乃木希典パーソナルデーター
☀星座 ♑ 3°16
☽星座 ♉ 1°42 (24h ♈24°49~♉8°43)
第1室 本人の部屋 ♑ ☀・☿
第2室 金銭所有の部屋 ♒
第3室 幼年期の部屋 ♓ ♆
第4室 家庭の部屋 ♈ ♄・♅R・♇R
第5室 嗜好の部屋 ♉ ☽
第6室 健康勤務の部屋 ♊ ♂R
第7室 契約の部屋 ♋
第8室 授受の部屋 ♌ ☊R
第9室 精神の部屋 ♍ ♃
第10室 社会の部屋 ♎
第11室 友人希望の部屋 ♏
第12室 生涯溶解の部屋 ♐ ♀
出生時間不明の12時設定。各部屋30度間隔のホロスコープです。
☀星座が1ハウス。乃木希典は、♑が第1室となります。(出生時間がわかる場合、☀星座が1室になるとは限らず、☽は位置固定。ASC/MCが入り、各部屋の幅が変わる事あり。精度はより増します。)
星の散らばり方が微妙で、偏っているともいないともとれる、スプレー&スプラッシュタイプ。特に第4室の終わりと第5室の始まりに星の偏りあり。もし、出生時間が午前中なら、♈の終わりを☽が進み、♅R/♇Rとコンジャンクションが強くなっていたでしょう。当然正確にも影響を及ぼします。午後から夜の生まれだと、♉の☽。
激よりも静な乃木希典を見ていると、♉の☽の方が、しっくり来るとは思います。第4室家庭の部屋には、♄♅R/♇Rがあり、これが彼の人生に大きく影響を与えていると見ました。
第1室♑の☀/☿は、第6室♊♂とオポジション。理解力や応用能力武器に、ハードワークに応え、難しいこともトライしてゆく下地になるでしょう。意地は悪くないのですが、自己への厳しさを他者にも求めてしまうのが、不満や悪評に繋がる可能性あり。
子ども時代を象徴する第3室が♓♆。幼い頃はかなり虚弱で、泣き虫だった乃木希典。感受性豊かで、過敏な部分を象徴しています。この♆は、第8室授受の部屋(一般的には、生と死の部屋としている事が多いです)の♌☊Rとオポジション。一般的には配偶者の家族とどうか、周囲との影響の度合いを見る範囲ですが、運勢が強い、生きる使命が強い人は、本人の望みとは別に、良くも悪くも社会から受ける、求められる内容が大きく出ます。☊Rなので、♆だけ見ると個人の人生で支え切れるか不明瞭ともいえる組み合わせ。 第4室の♅R/♇Rのトラインが、乗り越えられる力になっているとも言えます。
第4室家庭の部屋は、江戸時代の武家なので、今とはくらべものにはなりませんが、♄と♅R/♇Rとコンジャンクション。いずれもシビアで、しがらみに苦心する子ども時代を過ごしていたと見ました。♄は第9室精神の部屋♍♃とオポジション。アクセルとブレーキを同時に踏んだまま。♅R/♇Rに関しては、巡行だと、パワフルな人生を送っていたとも取れます。
第5室は♉の☽。第1室の☿。第8室の☊Rとも調和。楽しいことは独り占めよりも、周りの人と共に分かち合いたい庶民的な性質。おいしいもの大好きで、のんびりまったり暮らすのが、肌に合っているんじゃないかなという感じ。(もし、♈の☽だったら、力任せにものを言う面が強く出るので、トラブルが絶えなかったかもしれません)
友人には恵まれたと思います。一度信頼されると、それが変わらない人。第3室の♆とも、いい感じでつながっているので、実は文学肌だったり、芸術への理解が深いとか、実はかわいいもの好きとか、ありそうです。
第6室健康勤務の部屋♊♀Rとオポジションは、もう一つあって、それが第12室障害溶解の部屋の♐♀。奉仕精神や慈善的なのはいいことですが、優しいがゆえに同情が仇となったり、隙を作りやすい面があります。4本のオポジションを持つ、乃木希典。その人生をこれから見ていきましょう。
乃木希典略年表(ウィキその他資料参照)
1858(安政5)年 父の仕事が原因で長府に帰郷。
1865(慶応元)年 長府藩報国隊に入隊。騎兵隊と合流。
1871(明治4)年 黒田清隆の推薦で、陸軍少佐に任官。名を希典と改名。
1877(明治10)年 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に従軍。軍旗を西郷軍に奪われる。
1878(明治11)年 湯地お七(乃木静子)と結婚
1886(明治19)年 川上操六らと共に、ドイツ留学。
1892(明治25)年 歩兵第5旅団長を辞任。2ヶ月休職。12月に復職。歩兵第1旅団に就任。
1894(明治27)年 歩兵第1旅団長として、日清戦争に出征。(陸軍少将)旅順要塞を1日で陥落させる包囲に加わる。
1895(明治28)年 第2旅団長に親補され、台湾出兵に参加。(陸軍中将)
1896(明治29)年 台湾総督に親補される。母も台湾へ来るが、マラリアに罹患し、病没する。
1898(明治31)年 台湾総督を辞職。
1899(明治32)年 第11師団の初代師団長に親補される。
1904(明治37)年 休職中だったが、日露戦争の開戦に伴い、第3軍司令官親補される。旅順攻略戦を指揮。奉天会戦に参加。金州南山で乃木勝典。203高地で乃木保典が戦死。
1906(明治39)年 1月終戦と内地凱旋に伴い第3軍司令官を辞任。軍事参議官に親補される。(死去まで軍事参議官在職)
1907(明治40)年 学習院長となり、皇族および華族子弟の教育に従事。
1911(明治44)年 東伏見宮依仁親王・東郷平八郎と共に、英国ジョージ五世の戴冠式に列席。7月大英帝国のハイドパークで英国少年軍(ボーイスカウト)をべーテン・パウエルと会談。
1912(明治45)年7月30日明治天皇崩御。(大正元)9月13日明治天皇大喪の礼の夜、妻静子と共に自刃。享年62歳。
1916(大正5)年 裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼に際し、正二位を追贈される。
乃木希典惑星history ☽年齢域 0~7歳 1849~1856 嘉永2~安政3年
現在港区の六本木に建つ六本木ヒルズは、江戸時代、長州藩の支藩長府藩(正式名長門府中藩)の上屋敷がありました。元禄時代には、忠臣蔵で有名な赤穂義士10名の身柄が預けられ、切腹を遂げた場所でもあります。
その長府藩上屋敷で、後に世界に名を轟かす名将乃木希典は、江戸詰めの長府藩藩士乃木稀次と壽子夫妻の三男として生まれました。幼名は「無人(なきと)」(本編は、フルネーム、もしくは希典で表記します)
乃木家は毛利家に仕える侍医の家柄です。江戸詰めの藩士だった希典の父稀次は、小笠原流の松岡辰方の門人で、深川三十三間堂の通し矢を射て、11代藩主毛利元義に褒められ、藩医の職から馬廻役御(当時のエリート職)に、鞍替えした人物でした。
希典が長府(現在の下関)に帰ったのは10歳くらいで、それまでは江戸で生活していたことから、彼にはどこか江戸っ子的な面があったそうです。
長男と次男は、既に夭折していたため、三男でありながら跡取りの希典。故に親も思うところが強くなるのは、無理からぬところで『兄たちのように夭折することなく、壮健に成長してほしい』願いを込めた名が「無人」でした。
ところが、幼年期の希典。虚弱体質で臆病。非常に過敏だったのでしょう。周囲の友だちから泣かされ、無人=「泣き人」と、はやし立てられたそうです。
ハイスペックでやり手な親が、自分と同じ内容やレベルを子どもに
求めるケースは、昔も今もありますが、厳格な武士道精神の父稀次は、希典に対してかなり厳しく接した模様。
雪の日に「さむい」と呟いたら、父は「よし、寒いなら暖かくなるようにしてやる」といって、井戸端迄連れ出した希典を散々踏みつけ、桶二杯の冷水を浴びさせたという、今なら虐待に当たるようなエピソードが残っています。
親に悪意はないものの、かなり厳しく、のびやかに育ったわけではない。占星術的にこれをどう見るか…自分のパワーがうまくコントロールできない。ダダ漏れ状態の幼年期を支配する☽は、♉(但し、12時設定)にありますが、♈の♅Rと♇Rと三つ巴。
第3室幼年期の部屋が、共感性抜群の♓であり、♆が入っていて、これが周囲からの影響を受ける第8室の♌☊Rとオポジション。感受性は豊かですが、より身近な対人関係は、ちょっと難色気味。と見ました。
☿年齢域 7~15歳 1856~1864 安政3~文久4・元治元年
安政の大獄の後、井伊直弼は水戸藩の脱藩者たちに桜田門で襲撃され絶命。外国打ち払いを実行し、外国船を砲撃した長州藩は、第一次長州征伐と、四ヶ国連合艦隊による下関攻撃を受けることになり、支藩である長府藩も影響を受けました。
この頃、少年期を迎えた希典。時期は明確でありませんが、彼は左目を失明します。
ある夏の朝、蚊帳を畳もうとした母が、寝起きが悪くグズッた希典をたしなめ、肩を蚊帳で叩いた際、蚊帳の釣り手の輪が彼の左目を直撃したのでした。失明させたのが自分とわかったら、母が自責の念にかられるから、他言したくないと、後年希典本人が述べているのを見ると、この件で母親を責めることはなく、庇える精神年齢に彼が成長していたと推察。
1858年12月(安政5年11月)。藩主の跡目騒動にはまり込んでしまった父は、その失態から下向を命じられました。希典もこれに同行、帰郷します。禄高も3分の1の50石に減らされ、100日間の幽閉を命ぜられました。
なじみのない帰郷した希典は、漢学者の元に入門し、漢籍と詩文を学び始めます。翌年には流鏑馬や弓術。西洋流砲術をはじめ、槍術など武道も学びました。まじめで一生懸命。だけど依然として、泣き虫なまま。しっかり者の妹に泣かされることもあったそうです。
1863(文久3)年に元服を迎え、名前を「源三」と改めますが、泣き虫であることを揶揄され、「泣き人」と呼ばれるのは変わりませんでした。
そんな希典少年。☿年齢域と♀年齢域が交差する1864年の4月(元治元年3月)。武士であることを望む父の意思に反し、学者になることを望みます。話は平行線から、ついに親子激突が勃発。なんと希典は、出奔して70㌔離れた萩(現在の萩市)まで歩き、山鹿流の兵学者玉木文之進を訪ねていきます。
松下村塾を作った人であり、長州藩の若者たちを魅了した吉田松陰の叔父である玉木文之進は、乃木家とも親戚でした。
勉学を深めたい希典は、玉木文之進に弟子入りを試みたのです。が、希典の父希次と年も近く、性格も似ていた文之進は「武士の身分を捨てるなら、農民として生きるべき」と、勝手に出てきた希典を、強く叱責しました。
その様子を見ていた玉木の妻は、希典がかわいそうに思えてしまいます。親戚の子が頼ってきたのに、いくらなんでもあんまりでしょうと、希典を庇ったことから、そのまま玉木家に住み込みが可能になりました。
朝から玉木と共に農業に勤しみ、夜は素読の手ほどきを受ける日々が続く中、虚弱だった希典の心身は、建朗な心身に変わっていったのです。
♀年齢域 15~24歳 1864~1873 文久4・元治元年~明治6年
その二日後の同年9月5日。英仏蘭米の連合艦隊が下関を攻撃。馬関戦争が起こったのです。一年前に四ヶ国の商船が、馬関を航行する際、外国を打ち払えとばかりに、大砲を打ち込んだこが原因。身から出た錆びですが、長州藩は大敗北し、勤皇派だった若者たちは、自分たちの考えと世界の現実の違いを、思い知羅されました。
長州藩が急展開を迎える中で、1864年10月(元治元年9月)希典は、長州藩の藩校明倫館の文学寮に入学。玉木家から通学しました。井上馨・桂小五郎・国重正文・高杉晋作・永井歌楽・吉田松陰といった、幕末維新を切り開いた人たちの名が連なる藩校で、文武両道を学び納めてゆきます。
第一次長州征伐は、薩摩藩の西郷隆盛の仲介によって、恭順になびく長州藩と幕府の話し合いで解決。実戦に移行せず済みました。約一月後の1865年1月12日(元治元年12月15日)。高杉晋作が組織した騎兵隊が、功山寺挙兵を起こし、主戦派が藩の実権を掌握。ここで長州藩のカラーは倒幕に統一されます。
すでに薩長同盟後の1866(慶応2)年。長州藩に武装強化の動きがあり、不信を募らせた幕府は、10万石の封滅と長州藩の毛利親子に蟄居の幕命を下しました。
受け入れれば、第二次長州征伐はなかったのです。が、長州藩はどちらも無視。その一方で、近隣諸藩には、やむなく幕府と闘うことになった長州藩のイメージ外交を展開したのです。
同年7月18日(慶応2年6月7日)幕府は第二次長州征伐を実行しましたが、(長州藩では四境戦争といいます)薩摩藩は出兵を拒否。他藩に根回しをしたイメージ戦略と、外国製の武器を使い対戦する長州に、幕府は苦戦を強いられます。
希典も長府に呼び戻されて、「報国隊」に入隊。二か月後には、騎兵隊の山県狂介(後の山縣有朋)の元で、小倉口の戦いに加わりました。これが初陣ですね。
弱冠17歳にして、大砲一門の指揮官を任せられ、参戦した部隊は戦地となった小倉城に一番に到着します。大砲は当時最新鋭の兵器でした。角度によってどのくらい飛ぶか、落下地点の予測を含め、それなりの知識と判断力がないと扱えない代物を、任された希典は、それだけ優秀だったといえます。
同年8月29日(慶応2年7月20日)。第14代将軍徳川家茂が大阪城で薨去(享年20歳)。同年10月10日(慶応2年9月2日)講和の成立により、幕府側は討伐軍を撤収しましたが、事実上、第二次長州征伐は失敗。長州藩の勝ちとなったのです。戦が終わると報国隊は活気づきますが、希典が留まることはありませんでした。長府藩から明倫館の文学寮へ復学の藩命が下ったのです。
1868(慶応4)年1月28日(慶応4年1月4日)。鳥羽伏見の戦いから、戦火は戊辰戦争へと移りました。薩長率いる新政府軍が錦の御旗を掲げたことで官軍となり、旧幕府軍は賊軍。征伐の対象となったのです。
報国隊は北陸、越後方面に進軍しました。「報国隊の漢学教授」となっていた希典は、
戊辰戦争への出陣を願い出ますが、明倫館の講堂で相撲を取った際に、左足を捻挫したこともあり、長府藩の許可が下りず参戦していません。
元々は学者を目指していた希典なので、個人の人生として漢学教授は、悪い状況ではありませんが、四境戦争への参戦が希典の気持ちを変えたようです。一方で従兄弟の御堀耕助は、報国隊隊長として戊辰戦争に従軍し、名を馳せました。報国隊員の中には、戊辰戦争に参加しなかった希典を蔑む者もいて、なんとも居心地の悪い思いをした模様。
明治時代に入ると、御堀は戊辰戦争の功績で、欧州視察が決まりました。これを聞いた希典は、「欧州に連れて行ってほしい」と打診しますが、「学者か軍人のどちらを志すのか明確にしろ」と、叱責されてしまいます。こうして乃木希典、軍人の道を選ぶのでした。
1868年11月(慶応4・明治元年)御堀が斡旋で、後に帝国陸軍の原型となる伏見御親兵兵営に、希典は入営。大村益次郎から、近代的フランス式軍学訓練を学びます。
1871年1月3日(明治4年11月23日)。廃藩置県の年であり、♀年齢域の輝きともいえる時期、22歳で日本帝国陸軍の少佐に任官。乃木希典と名前を改めます。
乃木自身が、少佐任官の日を「生涯何より愉快な日だった」と言っていますが、この時他に少佐に任官したのは、野津道貫(31歳)。川上操六が23歳で中尉・桂太郎が27歳で大尉・児玉源太郎が19歳で準少尉。彼らには戊辰戦争に参戦した功績がありました。
参戦していない希典が少佐に任官は、異例の大抜擢だったのです。
これは病で死の淵にあった御堀が、乃木希典の陸軍任官を黒田清隆に推薦し、軍省陸軍大輔の山縣有朋が、二人の申し出を受け入れたことが背景にありました。希典が少佐に任官する半年ほど前に、御堀はこの世を去っています。享年31。人生も時代の変革もこれからという時でした。
少佐に任官した乃木希典は、東京鎮台第3分営に配属された後、名古屋鎮台大弐を歴任してゆきます。
☀年齢域 24~34歳 1873~1883 明治6~明治16年
決まり切った武家社会(徳川幕府)を壊すことで、今までより良い時代になることを願い、夢を見て、倒幕に加担した侍たちもいた戊辰戦争。実際明治になると、思うような状況にならず、それどころか、国民総防衛による国民皆兵(徴兵制)とか、階級制度をなくすといった話が流れます。大きな政変も起こる中、税制も変わりました。
地域全体から集めた米を年貢として、庄屋が役所に納めれば済んでいた江戸時代。少なく実った年は、納める米を減らしたり、働き手がいない家庭は、地域全体で面倒を見たり、庄屋の裁量で済んでいたことが、個々に現金納税する制度変わったことで、庶民、農民の生活には著しい影響が出てきました。
日本各地で一揆が起こり、政府に反目する武士たちが、反乱を企てることから、陸軍は鎮圧に乗り出したのです。
1874(明治7)年。陸軍卿山縣有朋の伝令使を務めるなど、出世コースに乗った希典は、仕事が終わってもまっすぐ帰宅することなく、遊興にふける日々。見かねた山縣が、説教をするほどだったとか。この頃のハメ外しは、圧迫感のあったこれまでの反動も出たのかなと推察。
1875(明治8)年12月「乃木希典なら、連隊長交代を承諾する」
熊本鎮台歩兵第14前連隊長の山田顛太郎による申し出があり、希典は26歳で熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に就任しました。
山田は国民皆兵に異論を唱え、明治政府を去った前原一誠の実弟で、兄同様、山田は明治政府には不満を抱いたのです。こうした経緯の元、希典は熊本鎮台歩兵第14連隊長心得として、小倉に赴任しました。
すると玉木正誼(たまきまさよし)が、度々訪ねて来るようになります。正誼は幼名を乃木真人といい、希典の実弟です。跡継ぎのいない玉木家の養子となり、玉木姓を名乗っていたのでした。
弟が訪ねて来た理由は、前原一誠に同調する事への説得でした。希典なら連隊長を交代すると言った山田も、正誼も、希典と前原一誠が松下村塾の同期であることを知っていて、望みをかけたようですが、熱意ある弟の声に、耳を傾けることなく、希典は山縣有朋に事態を報告します。報国隊として戊辰戦争を戦った長州士族たちと違い、希典は共鳴する感覚や体感がないため、彼らの望む形の同調をしなかったのでした。
1876(明治9)年。ついに福岡県で「秋月の乱」が起こります。1日違いで、山口県萩で、「萩の乱」が勃発。
希典は熊本鎮台歩兵第14連隊長心得として出動し、東進する反乱軍を秋月の北に位置する豊津で撃退しました。11月中旬で秋月の乱は抑えられましたが、萩の乱は12月上旬まで戦闘が続きます。
長期化する萩の乱に対し、希典は第14連隊を動かさず、大阪鎮台に増援を頼みましたが、これが周囲に消極的な印象を与えました。後に乃木希典を考証する際にも、この件と西南戦争での連隊旗を奪われた件とを併せて、乃木希典は愚将なのではないか、という印象を着ける基となっています。
希典の弟正誼は、反乱軍として戦死。学問の師である玉木文之進は、多くの弟子が萩の乱に参加したことの責任を取り、自刃したのでした。
明治初頭から10年までの間、何故、日本の各地で内紛が起きたのか、ご説明いたします。
産業革命で技術発展させた欧米が、植民地を求めてアジア圏にきている時代に、徳川幕府は鎖国(限定していた国との限定交易)から、が開国に踏みきりました。さらに第15代将軍徳川慶喜が、大政奉還で征夷大将軍の地位を返上し、一つの幕を卸したのです。しかしここに至る数百年、実務に接してこなかった公家に、国内外に対応できる能力はありませんでした。
成熟した徳川幕府のシステムを活かしつつ、新時代への移行を試みようとした企画は、王政復古の大号令でかき消されます。薩長土肥率いる新政府軍(明治政府となる人たち)は、鳥羽伏見の戦いで、徳川幕府を朝敵に位置づけ、戊辰戦争を引き起こしたのでした。
新政府軍側についた多くの志士たちの中には、新時代に夢と理想を持っていた者もいれば、今よりいい仕事。いい生活ができることを漠然と思う者もいたでしょう。しかし、目指す先が「武家社会をなくすこと」になる認知は弱かったのです。
共に戦った明治政府陣の中でも、富国強兵に向かう価値観や、外交感覚のズレは、軋轢や分裂を産みました。実際に自分の目の前で、代々受け継いできた社会的地位が崩れ、刀を持つことも許さない「武士」が解体されてゆく絶望感が、政府への強い不満につながったのです。
貨幣価値、税制、教育といった国の根幹が、根こそぎ様変わりする過程で、日本を牽引するエリートや富裕層と、一般庶民の二重構造が生み出される中、明治政府を離れた者たちは、大きく二手に分かれました。
一つは政治的道を開拓し、自由民権運動を起こしてゆく者たち。
もう一つが、反乱分子となって政府に立ち向かう者たちです。
その最たる戦いが、西南戦争でした。期間は1877(明治10)年1月29日~9月24日。
西郷隆盛が私学校の幹部会議で、挙兵を宣言したのは、2月5日でした。熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県の各地が戦場となり、明治政府軍と西郷率いる反乱軍(以降、薩軍と表記)との間で、熾烈な戦いが繰り広げられたのです。
同年2月14日。鎮台司令官谷干城の命で、小倉から熊本の作戦会議に参加した希典は、歩兵第14連隊を率いるため、16日に熊本を出発。強行軍で移動していました。17日に薩軍鹿児島出発の報を受けます。この時乃木が直卒していたのは200名。小倉を出発した歩兵第14連隊の各隊の動きも把握していましたが、合流するよりも前、2月22日の夕刻。
熊本県植木町付近で、薩軍400名と遭遇。戦闘に入りました。
敵の半分の規模でしたが、近代装備を施していたのか功を奏し、3時間程応戦。しかし薩軍に増員が加わります。希典たちの退路を絶とうとしたため、千本桜への後退を決めました。この時、連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が撃たれ、連隊旗を薩軍に奪われてしまったのです。
2月27日。西南戦争最大の野戦といわれる「高瀬の戦い」では、桐野利秋が指揮する3個小隊(約600人)の薩軍を、第一旅団と共に撃破する功績を残したのでした。
政府軍が勝ちますが、双方の軍に著しい犠牲を出します。薩軍は隆盛の末弟西郷小兵衛が戦死。希典も負傷し、久留米の野戦病院に運ばれました。
安静を言い渡されますが、病院を抜け出して戦地へ赴き、指揮を採ったのです。
田原坂陥落後は、第一旅団参謀兼務を命じられますが、常に前線に出て戦い、重症を負って野戦病院に担ぎ込まれ、抜け出しては前線に戻る希典。戦っても生き残る繰り返しが続き、いつのまにか、「脱走将校」と言われるようになります。
政府軍が、薩軍から解放された熊本城に入城を果たしたのは4月18日。
既に春を迎えていました。乃木希典は、自身に対する厳しい処分を求める「待罪書」を、総司令官の山縣有朋に送ります。しかし、山縣は乃木の責任ではないと、処分はしませんでした。
今もこの連隊旗を奪われた事態を、問題視する声もありますが、山縣をはじめ、当時の司令部は、希典に対して追求も非難もしていません。その理由は、連隊旗を奪われた状況が、あきらかに激しい戦闘が繰り広げられた最中だったから。
当時の政府軍は、自分たちが弱いことを知っていました。
戦う相手は、薩長同盟を結び、共に戊辰戦争を戦ってきた薩摩閥の武士たち。その強さは、政府軍もよく知っています。さらには大山巌に西郷従道といった、隆盛の縁者のみならず、明治政府軍として参戦する薩摩閥。西郷共に政府を離れた薩摩閥との戦いでもありました。鹿児島から大軍率いて、東京まで陸路で行くという挙動に出ているので、薩軍も無謀でしたが、不満と勢いだけでなく、結束力のある薩軍。時には政府軍が押され、結果的に政府軍が勝って終わった西南戦争ですが、著しい犠牲の上での勝ち戦でした。
勝因は導入したばかりの電信技術で、薩軍の動きを短時間で把握し、十分な兵力兵站を用意できたからです。
弾丸同士がぶつかり合う砲撃戦という表現は、大げさに聞こえますが、この戦に政府軍が放った砲弾10万発。小銃は6300万発を越えたというのです。それだけ雨あられのように、弾丸を撃ちまくる中で、さらに斬り合ったのでした。
戦闘で大事なのは旗よりも、確実な戦果です。それを指揮官として成しえたのだから、連隊旗喪失の件は、山縣も司令部も不問にしたのです。
しかし、希典は山縣の応えに納得ができず、責任感から自決しようとしました。
「死んで責任が逃れると思うか。死ぬことくらい楽なことはないんだ。
何故、一生かかって死んだつもりで、お詫びをしないのか」
手にした軍刀を、力任せに奪い取り、言い放ったのが児玉源太郎です。
気迫ある児玉の説得に、なんとか自決は思い留まる希典。そして直接指揮をとることが、なくなったわけではありませんが、熊本鎮台参謀に転任を言い渡されます。あまりにも死に急ぐ希典を案ずる、明治天皇のお気持ちもあったのでしょう。後方勤務がメインとなりました。多くの課題と教訓を与えた西南戦争は、同年9月24日に終結。
希典を苦境に立たせた連隊旗喪失。1877年2月22日の星回りを見てみると、
N♑の☀☿には、♐から♑へ移行するべくT♂/♃が合。さらにT♂/♃は、♒を進むT☽と希典のN♂と180°。組み合わせとしては、出世や成功等、軍人である乃木希典にとって、戦争という仕事に従事し、実績を出してゆくと読めます。では、彼を自責の念に追い込んだ、連隊旗を奪われることはどう読むのか。
T☀♓4°と、希典のN♆♓2°が重なります。さらに、T♄/☊も♓にあり、N♆と合なので、ぐずつく問題は起こりやすい。しかも☊は、人気運。近づいたり離れたりの効果があるので、が、彼の評価の上がり下がりにも影響ありとみていいでしょう。さらに希典のN☽♉を舐めるように、T♆が入室したばかり。♉には♇も入室しているので、威信とプライドをかけた攻防が続いてきた世相が読み取れるし、この♇は希典のN♃とトライン。
他にも深堀すれば、いくつかの組み合わせを見つけることができます。ホロスコープを見ている限り、連隊旗こそ奪われましたが、戦績は上げたので、大きなマイナスはなく、むしろプラスで終わったのでした。それが納得できるかどうかは、別の話ですが。
1878(明治11)年1月25日。希典は歩兵第一連隊への抜擢を受けました。
2月には萩に帰郷します。ここから首都防衛の要である歩兵第一連隊に着隊するため、東京に向かうのでした。周りから見れば、憧れの連隊へ栄転です。ところが、当の希典は、この頃から放蕩にはしります。
連隊旗喪失を許され、埋まらない気持ち。任務とはいえ意見が違った弟が萩の乱で戦死した事。戦死した部下の事等、彼の心を蝕む要素はいくつかあるので、やけ酒とも思えますが、「誇り高き軍人になるため」連日連夜の料亭回り。
酔った勢いで喧嘩沙汰になる息子の愚行を案じた母は、嫁を迎えることを進めました。(ちなみに父の希次は、すでに他界しています)
家庭を持てば、責任感も出てきてバカなことは治まるだろうと、母なりに考えての事ですが、希典は首を縦に振りません。断る名目で、「薩摩の娘なら、もらってもいい」と言ったのでした。
同盟こそ組んでいるものの、政治や軍の場で対立していた薩長。長州閥に連なる者が、薩摩閥の嫁など、ありえないのです。が、諦めない母の一念が、元薩摩藩の藩医の末娘、湯地お七(結婚後、静子に改名)を探し出しました。
希典の母が見つけた嫁候補湯地お七は、鹿児島藩医湯地定之と貞子夫妻の4女(7人兄弟姉妹の末っ子)で、薩摩国鹿児島郡鹿児島在塩屋村生まれの18歳。
湯地お七(乃木静子)パーソナルデーター
☀♐4°26
☽♑29°02(正午の☽。24hふり幅♑23°01~♒5°01)
第1室 本人の部屋 ♐ ☀・♀・☿
第2室 金銭所有の部屋 ♑ ☽
第3室 幼年期の部屋 ♒ ☊R
第4室 家庭の部屋 ♓ ♆R
第5室 嗜好の部屋 ♈
第6室 健康勤務の部屋 ♉ ♇R
第7室 契約の部屋 ♊ ♅R
第8室 授受の部屋 ♋ ♃R
第9室 精神の部屋 ♌ ♄
第10室 社会の部屋 ♍
第11室 友人希望の部屋 ♎ ♂
第12室 障害溶解の部屋 ♏
☀星座は♐に♀・☿が揃っている以外は、わりとまんべんなく、ホロスコープ全体に星が散らばっているスプラッシュ型。若い頃の写真を見ると、感じの良い整った美人。(これは☀♀が同じ星座にいるのも要因)
明るくさっぱりしていて、人当たりもよく、なんでもそつなくこなす才女。自由大好きな性質を宿していて、一人でいるのも悪くないけど、どこか負けず嫌い。やりたいことを見つけていたなら、結婚しなかった可能性もありそう。
もし結婚しなければ、自由を謳歌する明治の女性に、なったかもしれません。
☽は12時設定で♑。重なる事はありませんが、希典の☀は♑。見合い結婚であるのを読むとすれば、彼女の♉♇と、希典の☽かもしれません。
希典の♌☊Rと静子の♌♄も合。夫婦ではありますが、近づいたり離れたりが起こりがち。さらに言うと、配偶者の実家は頼りになりません。静子自身が、♄/♀・♄/☿がトライン。恋愛でつながる夫妻ではないけれど、信頼はあるのでしょう。さらに♀と☿は、♓♆とスクエアのため、本人はさっぱり気質だけど、状況に翻弄されやすい傾向も秘めています。結婚はしにくい可能性を宿しています。♓の♆は約10歳の年齢差夫婦を物語り、静子の契約の部屋にある♅Rは、パートナーとなる相手が、癖のある変わり者になる可能性を見ています。冒険好きなら、そこに面白味を見出すかもしれませんが、落ち着いた家庭を形成したいと思ったら難儀。
1872(明治5)年。海外留学から帰国した長兄定基に、家族そろって呼び寄せられて、東京赤坂溜池に転居。少女時代は麹町区の麹町女学校(現・千代田区麹町小学校)に通います。薩摩藩の藩医という家柄なので、教育はしっかり受け、本人も勉学好きでした。
当時の慣習から、見合い結婚は十分ありな話ですが、長州の軍人の妻になるのは、想定外だったろうし、さすがに覚悟がいったことでしょう。希典の母だけでなく、薩摩閥の陸軍軍人伊地知幸介らの勧めもあって、結婚の話は一気に進んだのです。
見つけられてきた嫁候補を前に、希典は気遣いの言葉をかけました。
「御身は薩摩藩士の子で、わしは長門府中藩士の子である。人情も風習も違う。殊に乃木家は厳格な家庭であるから、困難をなめるであろう。御身のことゆえ大丈夫だと思うが、辛抱できそうにないなら、盃(婚礼の儀)はせぬ方が良いと思うが」
「いかような困難に遭いましても、辛抱いたします」
これが薩摩の娘の答えでした。
こうして1878(明治11)年10月27日。二人は結婚。当時希典29歳。静子20歳。
結婚する際、「名前が良くない」と、新妻はまず改名させられます。希典の号である静堂から、一字を取り「静子」。婚姻で苗字が変わるだけでなく、フルネーム改名で、一説によると本人が知らないうちに変えたようなのです。(本編はこれより静子で統一)
覚悟はしていたものの、嫁いでみると、静子さん。実に苦労の連続でした。
放蕩癖ついた乃木希典。婚礼の日でさえ飲み歩いて6時間の遅刻し、東京の第一連隊に着任すると、連日柳橋から新橋界隈で飲み、両国まで足を延ばす有様。
1879(明治12)年に、長男勝典が誕生し、翌年には大佐に昇進しました。射撃に力を入れるため、新しく射撃訓練場を青山に儲け、千葉県の佐倉にある歩兵第2連隊と、合同訓練を行うなど、連隊長としての責務は果たしますが、放蕩はかわらなかったのです。
1881(明治14)年には、次男の保典が誕生。昇進はするし、子どもは生まれるしで、恵まれていることこの上ない環境ですが、希典は全く変わる兆候がありません。その様子に、母の壽子のイラつきも増したのか、静子への当たりがきつく、嫁姑は深刻だった模様。乃木夫妻、もう二人ほど子どもを授かりますが、どちらも生後間もなく夭折しています。あまりのことに、静子さんは長男と次男を連れて、1年半ほど、別居生活を送りました。
♂年齢域 34~45歳 1883~1894 明治16~明治27年
順調に出世していますが、放蕩ぶりは相変わらずな希典。さすがに10年も続くと、周りも心配から呆れ変わりました。刺激を与える意味もあったのか、山縣有朋は、川上操六と共に希典を戦術研究のためドイツに留学させます。
因みに1878年の1月。希典のN♓♆とT♉♆はセキスタイル。N☀と☿とT♆はトライン。土のトラインなので、しっくりくれば固定します。N☊Rは♌を進むT♅に影響を受けるので、我は我なりが強くなる分、周りとの関係は微妙。
T♄は♓を進んでいて、やがて希典の♈♄、♅♇ともヒット。♊の♂にも影響を与えつつ進み、♋に入ると、希典の♑☀☿を、ボディーブローのように絞ります。
1887年1月を迎えると、これまで影響を与えてた♄は♋の後半に移動。ほころびが取れるように、希典の運勢に変化が起きてきたのでした。
士族反乱も沈静化して久しくなると、日本軍はもう一つの創設目的でもあった外敵からの国防に目が向きます。欧米各国の軍との力量差は歴然としている日本軍。陸も海も、どう軍全体を変えてゆくか、壁に当たった日本陸軍は、当時世界1強いドイツ軍から、学ぶことを決めました。
1887(明治20)年1月から1888(明治21)年6月までの約1年半。先にドイツ留学をしている伊地知幸介中尉が通訳となり、乃木希典と川上操六は、ベルリンに滞在。ドイツ軍参謀総長モルトケの信任厚い、参謀将校デュフェ大尉ドイツ軍から「野外要務令」(戦争における基本姿勢的なもの)軍制等を学びます。戦術や兵器につて学ぶのは、とても有意義でした。同時に希典は、あることに気づきます。
欧州でドイツが随一の軍事国家となれたのは、緻密な計画と軍事戦略を練る参謀と、立案を具体化するために、強い意志で作戦を遂行する兵士たちがいたこと。そこに鉄道の発達と、通信技術の軍事転用が生かされた事が背景にありました。
どんなに優れた技術や兵器があっても、扱う人間次第。優秀な戦略を立てる参謀と、立案を確実に実行する兵士たち。どちらが欠けても勝つことはできません。それが可能だったのは、本来ドイツ人は質実な性質で、自国愛が深い民族であり、日本の武士道に似たものがあること。質実な生活態度や、自国の伝統に対する敬意の深さを持つドイツ人が、近年の連勝によって、慢心し始め変わりつつあること。
その気づきから、彼らの良い部分を日本で体現化、定着させるには「武士道精神」の手本となる実態が必要と、考えるに至ったのでした。
1888(明治21)年。帰国後、留学で得た知見をまとめた「復命書」を作成し、陸軍大臣の大山巌に提出します。川上との連名ですが、帰国後に彼が体調を崩したこともあり、ほぼ希典が作成しました。その内容をザックリ並べると
・軍紀の確保。厳正な軍紀を維持するための軍人教育の重要性。
・陸軍の歩兵操典の重要性。
・軍人は徳義を本分にするべきである。
・制服の重要性。
「復命書」はほぼ、精神論で書かれているため、大山卿も他の陸軍幹部も面食らったと思いますが、さらに驚くことが起きます。希典の生活が一変しました。
料亭には一切行かず、酒も飲まず、母も妻も、泣きつかれるほど苦心した放蕩三昧が、ピタリと止んだのです。宴会に誘われても行かなくなりました。
家での生活はグッと質素になり、飯は白米ではなく稗飯。就寝以外は、常に軍服を着用。
まさに極から極ですが、「復命書」の内容を、周りにやれでなく、実践したのでした。
連隊旗喪失から、約10年。生きる目的を失ったままの希典に「軍人たるもの国民の見本になる」という目標ができたのか、自らに厳しい枷を嵌めることが得意な♑気質が、輝きます。しかし、極端な行動は軋轢も生み易かったのでした。
1890(明治23)年。歩兵第五旅団長として、名古屋に赴任。その1年後に、希典の上司として桂太郎中将が赴任してきます。二人は同じ長州閥なのですが、誰の肩でも軽くポン!と叩いて和ませて、交渉をする柔軟な桂。ガチンコな希典とは、全く合わなかったのです。
1892(明治25)年2月桂との折り合いのつかないことから、希典は休職し、栃木県の那須野に土地を買いました。ここで畑仕事に精を出し、同年12月に復職。東京の歩兵第1旅団長に転任します。
♂年齢域と♃年齢域が交差する1894(明治27)年。日本はある国と起こすことになりました。日清戦争です。(日清戦争の経緯、その他は、山本権兵衛や西郷従道。児玉源太郎等の回で書いているので、ご参照ください)
♃年齢域 45~57歳 1894~1906 明治27~明治39年
大山巌が率いる第2軍の下、乃木希典の第1旅団は参戦したのでした。同年9月下旬に広島に集結。翌10月24日花園口(現中華人民共和国遼寧省大連市荘河市)上陸します。
遼寧省の金州等を転戦。一月後の11月24日には、旅順要塞を1日で陥落させました。
翌1895(明治28)年には、蓋平の戦いで、第1軍第3師団(桂太郎が師団長)を包囲した清国軍を撃破。希典は「将軍の右に出るものなし」と言われるようになります。
♍の☀後半~♑の☀までの期間に当たる時期で、T♃は、希典のN☀☿とオポジション。さらに♎を進むT♄は♈にある希典の♅♇。♉☽とオポジション。戦争開始当時は、希典のN☀☿は、T♂とトライン。N♆とT♃のトラインは、海を渡り展開する戦に力を貸したとみてもいいでしょう。他にも勝ちを裏付ける星が回っています。
希典は功績をもって、日清戦争終結間際に中将に昇進し、宮崎県仙台市に大本営を置く第2師団の師団長となりました。
新生国の日本と大国が戦争をしたら、清が勝つ。疑いもなくそう思っていた欧米の空気も塗り替え、日清戦は日本の勝ち戦で終わります。
1895(明治28)年4月17日下関条約によって、日本は清に、「朝鮮の独立」を認めさせ、賠償金の外、遼東半島・台湾の割譲を承諾させました。しかし、同年4月23日。ロシア・フランス・ドイツの三ヶ国は、日本の外務省に勧告文携えた公使を派遣。
『日本が恒久的に遼東半島を領有することは、東アジアの平和を脅かすことになる。遼東半島を清に返還するよう』三国干渉が発生。
このまま遼東半島を清に返さないから、自分たちが黙っていないという三ヶ国を相手に、戦争ができる力はない日本。悔し涙を飲んで、遼東半島は、清に返還されたのです。(これで清に恩を売ったロシアは、遼東半島を借り受け、大量の兵器と食料、人を運ぶことを可能にするシベリア大陸横断鉄道を作り始めたのでした)
同年5月10日台湾に統治するための「台湾総督府」が設置されました。下関条約に不満を抱いていた清の文武官達は、「台湾民主国」建国を宣言し、抗議活動を展開。こうして5月25日~11月18日乙未戦争が起きたのです。
日本軍は散発的な征討を行い、希典の率いる第2師団も台湾へ出征しました。翌1896(明治29)年4月に帰国すると、日本は本格的な台湾統治に乗り出します。
同年10月14日乃木希典は第3代台湾総督に任命されました。治安確立が主な使命です。
当時の台湾は抗日運動もまなかか収まらないだけでなく、公衆衛生も未発達。出征経験のある希典は、当初断っていました。しかし、児玉源太郎からの強い要請で「台湾を女性も安心に住める場所にする」決意の下、同年11月。妻の静子と母壽子を伴って、希典は台湾に赴いたのです。
結婚当時は激烈に悪かった嫁姑。いつしか二人の間は「しっかりした嫁」と「尊敬できるお義母様」コンビになっていました。希典の放蕩が収まったはいいけれど、融通の利かない堅物生活になった事で、嫁も姑も別の苦労はしたのでしょう。台湾赴任から40日後、壽子はマラリアに感染して亡くなります。(享年68歳)
希典は台湾島民の道徳教育に取り組みました。テキストは漢文訳の教育勅語です。元々学者を目指して勉強をしていた希典。学問はできますが、殖産事業や商売には畑違いなため、内政は日本人の民生局員に委ねました。が、好き勝手にさせるのではなく、不正をしない事と、戒めや厳正さを彼らに求めます。そのため、民政局長たちとの間に対立が発生。
1897(明治30)年11月希典は台湾総督府を辞任します。
「記憶力減退による台湾総督の職務実行困難」と辞職願いに書いたので、かなりしんどい思いをしたのでしょう。帰国後はしばらく休職して那須野で畑仕事に精を出します。
因みに希典が辞任した後、第4代台湾総督となった児玉源太郎と、民政局長の後藤新平は、これまでより台湾統治が非常にやりやすくなりました。自ら模範を示し、民政局員に綱紀粛正を求めた希典を見て共鳴した者もできて、それが下地になったのです。
1898(明治31)年10月3日香川県の善通寺に新設された、第11旅団長として復職した希典ですが、1901(明治34)年馬蹄銀事件(義和団事件の関連で汚職事件)に、部下が関与した疑いをかけられたことで、再び休職します。(引責辞任ともいわれている)。
演習がある時は、可能な限り出向きましたが、この休職は2年9か月程続き、栃木県那須野の別邸で、農耕と軍事研究のため古今の兵書を紐解く生活を送りました。
休職中でありながら、「陸軍軍人の規範」を示す希典の姿に、いつしか多くの人から尊敬の念が集まるようになっていたのです。
1904(明治37)年2月5日動員令が下りました。世界最強の陸軍国であり、海軍はイギリスに次ぐと言われた大国ロシアとの戦い。日露戦争が始まったのです。(戦争への経緯、関連は割愛します。山本権兵衛や児玉源太郎等の回をご参照ください)
日露戦争と乃木希典といえば、二百三高地。
難攻不落の要塞と高台(二百三高地)からの銃撃に、司令官乃木希典率いる第3軍は、愚直な突撃を繰り返し、戦死者の山を作りました。そこへ旅順に来た児玉源太郎が指揮を執ったら、苦戦から逆転。二百三高地は陥落という話があります。
二百三高地の映画や、日露戦争関連の本にも影響を与えたこの話は、連隊旗喪失同様、乃木希典愚将説の元にもなっていますが、元は司馬遼太郎著「坂の上の雲」。愚直な突撃と、夥しい犠牲は確かなのですが、そうなる訳があり、小説のワンシーンは史実ではありません。
留守近衛師団として復職する希典。同年5月2日第3軍司令官に任命されました。
希典の率いる第3軍は、第2軍に所属していた第1旅団および第11旅団を基幹とする軍で、同年6月6日には遼東半島の塩大澳に上陸しています。
第1軍と第2軍本隊は、ロシア軍の主力を補足するため、朝鮮半島と遼東半島の2か所から上陸し、大陸へ渡っていました。希典の長男乃木勝典も第2軍に従軍しています。(希典の息子2人はどちらも軍人となり日露戦争に従軍)
広島から大陸を目指す5月27日。希典の元に、勝典戦死の報が届きました。
日露戦争は激戦になる、3人とも生きて帰ってくることはない。夫の言葉を聞いた静子は、戦死した際、異臭が放たれないようにと考え、銀座の資生堂で1つ9円(当時の一般成人の給料2か月分)の香水を3個購入。出征前の夫と息子二人に渡しました。
苦労人で優しい母が好きな息子たちは、それをお守りとして大切にしながら、戦地に赴いたのです。希典は南山の戦いで勝典が戦死したことを静子に知らせます。
電報に記された「名誉の戦死を喜べ」を受け取った静子は、数日の間号泣したのでした。
先に上陸した第2軍は、大連を制圧して大陸への補給の場を確保します。しかし、近隣に位置する旅順要塞と、ロシアの太平洋艦隊基地を守る砲台がある限り、日本は補給の場を脅かされる危険が常にありました。
旅順要塞を封じ込めれば、補給路の安全は確保できると陸軍は踏んだのです。
一方、日本海軍は旅順港の港外で、ロシアの太平洋艦隊撃滅を行いましたが、敵船を港内の奥に逃がしてしまいます。港口に艦船を沈め、このまま敵艦隊の動きを封じる旅順港閉塞作戦を3回ほど実施。しかし、2回目の作戦で「福井丸」指揮官広瀬武夫海軍少佐が戦死。東郷平八郎率いる連合艦隊は、二百三高地からの大砲に砲撃され、完全に失敗しました。
陸海両軍から旅順要塞と、二百三高地の攻略要請が来たことで、大本営はこれを了承。
満洲軍総司令部にも伝わり、第3軍司令官乃木希典に、攻略の命が下ったのでした。
三国干渉後、旅順を清から租借したロシアは、南侵を有利に進めるため、シベリア鉄道だけでなく、太平洋艦隊の基地と、旅順要塞のリニューアル化も進めたのです。
コンクリートの厚さ2mの巨大な要塞。その周囲には、長さ10m。深さ18mの川堀が作られた他、塹壕が何重にも掘られてありました。塹壕には地雷や鉄条網も設置。さらに高台(二百三高地)に、大砲と最新鋭の機関銃と豊富な弾薬。食料を詰めて、いつでも敵を狙い打てる環境を作ったのです。
その情報は漏れないように、厳しく管理され、他国は限りある情報から、旅順要塞は「落とすには3年かかる」という目で見ていたのです。対する日本は10年前の日清戦争が楽だったこともあり、大本営の戦略見積もりは甘く、少々の無理をしても、旅順要塞を落とすように命じたのでした。
乃木希典率いる第3軍の兵士たちは、武器弾薬も人員も、揃いきらない状況で、コンクリートの厚さ2mの巨大な旅順要塞へ向かったのです。
第1回目の総攻撃は1904(明治37)年8月19日~24日。戦力は51,000名でしたが、軽量化した上、ロシア軍が持つ、毎分500連発が可能な自動式マキシム機関銃を前に、なすすべもなかったのでした。
同年10月北の海から希望峰を経由して、最強の海軍バルチック艦隊が日本を目指している事が、「確実となりました。太平洋艦隊とバルチック艦隊に挟まれる事態をなんとしても避けるため、海軍は、さらなる二百三高地攻略を陸軍に要請します。
二百三高地は身隠す場所が全くなく、突撃すれば犠牲だけが増えるため、希典は地道に塹壕を掘って要塞に進む方が確実と考えました。
こうして同年10月26日2回目の総攻撃は、塹壕戦になったのです。しかしこちらも地雷や機関銃の餌食になり、ほぼ全滅。31日には攻撃中止となりました。
ロシア軍が配備した最新鋭の装備を知らないまま、楽に落ちると思っていた東京の陸軍内部には、乃木希典更迭論が出始めます。あまりの犠牲の多さと、成果のない展開に、国民からも乃木希典への批判が強まりました。東京の乃木邸には、石を投げ込む者、罵詈雑言を浴びせる者が現れ、辞職や更迭、切腹を願う手紙が、2400通も届いたそうです。
御前会議の席で、乃木希典の第3軍司令官更迭論が上がりましたが、
「乃木をかえてはならぬ」強く待ったをかけたのは、明治天皇でした。
11月26日第3回目の総攻撃を行います。白襷隊(決死隊)による夜襲も敢行しましたが、塹壕に潜ませた地雷の餌食になり、3100人中、2000人ほど戦死する状況でした。
翌日、攻撃目標を二百三高地へ変更。壮絶な激戦の最中、第2軍として旅順要塞攻撃に参加した次男保典の戦死報告が届きます。
「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と述べたという希典。
第3軍は3回に渡る総攻撃で約15400名の戦死者。44000名の負傷者を出しました。助かる可能性が低い作戦を実行する都度、将兵に「行け」と命じた希典は、内心いたたまれなかったのでしょう。
同年12月18日には、日本軍だけでなくロシア軍も、150名前後の兵士が戦死します。戦いは大晦日31日までじわじわと続き、どちらも命の消耗戦を繰り返した結果、ロシア側の降伏によって、旅順要塞攻略戦は終わりました。
旅順要塞の指揮官アナトーリイ・ステッセルの下、ロシアは、陸軍約44000名。海軍約12000名。その他約7000名。しかも兵器は最新鋭。余裕の応戦をしたつもりが、戦死者約16,000名。戦傷者約30,000名(延べ数)の被害が出たのです。
ロシア兵は、1万人に減っていました。食料、弾薬はまだ余力のあるロシア軍でしたが、後一か月、この状態が続けば、全滅すると判断したステッセル。
希典の翌年1905(明治38)年1月1日16時半。第3軍司令官乃木希典将軍に降伏の旨を伝えたのです。敵が降伏するなら、戦う必要はない。
こうして二百三高地の戦いは終わり、第3軍司令官乃木希典と、要塞司令官ステッセルとの会見が同年1月5日に行われることが決まります。明治天皇は山縣有朋を通じ、ステッセルが祖国のために力を尽くした事を称え、武人としての名誉を確保するよう、希典に伝えました。
N♂とT♂のトライン。N♇とT♅のトラインも勝ち星といえます。
激戦の中、両国の将兵がどちらも多く亡くなったのは、♊♇・♋♆が影響していると詠みました。♃以降♇までは、時代、社会、世界を見てゆく星たちでもあるので、勝ち戦、負け戦には大きく関わってきます。
1月5日。予定通り会見が始まる前、再三取材を申し出る従軍記者たちに、「敵将に失礼ではないか、後々まで恥をさらすような写真を撮らせることは、日本の武士道が許さぬ」と言って、記念写真1枚だけ許します。(日露戦争で検索すると、日露両軍互いに並んで撮った写真を見ることができます)
最大の礼をもって帯剣と正装を認めてくれたことに、ステッセルは感激し、希典の二人の息子が戦死したことを悼んだそうです。両国の指揮官は、酒を酌み交わしながら、武勇を讃え防備を褒めました。この会見は水師宮で行われた事から「水師宮の会見」と呼ばれ、乃木希典の言動は、旅順要塞攻略の武功と共に、世界に向けて報道されました。
後に文部省唱歌にもなり、国定教科書に載り、広く歌われます。
1月14日旅順に戻った直弼は、戦死した将兵たちの弔うため、招魂祭を挙行。希典は自ら起草した祭文を涙ながらに奉読します。従軍記者たちだけでなく、日本語がわからない観戦武官たちも感動し、彼らは祭文のロシア語訳を求めました。
この後第3軍は、進軍して奉天会戦に参戦。ロシア軍総司令官アレクセイ・クロパトキンは、日本軍の主力は第3軍と判断。乃木希典率いる第3軍の兵士たちに、猛攻撃を仕掛けました。敵の猛攻撃を受け続けながらも、乃木大将の指揮の下、第3軍は一丸となって動きを止めずに進み、ロシア軍を退却させたのです。こうして日本陸軍は、奉天会戦を勝利しました。
休戦状態を迎えた時、希典は参謀の津野田是重に、日露講和の行く末について語っています。戦争が長引くほど、日本は不利であり、賠償金は取れない上、樺太すべての割譲は難しいと述べたそうです。後に開かれるポーツマス条約を予見したものいいですが、状況をわかっている人は、だいたいこんな感じでみていたのでしょう。
日本陸軍の勝ちに日本国内は、心躍らせましたが、兵士が死に過ぎたのは、乃木の作戦が甘かったという見方もあって、第3軍司令官乃木大将への評価は賛否わかれます。が、世界の目は違いました。
「奉天会戦における日本陸軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と、アメリカの従軍記者が述べていますが、そもそも国力差7倍な帝国ロシア対小国日本の戦いでした。日本は負けてロシアの植民地になると、どこの国も思っていたのです。
しかもロシアは、世界初全自動式のマキシム機関銃を投入。塹壕と地雷をフル活用し、圧倒的な威力を見せつけました。乃木大将は不利な立場でありながら、粘り勝ちで難攻不落の要塞を陥落させたのです。さらに会見の場で、乃木大将は負けたロシア軍の司令官の写真を撮ろうと群がる記者たちを抑え、ロシア軍に帯剣と正装を許して、共に写ったのでした。敵だった相手の名誉を守り、労う乃木大将に世界は絶賛したのです。
♃年齢域と♄年齢域が交差する1906(明治39)年1月14日。
希典は東京に凱旋しました。勝っているので凱旋なのですが、あまりにも多くの将兵を戦死させた自責の念から、帰国の前に「戦死して骨になって帰国したい」「日本に帰りたくない」「守備隊の司令官になって、中国に残りたい」「蓑でも笠でもかぶって帰りたい」と、言った希典。
それでも東京へ到着すると、先ずは宮中に参内します。
第3軍が作戦目的を達成できたのは、天皇の御稜威、上級司令部の作戦指導及び、友軍の協力によるものであること。将兵の忠勇義烈を讃え、戦没者を悼む言葉。旅順攻囲戦が半年という長期に及んだこと。奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂できなかったこと。ロシア軍騎兵大集団に攻撃された際、撃砕の好機でありながら達成できなかったことが甚だ遺憾と、明治天皇の御前で復命書を奉読しました。
自責の念から涙声になり、「自刃して明治天皇の将兵に数多くの死傷者を生じた罪を償いたい」と、明治天皇に奏上しました。陛下は
「乃木の苦しい心境は理解したが、今は死ぬべき時ではない。どうしても死ぬというのであれば、朕が世を去った後にせよ」
という旨の言葉を希典にかけたのでした。
帰国後、様々な方面から歓迎会の招待がありましたが、すべて断った希典。
一方で東郷平八郎率いる連合艦隊が、世界最強と恐れられていたバルチック艦隊を対馬沖の日本海海戦で撃破し、日露戦争は陸戦・海戦とも日本の勝利となりました。晴れることのない乃木の気持ちとは別に、陸は乃木希典。海は東郷平八郎。
両軍の司令官は世界各国から賞賛を受けます。特にロシアからの圧政に長年苦しんできた中東や欧州の国々には、希望の光ともなり、二人の将軍の名を、子どもにつける現象も起きたのです。
希典の元には、世界から書簡が届き、敵国ロシアの「ニーヴァ」誌も、乃木を英雄として描いた挿絵を掲載しました。ドイツ帝国・フランス・チリ・ルーマニア・イギリスといった国々の王室や政府から各種勲章が授与されます。日露戦争の勝利は、それほど大きなインパクトを、与えたのでした。しかし、日本国内はポーツマツ宣言によって、日清戦争の時のような賠償金を、負けたロシアから取れないことが明らかになり、暴動が起きていきます。
♄年齢域 57~70歳 1906~1912 明治39~明治45・大正元年
明治天皇は、学習院長に希典を指名しました。これは学習院に皇孫(後の昭和天皇)が入学するので、養育を希典に託す事を考えたのも大きいですが、息子を失った希典に、皇族や華族の家から預かる生徒たちを、我が子と思って育てるように命じるのを見ると、希典自身にも、生きる喜びを見出してほしかった思いもあったのかと推察します。
学習院長は文官職。陸軍武官が文官職に就く際は、陸軍将校分限令で、予備役に編入されるのが決まりでした。しかし、今回の人事は明治天皇の勅命。故に希典は予備役に編入されなかったのです。
1908(明治41)年学習院は、現在の目白に移転しますが、希典はこれを機に全寮制にして、6階建ての寄宿舎を建てました。そこで生徒たちと寝食を共にし、生活の細部に至るまで指導したのです。(乃木の居室であった総寮部は、乃木が没後移築。「乃木館」として現在、国登録有形文化財として保存されています。)
同年4月。裕仁親王が入学すると、希典は勤勉と質素を旨に、その教育に当たりました。
当時赤坂の東宮御所から車で送迎通学だった裕仁親王。希典は徒歩で通学するように指導し、親王もこれに従い、以降。雨が降ろうが歩いて目白の学習院へ登校されたそうです。
心身を鍛えるため剣道・操練体操に馬術、弓術、撃剣、柔道に水泳なども力を入れ、時には生徒に日本刀を持たせて、生きた豚を斬らせる事もあった模様。学習院中等科に通っていた近衛文麿は、幼少期から大変な怖がりで、一人で外を歩くことも難しかったことから、気合を入れるため、希典自ら竹刀を持ち、打ち込んだそうです。
「乃木さんの面は、本当に痛かった」と、近衛は回想しているので、手加減はなかったのでしょう。バロン西が、父親と同じ政治の道を進まず、軍人を目指したのも、乃木院長に多大なる影響を受けたことがありました。
自宅に帰るのは月に1,2回。後は学習院中等科および高等科の寄宿舎で、生徒たちと寝食を共にしました。生徒たちとよく話し、ダジャレを言って笑わせる一面は以外ですが、多くの生徒は、そんな希典を「うちのおやじ」と呼んで敬愛したようです。
一方で、野球やテニスといった、洋式のスポーツには見向きもしなかったため、一時は四大雄鎮とうたわれた学習院野球部の勢いは失速しました。ここは偏りすぎというか、起用さのない希典の一面と、♄年齢域が影響したと思います。
強い教育方針に反発する者、嫌う者も出ます。彼らは同人誌「白樺」を軸に、やがて『白樺派』を結成します。正親町公和・細川護立・志賀直哉・木下利玄・武者小路実篤といった大正時代のデモクラシーを引っ張る面々ですが、豊かな家庭で育った彼らは、乃木の教育方針を、非文明的と嘲笑したのです。
がこうした多感な若者たちと、どう接するべきか希典は、親交のある森鴎外に助言を求めました。
因みにこの頃、学令が変わり、きれいな暗唱が教員の評価材料にしやすいため、日本国内の学校では、教育勅語の暗唱が行われるようになります。
1911(明治44)英国ジョージ五世の戴冠式に出席する東伏見宮依仁親王に随行し、東郷平八郎と共に、英国へ向かった際、ハイドパークで英国少年軍を観閲。創設者のべーテン・パウエルと会談しています。
1912(明治45)年7月30日。明治天皇が崩御されました。大正天皇の即位によって、同年は大正元年となる中、乃木希典は静かに黙とうをささげたそうです。
同年9月10日。裕仁親王と淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)。光宮宜仁親王(後の高松宮親王)の元を訪ねた乃木希典は、山鹿素行の「中朝事実」を渡します。
子どもは恐ろしく敏感な所があるものですが、これを熟読するように伝える希典を見て、裕仁親王は、何かお感じになられたのでしょう。
「院長閣下はどこかへ行かれるのですか?」
希典にそう言葉をかけられたそうです。
同年9月13日明治天皇の大葬の礼が執り行われました。この日の午後、自宅で静子夫人と夫婦そろった写真を撮った希典。夜20時ごろに自刃します。(享年62歳・)。
わからないことは静子に聞くようにと、遺書を残しているので、希典は奥さんを伴う意志はなかったようですが静子夫人も自刃。(享年52歳)
二人の自刃の報道は、日本だけでなく、世界も駆け巡ります。日本では号外が飛び、実に多くの人が驚きと悲しみ、ニューヨークタイムズは、一面で報道。
院長閣下を慕っていた裕仁親王は、涙を浮かべ「あぁ、残念なことである」と述べてため息をつかれたそうです。
一方で乃木の教育方針に否定的だった白樺派の志賀直哉、芥川龍之介といった新世代の若者たちは、「前近代的行為」と言って乃木希典の殉死を冷笑。批判的な表現を展開しました。乃木希典が愚将とされる下地は、案外この辺に根っこがあるのかもしれません。
白樺派等による批難や嘲笑を抑えようという意志もあったのか、夏目漱石は「こゝろ」、森鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」をそれぞれ描いています。
日露戦争時に第3軍に従軍した外国人記者スタンレー・ウォシュバンは、「乃木大将と日本人」を書き、故人を讃えました。
同年9月18日乃木夫妻の葬儀は執り行われました。赤坂にある自宅から、青山葬儀場までの沿道には、推定20万人ともいわれる膨大な一般民衆で埋め尽くされ「権威の命令なくして行われた国民葬」。外国人も多数列席したことから、「世界葬」とも呼ばれます。
神あがりあがりましぬる大君の みあとはるかにをろがみまつる
うつ志世を神去りましゝ大君乃 みあと志たひて我はゆくなり
これが乃木希典の辞世です。本心は実にわかりませんが、希典は西南戦争の連隊旗喪失の件。日露戦争で多くの将兵を死なせてしまった自責の念を抱えながら、それでも明治天皇がこの世にある限り、生きてきた部分がありました。今の時代の感覚ではわからない、失われた忠義があったのかもしれません。明治天皇が崩御される前に、親友の児玉源太郎が急逝しているので、止めてくれる支えがなくなったことも考えられます。
そして静子さん。何故自刃をしたのか。心熱烈恋愛夫婦でもなく、彼女はトンデモない家に嫁いだ彼女の人生は、それこそ今の時代の感覚では、理解不能と思います。が、明治時代の女性は今よりもとてもたくましく、離婚再婚する人もいましたし、苦境を乗り越える女性もたくさんいました。
出でましてかへります日のなしときく けふの御幸に逢ふぞかなしき。
これが静子さんの辞世です。
最愛の息子を二人ともなくし、どちらもまだ独身だったため、嫁も孫もいない彼女にとっては、生きる意味がもうなかったのかもしれません。
いずれにしても一つの時代を生き抜いた尊い女性です。
多くの人に慕われた乃木希典と静子夫人。読売新聞のコラム「銀座より」では、乃木神社の建立や、乃木邸の保存の意見。新坂の名を乃木坂にしようという案が出て、京都・山口県・栃木県・東京、北海道等の各地に、乃木神社が建立されていきました。
六本木の乃木神社には、乃木会館があり、結婚式を行うことはもちろん、毎年正月の三が日には、「乃木うどん」をいただくこともできます。(有料)
これは希典が陸軍第11師団長として着任した時、隊員たちがうどんを好んで食べたのを見て、鶏肉や餅を乗せて食べれば力が出るだろうと、軍食メニューを考案したのがきっかけ。力うどんの元は、乃木希典だったのですね。
今回は小説による印象が強くて、誤認。時代のズレが大きく認識がしづらい面もあるけど、明治時代を知るには、必要な人物乃木希典と静子夫人を取り上げました。
監察医の記録やその他資料があるので乃木夫妻の自刃についての詳細を、知りたい方は、そちらをご覧ください。いつも同様、最後についてはホロスコープも敢えて上げません。