今や硬貨が定着している500円ですが、少し前の時代はお札でした。
1951年(昭和26年)4月2日~1971年(昭和46年)1月4日
1969年(昭和44年)11月1日~1994年(平成6年)4月1日と、
表は岩倉具視。裏は富士山の組み合わせは変わらないまま、一回マイナーチェンジ。1960年代以降の世代が見慣れているのは、後者と思われますが、今回はその500円札に描かれた人物。岩倉具視にスポットを当てます。
お公家さんから政治家となった人で、王政復古の大号令。明治以降は、岩倉使節団をはじめ国会の創設等、歴史の授業でも出てくる事象に携わるので、彼の名前を知らない人は少ないと思います。しかし、当時だけでなく、幕末維新史ファンからも、あまりよい評価を聞かない面もある岩倉具視。
その実はどんな人なのか、ホロスコープを観ながら考察してゆきたいと思います。

まずは略歴とホロスコープから。(略歴作成。Wikiをはじめいくつかの資料を参考)

1825年10月26日(文政8年9月15日)公卿・堀河康親の次男として京都に生誕。幼名は周丸(かねまる)。
1838年(天保9年)岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。
1853年(嘉永6年)関白・鷹司政通へ歌道入門。朝廷首脳に発言する大きな転機となる。
1858年(安政5年)廷臣八十八卿列参(テイシンハチジュウハチレッサン)
1860年(安政7年)和宮降嫁 
1861年(文久元年)失脚。蟄居時代京都市内を点在するも洛北・岩倉村に落ち着く。
1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)孝明天皇崩御
1868年1月3日(慶応3年&明治元年)王政復古の大号令。海陸軍事務と会計事務兼任。
1869年(明治2年)明治天皇京都の還幸に供奉。京都へ戻り、突然病を理由に補相の辞職。
1870年(明治3年)版籍奉還と廃藩置県意見書「建国策」を記す。
1871年(明治4年)御親兵を設置後、廃藩置県を実施。
1871年12月23日(明治4年11月12日)~1873年9月13日(明治6年)岩倉使節団 
1873年(明治6年)征韓論を巡り西郷と対立
1874年(明治7年)赤坂喰違坂(あかさかくいちがいざか)で暗殺未遂。
1875年(明治8年)明治天皇が「漸次に国家立憲の政体を立てる」という詔書を出す。
この時の岩倉は反対を唱えている。
1876年(明治9年)華族会館の館長となる。華族制度が厳密化される。
1877年(明治10年)西南戦争
1878年(明治11年)大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)
1880年(明治13年)自由民権運動が本格的になり、憲法制定論議が加速する。岩倉邸に訪れた伊藤に国会開設の勅諭の了承をする。
1883年(明治16年)京都御所保存計画のため京都へ赴いたが、病状悪化。記録に残る日本初の癌告知を受ける。船で東京へ戻り、明治天皇から数度の見舞いを受けたが回復することはなく、7月20日死去。享年59。7月25日日本初の国葬が執り行われた。

ホロスコープ 1825年10月26日 京都市生まれ 12時設



太陽星座 ♏ 2°25
月星座  ♈ 23°55

第1室 本人の部屋      ♑
第2室 金銭所有の部屋    ♒ ♇
第3室 幼年期の部屋     ♈ ☽
第4室 家庭の部屋      ♉
第5室 嗜好の部屋      ♊ ♄
第6室 健康勤務の部屋    ♊
第7室 契約の部屋      ♋
第8室 生と死の部屋     ♌ ♃ ♂ ♀
第9室 精神の部屋      ♎  ☿ ☀
第10室 社会の部屋      ♏
第11室 友人希望の部屋    ♐ ☊
第12室 障害溶解の部屋    ♐ ♆ ♅

♏の☀と♎☿が合。思考深く、洞察力と言葉に力がありそうです。
☽は12時設定で♈23°。実際は前後する可能性はありますが、♈であることは確かと思います。ホロスコープのままだと☀&☿とオポジション。満月生まれ。
公家の出ということもありますが、プライドは高く、野心家の一面はあり。
さらに2室と8室。 ♈♇と♎♀のオポジション。(活動宮)
5室と11室。♊♄と♐☊のオポジション。(柔軟宮)
完全ではないけれど、ほぼグランドクロス。
♄は♂と90度の角度も取るが、☽と60度なのが、きつさを和らげているのかも。
そして月は、12室と1室の狭間にある♅と90度。♅の傍にある♆が、完全に12室なので、この人の対人運の朧気な部分を物語っているが、どちらの星も8室の♃♂とは調和しているため、引っ込むことはあっても埋没しきらない。
8室の♃は♂とタッグを組みつつ、☊と緊張角度を取り、そして♃は☀と協調関係を持ち、12室の♆♅と調和しています。声が大きく、目的のために敵味方の別なく交際を広げ、行動を起こすと人に覚えられる。その反面、嫉妬なども買う可能性を秘めています。
リーダー的存在でありながら、対人関係のアップダウンが起こりやすい岩倉具視の人生を伺わせる配置です。

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公家らしくない公家の成り上がり

身長約160cm。日本酒と野菜や魚肉を好んだ岩倉具視は、堀河康親の次男として生誕。
幼名は周丸(かねまる)。容姿や言動に公家らしさがなく、公家の子女達からは、「岩吉」と呼ばれたそうです。入門先の朝廷儒学者・伏原宣明は、個性的な周丸を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦。
晴れて岩倉家の養子となった際、具視の名を選定したのも伏原宣明でした。羽林家の家格を有する岩倉家ですが、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家なため、出世の道もなかったのですが、関白鷹司政通の元へ歌道入門した岩倉具視は、短期間で孝明天皇の側近にまでのし上がったのです。

アメリカと日米和親条約を締結した後、孝明天皇から日米修好通商条約の勅許を得るために、幕府は老中・堀田正睦(佐倉藩)を上京させました。
これが1858年(安政5年)のことです。時の関白・九条尚忠は、開国に理解を示し、勅許を与えることを孝明天皇に進言しますが、開国に反対だった岩倉は、同意の公家たちに声をかけて集まり、九条の屋敷の前に押しかけて座り込み、猛烈な抗議活動を始めたのです。(いわゆるデモ行進的な事ですね)元々言葉に力のある岩倉は、条約反対論を執拗に唱え、その勢いに九条は折れてしまいました。
その結果、返事を待つ老中に対して孝明天皇は「反対派公卿が多く、勅許は与えられない」旨を告げ、空手で江戸に返したのです。これが朝議(朝廷の会議)をひっくり返した廷臣八十八卿列参事件であり、岩倉による初めての政治運動だったのです。

長年にわたり政治を担ってきた徳川幕府は、限定的に交易していたオランダから、ある程度の国際情勢を伝えられていました。自国の経済発展のための領土(植民地)を求め、蒸気船で大海を渡って来る西欧諸国を相手に、鎖国を続けることが難しい事を、幕府側は実感していたのです。
一方朝廷側は、政治に対する責務は徳川幕府が担っていた為、多少の窮屈さはあっても負うものはなく、京都市内から日本を見てきたため、個人差はあっても現実的危機感が乏しい状態でした。朝廷と幕府。両者の間には、感覚的に大きなズレがあるまま、時代の変革期を迎えたのです。

江戸に戻った堀田は、13代将軍家定に経緯を報告。そしてこの先の対応には、福井藩主の松平慶永(春嶽)を大老職に就けることが望ましいと提案しますが、家定は彦根藩主井伊直弼を大老に指名したのでした。
大老となった井伊は、将軍後継者は徳川慶福(後の家茂)と老中たちに伝えます。孝明天皇の勅使が得られていない以上、条約締結には基本反対の井伊でしたが、清国で起きたアロー戦争(第二アヘン戦争)が休戦となったタイミングで、神奈川沖まで廻航してきたタウンゼント・ハリスのアドバイスが悩みどころになりました。
戦勝の勢いに乗った英仏連合艦隊が、近々日本も足を延ばし、条約を要求してくる可能性があること。これに備えるために速やかに米国と条約を締結するべきとのアドバイスによって、交渉引き延ばしを示唆した可能性はありそうです(これは推測)。
いずれにせよ、結果、老中松平忠固が無勅許で日米修好通商条約を締結したのでした。

条約締結に憤り、事態の収拾のために一橋慶喜を将軍継嗣に据えること。松平慶永の大老就任を幕府に要求した徳川一門。徳川斉昭と水戸藩主・徳川慶篤。福井藩主松平慶永(春嶽)に尾張藩主・徳川慶恕は、幕府から謹慎を言い渡され、ここから安政の大獄が幕を開けていきます。
翌日13代将軍家定は死去。14代将軍は徳川家茂が就任してゆきますが、自分の許可を得ずに、アメリカと条約締結した幕府に孝明天皇は激怒。しかし幕府は外国奉行を設置し、オランダやロシアとも修好通商条約を結び、横浜神戸等の港を解放していきました。
天皇の意向に背き、開国に踏み切る幕府の対応に、大名をはじめ学者などが抗議しては投獄されてゆくことに危機感を感じた朝廷首脳部は、大老及び御三家の上京を求めます。
御三家は謹慎中。井伊は多忙なため上洛できず、代行に老中間部詮勝と京都所司代酒井忠義が選ばれ、朝廷とのパイプ役になりました。
ままならぬ事態に業を煮やした孝明天皇は、水戸藩に謹慎中の斉昭を中心として、幕政改革を行うことを示唆する密書を送ります(戊午の密勅)。
これを知った幕府は、大老に反発する者をさらに投獄。処刑する方向に動き安政の大獄を激化させてゆきました。皇室や公家までが大獄の対象になることや、朝幕関係の悪化を非常に危惧した岩倉は、この時期、積極的に京都所司代の酒井忠義や伏見奉行の内藤正縄とも会談しています。
公武合体が理想と確信していた岩倉は、朝廷派にも佐幕派にも偏る気はなく、孝明天皇の考えや人となりを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過である旨を説きました。
しかし酒井と意気投合した岩倉が、一部の公家や尊王攘夷派の武士には、幕府寄りの姿勢に見えてしまいます。

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和宮降嫁の成功。妬みと疑心からすべてを奪われ幽棲生活へ

尊王攘夷運動が盛んになった頃、水戸藩の脱藩浪人たちと一人の薩摩藩士によって、登城途中の井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が起きました。
江戸城のすぐそばで起きた事もあり、天下に激震を走らせたこの事変の後、京都所司代を通じて関白九条尚忠の元に、四老中連署の書簡が届きます。
皇妹・和宮を14代将軍徳川家茂への降嫁は、井伊が殺される前から漠然とした希望論としてありました。しかし、桜田門外の変の後、尊王攘夷派の志士たちが国家転覆へと勢いづく中、内乱が起きることを懸念した幕府は、天下に向けて皇室と幕府が協調している実態的な公武合体の象徴が、必要になってしまったのです。
そのための和宮降下でした。
孝明天皇も、何より和宮も堅く拒否し、すでに有栖川宮熾仁親王に輿入れが決まっていることを理由に断りますが、公武合体こそ正道と信じていた岩倉は、『和宮御降嫁に関する上申書』を孝明天皇に提出してゆきます。
そして幕府がこうしてへりくだってきたのは、求心力が弱まった証拠で、孝明天皇が国政に出て意見を反映できるように。今後の外交・内政の施行前には、必ず朝廷へ奏聞あるべきことを幕府に約束させる好機。と孝明天皇を説き伏せたのです。
和宮降嫁を許可する代わり、異国と交わした条約を10年以内に解消すること。これを求めた孝明天皇に、幕府側から了承の返事もあったことから、天皇の気持ちが動き、公武和平ということに折れた和宮は、将軍家茂の元へ嫁ぐ事を承諾しました。(結果論、家茂はとても和宮を大切にし、仲の良い夫婦になったので良かったのですが)

大人の事情で人生を変えられ、見知らぬ土地に嫁ぐ幼い皇女への償いなのか、拘りの人としての美意識なのか、輿入れ支度は全て岩倉が整えたそうです。和宮の江戸下向にも付き添いますが、孝明天皇から受けた勅書を携える勅使の立場でした。
婚儀の準備が進む江戸城で、岩倉は老中たちと議論をすすめる岩倉は巷に流れている噂「幕府が和宮を利用して、廃帝を企んでいる」の真偽を尋ねます。想定外な質問に驚きながらも、そのようなことはないと首を横に振る老中たちを前に、真にない証として将軍家茂直筆の誓書を求めました。
さすがに幕臣たちの顔色は変わりますが、一歩も引かず詰める岩倉の交渉力は、岩倉具視の天性とも言えますが、♏の☀と♎☿のコンビ。♀と♇の柱。8ハウスの♂と♃も利いていると思います。

家茂直筆の誓書に大満足をした孝明天皇は、岩倉に深いねぎらの言葉をかけ、朝廷の権威の維持と高揚のために、岩倉はさらに尽力しました。しかし、異例の出世に加えて、和宮降嫁の斡旋。京都所司代とも頻繁に交流していることを不快に思っていた尊攘派の公家たちは、朝廷首脳部へ岩倉を排斥するように圧力をかけてゆきます。
近習を辞退する勧告に従った岩倉ですが、勤皇派の公家たちの糾弾は収まらず、その波に丸めこまれた孝明天皇からも、ついに親幕派を疑われてしまい、朝廷を去ることになってしまいました。
この頃、会津藩主松平容保が京都守護職に就き、やがて新選組が台頭してきます。

処分の甘さを指摘する勤皇派たちや志士から狙われた岩倉は、西賀茂の霊源寺に身を隠しますが、相当悔しい思いを日記につづっています。さらに洛中に住むことも禁じられ、長男(岩倉は4男6女の父でもあります)の具綱が、用意した洛北の岩倉村の住居に移動。
それが今も京都市左京区岩倉上蔵町にある岩倉具視幽棲旧宅です。
帰参が許されるまで約5年間。この地で幽棲生活を送ってゆきますが、♊♄と♐☊のオポジションが、慣れ親しんだ場所から急に離れる孤立運を物語っています。
8ハウスにある♃♂。そして♀と♇の柱が、彼を時代に取り残されることをさせなかったのでしょう。絶妙なタイミングでN8室の♃♂に、進行中の♃♄が合。
この時期♍に♄があり、彼が自由の身となるころまで、♄は8室から10室にある星々を抑えたことも、大きな注目点です。♄は運勢的に必要なものを残すといいますが、身動きが取れない岩倉は、この時期、薩摩藩の西郷隆盛をはじめ、坂本龍馬や中岡慎太郎とも交流しています。また朝廷内の同志たちも岩倉を尋ねるようになりました。
多くの人に刺激を受けて見地を広げ、政治活動を再開します。その間に、坂本龍馬や土佐藩。亀山社中がパイプ役となり、薩長同盟がひそかに進みます。

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王政復古から明治へ

第二次長州征伐で幕府軍が大苦戦の中、岩倉は各外様藩の大名同様、この戦を終息させること。長州への温情をかける事を記した新書を朝廷に出すだけでなく、親幕派の公家の追放を策謀しますが、洛内には入れません。同志の公家22名が代わりに進言してゆきますが、孝明天皇は彼らを退け、謹慎処分を下してしまいます。(廷臣二十二卿列参事件)
征長軍の大将徳川家茂の死去と、小倉での幕軍の惨敗。徳川慶喜から勝ち目のない戦報告聞いた朝廷首脳は、ようやく終戦を考えました。
家茂将軍の死去が天下に公表された後、長州藩と幕府の間で休戦協定が結ばれます。そして徳川慶喜が15代将軍に就任した慶応2年の暮れ、孝明天皇は天然痘を患い崩御されてしまう凶事が起きてしまいます。

あけて翌年1867年(慶応3年)。若き15歳の明治天皇の即位が決まると、新帝即位に伴う大赦がありましたが、岩倉が自由の身になったのは、二条城で徳川慶喜から大政奉還が行われた後でした。朝廷首脳が丸め込まれているのか、大政奉還をしたものの、慶喜は将軍職のまま。徳川家を慕う大名も多く、何より明治天皇はまだ若年。
慶喜が転覆の機会を狙うことは容易と判断した岩倉は、早急にすべての権限を朝廷に移行させることが、国内の安定につながると考えます。
土佐の後藤象二郎と薩摩の大久保利通。公卿の同志と共に、新政府体制と慶喜の辞官納地についての話し合いを小御所で行いました。これがいわゆる王政復古の大号令です。

朝廷首脳部・数名の皇族。そして山内容堂・島津茂久・浅野茂勲・松平春嶽・徳川慶勝といった各藩主も交えた朝議を行い、王政復古については、異論がなくまとまりますが、新政府の人事案と慶喜の処分については、かなり議論紛糾したそうです。
有栖川宮(かつての和宮の婚約者)が政府首班の総裁。松平春嶽・山内容堂らを議定。岩倉や大久保らを参与と、新体制が組織され、慶喜については辞官納地返上が決定。
慶喜は誓書を政府に提出し、京都の二条城から大阪城へ移動します。これによって事実上、征夷大将軍はなくなり、彼の権利も抑えられましたが、旧幕軍と新政府軍。
水面下では両軍とも戦の準備をしていました。
明治元年(1868年)早々、薩摩藩の挑発に乗った形で、慶喜は薩摩征伐を名目に京都へ出兵を開始。これを向かい討つべく大将軍を仁和寺宮嘉彰親王とした新政府首脳陣は、錦の御旗を上あげて、本陣を東寺と定めて兵を進軍させました。
鳥羽・伏見の戦いが始まったのですが、錦の御旗をたなびかせたことに驚いた各藩は、徳川ではなく、新政府に応援を派遣することを選択。新政府軍の新型の銃と砲撃。そして味方の乏しさから、旧幕軍は敗走に追い込まれます。
その旧幕府軍の戦意を削いだのが、大将慶喜の愚行でした。
大坂城での徹底抗戦を説いた慶喜は、僅かな側近と老中酒井忠惇、老中板倉勝静。会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬を伴い、夜陰に紛れて幕府軍艦開陽丸で江戸に退却してしまつたのです。
旧式の武器と刀だけでも不利な上に、味方が限られ、総大将が逃亡する事態に見舞われた旧幕府軍は、戦を放棄して各自江戸や自領等へ帰還する者も出てきました。
朝廷から明確な徳川慶喜の追討令が下り、徳川家は朝敵となってしまいました。上野戦争から函館戦争終結まで、両陣営多大なる犠牲者を出した末、戊辰戦争は官軍の勝利に終わります。
新政府の要人として松平春嶽は、できる限り慶喜を庇いましたが、彼の愚行によって発言力まで落としてしまう一方で、鳥羽伏見の戦いから、岩倉の発言力はどんどん増し、ほんの数日で参与から議定へと立場も上がりました。
元々言葉に力のある人ですが、この時期はN12室の♆と♅にT☀♂が合。N♃とT♃がオポジションなど、勝ち筋の強い組み合わせが後押ししている感もあります。

新生したばかりの明治政府は、アメリカの政治スタイルを参考に、行政・司法・立法の三権分立の形を採用しました。行政の責任者は総裁ですが、その地位にある熾仁親王(和宮の元許嫁)は、政治的権力を振るうことを好まない気質だったため、会議によって決したことを裁可してゆくことが多く、これが定着してゆきます。
その中で発言力が増した岩倉は、海陸軍事務と会計事務を任されました。トップではありませんが、実質的に岩倉を首班とする政権が誕生した時期ともいえます。
そして黒船来航時から戊辰戦争の殉国者を併せて慰霊するため、招魂社(靖国神社の前身)の設立が決定しました。ここに靖国神社の起源があるので、吉田松陰や坂本龍馬といった幕末の志士たちも祀られているのです。

東京城(江戸城)を新皇居と定めたことから、日本の中心は明治以降東京になりました。
明治天皇は京都市民の感情にも配慮して、明治2年(1869年)1月に一度還幸しています。この時岩倉も供奉して京都へ戻りますが、誰に相談することなく、突然病を理由に補相の辞職を求めました。
驚いた大久保や木戸孝允が止めますが、意思は固く明治3年の年明けに辞職。しかし、政府で版籍奉還が検討されると、これに関する意見書(というよりアドバイス)を政府に提出します。
これまでの各藩主達を中央政府から任命された行政官(知事)とし、当面の間領地を管理させるが、支配の実態は中央政府へ移行。管理する土地と人民は、大名の私有物ではないことを周知徹底させる方針が決まっていきます。
この新政府の方針に、不満を抱く者が出てくることを懸念した木戸孝允・板垣退助・西郷隆盛・大久保といった政府首脳と岩倉は、廃藩置県に備えて藩の指揮権に属さない天皇直属の御親兵をつくる方向で一致。薩摩・長州・土佐の三藩から、8,000人の親兵が急遽組織された後、明治天皇は各県知事(元各藩の藩主たち)を集めて、廃藩置県を宣言してゆきました。
この宣言をもって、約300年続いた藩制度=武家政権は消えたのです。そのため暴動が起きることを予想していた政府ですが、大きな事変が起こることはなく、土地を失った大名は「華族」という位置になり、日本は一つの国家として、新時代をスタートさたのです。

岩倉使節団とビスマルク

一旦、引きこもった岩倉ですが、版籍奉還後に行政組織も再編が行われ、右大臣三条実美の補佐役として大納言に就任。さらに外務省の長官である外務卿(今の外務大臣)に主任したため、表舞台に戻ります。と同時に、不平等条約・日米修好通商条約の条約改正という壁にぶつかりました。
条約改定の期限が来ても、日本の法律・諸制度が「万国公法」に準拠していないことを理由に、アメリカは不平等条約の維持を言ってくることが考えられたのです。
この対応策として、アメリカに日本の現状を説明し、各国々の近代化を視察させてもらうことで「文明開化を成し遂げた段階で条約交渉をしてほしい」と、条約改正交渉を引き延ばす交渉を目的とした使節団の派遣を、政府は検討しました。
特命全権大使が外務卿だったことから、「岩倉使節団」となったのです。参議の木戸孝允や大蔵卿大久保利通、工部大輔・伊藤博文らも副使として参加。書記官をはじめ、随行員。理事官に途中で下船する留学生も含め、総勢107名の日本人たちが、1年10か月の間に、アメリカ・サンフランシスコ→ワシントン。大西洋を渡りイギリス・リヴァプール。フランス→ベルギー→オランダ→ドイツ→ロシア→デンマーク→スウェーデン→イタリア→オーストリア→スイスといった欧州各国を回った後、シンガポールと香港に立ち寄り日本に帰国しました。大山捨松や津田梅子たち女子留学生も、アメリカまで一緒に渡っています。

欧米列強と同じ「国際法」を導入することを理想としていた事もあり、使節団は積極的に各国の元首と面会し、国書を手渡していきますが、思うような返事を返す国はありませんでした。
「弱い国が国際法を導入しても、権利が守られるという保証はない。
まずは日本が強くなることが重要だ」ドイツを訪問した際、面会に応じたビスマルクの言葉が、その答えとなります。
力関係が均衡か上でなければ、仮に不平等条約を是正できたとしても簡単に覆される。
欧米各国の前では、結んだ国際法さえ有効に働くとは限らない。日本よりも一足早く、欧米入りをしたドイツ。昨日の敵は今日の友という外交を束ねたビスマルクは、力の差がある限り、「礼を尽くせば伝わる」「約束は守る」ということが通らない相手がいることを知らしめました。これは鮮烈な衝撃を、岩倉達に与えます。
そして工業技術生産力。さらに武器や道具だけなく、ビスケットなどの食料も製造物であること。大量に生産された物は、自国での消費だけでなく、世界各地に輸出して経済を成り立たせていること。その隙間に見える白人至上主義による人種差別(当時は人種差別という概念がありませんでした)
病院というシステムや銀行等、尋ね行くすべての国の近代国家ぶりは、あらゆる意味で、使節団全員の想像を遥かに超えていたのです。使節団の目的は条約の改定よりも、各国への留学に変更となり、日本が独立国家として成り立ち、それを維持するためには、まず国内の経済・教育・衛生環境の底上げが急務という意識になってゆきました。
帰国後の岩倉が日本鉄道会社設立に積極的に携わったのも、人もモノも大量輸送できる鉄道を見て乗って、日本の発展には絶対に必要と感じたからでした。
ところで岩倉は先に出た断髪令が出た後も、髷は日本人の魂であり落とすことを拒んでいて、訪米時も髷と和服姿だったのですが、アメリカに留学していた息子の岩倉具定らに「かっこ悪い」と説得され、シカゴで断髪していています。
この時期はT♆が♈を進み、岩倉の☽を刺激。またNの♅♆をT♂♄が刺激しているのも面白いです。重責背負っての航海とカルチャーショックという所でしょうか。

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憲法。国会創設の道と日本人初のがん告知

使節団が外遊してる間、留守を預かっていた西郷達は、李氏朝鮮との交渉に難航していました。頑なに鎖国を続ける隣国に、西郷隆は自分が直接行って開国の話をし、そこで自らが死ぬことがあっても、それが戦争の大義名分となると征韓論を進言。
この意見に同調する者も多く、すぐにでも動き出しそうとしますが、岩倉達の帰国を待つよう明治天皇が止めていたのでした。
しかし、帰国してきた岩倉をはじめとする使節団の主要メンバーは、今は戦争よりも内需拡大を優先と答え、征韓論側は幻滅してゆきます。朝鮮を敵に回すことは、大国の清も敵に回すことにつながり、今の日本では清に勝ち目がないと説く、大久保らの言葉に、西郷は参議・近衛都督を辞職して鹿児島へ帰ってしまいました。西郷を慕う者が多かったこともあり、征韓論に同調していた士族たちは不満を募らせ、赤坂仮皇居から退出した岩倉を襲撃しています。

明治天皇の出された「漸次に国家立憲の政体を立てる」という詔書に、三条実美や木戸孝允、板垣退助が奏上しますが、慎重派の岩倉は「国体一変の恐れがある」と反対の立場をとりました。抗議の意を示す辞表が却下されたため、岩倉は「病気」を理由に出仕を拒否しますが、出仕を根強く依頼する大久保利通に根負け。
一応の形で了承、立憲には反対のスタンスを崩さず出仕するようになりましたが、これは単にメンツとか意地を張ったというよりも、実際、体調がよくなかったのかもしれません。

袂を分かった西郷の西南戦争が起きた頃、成り行きを案じつつ、岩倉は華族会館の館長に就任。華族統制政策を行いました。
公家出身者と大名出身者で成り立つ華族は、この頃立場があやふやで統率をとる者もなく、幾多の問題を抱えていたのです。
華族は皇室を支える存在であり、欧州型の貴族を理想とした岩倉は、罰則規定も設けた統制をとる半面、経済力の弱い華族のフォローなどもしました。しかし不満を抱く有力武家華族は、岩倉の強烈な華族統制廃止を国に要請してゆきます。
これを受けて部長局を廃止して辞職する岩倉ですが、同時に宮内省の中に華族の統制を譲渡する華族局を設けました。華族の管理を自分個人から政府宮内省へ移しただけで、実態は岩倉が華族統制に勤めたのです。この辺りも策士というか、うまく動く岩倉ですが、それだけに「ずる賢い」と言われてしまうのかもしれません。
やがて帝国議会の貴族院が開かれることで、華族の役割もはっきりしていきますが、それは岩倉の亡き後のことで、過渡期は相当大変だったようです。

「自由民権運動」が高まり、憲法制定の論議が熱を帯びてくる頃、法務官僚から具申もあって、憲法制定が必要であると実感した岩倉ですが、人材という大きな悩みも抱えました。
憲法制定を任せられるはずの盟友大久保利通が、不平士族の暴漢に襲撃されて既に落命していた後だったのです。
イギリス型の「議院内閣制」を推す大蔵卿の大隈重信。
ドイツ型の「君主大権」憲法を主張する工部卿の伊藤博文。大久保亡き後を任せる候補をこの二人と考えた末、伊藤博文に任せることを決断しますが、この後、伊藤は国会開設の勅諭の了承と合わせて、大隈重信の解任を岩倉に求めてゆきます。
岩倉の了承を得たこともって、伊藤は大隈重信を追放。これが明治十四年の政変と呼ばれる事件となります。

伊藤は憲法調査のためにヨーロッパ各国へと派遣されますが、伊藤の帰国。そして大日本帝国憲法の制定も、自ら開設を承認した国会も、岩倉はその目で見ることはありませんでした。
京都御所保存計画のため京都へ赴むいた際、症状が悪化してゆきます。
岩倉の身を案じた明治天皇は、東京大学(東大)医学部教授のエルヴィン・フォン・ベルツを京都に向かわせました。岩倉はベルツから、記録に残る日本初の癌告知と言われている喉頭がんの告知を受けてゆきます。
船で東京へ戻った岩倉を明治天皇は何度も見舞いますが、回復することなく7月20日。♏の☀を持って生まれ、幕末から明治中期にかけて、日本の土台作りを成した岩倉具視はこの世を去りました。
享年59歳。7月25日には、彼の栄誉を称え日本初の国葬が執り行われています。

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