「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言ったのに、「板垣死すとも自由は死せず」が定着してしまった板垣退助。
第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)に50銭政府紙幣。1953年(昭和28年)には100円券紙幣の顔に選ばれた超庶民派政治家です。日本史の教科書にも載っている人物ですが、それは明治時代の彼の話で、戊辰戦争が始まるまでは、あまり表舞台に出てこない人ですが、どんな星回りだったのか、土佐藩出身なので、坂本龍馬との絡みがあったのかなども含め観てみたいと思います。

ではまずいつも通り略年表とホロスコープです。

板垣退助年表

(ウィキ&複数資料より抜粋)

1837年5月21日(天保8年4月17日)高知城下中町(現、高知県高知市本町通2丁目)土佐藩上士乾正成の嫡男として誕生。諱は正躬(まさみ)で、後に正形(まさかた)と改める。本名は乾正躬。乾家は武田信玄の重臣板垣信方を祖とした家柄。「板垣」も「退助」も後からつけたものです。(本編は鳥羽伏見戦まで「乾退助」以降を「板垣退助」とします)
1856年(安政3年)高知城下で問題を起こし神田村に蟄居。父の死後、家禄を220石に減ぜられ家督相続が許される。親友後藤象二郎の叔父土佐藩政務の吉田東洋に目をかけられ、藩の免奉行職(税金の管理官)、土佐藩主山内豊信(容堂)の側役を務める。
1859年(安政6年)安政の大獄で山内容堂 謹慎が下される。
1861年(文久元年)江戸留守居役兼軍備御用となり江戸へ出向。
1862年(文久2年)土佐勤皇党に恩師吉田東洋が暗殺される。
1863年(文久3年)高輪の薩摩藩邸にて、大久保一蔵(利通)と会う。公謹慎の解かれた容堂公の元に、勝麟太郎(海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議。
1865年(慶応元年)洋式騎兵術修行を命ぜられて江戸でオランダ式騎兵術を学ぶ。
1867年(慶応3年)薩土盟約を結ぶ。
1868年(明治元年) 迅衝隊を率いて戊辰戦に参加。新政府軍東山道方面軍 京出軍総指揮官となる。岩倉具視の妙案で大垣にて板垣に改名。板垣退助参謀の新政府軍 甲府城を接収(新選組を撃破)。三春藩 新政府軍を迎え入れる 板垣に秘密誓約書を提出。二本松より白河に入り、会津鶴ケ城攻略を開始。
1871年(明治4年)参議になる。政界入り
1873年(明治6年)征韓論が受け入れられず板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣 辞表提出。
1874年(明治7年)高知県で政治の団体立志社を作り、「民撰議院設立建白書」を政府に提出する。
1881年(明治14年)自由党を作る。
1882年(明治15年)4月6日 岐阜で演説の途中で襲われる。
「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が有名になる。
11月11日 板垣退助、後藤象二郎 欧州に出発。翌年帰国。
1889年(明治22年)2月11日大日本帝国憲法が公布される。
1891年(明治24年)立憲自由党 自由党に改名し板垣退助を総理とする。大隈重信と出会う。
1896年(明治29年)内務大臣として入閣。
1898年(明治31年)大隈重信と憲政党を作る。日本初の政党内閣隈板内閣に参加するが、4ヶ月で失敗する。
1900年(明治37年)政治家を引退する。
1913年(大正2年)立憲青年自由党の相談役に就く。
1914年(大正3年)台湾同化会の設立に携わる。
1919年(大正8年)東京都で亡くなる。享年82歳

ホロスコープ1837年5月21日 12時設定 高知市



太陽星座 ♉29°48(17時に♊となるので、夕方生まれなら♊可能性大)
月星座  ♐10°35
第1室 本人の部屋    ♍
第2室 金銭所有の部屋  ♍
第3室 幼年期の部屋   ♎ ♄12°37
第4室 家庭の部屋    ♏ ☽ 11°17
第5室 嗜好の部屋    ♑
第6室 健康勤務の部屋  ♒ ♆8°10
第7室 契約の部屋    ♓ ♅8°16
第8室 生と死の部屋   ♓ ♇16°21
第9室 精神の部屋    ♈  ☊1°25 ☀ 29°48
第10室 社会の部屋    ♉ ♀0°29 ☿19°18 
第11室 友人希望の部屋  ♋
第12室 障害溶解の部屋  ♌ ♃11°17 ♂25°01

太陽移動日が誕生日。12時設定だと☀♉29°48。
16時59分だと☀♊00°00
夕方生まれなら確実に☀♊。
自由奔放でけんかっ早い性格と、星は退出時よりも入室時の方が性質を強く出す傾向があること。♀とのフィット感などを見ると、☀♊気質も連想できます。
10室☀♀の合だけでなく、4室の☽は♐の10度なので月星座は♐で確定。そして12室の♃。8室♇の火の調和が、彼を単なる暴れん坊のガキ大将にとどめなかったのでしょう。
10室には☿もあり、対岸の☽の180度。そして軽快さを持つ☿は、獅子座を背景に持つ12室の♂と共に、彼の行動力と力強い話術にパワーを与えているのかもしれません。
調子の良さと境界線スレスレな危うさを合わせ持つのは、♃は6室の♆と180度のなせる業でしょうか。♆は♀と調和し、9室の☊との緊張角度もあり、神経質な潔癖症をもたらすと同時に、情的で優しく色気線ともなりそう。実際、彼は清潔好きでよく手を洗う癖と、男色の逸話があり、原因かは微妙ですが、19、20の若いころに問題を起こして、家禄を減らされ蟄居をしています。そして明治以降は離婚再婚と数人のお妾さんが彼のプライベートを彩りました。
♆は3室の♄と緊張角度なので、本人のゆるさに厳しい制約が入る感じもありますが、蟄居に際して城下を離れ、村里にしばらく暮らすことで、これまで接点のなかった下級武士や商人、農民といったさまざまな階層の人々との触れ合い、見識を広げることができたのを見ると、彼は♄の良い部分を生かせる人でもあります。
乱暴者であっても、年下や格下の者を虐めることのない乾退助のけんか相手は、同じ核かそれ以上の上級武士でした。
「喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ」「喧嘩に負けて帰るのも許さぬ」
「卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬ」と、お母さんによく諭された少年時代、負けて帰った時は、ものすごく叱られ、やり返してこないと門を開けてもらえなかったこともあったとか。
坂本龍馬を主役にしたドラマや漫画などでは、竹馬の友である後藤象二郎と二人で、下級武士の龍馬やその仲間を虐めるシーンが盛り込まれている作品もあるようですが、それは演出であって史実は違う。とみていいでしょう。
無双直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう)土佐居合ともいわれる剣術と、柔術は呑敵流小具足(どんてきりゅうこぐそく)。
学問は江戸幕府直轄の教育施設である昌平坂学問所の教官、若山勿堂から儒学と山鹿流兵学を学ぶという、エリートでもあった板垣。政治家時代は奥さんとお妾さんを同居させていた逸話もありという、プライベートでもいろいろとエピソードのある人です。

藩主山内容堂の側役から討幕運動家、そして軍人へ。

土佐藩主山内容堂(信豊が実名)は、宇和島藩主伊達宗城・福井藩主松平春嶽・薩摩藩主島津斉彬ともに幕末の四賢侯と称されているお殿様で、幕政と将軍継嗣問題にも積極的に介入していました。
分家の出ということもあるのか、旧臣による藩政を好まず、革新派思考の吉田東洋を藩政の中心に起用。吉田は藩の政治・行政を取り仕切る傍ら、私塾で甥の後藤象二郎だけでなく、福岡孝弟に岩崎弥太郎といった若手藩士の教授も務めていました。
乾退助も生徒の一人で、吉田から将来性を見込まれて藩の奉行職(税務役)に抜擢されただけでなく、殿様のお側役に就く道を与えられます。
見識と包容力のある殿様は、将軍家康から土佐一国を与えられ、代々領土を守ってきた山内家の当主なので、徳川家に対する尊崇の念も大きかったのでしょう。この先の日本がいきるためには、朝廷側の協力や社会が一つになって国難に当たる方がいい。そしてその中心は徳川家であり、従来の幕藩体制には大改革を加えなければならないと考えていました。このため土佐藩は公武合体路線藩だったのです。
恩師のおかげで殿様付きの重役になれて、仕事をこなす日々ですが、しかし型にはめられるのが苦手で、勉強嫌い。ケンカ好きな気質の乾退助には、殿様や師匠の考えが生ぬるく見え、折しも仲良くなった中岡慎太郎や武市半平太らの影響もあって、心は攘夷や倒幕論に傾いていくのでした。
徳川家を大事に思う容堂公は、将軍後継問題で大老井伊直弼とぶつかり、安政の大獄で1859年(安政6年)~1863年9月30日(文久3年)まで謹慎処分を受けてしまいます。
この頃退助は江戸留守居役兼軍備御用として江戸に出向。仕事をしながら多くの勤皇の志士と交流を重ねる充実期で、桜田門外の変1860年(安政7年)で井伊直弼が殺されたことで、政局が大きく塗り替わり、全国的に尊王攘夷が主流となりました。
土佐藩でも武市瑞山(武市半平太)が率いる土佐勤皇党の勢いが増し、意見対立が激化したことで1862年(文久2年)吉田東洋が暗殺され、武市と門閥派が組むことで後藤象二郎をはじめとする公武合体派は失脚してゆきます。
この頃脱藩した坂本龍馬にも吉田暗殺の嫌疑がかかりますが、これは誤解で高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(のちの利通)に会った後に乾退助は、勝海舟を容堂公の本陣に招き、龍馬への誤解と脱藩を赦すことを協議しています。
龍馬と中岡慎太郎の二人だけでなく、乾退助と後藤象二郎は、土佐藩を脱藩した者たちと藩の間に立ち、尽力を尽くしていました。1863年9月30日(文久3年)八月十八日の政変を経て、容堂公は謹慎が解かれて土佐藩に戻ります。
そして藩政を掌握。吉田の後釜に後藤象二郎を据え、土佐勤王党に対する弾圧を始めました。多くの者が捕縛され、武市瑞山は切腹に処せられゆく中で、日ごろから土佐勤皇党との者たちと親しく付き合い、思想的影響を受けていた乾退助も「危険人物」扱いをされて不思議のない立場ですが、特にお咎めもなく公務に就いていました。
上級武士である乾家の長男であること+α後藤の幼馴染であることも一因だと思いますが、裏表のない乾退助の性格を、殿様自身が気に入っていたのもあるのでしょう。
むしろ新しい任務を与えます。1865年(慶応元年1月14日)洋式騎兵術修行を命ぜられた退助は、再び江戸に向かいオランダ式の騎兵術を学びました。
1866年(慶応2年)早々、東洋暗殺の直前に脱藩した土佐の志士たち(龍馬・中岡慎太郎等)の仲介によって 薩長同盟が密かに成立した後、中岡慎太郎の仲介で京都にある薩摩藩家老職小松帯刀邸にて、退助は薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと薩土同盟を締結させてゆきます。
その次の日には容堂公に拝謁し、時勢が武力討幕へ向かっていること。江戸の土佐藩邸に、実は水戸浪士を既に匿っている事実を告げていきます。

容堂は薩土密約に基づき大坂でアルミニー銃300挺を購入するのを許可。退助を伴って土佐藩に帰国すると、藩の大監察に復職させました。
退助は軍制改革を指令すると、土佐勤王党弾圧で投獄中の者たちを釈放します。そして勤王の党幹部らと協議をし、乾退助を盟主として討幕挙兵の準備を進めました。
同じころ京都では、大久保利通、西郷隆盛達と話し合いを続けた坂本龍馬と後藤象二郎は、武力討幕ではない大政奉還による王政復古を目標に薩土盟約を締結していたのです。
徳川家への忠誠と藩士たちへの慈悲に熱い容堂公は、自身は幕府の擁護を続けますが、倒幕へと傾く若者たちを止めることも出来ず、思案に暮れていましたが、京都から戻った後藤が見せた二つの案に、ひざを打ちます。
一つはこれまで朝廷から幕府が委託されてきた政権を明治天皇に返還する案。そしてもう一つは「船中八策」でした。予め龍馬から聞いていたものを、後藤は自案として容堂公に見せたのです。容堂公は速やかに老中・板倉勝静らを通して、これを15代将軍徳川慶喜に建白してゆきました。
武力討幕論を主張し準備していた乾退助にとって、この展開はとんでもない話で、真っ向から反対して失脚。謹慎処分を受けてしまいます。
山内容堂によって1867年11月9日(慶応3年10月14日)、慶喜はこれまでの権限を朝廷に返還していきました。大政奉還の下支えは土佐藩だったのです。
そして謹慎を受けた乾退助を残し、土佐藩兵は京都を目指し出兵していきました。

大晦日も近い頃、土佐藩兵が伏見の警固につくと、西郷隆盛が土佐藩士・谷干城を訪ねると、討幕の勅命が薩長芸の三藩に下ったこと。薩土密約に基づき、乾退助を大将として、国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促します。これを受けて谷干城は急遽帰国。
1868年(慶応4年)の年明け、謹慎が解かれた乾退助は、土佐勤王党の流れをくむ迅衝隊の大隊司令として、戊辰戦争に参戦してゆくのです。

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板垣性を名乗り政治家の道を進む明治時代。

東山道先鋒総督府に合流した乾退助は、参謀として従軍。武田の流れをくむ甲州を前に、岩倉具視が、退助にある提案をします。「自身が甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔である」と誇示する方が、戦績に一役買うと。
板垣信方は武田二十四将、武田四天王の一人で、甲斐の国の民には愛着のわく人物でした。この岩倉の読みが功を奏したのか、「板垣退助」と改名した板垣退助は、甲州勝沼の戦いで近藤勇率いる新撰組を撃破。旧武田家臣が多い武蔵国の八王子千人同心を味方につけてゆきます。
東北へ転戦すると三春藩の無血開城を成し、二本松藩に仙台藩。難攻不落の鶴ケ岡城と、軍人としての才能を開花させた板垣は、次々に攻略戦勝しました。そして攻めるだけでなく、落ち武者狩りなどをしないよう指揮を徹底し、諸藩の名誉回復に奔走。
分け隔てなく困った手を差し伸べる板垣の情の厚さと姿勢に、会津藩をはじめ多くの人が感謝したと伝えられています。

戊辰戦争終結後1869年(明治2年)板垣退助は、木戸孝允・西郷隆盛・大隈重信と共に参与に就任。そして高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令。1871年(明治4年)には参議となるので、大出世をするのですが「近頃は平和でつまらんのう」とぼやくこともあったそうです。
元々宿している運勢と彼の気質からみても、政治家よりも軍人向きですが、政府要人のほとんどを薩長で塗り固めた明治政府に、土佐が送り込める要人として、欠かすことのできない位置に板垣は立っていたのでした。
そして岩倉使節団が欧米に旅立った後、留守を任された政府人の中では「征韓論」が存在感を増してゆきます。
これは一見すると、隣国の李氏朝鮮に日本が武力開国をしようという乱暴な話ですが、西郷隆盛や江藤新平、後藤象二郎、板垣退助がしびれを切らす経緯がありました。
徳川時代は朝鮮通信使節を通じて交流のあった李氏朝鮮と日本。明治政府は主権が交代した挨拶だけでなく、二国の発展のために開国と貿易を正式に求めたのです。
しかし李氏朝鮮の国王大院君は、鎖国を解いて海外と交易する日本の新政府をあまりよく思わず、非礼な対応と鎖国政策主義を実施したのでした。
大国ロシアは植民地政策として朝鮮を狙っていたのです。ロシアが南下し朝鮮を抑えれば、この当時の日本には、まだ一国でロシアと戦える力はありません。日本も影響を受け植民地化される懸念がありました。
長い間清の支配下にあった朝鮮が、自国の力で独立することは、朝鮮にとっても悪い話ではなく、二国間で協力して日本海を守ることで、ロシアからの危機を回避する方がお互いのためになる。そう考えた明治政府は、このような事情からも隣国の王に何回も使者を送ったのでした。
相手側が礼にかける対応を繰り返すので、ついに武力で強引に開国させてしまおうという者が現れ、根は喧嘩好きな板垣と西郷は、率先して征韓論を主張したのです。
何よりもまだ武士の感覚が根強い時代でもありました。朝鮮に乗り込んで腹を切ることで、相手国の意識を変えることができると考えた西郷隆盛は、明治天皇に自分がそのために隣国へ渡ると進言しますが、「岩倉たちが返ってくるまで待て」と諭され、さすがの西郷も動きを止められたのでした。
西郷と板垣は双方の取り巻きと共に、岩倉使節団が戻る日まで征韓論で盛り上がりますが、海外視察を終えて帰国した岩倉具視、大久保利通に木戸孝允。そして伊藤博文だけでなく、留学生側からも
「戦争?それ無駄でしょ。新しい国づくりが優先!」
にべもなく却下しされてしまいました。
熱くなっていた分、冷や水をかけられた征韓論派の拒絶反応も強く、暴動が起きる勢いで食い下がります。西郷の気質をよく知る大久保と木戸は、一度西郷を使者として朝鮮に渡海させようと譲歩。征韓論派の顔を立てる形で収めようとしました。
その矢先、状況を完全にスルーした岩倉具視が明治天皇に
「西郷派遣は中止といたしました」と報告し、話は幕引きとなったのです。
今は国力をつけるため、無駄な戦を避けるのが一番と、憎まれ役を引き受けた岩倉ですが、あまりの展開に西郷と板垣は怒髪天を突く怒り。これに呼応をして篠原国幹・別府晋介・桐野利秋・江藤新平・後藤象二郎といった政治家、軍人、役人たちの約600名あまりが、1873年(明治6年)一斉辞職して政府を去ってしまいました。
これが世にいう明治六年の政変です。そしてここが運命の分かれ道。
西郷は薩摩に帰った後に西南戦争を起こしてゆきます。
土佐に帰った板垣は、後藤象二郎らと五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」をベースに愛国党を結党し、多くの民の声を聞く場を求めた民選議院設立白書を政府に提出します。しかし政府は次期早々と却下。
この返事を受けた板垣は、政治団体の立志社を立ち上げ、各都道府県から寄付金を募ることを可能にすると、演説活動を開始しました。


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自由民権運動から選挙制度への道筋

日本国民にたくさんの義務を課すばかりで、国民の意見を聞かない政府は変だ! 国民の意見や考えを取り入れて政治を行うべきだ!
要約すると、このような内容の演説活動を全国各地で展開。
徳川から明治政府へと政権が変わったことへの恨み。政権が変わっても自分たちの暮らしが良くならない不満。武士というものが無くなったことで不安を抱える人たち等、世の中には様々な人たちがいました。彼らにとって板垣の演説はわかりやすく、共感を得たのでしょう。
政府も余裕がない状況の中、民選議院設立白書を袖にしましたが、世の中に広まる自由民権運動を無視できなくなり、1881年(明治14年)10年後に帝国議会を開設することを決めました。これは本当に大きな一歩で、板垣たちの歩みによって、民衆の声が政治反映し、それが今の時代まで続いているのです。
板垣は日本で初本格的な政党として自由党を結成。総理(党首)に就任するとさらに全国遊説に乗り出しました。しかし、882年(明治15年)4月。
岐阜で遊説に、暴漢・相原尚褧に襲われ負傷する岐阜事件が発生します。

襲われた直後、竹内綱に抱き抱えられて起き上がった板垣は、出血しながら
「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、これが後に「板垣死すとも自由は死せず」と世の中に広まり、彼の代名詞のようになったのでした。
この大怪我がきっかけで板垣は後藤新平と出会い、診療を受けています。
「閣下、御本懐でございましょう」と述べる後藤の政才を見抜いた板垣は
「政治家にできないのが残念だ」と、後にかなり惜しんでいたそうです。
そしてこの年の11月。後藤象二郎と共に欧州へ外遊に出てゆきます。この旅行で、自身の政治理念を、さらに構築した感がありますが、自由が好きな板垣は、フランスの自由主義が非常に気に入っていました。翌年の6月に帰国しますが、外遊資金が政府寄りの三井財閥から出ていることが明るみに出て、周囲からの反発を受けたり、急進的な考えを抱いた若い民権家たちが事件を起こし、逮捕者が出たことから、自由党を一旦解党しています。

1889年(明治22年)2月11日大日本帝国憲法が公布された翌年。1890年(明治23年)7月1日に第1回衆議院議員総選挙が行われました。旧自由党の各派(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)を統合した板垣は、立憲自由党を再興。これを自由党に改称して党総理に就任します。 
第2次伊藤内閣で板垣は内務大臣として入閣。第2次松方内閣でも留任しますが、これは間もなく辞任。自由党の総理も辞任しました。伊藤博文からは「総理大臣をやらないか」と、打診されていたようですが、自分はその器ではないと断り、対立していたはずの大隈重信の進歩党と憲政党を組織していきます。
第1次大隈内閣は日本初政党内閣であり、通称、隈板内閣(わいはんないかく)とも呼ばれています。ここに板垣は内務大臣として入閣しましたが、イギリスの議会政治を目指し、立憲政治を目指す立憲改進党であり、その党首学者肌の大隈重信。
フランスの自由主義を目指す自由党とその党首軍人気質の板垣退助。
どちらもかみ合うことがなく、内紛が激しい内閣は4か月で総辞職になっていきます。
1900年(明治33年)立憲政友会の創立と同時に、板垣は政界から身を引きました。政界引退後は、華族の世襲禁止を問う活動を行ったり、立憲青年自由党の相談役に就いています。大正時代に入ると、台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わっています。
1919年(大正8年)7月16日、肺炎のため死去。享年83(満82歳没)。

かねてから華族制度だった消極的な板垣は、授爵の勅を二度断っていました。しかし、さすがに三度の拝辞は、不敬すぎると周囲に諭され、1887年(明治20年)三度目にして伯爵位を授爵しています。
華族当主には衆院選の被選挙権がないので、衆議院議員にはならず、そして貴族院として伯爵議員になる事も辞退しました。生前「一代華族論」を主張していたことを受け、退助が亡くなった後、嫡男の鉾太郎は廃嫡。板垣家は華族の栄典を喪失しています。

開かれた議会の場を望み、議会制民主主義の基礎作りを歩んだ板垣は、入閣こそしたものの、生涯一度も国会議員になってはいないのです。
8室の♇と12室の♃。4室の☽。炎のトリンを持っているし、人に好かれる爽快さを持つ板垣ですので、その気になって声をかければ、伊藤博文だけなく、有力な協力者はいくらでも出てきたでしょう。しかし板垣は、それをしませんでした。
自分自身の出世欲とか、自分が認められたいという承認欲求が希薄で、自由好きで上から押さえつけられることに抵抗感を抱く板垣は、広く多くの声が風通し良く流れるのが、新時代の日本にふさわしいと思っていた感じがします。
ちょうど☀が移動する日に生まれた板垣退助。
誕生時間が分からないので、♉の太陽を持つのか、♊の太陽を持つのかは定かではないですが、自分スタンスを貫くのが美学となる土属性。
常に自由に変化してゆく事に面白さや、好奇心を駆り立てられる風属性。
そのどちらも有しているように見えてきます。


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