隆盛なら知っているけど、西郷従道って、誰?

「大西郷」とも呼ばれる西郷隆盛は有名ですが、その弟の名前に、ピンとくる人は、少ないと思われます。岩倉使節団の帰国後、征韓論が見送られ、国に帰る兄の隆盛。彼を慕う多くの薩摩閥が、その後を追って帰る中、弟の従道は東京に残りました。

やがて日本初海軍大臣、元帥となり、「小西郷」と呼ばれた西郷従道。どんな星を宿して、どのような人生を歩んだのか、さっそく見て見ましょう。

西郷従道ホロスコープ(イコールハウスで作成)


1843年6月1日(天保14年5月4日) 12時設定 鹿児島市加治屋町(現在住所)

☀星座 ♊  9°56
☽星座 ♋  13°23 (±6°の幅あるが、☽星座は♋確定)

円の上半分に星が集中。第7室以降、第12室まで(除く第10室)と、第1室と第2室に、星が並んでいます。円の下となる第3室~第6室までの北半球に星がありません。
自分の意志で人生を切り開く強さと、プライベートよりも公的な事や、社会的活動重視型。優しくないとか、家庭的ではないというのではなく、活動領域が対外的なのです。
逆に下の方に星が集まると、対外的な立場でも、マイホーム型になり、家庭内(付き合う対象が限定的)の方が、本人が落ち着く傾向アリ。

頭の回転が速く、情報キャッチに長ける♊の☀は、第7室(契約の部屋)にある♂と風と火のオポジション。開拓パワーと実行力、十分にありですが、この♂。Rであることから、「俺がやった」「俺が勝つ」と俺様な部分にブレーキが効いているかも。
♊といえば守護星は☿。西郷従道の☿は、☽と同じく第2室(金銭所有の部屋)♋にあります。この部屋は本人の財運。縁(巡らせるもの)を観る場ですが、第8室(授受の部屋)☊とオポジション。第9室(精神の部屋)♒の♃とトリン。第11室(友人希望の部屋)♈♅とスクエア。

誠実な物言いの中に意外な狡猾さを宿した交渉をしそう。それが「あいつずるい」に見えないのは、役得というか、☽が第12室♉♀とセクスタイル.も一役買っていそうです。
♋の守護星は☽。出生時間不明ですが、正午の☽が♋13度なら、6度戻すも進めても、♋であることは確か。しかも♀は、♉の守護星。

ホームベースにいる☽と♀は、マイルドな角度なのです。人に好かれる雰囲気、穏やかな印象を与えるのに加えて、要領よく収入を得る傾向にも味方しそうです。
このホロスコープで、コンジャンクションは、個性尊重で変化を好むけど、自分はどこか動かない♒を背景にした、第9室(精神の部屋)の♆Rと♃。

豊かな感性の持ち主であり、思考深く探求心も旺盛。海外との縁も持ちやすいでしょう。
♆がRなので、ロマンや不確定なものより、リアルを重視する傾向と、それを拡張する♃の組み合わせとも取れますし、♆は「海」。海軍との関わりもここで読み取れます。
♃は♈の♇とはセクスタイル。☿とトリン。どちらも一つの成功軸で、出世にも影響あり。第8室の♑♄と♇のスクエアが、責任を負うことで運が上がる重量級のバーベルになっているようです。

西郷従道History (ウィキその他資料参照)

1843年6月1日(天保14年5月4日)鹿児島下加治屋町にて、西郷吉兵衛と政佐夫妻の三男として誕生する。幼名は龍助。
1852年(嘉永5年)両親と死別。約2年間で続けて病死。その後、有村俊斎の推薦で、島津斉彬公の茶坊主として出仕。
1861年(文久元年)9月還俗。本名隆興。通称慎吾と改名。「精忠組」に加入し、尊王攘夷運動に参加。
1862年(文久2年)寺田屋事件に関わるが、重罰はなく謹慎処分が降る。
1863年(文久3年)薩英戦争参戦
1868年(慶応4年)戊辰戦争参戦 ・江戸城無血開城立ち合い越後戦線で次兄吉二郎戦死。
1868年(明治元年)太政官の名前を登録の際、ミスが発生し、名前が「従道」となる。
1869年(明治2年)山縣有朋と共に軍政調査のため渡欧。翌年の年末に帰国。
1871年(明治4年)陸軍少将となる。
1873年(明治6年)征韓論を巡って下長兄隆盛が下野する(明治6年の政変)。政府に留まる道を選択。
1874年(明治7年)陸軍中将に昇格。台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮。年末に撤兵。
1877年(明治10年)西南戦争勃発。隆盛に従わず。
1878年(明治11年) 紀尾井坂の変直後に参議。年末に陸軍卿になる。
1884年(明治17年)華族令制定 伯爵を授けられる。
1885年(明治18年)天津条約を結ぶ伊藤博文に同行。内閣制度発足初海軍大臣に就任。
1891年(明治24年)山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢する。大津事件発生。犯人津田三蔵の死刑執行を強行主張。
1892年(明治25年)枢密顧問官に任命される。品川弥次郎と国民協会を設立。
1894年(明治27年)海軍大将となる。
1895年(明治28年)侯爵に陞爵。
1898年(明治31年)海軍軍人として初元帥の称号を受ける。数回に渡り、内閣総理大臣候補にも推されるが、硬く辞退。
1902年(明治35年)7月18日 胃癌により死去。

年齢域と人生

●☽年齢域 7歳まで 心身の成長時期 1843年~1850年 天保14年~嘉永3年
●☿年齢域 15歳まで 少年期 1850年~1858年 嘉永3年~安政5年

1843年6月1日(天保14年5月4日)。鹿児島の下加治屋町に住む、西郷吉兵衛と政佐夫妻の三男として、西郷従道(さいごうつぐみち)は、誕生します。幼名は龍助。(本編は従道、西郷従道で表記)兄弟は男女合わせて全員で7人。
家は貧しくて、1枚の布団に兄弟7人が足を入れて寝たという昔話を、隆盛もしていますが、長兄の隆盛が、1828年1月23日(文政10年12月7日)生まれで、15歳違い。

次兄の吉二郎は、1833年(天保4年)生まれとだけわかっていますが、10歳違い。
孝道と吉二郎の間に、姉の琴。吉二郎の下に次女の鷹と、三女の安。その下に従道がいて、末弟の四男小兵衛 1847年11月18日(弘化4年10月11日)4歳違いと、世代間ギャップもありあり兄弟ですが、影響を受けて育ちます。
☿年齢期に入って間もない1852年(嘉永5年)に、両親を亡くしますが、兄や姉から面倒を見てもらいつつ、近所にいる従兄弟の大山弥助(後の大山巌)や、隆盛の親友大久保利通とふれあいながら、少年時代を過ごしました。

剣術は薬丸示現流。学問や兵法も学ぶ従道は、温厚な性質で、物覚えも良く、薩摩藩士有村俊斎(海江田信義)の推薦を受けて、薩摩藩藩主島津斉彬の茶坊主に抜擢。竜庵と号し、しばらくの間、殿様の傍で努めます。
従道の☿年齢期の終わりと、♀年齢期が始まる1858年(安政5年)は、日米修好通商条約に安政の大獄といい、国内が騒然とすることが起きました。

薩摩藩にとっては、大老井伊直弼に抗議の意を唱えるため、挙兵する準備をする斉彬公が、急死してしまいます。遺言に沿って、久光公の長男忠義が、薩摩藩主となりますが、まだ若年故に、藩政の権限は異母兄弟の久光公が握ったのでした。
西郷隆盛をはじめ、斉彬公を心棒する薩摩藩士は、久光公に対して拒絶的な言動を取り始めます。

従道の☽と☿は、♋にあります。0歳~15歳くらいって、良くも悪くも生活圏の影響が大きい時期です。彼の場合、家が貧乏、はやり病などで親が亡くなったりと、苦労な面もありましたが、兄弟に可愛がられ、隆盛の友人たちにその性格を認められて、殿様の傍で働ける身になっているのは、基本真面目な♋の☽♀と、南半球に星がそろっていることもあるのかもしれません。
●幕末の風吹く中、迎えた♀年齢期。 24歳まで 
1858年~1867年 安政5年~慶応3年

1861年(文久元年)の秋。僧侶から俗世に戻った従道は、本名を隆興。通称名を慎吾と称して、「精忠組」に入りました。この頃の「精忠組」は、公武合体を旨とする久光公に着く有村俊斎・大久保利道たちと、より過激な勤皇の志士である有馬新七たちの二派に、ざっくりと別れています。また、そのどちらも隆盛を信頼していました。従道と弥助は、過激な志士たちと交流し、影響を受けていきます。

やがて久光公は、勅使と共に江戸へ上洛するため、藩士を引き連れ、まず京都へ向かいました。この藩主の動きを知った勤皇の志士たちは、亡き兄斉彬公の遺志を受け継ぐ行為と早合点し、この機に乗じて、京の町で暴動を起こす事を画策します。
日頃から過激な勤皇派を、快く思っていなかった久光公は、これを知って大激怒。

粛清と厳罰の寺田屋事件に発展し、従道と弥助は、投降して取り押さえられました。勤皇の志士としての日も浅く、まだ年も若い彼らには、本国に戻っての謹慎処分が降ります。
その謹慎も生麦事件の末に起きた、薩英戦争によって短期で終わり、従道はスイカ売りを装った決死隊に志願しますが、これは作戦中止。砲撃を任され、戦績を上げました。
●明治黎明期 自身の人生を歩み出す☀年齢域  34歳まで 
1867年~1877年 慶応3年~明治10年

☀年齢域を迎えてほどなく1868年(慶応4/明治元年)。従道は小銃五番隊監軍として、鳥羽伏見の戦いに参戦します。体を貫通するほどの重症を負いましたが、一命取り留めました。
その後は、隆盛の元で、歴史的な一幕となった江戸城無血開城に立ち合います。上野戦争にも参戦しますが、新政府軍苦戦の一報を受け、支援のため越後へ急行。しかし、着いた時には戦は終わっていて、この戦いに参戦していた吉二郎との再会は、叶いませんでした。

戊辰戦争の中でも、激戦といわれた越後の戦いで、西郷兄弟の一人、吉二郎は戦死したのです。
特に両親が亡くなって以降、常に家を空けて飛び回る長兄に代わり、姉妹、弟の面倒をみたのが吉二郎でした。
「立場は弟ではあるが、吉二郎は自分の兄である」人に次兄を紹介する際、隆盛が言っていたので、頼りがいのある人だったのでしょう。
吉二郎の死は、西郷兄弟にとって辛い出来事でした。

悲しいこともありましたが、明治維新直後、思わぬトラブルも発生します。
太政官に氏名を登録する事務手続きの際、従道は名前を「隆道(たかみち)」と、口頭で役人に伝えました。しかし、訛っていたため、担当したお役人には「じゅうどう」と聞こえてしまい、名前を「従道」と記録。
元がおおざっぱな性格なのもあって、気にせず、当の本人が「従道」で通したことから「西郷従道」が定着します。

明治天皇の遷都によって、江戸は東京に代わり日本の首都となった1869年(明治2年)。版籍奉還が実施された後、山縣有朋と共に、従道は長崎から欧州へ旅立ちました。当時の軍隊及び、政事の視察研究が目的で、1年後の1870年(明治3年)帰国します。
山縣は兵部省のトップになり、従道はその補佐を務めます。
国際社会の中で、より貿易がしやすくするための通貨と税制の変更。旧時代の身分制度の廃止、防衛力強化等、明治新政府は課題が山積でした。

これまでの武士による防衛ではなく、すべての国民が、国を守る近代的な兵制改革(徴兵制)は士族の反発が強く、提唱者の大村益次郎は、暗殺されてしまいます。 
山縣が遺志を受け継ぎますが、「徴兵制は武士の恥」と、政府内部からも反対が強く、簡単に進みませんでした。やむなく、薩長土の三藩から、徴集された士族で御親兵を組織した後、廃藩置県を済ませたのです。

1871年(明治4年)12月横浜から、岩倉使節団が出港しました。新政府の留守を任された西郷隆盛は、陸軍元帥・近衛都督となります。
従道と従弟の大山巌(弥助)は、その側近として働きました。
隆盛が二人を称して「知恵の弥助と大馬鹿者の慎吾」と、言っていた逸話かあります。
大砲の名手である大山は、頭脳派で大砲の改良や設計に携わるだけでなく、海外から武器を買う取引も任せられる男で、西郷はその才を愛でました。

実弟の従道には、どこか仕方のない奴と見ていたのです。
欧州視察から帰国後、久しぶりに兄弟で同居しますが、部屋に適当においた隆盛の給料袋を失敬し、遊郭に繰り出した前科もあっての事ですが、なまじ兄弟だけに、遠慮のない関係なのかもしれません。
西郷兄弟の間に入って、従道の諭し役を買って出るのが大久保利通でした。
大久保といえば、笑わない・冗談を言わない合理主義者で、周囲からは気難しくて、恐怖の人だったのですが、従道の事になると、違う一面を覗かせます。

年月日をうまく拾えなかったのですが、岩倉使節団の一員として、大久保が旅立つ前に、従道は結婚した模様(違ってたらすみません)。
妻の名は清子。彼女の父は大蔵官僚の得能良介という人物ですが、彼を大蔵省に入れたのが、他ならぬ大久保でした。
彼は清子の事を「お清どん」または「お前」と呼び、清子も大久保の事を「叔父様」と慕っていたそうで、察することはたやすいと思います。

従道と清子の婚礼が決まると、毎日のように従道の家を訪ねる大久保。明治政府の中枢にいる身で、かなり忙しいハズですが、婚礼衣装や様々なものを手配し、必要な事を従道に教え、まめまめしく世話をしたといいます。
「実のお兄さんよりも、大久保さんの方が親しく、骨肉の兄同様に慕っていた」という清子夫人の回顧からも、大久保と従道は、かなり親密な関係だったのが伺えます。

従道 ♊。大久保利通 ♎。西郷隆盛 ♒。三人とも風星座なので、属性的には、とてもフィットするけど、妹しかいない大久保にとって、幼い頃から見ている従道は、本当に弟のように思っていたのかもしれません。(蛇足ですが、大久保、かわいいものに、目のない一面はありです)
そんな三人ですが、岩倉使節団が帰国した直後、変化の風「明治6年の政変」が距離感を変えてゆきました。

征韓論ありきでまとまっていた明治政府留守番組(トップは西郷隆盛。征韓論推進派)。日本は国内の経済力を上げ、国力をつけることが先という、国際情勢と日本の現状を知る欧州視察帰国組(トップは大久保利通。征韓論否定派)。
二派に意見が割れる中、岩倉具視の画策によって、明治天皇が征韓論を却下。
これに激怒と絶望した西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、福島種臣らが辞任をすると、彼らに続いて、多くの役人も政府を辞めてしまったのです。

故郷に帰る西郷の後を追って、薩摩出身者たちが、政府を去って行く中、従道と巌は東京に残りました。実際自分の目で海外を視察した経験と、山縣や大久保にも目をかけられてきた従道は、当初から征韓論には否定的だった説。
兄弟揃って、明治天皇の前を去ることを憂いた隆盛が、「お前は残れ」と従道を説得した説。(これは清子夫人の証言にもあります)

どちらにしても、仲たがいをしたわけではなく、従道にはつらい選択でした。
明治6年9月13日は、T☽が♊を航行。従道のN☀の上を進む時であり、T♂は♐を進んでいて、従道の♂と合。N☀とT♂が対。NとTの♄が♑で合。
転換の時とはいえます。

1874年(明治7年)陸軍中将となった従道は、蕃地事務都督として、5月22日に日本初海外派遣台湾出兵します。12月3日には撤兵しているので、ざっと半年ちょっとの期間ですが、日本を離れていました。丁度彼の太陽星座である♊に☀が入った頃に動いて、♐の☀の頃の帰国なので、半周という見方もできます。

その留守中に清子夫人は第一子を出産。無事に男の子が生まれたことを、大喜びした大久保は、名付け親になりたがりますが、清子の父が初孫の名前を付けたことから、その野望は消えました。
その代わりと言ってはなんですが、従道が所有した目黒の別荘に「掬水」と名をつけています。これも大久保の意外な一面と、二人の繋がり深さを、うかがい知るエピソードです。

1876年(明治9年)1月11日廃刀令が発布されました。
武士の時代が完全に終わったのです。幻滅と反発。不満を抱く人たちと、明治政府を離れた者たちが、佐賀の乱、秋月の乱、萩の乱を起こしました。いずれもその都度鎮圧しましたが、1877年(明治10年)2月15日に起きた西南戦争は、約7か月強に渡る長期戦となったのです。
木戸孝允と大久保利通は、西郷を止めるために参戦を表明しますが、伊藤博文が全力でこれを止め、明治政府軍は、山縣有朋が指揮しました。

戦争が始まって間もない2月27日。西郷兄弟の四男小兵衛が戦死します。彼は終生私人として、隆盛と共にありました。
春には明治三傑の一人、木戸孝允が病に倒れ、西郷を案じながら他界します。
西南戦争終結まで、従道は前線に出ることはありませんでした。
東京に留まり、通信役を担当し続けたのです。

明治天皇に、鎮圧の報告を伝えたのも従道ですが、
「ご苦労、兄隆盛は惜しいことをした」「従道、これからも務めよ」
そうお声をかけられたと言われています。
西郷の死を望んでいなかった明治天皇は、いたく悲しみ、後に隆盛の息子寅太郎を、ドイツへと公費留学させました。

ホロスコープ的に明治10年を見ると、♄が♓にあります。
当然その前の約2年半は、♒に♄がいた訳ですが、この二星座の期間をかけて、♄は時代の骨組みだけ残して、すべてを溶かす作業をしたのかもしれません。

従道にとっては、T♄とN☀がスクエア。♒にある♃♆に☀が当たり、N♄はT♇と調和。これはすんなり動ける感じはありません。T♆と♇は、♉にあり、西南戦争が終わる頃、従道のN♀とT♆が合。N♄とT♇のトリンはさらにタイト。
従道の☀年齢域と♂年齢域がクロスする、熱さと重さがひしめく年ともいえます。

西南戦争終結後、従道は近衛都督となり、陸軍の基礎作りを進めてゆきました。
●♂年齢域 三傑の散った後を守る挑戦期 45歳まで 
1877年~1888年 明治10年~明治21年

隆盛の死から日も浅い1878年(明治11年)5月。
三傑最後の一人、大久保利通が紀尾井坂で暗殺されます。

暗殺を行った主犯格が持っていた斬好状から、
1, 民権ばかりが抑圧されている(国会も憲法も後回し)
2, 不要な土木事業・建築に国の金を使っている。
3, 国を思う志士を排斥したことで、内乱を増やした。
4, 外国と結んだ条例改定を追行しない
5, 役人の登用にコネを使っている。

ざっと、こんな理由が拾えますが、なんか…2とか、5とか、今の時代でも政治に不満を言う人の口から、出てきやすい気もします。ある種、不満の鉄板なのかもしれません。
1858年(安政5年)に結んだ日米修好通商条約(安政の5ヶ条約)は、日露戦争以降の1911年(明治44年)に、53年の歳月をかけて関税主権を持つ事で、ようやく払拭できたのです。

明治時代とは、西洋列強からの植民地化の危機を遠ざけ、彼らに日本が同格であると認識させるために、政治家と軍人が命のバトンをつなぎながら、主権をつかみ取った時間とかもしれません。ただ、それは今だから言えることで、当時を生きる当事者の目や気持ちで、その認識を持つ人は、少なかったと思います。
外国を打ち払うために、攘夷をおこなったのに、より外国と貿易を盛んにする明治政府。
徳川幕府がなくなることで、人生が良くなると思ったのに、まさかの「武士をなくす」方向に進む現実を前にして、不満が募る士族。

納税を米から現金納付に変えたことから、特に地方の農村漁村には、負担増となり、庶民生活にも影響は出て、経済の二極化が進んだのです。
政府を離れて行ったかつての同志が、各地で様々な反乱を興す都度、鎮圧する側の矢面に立ったのが大久保でした。その分いらぬ恨みも買うことになり、この事件が起きたのです。大久保暗殺は、明治政府に衝撃こそ与えましたが、反社会的な人たちの思う様に、政府が方向転換することはありません。

大久保の暗殺に、かなり参る従道ですが、西郷隆盛に続き、大久保も失った薩摩閥は、従道と大山巌を重視しました。そうでないと、主だった役職を、長州勢に取られてしまうからです。紀尾井坂の変から間もなく、従道は「参議」となりました。
年の瀬には「陸軍卿」に昇格しますが、政治家としての仕事がグッと増えてきます。
1882年(明治15年)に黒田清隆が、北海道開拓使を辞任すると、参議・農商務卿も兼任します。1884年(明治17年)華族令が制定され、従道は伯爵を授かりました。

1885年(明治18年)12月22日内閣制度が発足。太政大臣や、左右大臣、参議といった職制ではなくなり、内閣総理大臣、宮内、外務、内務、大蔵、そして陸軍と海軍大臣。司法、文部、農商務に逓信の各大臣が、配置されます。(現代のひな型ですね)
初代総理大臣は、誰もが知る伊藤博文。初の陸軍大臣に大山巌。海軍大臣には、西郷従道が就任したのです。

当時の海軍は、陸軍の別部門的な位置づけで、海軍軍司令部は陸軍参謀本部の中に含まれていました。さらに陸軍にはトップに山縣有朋をはじめ、従兄弟の大山がいますが、海軍には、彼らに相当する人材がいなかったのです。そのため、エリートから外れた者、陸軍の試験に落ちたものが集まる場になっていました。
従道自身も陸軍畑の身なため、海軍をよく知った人が必要と考えた末、ドイツ海軍仕込みの山本権兵衛を、海軍省官房主事に抜擢してゆきます。
●♃年齢域  懐深く日本海軍の練り上げる敷石となった拡張期  57歳まで
1888年~1900年 明治21年~明治33年

従道の♃年齢域は、内政と海軍大臣真っ盛り。
第一次山縣内閣と、第一次松方内閣では、内務大臣を務めた時期もありますが、第一次伊藤内閣から、第一次大隈内閣に至るまでの13年の間、ほぼ海軍大臣歴任でした。
第二次山縣内閣では、後釜に山本権兵衛を海軍大臣に据えたことで、日露戦争にむけての最終的な準備を行った感もあります。

山本が海軍に入るきっかけは、尊敬していた西郷隆盛にすすめられたことにありました。でも、まさかその弟が、直の上官になるとは、本人思っていなかっただろうし、面白い偶然だと思います。
従道の♃は、思考深い第9室♒にあり、♆と合。海軍との絡みも良く、♒といえば、隆盛の☀は♒。生前の隆盛が、日本の海軍を強くすることを意識していたのを、傍らで見ていた従道は、海軍大臣となることで、♃の拡張力を生かし、海軍を育てる力とした。そうみてもいいかと思います。

山本とは薩摩閥の先輩後輩の関係でもありますが、占星術的に言えば、従道の☀ ♊。山本権兵衛の☀♐という、風と火の相乗化効果ありというところでしょうか。
頭の回転が速く論理的ですが、山本は良くも悪くも薩摩人気質満点の男で、気に入らなければ相手が上官だろうが、強かろうが、かまわずケンカをする男でした。

度量深く適度な距離で放って置ける従道でなければ、御しきれなかったのでしょう。
陸軍大臣の大山巌、海軍大臣の西郷従道。両者とも共通していたのは、現場仕事はよくわかる部下に任せて、細かく口を挟まないが、自分は責任だけ取るスタイルでした。
基本怒ることはない従道が、違う顔を見せたのが、大津事件です。

1891年(明治24年)日本はロシアの皇太子訪日で、松方内閣をはじめ、全国あげて沸いていました。ウラジオストックに向かう途中の、ロシア帝国皇太子ニコライ・アレキサンドロヴィッチ・ロマノフ(後のニコライ2世)が、日本を訪問し、各地を回るという国際行事が行われたのです。

ロシア艦隊が神戸港に停泊し、京都から琵琶湖へ向かった際、大津で、当日警備に当たっていた警察官の津田三蔵が、皇太子ニコライに斬りつけたのでした。
同伴していたギリシャの王子や、人力車の車男たちの活躍で、王子は軽症で済み、津田はすぐ取り押さえられます。

凶行に及んだ動機は、ロシアへの不信感もさることながら、「西南戦争で死んだとされている西郷隆盛は、実は生きのびて、ロシアに逃げた。ニコライと共に帰ってくる」というデマを信じ、西南戦争で授与された勲章を、西郷に取られる事を危惧したという、個人的な理由でした。
デマを信じるのも問題ですが、国中が深刻なムードになったのは、彼の個人的動機ではなく、帝国ロシアがどんな対応を日本にするかにあったのです。

ロシアは強大な国でした。皇太子に怪我をさせた事に立腹し、宣戦布告されれば、戦争になるかもしれない。不安と疑念が、政府だけでなく、国内にも蔓延します。弱小国の日本が負けるのは、誰にも容易く想像がつく状況だったのです。これを避けるため、松方正義をはじめ、内閣の議員は、津田の死刑を強く求めました。

ところが、大審院長の児島惟謙は、「外国や政府の圧力に屈することなく、法に基づいての裁きを行う」と、突っぱねます。すると日頃は穏やかな従道が、児島に対して、内務大臣という権力をフル活用で恫喝したのでした。
津田を死刑にしなければ、ロシアによる日本本土攻撃が行われる。今の日本では、防ぐことはできない。軍人としての強い危機感が、彼を勇み足にさせたと思います。
片や法の王。片や政治家兼軍人。

両者の立場の違いからくるズレで、どちらも間違ってはいないのですが、脅すのは完全にやりすぎですね。猛烈な脅しをものともせず、事件から16日後の5月27日。
児島は政府が求めた大逆罪を退けて、津田を無期懲役としました。
松方内閣は、責任を取って解散。従道は内務大臣の任が解かれます。

皇太子の傷は軽症で、明治天皇は自ら皇太子を見舞い、神戸港まで見送りました。
丁重な日本の対応に、ロシア側からの印象は良く、事件の際、皇太子を助けた人力車の二人は、ご褒美をいただいています。
大事にならなかったこともあり、大津事件は局地的なアクシデントで済みましたが、当時の政治、司法、一般民衆の様子、皇室への思いなど、垣間見ることもできるので、機会があれば、チェックしてみてください。

翌年の1892年(明治25年)。従道は元老入りします。さらに品川弥次郎と組んで、政治団体「国民協会」を作りましたが、やはり海軍大臣がはまり役なのでしょう。
1894年(明治27年)山本は日清戦争を勝ち戦に導きました。この年、従道は海軍大将となり、翌年には爵位が上がり、侯爵となります。

日本は清との戦には勝ったものの、ドイツとフランスを従えてたロシアが割り込み、三国間干渉によって、遼東半島は清に変換されました。大津事件の時、ロシアに対する危機感は、「勇み足」でしたが、三国間干渉では「やはり」という感覚に変わります。
山本はさらなる海軍強化を始めました。海軍拡張案に疑問を抱いた井上馨が、心配になり従道に尋ねると、
「実はわしもわからん。部下に詳しい山本という者がおるから、呼んで説明させよう」と、あっさりな返事に驚き、実際、山本から説明を受けて納得したというエピソードがあります。

♃年齢域の終わりに近い1898年(明治31年)。
従道は海軍初、元帥となりました。大山巌も同じですが、再三にわたる総理就任の要請がありましたが、西郷隆盛の逆賊行為を理由に、二人ともすべて断っています。
第二次山縣内閣で、山本権兵衛を後釜の海軍大臣に据えると、海軍増強計画は、さらに進みました。幕末からこれまで築いてきた人間関係。山本自身とても仲良く、近い人間すら、メスを入れる海軍大リストラを断行したのです。

計画を聞いた時、さすがに「大丈夫?」と尋ねますが、足りない分は、予備役で補うという説明に、何も言わず山本に任せました。
陸軍大臣の大山巌、海軍大臣の西郷従道。両者とも、現場仕事はよくわかる部下に任せて、細かく口を挟まないが、自分は責任だけ取る。というスタイルで、部下からの信頼が篤かったのです。
●未来の敷石となる♄年齢域 
1900年~1913年 明治32年~明治35年

かなり自由度高く、進めてきたにもかかわらず、肝心な船の建造に費用が捻出できず、完全に困り果てた山本は、従道に相談しました。
「それは買わねばなりません。予算を流用するのです。これは憲法には違反する事なので、いけない事ですが、そのことを議会で攻められたら、二重橋前で、二人で腹を切りましょう。それで軍艦が手に入るなら、本望です」

この返事に山本は腹を決めます。
二人の男が覚悟を決めて、誕生したのが軍艦三笠でした。

三笠が竣工され、日英同盟が樹立する1902年(明治35年)の夏。
従道は胃癌のため、この世を去ります。
♄年齢域に入って早々。60代を迎える直前で、出来上がった三笠の姿も、日露戦争の勝利も見ないままでした。

陸の長州、海の薩摩ではありませんが、薩摩閥の山本権兵衛が、日本海軍を育てあげたその背後には、常に西郷従道がいました。開戦直前、連合艦隊司令長官として三笠に乗った東郷平八郎は、幼い頃、西郷吉二郎に習字を習っています。
日露戦争の時、勝てたのは、運の良さもありますが、運が味方をするだけの準備を、着々と進めたことと、西郷兄弟の国を守る思いが、託された者たちに受け継がれていたのもあったのかもしれません。