慶応4年&明治元年の干支「戊辰」が、名称の由来だった戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦いから始まり、江戸所無血開城で潰えることはありませんでした。新政府軍は会津藩討伐という目標を目指し、戦火を北上させてゆきます。
越後長岡藩の軍事総督河井継之助は、準備を整えた上で、戦争回避のための話し合いを新政府軍に求めました。しかし、長岡藩は新政府軍と旧幕軍のどちらにも着かない中立藩として存在し、双方の和平のために間に入るという考えは理解されず、長岡藩は新政府軍と徹底抗戦の道を進むことになったのです。
勝海舟や西郷隆盛がその政治理念と能力を認め、新政府を支える逸材として、黒田清隆がリクルートしたかった「長岡の蒼龍」。最後のサムライ河井継之助。
今回は彼のホロスコープと人生を見てゆこうと思います。

まずはいつものように、略歴とホロスコープです。

河井継之助略歴(ウィキ&その他資料参考)
1827年(文政10年1月1日)長岡城下で長岡藩の中級藩士・河井代右衛門秋紀と貞の長男として誕生。「継之助」は幼名で「つぎのすけ」諱は秋義
1850年(嘉永3年)側用人梛野嘉兵衛の妹・すがと結婚(23歳)
1852年(嘉永5年)単身江戸遊学。古賀謹一郎や佐久間象山らに学ぶ。
1853年(嘉永6年)ペリー来航。藩主牧野忠雅に建言書提出。御目付格評定方随役に任命され帰藩。2ヶ月で辞職。
1857年(安政4年)家督を相続。外様吟味役に任命。
1859年(安政6年)古賀の久敬舎に再入学するため江戸へ再度遊学。さらに西国へ遊学し、備中松山藩の山田方谷に入門。その間、長崎にも遊歴。
1860年(万延元年)横浜でファブルブランドやエドワード・スネルらと懇意になる。
1863年(文久3年) 京都詰となる。藩主牧野忠恭の所司代辞任を要請。公用人として江戸詰。忠恭の老中辞任を要請。叶わず辞職、帰藩。
1865年(慶応元年):外様吟味役再任。3ヶ月後、郡奉行に就任。藩政改革を開始。
1867年(慶応3年)11月9日(10月14日)大政奉還。12月に藩主牧野忠訓と共に上洛、朝廷に建言書提出。
1868年(慶応4年)1月3日(12月9日) 王政復古の大号令。1月27日(1月3日)鳥羽・伏見の戦い起こり、戊辰戦争始まる。5月3日(4月11日) 江戸城無血開城6月16日(閏4月26日)継之助は軍事総督となる。6月21日(5月2日)小千谷談判決裂。新政府軍と抗戦開始。10月1日(8月16日)戦闘中の傷がもとで死去。享年41。

ホロスコープ1827年1月27日長岡藩(現在新潟県長岡市)生まれ

太陽星座 ♒ 6°28
月星座  ♒ 2°33 新月生まれ。

第1室 本人の部屋   ♉ 
第2室 金銭所有の部屋 ♊ ♄(♋0°10・R)
第3室 幼年期の部屋  ♋
第4室 家庭の部屋   ♌
第5室 嗜好の部屋   ♍
第6室 健康勤務の部屋 ♎ ♃14°25 ☊(♏20°24・R)
第7室 契約の部屋   ♏ 
第8室 授受の部屋  ♐ ♀27°40
第9室 精神の部屋   ♑ ♆14°32 ☿19°53 ♅24°52 ☽(♒2°33)☀(♒6°28)
第10室 社会の部屋  ♒
第11室 友人希望の部屋 ♓ ♂22°21 ♇(♈3°35)
第12室 障害溶解の部屋 ♈

第2室♄以外は、南半球の第6室~第12室の間で星が散らばっています。
♃と☊以外の惑星は、第8室以降、第11室。タイプで言えば、バケットタイプが近く、独創的で気ままが好きな♒の☀と☽の合。目的のために努力を惜しまない面も強く、目的一辺倒になってしまうと、周囲との対立がしょうじやすくなる傾向を持ちます。
正午で2度。夜の生れなら☽は☀と完全に重なり、新月の中の新月生まれ。より新しいこと、独創性が強くでるかもしれません。
盆踊りが好きで、若いころはばれないように面をかぶって、領民たちと共に盆踊りを楽しんだと、ユニークな逸話もある河井継之助ですが、☽の後ろに控える♅♆☿は第9室♑で一つの塊となっていて、実務能力が高く、合理性を求める性質を反映しています。
♅と♆は♏の☊。そして♓の♂は、土と水が織りなす60度。この☊と♓の♂は、水星座の120度を形成。継之助の長所を引き出す役と、活動力に影響を与え、☿と♆は、♎の♃と90度。頭の回転が速く、口が立ちますが、理屈や筋が通れば、人に合わすこともします。理に合わない、納得できない相手には、一ミリも譲らない頑固さを見せる可能性大。
第2室に♄を持つので、お金回りは基本的に人並み以上の努力が伴いますが、不動産関係からの収入や長期の財政計画等にはプラスとなる傾向があります。
♄は8室の♀とオポジション。結婚によって地位が上がる傾向もある組み合わせですが、実際、結婚相手のすがは、彼の実家よりも位の高い家から嫁いでいます。 
背景にそうなる宿命を下地に+α本人の実力で藩内での立場を挙げていきました。
どこか俺様気質と責任感が入り交ざるのは、不動宮の☀と☽に、♑に固まるコンジャンクションが多も一因ですが、 幼いころ暴れん坊だったのは、第11室にある♓の♂。そして♈の♇とスクエアも手伝っていたかもしれません。

越後の風雲児生まれる

そう、幼年期の継之助はやんちゃで負けず嫌いでした。
武家の子は幼い頃から学問・武術・馬術等を習います。師について礼儀作法やしきたりも身に着けてゆくのが通例で、継之助も習い事をしましたが、師に向かいことごとく口答えをし、注意も聞かず勝手にふるまうので、厄介払いをされたそうです。
風と土のコンジャンクションを持つ継之助。子供時代は感情のコントロールがうまくできないため、かなり空回りしたと思いますが、威張り散らす年長者に屈しない正義感も強く、それが向上心に結びついていたのでしょう。
やがて元服を迎え「秋義」という諱を受けますが、彼は幼名の継之助を使い続けました。 
自身の名前にこだわった辺りも、彼の性格をうかがわせる気がします。
河井家は7万4千石を持つ越後長岡藩藩主牧野家に仕える能吏の血統で、継之助の父親は藩の財政を預かる勘定頭を務め、僧侶の良寛とも親交を深める教養人でもありました。
父親の影響もあるのか、藩校の崇徳館で学び始めた継之助は、「知識と行動は一致すべき」とする陽明学に関心を持ち、やがて王陽明を祀り、名臣になることを誓います。
20代前半に結婚しますが、相手は半安政の藩政改革を主導した村松忠次右衛門の一族で側用人を務める梛野嘉兵衛の妹のすが(7歳年下)でした。この結婚は継之助にとって出世の糸口になりました。しかし、それだけでなく、この頃の継之助は熱心に日本や中国(宋・明時代)の儒学者、哲学者の語録や明・清時代の奏議書等の本を写本し、若手の気鋭の藩士と議論も活発に行い、自ら積極的に動いたのです。
体を動かせば知性や精神も、活性化されリズムが付きます。このリズムが彼の運勢に勢いをつけ対人運を強めています。
後に継之助が行った慶応期藩政改革の際、その中心核となった小山良運(こやまぜんげん)や花輪馨之進(はなわけいのしん)。三間 正弘(みつままさひろ)、三島億二郎(みしまおくじろう)と、「桶党」と呼ばれるグループを形成したのもこの頃でした。

江戸遊学と思わぬUターン人事

遊学のために結婚から2年後、単身で江戸に出た継之助は、古賀謹一郎の門をくぐり、佐久間象山から砲術を学びました。
「佐久間先生の砲術はすごい。でも腹に面白くないものがある」という、佐久間象山に対する感想が残っていて、その人が持つスキルと性格とを分けて考えることができたとも言えますが、佐久間象山の人柄には抵抗感があったようです。
遊学の翌年1853年7月8日(嘉永6年6月3日)。江戸湾に現れたペリー艦隊によって、日本中がてんてこ舞いになる中、幕府で老中を務めていた長岡藩当主牧野忠雅は、家臣たちに対して、長岡藩に対しての意見を求めました。
継之助も藩政改革案をまとめた建言書を提出し、これがお殿様の目に留まります。
御目付格評定方随役が与えられ、国へのUターン勤務を命じられた継之助ですが、待っていたのは、藩主が独断で行った人事に、強い不満を持つ藩上層部の風当たりでした。
そのため何もできず動きが止まったまま、時間だけが過ぎた2ヶ月後。
継之助は辞任することになります。辞めるに際して、門閥弾劾の建言書を藩主に提出しますが、特に返事がないまま日が過ぎました。
1855年(安政2年)ようやく藩から届いたのは、牧野忠雅の世子・忠恭のお国入りに辺り、経史の講義を行うようにという命令だったのです。
もしかすると、門閥弾劾の建言書をスルーする代わりに、継之助に対してなにがしかのチャンスを与える意図があったのかもしれません。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」と、命令を跳ね除けてしまいました。
藩庁からのお叱りを受けますが、射撃の練習に熱を入れた継之助は、三島と連れ立って奥羽を遊歴したり、しばらく自由に過ごした後に家督を継ぎます。

再び遊学。その足は西国へ

外様吟味役になると、村同士の諍いを収めるなどの仕事をこなした後、1858年(安政5年)の冬、雪深い越後から再び江戸の古賀謹一郎の久敬舎に戻ると、経世済民の学を収める山田方谷の教えを請いたくなり、大井川を越えて備中松山(現在の岡山県高梁市)まで旅に出ました。
教えを請いたい反面、当初は農民出身の山田に対して尊大な態度をとっていた継之助は、手紙にも彼のことを「安五郎」と、通称で認めていたのです。しかし、実際の山田と会って話し、言行が一致した振る舞いと、彼が進めた藩政改革の成果を見て態度を改めました。
山田の元にいた数か月間。松山を足掛かりに、熊本や長崎なども観て回った後、横浜にしばらく滞在。ここでファブルブランドやエドワード・スネルらと懇意になって長岡へ帰藩していますが、山田の教えと、様々な見聞が、その後の継之助に大きな影響を与えます。

1862年(文久2年)11代藩主・牧野忠恭が京都所司代となったことから、合わせて京都へ上洛しますが、欧米に対する攘夷決行に、殿様は京都所司代を辞任。江戸の戻ると老中という重責が待っていました。
公用人に命じられ江戸詰となった継之助は、幕府もろとも長岡藩が失速することに危機感を抱き、京都所司代に続いて、老中職に就くことも反対します。
何故辞任を撤回する必要があるのか、継之助にその説得を求めた常陸笠間藩主・牧野貞明(分家)を罵倒してしまったことから、継之助は公用人を辞め帰藩しました。
☀と☽が言語を操る風星座の♒にあり、現実主義の♑にある☿・♅・♆。ここに♎の♃が加わるため、言葉に力と勢いを持つ継之助は、論理性と合理性で正論を展開する気質があり、話がまとまりにくい欠点が付いて回ります。

藩政改革を進める風雲児

慶応元年(1865年)。世間がとてもきな臭い時代の中で、長岡藩主牧野忠恭は、国に帰った継之助を外様吟味役に再任。さっそく当時の案件だった庄屋と農民の争いを解決した継之助は、3ヶ月後に郡奉行に昇進します。
その後、年寄役へと異例の出世してゆくのですが、賄賂を禁止や武士の不当な取り立てから農民を救う等の農政改革、灌漑工事の他に商業発展のために川税や株などの特権を解消。風紀粛正で賭博・遊郭の禁止などを実施。
軍制上の中央集権を目指した兵制改革も進めます。藩士の知行を100石より少ない者は加増。100石より多い者は減知という門閥の平均化を断行したので、反発もあったと思いますが、藩主の信任の下、かなり思い切ったことを行っています。
長岡の生産物を京阪に持ち込み、利益を上げることも行った結果、郡奉行に就任した当時、12万両ほどあった藩の赤字が、3年足らずで、再建だけでなく約11万両の余剰金を積み上げたのでした。長岡藩は豊かになった財力をもって大砲30門を配備。全藩士にミニエー銃を持たせ、兵学所を設け着々と他藩にない近代武装を整えてゆきました。

1867年11月9日(慶応3年10月14日)徳川慶喜が大政奉還を行い、1868年1月3日(慶応3年12月9日)に王政復古の大号令が発令されるまでの、わずかの2か月弱の間に、継之助は新藩主牧野忠訓と共に上洛します。
そして藩主の名代として議定所へ出頭し、公武周旋のため徳川家を擁護する内容の建言書を、朝廷に提出しますが、これが顧みられることはありませんでした。
1月27日(慶応4年1月3日)。会津藩・桑名藩を中心とする旧幕府軍と、新政府軍との間で戦闘が鳥羽伏見で開始され、戊辰戦争が始まったのです。
継之助をはじめとする長岡藩は、大坂を警衛していたこともあり、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを、早めに知ることができました。幕府の老中を三代にわたって務めた経緯もある長岡藩は、譜代大名ということもあり、薩摩・長州が組織する討幕派とは対立する位置にありますが、それ以上に目をつけられる大きな理由は、新潟港でした。
長岡藩の領内にある新潟港は「日米修好通商条約」によって開港した港の一つで、東北諸藩にとって、西洋から新式の武器が買える港であり、重要な拠点だったのです。
新政府軍にとっては、敵が武器を買う港のため、何があっても長岡藩を抑え、新潟港を占領する必要があったのでした。

北越戊辰戦争を止められるかどうかの小千谷談判

できるだけ戦争を避けたい。戦に消極的だった継之助は急ぎ江戸へ戻ると、まずは藩主を先に長岡に帰します。そして素早い動きで江戸の長岡藩邸を整理しました。
米をはじめとして様々なものの売却し、莫大な資金を作ります。その金でイギリス人武器商人や、アメリカ人武器商人のスミス、ファブルブラント商会などから、アームストロング砲とガトリング砲の他、パーカッションロック式の前装式小銃であるエンフィールド銃。後装式小銃のスナイドル銃、シャープス銃といった最新兵器を購入。
これらの武器はすべて新潟港に着けて、長岡へと運び込んだのでした。
当時の日本に3門しかなかったガトリング砲。そのうち2門は河井継之助の奇策によって長岡藩が所持したのです。

江戸城無血開城によって、江戸城の焼き討ちができず、徳川慶喜の首も取れないことにフラストレーションを貯めた新政府軍側は、東北方面に散った幕府軍を追い、会津藩討伐のため「東征」の意志を固めてゆきました。
越後に向けて出発した北陸道鎮撫総督越後討伐軍ですが、隊列は高田城下で二手に別れ、一つ部隊が長岡城下目指し進軍します。
やがて芋坂・雪峠方面で新政府軍と会津藩兵とが激突し、会津藩が敗れたその日、継之助は家老上席兼軍事総督に任ぜられ、長岡藩の全権を委任されました。
勝ち進む新政府軍が、すぐ手前の小千谷に進駐すると、世襲家老をはじめ上級家臣の中には、新政府への恭順による非戦を主張する者も出てきました。
『ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しない。
南北アメリカに現存する植民地や属領を承認し、干渉しない。』というモンロー主義の影響を受けた継之助は、戦争回避のために新政府軍との話し合いの場を持ち、長岡藩は旧幕府軍と新政府軍のどちらかの味方になることなく、どこまでも中立な立場で調停役を行う事を申し出ることを主張します。

この頃、北陸道鎮撫総督越後討伐軍の参謀であった黒田清隆は、河井継之助の政治手腕に価値を見出し、長岡の降伏と彼の新政府へのリクルートを真剣に考え、継之助あてに手紙を出していますが、運勢のいたずらか、その手紙が継之助に届くことはなかったのです。

1868年6月21日(慶應4年5月2日)談判は小千谷にある慈眼寺で開かれましたが、談判相手の中心人物は、山形有朋でもなく、継之助を欲しがった黒田でもない、23歳の若き土佐藩士岩村精一郎でした。
密偵から長岡藩の重武装の情報を得ていた岩村は、「治国平天下」を訴える長岡藩主からの嘆願書を携え、会津藩との仲介を申し出る河井継之助を前に、これは長岡藩の時間稼ぎと判断していたのです。
そうとは知らずに討幕の理由を問う継之助は「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら、本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言い切り、
論破ができない岩村が憤然と席を立ってしまい、談判は30分ほどで決裂となりました。

自分の目の前に坐した裃姿の河井継之助との会談が、歴史を左右する『交渉の場』であり、どれだけ重要なものだったかを岩村が知るのは、後年になってからですが、継之助の真意がわからずに疑いを抱いたのは彼だけでなく、長岡藩内部にもいました。
さらに長岡藩に同盟を求めていた会津藩も、藩の境に配備した兵をこの話し合いのために撤退させた継之助に対し、「恭順のための会談をするのでは」と疑ったのです。
政府軍にも旧幕軍。そのどちらかに肩入れすることなく、自主自立の藩として、双方の間に立って調停を行うことが、戦を収める最短コースであり、この話し合いは、うまくいくであろうと思っていた継之助の構想は、裏目にでてしまったのでした。

これを星回り的に見てみると、夏至というのも大きなポイントですが、T☀は♊の終わりに、T☽は♋にあり、満月を迎える手前で継之助のN♄と合。
♋にはT♅と☿もあり、♑にある継之助のN☿♅♆とオポジション。ここをT☀がなぞるように通過し、さらには♒にあるN☀☽を刺激。運気が強いと言えば強いのですが、ものごとが思わしくない時は、星の巡りも重く、♈にあるT♃と♆が、N♃と♈♇を刺激するので、何かと物事が決まりにくく流れやすいのはあると思います。

談判決裂後、戦いに対して消極的だった川島億次郎(三島億二郎)に、新政府側への恭順の意として、兵士と軍資金を提出するようにという命を受け入れ、自分の首と三万両を岩村に差し出せば戦争は避けられるから、自分を斬るように継之助は言いますが、川島はこれを拒絶します。
翌日本陣に諸部隊長を招集した継之助は、新政府軍との徹底抗戦の宣言。長岡藩の態度を黙認するわけにいかない新政府側は、北越方面の平定に乗り出し、こうして「奥羽越列藩同盟」の先陣を切って、長岡藩は北越戊辰戦争最大の激戦地へと姿を変得てゆきました。

長岡城をめぐる攻防。そして沈む青龍

戦争の序盤は地の利を生かした継之助の巧みな戦略と、ガトリング砲をはじめとする近代的な最新兵器による武装で長岡藩兵は、新政府軍の大軍と互角に戦いました。しかし新政府軍の絶対的な兵力。物量戦によって徐々に押され始め、とうとう長岡城を奪われてしまいます。
この直後、長岡では領民による人夫調達の撤回と米の払い下げを求めた世直し一揆が発生。吉田村・太田村(現在の燕市)を始め、大規模な一揆へと広がったため、長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を分けて、吉田・巻方面に派遣して鎮圧に乗り出さざるを得ませんでした。
これによって長岡藩の兵力は減少、人夫動員も困難となり、継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れてしまい、結果的に新政府軍に有利に働くことになったのです。
長岡城を奪還するため戦況を立て直し、魔物が棲むと恐れられた大湿地帯の八丁沖での奇襲作戦を継之助は決行します。
この奇襲は成功し、決死の覚悟の奪還戦で取り戻した長岡城ですが、一時退いた新政府軍の逆襲が始まり、この戦闘で継之助は左膝に銃弾が命中し、重傷を負ってしまいます。
3か月にも及ぶ戦闘で長岡城下は焼き尽くされ、新政府軍に反撃する余力を失った河井継之助率いる長岡藩は、会津藩に向かって敗走をすることになったのでした。

「八十里腰抜け武士の越す峠」これは重傷を負い担架に乗せられて難所の多い八十里峠を越える際、継之助が詠んだ自嘲の句です。ようやく会津領に入る頃、様態が悪化した継之助は、軍医松本良順(まつもとりょうじゅん)の診察を受けますが、破傷風菌に侵されていました。
そして1868年10月1日(慶應4年8月16日)。会津藩塩沢村の医師、矢沢宗益の家で死期を悟った継之助は、自ら火葬の指示をした日の夜。41年の生涯に幕を降ろします。

継之助の亡き後、会津へ向かって進む長岡藩士たちは、会津藩只見村の人たちに温かく迎えられます。そして会津坂下の定林寺に、約600名が集結すると、新たに6小隊を編成して、激戦の会津に転戦してゆきました。次期軍事総督として期待されていた山本帯刀とその部隊も、飯寺の戦いで非業の死を遂げ、戦死者は300人以上に及び、領民にも多くの犠牲が出た後に、長岡藩は降伏します。
牧野家の断絶は免れますが、長岡藩は「賊軍」として蔑まれ、禄高も2万4千石に滅封されてしまい、人々の暮らしは困難を極めました。
焦土と化した長岡を復興させるために、継之助の親友だった三島億二郎と小林虎三郎は、「質朴剛健」の気質を振り絞り、殖産や教育に尽力を注いでいきます。
一揆を起こした領民への取り締まりが厳しかったことと、北越戊辰戦争の敗戦の責任は、継之助にあるため、それだけに長岡での彼に対する評価は、厳しいものもありますが、継之助の命運を尽かせたのは、新政府軍の兵器ではなく、実は領民の一揆による国力と作戦好機の逸失にありました。兵力を一揆の方にも削ぐことになり、一度取り返した長岡城を守り切ることができず、新政府軍に奪い返されることになったのです。

長年の付き合いがある会津藩からは恭順を疑われ、相手からは「味方でなければ敵」と認識されてしまいましたが、争わない故にどちらにも属さず、独自の国として両者の調停役を行うという河井継之助の考え。この考えに似た国として、永世中立国のスイスが当てはまると思いますが、どこに国とも同盟を結ばない考えの元、EUに加盟していませんし、他国間で戦争が起きても、戦争には参加しない。すべての国に戦いを挑まずは、すべての国が「敵」にもなるため、スイスは徴兵制で国費をかけて重武装をしています。
実はかなり高度な知恵と経済力がないと、維持できないことなのかもしれません。

先方の判断が自分の考えとイコールにはならないこともありと、継之助が読み取れなかったこと。談判相手が経験の浅い若者だったことも、残念な結果に結びついた要因とも思いますが、幕末の混乱期に、まったく新しい力関係の国造りを目指した人でした。
勝海舟に「あれはなかなかの人物だが、惜しいことをした」と言わせ、西郷隆盛に「確かに一代の傑物である」と言わせ、黒田清隆が新政府のために欲しいと思わせた河井継之助の藩政改革と戦略センスは、今の時代こそ触れて学ぶ必要があると思います。

司馬遼太郎氏の小説「峠」を元に作られた映画「峠・最後の侍」が、近日公開ということですが、関心を持たれた方は是非ご覧になってください。

記事を書くにあたって、新潟県長岡市の「河井継之助記念館」を訪ねました。JR長岡駅から徒歩圏内の記念館は、河井継之助の屋敷跡にあります。今回は時期が時期なので、あまりあちこちよらず、車で直行直帰でした。
敷地裏には駐車所もあるので、車で訪れることも可能です。

彼の足跡だけなく、7歳年下の奥方すがさんが、留守がちな夫をどうみていたのか、どのような女性だったのか、垣間見ることができました。

長岡市の歴史も知ることができますので、必見です。

ガトリング砲(複製)、砲身の細さに驚きました(写真の撮影と掲載は記念館から許可をいただいております)。