松方正義プロフィール

1835年3月23日〈天保6年2月25日〉薩摩国鹿児島郡(現在の鹿児島県鹿児島市)松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。
1847年(弘化4年)藩校「造士館」に入る。
1848年(弘化5年)両親を亡くす。(13歳)
1850年(嘉永3年)御勘定所出物問合方へ出仕。幾度か藩主に拝謁する機会あり。
1858年(安政5年)薩摩藩11藩主島津斉彬死去(満49歳没)。
1862年5月21日(文久2年4月23日) 寺田屋事件で久光公の信用を得る。9月14日(文久2年8月21日)生麦事件
1864年(元治元年)藩政立案組織の一員に選ばれる。
1866年(慶應2年)軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。
1868年-1870年(慶応4年閏4月25日-明治3年閏10月3日) 日田県知事。別府港を築港。別府温泉の発展の礎を築く。大量の太政官札の偽札流通を密告により発見。大久保利通の信頼を得て民部大丞となり、租税権領で地租改正にあたる。
1877年(明治10年)西南戦争の戦費処理問題で大隈重信と対立後、内務卿に転出。
1878年(明治11年)約10ヶ月フランスに滞在。パリ万国博覧会副総裁。大久保の代わりに、日本代表団の事務官のトップである総裁を務める。
1881年(明治14年)参議兼大蔵卿として復帰。日本に中央銀行である日本銀行を創設。インフレを抑え込むが「松方デフレ」を引き起こす。
1884年(明治17年)現在の日本に於ける会計年度「4月 - 3月制」が導入が決定。
1885年(明治18年)第一次伊藤内閣初代大蔵大臣に就任。
1891年(明治24年)5月6日 - 1892年(明治25年)8月8日第一次松方内閣
1896年(明治26年)9月18日 - 1898年(明治28年)1月12日第二次松方内閣
1901年(明治34年)日英同盟締結に賛成。日露戦争の準備のため、欧州7カ国へ赴く。
1903年(明治36年)エドワード7世からナイトの最高勲章を贈られる。那須塩原に千本松牧場を開場。枢密顧問官となる。
1917年(大正6年)内大臣を務める
1924年〈大正13年〉7月2日呼吸不全により死去。享年90(満89歳没)

ホロスコープ

太陽星座 ♈ 1°46  
月星座  ♑ 21°16



第1室 本人の部屋     ♋ ♂11°12
第2室 金銭所有の部屋   ♌
第3室 幼年期の部屋    ♌
第4室 家族の部屋     ♍ ♄R(♎21°11)
第5室 嗜好の部屋     ♎
第6室 健康勤務の部屋   ♐ 
第7室 契約の部屋     ♑ ☽21°16
第8室 授受の部屋     ♒ ♆3°16 ♀16°15
第9室 精神の部屋     ♒ ♅28°28 ☿R(♓11°49)
第10室 社会の部屋    ♓  ☀(♈1°46)♇13°00
第11室 友人希望の部屋  ♈ 
第12室 障害溶解の部屋  ♊ ♃6°22  ☊R11°08

ホロスコープの下の部分。北半球 第1室の♂、第4室の♄を除いて南半球。

第7室から12室までに星が散らばります。形としてはバケット・タイプが近く、目標のために努力を惜しまないタイプ。意見が合わないと、対立色も濃くなりやすいのが気になるところ。

第10室社会の部屋にある♈の☀と♇が、努力や独創性に華を持たせ、それが年長者や権威ある立場のある人の目に留まりやすく、信頼を得られることから、異例の出世も可能にする強い運気をもたらしています。

☀は第8室の♆。第12室障害溶解の部屋の♃とセクスタイル。そして♆♃は、授受の部屋(生と死の部屋)と障害溶解の部屋のトリン。ここで二等辺三角形を形成。物事を自分にとどめるより、流して回す方が運気上がる傾向アリ。

♆は、☊Rとも120度。そして☊Rは、第8室の♀とも120度。苦労もしますが、お金を流し、回すことで+に働く面があるのでしょう。奉仕精神も強い松方は、知事時代に親のない子どもたちの暮らす施設を作っています。その反面、この組み合わせは色事に関しても効きがよく、肉体的な満足度を求める傾向が強く、恋愛遍歴が多い人生となる可能性大。

実際、伊藤博文の上を行く女好き。明治天皇から「お前は子だくさんと聞くが、何人いるんだ?」と聞かれて、自分の子どもの数を即答できなかったエピソードは有名で、松方は正妻との間に4男1女の子を設けた他、15人ほど子供の数が記録されています。
そのほとんどがお妾さんの子たちで、育成をしたのは正妻の満佐子です。

♃の拡張は第9室精神の部屋にある♒♅とスクエア。♓の☿とはセクスタイルで、どちらも柔軟宮の星座を背景に持つスクエア。ガツンとした硬さではなく、変幻的なチャンスの組み合わせ。

☿は第1室の♂とスクエア。第10室の♇とトリンで、愚直な粘り強さや人の良さが評価されると、成功してゆける傾向あり。

気になる点は、第4室家庭の部屋の♄。家庭環境にどこか影があり、子ども時代、制約や失うものあったのでしょう。

♇がとオポジション。♑の☽とスクエアが、縁の薄さを物語っています。

苦労した少年期を越えて役人の道へ。☿~☀の年齢域

1835年3月23日〈天保6年2月25日〉。薩摩藩の下級武士松方正恭、袈裟子の四男として松方正義は生まれました。幼名は金次郎。通称が助左衛門(本編は松方正義、もしくは正義で統一します)。☽☿年齢域である子ども時代のエピソードは、あまり拾えないのですが、裕福とは無縁なようでした。

12歳で藩士の子どもたちが通う藩校「造士館」に入り、その翌年、が両親は他界していることと、第7室♑の☽。第4室家族の部屋♎の♄の緊張角度が、家庭への憧れの強さや、理想を強く求める半面、非常に移り気な性質を引き出すことが、女性の遍歴多さを引き出す土壌になったのかもしれません。

15歳で成人とされていた時代でもあり、御勘定所出物問合方で働き始めます。
ちょうど♀年齢域(15~25歳)の間に当たりますが、時代的には黒船来航によって、幕府が開国に動いてゆく時期で、世の中は佐幕と勤皇に別れ、激動していました。
正義は目の前の仕事を日々こなし、その働きぶりが藩主島津斉彬に褒められ、特別賞与を貰っています。仕事に対しての打ち込みは真面目だったのでしょう。

働きを褒めてくれた斉彬公は、1858年(安政5年)の夏。安政の大獄を行う井伊直弼へ抗議をするため、江戸へ挙兵の準備を始めますが、その最中に病死してしまいます。(死因はコレラ・腸チフス・毒殺など諸説あり)

薩摩藩12代藩主は、島津忠義となりました。この藩主交代劇によって、忠義の父である島津久光公が、立場のないまま薩摩藩の実権を握り出します。時間の経過と共に、討幕を志す西郷と大久保が組織する精忠組と、公武合体を旨とする久光公のそりが合わなくなり、最後には「わしは知らん!」と、久光公が匙を投げることによって、薩摩藩は討幕へ傾くのでした。


松方☀の年齢域に入って2年目の1862年(文久2年)。寺田屋事件が起きます。ここで歴史の表舞台を掠めるように、一役人として事後の連絡係を任された松方は、京都・江戸・鹿児島の間を奔走しました。
その命令順守な仕事ぶりが久光公の目に留まり、近習番(殿様の身辺警護係。現代のSP)に抜擢されたのです。

文久の改革を幕府に押し付けるため、江戸城入りした久光公の大名行列にも、護衛として就き、その帰郷の際に起きたのが生麦事件でした。この時、近習番を統制して、久光公と藩主忠義を守ったことが高評価につながり、低い身分から異例の出世街道に乗ります。
西郷隆盛が薩摩藩の軍司令官となった1864年(元治元年)には、藩政立案組織である議政書掛の一員となり、行政に関わっていきました。

下級武士松方の出世を、称賛する人もいれば、妬む者もいて、仲が良かった同僚と共に、あらぬ噂を立てられて左遷されるという、憂き目もあっています。

役人特有の対人関係に嫌気がさしたのか、その後長崎海軍伝習所に入学。
1866年(慶応2年)に設置された軍務局海軍方で、御船添役という役職に就くと、長崎と鹿児島を往復し、軍艦の買い付けなどに当たりました。

一役人時代とはキャラが変わったように、軍艦「キャンスー号」(16万両)を、周囲の反対を押し切って、薩摩藩の御用商人から8万両の借り入れて船を購入します。この戦艦を商事に使いたい藩重役側と、軍艦として使いたい松方は、船の使用を巡って争いますが、人脈負けで解任。ここで松方の海軍入りの夢は終わりました。

周囲の妬みだけでなく、久光公を嫌う西郷にも疎遠にされているため、身の回りに味方が少なかったのかもしれません。ちなみに「キャンスー号」は「春日丸」と名前を変えて、戊辰戦争で大活躍だったそうです。

1868年(慶応4年)戊辰戦争が始まると、松方は長崎に赴任します。幕府が倒れると知った役人たちが職場放棄した長崎奉行所を、勤皇諸藩を統治下に置く仕事に従事しますが、佐賀藩を代表して同じ任に就いたのが、佐賀七賢人の一人、大隈重信でした。

戊辰戦争にも直接関わることなく、そのまま長崎裁判所参議を命じられた後、豊前国豊後国の幕府領を管理するために設けた日田県の知事を、2年ほど勤めます。
☀の年齢域の花道のように、別府港を作り、別府温泉の開拓も行う傍ら、親のない子どもを引き取って育成する施設を作るなど、福祉面の公共事業も行いました。

地方行政をすすめた松方は、明治政府が作った紙幣「太政官札」の偽札流通を、密告によって日田県内で発見。旧福岡藩士が行ったこの事件への対応で、大久保利通から評価を受け、これがきっかけで大蔵官僚となり、中央で働く機会を得たのです。
*太政官札 慶応4年5月から明治2年5月まで発券された不換紙幣のこと。

♂年齢期から♃年齢域は税制の道

江戸時代を今風に言えば、地方分権型の政治体系でした。1871年(明治4年)の廃藩置県によって、ようやく中央集権国家を確立。しかし、政府の主要財源は、江戸時代と変わらぬ農民が国に米を収める「年貢」ままです。

豊作の年もあれば、不作の年もあり、税収は米の収穫高に左右されましたが、「不作」年なら、納める年貢も少なくて済みました。原則江戸時代は、農民だけでなく、国を治める殿様をはじめ、役人側も痛み分けをしたのです。(時代劇では悪代官とか出てきますし、多少のことはあったと思いますが、納める年貢をごまかされないために、農民の果てまで寺子屋で読み書きができ、江戸時代の算術は農業と共に発展した文化でした)

国力をつけるためには、列強との貿易を盛んに行い、西洋化を進めてゆきたい明治政府は、輸入に使う「現金」が必要になったのです。
ここで金本主義で経済を回している欧米と、貨幣価値を合わせる必要が生じました。
世界から見た新興国であった日本は、経済的には信頼が薄く、欧米が主流とする金本位制の元では、国内貨幣は価値のある紙幣とはいえません。

そこに毎年の収穫高で左右される年貢だと、安定した予算が組めないため、明治政府は常に一定の財源を確保できる納税方法を模索し、太陽暦を導入した1873年(明治6年)。
大きく三点の制度改革を行っています。

1軍事改革(防衛改革)の徴兵令。
2教育改革の学制改正。
3財政改革である地租改正。

地租改正とは、納税の算定基準を収穫した米ではなく、農民の持つ土地そのものにしたことを意味します。そして♂年齢域を迎えた松方正義は、土地とお金に絡むこの制度に、官僚として従事し、大隈重信(大蔵卿)と、財政方針の違いで対立しました。

江戸時代にはなかった個人の土地の権利を認め、土地の売買も可能になりましたが、土地の価格を変動しない数値で決めた上で、土地価の3%を税金として治めることがを義務付けられたのです。

これによって国は毎年一定の財源を確保でき、凶作に見舞われて収入が減っても、毎年同じ金額を確保できるようになりました。しかし、納税する農家には厳しい政策だったのです。

地租改正に反対する激しい一揆も起こり、後に国は2.5%に税率を下げますが、政府に不満を抱く庶民層、農民は増え、自由民権運動に傾倒してゆく者が増えました。


1877年(明治10年)大隈重信は、佐賀の乱や西南戦争の急激な戦費調達のために、金や銀と交換ができる保証のない不換紙幣を濫発。世界との交易には当然使えません。
使えない不換紙幣によって、巷は深刻なインフレに観まわれました。

日本中に溢れた不換紙幣を処理するため、大隈は外国に5000万円の借金をする外債案を政府に提案します。当時の5000万円は、政府収入の7~8割に相当する金額でした。
松方はこれに反発。この件で大隈との軋轢を生んだ松方は、伊藤博文の配慮で、内務卿に転出。1977年中に渡欧します。

1878年(明治11年)の3月から約10ヶ月。第三共和制下だったフランスのパリを中心に滞在。フランス蔵相レオン・セイ(フランスの経済学者ジャン・パティスト・セイの孫)と知り合いました。

・日本が金券を発行できる中央銀行を持つこと。
(これまでの日本は、国立銀行条例で各地の銀行がそれぞれ金券を発行する制度でした。しかし兌換を義務付けていたので、銀行の経営は苦しかったのです)
・新たな銀行を作るなら、フランスやイギリスにある既存の銀行をモデルにせず、最新のベルギー銀行をモデルに精査する方がよいこと。
・当時の欧米主要国が、銀本位制から金本位制に変わってきているので、日本も金本位制の採用をすることなど、国家財政の基礎を学ぶ他、パリ・ロチルド家第二当主アルフォンス・ド・ロチルド(英語読みでロスチャイルド家)への紹介も受けます。

この年の5月20日から11月10日まで行われたパリ万国博覧会で、松方は副総裁の立場
での参加でしたが、暗殺された大久保利通の代行として、急遽総裁を務めています。

戦いの♂年齢期ら実りの♃年齢期

松方が帰国した日本は、インフレによる混乱が続いていました。憲法制度や議会を行う上で、ビスマルク憲法を主軸に考える伊藤博文&井上馨と、イギリス式の議院内閣制の憲法を考える大隈重信の二派の対立も激化します。
1881年(明治14年)。大隈重信が政界から追い出された明治14年の変。空白となった大蔵卿の席についたのが、この年の7月に、「日本帝国銀行」設立案を政府に提出した松方正義でした。

松方の♃年齢域は、1880年(明治13年)~1890年(明治23年)です。
内務卿への復帰からスタートして、翌年の1881年(明治14年)第6代大蔵卿に就任します。松方自身の♃は第11室♊にあり、第8室♒にある♆とトリン。♅とスクエア。

♀は、松方の♇とセキスタイル。その人が社会的に受け取れる金銭、社会的価値が背景にあるので、お金のに絡む仕事をする際、役だってくれたのでしょう。

参議兼大蔵卿として復帰した当初は、「日本銀行」の創設をはじめ、これまで各銀行に認めていた紙幣発行権を止めます。政府紙幣の全廃と、日本銀行券による紙幣整理。金銀と同じ価値で換金できる兌換紙幣への転換を図りました。紙幣の価値が銀によって保証されることで、市場の安定を図ったのです。

醤油税・酒税・たばこ税・薬子税等、ある程度の品目の税率を上げた増税と、政府予算の圧縮。いわゆる緊縮財政にかじを切りました。
財政収支を安定させて、インフレを抑えることには成功しました。しかし、引き締めたことから、市場に流す紙幣が不足し、デフレに転じてしまったのです。

1000円で売れていたの品物が、700円とか500円に値下がっていくと、収入は下がります。この打撃をもろに受けたのが、米や野菜を売ることで生計を立てていた農民でした。
農作物の価格が下落したことから、現金収入が減って税が払えず、地方によっては身売りがあったり、土地を売却する農民も増えたのです。

土地を買い占めることができる裕福層の中には、農家に畑を貸して農業を営ませて、収穫物の一部を徴収することを、生計とする寄生地主も現れました。

彼ら寄生地主の豊かな資金が、三井や三菱といった財閥を誕生させ、国の官営事業を進めたのも事実で、雇用も生まれマイナス面ばかりではないのですが、貧富の差はさらに広がりました。これが自由民権運動活発化の背景であり、教科書や試験に出てくる「松方デフレ」のあらましです。

因みに1875年(明治8年)からの10年間は、税の納期に合わせて年度が、7月始まり6月終わりになっていました。これが現在年度会計の4月始まり3月終わりになったのは、松方のある対応が原因です。

1884年(明治17年)度の予算不足の報告を前にした松方は、「赤字を出すのはマズイ」。おそらく、そう思ったのでしょう。考えた末、1885年(明治18年)年度に入る見込みの予算を、明治17年度の予算に組み込んだのです。これで17年度の赤字は解消。

しかし明治18年度予算は足りません。その足りない部分に、明治19年度の見込み予算を繰り上げ、なんと1885年(明治18年)の年度のスタートも4月に繰り上げたのでした。
赤字解消のためとはいえ、それ、あり?という話ですが、このため明治18年は、3か月短縮年度になっています。

かくて1886年(明治19年)年度の始まりは4月。終わりは3月となりました。
すごいごまかし技ですが、この件は公文書として国立公文書館に残っています。

時代的に「年度」に対して、明確な法もまだ確立していなかったのと、政府にとっても赤字の方が大きな問題でした。そして会計年度に合わせて、学校も4月はじまり3月終わりに変更となり、それが現在まで続いているのです。

1885年(明治18年)第1次伊藤博文内閣で松方は、初代大蔵大臣となり、黒田内閣になっても引き継ぎ、3・5・8代と、長期間大蔵大臣を務めました。

成果の時間の♄年齢期 総理大臣や元老院のまとめ役。そして晩年

1891年(明治24年)。第1次山縣内閣が倒れ、次の総理を決めることになり、薩摩閥は頭を抱えます。この当時の総理大臣は、薩長から交互に選ばれていたのですが、二度総理の経験がある黒田清隆は酒乱で問題を起こしがち。西郷従道(隆盛の弟)大山巌は根っから軍人で政治的野心はゼロ。これが松方が総理の椅子に座る薩摩側の状況でした。

第一次松方内閣 1891年5月6日 - 1892年8月8日  461日
第二次松方内閣 1896年9月18日 - 1898年1月12日 482日 
通算で943日。

第一次は4代目総理大臣兼大蔵大臣という兼務で行いますが、この頃松方は♄年齢域(1890年~1905年)に入ると同時に、総理大臣の大命が降りました。
しかし、内閣の不一致で辞任に追い込まれます。

1896年(明治29年)に再び松組閣(総理大臣兼大蔵大臣)。2期目は大隈重信の率いる進歩党と揉め、こちらも1年数か月の短命内閣で終わりました。

第一次松方内閣と第二次松方内閣の間に起きたのが、日清戦争(1894年(明治27年)7月25日~1895年(明治28年)4月17日)で、当時の首脳部は、戦争に向けての予算の算出を、西南戦争を基準に考えますが、この姿勢を松方は「前例などにとらわれず、勝つ為にいくら必要かの見込みを立てて、それを工面する方法を考えるべき」と戒め、伊藤&井上コンビと論争の末、「松方の案がもっともだ」と井上に言わせているので、お金の流れや使い方には、利する目を持っていたのでしょう。

政治的手腕は弱いと軽視されがちの松方内閣でしたが、二期目は明治天皇に
「導入の是非を巡る議論は難解でよくわからぬが、これまで松方が財政に関して間違ったことをやった例はなかったから導入を裁可する」
と言わしめ、金本体制をまとめたので、一定の評価はあっていいと思います。

女性問題に関しては、伊藤博文の上を行く松方に、明治天皇も呆れていますが、彼の財政に対する取り組みは、絶大な信頼をしていました。
♄は運勢目線で、その人にとって必要なものや骨子は残しますが、やるべきことを済ませたら、すぐ交代してゆく傾向を持っています。

松方の♄期の前半は、まさにそれという感じで、実りのタイミングは、1901年(明治34年)。日英同盟の締結を巡る元老会議からでしょう。
当時の桂太郎総理の提案に沿って、山縣有朋、西郷従道らと共に、松方は日英同盟締結に賛成し、元老会議の結果を尊重して明治天皇は日英同盟締結の裁可を下しました。

1902年(明治35年)1月に日英同盟が締結されると、松方は日露戦争の準備のため、日アメリカを経由して欧州7カ国へ赴きます。
イギリスでは戴冠式前のイギリス国王エドワード7世に拝謁を許され、歓迎を受けるとエドワード7世の学友ロスチャイルド卿ナサニエルの私邸に招待されました。

ナサニエルとクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフは、共に英米ユダヤ社会の指導者であり長年の友人です。ジェイコブ・シフは高橋是清の求めに応じて、日本の戦時国債を購入した人物で、日露戦争を資金面でフォローしてくれた人物ですね。

政界・金融界からの出席者が集うイギリス銀行協会主催の晩餐会にも、松方は招待され、オックスフォード大学から法学名誉博士号(後には国家元首にのみ与えられる)を授与されています。

アメリカでは鉄鋼王アンドリュー・カーネギー。大統領セオドア・ルーズベルト、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世、ロシアでは皇帝ニコライ2世と会見と、目白押しのように世界の名だたる人物たちと接する機会を得ているのは、長年に渡りコツコツと日本の経済機構を形作ってきた成果でもあると思います。

同年12月29日。松方は日本赤十字社社長に任命され、帰国後の1903年(明治36年)には、まるで♄年齢域を飾るように枢密顧問官となり、戴冠式を終えたエドワード7世からは、ナイトの最高勲章を贈られました。♄は減らすだけでなく、その人に相応しいとする実りは必ずもたらします。(ただし、それが本人の気持ちや求めるものとイコールとは限りません)

明治天皇からの信頼がある松方は、栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場と別邸を設けると、そこに皇太子・嘉仁親王(大正天皇)を招いたそうです。
♅年齢域の1917年(大正6年)には、内大臣も務め大正天皇に使えました。

伊藤博文や山縣有朋らの死後、元老を主導する立場となると、加藤友三郎内閣の成立を助けています。
そして♆年齢域の幕が閉じる1924年(大正13年)7月2日。呼吸不全により死去。享年90(満89歳没)。

東京の三田にあった自宅で国葬が執り行われました。

写真は現在は高層ビル街にたたずむ日銀です。
敷地広いので、個人写メでは全景撮影無理。


幕末動乱期に名を遺す活躍はなく、どこか影が薄い松方ですが、大器晩成と言っても良い人生です。特に♃年齢域以降の人生を咲かせたのは、彼の人生の背骨ともいえる♄♇が持つ力じゃないかなと、ホロスコープを見ながら思いました。
今現在につながるまでの経済の切り替えを行い、日銀を作った人物と考えたら
見直してみる価値は十分にあると思います。