦」で来る。これに対して日本が何の対策も講じないまま、その日を迎えれば、確実に敗戦することに危機感を抱きます。
世界が軍縮を行い、日本も軍縮したところで、いずれ戦争は勃発する。リアリストな永田は冷静に分析し、軍部改革の必要性も含め、「人民の統制按配」「生産と分配、消費の調整」「交通の統制 ・財政並びに金融に関する措置」等、各分野が歯車的にかみ合う構造と、有事の際には、これを国家が統制する事を考えました。
一軍人がこれを具体化できるかといえば、非常に難しいですが、力押しの改革ではなく、段階的近代化を図り、軍事と経済を一体化させる構想は、丁寧に積み上げる土星座の性質を宿す永田鉄山らしい構想だと言えます。
そしてこの構想が、陸軍を二分する「皇道派」と「統制派」の違いを物語る下地となりました。故に永田が「統制派」のトップと見られて「皇道派」から恨みを買ったのなら、非常に残念と言えます。

1920(大正9)年に駐スイス公使館付駐在武官となった永田。1921(大正10)年の10月27日に、永田とロシア公館付武官(ドイツに待機中)の小畑敏四郎少佐。欧州出張中の岡村少佐は、ドイツのバーデンバーデンで、会合を行います。翌日東條英機も合流して、軍部内の人事刷新や軍制改革。総動員体制の構築等の話をしたという記述が残っていますが、これは岡村氏の視点で書かれたものなので、特に陸軍の長州閥支配に対する打破に関しては、話が盛り上がったか疑問の余地はあるかもしれません。
永田鉄山は、山縣といがみ合っていたというより、むしろ山縣からその才能を認められ、目をかけられていた感もあるので、まぁなんともと思うのです。東條を含め4とも、少佐になったこともあり、同窓会気分の飲み会だったかもしれません。

1923(大正12)年2月帰国した永田は、参謀本部入りします。8月に中佐に昇進後、10月には陸軍大学校の教官を兼務しました。実に多忙な日々を送りますが、「軍の改革」を望む陸大出身の中堅層を交えて、国家総動員体制の樹立や、軍内改革を目的とした勉強会を開いたのです。
1924(大正13)年12月。歩兵第50連隊を経て永田は、40歳で軍務局高級課員に栄転。
軍制の管轄や、陸軍省との政策形成をはじめ、軍事予算の獲得に関わる部署で、陸軍の中でも重要な実務部門への栄転は、実務能力と人心掌握が秀でた永田らしいといえます。
高級課員となった永田は、国家総動員体制の重要性を、周囲に説いてゆきました。

1925(大正14)年4月に発令された「陸軍現役将校学校配属令」にも関与します。これは公立の学校に現役の将校を配属し、軍事教育を施す法令でした。「国家総動員体制」に向けた準備というよりも、加藤高明内閣(24代総理)において、大規模な軍縮が行われることが明白だったのです。
相当数の将校がリストラされる懸念があり、その再就職というか、軍人の配属先の受け皿を確保するというのが実情でした。因みに加藤高明総理は、西園寺公望に高く評価されている総理大臣の一人です。政党政治と軍閥とのバランスを考え、総力戦計画に理解のある人で、海軍は海軍大臣財部彪に。陸軍は陸軍大臣の宇垣一成に任せる派だったのです。
宇垣は岡山出身で、長州閥ではありませんが、山縣有朋亡きあとの長州閥を引き継いだ田中儀一から、その基盤を受け継いだ軍人でした。田中は政党政治時代の勢いに乗る政友会の総裁になるため、軍人を引退して、宇垣を後釜に据えたのですが、長州閥ではなかったというだけでなく、「軍縮」を進める宇垣に対し、反感を抱く軍人は多かったのです。
これも永田に共鳴する者を増やした背景の一つです。時制としては、高橋是清・若槻禮次郎・浜口雄幸。さらに犬養毅を養護、衆議院の多数政党が内閣を交互に組織する「憲政常道」が確立されました。 

1926(昭和1)年。永田はついに「国家総動員機関設置準備委員会」を発足。幹事に就任します。その翌年1927(昭和2年)3月14日。衆議院予算委員会で、時の大蔵大臣片岡直温の失言で昭和金融恐慌が発生し、世の中は大混乱な同年5月に、永田鉄山は、内閣の外局として設置された「国家総動員準備機関・資源局」の策定に関わりました。
さらにこの頃、永田は講演を行い
「戦争間隔の平均年数は、約12年。戦争継続の平均期間は、約1年8か月。
永久の平和どころか、50年の平和を維持した国もない」と述べています。
不幸にもこの永田の考えは、数年後に具体化してしまうのでした。
その後、小畑や東条を含む、15~18期の陸大出身者たちと共に永田は「二葉会」というグループを誕生させます。それに刺激を受けたのか、後輩にあたる21~24期の陸大出身者の石原莞爾少佐や鈴木貞一少佐たちも「木曜会」を発足しました。
昭和初期の日本陸軍を語る上で、石原莞爾も重要な位置にいます。
1889(明治22年)1月18日生まれ。帝国陸軍の異端児と呼ばれた彼は、利発だけど過激な性格で、自分より格下とみなせば年上でも怒鳴りつける癖もありました。
永田と☀星座は♑。だけでなく、☽も♌。ですが、違いは、水星座に星をもっていることと、星の逆行は、♌♄・♉♆・♊♇・♋☊のみ。温和な永田とは、乱暴な手段もやってのける強引さがあったのです。
永田は後輩たちの「木曜会」との距離を縮めるべく交流しました。
どちらのグループも、陸軍内の改革を話し合いますが、特殊利権だった満洲や内蒙古を巡る満蒙問題も、議論の対象となったのです。
当時満蒙一帯の主権は中華民国にありました。しかし、国際的には日本に特殊権益の保持が認知されていて、満蒙一帯の利権を巡り、中華民国と日本の間は対立が起きていていたのです。そのため日本国内でも満蒙に関して、盛んに議論がなされていました。
1928(昭和3)年1月19日。木曜会の会合で、石原莞爾は「満蒙に独立した政治権力を確立する」満蒙領有論を打ち出しました。(実際、石原は1931年に満州事変を起こしますが、その構想はこの頃からあったということです。)
同年10月。石原は関東軍作戦主任参謀として大陸に渡ったりますが、その後も「二葉会」と「木曜会」の連携は続き、やがてこれが合同化して「一夕会」が発足します。

♃年齢域45~51歳1929~1935(昭和4~昭和10)年

永田の♃年齢域は、戦前の昭和時代と重なります。
1929(昭和4年)ニューヨークでの株大暴落をきっかけに、世界中の経済活動が停滞した世界恐慌が発生。輸出品の売り先を失った日本の企業や産業は、国内向けに輸出品の価格を下げますが、国内商品も値を下げることになり、デフレが浸透。特に生糸や米、農業へのダメージは深刻でした。
物を売っても利益が出ない企業は、設備投を中止したり、リストラを行います。そうなれば仕事や収入を失う人が増え、経済循環はひっ迫。都市部に出て工場勤めをしていた次男三男が、職を解雇されて田舎に帰っても、農作物の価格が大暴落したことから、つける職もなければ、食べることもできなかったのです。
ここに1930年(昭和5年)金本位制の再開が重なりました。(詳しい説明は省きますが、気になる方は金本位制でググってみてください)世界恐慌と金本位制が重なるダブルショックが、昭和恐慌を引き起こします。さらに東北は冷夏に見舞われ、農村や漁村は、娘を身売りさせないと、家族が飢え死にするレベルまで陥ったのです。

世相が荒れる昭和恐慌真っ只中、永田は1930(昭和5年)8月軍務局の軍事課長に就任。
「一夕会」は、国家総動員と、陸軍刷新のための会議を重ね、三つの方針を決定しました。
・陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める。
・満蒙問題の解決に重点を置く。
・荒木貞夫、林銃十郎、真崎勘三郎(宇垣閥に属さない中将たち)を盛り立てる。
この頃の永田は、宇垣に代わって、この三中将が陸軍の首脳になれば、軍の統制が良い方向に進むと考えていたのです。岡村が軍の人事決定に権限を持つ立場である「人事局補任課長」に就任したことから、「一夕会」のメンバーを軍の主要ポストに就任させるのが容易となる一方で、陸軍省動員課長となった永田は、宇垣の下で4個師団9万人を減らしています。浮いた予算で航空機・戦車部隊といった近代戦の部門を新設。歩兵には軽機関銃や重機関銃。曲射砲を装備させているので、軍の近代化を進めていたのも確かでした。

参謀本部の橋本欣五郎中佐が、「一夕会」とは別に軍の改革を目指す「桜会」を結成し、1931(昭和6年)3月陸軍大臣宇垣一成を総理大臣に擁立するクーデター「軍部政権樹立による国家改造」を画策します。ところが、当の宇垣の同意が得られず、クーデターはとん挫。「三月事件」と呼ばれるこのクーデター未遂事件で、「桜会」は自滅。
周囲は宇垣も関与していたと疑念の目を向けたことから、宇垣の影響力は失速し、結果的に「一夕会」が勢力を伸ばす促進剤となりました。
この年は、大陸に渡った石原莞爾が画策した満州事変が起こり、その政治的責任を取る形で、第二次若槻内閣は解散。立憲政友会の犬養毅が首相となります。政権交代劇の時、「一夕会」は立憲政友会に働きかけ、荒木貞夫を陸軍大臣を主任させるのに成功。さらには真崎勘三郎を、参謀本部の要職に着けることができて、ほぼ計画通りに物事を進められる人脈を固めるハズでした。 
1932(昭和7)年5月15日犬養首相が、休日の官邸で暗殺される事件が起きます。(五・一五事件。犬養の回をご参照ください)
ロンドン海軍軍縮会議に出席し、条約の締結をしたのは濱口雄幸内閣。全権大使は若槻禮次郎でしたが、この条約締結に対して不満を抱く軍人は多く、さらには統帥権干犯問題を起こした事を主な理由として、「皇道派」の若い海軍将校たちによって、時の総理である犬養は殺されたのでした。当時のメディアと世論は、時制を憂いてテロを行った青年将校に同情を寄せ、国に刑を軽くするように嘆願署名を集めます。
1933(昭和8年)3月3日。現在の釜石市の東方約200㌔を震源とした三陸地震(M8.1)が発生。昭和恐慌の痛手の上に、地震と大津波によって、岩手県沿岸は甚大な被害を受けたのです。
同年6月。陸軍全幕僚会議が開催されました。著しい経済発展を遂げているソ連が日本の脅威になりつつあるのが背景で、「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」と議題が進みました。ここで参謀本部第二部長の永田は「ソ連に当たるには、シナと協力体制が必要。それには一度シナを叩いて日本のいうことを何でも聞くようにしなければならない。対ソ準備は戦争をしない建前のもとに兵の訓練をしろ」と言って反対します。
ソ連と闘うならば、満洲を国家総動員体制の資源供給地とするのが最良を考えていた永田は、その前に中華民国と闘うのが先。という意見だったのですが、これに反論したのは、陸軍大臣となった荒木貞夫でした。
「シナを叩くと言ってもこれは決して武力で片付くものではない。シナと戦争をすれば、米英も黙ってはおらず世界を敵とする大戦になる」

「一夕会」をバックに陸軍大臣になった荒木貞夫ですが、皇室を神聖視するあまり、既存の国家制度を壊して、天皇親政による軍事政権を目指したい人でした。真崎勘三郎もこれに準ずる思考だったのです。
才があっても、陸大に行くことができない軍人は「隊付将校」と呼ばれ、軍改革を実現する道はなく、一生現場隊長として、徴兵させた兵卒の指導をする立場でした。
最初から彼らの道は閉ざされていたのです。
田舎から出てきた若い兵卒たちが、少ない給料を田舎に送ったり、食うや食わずの家族を案ずる姿を見て、大好きな姉が身売りされた話を聞き、若い将校たちは「軍の改革が学歴によってできないこと」を嘆き、心を痛めいていました。
そこに自分たちの話を聞いてくれる気さくな荒木が登場したのです。
どうにもならない閉塞感から昭和維新を掲げ、既存の全てを壊したい衝動にかられる若者たちや将校、農村部出身者たちは「この人なら、なんとかしてくれる」と、藁をもすがる気持ちで荒木の元に集まりました。
その荒木が日本軍のことを「皇軍」と呼ぶのが口癖で、これがの名前の由来と言われている「皇道派」ですが、 大きく三つの趣旨を掲げています。
「天皇の意志に基づく国家統治」軍が「天皇の意志を直接実行する国家構想。
「農村支援と伝統的価値観の復興」都市化や工業化よりも、地方復興の優先。
「社会主義・共産主義の排除」国内左派勢力への弾圧。
荒木は自分と意見が合わない人物は左遷させ、自分を信望する陸大出身者を要職につかせる強硬人事を発令。これに「16期生三羽烏」の一人、小畑敏四郎も重用されました。
当然、この動きに反発が起こり、対抗する形で「統制派」が生まれたのです。
その受け皿になったのが「一夕会」のリーダー永田鉄山でした。
さらに軍部・国家改革(目的)が現実味を帯びてきて、手段である「改革をどうするべきか?」が、目の前になった時、「一夕会」の中でも意見が割れます。牟田口大佐をはじめ、「皇道派」に属する者も出てきますが、何より対ソ戦準備論で、永田と小畑が激しく意見が対立したことが、「皇道派」と「統制派」の決定的な亀裂となりました。
懲罰人事として、永田は歩兵第1旅団長に。小畑は近衛歩兵第一旅団長に左遷されます。

「テロ」を武器とした「皇道派」は、過激すぎたので、荒木や真崎はドン引き。五・一五事件や二・二六事件に、直接関与していないものの、国や社会に対して、憤りを抱く若者たちに、この二人が期待と心理的影響を与えた感はぬぐえません。
荒木には永田が持つような社会構造を考える知性や、政治力。改革後の明確な国のビジョンがなかったため、しだいに若者たちからもそっぽを向かれます。
1934(昭和10)年1月深酒で体調を崩し、陸軍大臣を辞任しました。後任には教育総監の林銃十郎が就任。教育総監に真崎が入れ替わりで就任。これは参謀総長の閑院宮が真崎を嫌っていたのもあったという説もあります。
同年3月中央に呼び戻された鉄山は、陸軍省軍務局長に就任しました。
鉄山の♑の☀に、♋を進む♇がオポジションとなるのと、♒のN♀にT☊とT♀がコンジャンクション。しかもN♀とT♎♃は、きれいに調和しますから、これは立場が戻るとか、良い方へ物事が進むでしょう。♓を進むT♂と☀は、鉄山の♍N♅を刺激。より活動的に動いてゆきます。実際、この時鉄山は林の権力をバックに、要職に就いていた「皇道派」の駆逐。さらに元来の構想だった「国家総動員体制の構築」も主導しました。
この頃エーリヒ・ルーデンドルフの政治支配と総力戦計画に心酔したこともあって、林の承認を得て、陸軍省新聞班から、陸軍の主張を政治・経済の分野に浸透させた国防国家を提唱するパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を、60万部発行させています。
国家総動員に向けての国民教育の向きもありますが、「国防の本義と其強化の提唱」の内容には、日本改造法案大網を具体化させた要素も含まれていて、この当時、北一輝の著書「国家革新による国家改造」に感銘を受け、盛り上がる青年将校の溜飲を下げる狙いもあったと考えられます。
その数か月後「皇道派」青年将校と陸軍士官校の生徒が、重臣や元老を襲撃するクーデター計画の発覚。憲兵に逮捕されるという「陸軍士官学校事件」が起きました。
この事件は、陸軍士官学校に派遣されていた参謀本部付の辻政信大尉のでっち上げ説もあり、定かではありません。確かなのは「皇道派」と「統制派」の対立が激化したしたのです。
1935(昭和10)年7月10日。対立が激化する中、林は教育総監の真崎勘三郎の更迭人事を断行。「統制派」にとって喜ばしいことでしたが、「皇道派」は重鎮を更迭させた人事への怒りを、永田鉄山に向けました。
政府要人の暗殺が珍しくなく、永田の周囲は「護衛をつけたらどうか」と彼に忠告をしましたが、「人間、死ぬときは死ぬ。殺されるときは殺される。俺は覚悟しているよ」と、
返していたそうです。
「真崎更迭の記事」が新聞に掲載された三日後の7月19日。陸軍省の事務局長室にいる永田を尋ねてきた男がいました。それは広島歩兵第41連隊所属の「皇道派」相沢三郎中佐という青年将校で、彼は永田に真崎更迭の件を直接問いただし、辞職をせまったのです。
誰に対しても誠意ある永田は、遠くから自分を訪ねてきた青年将校に、丁寧に応えて諭し、彼を送り返しました。

相沢は一本気な性格ですが、視野を広く持つのが苦手な人で、この頃は過激な行動が目立ち、8月1日の定期異動で、台湾歩兵第1連隊が言い渡されます。ようは飛ばされるわけですが、台湾に飛ばされたら「もう永田と会えない」
そう直感した相沢は、再び上京すると、8月12日のまだ午前中。
業務開始と共に軍務局長室で仕事に勤しむ永田の元を訪れました。新見英夫大佐と永田の隙を見て軍刀抜き、永田に一撃を加えたのです。襲撃に気づいた新見は、相沢を羽交い絞めにしますが、左上腕に斬撃を受けて失神。その間、負傷した永田は、隣室のドアまで何とかたどり着きますが、相沢はためらうことなくトドメを刺しました。
異変に気付いた武藤章中佐らが軍務局長室へ入った時、永田鉄山は既に虫の息だったそうです。享年51歳。死後は中将に特進しました。
憲兵に拘束された相沢は「これから台湾に赴任する」と述べ、罪の意識は全くなかったそうです。東條英少将をはじめ、永田を慕う軍人たちの悲しみは大きかったのですが、それ以外は各々の立場で、大きく異なっていたようです。
当時大佐となっていた石原莞爾は「なんだ。殺されたじゃないか」と当然の如く述べ、陸大時代とても仲が良かった小畑敏四郎少将は、「敗戦の元凶の一人」と、永田に対して後に厳しい評価を述べました。
これは「統制派」からすれば、噂や濡れ衣で殺された被害者。「皇道派」のから見たら「日本を戦争に追いやった昭和軍閥の元凶」と、見方が分かれているためです。
軍人故に、陸軍省内で軍人を殺害で来たとも言える惨殺事件こそ、「統制派」と「皇道派」の争いの過激さを物語っていますが、この時陸軍省を訪れた磯部浅一は、永田惨殺を嘆く軍人たちを見て、嘲笑と共に「軍閥を倒す」と決めたそうです。
過去に陸軍士官学校事件で逮捕された元青年将校磯部は、翌年1936(昭和11)年2月26日「昭和維新」を掲げて、二・二六事件を起こして行きました。

教科書には出てこない人ですが、父親譲りの温厚な性格で、過激な争いを好まない軍人永田鉄山の半生を追いかけました。青年時代から「陸軍の暴走はさせない」という信念。政治構造と政治信念を持ち続けるだけでなく、「日本人の一人一人が日本の国防に責任を担う自覚がもてるように」という理想を持ちながら、過激なテロを行うことなく、政党政治とも共存していける陸軍の組織改革を目指した彼のバランス感覚は、すごいものがあると思います。
立場の違う者への話し方、教え方もうまく、大学教授のような一面をみると、このバランスの良さは、星の逆行がうまく効いていたから? ♌にあつまる♂と♃が、拡張すれば、もっと強引さが出たのでは?と思ったりしました
さすがに彼一人で、あの大戦を止められたかは疑問ですが、盧溝橋事件から始まる日中戦争を抑える効果や、擁立を望んだ近衛内閣が日中戦争を長期化させることを防ぐ等、少なくとも彼が存命なら、近衛内閣が全てを放り出して、東條英機が総理の椅子に座らざるを得ない状況は、なかったと思います。

この動きを見た社会民主党の亀井貫一郎議員は、合法。非合法による近衛文麿擁立運動について各書が作成されたこと。永田、東條をはじめとする一夕会の一部が、自分や」麻生久等を通して、近衛文麿を担いで革新内閣の実現を画策していたことを述べています。
近衛文麿と永田が、いつ接点を持ったかは定かではありませんが、「国家総動員法」や「皇道派」の急進的なクーデターを抑制するための粛清は考えていたようです。
阿滝貞夫が教育総監本部長に就任。
当時の陸軍では、陸軍大臣・参謀総長・の三職が最高幹部職で、非常に大きな権限を持っていたのです。