日本陸軍の軍人。最終階級は中将でした。彼はこの後、大東亜戦争末期に、奇蹟を起こしたといわれています。樋口季一郎の星回り&三度の奇蹟。その背景となる大東亜戦争(第二次世界大戦)にも、今回は触れてみました。

樋口季一郎ホロスコープ

1888年8月20日 出生時間不明 兵庫県淡路島阿万村(現・南あわじ市阿万上町字戈の鼻)

☀星座 ♌ 27°28
☽星座 ♒ 8°07 (24h ♒1°19~14°02)♒の月は確定。満月直前。

出生時間が不明なので、誕生星座の♌を1ハウスに、30度分割で展開。SAC/MCなし

第1室 本人の部屋 ♌ ☀・☿・♄・☊ 第7室 契約の部屋   ♒ ☽
第2室 金銭所有の部屋 ♍ ♀     第8室 授受の部屋   ♓
第3室 幼年期の部屋  ♎ ♅     第9室 精神の部屋   ♈
第4室 家庭の部屋   ♏ ♂・♃   第10室 社会の部屋   ♉
第5室 嗜好の部屋   ♐       第11室 友人希望の部屋 ♊ ♆・♇
第6室 健康勤務の部屋 ♑       第12室 障害溶解の部屋 ♋

バケットタイプのホロスコープ。天体が四つ入室いているので、♌はかなり大きなポイントです。樋口の慎重170㎝以上という記録見る限り、♄がライジングスターではないと、判断しますが、向かいの第7室には、博愛・機転・意外性と変化をもたらす♒の☽は、☀とのオポジションは、昼頃から形成。その後は♄。☊とのオポジションとなってゆきます。
さらに♎の♅。♊の♆・♇とトリン。♆・♇コンビは、♏の♃とオポジション。♍の♀。☀とはスクエア。逃がす・守るというテーマが見え隠れする配置。
 
♏に♂を持つ人は、タフネスで、諦めが悪い気質を持ちやすいですが、彼の軍人生活を支えたかもしれません。

樋口季一郎年表

1888年(明治21年) 淡路島の阿万村に生まれる(旧姓奥浜)
1901年(明治34年) 三原高等小学校2年終了後、篠山の私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。
1902年(明治35年)9月 大阪陸軍地方幼年学校に入校。
1909年(明治42年)5月 陸軍士官学校卒業(21期)。12月25日 陸軍歩兵少尉に任官。歩兵第1連隊附。
1913年(大正2年)2月 陸軍歩兵中尉に進級。
1918年(大正7年)11月 陸軍大学校卒業(30期)。
1919年(大正8年)7月 陸軍歩兵大尉に進級、参謀本部附勤務。12月 ウラジオストク特務機関員として派遣軍司令部附(シベリア出兵)。ロシア系ユダヤ人ゴリドシュテイン家の一室に住む。(同家はキャディラックを扱う貿易商)。
1920年(大正9年) ハバロフスク特務機関長として孤立(無責任な上層部への義憤)。
1922年(大正11年)4月 参謀本部部員。
1923年(大正12年)12月 朝鮮軍参謀。
1924年(大正13年)8月20日 陸軍歩兵少佐に進級[36]。
1925年(大正14年)5月 -ポーランド公使館附武官。ウクライナほかを視察。
1928年(昭和3年)2月 -中華民国山東省青島に駐留。歩兵第45連隊附。7月 帰朝・8月10日 - 陸軍歩兵中佐に進級。
1929年(昭和4年)8月 技術本部附(陸軍省新聞班員)。
1930年(昭和5年)8月1日 東京警備参謀。
1933年(昭和8年)3月18日 陸軍歩兵大佐に進級、東京警備司令部附。8月1日 歩兵第41連隊長(福山)。
1935年(昭和10年)8月1日 ハルビン第3師団参謀長。
1937年(昭和12年)3月1日 参謀本部附(ドイツの首都ベルリンへの出張)。8月2日 陸軍少将に進級、ハルピン特務機関長。12月26日・27日 -第1回極東ユダヤ人大会がハルビンで開催。
1938年(昭和13年)3月 ユダヤ人難民事件(オトポール事件)。7月15日 参謀本部第二部長。
12月 ~1939年(昭和14年)5月ユダヤ人対策要綱。汪兆銘を重慶から脱出させ、ハノイ経由で東京に迎える。滝野川の古河虎之助男爵別邸に匿う(日中戦争の和平工作)。
1939年(昭和14年)5月~9月 ノモンハン事件 停戦努力。「臆病軍人」と呼ばれる。10月2日 陸軍中将に進級。12月1日 第9師団長(石川県金沢市)。
1942年(昭和17年)8月1日 -札幌北部軍司令官。
1943年(昭和18年) 北方軍司令官として太平洋戦争のアリューシャン方面の戦いを指揮(アッツ島玉砕、キスカ島撤退作戦)。
1944年(昭和19年)3月10日 第五方面軍司令官。
1945年(昭和20年)2月1日 -兼北部軍管区司令官。日本のポツダム宣言受諾後も続いた。8月18日以降の占守島・南樺太防衛戦を指揮。12月1日予備役編入。
1946年(昭和21年) -北海道小樽市外朝里に隠遁。
1947年(昭和22年) 宮崎県小林市(その後、都城市)に転居。
1970年(昭和45年) -東京都文京区白山に転居。老衰のため死去。82歳没。墓所は妙大寺(神奈川県大磯町)。

樋口季一郎 星読みhistory

●☽年齢域 0~7歳 1888~1895(明治21~27)&☿年齢域 7~15歳 1895~1903(明治27~明治36)

1888年(明治21年)8月20日。伊弉諾尊とイザナミノミコトの国生み神話の舞台となる淡路島。その南に位置する小さな漁村で、舟問屋を営む地主奥濱久八、まつ夫妻の元に、樋口季一郎は、長男として誕生します(兄弟数は、5人説と9人説あり)
かつては裕福だった奥濱家ですが、蒸気船が日本に定着する明治時代に入ると、経営不振に陥り、父久八の代で没落。さらに両親は離婚してしまい、1899年(明治32年)11歳になった季一郎少年は、母方の阿萬家に引き取られます。
☽年齢域と☿年齢域前半。貧乏と両親の離婚という、子どもにとっては、相当な辛苦の時期なのですが、季一郎少年はめげることなく、三原高等小学校を首席で卒業。その後は、叔父の勧めで、かつての篠山藩藩校。私立尋常中学鳳鳴義塾に入学しました。当時は軍人を目指すための志望校として、有名だったそうです。(現・丹波篠山市にある兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)
1902年(明治35年)職業軍人となるために、大阪陸軍地方幼年学校へと進みます。陸軍地方幼年学校は、エリートを養成する全寮制教育機関で、東京と大阪を含め、全国に6校ありました。 
定員50名の狭き門を、見事に潜った樋口季一郎は、軍事教練はもちろん、数学やドイツ語を学んでゆきます。学力に優れる季一郎少年。特に語学センスは抜群でした。

樋口季一郎が生まれて、全寮制の陸軍地方幼年学校に入学した頃までは、1889年(明治22年)。大日本帝国憲法が発布を皮切りに、明治時代最盛期に入っていきます。第一回衆議院議員総選挙があり、中央集権の確立が進む一方で、江戸時代からわずか数十年。国の凡てを様変わりさせて推し進めた富国強兵のひずみで、鉱山や工場などで働く労働者の環境整備や、セーフティーネットが追い付かず、著しい環境問題も発生しました。
1894年(明治27年)日清戦争が始まります。西洋諸国でさえ、警戒していた大陸の清を相手に、朝鮮問題とロシア問題が背景である日清戦争に勝利する日本。翌1895年(明治28年)4月には、下関条約が結ばれました。
清に朝鮮国の独立を認めさせる。領土の割譲(遼東半島&台湾)。賠償金(2億テール=当時の日本円で約3億8000万円。因みに国家歳入は、約8000万と言われています)が成立し、さらに戦勝ムードに沸く日本。ですが、ここにフランスとドイツという大国を引き連れて、ロシアが乱入。「遼東半島を清に返せ」と、日本に迫ったのです。いわゆる三国干渉ですね。
あまりの横暴さに、政府も軍人も憤慨したのですが、帝国ロシア(しかもフランスとドイツも一緒)を相手に、戦を起こしても、今は勝ち目のない日本。
悔しいかな、清に遼東半島を返還したのでした。
ロシアのいうことを聞いて、せっかく手にした遼東半島を返す事が、新聞で報じられると、「国力差」というものをわからなかった当時の国民は、一斉に国を批判します。

これらの出来事は、季一郎少年が、物心つく頃に起きたことでした。戦勝ムードだったところに、降ってわいた三国干によって、大陸を返還するのしないの。返還に応じた国が情けないと、大騒ぎになる中、賢い子だった季一郎は、何を思ったのでしょうか。彼が軍隊への道を選んだ背景には、この日清戦争もあったと思います。
三国干渉後のロシアは、清から大連と旅順を租借する形で、遼東半島入りました。清の反乱(北清事変)が起きると、鎮圧を名目に、満洲へと進出してゆきます。その勢いに釣られて、ロシアに急接近したのが、朝鮮政府。主に王妃の閔妃とその一族でした。日本側に妃が殺害された国王の高宗は、ロシア公使館に逃げ込み、そこで執事を取るという事態を起こします。(この辺りは、小村寿太郎の回で触れています)

一方でロシアの東アジア進出によって、中国やインド等といった植民地が、脅かされていた英国も、苦慮していました。ロシアを止めたい。共通の目的があった日英両国は、1902年(明治35年)日英同盟を結びます。
日本政府としては、この同盟力を生かして、<ロシアの満州支配を認める。その代わりに、朝鮮の主導権を日本が持つことをロシアに認めさせる>政治交渉で、乗り切りたかったのです。が、日英同盟が結ばれると、当時のメディア(新聞)は、主戦を煽り、国民の多くは、これに同調してゆきました。
反戦を唱える人もいましたが、10年前の日清戦争で勝って、賠償金を得ている記憶から、勝てば賠償金が得られると皮算用。ロシアは三国干渉を起こし、日本が得るはずだった遼東半島を奪い、そこに自国の拠点を設けた国で、面白くない記憶も出てきたのです。
その帝国ロシアと日本の国力差が、7倍ある。それが10年間続いているという現実を、メディアも人々も知らないまま、戦争論は白熱しました。
季一郎少年の☿年齢域と♀年齢域の交差する1903年(明治36年)は、実に日露戦争が始まる翌年でした。
●♀年齢域 15~24歳 1903~1912(明治36~明治45大正元年)

1905年(明治37年)大阪陸軍地方幼年学校を卒業すると、樋口季一郎は、市ヶ谷の中央幼年学校へ進学するため、東京へ上京。下士官として、第三中隊第六区隊に配属となります。
17歳となった季一郎少年。ここで後に満州事変を起こす石原莞爾をはじめ、同期の友たちと出会い、国の未来や、自分たちの将来を語り合ったのでしょう。

ポーツマス条約が結ばれた年です。陸軍と海軍のどちらも、帝国ロシアを潰た大勝利をしました。約100万人の兵が大陸に渡り、現地での病死を含めた戦死者は、約9万人以上といわれる日露戦争。負傷兵も10万人を超え、戦費は約17億円(公費は13億5000円。約3分の2は外積)という、途方もない拠出をしています。
日露講和の仲介をアメリカが引き受けることで、両国交渉の場に着きますが、負債と犠牲が大きすぎた日本。対するロシアも、多大なる犠牲は出ていますが、局地戦の一つでしかありません。
賠償にこだわり、交渉の「引き伸ばし」をするのは、ロシアに体勢を立て直す時間を与えることになる。それをわかって交渉に応じた小村寿太郎は、実に正しい判断をしたのですが、7倍の国力差をしらない日本の国民が、それを理解することはありませんでした。
国民側から見れば、長年に渡り、社会構造の変更と税制に翻弄されつつ、勝った時のうまみも知ったので、日露戦争に勝つための準備(軍拡増税)に耐えたのです。勝ち戦なのに、期待していた賠償金が取れなかったら、爆発するのも無理ありません。
明治初期、国を牽引する立場に立つエリートは、社会主義、共産主義的な価値観が付いていた西洋思想学問を、そうと知らずに受け入れ、学びました。それが時間を経て明治後期までくると、「平等」「平和」を歌いつつ、国家打倒を語る意識は、国民にもある程度浸透していたのです。
ポーツマス条約調印の9月5日。東京ではこの調印への反対集会が行われますが、集まってきた人々は暴徒と化し、街を焼き、警察署や官邸を襲撃する日比谷焼き討ち事件へと発展します。

賠償金こそ払わずに,、条約締結を済ませたロシアでしたが、国内はロシア革命のきな臭さが漂っていました。樺太南部は日本に割譲。朝鮮半島の支配権も、日本のものとなり、日露戦争とポーツマス条約によって、南下政策は頓挫。政策の方向転換を余儀なくされたことから、英露協定を結び、今度はバルカン半島へ進出を開始しました。(これは、やがて来る第一次世界大戦の火種になります)
日露戦争後、西を向いたロシアですが、東を完全にあきらめたわけではない。そう考えた日本陸軍は、ロシアへの警戒が解かずにいました。
世界最強のバルチック艦隊を破った日本海軍は、アメリカを警戒します。これは満州鉄道の利権をめぐり、アメリカを袖にした日本政府に問題があるのですが、恩知らずな事をした結果、対日感情を悪化させてしまったのでした。

1907年(明治40年)5月。陸軍幼年学校を卒業した樋口季一郎は、岐阜県大垣市にある樋口家の養子となります。陸軍士官学校(21期)へ入学すると、ドイツ語の習得に磨きをかけ、1909年(明治42年)5月に、陸軍士官学校卒業。
同年12月には、陸軍歩兵少尉に任官。歩兵第1連隊附となりました。この頃は、少し私的な時間が持てるようになり、東京外語学校に通い、ロシア語を学んだそうです。
伊藤博文の暗殺なども起きて、騒然としがちな世の中ですが、少年から青年へと成長する♀年齢域を過ごす樋口季一郎にとっては、学びの期間でありました。☀年齢域と交差する1912年は、明治天皇の崩御・大正天皇の即位という時代の転換点に重なります。
●☀年齢域 24~34歳 1912~1922 (大正元年~大正11年)

大正時代と共に開けてゆく、樋口季一郎の☀年齢域。
1913年(大正2年)優秀な成績で陸軍士官学校を卒業すると、陸軍歩兵中尉に進級。待っていたのは、陸軍大学の受験でした。1915年(大正4年)30期生として、軍事学とロシア語を極めます。この年、第一次世界大戦が始まりました。直接戦争の影響がない日本は、欧州への輸出が伸び、経済が一気に上向きます。しかし、この好景気は、ほんの数年で終わる限定的なモノでした。1917年(大正6年)ロシアで革命が起きました。王朝を潰し、国を席巻する共産主義に、地続きの欧州各国は、非常な脅威を感じますが、その勢いを止めることはできなかったのです。日本以外のアジア諸国は、欧米列強の植民地になっているため、共産化の影響を、もろに受けました。当時の大陸には、様々な民族が暮らす町がありましたが、赤軍=パルチザン(正規軍ではない反乱軍や、思想構成員のこと)と、白軍(反共産主義軍)の争いが激化。アメリカの呼びかけに応じ、チェコ軍事団の救援と、ロシア内政不干渉を目的とする連合国の一国として、シベリア出兵を行ったのでした。しかし、その後、ドイツと欧州連合の間で休戦協定は結ばれ、チェコは独立。様相が激しく変わります。
1918年(大正7年)終戦と共に、景気の風が逆風となる日本でした。

陸軍大学を卒業した樋口季一郎は、陸軍歩兵大尉に進級。語学を得意とし、ロシア語の習熟度から、参謀本部付(ロシア班)に配属。1919年(大正8年)特務機関員(情報将校)として、ウラジオストクに派遣されたのです。
ウラジオストク。地名は有名ですが、その意味「東宝を支配せよ」は、あまりしられていないかもしれませんが、アジア圏を支配し、太平洋へ出たいロシアの拠点となった街です。
初外国赴任のでは、部屋探しに難儀しました。当時は、アジア人に対する差別。特に日本人への差別は強く、生活面で難儀する中、フラットに接してくれたのが、ユダヤ人でした。
ロシア系ユダヤ人ゴリシュティン家(キャディラックを扱う貿易商)に、下宿することができた樋口季一郎は、様々な人種との交流を生みました。
ユダヤ人家庭での暮らしが、ロシア人との交流を促進します。ロシア文学の面白さにも触れ、ピアノも習う機会をえました。
<ソ連の国家としての脅威や不誠実さに対しては、厳しい目を向けつつ、同時に個人個人のロシア人たちは、愛すべ人々である>
これは彼のロシアに対する言葉ですが、日常の営みの中で、時制と個を見る目を深めたのでしょう。☀年齢域と♂年齢域が、交差する1922年(大正11年)まで、樋口季一郎は、大陸で軍務活動を行っていきます。

1919年(大正8年)パリ講和会議が開かれました。世界各国の首脳が集まる場で、日本は「人種差別撤廃法案」を提出します。この内容に、大多数の国は、賛同しますが、アメリカ・イギリス・オーストラリアといった国々の反対で否決されました。
1920年(大正9年)時勢の変化で、アメリカはシベリアから兵を撤収。連合軍各国も、段々に、軍を引き上げていきます。アメリカ兵の撤収が、寝耳に水だった事もありますが、日本軍は兵を引き揚げたくても、尼港事件等が起きたことから、簡単にはいかない状況に見舞われました。

樺太の北部を流れるアムール川。河口にあるニコラエフスク(尼港)は、人口約12000人の街には、さまざま職を営む日本人もいました。5月を過ぎるまで、凍てて孤立する街を巡り、白軍と日本の守備隊(陸海併せて400人ほど)は、赤軍パルチザン(ロシア人3000人・朝鮮人1000人・中国人300人で構成と言われている)から、守っていたのです。しかし、圧倒的な数の差で、街を包囲するパルチザンを前に、劣勢を強いられていました。
パルチザンは、ニコラエフスクの代表と白軍。日本軍の代表を前に、『一般市民にテロは行わず、個人の資産も奪わないことを保証する』『反革命軍側に危害を加えないこと』「赤軍の入場前後の防衛責任は、日本軍にある事』等を条件に、白軍の武装解除と、街の開場を求めました。
彼らは必ず約束を破ると、白軍はこれを拒否。平和的解決が方針だった日本軍は、こちらに対して攻撃的にならず、一般人に手を出さない約束を守るのならと合意します。
こうして開城されると、約3400名のパルチザンは、多くの無抵抗な市民を虐殺、拿捕。処刑されたのでした。圧倒的に不利な状態で、抵抗を試みる本軍ですが、5月までは氷に閉ざされるニコラエフスク。外部に援軍を求めても、簡単には来れません。パルチザンは、日本軍が使用していた施設も襲撃。無線施設を破壊しました。外界との連絡を寸断された日本軍約300人は、完全に孤立し、殲滅されます。
こうして人口の約半分の6000人(日本人居住者の犠牲約700人を含む)が、パルチザンに虐殺された尼港事件は、彼らの言葉を信用した日本軍にとって、痛恨の事態となりました。
樋口季一郎とは、直接関係ないのですが、彼がウラジオストクの他、満洲やロシアのハバロフスクで任務に当たっていた頃、他にも似たような惨事が起きていたのです。
●♂年齢域 34~45歳 1922~1933(大正11年~昭和8年)

♂年齢域に入った1923年(大正12年)朝鮮軍参謀の任務を終えて、日本に帰国。陸軍歩兵少佐に昇進した後、1925年(大正14年)駐在武官として、再び海外に向かいます。場所はポーランドのワルシャワ。革命後のロシア内部の事情を調査するのが、主な仕事でした。
すでに既婚となっている樋口季一郎。(奥様の情報が見つからなかったので上げていませんが、写真をお見掛けする限り、とても利発な方と推察致しました)なんとダンスのレッスンを始めます。元々軍で体は鍛えているし、身長170センチの長身。ドイツ語もロシア語も堪能で、センスの良い彼は、ダンスを覚えて、奥様と共に、社交界へと繰り出したのです。生まれ故郷の淡路島は、人形浄瑠璃の里であり、♍♀・♎♅・♊♆を持つ樋口季一郎。美術芸術は、実に好きで、センスもよかったのでしょう。仮装舞踏会が英国大使館で行われた際、侍の格好をしてパーティーを盛り上げたとか。
華やかな社交の場に出てゆく彼に、同僚は「何をチャラチャラしとるんだ」と、眉をひそめたそうです。が、社交界は世界各国の要人が集まり、生の情報が飛び交う場でした。ここで樋口季一郎は、思わぬ人物。ソ連の駐在武官夫妻と親しくなります。
他国の駐在武官にとっては、ソ連という国も理由の一つですが、駐在武官が庶民の出というのが、蔑視の理由でした。ソ連の駐在武官夫妻は、浮いた存在だったのです。自身が船問屋出身の樋口季一郎は、気にすることなく、夫妻に話しかけて、親交を深めました。やがて自宅に招いてパーティーを開くと、ソ連の駐在武官夫妻は、日本料理や文化に感動。何より、分け隔てなく接してくれる樋口夫妻に、感謝したそうです。
「私にできることがあるなら、言ってください」
駐在武官のこの一言から、スターリンが治める鉄のカーテンの内側にある、黒海やクリミア半島(ウクライナ)を、外国人の外交官が旅行できたのでした。これは手間暇かけて、社交界で人脈を作ったから、実ったことです。またこのポーランドでの生活は、過去、大陸で見た以上のユダヤ人・アジア人への迫害、蔑視を見る・経験を実感する日々でした。
時節的に、大正の終わりから昭和に入るころでしょうか。コーカサス地方やウクライナを、東京外国語学校へ通っていたころからの友人、秦彦三郎(当時ソ連駐在武官補佐官)と、二人で約一月ほど、尋ねて回ります。旅というのは、時として、不思議な出会いをもたらすものですが、グルジアの首都チグリスを訪れた際、旅人が日本人と知った老人に呼び止められ、自宅に招かれました。
そこで老人は、世界中からユダヤ人が迫害を受け、安住の地がないこと。神に祈る事しかできないが、一生懸命祈っていれば、必ずメシア(救世主)が救ってくれること。さらに「メシアは東方から来る。日本は東方で、太陽が昇る国であり、天皇という方がいる。天皇がメシアであり、あなた方日本人もまたメシアだと思う。我々が、世界のどこかで困窮した時、いつかどこかで、必ず助けてくれるに違いない」と、告げたそうです。
この不思議な出会いが、数年後のオトポール事件に結び付いてゆくとは、この時、本人も思いもしなかったと思いますが、♂年齢域の樋口季一郎、その後は、1928年(昭和3年)中華民国山東省青島に、駐在しました。同年7月に帰国すると、陸軍歩兵中佐に進級。
♂年齢域と♃年齢域が交差する1933年(昭和8年)までは、技術本部附で、陸軍新聞班員や、東京警備参謀等で任務をこなしました。

朝鮮軍参謀の任務を終えて、日本に帰国する1923年(大正12年)には、関東大震災があり、戦後不況を抱える日本は、さらなる不景気に見舞われます。 
関東大震災後の立て直しに挑む、第二次山本権兵衛内閣は、摂政宮(後の昭和天皇)が、狙撃される虎の門事件の責任をとって総辞職。当時は明治の元老が総理を選んでいました。不景気と震災という状況の中、党利党略を全面にした選挙合戦を避けたかったのか、元老の西園寺公望が総理に選んだのは、政党政治に縁のない超然主義な清浦圭吾だったのです。
これに反発する憲政会・立憲政友会・革新倶楽部は、第二次護憲運動を起こし、選挙は護憲派の圧勝。憲政会の総裁加藤高明を総理とした、連立内閣が発足しました。(この辺りのくだりは、犬養毅の回を、ご参照ください)

1925年(大正14年)普通選挙法が成立。納税額に関係なく、25歳以上の日本人男子全員に選挙権が与えられました。さらに治安維持法の制定。国の体制を意図的に変えようとする動きへの取り締まり。共産主義者・社会主義者の過激な運動への規制や弾圧が始まります。その一方で、ソ連を国として認め、日ソ基本条約が結ばれたのでした。
貧しさもありましたが、その一方で、大正時代は、都市化が進み、洋食は定着。文化面ではファッションや出版が活気づく、ロマン充実期でもあったのです。東京・大阪・名古屋でラジオ放送が始まり、新聞以外のメディアが誕生。円タクと呼ばれる、自動車が街を走り始める変革期エが、大正末期でした。

1927年(昭和2年)若槻禮次郎内閣の大蔵相、片岡直温の失言が発端となり、銀行に人々が押しかける事態に発展。休業や倒産に追い込まれる金融恐慌が起きます。後を引き継いだ田中儀一内閣は、大蔵相高橋是清の采配で、三週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発令。約9億円の緊急増資で、経済危機を緩和する一方で、1928年(昭和3年)初普通選挙を実施しました。
すると、私有財産や君主制を否定する無産政党、さらに日本共産党が、思った以上に議会進出をしてきます。

北京政府、国民政府の間で激しい争いを繰り広げていた中国は、孫文の後を継ぐ蒋介石が、上海・南京も手中に収めました。大陸で商売をする日本人も狙われます。
南満洲鉄道の権益は、経済の要。と同時に、国防の要でした。再度ロシアが南侵してくる時は、
樺太と満洲の二か所で防衛。北海道や本土への侵攻を防ぐ目的があったのです。
経済と防衛を重視する田中内閣は、張作霖と粘り強い交渉を行いました。張作霖は、日露戦争で拿捕されたロシアのスパイでした。児玉源太郎に助けられて、ロシア駐屯地に潜入する日本側のスパイになり、満鉄(南満州鉄道)にも貢献した人物です。今や、蒋介石と張り合える力を得た張作霖。それは日本のバックアップがあっての事ですが、彼は彼で欲を持ったのでした。そのため交渉が進まず、時間が経過する中で、張作霖が乗車した列車が爆破される大事件が発生。
当初、国民政府軍の仕業と言われましたが、実際は、関東軍の河本大作が中心に行ったテロでした。(関東軍とは、日露戦争後の遼東半島と南満州鉄道の権益を守るため、駐留していた日本軍の事です。万里の長城の山海関より、北京寄りを関内・満洲や遼東半島は関東と呼ばれていた為関東軍) さらにこの当時、主に予算をめぐる問題ですが、明治や大正初期に比べて、政府と軍の間に、乖離が起きていたのです。国内では野党からの厳しい追及と、昭和天皇の不興も買い、田中内閣は総辞職となりました。

第27代総理となったのが、ライオン首相と呼ばれた濱口雄幸。約5時間で組閣したスピード内閣ですが、ニューヨークのウォール街で、株価が大暴落したことから発生した世界恐慌への対応を迫られます。大蔵相井上準之助は、金本位制を復活。なんでも節約の緊縮政策に舵を切ったことで、デフレを加速させました。生糸産業をはじめ、各産業は、物価の下落で大ダメージ。そこに北の著しい飢饉が重なり、昭和恐慌を引き起こしたのです。
ロンドン海軍軍縮会議では、海軍の希望対英米7割に近い、6.975で交渉成立させました。ここは頑張ったのですが、完璧ではないと不満を抱く海軍将校と、犬養毅をはじめとする野党から、「統帥権干犯問題」を持ち出されて、議会は大紛糾しました。やがて濱口は、右翼団体の構成員によって、東京駅構内で狙撃されたのです。
翌1931年(昭和6年)第二次若槻内閣が発足しますが、9月18日柳条湖事件が勃発。首謀者は石原莞爾。樋口季一郎と、陸軍士官学校で同期だった石原です。士官学校を卒業後、ドイツ留学を経て石原は、1928年(昭和3年)関東軍作戦主任参謀として、満洲に赴任しました。
南部次郎(盛岡藩出身の外交官)のアジア主義や、国柱会(戦前の日本の宗教)等の影響もあったようですが、関東軍による満洲占領計画を立案。実際、「王道楽土」「五族協和」をスローガンに、23万といわれる張学良の軍対、1万数千の関東軍で戦い、満洲を占領してしまったのです。軍部を抑えきれなかった第2次若槻内閣は、総辞職となり、野党政友会のトップだった犬養毅が、総理となるのでした。その犬養は、1932年(昭和7年)5月15日。先のロンドン海軍軍縮会議での決定への不満や、昭和維新を標ぼうとする、若手将校たちによって銃殺されます。
濱口内閣を追い詰めるための政略として、犬養が持ち出した「統帥権干犯」は、大ブーメラン(5.15事件)となって、犬養の命を奪っただけでなく、距離感が微妙だった政治と軍の乖離を促進し、やがて日本を敗戦に導く内的要因となりました。
●♃年齢域 45~57歳 1933~1945 (昭和8年~昭和20年)

人生のうちに、大きな三つの奇蹟を成し遂げる樋口季一郎。いずれも、拡張の技がさえる♃年齢域らしい、出来事といえます。因みに樋口のN♃は、♏。♃年齢期が始まる1933年1月1日の♃は、♍23°。♃は一つの星座に1年滞在しますから、12年後の1945年1月1日は、♍27°。
終戦の8月15日は♃♍28°です。(逆行期間が間に入りますね。)

<第一の奇蹟 オトポール事件>
1935年(昭和10年)8月1日樋口季一郎は、ハルビン第8師団参謀長として、大陸に赴任します。その後、日独防共協定を結んだばかりのドイツを、1937年(昭和12年)5月に視察しました。ヒトラーが首相になって以降、4年ほど経過する中で、ドイツ国内がナチスに染まっていたこと。ユダヤ人への迫害が、一段と深刻になったことも、目の当たりにします。
ハルビンに戻ると、満洲国ハルビン特務機関長となった樋口は、満洲の利権を重視しすぎる日本人の姿勢に、懸念を抱きました。樋口は部下の若手将校たちに、「満州国民の不満をよく聞いてやるように務めよ」「悪徳な日本人は、ビシビシと摘発するように」指示を出しました。その矢先、盧溝橋事件が発端となり、日中戦争が始まったのです。
やがてアブラハム・カウフマンという医師が、樋口の元を訪ねてきました。カウフマンは極東ユダヤ人協会の会長でもあり、ドイツにおけるナチスのユダヤ人迫害の実情を、世界に知らしめる大会を、ここハルビンで開きたい。と願い出たのです。
当時のナチスは、ユダヤ人を迫害していましたが、欧州から出ていけ的な空気が強く、民族の全滅を政策としては、まだ掲げていませんでした。当時の日本側としては、ユダヤ資本とユダヤ人を、満洲に入れたいという打算もあって、この話はまとまります。

関東軍の許可の下、1937年12月26日第1回極東ユダヤ人大会が開かれました。
3日間の日程で開かれた大会に、日本陸軍からは、ユダヤ通と言われた安江仙弘陸軍大佐と、ハルビン特務機関長である樋口季一郎が、派遣されます。
この大会で、樋口はスピーチをするのですが、社交辞令的挨拶ではなく、「ユダヤ人を追放する前に、新たな土地を与えよ」と、名指しこそはしないものの、ナチスによるユダヤ人迫害への批判を、世界に向けてスピーチしたのです。
多くのユダヤ人が感動し、ドイツ外務省を怒らせ、日独関係の悪化は許されないとする関東軍の中に、樋口罷免を求める声が上がります。

この日のホロスコープですが、T☀と☿は♑。♒入りしたばかりの♃は、樋口のN☽と歩幅を詰めてゆきます。T☽は彼のN♅を刺激。♎を進む☽ゆえに、正義感に焦点があたるでしょう。   
T♅は、樋口が持つ♏の♂♃とオポジション。T♇は、彼の人気運☊とコンジャンクションするため、思わぬ人気を博しますが、より身近とは距離ができてしまう傾向も出やすいのが、千名に出た感じがあります。
そして、これが序章のように、第一の奇蹟は始まったのでした。

1938年(昭和13年)3月8日。氷点下20度を下回るソ連と満洲国との国境にあるシベリア鉄道オトポール駅で、ユダヤ人難民が、吹雪の中立ち往生していると、報告が入りました。当時、ナチスドイツの迫害から逃れるユダヤ人を、ソ連が一旦受け入れました。しかし、逃れてきたユダヤ人たちは、ほぼ全員都市部暮らしで、農作業の経験はありません。極寒のシベリアで農作業や、重労働ができない者たち。そう判断したソ連政府は、すぐに彼らを、凍てる原野に放り出しました。
困ったユダヤ人たちは、ビザがなくても亡命できる国。アメリカへ渡るため、上海を目すことを考えますが、ロシア領と満洲国の境から、上海に向かうには、満洲国を横断しなければなりません。 当時の日本は、アメリカとも、英国とも微妙な状況なため、ドイツとうまくやりたかったのです。そのため日本も、関東軍も、ユダヤ人の入国を認めなかったのです。
極寒のオトポールで、足踏み状態になった難民たちの中には、凍死者も出てしまう状況に陥りました。こうしてアブラハム・カウフマン博士は、支援を求めて、再び樋口季一郎の元を訪れたのです。

軍人としての立場から、樋口も軽はずみなことはできません。国家間の問題等も、重くのしかかる中、自らの進退を覚悟した樋口季一郎は、直属の部下である河村愛三少佐らと共に、即日救護救済に動きました。当時の満鉄総裁松岡洋右に直談判し、満洲鉄道によるユダヤ難民通過の了解を取り付けたのです。
この日の☽は、♊を進み、樋口季一郎のN♆♇とコンジャンクション。♒を進むT♃は、彼の☀とポジションを結び始める配置。♋のラストをゆっくり進む♇は、樋口の♌☊とまだまだランデブー。T☀は♓☿と♀に囲まれながら、♈に向かって行くのを観ると、何かが終わり、新たなことが始まる気配を感じます。

3月12日最初のユダヤ難民たちを乗せた満鉄の特別列車が、ハルピン駅に到着。ビザが発行されました。これは杉原千畝が、リトアニアで「命のビザ」を発行する2年前の事です。

ユダヤ人の間で、南満州鉄道を使っての脱出ルートが、「ヒグチ・ルート」と呼ばれるようになるのに、あまり時間は掛かりませんでした。事態を知ったドイツは大激怒。リッペントロップ外相から、日本政府にきつい抗議文が送り付けられ、関東軍指令部への出頭命令が下ります。
司令部で樋口季一郎と対面したのは、関東軍参謀長の東条英機でした。

「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることを、正しいと思われますか」
臆することなく語る部下の言葉に、東条は深く頷くと、以降、ドイツから来る抗議には、「当然なる人道上の配慮によって行っている」と返して済ませます。参謀長の言動が、軍部内部にあった、樋口季一郎への批判も、沈静化に向かわせました。

その後も多くのユダヤ人たちが「ヒグチルート」を使い、満鉄で満洲を横断して上海に着き、アメリカへと逃げました。当時の満鉄には、高性能な蒸気機関車に牽引された客車(冷暖房完備)特急あじあ号が、ありましたが、戦前のこの技術力が、戦後の新幹線開発に生かされています。
亜旅行会社(現日本交通公社)の記録によると、ドイツから満洲里経由で、満洲に入国した人の数は、1938年だけでも245人。1939年(昭和14年)には551人。1940年(昭和15年)には、3,574人まで増えました。他にも回想録や満鉄の資料などもあり、正確な人数は定かではありませんが、少なく見ても、5000人~1万はあったのではないか。とみています。

「筋さえ通せば、いたって話のわかる人である」戦後、樋口季一郎は、東条への印象をこう述べています。職業軍人として生きてきた東条英機にとって、オトポール事件への対応が、初の国際問題&政治と関わる仕事でした。この後、内地に呼び戻され東条は、第一次近衛文麿内閣の陸軍大臣次官となり、政治と深く関わって行くのです。彼が総理になる時には、日本が開戦する道のりが、整地された後でした。この件は、いずれ東条英機の回で、書きたいと思います。 
樋口季一郎は、1939年(昭和14年)10月。陸軍中将に進級後、同年12月第9師団長となり、金沢へ赴任したのでした。

<第二の奇蹟 キスカ撤退>
1942年(昭和17年)8月1日。樋口季一郎は、北部軍(後の第5方面軍)の司令官として、札幌へ赴任します。彼が赴任する2ヶ月ほど前の6月。日本軍は、アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島の西端に位置するアッツ島と、キスカ島を占領しました。
ミッドウェー作戦の陽動であり、日ソ開戦の際の防衛拠点。アメリカとソ連の連絡の寸断。日本本土への空爆阻止等が、占領の目的です。しかし、ミッドウェー海戦では、アメリカ軍に空母と搭載していた艦載機を沈められ、大敗を期してしまうのでした。
アッツ島&キスカ島は、アメリカ領です。アメリカにとっては、辺境の地とはいえ、領土を奪われた腹立たしさと、日本軍がアラスカを経由して、シアトルに入ってくるのではないかと不安を抱いていました。なので、この2島の占領は、一定の効果はあったのです。

北東太平洋陸軍作戦を指揮する任に着いた樋口季一郎は、早期撤収か、大増援を送るか、どちらかにすべきと主張しますが、申し出は却下されました。当時、大本営を始め、主だった者の意識が、南進を意識していました。その理由は、1年前の1941年6月22日に遡ります。
独ソ戦が始まった際、 同盟国のドイツを助けるため北進するか、石油をはじめとする資源確保のために南進するか。日本は、重要な岐路に立ちました。結んで日の浅い日ソ中立条約を鑑み、尾崎秀美をはじめとする、スパイ活動のイメージ戦略に乗って、南方戦線に舵を切ったのです。
ミッドウェー海戦以降、日本の主力戦は、ガダルカナル島をはじめとする、南方に移り、北の守りは手薄になったのでした。(これを一番、喜んでいたのはスターリンです。)
攻撃を仕掛けてくるなら、アメリカ本土から近いキスカ島が、先という読みから、キスカ島6000人。アッツ島2650人と、守備隊の兵力を振り分け配置しました。

1943年(昭和18年)反転攻勢の準備を整えたアメリカ軍は、艦隊で日本軍とアッツ島キスカ島の輸送ルートを潰し、島に駐留する守備隊の孤立化に成功。その後、アッツ島に11,000人の兵を投入する、奪還作戦を開始したのでした。
樋口季一郎は、大本営に5000人の増援を求めますが、「アッツ島の放棄。キスカ島の放棄」が大本営の答えでした。司令官として、アッツ島守備隊隊長山崎保代に、「敵を討ち、最後の時に至れば潔く玉砕せよ」玉砕を伝える樋口の思い。これを受けた守備隊隊長の山崎をはじめ、日本兵たちは、アメリカ軍が3日で落ちると踏んだ読みを裏切る、19日間の死闘を繰り返して全滅したのでした。
増援も物資も送られないまま、彼らを見殺しにした大本営に、樋口は相当激怒します。
「アッツ島の将兵を見殺しにするのなら、せめてキスカ島からの撤退作戦に、海軍は無条件の協力せよ」と、強烈な要請を出し、ようやく「キスカ島撤退作戦」が実行されるに至ったのです。

時間も犠牲も大きかったアメリカ軍は、キスカ島の奪還には、とても慎重になり、間が空いたのでした。それでも最新鋭機器を使う敵の艦隊が、包囲する海域の救出は、困難を極めます。潜水艦による救出を試みますが、簡単に敵に気づかれて、犠牲を出したことから、霧に紛れて救護艦で撤退する作戦に変更したのです。
樋口季一郎は、陸軍中央にお伺いを立てず、「救援艦隊がキスカに入港したら、大発動艇に乗って陸を離れること。その際、兵員は携行する小銃をすべて、海へ投棄すべし」という旨を、キスカ島守備隊に命じました。
7月26日補給のためアメリカ艦隊が、キスカ湾海域を離れた隙に、濃霧に紛れて救援艦が滑り込み、約5000人のキスカ島守備隊が行われたのです。陸軍の軍人は、菊花紋章の刻まれた小銃を、神聖視していました。それを海に捨てるのは、異例中の異例な命令でしたが、これを実行したことで、全員が身軽になり、撤収時間の短縮、無血撤退の成功に結びついたのです。
帰途、救護艇は、アメリカ艦隊の潜水艦と遭遇し、危機一髪でしたが、彼らは、救援艦の偽装を味方のアメリカ艦隊の船と誤認。すんなりと、素通りすることができたのです。
かくして脱出は成功しました。しかし、「天皇陛下からいただいた小銃を、投棄するなど不敬である!」と、陸軍次官富永恭次中将は、小銃の海中投棄を問題視しました。
命令を下したのが、陸軍士官学校の先輩である樋口だと知ると、歯切れが悪くなり、以後騒ぐことはなかったそうです。こうして樋口季一郎の第二2の奇蹟とも言われる、キスカ島撤収作戦は無事完了しました。このキスカ島撤収作戦には、不思議なエピソードがあるので、機会があれば、動画等、ご覧ください。

1945年(昭和20年)ポツダム宣言受託後の8月15日。日本中に玉音放送が流れました。
大本営は<一切の戦闘行為を停止すること。やむをえない自衛行動は認める。武装解除の完全徹底は、8月18日16時とする。> とする「即時戦闘行動停止等に関する命令」を、各地の日本軍部隊に下します。北海道、南樺太、千島列島を咲く戦地とする、陸軍第5方面軍にも、武装解除の命令が届きました。
北海道で終戦を迎えた樋口季一郎ですが、司令官として、また軍人人生の大半を、ソ連の専門家として過ごしてきた彼には、8月8日。敗戦を目前にした日本に、ソ連が宣戦布してきたことに、ぬぐえない危機感があったのです。既に満州は攻略され、11日には樺太が襲われているのです。
樋口が懸念を抱えた頃、ソ連軍最高統帥部は、北海道上陸を目的とした、千島・南樺太への戦闘作戦を発令。千島列島の北東部からの奇襲上陸作戦を行うため、極東ソビエト軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は、最北端にある占守島出撃命令を下しました。これに併せて第87歩兵軍団が、南樺太に待機。南下の指示を待つ体制だったのです。

<第三の奇蹟 占守の戦い>
第91師団歩兵73旅団が駐留する占守島は、対アメリカ戦を想定して、設けられた拠点でもありました。武装解除を進めながら、故郷に帰れることや、未来を楽しみ語り合う、占守島守備隊の将校たちは、8月17日から18日へと時間が変わる頃、謎の砲声を耳にします。わずかに聞こえた砲声を、当時はアメリカ軍によるものと疑いました。それが激しい艦砲射撃に代わり、午前1時過ぎ、占守島の北端竹田浜に上陸した部隊を見て、ソ連軍の攻撃を認識したのです。

「ソ連軍、占守島に不法侵入を開始」の報が、第5方面司令部に飛び込んだ時、樋口は大日本帝国陸軍第91師団に、「断固反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ。ソ連軍の日本上陸を、水際で食い止めなければならない。もしここで跳ね返さなければ、ソ連軍は一気に南下し、北海道本島にまで迫る勢いを見せるであろう。そうなれば、北海道において、沖縄のような地上戦が勃発することを覚悟しなければならない」と指令を出し、第11戦車連隊に出撃命令を下しました。
深い霧の立ち込める日本の最北端の小さな島占守島で、日本兵約8,500人対、ソ連兵約8800人による、凄惨な戦闘が起きたのでした。樋口は大本営に掛け合い、日本側は戦闘停止のために、ソ連に軍師を派遣しますが、ソ連は応じませんでした。この裏で、大統領になったばかりのトルーマンと、スターリンの間にも、北海道・満洲への権益で齟齬が生じます。
日本軍は最低限の抵抗しかできないまま、完全武装解除となる8月23日まで凌ぎました。日本側の死傷者は、600~1000人。ソ連側が1500~4000人が記録されています。どうにもならない悪天候で、空爆ができないためともいわれていますが、事実なら、状況が味方したのでしょう。
著しい犠牲を出したソ連は、この戦いで、北海道占領計画に、大きく狂いが生じました。
スターリンは、南樺太に待機していた第87歩兵軍団を、択捉島に向かわせて、国後、積丹、歯舞群島を含む、北方4島を奪ったのです。これが現在もなお、続いている北方領土問題の発端でした。

後日、ソ連が占守島を攻めた日の事を、樋口はこう記しています。
<18日は戦闘行動停止の最終日であり、戦争と平和の交代の日であるべきだった。しかるに何事ぞ。18日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵入すると同様の武力的奇襲行動を開始したのであった。掛かる不法行動は許さるべきでない。
もしそれを許せば、至る所でこのような不法かつ無智な敵の行動が発生し、平和的終戦はあり得ないであろう。大本営からの指示では18日午後4時が、自衛目的の戦闘の最終日時となっている。この戦い自体は、疑いようのない自衛戦闘であるが、この日の午後4時を過ぎれば、自衛でも戦ってはいけない。>…そう留意しつつ、占守島守備隊に、独断で出撃命令を出した樋口季一郎。北海道が落ちることを回避するため、武装を解いて、明日には国に帰ろうという、部下たちの事も理解した上で、命がけの戦闘を命じたのです。  
第三の奇蹟と言われる占守島の戦いは、ソ連の北海道侵攻の阻止し、かつての東西ドイツのような、国内の分断を未然に防いだ戦いでした。

1945年8月18日02時でこの日のホロスコープを見ると、
☀♌24°・☽♐13°09・☿♌29°R・♀♋15°4・♂♊16°04・♃♍28°30・
♄♋19°36・♅♊16°53・♆♎4°40・♇♌10°18・☊♋8°12

樋口季一郎のN☀☿と、T☀☿コンジャンクション。但し、T☿R(8/7~8/30)。♋の♀♄コンジャンクションも、生きる喜びにストップをかける傾向はありますが、樋口のN♂とトリン。
N♄とN☽のトリン。T☽は♐を進みながら、♊のN♇とオポジション。厳しい中を勝ってゆくことは伺えます。この☽は、やがて♊にいるT♂・♅コンビともオポジションなので、闘争ということも読むことは可能です。

ウラジオストク特務機関員、ハルビン特務機関長、さらに第5方面軍司令官という経歴をたどってきた樋口は、ソ連(スターリン)が、樺太・千島列島・北海道を取ることで、太平洋に出る拠点と、日本本土への足がかりを作る機会を、ずっと伺っていた事を知っていたのでしょう。
●♄年齢域 57~70歳 1945~1958 (昭和20年~昭和33年)
●♅年齢域 70~82歳 1958~1970 (昭和33~昭和45年)

それだけに、戦後早々、ソ連にマークされたのです。
スターリンは、戦後、極東国際軍事裁判所に、樋口吉一郎を「戦犯」に指名すると、連合国に、身柄の引き渡しを、要求してきたのです。目的は当然処刑でした。
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、これを断固拒否し、樋口の身柄を保護しますが、アメリカ国防総省に、彼の救済を強く求める団体「世界ユダヤ人会議」があっての事でした。
かつてオトポール事件で、樋口に命を救われたユダヤ人たちの中には、アメリカ政府へ働きかけができる立場の人たちもいたのです。
「オトポールの恩を、今こそ返したい」そう願うユダヤ人たちは、世界に向けて樋口季一郎の救済運動を展開。東西冷戦の幕開けでもあるこの時期、アメリカ国防省も、これを無視できなくなりました。♄は必要なものは、必ず残すし、長い年月をかけて、贈り物をくれる性質がありますが、これも一つの例なのでしょう。惜しむらくは、怒るドイツをけむに巻き、陸軍内で不問に付した、オトポール事件の理解人東条英機の存在が、彼らに伝わっていなかった事です。

1946年(昭和21年)北海道の小樽市で過ごした後、樋口は宮崎県都城市に移り住み、多くを語ることなく、語学と読書を深める日々でした。ご家族のお話では、アッツ島の絵の前で、毎朝戦死者の冥福を祈っていたそうです。
1970年(昭和44年)東京都文京区に転居。家族と共に暮らす日々を過ごし、樋口吉一郎は静かに人生の幕を閉じました。

イスラエルの首都エルサレムには、ユダヤ民族に貢献した人物の名を記し、その恩を、永久に称え、記憶するゴールデン・ブックが、保管されています。モーセや、アインシュタインの名と共に、樋口季一郎の名が、この本の4番目に刻まれているそうです。
その次に、カウフマン博士と、樋口の下で、必死にユダヤ人たちを救済した部下、安江仙弘の名前が、続いているという事実を、私たち日本人は、杉原千畝同様の人物像と功績と同じように、もっと知ってもよいのではないでしょうか。

1945年2月。ヤルタ会議(クリミア自治区にあるリヴァディア宮殿)は、イギリスのチャーチル首相。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領・スターリン書記長の間で行われたものですが、米ソヤルタ密約協定(極東密約)では、ドイツ敗戦の90日後、日本への宣戦布告と、千島列島・樺太・北海道を、ソ連がもらう話が着いていたのです。ルーズベルトは、満洲の権益も含めたソ連の要求を、丸呑みする気はないものの、日本の降伏には、ソ連の協力が必要でした。

ドイツをどうにかしたくて、当初、アメリカを参戦させたかったイギリスのチャーチル。自国から戦争は行わない。防衛戦を公約に再選したフランクリン・ルーズベルト大統領は、行き詰った経済政策と失業率をなんとかしたかったのです。
二人は、既に手を組み、太平洋に出る拠点と、世界赤化を理想とするソ連も、アメリカとイギリスをうまく利用。日本が欧米社会から孤立し、経済封鎖されることで、南進の末、敗戦するように仕向けた経緯が、大東亜戦争の背景にありました。
日本に戦争を決意させる「ハル・ノート」の素案作成に携わった、財務省官僚ハリー・ホワイトが、ソ連のスパイだったことは、既に明らかになっていますが、当時多くの日本人は、それを知ることなく、あの時代を過ごしたのです。
戦後は、「先の大戦は、日本が一方的に侵略したものである」という自虐史観だけが、刷り込まれますが、これは「大東亜戦争」という呼称を禁止した、GHQによる影響が大きく、それゆえに、本来知らなければいけないことや、大切な時代の記憶を埋もれさせてしまった。
樋口中将の存在と功績。各国の事情を知った時、そう筆者は考えたのです。