大隈重信 年表(ウィキその他、関連資料参照)

1838年3月11日〈天保9年2月16日〉大隈与一左衛門信保と三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。
1844年(弘化元年)藩校・弘道館の外生寮(蒙養舎)入学。
1853年(嘉永6年)弘道館の内生寮(選抜エリートクラス)に入学。
1854年(嘉永7年/安政元年)儒教教育へ反発。教育改革活動をする。
1855年(安政2年)弘道館を退学処分。江藤新平・福島種臣と義祭同盟に参加。
1856年(安政3年)佐賀藩蘭学寮入り、語学・物理・産業革命後の技術を学ぶ。
1861年(万延2年/文久元年) 佐賀藩主鍋島直正の御前でオランダ憲法の講義を行う。
1864年(文久4年/元治元年)佐賀藩代品方に勤務、貿易業務を行う。
1867年(慶応3年)長崎で蕃書稽古所設立、教頭格となる。(のちの致遠館)
1868年(慶応4年・明治元年)明治新政府で外国事務官判事に就任。
1869年(明治2年)東京築地に転居・大蔵大輔に就任する。三枝綾子と再婚。
1871年(明治4年)明治政府の最高意思決定機関である参議に就任。
1872年(明治5年)富岡製糸場等設立に関わる。
1873年(明治6年)明治6年の変で西郷と共に、江藤新平と福島種臣が下野。
1877年(明治10年)西南戦争。
1878年(明治11年)紀尾井坂の変。大久保利通暗殺される。
1880年(明治13年)統計院設置。初代院長となる。失策により大蔵卿を解任。
1881年(明治14年)参議の罷免。政界から追放される。(明治14年の政変)
1882年(明治15年)立憲改進党結党。東京専門学校開校式を行う(のちの早稲田大学)
1887年(明治20年)伯爵の爵位を授与される。
1888年(明治21年)第一次伊藤内閣で外務大臣就任。黒田内閣でも留任。
1889年(明治22年)大隈重信遭難事件。右足切断。
1896年(明治29年)第二次松方正義内閣に外務大臣として入閣(松隈内閣)
1898年(明治30年)板垣退助らと憲政党を結成。薩長閥以外で初総理大臣。
日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織するが、11月8日総辞職となる。
1907年(明治40年)政界を引退し早稲田大学総長に就任。
1914年(大正3年)山本権兵衛内閣辞職により、第二次大隈重信内閣を組閣。
1916年(大正5年)7月第一次世界大戦勃発。8月23日日英同盟を理由に日本参戦。10月第二次大隈内閣総辞職。完全に政界を引退する。
1922年〈大正11年〉1月10日早稲田の自宅で死去。享年85歳。1月17日日比谷公園で国民葬が営まれる。墓は佐賀県の「龍泰寺」東京都文京区の「護国寺」の二か所。

ホロスコープ1838年3月11日 肥前国佐賀城下(現・佐賀市水ヶ江)生まれ12時設定



太陽星座 魚座
月星座  乙女座(誕生時間不明のため誤差あり)

第1室 本人の部屋    ♋
第2室 金銭所有の部屋  ♋
第3室 幼年期の部屋   ♌
第4室 家庭の部屋    ♍ ♃13°02R・☽17°34
第5室 嗜好の部屋    ♎
第6室 健康勤務の部屋  ♏ ♄28°48R
第7室 契約の部屋    ♑
第8室 授受の部屋    ♑ ♆(♒9°22)
第9室 精神の部屋    ♒ ☿(♓3°47)・♅(♓9°06)・♀(♓10°47R)
第10室 社会の部屋    ♓ ♂16°56・☀20°07・☊(♈13°11 )♇(♈15°45)
第11室 友人希望の部屋  ♈
第12室 障害溶解の部屋  ♉
円の半分から上、南半球の第8・9・10室に、8個の星が集まり、半分より下の北半球(地図と逆の見方になります)の4室には♃と☽。第6室に♄があります。
良くも悪くも社会的な活動を優先する傾向が強く、勝ち気で成功意欲も高いです。
学力と話術に富み、若いうちから評価を得る機会も多いでしょう。

誕生時間がわからないので、12時設定の☽ですが、♍17度なので、大隈の月星座が♍であることは、間違いないと思います。緻密な面、学術に長けている面や記憶力の良さは、月がかなり助けていると推察。また、かなり個性的なホロスコープなので、主なメジャーアスペクトを今回は列挙しました。(ASCとMCは外しています)

コンジャンクション(0度)は、9つ。
♃/☽の他、☀/♀・☀/♂・☿/♀・☿/♅・♀/♂・♀/♅・♂/♅・♇/♅。
セキスタイル(60度)は、♆/☊。
スクエア(90°)は☿/♄ いずれも1つ。
オポジション(180度)は、9つ。
☀/☽・☀/♃・☽/♀・☽/♂・☽/♅・☿/♃・♀/♃・♂/♃・♃/♅。

コンジャンクションとオポジションの数が同じ。

大隈の知的探求心と、発言力をサポートしたのが、第9室(精神の部屋)にある☿♀♅でしょう。カプス(12室を仕切る線)は、個性と平等を重視する♒にありますが、星はいずれも♓。特に♀は、第10室(社会の部屋)にある☀&♂とコンジャンクション。
 彼のやる気や技術、伝達力に輝きをプラス。負けず嫌いでせっかちな気もあるため、対立が強くなる傾向も引き出します。第10室には♈の☊と♇もあり、時代をけん引する側に立つ力を大隈に与えているのでしょう。

対岸の第4室(家庭の部屋)には、♍の♃☽という庇護と拡張コンビが、殖産を支えた部分だと思いますが、☿・♀・♅・☀・♂をバックアップするようにオポジションとなっています。
これだけだと強すぎる所に、第8室の♆と☊のセキスタイルは、ガス抜き効果をもたらしているのか、政界入りして以降、組む相手が変わりやすいのを物語っているようにも見えます。基本的には真面目な人で、仕事への粘り強さを支えるのが、第6室の♄でしょうか。

いずれにしても家庭の部屋に♃☽は、それなりに恵まれた家庭で生まれ育つ人が多いのと、これだけ強烈な星回りをもっているので、制御力の弱い子供時代は、どこかぼっとしている面があったかもです。

母の愛が支えた幼年期から少年期。☽~☿年齢域。0~15歳。

下級武士や農民の出が多い幕末の志士ですが、大隈重信は佐賀藩の上級武士の長男として生まれました。佐賀藩は薩長土肥の「肥」に当たる藩です。
兄弟は姉の妙子・志那子と、弟の克敏の四人。

父親の大隈与一左衛門信保は、石火矢頭人(今でいう砲術長)を務め、母親三井子の実家も武家でした。幼名八太郎。(本編はフルネーム、もしくは、大隈か重信と表記します)は、佐賀藩の産土神竜造寺八幡宮の「八」の字から、名付けたそうです。
「母に叱られたことがほとんどない」子ども時代のことに触れた大隈の言葉ですが、幼い頃は遊びに行くと、泣いて帰ってくることもよくあったそうです。ちょっと意外な感じですが、♓に多くの星が集中しているため、共鳴現象は起きやすく、力の弱い幼少期はそれを制御できる術がなくて、ボッとしやすいとか、感受性の高い子になる可能性は、あったかもしれません。

泣いて帰ってきた息子を叱責することなく、優しく受け止めた母の三井子は、神仏に祈願しながら、長男を護り育てたそうです。その願いが通じたのか、☽の年齢域が終わろうとする1844年(弘化元年)。重信は藩校弘道館に入学。☿年齢域を迎えたのもありますが、彼の☿は♀・♅と共に、精神の部屋。対岸の家庭の部屋にある♃☽が、まるで養分を与えるように、栄養を与えているのもあり、グングンと学力を伸ばしました。
12歳の頃、父親が早世する不幸に見舞われますが、☿年齢域が終わる1853年(安政3年)には、エリートが通う内生寮に進学します。泣き虫だった幼年期からは、想像もつかないガキ大将ぶりも発揮。難点は、家には学友がよく遊びに来るようになりました。もてなし好きのお母さんは、重信の友だちが訪ねてくると、喜んで手料理を振舞ったそうです。

弘道館には考え方の違う、朱子学派の「経学派」と、国学を重んじる「史学派」があり、重信は史学派に属していました。この影響もあるのか、旧態依然たる「朱子学」や「葉隠」に、疑問や物足りなさが膨らんだのでしょう。
♀年齢域に入って2年後の1855年(安政5年)。朱子学派との対立が激化し、重信は退学処分の身となり、学友の江藤新平・福島種臣と共に、義祭同盟に参加。枝吉 神陽(福島種臣の兄)から、尊王論や国体論を学びます。

その後、佐賀藩が新設した蘭学寮への入学が認められました。入学が認められたのは、上級武士の家柄と、高い学力だけでなく、佐賀藩の持つ柔軟性も一役買っていると推察。
長崎と隣接している佐賀藩は、西洋の情報も入りやすく、海外の知識や技術を取り入れることに、藩も寛容で積極的でした。これは勤皇派の志士の性質にも表れていて、佐賀藩の志士は、他藩と異なり、海外人から学ぶことに柔軟な姿勢をもっています。

このような背景と、重信の星回りが持つ運の良さが合致したのでしょう。
蘭学寮では、語学の他、物理や産業革命直後の技術、オランダ憲法を学ぶ機会も得ました。やがて重信は、藩主鍋島直正の前で、オランダ憲法の講義を行っています。

その後、かつて退学させられた弘道館の教授に着任しますが、言語と海外の事情にも明るい重信は、校内での講義よりも、藩命で各地との交渉事や、議論を行う機会が増えていきました。外国との交渉や取引の出来る人材として、佐賀藩から重宝されたのです。

☀年齢域は幕末維新の風吹く激動期

1863年(文久3年)~1873年(明治6年)。大隈の☀の年齢域は、幕末から明治時代初頭の明治6年の変までという、激変の時期が当たります。
佐賀藩代の役人という立場で、長崎・大阪・京都等に赴いて貿易の仕事に従事。勤皇派の志士たちとも交流を持つ重信。そこにさらなる見識を広げるチャンスが訪れました。

1865年(慶応元年)長崎にある諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩は、藩校英学塾「致遠館」をスタートさせるため、宣教師グイド・フルベッキを校長に迎えただけでなく、教頭格に副島種臣と大隈重信を選んだのです。
生徒育成に努める傍ら、校長から新約聖書と、アメリカの独立宣言を教えられました。
フルベッキ自身が、オランダ系アメリカ人という背景もありますが、大隈重信はアメリカの独立宣言にある、自由や権利という概念に強く惹かれます。

どこか無鉄砲なこともしていました。副島と共に、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を勧めようと、脱藩して京都へ向かいますが、捕縛の上佐賀藩に送還され、1か月の謹慎処分を受けたりもしています。

1868年(慶応4年・明治元年)早々に鳥羽伏見の戦いが始まりますが、大隈重信はこれに直接関わることなく、佐賀藩の代表として、幕府の役人がいなくなった長崎奉行所を拠点にした地域の管理を任されます。
後に税と経済の問題でぶつかる松方正義との出会いがあり、井上馨に実務能力と語学力を認められた重信は、木戸孝允に推薦されたことから、裁判所参謀助役に抜擢されました。
隠れキリシタン問題等で、一定の成果を上げると、明治新政府から会計官御用掛の役を仰せつかり、1869年(明治2年)住まいを東京の築地に移します。

新政府にとって、条約の改正(主に関税自主権の復権と領事裁判権の撤廃)をはじめ、通貨・税金・土地・産業・外交・防衛等、実に多くの問題がのしかかっていました。
木戸孝允に重用された重信は、イギリス公使パークスを相手に、対等な交渉ができる者が他にいないため、彼との交渉を一任されます。経済は畑違いながら、大蔵・民部両省双方の大輔を兼ね、新貨条約。版籍奉還等の実務にも携わりました。

名前を「八太郎」から、「重信」に変えたのもこの頃で、築地本願寺の隣に構えた大隈邸は、「築地梁山泊」と呼ばれ、井上・伊藤博文だけでなく、渋沢栄一や前島密等の若い官僚やってきたそうです。
鉄道が建設される際、ゲージ(軌間)を1,067ミリメートル(狭軌。現在のJR在来線の軌間)に決めたのも大隈重信でした。江戸時代の米による納税(年貢)から、現金納付に変える地租改正の構築、富国のための殖産興業政策や、電信の建設にも重信は精力的に関わっていきます。

1872年(明治5年)11月9日に、「旧暦12月3日を以て、明治6年1月1日とする」というお達しに、国中がどよめきました。

陰暦から太陽暦への変更は、西洋化の一環と観られがちですが、大隈重信の回顧録には、>旧暦をそのまま使用することになると明治6年には閏6月があって1年が13ヶ月になる。そうすると官史への月給を年間13回支払わなければならなくなるので、"太陽暦"を採用して12回で済むようにした・・・
とあります。締める所は締めたい大蔵卿な立場と、何事もやると決めると即行動の星を持つ大隈なら、これもありそうな話です。しかし、旧友だった副島種臣をはじめとする保守派や、大久保利通からは、その性急なやり方が嫌われました。

政変に始まり政変で終わる♂年齢域

1873年(明治6年)明治政府は、大きく三点の制度改革を行っています。
1軍事改革(防衛改革)の徴兵令。
2教育改革の学制改正。
3財政改革である地租改正。(これについては松方正義の回を参照してください)
岩倉使節団の留守を任された日本政府で、重信は井上馨が退いた後の大蔵卿を兼任。
地租改正をはじめ、富岡製糸場の具体化を進めました。その一方で、政府的にも世の中的にも、征韓論の盛りが大きくなっていきます。

強国ロシアを恐れていた日本政府は、直接南侵のみならず、隣国の朝鮮を抑えることも脅威でした。双方の国益と防衛力を上げることで、互いにロシアの南下を防げるのが理想と考えた明治政府は、江戸時代に交易していたパイプがあるので、朝鮮に何度も親書を送ります。
しかし、急進的鎖国派の国王大院君は、欧米に門を開いた日本に対し、親書はスルー。態度を硬化させた国王は、アメリカ商船の焼き討ちや、フランスの宣教師と、それに従いカトリックに入信した自国民の処刑を命じていきます。日本とも拗れが増して、大日本公館への食糧等の供給停止。民間の日本人との貿易活動さえも停止させました。

朝鮮に対して日本国内に反発心が高まり、参議の板垣退助が、朝鮮にいる在留邦人を救うための出兵等を提案したのが、征韓論が生まれた背景です。
留守中に大事が決められないため、岩倉使節団の帰りを待つ間。西郷隆盛が出兵する方向で話が盛り上がり、まとまっていきました。

1年9か月の視察を終えて帰国した岩倉使節団は、事態に仰天。一同大反対します。
重信もこれに理解を示し、反征韓論を共に唱えますが、征韓論は閣議決定され、最終決断を明治天皇に仰ぐことになりました。
国内の強靭化を図る時にとんでもないと思う岩倉の奇策から、明治天皇が派遣中止を選択したことで、征韓論は止まります。
しかし、振り上げた拳の降ろす場所を失った西郷と板垣退助。そして江藤新平は、これに憤慨して辞表を提出。
人望のあった三人に呼応し、軍人や官僚を含め、約600人が明治政府を去ってゆく明治六年の政変に発展したのでした。その後は佐賀の乱をはじめ、九州各地で反乱が起き、板垣の元で自由民権運動も起きます。

明治政府は反乱分子の暴動鎮圧に乗り出し、それが1877年(明治10年)の西南戦争まで続きました。莫大な戦費が急速に必要となったことから、政府は金や銀に換金ができない不換紙幣を増やしてしまい、市場の物価は上昇。激しいインフレが国内に起きてきます。
西郷の戦死だけでなく、西南戦争中に木戸が病死。翌年には大久保利通が暗殺され、明治の三傑が立て続けに亡くなった後、これまで以上に伊藤・井上の立場が強くなる中、国は不換紙幣とインフレの解消策が迫られました。

重信は酒造税などの増税を行う他、外国債で不換紙幣を整理することを提案しますが、松方正義がこれに反対。大蔵卿として後釜に据えた佐賀藩の後輩佐野常民も、重信の案に首を縦に振りません。強力な後ろ盾だった木戸と大久保を失った重信の財政畑は、ここで急速に終焉を迎え、松方正義が大蔵卿の椅子に座り、インフレ解消に着手してゆきます。

1881年(明治14年)自由民権運動の高まりを鑑みた岩倉具視は、憲法と国会創設に向けて、ようやく重い腰を上げます。ビスマルク憲法を支持する慎重派の伊藤・井上一派。
イギリスの議院内閣制を支持し、性急に事を進めたい大隈重信一派。
どちらも確執を深めていた時、北海道開拓使長官を務めていた黒田清隆が、政界と繋がりのある実業家五代友厚(薩摩藩士)に、国の所持品を格安で売ったニュースが流れ、世間の強い非難の声が、明治政府に集まりました。

重信は売り値金額が安いことを理由に、払い下げの中止を主張しますが、自由民権運動陣営(世論)と結託した大隈が、政府批判を煽るため情報を外に漏らしたと疑った政府側は、聞く耳を持ちません。真意のほどは別として、火星年齢期の終盤の大隈重信は、この明治14年の政変で、政局を離れざるを得ない立場に立ちました。

負けず嫌いな重信は、共に辞職した犬養毅・尾崎行雄らと、立憲改進党を結成。10年後の国会開設に向け、政治活動を行う傍ら、既に別邸として買っていた土地の隣接地を購入。
福沢諭吉をはじめ、多くの人の協力を得て、東京専門学校(現・早稲田大学)を開設します。

♃年齢域は内閣・政党政治と就かず離れず。1883年(明治16年)~1893年(明治26年)。

1884年(明治17年)。早稲田の別邸を本邸にし、演芸が趣味だった重信は、温室を設け、洋ランやメロン栽培もしていました。そして教育活動が世の中的に評価され、伯爵の爵位を賜り、華族の仲間入りを果たします。
すると今度は、自分たち一派を政界から追い出した薩長閥の一人、井上馨の勧めで、第一次伊藤博文内閣の外務大臣として、政界に返り咲く機会を得ました。

安政年間に結んだ不平等条約によって、来日した欧米人が日本で罪を犯しても、裁く権利が当時の日本にはなく、駐在する自国の領事が裁判権を行使していました。この領事裁判権を覆すため、明治政府は20年以上かけて海外と改定交渉をしてきたのです。

どこの国も自国の損得が絡む話なので、簡単にはいかず、井上をもってしても交渉は進まず、周囲から欧米に妥協しすぎると、非難を受けて辞任に追い込まれたのでした。
外務大臣兼4番目の交渉人となった重信は、伊藤内閣の後に続いて黒田内閣でも留任して、各国との個別交渉を進めます。これが功を奏したのと、大日本憲法の完成も促進剤となり、風向きが変わりつつある時、領事裁判権を廃止する代わりに、大審院の判事に外国人判事も採用するという密約が、イギリスの「タイムズ」にリークされました。

翻訳記事が日本に流れると、政府と世論の両方から、激しい非難が重信に向かい、ついに外務省の前で、爆弾テロを受けてしまいます。
犯人は重国家主義組織の玄洋社(右翼団体)の来島恒喜という青年で、彼は死亡。
一命取り留めますが、重信は右脚の大腿下三分の一を失う重傷を負いました。

以降、彼の右足は義足となります。入院中に条約改定交渉は延期が可決され、黒田内閣は解散。重信は枢密顧問官に任ぜられますが、療養の身であり目立った活動はしなかったものの、裏面で板垣退助ともコンタクトを取っていました。

それが問題となり、枢密顧問官を辞任。立憲改進党に再入党すると、自分を窮地に追い込んだ新聞を活用。広く一般に知れるような意見を発表。さらに弁の立つ重信は、実業家や有識者を前に演説会を開く活動を行っていきます。

進めば止まり、止まれば進む♄年齢期。1893年(明治26年)~1908年(明治41年)。

岩崎弥太郎の推しも手伝い、2次松方内閣の外務大臣として組閣に加わり、翌年には務省大臣も兼任しますが、やはり薩長閥とは、どこかそりが合わず辞任。
1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙で、ついに進歩党が第一党となりましたが、議席数が過半数に満たないため、板垣退助の自由党と憲政党を結成します。

明治天皇が裁可を下し、大隈と板垣に組閣の大命が降り、外務大臣兼任ですが、大隈重信はついに総理の椅子に座りました。
初薩長閥外。薩長土肥の「肥」から総理が誕生は、歴史に風穴を開ける大事で、トランジットを見れば、T☀♋。そして☿がオポジション。

N♓の☀をはじめとする一群の星と調和を奏で、N♃☽とT♏の☽は、良い感じのアスペクトをとっていますが、その♏にあるN♄はT♐の♅♄とオポジション。
これが効いているのか、内務大臣に板垣退助が入り、「隈板内閣」ともいわれる第一期大隈内閣は、堅牢な藩閥政府への対抗ではなく、異質な政党が組んだ事による内部紛争が続き、1898年6月30日 - 1898年11月8日。通算132日の短命内閣で瓦解します。

その後も内紛は続き、側近だった尾崎行雄が脱党し、政友会に参加してゆきました。
1900年(明治33年)12月。ようやく憲政本党の総理(党首)に就任します。日露戦争が起きる中にあって、社会的奉仕活動にも携わりました。この頃「日本百科事典」の編纂、発行にも責任者として、関わりました。

1907年(明治40年)には、政界を離れ、早稲田大学の初代総長に就任します。♄年齢期の仕上げを迎える1908年は、早稲田大学の野球部と、アメリカ代表の選抜チーム(プロアマ混合)の試合が行われた際、始球式でマウンドに立ちました。

政財界の大物で片足義足な70歳のおじいちゃん。このピッチャーを相手に、気を使わないバッターはいないでしょう。重信が恥をかかないよう、空振りをして配慮した逸話が残っています。が、始球式の時にバッターは、必ず空振りをする。は、どうやらこれ以降、お約束になったとか。

再び政界に呼ばれ、第二次大隈内閣が動く♅年齢域。1908年~1922年

前人未到の南極観測に臨む軍人白瀬矗(しらせ のぶ)。彼と縁を持った重信は、自分自身が白瀬の心意気が気に入ったのと、これは国民に良い影響を与えると踏み、南極探検後援会会長となりました。以降、人脈と金脈をフル活用して白瀬を支援してゆきます。
日本初の南極観測船の計画のキャンペーンに、多くの国民は賛同し、1910年(明治43年)11月。日本で初めての観測隊は南極を目指すことが可能となりました。

多田恵一の『南極探検私録』によると、送別式で重信はこう祝辞を述べています。
>少壮の輩は大言壮語に陥り易い、大言壮語は空砲に等しい、空砲は手応へがない、何にもならぬ、今回白瀬中尉一行の壮挙は、実弾である。今より二年の後この実弾は目的の彼岸に達して帰って来るであらう<

白瀬を激励しただけでなく、さらに全国から有名な花火師たちを呼び、派手な壮行会を行ったのです。これには多くの国民が沸き、大イベントを全面的に支援した重信の人気も上がったのでした。手厚い支援を受けた白瀬は感謝の気持ちを込め、南極大陸のエドワード7世半島の西岸の一部に、大隈の名を刻み「大隈湾」と命名しています。

大隈人気の冷めやらない1914年(大正3年)。シーメンス事件によって、第一次山本権兵衛内閣が解散した後、徳川家達は辞退。清浦圭吾は組閣ができないことから、元老はやむなく大隈重信に2度目の内閣を求めました。政界を離れて16年。
76歳にして重信は首相と内務大臣を兼ね、内閣をスタートさせますが、折しも時代は第一次世界大戦直前でした。

大隈内閣はドイツに最後通牒を送りますが、一週間返事がないことを確認すると、議会も御前会議も通さず、日英同盟の元、日本の参戦を決めます。
これには山縣有朋が激怒しますが、日本陸軍の欧州派兵は拒否。海軍のみ参戦させ、ドイツの拠点である青島要塞や、南洋諸島を攻略しています。

議会では政友会と国民党が法案を否決したことから、12月25日という暮が押し迫る中、重信は衆議院解散に踏み切りました。日本中大隈人気が高いこと。南極観測のキャンペーンを張った時の手法を生かし、巨額な経費と自身の後援会も使い、派手に選挙活動を展開した重信は、1915年(大正4年)3月25日。
第12回衆議院議員総選挙で、大隈与党が65%を占める大勝利を納めます。

外務大臣の加藤高明が、中華民国に対し「二十一箇条要求」を提示したことも含め、強引さのある第二次大隈内閣は、元老の眉を潜ませ、一部には反感を抱かせたようで、大隈の馬車に爆弾が投げられる事件も発生しました。
これは運よく不発に終わり、難を逃れましたが、自身が高齢であることから、重信は後継者を考えます。

大正天皇を前にして、加藤と寺内正毅の二人を推薦しましたが、貴族院侯爵議員となった後、辞意を内奏すると重信は加藤を指名。そして大山巌内大臣に、元老会議を開かないまま、加藤に組閣の大命が下るように頼みました。
さすがにこれは拒否され、結果、激怒した山縣をはじめ、松方・大山の三元老と西園寺は、大正天皇に寺内を推薦し、寺内内閣が成立してゆきます。

 首相を退任した大隈に、元老入りを求める声もありましたが、薩長閥クラブと化している元老に入りませんでした。ただし、この頃の新聞では、元老視もしくは、「準元老」として扱った報道もあったそうです。
風邪が元で体調を壊し静養を始め、♅年齢域が終わる1922年(大正11年)1月10日。
早稲田の私邸で、大隈重信は永眠しました。

側近で前衆議院議員の市島謙吉は、「国民葬」の礼を持って送ることを主張し、大隈家の人々は、告別式の場として日比谷公園を貸与することを、東京市に申請しています。
1月17日私邸で神式の告別祭が執り行われた後、日比谷公園で挙行された「国民葬」には、大隈との別れを惜しんだ一般市民が、公園の中だけでなく沿道にも集まったそうで、その数約30万人と記されています。

生粋の軍人として生涯を終えた山縣有朋と、薩長閥に染まることなく、協調と対立を繰り返し、時には対立から野にも降る大隈重信。
この二人は仕事の対立もあったけど、椿山荘VS大隈庭園という庭園対立が強かったのか、亡くなった後の葬儀に至るまで比べられています。

生まれと星回りがいい分、受ける波も大きく、対外的には逆境もあった大隈の人生。

人心掌握の術に長け、スタッフに有能なコピーライターがいたこともあって、富豪暮らしをしながら「大平民」と世間に言って、人気を博したのは見事で、明治時代をけん引し、教育界に深く錨を降ろした彼の人生は、日本の大きな遺産だと思います。