陸奥宗光ホロスコープ

ネイタルデータ
1844年8月20日12時設定 紀伊国和歌山(現・和歌山県和歌山市)生まれ。
☀星座♌27°08
☽星座♏14°23 (24h☽のふり幅♏7°20~♏21°26)



♌をバックグラウンドに第1室本人の部屋は☀♂の合。生時間不明なので、☽は正午取りの♏14°ですが、一日の☽のふり幅を見る限り、☽星座は♏で決定。

☀♂は、第7室(契約の部屋)♒の♄♆とオポジション。第9室(精神の部屋)♈の♇とは、スクエア。尚、第9室には、チャンスに強い♃♅の合も備わっていて、追及のステリウムが織りなす、鉄火なホロスコープ。志向は海よりも深いく、頭の回転が速いので、クールダウンは可能ですが、やる気とバイタリティーがすごい分、自尊心強く、筋が通らないことには納得しない。理屈っぽい。思い込み激しいから、喧嘩も辞さない傾向あり。

♃以降☊まで、すべてRであることで、本来の持ち味が、素直に出るかは微妙な所ですが、引き算としの効力になったから、手練手管の外国勢を相手に、交渉ができたのかもしれません。(惑星の逆行については、イギリス式西洋占星術だと、かなり重きを置きますが、ドイツ式は逆行概念が無いため、私は引き算要素や参考程度に見ています)

第2室(金銭所有の部屋)♍☿が、第12室(障害溶解の部屋)♋の♀と穏やかなアスペクトを取っているので、記憶力抜群な知的な言動を好み、学術的な追及心だけでなく、情愛深く、献身的な一面も持ち合わせています。自己基準の潔癖さが強く出ると、人を嫌うとなると極端な態度に出るかもしれません。

♅は♄と。♇は♆と、どちらも柔軟性のあるアスペクトを結び、♃♅は、第5室の☊と相互扶助的調和。義理堅さや、志向性の合う仲間のため、知性も行動力も惜しみなく使う効果をもたらすでしょう。♄は陸奥宗光の運勢の背骨の役目の一つを果たしている星のようで、♀とはオポジション。

♏の☽は思考の深さを物語りますが、♌の♂。♒の♆とスクエア。そのため、どこか安定感に欠け、波浪警報気味。成功するけど、苦労の影が付きまとうのも見え隠れします。

略年表 (ウィキその他、資料参照)

1844年8月20日(天保15年7月7日)紀伊和歌山。紀州藩士伊達宗広と妻政子(渥美氏)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。伊達小次郎・陸奥陽之助とも称した。本編は陸奥宗光、陸奥、宗光、で表記。
1852年(嘉永5年)勘定奉行であった父が、藩内政争に敗れて失脚。一家は困窮生活となる。
1858年(安政5年)江戸へ出て安井息軒(飫肥藩士・儒学者)に指示。吉原通いがバレて破門。水本成美(薩摩藩士・律令学者)に学ぶ。
1862年(文久2年)京都へ向かい、土佐藩の坂本龍馬と出会う。長州藩の桂小五郎(木戸孝允)に伊藤俊輔(伊藤博文)等、勤皇派の志士と交友を広げる。
1863年(文久3年)泊園書院(現・関西大学)で学ぶ後、神戸海軍操錬所入り。
1865年(慶応元年)龍馬と共に長崎へ赴き、亀山社中創設に関わる。
1867年(慶応3年)12月10日(11月15)坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件。
1868年1月1日(慶応3年12月7日)天満屋事件。新選組と斬り合う。(明治元年)岩倉具視に目をかけられ、外国事務局御用係を任される。
1872年(明治5年)2月蓮子夫人死去。新橋で売れっ子だった芸妓亮子と結婚。地租改正局長となるが、薩長藩閥政府に嫌気がさし、官を辞し和歌山へ帰る。
1875年(明治8年)大阪会議。元老院議官となる。
1877年(明治10年)西南戦争勃発。これに乗じて林有造・大江卓らが、国家転覆を図る際、土佐派と連絡を取り合っていたことが、翌年に発覚。
1878年(明治11年)除族・禁固5年の刑で山形監獄へ投獄。山形監獄の火災のため、宮城監獄へ移送。(伊藤博文の計らい)
1883年(明治16年)1月出獄。伊藤の勧めで欧州留学をする。
1884年(明治17年)ロンドンで西洋近代社会の仕組みの猛勉強。ウィーンでローレンツ・フォン・シュタインに国家学を学ぶ。
1886年(明治19年)2月帰国。10月外務省に出仕。
1888年(明治21年)駐米公使となる。同年駐米公使兼メキシコ合衆国公使となり、日本初平等条約となった日墨修好通商条約を締結。帰国後、第1次山縣内閣農商務大臣に就任。
1890年(明治23年)7月第一回衆議院議員総選挙和歌山1区から出馬。初当選。
1891年(明治24年)帝国議会で田中正造から、足尾銅山鉱毒事件の質問主意書をうける。5月第1次松方内閣に留任。内閣規約を提案。薩摩派と衝突で辞任。11月後藤象二郎・大江卓らの協力を得て、日刊新聞「寸鉄」を発刊。
1892年(明治25年)3月辞職枢密顧問官となる。8月8日第二次伊藤内閣発足し、外務大臣に就任。
1894年(明治27年)5月甲牛農民戦争による清への派兵。7月16日イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。領事裁判権の撤廃に成功。以降、陸奥が外相時代に、アメリカ・ドイツ・フランス・イタリア等、15か国と条約を改正。7月23日朝鮮王朝占拠による新日政権の樹立。7月25日豊島沖海戦による日清戦争開始。
1895年(明治28年)4月17日伊藤博文と共に、全権として下関条約を調印。4月23日三国干渉。日清戦争の功績で、陸奥宗光伯爵となる。4月25日伊藤博文達と、枕元で閣議内容を決める。
1896年(明治29年)外相を辞任。兵庫県舞子から、大磯の別邸に移り、療養生活。
1897年(明治30年)8月24日肺結核のため、死去。享年53歳(満年齢)

宗光惑星history

※彼の生まれ故郷の紀州藩と、ベーシックな幕末史にも触れています。

☽年齢域 0~7歳 1844~1851年天保15年~嘉衛4年

陸奥宗光は、1844年(天保15年)8月20日。紀州藩藩士伊達宗広と妻政子(渥美氏)の六男として、生まれました。伊達家といえば、伊達政宗を連想しますが、宗光の家系は、駿河国に土着した駿河伊達氏(今川義元の家来)の分家で、紀伊伊達家です。
宗光の父伊達宗広は、元10代藩主徳川治宝(舜恭公)の信任厚く、役職は勘定奉行。やり手で、家老の山中筑後守を補佐し、藩政改革を進める「和歌山派」の中心的存在でした。

紀州藩と言えば、徳川御三家の大藩ですが、1619年(元和5年)に改易するまでは、外様大名の浅野家が納めています。代わって、駿府城主の徳川頼宣(徳川家康の十男)が、新たな城主となったことから、徳川御三家(家康の直系)の領地となった経緯があります。第5代藩主を務めた徳川吉宗(暴れん坊将軍!)が、第8代将軍となって以降、何人もの将軍を送り出す名門でした。

宗光の家は徳川親藩の一つに使える上級武士だったのです。つまり、いい家のお坊ちゃま。清廉な人柄と、国学者・歴史家として知られる父を尊敬する宗光は、その影響を受けて、勤皇思想に傾倒してゆきます。

☿年齢域 7~15歳 1851年~1859年 嘉永4年~安政6年

1852年(嘉永5年)舜恭公と家老の山中が、相次いで病死すると、権力闘争が激化。江戸詰めの御付家老・水野忠央が、藩の実権を握ります。幼き紀州藩藩主徳川慶福(第14代将軍徳川家茂)を、補佐する「江戸派」の水野は、伊達家の家禄をはく奪。藩内に危険思想を広めた危険人物として、伊達宗広を捕縛。流刑に処したのです。残された家族は、城下から追い出してしまいました。

あまりの仕打ちに激怒した宗光は、幼いながら、刀を取って大泣きしたという逸話が残っています。四方に流浪する生活が続く中で、宗光は朝な夕なに復讐を、口にしていたそうですが、それだけ家族仲が良く、大切に育てられてきたのでしょう。
宗光☿年齢期に入って間もなくの急変で、宗光のN☽に、T♃が合。(この年、♃は♏にあったのですね)さらに♏の対岸となる♉に、進行中の♇♅♄が揃い、まさに所有に関するものの根底を、覆す星の並びと言っていいと思います。

翌1853年(嘉永6年)は、アメリカ合衆国大統領の命で、日本に開国を求めたペリー提督が、4艘の蒸気船で浦賀沖にやって来た「黒船来航」の年ですが、♉を進む♇♅♄。
♄は28°を進んでいて、フィニッシュ状態。占星術的には、歴史的根底を覆す効果を発揮したのかもしれません。
技術革新と蒸気機関の開発に成功したことから、市場の拡大と、植民地の確保のため、世界の海に乗り出し欧米。その影響で、江戸時代の日本近海に、諸外国の船は来ていたのです。基本的に鎖国な江戸幕府。国内は「攘夷」カラーが強いし、既に外国船打ち払い令を出しているし、という事で、これまでは済んでいました。

1840年(天保11年)アヘン戦争が起こり、アジア最強と謡われた清が、イギリスにボロ負け。これを知った幕府上層部は青ざめ、他国と日本の国力差を疑い、いつまでも同じ状況が続かないことを、懸念する人たちも出てきます。そこに長年に渡り限定的な交易を続けていたオランダから、「近い将来、開国を求めてアメリカの蒸気船がやってくる」と、知らされましたが、忠告を活かす間もなく、その時を迎えてしまったのが、「黒船来航」ともいえます。
第12代将軍徳川家慶の体不調を理由に、一年という期限付きで、ペリー提督に一旦お帰りを願った幕府。江戸湾に砲台を設置しつつ、ペリーの書簡を、幕府は朝廷や大名のみならず、庶民に至るまで公開し、広く意見を求めたのでした。

何百年も御所の外に出た事のない朝廷からは、孝明天皇は大の夷人嫌いなのもあって、「夷人打つべし」。勤皇を旨とする武家の姿勢に、頭を抱える幕府を、さらに追い込む問題が発生します。第12代将軍徳川家慶の死去後、第13代将軍徳川家定が、就任して間もない翌1854年3月31日(嘉永7年3月3日)。一年と明けずに、今度は7艘の巨大艦隊を引いて、ペリー提督がやってきたのでした。
第13代大統領フィルモアの親書を手に、浦賀の地元役人など相手にせず、空砲で脅し、「江戸湾に行って上様に会う!」と押し切るペリー提督。不明瞭な先延ばしにも応じないその態度に、筆頭老中の阿部正弘が対応。「日米和親条約」(正式名称・米利堅合衆国和親条約)を結ぶに至ったのでした。

ここに徳川幕府の鎖国政策は、終わりを告げ、下田と函館の港が開かれるのですが、不平等条約の始まりでもあったのです。
和親条約を結んだ幕府に対し、公家はもちろん、尊王思想の強い水戸藩(徳川御三家)をはじめとする一部の大名、下級武士も、不信と不満と怒りを募らせ、条約破棄と、外国人を追い払う事を要求します。その声の広がりが、尊王攘夷活動となり、急進的な公家と、尊王の志士たちを結び付けていきました。

4年後の1858年(安政5年)年6月19日(安政5年7月29日)総領事のタウンゼント・ハリスと、開国派の家老松平忠固によって、アメリカとの貿易条約である日米修好通商条約が締結。かなり簡単に言うと、下記のようになります。
1, 港を開く。下田と長崎の他、横浜・新潟・神戸・長崎に拡張。
2,領事裁判権の取り決め。外国人が日本で罪を犯した場合、その本人の国の法で裁く。
3.関税主権の放棄。他国のものを輸入し、販売する際、その商品にかける関税や利率を決める権利が日本にはない。

勅許無視の調印は、井伊直弼が結んだものではありません。が、大老という幕府の責任者なため、彼は非難と誤認の矢面に立ったのでした。これ以降、日本に修好通商条約を求めて、ロシア・イギリス・フランス等の列強国が、雪崩のごとく押し寄せ、世に言う「安政の五ヶ国条約」となるのです。内容は日米修好通商条約と変わりませんが、「片務的最恵国待遇」という項目が増えました。これは他国と平等な条約を結んだら、自分たちの国も、最恵国待遇にも同じような扱いする。「片務的」なので、一方的で、日本にその権利はないという契約なのです。

公家は「外国を打ち払え」と激怒。「外国に脅しに屈する弱腰幕府」と、武士たちの尊王攘夷活動も活発化しますが、この時点の日本が、巨大な蒸気船と銃火器を前にして、武力で勝てる見込みはなく、戦えば他国の植民地となる現実を悟っている幕府は、条約を結ぶ以外、選択肢はなかったのでした。
1858年は宗光にとって、☿年齢域のフィナーレともいえる年で、儒学者になることを志して、単身江戸へ上京しています。まだ未成熟な時期に、肌で歴史の激変を感じたのでしょう。この年の12月。2歳年下の紀州藩藩主徳川慶福が、第14代徳川家茂将軍に就任してゆきます。

広がる対人関係♀年齢域 15~24歳 1859年~1868年 安政6年~明治1年

少年宗光。安井息軒の門下生となり、儒学を学び始めますが、吉原通いがバレ、安井塾を破門されました。江戸にとどまり、漢方医の元でバイトや、高野山の江戸出張所の寺男などで、日銭稼ぎをしながら、独学に励んだようです。
1861年(文久元年)土佐藩主山之内容堂の口利きで、伊達宗広の流刑が解かれました。
伊達家は紀州藩に復帰し、辛苦をなめる生活に、終止符が打たれたのです。江戸で暮らす宗光は、水本成美に師事したのは、この頃と推察。

復職した宗広。家督を息子の宗興に譲りますが、紀州藩への思いが失せていたのと、尊王攘夷活動に身を投じる気持ちが相まって、翌年には親子そろって脱藩します。それを知った宗光も脱藩し、京へ向かいました。
♀年齢域は、出合の拡張期でもあります。京に着いた宗光は、父の元を訪ねてきた坂本龍馬と会いました。長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)に、土佐藩の板垣退助とも,縁を持ち、勤皇の志士たちと活動を共にするようになったのです。
「この男、きっと大きな仕事をするぜよ」宗光を見て気に入った龍馬は、自身が塾頭を務める「海軍操練所」誘います。泊園書院(現・関西大学)で再び学問に取り組んでいた宗光は、思い切って勝海舟が仕切る「海軍操練所」に入りました。

学習能力高く、上級武士の家の子息な宗光。しかも弁が立つので、上ケ関係なく人をやり込めてしまうし、態度は尊大。周りから見たら、イヤなヤツと感じることもあったのでしょう。最初は対人関係に馴染めなかったようです。
これに関しては、♌な☀♂が、♈の♇とアスペクトを持っているのもあって、自信家で言葉は自然と強め、どこか態度がでかくなりやすいのかもしれません。龍馬と勝海舟が緩衝材となってくれなかったら、対人関係でいられなくなったかも。自己調節できるほど、まだ大人にはなっていなかったともいえます。

1865年(慶応元年)勝の軍艦奉行解任と共に「海軍操練所」が閉鎖となると、龍馬と共に宗光は、長崎へと移動しました。薩摩藩と長崎の豪商たちによる出資で、貿易・教育・出版・輸送等を請け負う「亀山社中」(後の海援隊)を立ち上げたのです。
集まる者のほとんどが、脱藩者(当時脱藩は犯罪者)という、これまでの武家社会にはなかった、ベンチャー企業のような組織でした。龍馬が豪商の女性から借りた借金の形に、一旦宗光を連れていかれる珍事も含め、20代を迎えて伸び盛りの時に、商務の現場経験を積んだのは、黄金期でもあったのでしょう。英語を習ったのもこの時期と言われています。

龍馬いわく「二本差さなくとも、食っていけるのは俺と陸奥だけだ」
陸奥いわく「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物。大空を翔る奔馬だ」と、双方の信頼度の厚さを物語る言葉が残っています。
その「亀山社中」が、土佐藩のバックアップを受け「海援隊」となる頃、大阪で芸妓をしていた女性、最初の奥さん蓮子と結婚した模様。

1867年11月9日(慶応3年10月14日)第15代将軍慶喜によって、大政奉還が行われました。これは徳川家政権の終わりだけでなく、約700年にも渡る武士の政権を、朝廷に返す宣言と、受理されるまでを指します。
その中身は、坂本龍馬・後藤象二郎が考え、土佐藩主山之内容堂を通して、慶喜公に送られた建白書だったのですが、佐幕と勤皇に別れての国内闘争が、長期化するほど国が疲弊する。それが海外勢に武力侵攻の隙を与えかねない事は、慶喜も懸念していました。
国防も政治も、700年武家に任せてきた朝廷も、政権を返えされたところで、今すぐ何もできません。外国と関わることを考えても、慶喜を中心とした幕臣たちが、これまで通り政治を継続する方が、負担も少なく済みます。

双方の利を鑑みて、慶喜の立場、幕臣に寄る政治形態は続行。ということで話は落ち着いた大政奉還なのですが、これによって、振り上げた拳の降ろしどころを失ったのが、勤皇派の面々だったのです。
「打倒徳川」のため、急遽画策。王政復古の大号令を打ち出し、新政府の政治体系を、合議制に変えたのでした。新政府のメンバーに、徳川慶喜を入れず、同時に徳川家の領地削減が、加味されています。西郷隆盛は、幕府側から戦端を開くよう、赤報隊を使って、江戸で辻斬り強盗、放火など凶悪犯罪を起こし、「薩摩藩憎し」の雰囲気に釣られた庄内藩が乗ってしまったのでした。
世の中が騒然とする12月10日(慶応3年11月15日)京都では、坂本龍馬と中岡慎太郎が、何者かに襲撃され惨殺されてしまったのでした。世に言う近江屋事件です。

龍馬を殺されてブチ切れた宗光。半年ほど前に起きた「いろは丸沈没事件」で、龍馬から多額の賠償金を取られた、紀州藩による犯行と断定すると、復讐のために、海援隊の同志と、紀州藩公用人の三浦休太郎をつけ狙いまわします。
「いろは丸事件」とは、海援隊が伊予大洲藩から借り受けた船「いろは丸」と、紀州藩の「明光丸」が、瀬戸内海で衝突事故を起こした船舶事故です。詳しい経緯は省きますが、手段選ばずの方法で紀州藩を追い込み、多額の賠償を取った龍馬。恨まれても不思議はない状況ではありました。

1868年1月1日(慶応3年12月7日)ついに、三浦が泊まる宿を襲撃。いわゆる「天満屋事件」を起こします。天満屋事件の際に、三浦をガードしていた新選組の隊士7人の中に、斎藤一と大石鍬次郎という手練れがいて、凄まじい斬り合いになりました。双方、犠牲が出て、三浦も負傷。因みに宗光、剣の腕は微妙ですが、海援隊のメンバーが強かったのか、龍馬への思いが強かったのか、新選組を相手に激闘しています。

時代の変革の中突き進む☀年齢域 24~34歳 1868年~1878年 明治1~明治11年

1868年(慶応4年・明治元年)は、宗光の☀年齢域が始まる年でもありました。
天満屋事件の直後、鳥羽伏見の戦いが起きます。討幕の戦火が上がる時、海援隊が自壊して、行き場のない宗光は大阪に赴き、イギリスのパークス公使と会見します。
提出した意見書を見た岩倉具視は「こいつ、仕事できる」と判断。宗光を外国事務局御用係に抜擢しました。売り込みに成功した宗光。

局外中立だったアメリカと交渉し、鋼鉄船ストーンウォール号引き渡しを、前倒しすることを可能にしますが、財政的に脆弱な明治新政府に、未払い分の約10万両が払える見込みなし。すると、すぐに大阪商人の元へ赴いて、交渉の末、一晩で必要額を借り受けました。この辺りは、海援隊で培われたノウハウもあると思いますが、商人とのパイプを持つ宗光。すっかり岩倉に気に入られました。(岩倉も実力主義の不動宮なので、その辺り、気が合ったのかもしれません)
こうして新政府で仕事をこなす日々、宗光の元に、紀州藩第14代藩主徳川茂承からの使いがやって来ます。

幕末の紀州藩ですが、幕府から「長州征伐」の時、巨額の出仕&出兵を求められます。第14代将軍徳川家茂は、元々紀州藩主。イヤとは言えません。奮闘しました。ところが特に感謝もされず、第二次長州征伐では、慶喜とのそりが合わず(これは井伊直弼と家老の水野が原因と思われますが)、さらに家茂は亡くなる。で、幕府との距離が微妙となったのでした。
「鳥羽伏見の戦い」に際しては、藩主の病も重なり、不参戦を決めこみます。しかし、戦に参戦して負傷し、領地に逃げ込んできた兵たちに対しては、誰であろうと構わず、受け入れ、手当を惜しみませんでした。その数5,700人と記録されていますが、藩をあげて、多くの負傷兵のために、治療と休息の場を整えました。どこまでも武士の情けで行った救護活動ですが、これが、新政府軍の疑惑と不況を買ったのです。

「錦の御旗に背く逆賊」「やはり紀州も徳川。討伐だ」と言われた藩主徳川茂承は、病身の身を押して、新政府への恭順の意を伝えるべく、藩兵1500人の提供と、軍資金15万両の献上を進言しますが、取り合ってもらえなかったのです。
京都本法寺で軟禁となった茂承公は、藩民救済のため、新政府軍と話の出来る者を求めました。その結果、家老水野が手ひどく扱った伊達宗広の息子、陸奥宗光が、新政府のトップと繋がって働いている情報をキャッチ。怒りやすく、一筋縄ではいかないことも、承知の上で、藩を救うためにお殿様は、宗光を呼んだのでした。
謁見の時、殿様も宗光も25歳(同年生まれです)。

紀州藩に対して、わだかまりありありの宗光。殿さまの顔を観ても、最初は嫌味タラタラでしたが、藩の討伐は、多くの人の命が失われる事にもなります。過去への非礼を含めた殿様の真摯な姿に、新政府に取り次ぐことを約束しました。
殿様の了解を得た上で、土佐藩の重臣後藤象二郎に相談。藩兵500名をまず手土産に、一回の大金を出すよりも、紀州藩を丸ごと新藩政改革のモデルケースにすることを、岩倉に進言したのです。

江戸時代の地方分権型だった社会構造を、根底から取り壊し、中央集権型に変える明治時代。明治初頭、新政府はこれから、廃藩置県をはじめ、税制その他、様々な改革を行って行くのですが、すべて前例のない事ばかり。宗光の提案は、その改革のひな形、モデルケースに、紀州藩を使う話なのです。
「モデルケースに一藩使えるのいいじゃん!」と、提案を受け入れた岩倉。こうして紀州藩は、討伐の難を逃れることができたのでした。喜んだ殿様は、褒美として宗光に1000石を与えると伝えますが、これは辞退。その後、宗光は兵庫県知事や、神奈川県令なども務める傍ら、薩長カラーの強い明治政府とギクシャク。

1872年(明治5年)から翌1873年(明治6年)は、二人の息子を残して、蓮子夫人が亡くなり、再婚をするというプライベートも大きな変化のある年です。
再婚相手は金田亮子。陸奥宗光と言えば、才識兼備な亮子夫人は有名。イギリス人公使アーネスト・サトウが絶賛。検索すれば、すぐに端正な横顔。成人した広吉(長男)と、家族三人で写る写真を見る事が出来ます。
江戸産まれの旗本の娘ですが、妾の娘という立場から、幼少期はあまり恵まれた環境ではなく、明治初頭の頃、新橋の「柏屋」に入り、芸妓となったそうです。小鈴という名で、板垣退助の愛妾子清と、新橋で一二を争う売れっ子芸妓でした。

1856年(安政3年)11月生まれ。宗光と結婚した時の彼女の年齢が17歳というので、年号は合っていますが、誕生の日が不明確なため、ホロスコープは取れません。ただ面白いことに、彼女が11月前半から中旬の生まれなら、誕生星座は♏。そう、宗光の☽は♏です。男性にとって、☽は理想の妻像でありますから、ほれ込むだけでなく、情熱的でありながら、どこかミステリアスな雰囲気を纏う彼女を、妻に迎えたのも、☽が関わっているのかもしれません。

器量も頭もよく意志も強い亮子夫人。ですが、前妻の息子が二人いるところに嫁ぐだけでも、気を使うのに、自尊心の塊な気質から、薩長の藩士たちが、能力に関係なく役職につくと、自分の立場に差がつけられたと感じる等、不満を貯めた末、役人をやめて和歌山(旧紀州藩)へ帰ってしまう宗光との結婚。よく決意したし、がんばったと思います。
故郷に帰った宗光は、和歌山藩大参事の津田出(つだいづる。維新三傑+1と言われた津田のことは、いずれまた)と一緒に、さらなる行政改革を進めました。確かに紀州藩の改革は、廃藩置県や徴兵制など、明治の改革に、影響を与えました。が、あまりにもすごすぎて、国家転覆でもするのか?と、明治政府は、不安に思えるほどだったそうです。

1873年(明治6年)西郷隆盛や板垣退助を中心とする征韓論派は、明治六年の政変を起こし、明治政府を離れました。別件で木戸孝允も、一度明治政府を離れます。
西郷は鹿児島へ帰って、次世代育成に力を注ぎ、板垣は土佐に帰り、愛国公党を結成。より多くの人が政治に参加できる選挙制度を目指し、国会の設立を要求する「自由民権運動」を起こします。この運動が、瞬く間に全国に広がるのを気にした大久保は、木戸と板垣の二人を呼んで「政府に戻って来いよ」を行う大阪会議を開きました。

「憲法に基づいた政治体系を作るなら」という約束を取り付け、二人は治政府に復帰しますが、その際、宗光は政府と民権派の間で設置された元老院の議官に付いています。若い頃、龍馬にかわいがられ、亀山社中の立ち上げから、海援隊と、一緒に働いた仲間もいる宗光が、旧土佐藩との繋がりが深いのは、不思議はないのですが、これが両極端な効果となって出てくるのです。
1877年(明治10年)土佐立志社は、西南戦争に乗じて国家転覆を企て、これに連座したことが、翌年露呈。こうして宗光は、除族。禁固5年の刑を喰らったのでした。

カミソリ再び覚醒 ♂年齢域 35~45歳 1878年~1889年 明治11年~明治22年

山形監獄へ収監された宗光。何をしたかというと、こまめに亮子夫人へ手紙をしたため、自書も書き、さらにイギリスの功利主義哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳に打ち込みました。食事なども、配慮されて待遇はかなり良かったといいます。これは、当時内務卿だった伊藤博文の配慮。好きなだけ本の取り寄せOKと、なった宗光は、看守が体の心配をするほどの熱心さで猛勉したそうです。

この山形監獄で火災が発生した際、陸奥宗光死亡説が流れた後、誤報とわかり、ほっとした伊藤博文は、八方手を尽くして、当時最も環境の整っていた宮城監獄へ、宗光を移動させたのでした。そして1883年(明治16年)1月。特赦によって出獄を許されます。
板垣退助から「自由党」へと、熱い誘いもありましたが、伊藤博文の勧めで、欧州留学を決意。1884年(明治17年)ロンドンでは、内閣制度の仕組みや、議会の運営等、西洋近代社会の仕組みを知るため、ここでも猛勉強を開始。その時のノート7冊は、現存しています。ウィーンでは、ローレンツ・フォンシュタインの国家学を学びました。

1886年(明治19年)2月。帰国後、宗光は自由党に入らず、さりとて関係は切らず、外務省に出仕します。さらに1888年(明治21年)駐米公使となった宗光は、亮子夫人を伴い渡米しました。同年、メキシコ合衆国の公使も兼ねることとなった宗光。日本が欧米諸国との間で、初めて結んだ対等条約「日墨修好通商条約」の締結に成功します。

お茶にお花にダンスに語学と、駐米公使の妻として、申し分ないスキルを身に着け、楚々とした立ち居振る舞いを見せる亮子夫人は、「米社交界の華」と称賛されました。夫婦そろって顔立ちもいいし、堂々としていたので、人気上々の陸奥夫妻。日本国内では、黒田内閣が総辞職。第一次山縣有朋が発足となり、帰国を即されて帰ってみれば、一転二転の末、どうにか農商務大臣に就任したのでした。

悲願の条約改正♃年齢域 45~53歳 1889年~1897年 明治22年~明治30年

1890年(明治23年)第1回の衆議院議員総選挙が行われました。
和歌山県第1区から出馬した宗光は初当選。日本の議会史上初、衆議院議員の閣僚となったのです。選挙結果は、自由党に改進党といった野党が、議席を獲得したことから、第1回の帝国議。予算審議を巡って、最初から荒れ模様が予測されました。
宗光の入閣には、農商務大臣というよりも、会の円滑な進行(国会対策)を期待した策士山縣。海援隊時代からの友人、中島信行が議長を務め、部下だった星亨は、自由党の実力者ということもあって、陸奥を介して、自由党土佐派の切り崩しを図り、予算審議を乗り切ります。

この時、農務省大臣の秘書を務めた原敬(後の平民宰相)は、以降、宗光が亡くなるまで行動を共にしています。彼の書いた「原敬日記」から想像するに、人を小ばかにところとか、性格もやや似ているかもしれませんが、陸奥の思想を、一番色濃く受け継いだ人物と言っていいでしょう。
1891年(明治24年)宗光の次男、潤吉は足尾銅山の経営者の養子となっていたことから、帝国議会で足尾銅山鉱毒事件に関する質問書主意書を、田中正造から受け、質問の趣旨がわからないと言う回答を返しています。この年発足した第1次松方内閣では、農商務大臣を留任して、内閣規約の提案を行いました。自ら政務部長を努めますが、ここで薩摩派とぶつかり辞任。後藤象二郎や大江卓の協力で、日刊新聞「寸鉄」を発行して、松方内閣を批判した後、翌年3月辞職。枢密顧問官となります。

1892年(明治25年)第2次伊藤内閣すると、陸奥宗光ついに外務大臣に就任します。
着手したのは、明治政府の悲願であり、開国以降の大懸案「条約改正」。交渉国にはイギリスを選びました。当時絶対的な強さを持つ英国さえ説得できれば、他国はそれに倣うであろうとの算段があったのです。

1894年(明治27年)4月ロンドンで本会議まで持って行きますが、国内は今でいう相各不信任案が出てきて議会は揉めました。さらに6月初日、在朝鮮日本公使館から宗光に、朝鮮政府が内乱鎮圧のため、清国へ援兵を要請したという一報が届きます。
内閣の対立と、朝鮮を巡る海外との対立。かなり胃の痛い状況ですが、これを好機捉えた陸奥宗光。閣議の席で、在朝鮮日本公使館の一報を公開。有栖川宮参謀総長と、陸軍参謀次長の川上操六中将が臨席している上で、朝鮮での勢力均衡を維持するための派兵を求めます。さらに衆議院の解散を畳みかけ、ほぼ力業で可決に持って行きました。
議会の後、宗光と別室で打ち合わせをした川上中将「世間が、おはんのことをカミソリ大臣というのが、わかりもうした」と言ったそうです。

政治側から、日清戦争のアプローチを仕掛ける陸奥宗光。条約改正も同時進行というか、むしろ日清戦争を、イギリスとの交渉材料にしたのでした。
近く日清戦争が起きた際、「当然我が国は、国際法を守って、英国居留地に住むイギリス人の、生命と財産を守る意思がある。故に条約の改正をお願いしたい。もしも我々を文明国と認めずに、条約の改正を行わないのであるならば、文明国ではない我が国日本が、国際法を守る義務はないということになります。英国居留地の保護の義務もないというに、なってしまいますが・・・」と、今風に言えばこんな感じでしょうか。

ついに7月16日日英通商航海条約が、締結されました。1854年に結んだ不平等条約以降、多くの政治家が挑んだ条約撤廃という難関を、40年の歳月をかけて、日本はようやく一つクリアし、国際社会の一員となったのです。この後、当初の目論見通り、アメリカ・ドイツ帝国・フランス・イタリア王国等も、日本との条約改正を承諾。宗光が外務大臣を務めている間に、過去、条約を結んだ15か国すべての国との間で、条約の改正が進みました。
(関税撤廃は、陸奥が拾って面倒をみた、小村寿太郎が行います、これはまた別の機械に)
この日の星周りですが、☀は♋を航行。☿は♌に入ったばかり。♎に♄。♏に♅。♑の☽。♈には☊と♂。♊には、♇♆♀♃と、賑やかさをアピールする感じで、入っています。☀☽が、カーディナルサイン(活動宮)なので、何かと活発化するのも、頷けます。T☀に宗光のN♀コンジャンクション。N☿が
セクスタイル。N♇とはスクエア。N♄とはオポジションと、メジャーアスペクトをしっかりとり、本人が持つ惑星に、クラブハンマーで古いものを壊す☀が、光を当てているともいえます。宗光にとって、プライドの元ともいえる♌N☀には、♊のT♃がセクスタイル。リアリストな♑のT☽が、トリン。N♃♅には、T☊がコンジャンクション。N♅と♇は,T
♂とコンジャンクション。他を観ても、宗光かなり強気有利な配置。♆同士のトリンもあるので、国際情勢をこえた揺らぎも視野に入れていいでしょう。
7月25日豊島沖開戦によって、ついに日清戦争が始まりました。(この辺りは、東郷さんの回で書いているので、気になる人はそちらを見てください)
議会は挙国一致。野党との対立も解消。宗光は畳みかけるように、開戦外交を推し進めていきます。イギリスとロシアを中立化させて、対清強硬路線を進めたその外交力から、「陸奥外交」の名を生みました。
李鴻章が和平を申し込んでくる状況で、日清戦争は日本圧勝に終わったのです。伊藤博文と共に、全権大使となった陸奥宗光は、「朝鮮の独立」「遼東半島・台湾・等の日本の割譲」「賠償金二億両」を巡る「下関条約」の和平交渉に臨みます。
1895年(明治28年)4月17日日清講和条約は、ほぼ日本の要求のまま調印されました。

大仕事を終えた宗光は、兵庫県舞子で、療養生活に入ります。明治早々から、体調を壊した宗光。特にここ数年は、かなり緊迫した中での激務が続きました。そこから解放され、一気に体調を崩したのです。結核を患ったので、骨休めと思っていたその矢先、やってきたのが、ドイツ・ロシア・フランスでした。
「遼東半島を清に返せ」と文句をつけた、大国による三国干渉です。(黒幕はドイツ)
総理大臣伊藤博文・内務大臣野村靖・大蔵大臣松方正義の三人は、4月25日。宗光が療養している舞子を訪れました。

1三国の要求の拒絶
2列強国会議を開いて是非を問う。
3三国の要求受諾。

「列国会議など開けば、利権欲しさの国々に、余計な口を出させ。干渉国を増やすことにしかならない」と、枕元で話を聞いた途端、宗光は激怒して列強国会議の開催を却下。
3番目の「受諾」が一番リスクが低いと、即答します。三国と交戦できるほど、今の日本に国力はないので、要求の拒否は、論外な話だ。現実的に選べという意味も含んでいるのでしょう。この宗光の言葉を聞いた伊藤博文。ハラが決まったのでしょう。

三国干渉を受け入れ、清へ遼東半島の返還が議会で可決されます。
それが日本中に流れると、世間は「伊藤博文の弱腰外交」「軟弱外務大臣」と、伊藤博文と陸奥宗光を、罵り、糾弾したのでした。
プライドの高い陸奥。気分はかなり悪かったみたいで、1896年(明治29年)外務大臣を辞任した後、大磯の別邸やハワイで静養しますが、♃年齢域と♄年齢期が交差する1897年(明治30年)8月24日東京の自宅で亡くなりました。享年54歳。

亡くなるまでの間に、日清戦争後、三国干渉に至った出来事を綴った「蹇蹇録」を書き残しますが、あまりにも鮮烈すぎた内容なのと、外務省の機密文章を引用していることもあって、刊行は1929年(昭和4年)まで待つことになります。
宗光の子どもは、先妻の子、亮子さんの子他にも、数人いましたが、ほぼ亮子さんが引き取り、面倒をみますが、長男の広吉以外は、みな若いうちに亡くなっています。広吉は父と同じく、外交官となり、奥様はイギリス人。後に鎌倉女学院の校長を務めました。
アメリカで「ワシントン外交の華」と称賛された亮子夫人は、夫が先だった後の1900年(明治33年)8月15日。45歳で他界しています。
夫婦揃って、鬼籍に入るには、早すぎる年齢でした。

今回条約改定も絡むので、ペリー来航から五か国条約辺りを、あえて盛り込みました。40年。個人の人生だって、実に様々な事がありますね。それが国レベル。世界レベルの契約の変更となると、本当に難事業。悪知恵の塊な岩倉卿も手を焼き、井上馨も絶望した積み重ねの上、上司だろうが何だろうが、実力を認めない限り言い負かす。日清戦争を盾にとっての交渉ができた陸奥宗光だからこそ、可能だったのだと思います。


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