長州藩&松下村塾出身で高杉晋作と意気投合。騎兵隊3代目総長が出奔した後、全体を掌握。木戸孝允と西郷隆盛に信頼され、明治時代は陸軍と内務省のトップを歴任。
加熱する自由民権運動を抑え、軍部の規律を強化したことから、評価が悪い人物でもあります。 総理経験も二度。生粋の軍人ですが、好戦派ではなく、日清日露戦争に対して慎重な考えを持ち、まじめな愛妻家な面が、近年見直されてきている山縣有朋。
どんな星を持っているのか見てゆくことにします。

まずはいつも通り年表から。

●山縣有朋略歴(ウィキ&その他資料参照)

1838年6月14日(天保9年閏4月22日)長州藩下級武士山縣三郎有稔の長男として生まれる。
1858年(安政5年)  松下村塾入塾。
1863年(文久3年)  終身の士分に取り立てられる。リュウマチを患う。下関事件(長州藩の攘夷行動。外国船への砲撃)騎兵隊入り。副官に当たる奇兵隊軍監と壇ノ浦支営の司令に就任。
1864年(元治元年) 京都池田屋事件・禁門の変起こる。四国艦隊下関砲撃事件(列強四国との間に起きた武力戦争)第一次長州征討。
1866年(慶応2年) 第二次長州征討。奇兵隊の第4代総管になり実権を握る。
1867年(慶應3年) 長州藩の庄屋の娘友子と結婚。
1868年(明治元年) 戊辰戦争(北越戦争・会津戦争).黒田清隆と共に、北陸道鎮撫総督・会津征討総督高倉永祜の参謀となる。
1869年(明治2年) 維新の功で賞典禄600石を賜る。西郷の弟・西郷従道とともに渡欧。
1872年(明治5年) 兵部省を陸軍省・海軍省に分割。陸軍大輔となる。山城屋事件。
1877年(明治10年) 西南戦争。陸軍卿兼任のまま、現場総指揮官である参軍に就任。
1883年(明治16年) 内務卿に転任。
1884年(明治17年) 華族令制定の際には華族に列し、伯爵に除される。
1887年(明治20年) 地方制度編纂委員会で委員長を務める。
1888年(明治21年) 外国の地方自治制度と軍事を調査する視察旅行。欧州各国歴訪。
1889年(明治22年) 12月24日~1891年(明治24年)5月6日 第1次山縣内閣。 
1893年(明治26年) 妻 友子死去。
1894年(明治27年) 日清戦争 
1896年(明治29年) ロシア皇帝ニコライ2世戴冠式出席。
1898年(明治31年) 11月8日~1900年(明治33年)10月19日。第2次山縣内閣 
1901年(明治34年) 1月30日日英同盟成立。
1904年(明治37年) 2月4日御前会議 日露開戦が決定する。
1906年(明治39年) 「帝国国防方針案」(私案)明治天皇に上奏。
1914年(大正3年) シーメンス事件後、山縣主導のもと元老会議は行われる。
1919年(大正8年) 1月から2月にかけてスペインかぜに罹患。
1921年(大正10年) 11月4日 原敬暗殺事件が発生。かなり惜しむ。
1922年(大正11年)2月1日 肺炎のため小田原の別邸・古稀庵において死去。享年85(満83歳没)。死去に伴い従一位を贈られる。

●ホロスコープ

1838年6月14日 出生時間不明 萩城下近郊阿武郡川島村(山口県)生まれ。



☀ ♊ 22°33
☽ ♓ 9°37 

第1室 本人の部屋   ♍
第2室 金銭所有の部屋 ♎
第3室 幼年期の部屋  ♏ ♄23°33(R)
第4室 家庭の部屋   ♐
第5室 嗜好の部屋   ♑ ♆10°09(R)
第6室 健康勤務の部屋 ♒ ☽(♓9°37)♅(♓12°26)
第7室 契約の部屋   ♓ ☊(♈10°14R)
第8室 授受の部屋   ♈ ♇(17°43) ♀(♉9°06)
第9室 精神の部屋 ♉ ☿29°30 ♂28°34
第10室 社会の部屋 ♊ ☀22°33
第11室 友人希望の部屋 ♋ 
第12室 障害溶解の部屋 ♌ ♃(♍11°01)

西半球に星が集中のバケット型のホロスコープ。
対人関係♊の☀が照らす第10室。年長者やリーダーの目に留まりやすく、人格を高めるほど周囲の信頼も得て、社会的な立場や名声を得られる運気。
ここに第8室授受の部屋の♇が、風と火が奏でる調和と努力のセキスタイルを形成。♇は第7室の☊と合であり、♈が背景ということもあるので、これも重要なポジションに着きやすいとは思います。先頭に立ってガンガンいくよりも、協力関係や助成などを授受することで、組織やチームを動かしてゆく傾向アリ。
♇と同じ部屋にある♀は♉で輝き、第6室の☽と♅とセキスタイル。☽が関わるので、過敏な一面もあり無理は禁物ですが、より大衆性のある仕事。必要とされて現場と携わってゆく傾向があります。

♀は第12室♃と土同士の調和。♃は6室の☽・♅と2重のオポジション。
困難もたくさん降り注ぐ反面、それを解消するだけの人脈を持つでしょう。
さらに第3室の♏の♄と第9室精神の部屋にある♉の☿と♂が2重のオポジション。
いずれも土と水が奏でるオポジションも特徴的。行動に様々な抑制が掛かりやすく、安易に事が進まない傾向を持っているともいえますが、実利的に仕事はできる人。けれど、飾り言葉が少なく、浮いた言葉を言うのは苦手。周りからの評価もハッキリしそう。
嗜好や傾向に彩を添える第5室の♆は、☊と♀とも繋がっていますので、遊び事も好きですが、有朋は色恋沙汰よりも、和歌や庭園作りといった遊びに傾いています。

学問は父譲り、恩師の言葉を名に刻む青年期。

山縣有朋(幼名辰之助)は、萩城下近郊(現山口県萩市)に住む下級武士山縣三郎有稔・松子夫妻の長男として生まれました。兄弟は5歳年上の姉一人。彼が幼い頃に母は病死したため、祖母の手で育てられます。
身分の低い下級武士の家柄ですが、父の有稔は国学や和歌に優れていました。
漢詩に長け、和歌が好きでたくさんの歌を残している有朋ですが、それらは父からの影響も大きかったのでしょう。元服を迎えると、藩内の仕事に付き合始めます。出世の見込めない家柄でしたが、大柄で武道が好きな有朋は、20代を迎える頃に宝蔵院流(槍術)の使い手として、藩内でその名を知られる存在に成長しました。
藩士の杉山松助に気に入られ、松下村塾への入塾を勧められますが、この時は「吾は文学の士ならず」として辞退しています。

 1858年(安政5年)長州藩は諜報活動要員の育成のため、数名の若者を京都に送ることを計画しました。杉山は有朋を吉田松陰に推薦し、彼は京都で梅田雲浜・久坂玄瑞・梁川星巌らと話す機会を得たのです。この旅で伊藤俊輔(伊藤博文)とも縁ができ、勤皇の志士たちに影響を受けた有朋は、久坂玄瑞の紹介で、松下村塾への入塾をしました。
帰藩するとすぐに通いますが、その後間もなく吉田松陰は投獄され、梅田雲浜が捕縛された関係で江戸へ送還されてしまいます。取り調べで老中・間部詮勝の暗殺計画を話したことから、吉田松陰は安政の大獄で刑死しているので、有朋が彼と接した時間は、わずかな期間でした。

「諸君、狂いたまえ」狂うほど何かにのめり込み突き進め<
これは生前の松陰が、塾生たちに語った言葉の一つで、狂の字にはクレイジーという意味だけではなく、「自分でも持て余してしまうような情熱」という意味も含みます。
熱意溢れる松陰は、塾生たちに狂おしいくらいの情熱を持つことを説き、師から受けた言葉を彼らはそれぞれが、各自の形で体現化しました。
松下村塾出身の志士たちが、どこか過激なのは、松陰の影響力もあったと推測されますが、有朋にとっても、その影響は大きかったのでしょう。吉田松陰が、特別な存在である証として、狂の字を取り「山縣狂介」と改名したのです。

下関戦争の敗戦から大きな学びを得て戊辰戦争へ

諸外国との国力差を実感している幕府は、軍事行動を起こしても日本に勝目がなく、植民地扱いになるのを避けるため、何事も慎重でした。(地震や疫病も流行っていて、国内も混乱していた時期でした)しかし幕府と共通の時事認識がない朝廷や長州藩は、自分たちが望む攘夷行動を正義とし、行動をとらない幕府に、業を煮やしていたのです。

血気にはやった長州藩は、馬関海峡(現 関門海峡)を通過するアメリカ・フランス・オランダの艦船や商船に、無通告砲撃を行ったのでした。単独で攘夷行動に出たのです。
アメリカとフランスは、長州藩に報復攻撃を開始。沿岸に設置した長州藩の砲台を、わずか3艘の戦艦で破壊してしまいます。

これを見ていた高杉晋作は、身分を問わない武装集団「騎兵隊」を創設しました。有朋は発病したリュウマチの療養の傍ら、隊の創設を手伝い、3代目総管・赤禰武人の元壇ノ浦支営の司令に就任しました。
一方日本へ赴任したばかりのイギリス公使は、痛手を受けても外国船への砲撃を辞めない長州藩に対し、アメリカをはじめとする四ケ国に話を持ち掛け、戦争の準備を始めたのです。

イギリスへ留学していた伊藤博文たち5人は、四ヶ国連合艦隊と長州藩が近く戦争になることを知り、伊藤と井上の二人は急遽、長州へ戻ることを決意します。
幕府にはイギリス大使から、指定期間内に長州藩の攘夷をやめさること。できなければ長州藩を攻撃する旨の宣戦布告が届きますが、禁門の変などで長州藩に手を焼いていた幕府は、これをスルー。

戦争回避のために帰国し、イギリスと長州の間に入って交渉をする伊藤と井上を、頭の固い長州藩は受け付けず、ついに下関戦争が始まってしまったのでした。
17艘の連合艦隊を相手は、馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を砲撃するだけでなく、各国の陸戦隊が上陸して、次々に砲台を占拠・破壊。最新鋭の装備で戦う外国艦隊相手に壇ノ浦砲台で応戦した有朋は、今の日本では攘夷が無謀であること。
相手の力量も見ず、勢いだけで安易な戦いを仕掛けることが、どれほど愚かなことか、この二日ほどの戦争で痛感します。 

さらに幕府による第一次長州征伐が起こり、征長軍参謀の西郷隆盛は長州藩に恭順の意を示す妥協案を提示します。これによって長州藩内で幕府に恭順する穏健派と、開国派との間に闘争が起きはじめました。長州藩は壊滅的な危機に陥りますが、この頃の有朋は騎上官赤禰の出奔があり、奇兵隊を掌握。木戸孝允(桂小五郎)をはじめ高杉晋作等、開国派の志士たちは長州藩内を討幕色に変えてゆきます。

2年後の第二次長州征討では、騎兵隊全盛期の時を迎え、有朋は九州の小倉藩を占領し、以降、木戸孝允の下で働きました。戦績が上がる一方で、リュウマチに苛まれ、恭順派との軋轢の中で、育ててくれた祖母が入水自殺をする悲劇も重なります。
身長170センチを超す長身で、槍が得意な武士ですが、大きく運が広がると同時に、ブレーキがかかる傾向や、あいまいさが漂う形として、♄と♂☿のオポジション。♀と♆のスクエア等を持っている有朋。その先も何かと病気の影。肉親の不幸が付いて回ります。この頃既に父親も亡くなって久しく、肉親は5歳年上の姉・寿子だけになったのでした。

1867年(慶応3年)高杉晋作が病死した後、京都で薩摩藩家老の小松清廉と国父島津久光とも面会した有朋は、討幕連携計画を打診しますが、返事が得られないまま帰藩しています。
長州は討幕で意識が固まっていましたが、この頃の薩摩藩や土佐藩等は、総じて武力倒幕には消極的だったのです。有朋も討幕が前提で物事を進めようとしますが、薩長同盟は倒幕を意図したものではなかったため、画期的な返事はもらえないままでした。
静養を兼ねて前線から下がった有朋は、結婚式を挙げています。

伴侶となった友子という娘とは、数年の付き合いでした。彼女の実家は裕福な庄屋だっ
たこともあり、身分が低い下級武士との仲を、家族は反対していたのです。
しかし有朋が奇兵隊総督に就任することで、なんとか父親の承諾にこぎつけました。因みにこの時有朋は29歳。友子16歳。年の差婚ですが、珍しいことでもなかったようです。

幕末維新の志士の数だけ、色恋話のエピソードもありました。有朋にも東京と京都に、一人ずつ妾はいましたが、浮いた言葉が並べられない有朋は、見事なくらい色恋話は少なく、廓で浮名を流した話はほぼなし。
妻の友子をとても大切にしていました。二人は7人の子どもを授かります。しかし、二女・松子を除いた全員、8歳までに夭折し、子どもに先立たれる都度、友子の心身は病んでいったのです。

1868年(慶応4年・明治元年)鳥羽・伏見の戦い後、奇兵隊本隊に出陣の命令が下り、参謀福田侠平を従えて出兵。有朋が戊辰戦争に加わったのはここからになります。
会津征討総督高倉永祜の参謀として、薩摩藩の黒田清隆と共に、双方の兵を率いて北陸地方・越後方面への出陣。長岡藩家老河井継之助と、桑名藩士立見尚文が率いる雷神隊の激しい抵抗を受け、犠牲と苦戦を強いられた末に越後を抑えました。
会津城籠城戦で包囲軍に加わり、戦後処理を見届けた後長州へ帰ります。

「狂介」から改名。日本陸軍の父への道&汚職事件

1869年(明治2年)功労が報われて賞典禄を受けた後、西洋の政治体系や防衛の視察と、徴兵制度等を学ぶため、西郷の弟・西郷従道と共に、欧州各国を歴訪。翌年にアメリカ経由で横浜港に到着しています。
この頃、名前を狂介から、友と共に歩むという意味の「有朋」に改名しています。

明治時代を迎えた日本は、江戸時代後期に結んだ不平等条約があるため、様々なことが外国に有利なまま西洋諸国と貿易を行っていました。
スエズ運河も出来上がり、アメリカ横断鉄道も開通した時代。日本以外のアジア圏は、欧州の植民地でした。そして凍らない港を求めるロシア帝国は、南侵の機会を狙い、新興国日本を取り巻く海外事情は、実に過酷な空気を含んでいたのです。
対外的な危機や国内防衛の対処方法として、日本の経済力をつけること。
そして江戸時代のような各藩の武士が、藩や国の防衛をするのではなく、国民一人一人が自らの意志で国を守るという発想の元、徴兵令が検討されました。
しかし徴兵令を実行するには、身分の平等が基本にあるため、これまでの身分制度は解体する必要があったのです。

武士という立場をなくす徴兵令には、西郷の腹心桐野利明をはじめ、政府側に反対論者が多く、彼等を抑えていた西郷隆盛も、中下層士族の立場を考慮した志願兵制度を構想していました。
廃藩置県も行うため、島津久光を筆頭にお殿様たちはいい顔をしません。そこに大村益次郎が暗殺されたことから、この構想は挫折したままだったのです。

帰国後の有朋と従道は、軍制改革を進めて兵部省を廃止。陸軍省・海軍省に分けることで、ようやく、日本陸軍と日本海軍の土台ができました。
有朋は陸軍大輔となり、西郷の構想の一部を取り込んで編成された親兵を、近衛にする提案が通ると、近衛都督・陸軍中将も兼任することで、陸軍を掌握する立場に立ちます。
山縣有朋が「日本陸軍の父」と言われる所以は、このような経緯から来ていますが、岩倉使節団の留守を預かる政府体制下で、陸軍省の御用商人による不正融資疑惑が起き、有朋は辞表を提出するまで追い込まれています。

明治政府発足と同時に、御用商人になった山城屋和助は、騎兵隊時代に有朋の部下でした。やがて欧州で生糸相場に手を出したものの大暴落。大きな損失を出したまま、フランスで豪遊していたことが発覚し、初代司法卿となった、肥前の江藤新平が目を光らせたのです。
陸軍省の予算を運用と称し、無担保で借りていたことが明るみとなり、有朋も疑われたのでした。明治政府がスタートしたものの、薩長政治体系となっていることから、不満と野望を燃やす他藩出身の政治家たち。そこに徴兵令反対の桐野も同調して、山城屋と有朋への追及が激化したのでした。

追い込まれた山城屋は、関係書類を焼き払った後、陸軍省の応接室で割腹自殺を図ったため、真相解明は不可能となりましたが、それでも政局の混乱とスキャンダルは続いたため、有朋は辞任し、西郷隆盛が近衛都督兼参議に就任することで収めました。
軍を組織してゆく過渡期に、有朋が欠けることを案じた明治天皇、大隈重信や井上馨らの働きもあって、陸軍卿代理として復帰を遂げています。
そして西郷隆盛の理解と協力の元、東京軍管で、1873年(明治6年)。ようやく全国徴兵の前段階にこぎつけました。

士族・卒族・庶人と言った身分にかかわらず、新兵募集が行われたのです。これによって貧しい農村や漁村の次男三男は、仕事にあぶれることはなくなりました。しかし生活が楽になるほど、画期的には行かず、また徴兵と言っても当時はかなりのざる法で、兵としては,黒田清隆が組織した屯田兵の方が、数段上手だったようです。

西南戦争そして自由民権運動が起きる明治

その一方で政局は、征韓論を巡って争いが激化してゆきました。朝鮮出兵を主張する意見よりも、帰国してきた岩倉使節団等の主張する、即時の武力よりも国力優先という意見に、国が舵を切ったことから、征韓論派の政治家や役人の多くが、政局を去る政変が、同じく明治6年に起きます。
離れた者たちは、西郷を中心にした武闘派。
板垣退助を中心とする政治活動で戦う派(これが自由民権運動に結びつきます)に分かれ、それぞれの地で活動を始めました。

有朋自身は他の人物ほど征韓論に首を突っ込んではいませんが、東京を去った武闘派の者たちが、九州方面で反乱を起こすと、任務上やむなくその鎮圧に向かったのです。
戊辰戦争を共に戦った仲間を討つのは苦悩の連続で、そのラストステージが、西南戦争(1877年・明治10年)。大親友だった西郷との戦いでした。  

激闘となった「田原坂の戦い」では直接指揮を執っています。
挙兵が西郷の意志によるのもではないことを知っていた有朋は、
「あなたの決断で、これ以上の犠牲を出さないで済ますことができる」という内容のメッセージを西郷に送っています。しかし、それに応えることなく、西郷の自決をもって西南戦争は幕引きとなりました。
戦争の最中、木戸孝允も病死したことから、最も信頼の厚い2人を、有朋は同時に失っています。
武士の慟哭ともいえる西南戦争は、一つの時代を終わらせる戦いでした。政府軍が勝利したことで、西南戦争の残党は、「政治活動で戦う」板垣の自由民権運動に合流してゆきました。

身分制度をなくして平等を求めた明治時代ですが、国が大きく変わってゆく中で、エリート層と庶民との二重構造ができあがっていきました。
エリート層であればあるほど、国を発展させるために生活習慣・文化・学問等の西洋化を目指したのです。この当時の西洋諸国は、フランス革命の下地となった進歩主義や、社会主義思想が力をつけてきた時代で、伝統や文化を軽んじ、これまでの秩序を破壊することが、自由であるという傾向にありました。
この影響をもろに受けた日本のエリート層の子どもたちは、江戸時代まで継承して来たことを、恥としてしまい、伝統や文化の継承を長く培って守った親世代と、価値観のギャップが激しくなったのです。

そして廃藩置県と税制の平等化によって、民衆側の生活も様変わりしました。
特に農村や漁村は顕著で、かつては地域を管理する庄屋が役人と領民の間に入り、地域まとめての納税をしていたのです。そのため庄屋は大きな力を持っていましたが、領地内の病弱で働けない者や、身寄りのない者の面倒を見ることも彼らの仕事だったのです。
しかし、個の生き方が重視され、納税も個人となったことから、このシステムが継続できなくなったのです。
弱者の生活を誰が補うのか、廃藩置県廃止に対殿様たちが難色を示したのは、このような背景もありました。

農家や漁村の次男三男は、徴兵の他に近代化のための工場勤務など、故郷を離れて上京すれば仕事は選べるようになりましたが、労働環境も整っておらず、都市部で生まれ育ったエリートとの格差も生じ、不平不満がたまりやすい状態でした。
このような社会背景の中、板垣の所には、西南戦争などに敗れた残党だけでなく、学者や文化人。商人なども集まり、自由民権運動に参加をはじめたのです。
国民の声を国に反映するための自由民権運動に、国に対する反発や憎悪。社会主義思想が浸透することで、彼らは様々な問題を起こしていきました。

終戦後の有朋は、勲章・年金を与えられ、大名の下屋敷を買い取り、「椿山荘」と名付けて庭造りを始めています。贅沢で優雅な生活にみえますが、陸軍内部の権力闘争や、一般兵が引き起こした暴動事件(竹橋事件)等の心労で、療養生活を送っています。
そして政局の派閥闘争も起きる中、大隈重信一派が政権から追い出された明治14年の変以降、さらに自由民戦運動が活発化することに、有朋は危機感を強めました。
知識ある一部の者が、純粋な若者や下層民を、惑わせ騙して暴力を誘発させる活動が自由民権運動。そう判断した有朋は、軍内部に軍事勅論を発行し規律強化を図ります。

そして巷の自由民権運動家の取り締まりを強化してゆきました。
これらが山縣有朋の評価を下げる要因なのですが、政党活動と称しながら、福島事件や加波山事件等、テロ活動を起こした側にも問題はありました。幾多の事件を起こした結果、板垣の自由党は解散。大隈が立ち上げた立憲改進党は、休止に追い込まれます。

1895年明治(18年)内務大臣となった有朋は、日本の立憲制度を考え、市制・町村制・郡制・府県制からなる地方制度を目指して動きますが、画期的に進んだ感はありません。 
地方制度を実施していたドイツ視察から帰国直後、転機が訪れます。黒田清隆内閣が総辞職し、内閣総理大臣の椅子に座る話が急浮上したのでした。
薩摩の黒田が退いた後、なんとか長州からの総理が欲しい長州閥の説得と、「軍人のままでよし」と明治天皇のお墨付きをもらい、1890年(明治23年)12月24日に第一次山縣内閣が始まります。

ホロスコープ的には、N☀にT☊が重なり人脈運や人気運上がり時。♊には☊の他にT☽♆♇が入室しています。これらの星たちは、口下手な弁舌にエールを送るように、有朋のN☿♂とコンジャンクション。☀同士はオポジション。
彼のN♃は♍を進む♄とガッチリ手を結び、さらにはT♂とオポジション。かなり力強い配置で、ある意味人生の成功と、次のステージの荒波が掛かってきていることを告げています。
第一回衆議院総選挙が実施され、第3代総理大臣山縣有朋の元、第一回帝国議会が開会されました。冒頭施政方針演説はもちろん、この時「教育勅語」も発布しています。

この「教育勅語」にはかなり誤解があるようで、これは西洋化する国民に、日本の良さを思い出してほしい。と願う君主の気持ちを綴った著作物の一つでした。
明治天皇も政府側も、学校で強制的に暗記や唱和させることをする意思は、当初なかったのです。それ故に原文には、明治23年10月30日の日付が入っていますが、大臣の副署を入れていません。(原文の写真はネットでも確認できます)

エリート層の若者たちの中には「あれは一般民衆向けに発せられたもので、我々向けのものではない」「我々は死に物狂いで西洋を学んでゆく立場だ」と、ガン無視状態の人もいたそうです。学校での暗記暗唱等が顕著になったのは、1907年(明治40年)以降。学校現場の視学制度が活発化した辺りからということが、近年は言われてきています。

第一次山縣内閣の在任は1年5か月と実は短めでしたが、予算案を巡り激しい攻防の末、歴史初アジアにおける議会は無事終了。
そして内閣辞任から日清戦争が起こるまでの、ほんの数年の間に、有朋にとって最愛の妻友子が、この世を去りました。妻を失うまでの間に、次女を除いた子ども6人。
すべて8歳を迎える前に亡くなっているため、姉の子どもを養子に向かえて家系をつなぎましたが、私生活はかなり寂しかったと思います。
これらの出来事が有朋の心身を蝕み、大隈重信と張り合う如く、造園に心を傾かせたと思いますが、大きな運を動かす人には、それに見合う重い代償も必要なのかもしれません。

日清戦争の時56歳。有朋は現地で兵士たちを勝ち戦に導きますが、持病のリューマチの他、胸部の痛み等に苦しめられていた体調がさらに悪化。兵士たちを残し、やむなく帰国しています。日清戦争に勝った日本は、大量の賠償金と、台湾という領土を得たことで活気づいてゆきました。
その中でロシア帝国を警戒した有朋は、あえて国同士の提携を考えますが、ロシア主導による三国干渉が発生し、講和問題への発言はしなくなります。その後、ニコライ2世の戴冠式に出席する等、戦争回避のためロシアと交渉に臨み、「山県・ロバノフ協定」を締結しています。

超然主義でも政党政治でもないリアリスト

元帥に昇格した有朋は、薩長閥外の初総理大隈重信の辞任後、第二次内閣を組閣します。1898年(明治31年)11月8日-1900年(明治32年)10月19日。
地租増徴の実現。高等文官試験導入・軍部大臣現役武官制が、主な功績です。
税制改正を巡って第二次松方内閣と、第三次伊藤内閣が倒れた後、引き継いだ地租増徴は通さねばならない状況だったのです。

憲政党への説得や賄賂など、正攻法と裏工作の両面で協力を取り付けた末、本来の増税より部分的な引き下げと、目的がどこまでも日露戦争だったため、5年間限定と定めたのは功績だと思います。しかし、増税なので有朋の評価を下げる要因にはなりました。
高等文官試験導入は、お役所勤めが薩長閥メインで優先採用されていたことにメスを入れ、試験に合格した者しか任用できないようにしたものです。
これは内部反発が大きかった中、ほぼ独断で進めます。

軍部大臣現役武官制は、陸軍の大臣と海軍の大臣を任命できないと、内閣は組閣できない上、任命された両大臣には、就任に対する拒否権があるという法案でした。
議会が軍事費を削るのを防ぐのが、法案成立の目的と思いますが、軍の立場が強くなるため、大きな反感を買う法案となったのです。
他にも細かい所で、女性や未成年者の政治活動禁止や、ストライキの禁止等を行ったため、庶民から反感はかなり買っています。

避けたかった日露戦争が始まった時、参謀総長として参戦。
激戦を勝ち戦に塗り替えていった指揮官の一人となりました。戦後はロシアとの講和実現に尽力します。その結果、日清戦争の時ように、戦争に勝ったのに相手国へ賠償を求めないことを決めた日本政府に対し、国民側の不満が募り、日比谷公園で大規模デモが起きました。

時に協調し、時に反発し合った盟友伊藤博文が暗殺され、明治天皇が崩御された後、大正天皇の時代を迎える中、第一次世界大戦、宮中某重大事件、原敬暗殺未遂……と、難題が降り注ぐ中、己の信頼した部下たちを「山県閥」として有朋は支え続けました。
賛否別れる所ですが、有朋の影響でアメリカとの関係が保たれたこともあったのも事実です。
1922年(大正11年)2月1日13時30分。肺炎と気管支拡大症のため小田原の別邸で、息を引き取るまで、ずっと体調不良に悩まされつつも、枢密院議長を勤めあげました。

椿山荘と大隈庭園をはじめ、よく引き合いになる山縣有朋と大隈重信ですが、日比谷公園で行われた大隈重信の国葬には、多くの一般人が駆け付けましたが、山縣有朋の国葬に、一般人の参列はほとんどいなかったそうです。
片やの取り締まりと増税。軍隊に有利な法改正をした庶民の敵。片や自由民権運動を広めた側で庶民の味方。という目線は、近代まで続き、山縣有朋=軍国主義の評価を下す人も多いです。
それだけに有朋が光線的な人物に見られていましたが、近年、欧米人対アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」で、アメリカとも対立すべきでないと説く「外交的にきわめて慎重な姿勢を崩さない政治家。従来の軍国主義的イメージとは異なる人物」と評する傾向が見られます。

伊藤之雄氏は日露戦争・シベリア出兵・北清事変で、有朋が列強の意向を確認する慎重な動きをみせたことと、陸軍全体の統制を重視したことを指摘。
下関戦争や三国干渉の苦い経験から、列強への警戒感をもち続けた人物だからこそ、勝つための軍を率いることができたのかもしれません。
ロシア帝国を相手に辛くも勝ったことから、大山巌・東郷平八郎と共に、イギリスからメリット勲章を授与されたのも、歴史上大きなことでした。
太平洋戦争への道は、有朋の説いた理想や精神を忘れた後継の軍人達によって、開かれたととらえています。

国の繁栄。企業の繁栄。家の繁栄の分岐点、継続か没落かは三代目で決まります。(もちろん、その前の世代も大切ですか)新しい政治形態を手探りで進めた時代は、用心深い彼だからこそ務められ、明治という長い時代の足場組ができたのでしょう。
幕末を生き延び、明治時代も軍と政治の両方で、君臨し続けた長州元勲の代表格山縣有朋。それだけに金と権力への執着も強く描かれますが、持病に苛まれ、家族縁の薄さと親友を戦乱の中で失った面も描くと、一味違った面が見えてくると思います。