今回は現在一万円札の福沢諭吉。一万円札が誕生したのは1958年(昭和33年)。1983年(昭和58年)までは聖徳太子。1984年(昭和59年)から現在までは福沢諭吉。次の渋沢栄一で三人目となります。

慶応義塾大学を創設した福沢諭吉は、語学だけでなく自然科学にも精通し、啓蒙思想家の顔も持ち、居合の達人でもありました。
坂本龍馬とは一つ違い。岩崎弥太郎や土方歳三と同い年。国内で多くの武士たちが勤皇と佐幕に分かれて荒れた動乱期に、先駆けて渡米さらにヨーロッパを歴訪した福沢諭吉は、翻訳だけでなく、保険制度や銀行の設立などを日本に伝えました。「貸方と借方」や、複式簿記を伝えたのも諭吉で、この辺りは一万円札にふさわしい功績だと思います。
今回のお札シリーズは、そんな福沢諭吉の星周りをみてみたいと思います。

名前の由来は父が手にした一冊の本から

摂津国大坂堂島浜(現在の大阪府大阪市福島)にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷に勤める下級藩士・福澤百助とその妻・於順の次男(末子)として、福沢諭吉は生まれます。武士であり儒学者でもある父が、『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れたその日の夜に、彼が生まれている(時間がわからないのが惜しい!)ことから、諭吉という名がつけられたそうです。まずは略年表です。
(ウィキ、慶応大学HPその他参照)
1835年1月10日(天保5年12月12日)大坂堂島の玉江橋北詰にある中津藩蔵屋敷で生まれる。翌年父百助死亡により、母子6人藩地中津に帰る。
1854年(安政元年)19歳 オランダ語を学びに長崎遊学。
1855年(安政 2年)20歳 大坂の緒方洪庵の適塾へ入門。
1856年(安政 3年)21歳 兄の三之助が病死、一旦中津に帰り福澤家を継ぐ。
1857年(安政 4年)22歳 適塾の塾長(塾頭)になる。
1858年(安政 5年)23歳 藩命で江戸へ出府、築地の中津藩中屋敷に蘭学塾開校。
1859年(安政 6年)24歳 横浜港に行きオランダ語が通じないことにショックを覚え、独学で英学を学び始める。
1860年(万延元年)25歳 咸臨丸で渡米。帰朝後は幕府の外国方に雇われる。最初の単行書『増訂華英通語』を刊行。
1861年(文久元年)26歳 中津藩士土岐太郎八の二女錦と結婚する。
1862年(文久 2年)27歳 遣欧使節団に随行して、ヨーロッパ各国をまわる。
1864年(元治元年)29歳 外国奉行翻訳方に出仕。
1866年(慶応 2年)31歳 西洋事情』初編を刊行。
1867年(慶応 3年)32歳 幕府の軍艦受取委員随員として再渡米。
1868年(慶応 4年)33歳 時の年号にちなんで塾名を「慶應義塾」と定める。
1870年(明治 3年)35歳 三田の島原藩邸を借り受けた後、建物の払い下げに成功。
1871年(明治 4年)36歳 中津に洋学校(中津市学校)を開設。校長に小幡篤次郎を派遣。
1872年(明治 5年)37歳 『学問のすゝめ』初編刊行。(明治9年の17編で完結)
1873年(明治 6年)38歳 西洋式簿記の教科書『帳合之法』刊行。
1875年(明治 8年)40歳 三田演説館を開設。『文明論之概略』を刊行。
1879年(明治12年)44歳 東京学士会院(現日本学士院)の初代会長に就任。『民情一新』、『国会論』を刊行。
1880年(明治13年)45歳 社交のための結社「交詢社」を創立。
1881年(明治14年)46歳 「明治14年の政変」福澤門下生が官界から追放される。
1882年(明治15年)47歳 日刊新聞『時事新報』を創刊。
1884年(明治17年)49歳 甲申事変。朝鮮の支援を断念する。
1890年(明治23年)55歳 慶應義塾に大学部を設け文学、理財、法律の三科を置く。
1892年(明治25年)57歳 北里柴三郎の伝染病研究所の設立に尽力する。
1894年(明治27年)59歳 売りに出た耶馬渓の競秀峰一帯の土地を買い取る。
1897年(明治30年)62歳 『福翁百話』刊行。
1898年(明治31年)63歳 『福澤全集』全5巻刊行。脳溢血を発病。
1899年(明治32年)64歳 『福翁自伝』『女大学評論・新女大学』刊行。
1900年(明治33年)65歳 門下の高弟数名に編纂させた「修身要領」を発表。
1901年(明治34年)66歳 1月25日脳溢血再発。2月3日東京三田の自邸で永眠。
正確な時間は不明ですが、夜生まれなので20時設定でホロスコープ作成しました。
太陽星座 やぎ座  19°33
月星座  おうし座 28°11(但し、23時55分くらいから、ふたご座)。

第1室 本人の部屋 しし座 
第2室 金銭所有の部屋 おとめ座
第3室 幼年期の部屋 てんびん座 土星
第4室 家庭の部屋 さそり座 金星
第5室 喜びの部屋 いて座 水星 太陽
第6室 健康勤務の部屋 やぎ座 海王星 天王星
第7室 契約の部屋 水瓶座 
第8室 生と死の部屋 うお座 冥王星
第9室 精神の部屋 おひつじ座
第10室 社会の部屋 おうし座 月 木星 node
第11室 友人希望の部屋 ふたご座 火星
第12室 障害溶解の部屋 かに座

第3室♄効果で子供時代は苦労が伴いますが、語学や技術を畑として地道に積み上げることで成功することを第5室の☼は☿が見せています。☿は対角を成す第11室♂と。
第4室♀とnodeは、彼の人柄と人気運。学問・仕事への才能の柱と見てもいいでしょう。
第6室は変化球の♅と♆ですが、第10室の♃☽と相性がよく、福沢諭吉に海外との縁を持つ力を貸したかもしれません。
第8室の♇が、より対外的な力を使う才をもたらし、第10室♃とnodeは、彼の社交性に一役二役買い、♃と☽コンビは困ったことがあっても好転してゆく運気を与えています。
とてもテクニカルで、広がりを持つ星周り。初めて見た時にそう思いましたが、海外で活躍される方、♆がきれいに入る方が多いです。
福沢諭吉は明治政府から何度となく中枢の椅子に誘われました。しかし、彼はその椅子に座ることなく、教育者の土俵から降りることなく国策に関わってきました。
そして、福沢諭吉といえば、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」まず、この格言が出てきますね。
今風に言えば「人は生まれながらに平等であるといわれているよね」という意味で、トーマス・ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言やミルトンの失楽園にも影響を受けたと言われていますが、それだけはなく、もっと身近に強い影響がありました。
「門閥制度は親の仇でござる」これは晩年に諭吉が「福翁自伝」の中に書き残した言葉ですが、彼の生まれ育った環境から出てきたものです。

優秀な学者でもあった父親百助は、彼が1歳の頃に脳溢血で亡くなりました。
そのため、福沢家は大阪から中津に戻り、幼児だった諭吉は叔父の家に一旦、養子に行きます。幼い頃は熱心でかなった学問にも打ち込み、「立身新流」の居合術も習得。
文武両道の少年時代を過ごす諭吉ですが、下級武士の生まれのために大変苦労した父ことを聞いて育ったこともあるからこそ、生まれだけで人の上下関係が決まっていた武家社会への反発や疑問を抱いた経緯があり、数々の格言が生まれたのでしょう。
占星術的には3室幼年期の部屋にある♄が、これらのことを物語っているのではないかと思います。

風のトライアングルと♆が誘う変化

黒船来航以降、多くの武士たちが、勤皇か佐幕かに分かれ、国中が騒々しくなって来る頃、諭吉は兄の勧めでオランダ語を学ぶため長崎へ遊学します。
長崎奉行配下の砲術家山本家の書生として住み込み、仕事をこなしながら蘭学と砲術も学び、かなり短期間で鉄砲の設計図を引けるようになったのでした。しかし、優秀であることが他の書生(家老の息子)の嫉妬を買ってしまい、やむなく諭吉は、学問の場を大阪へと移動し、緒方洪庵の適塾へ入門します。
兄三之助の死去のため一度中津に帰り、戸籍を叔父の家から福沢家に戻すことはありましたが、中津藩から江戸勤務を命じられるまでの数年間。当時最も優秀な人たちが集う適塾で、蘭学だけでなく、様々な分野の学問を習得し、塾仲間と結構飲んだりタバコを吸ったり、大の酒好きなため破天荒もしたようです。どんなに飲んでも居合の稽古は欠かさず、たった数年で塾頭(トップ)に登ったそうです。 
藩命で江戸にある赴任した諭吉は、中津藩中屋敷に蘭学塾を開校。
それが慶應義塾の起源となっていきます。ここで蘭学を教える傍ら、自身の語学がどれだけ通用するのか試したい思いもあって諭吉は、開港間もない横浜港の外国人居留区を訪れますが、ここで大衝撃を受けます。
オランダ語が通じない!
横浜港で諭吉が見た文字。外国人の話す言葉は英語だったので、オランダ語が通じないのは当然なのですが、それまでずっとオランダが世界基準と思っていただけに、このショックは大きく、欧米へ、英語への関心を強く持ったのでした。
当時は英語の書物の入手が困難で、学習にかなり苦戦を強いられたようですが、まるでタイミングが合う様に、アメリカへ渡るチャンスが巡ってきます。
幕府は日米修好通商条約を締結したアメリカに、初の使節団を派遣する事を決め、軍艦奉行木村喜毅の従者として、諭吉は咸臨丸に乗船することになったのでした。

勝海舟をはじめ、アメリカに通じている中浜万次郎(ジョン万次郎)らと共に、サンフランシスコに渡った諭吉は、身分制度がなく、世襲ではなく民意で決める選挙があるアメリカの社会に驚きました。自由な社会制度に着目する傍ら、中国語-英語の辞書「華英通語」を入手し、帰国後これを翻訳「増訂華英通語」として出版してゆきます。
この頃中津藩士土岐太郎八の次女・お錦と結婚。新婚ほやほやでしたが、幕府の使節団として次は欧州に向かうことが決まります。
欧州全域を2年ほどかけて歴訪。ロンドン万博なども見学し、ペテルブルクでは、樺太国境問題を討議する傍ら、陸軍病院で外科手術を見学しました。
他にも銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度を細かく調べ、様々な分野の書物を買い、収穫の多い旅でしたが、香港でイギリス人が清の人々(当時はイギリスが清を統治していた)に対し、ひどい扱いをした事や、列強諸国の白人至上主義からなる植民地主義も見ていきます。
開国に際し日本が植民地化されず、欧米と対等に交流し続けるためには、あらゆる分野で技術を高め国力を上げること。それには洋学の普及が必要であると痛感したようです。
2年ぶりに戻ってきた頃、日本国内は攘夷運動が活発化し、英国公使館の焼き討ちや、薩英戦争などが起きていました。異国帰りで開国主義な諭吉は、確実にテロの対象になります。居合の達人ですから、万が一の時は刀を抜く事も考えたようですが、できるだけ夜の外出を控えやり過ごしたそうです。
欧州で見聞きしてきたことを「西洋事情」にまとめた後、再度渡米の機会を得たので、今度は首都ワシントンやニューヨークを周り、辞書・地理などの書物を買い「西洋旅案内」を書き上げ、出版された本はすべて好評でした。
まるで開眼するように海外と接し、見聞したことをすべて書物にするパワーは、☼と☿もさることながら、てんびん座の♄みずがめ座の♅。ふたご座のnodeが作る風のトリンも大きいと思います。

江戸城無血開城が損なわれる頃、中津藩の中屋敷で開講していた塾とは、ステージの違う塾にするめ、正式に「慶応義塾」と命名。
社会に貢献する人を育成するという意味が「義塾」には込められており、中津藩範囲外でも共鳴する藩から塾生を受け入れました。上野戦争が起きている最中、彼は塾生たちを相手にF・ウェイランド(英語版)『経済学原論』(The Elements of Political Economy, 1866)の講義を続けたそうです。 
明治になると妻・お錦の実家と榎本武揚の母方の実家が親戚だったことから、榎本助命のために官軍参謀長・黒田清隆と面会をしたり、銀行や保険制度を提案する他、新聞に「国会論」を掲載し、国会開設や憲法制定を提言。
政府の中枢に座ることなく、でも影響のある位置にいました。
明治4年に慶応義塾は三田に移転。翌年には「学問ノススメ」を書き始めます。
男女平等を唱える諭吉は、女も男も同様の教育を受ける権利があると主張しました。
自由かつ平等であることと、野放図にすることの違いも同時に解き、「人倫の大本は夫婦なり」と、当時は当たり前だった妾をもつことを非難しています。実際彼は、奥さん以外の女性とのうわさはなしです。
慶應義塾幼稚舎が1874年(明治7年)に発足しますが、1877年(明治10年)以降しばらくの間男女を共に教育したそうです。そして自分の娘にも、ハインリッヒ・フォン・シーボルト夫人に芸事の指導を頼んでいました。
廃藩置県に賛成し、すすめてくれた西郷隆盛に感謝した諭吉は、西南戦争を起こした西郷を責める政府要人や新聞社に対して批判をしています。

伊藤博文と井上馨。諭吉の三人で出す約束を交わし、準備したのが「時事新報」でした。しかし、諭吉は大隈重信とも懇意だったことから、伊藤から睨まれ、明治十四年の政変で大隈一派を政府の役職から辞職させた、あおりを受けてしまいます。
このため明治15年(1882年)3月から、『時事新報』は福沢諭吉の元で発刊することになりました。結果論ですが、個人で出せたからこそ、社会問題や婦人問題をはじめ幅広く記事を扱うことができたようです。
明治時代はいろんなことが、急ピッチで変わっていきました。
福沢諭吉に対しては、アジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者した人物という印象もあったのですが、これは「脱亜論」が原因といわれています。
「脱亜論」は1885年(明治18年)3月16日の新聞『時事新報』に掲載された、無署名の社説でした。福沢諭吉の死後まとめられた「福沢諭吉全集」に収録されているため、諭吉が書いたとみられていましたが、現在では新報の主筆であった石河幹明が書いた説もあります。

どちらにしても先に述べた通り、数回にわたる海外視察と外国人との交流の中で、日本以外のアジア諸国が欧米の植民地政策により、白人に支配されていた現実を諭吉は見ています。
そして、清とロシアには、強い警戒心を抱いていたのです。清(現在の中国)は、イギリスとのアヘン戦争で負けたとはいえ、アジアに対して強い影響力を持ち、日本の隣国である朝鮮は、清の支配を受けている国でした。
日本が独立国として存続し続けるためには、西洋諸国と同等の力を持たない限り、いつかは植民地となる。これを回避するために、明治政府は西洋的な近代化政策を進めたため、すべてが急ピッチとなったのでした。
諭吉は国家独立だけでなく、国に依存しない個人の在り方(独立自尊)や、自由・男女同等論を重視し、私立教育と官民調和論も構築しました。
知的な感性が有益性をもたらす☼と☿を持つ福沢諭吉は、早稲田大創設にも協力していますし、他にも大学の創設に協力しています。
隣国の朝鮮が、清から自主独立をして、日本と互いに協力し合うことで、ゆくゆくはアジア諸国を植民地から解放する道ができるのではないか。そう考え、慶應義塾に朝鮮から正式な留学生を受け入れ、民主化を進める青年たちを支援した経緯があります。
朝鮮には日本のように開国し、近代化すること求める人もいましたが、王朝はそれを好まず、鎖国へと舵を切ります。そのため国内が荒れ、王族の屋敷や公館。日本公使館(現代の大使館)が襲撃される事変が起きました。
諭吉が支援していた留学生たちは家族が殺害され、やがて本人たちも同胞に粛清され、やがて清の介入が始まり、日清戦争に発展した経緯があり、脱亜論はこういう背景の時に書かれたものでした。

下級武士の生まれで苦労し、身分制度のない国の在り方に感動して、近代国家の制度作りに関わった福沢諭吉。当時の世界情勢や、アジア情勢の経緯が語られる機会が少ないため、誤解を招きやすいのかもしれません。
後に北里柴三郎(新千円札の人)が作った伝染病研究施設建設に協力しました。
彼は亡くなる直前まで、居合の稽古を欠かさなかったそうですが、日本の歴史や文化を大切にしていたのだと思います。