阿部正弘パーソナルデーター

1819年12月3日生まれ 出生時間不明なためnoonの☽を使います。
☀星座 ♐ 10°09
☽星座 ♊ 26°11 (24h00:00 ♊19°54 23:59♋02°59) 



第1室 本人の部屋     ♐ ☀・♀・♅・♆
第2室 金銭所有の部屋   ♑ ☿
第3室 幼年期の部屋    ♒ ♃
第4室 家族の部屋     ♓ ♄・♇
第5室 嗜好の部屋     ♈ ☊ 
第6室 健康勤務の部屋   ♉
第7室 契約の部屋     ♊ ☽
第8室 授受の部屋     ♋
第9室 精神の部屋     ♌ ♂
第10室 社会の部屋    ♍
第11室 友人希望の部屋  ♎
第12室 障害溶解の部屋  ♏

出生時間不明のため、☀星座である♐が第1室。北半球(円の下半分)に星が集まり、南半球には♊☽(第7室契約の部屋)♌♂(第9室精神の部屋)。バケットタイプのホロスコープと見ていいでしょう。因みにこの日MCも♐です。
目的のために努力惜しまず頑張る人。☀星座♐ということもあり、それが過ぎる傾向と、悪気なく主語が抜けがち、細部への気が回らない等で、周囲との意見が合わなくなる可能性も秘めています。
同じく第1室本人の部屋には、♀27°49・♅23°50・♆27°43のストリウム。対極の第7室♊の☽と綱引き状態。満月生まれとみて差し支えなし。個人の人生においても変化に飛びやすい上、♅と♆は時代を司る星でもあるので、協力者や状況が変動しやすく、それをうまく渡り歩けるかが肝。
♆は海や海外も象徴します。航海時代ですし、彼の☀星座が♐。思考の旅、拡張する世界を好む性質等、これが嘉永年間以降の彼の言動に関わるのかもしれません。
第4室家族の部屋♓の♇R♄と♀・♅・♆のストリウムはスクエア。本来跡取りではなく生まれたものの、全体を優先するしがらみを物語っているようにも見えます。
第1室♐☀。第5室♈☊R。第9室♌♂は、志向の翼を広げるような火の星座のトライン。第3室♒の♃。☀と☊Rとも程よい距離間なので、もっと自由に振る舞う事ができれば、かなり面白い活動ができたと見ます。

阿部正弘略年表

ウィキ・その他ネット検索から作成

1819年12月3日(文政2年10月16日)豊後国福山藩5代藩主阿部正精(譜代大名)の5男として江戸西の丸に生ま                   れる。母は側室高野貝美子
1826年7月24日(文政9年6月20日)阿部正精死去・享年53歳。嫡男廃嫡・次男早世のため家督は3男阿部正寧に相続される。
1836年(天保7年)正寧病弱のため家督を相続。福山藩7代藩主となる。
1837年(天保8年)初めてのお国入り。(福山藩入り)
1838年(天保9年8月1日)奏者番に任ぜられる。
1840年(天保11年11月8日)寺社奉行見習いとなり、同年内に寺社奉行に昇格。
1843年(天保14年)従四位下となり、同年老中となる。
1845年(弘化2年)老中首座を務める~1855年。海岸防禦御用掛の常設化。外交・国防問題に力を入れる。
1846年(弘化3年)アメリカ東インド艦隊司令官ジェームス・ビルドが相模湾浦賀に来航。通商を求めるが、鎖国を理由にこれを断る。孝明天皇即位。
1851年(嘉永4年)ジョン万次郎、アメリカから帰国。
1852年(嘉永5年)オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスはアメリカ艦隊の来航を通告。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)マシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀に来航。8月22日(7月18日)長崎にプチャーチン率いるロシア艦隊来航。
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)ペリー再来航。3月31日(嘉永7年3月3日)日米和親条約を締結。
1855年11月18日(安政2年10月2日)開国派の堀田正睦を老中に起用。老中首座を譲る。
1856年11月14日(安政3年)外交問題の権力をすべて堀田に移譲。堀田、初の外交主任となる。この頃から阿部正弘の体調が悪くなってゆく。
1857年8月6日(安政4年6月17日)容体急変により死去。享年39(満年齢37歳8か月)。

阿部正弘惑星history ☽年齢域 生まれてから自我が目覚める頃 0~7歳 1819年~1826年 文政2年~文政9年 正弘の☽は♊

1819年12月3日(文政2年10月16日)阿部正弘は豊後国福山藩5代藩主阿部正精(譜代大名)の5男として生まれます。幼名は正一。母は側室の高野貝美子。(6男説もあり。なお本編はフルネームもしくは正弘と記載します)
福山藩は現在の広島県東部から南部に位置し、西方には毛利家をはじめ、有力な外様大名が納める藩が連なります。江戸幕府にとっては要の一つで、譜代大名の阿部家が1710年から納めてきました。福山城は福山市にますが、譜代大名である阿部家は幕閣の中枢を担う名門のため、歴代藩主は江戸にいることが多く、正弘も江戸西の丸老中屋敷にて生まれたので、城に入ったのは、藩主となってから1度だけでした。
正弘の☽年齢域は、幕末というのには早い文政ですが、海洋交易が活発化してゆく外国と、鎖国を重んじる徳川幕府と間に何度か接触は既にあったのです。
正弘が生まれる前に起きた日本と海外との主な出来事を、ざっくりと並べると

・1792年(寛政4年)ロシアの使節アダム・ラスクマンが根室を来訪。老中松平定信は信牌(入港手形)を渡す。
・1804年(享和4年/文化元年)信牌を手にロシア使節ニコライ・レザノフが長崎を訪れ、開港交渉をするが不成立。
・1806年~1807年(文化3年~文化4年)レザノフの部下等が蝦夷地北部を襲撃。年をまたいで起きた事件。(文化露寇・フブォストフ事件で検索可能)こうして西蝦夷地は幕府直轄地となる。
・1808年(文化5年)長崎港にイギリスの戦艦が侵入するフェートン号事件。
・18011年(文化8年)松前藩の役人が千島列島の測量をしていたロシア艦隊の船員を後国島で拿捕する。(ゴローニン事件で検索可能)
・1816年~1818年(文化13~文化15年)イギリスから艦隊が琉球、浦賀に現れる。

西洋占星術的には、1823年(文政6年)♇が♈入り。地球からはるか遠く、肉眼で見ることは不可能な♇は、黄銅12星座を約248年かけて一周します。2006年には惑星の定義から外されましたが、西洋占星術では変わることなく「惑星」として扱っています。
一つの星座への滞在期間は約12年~30年と、ムラがありますが、父系の伝統をも意味する♇。破壊と再生、結論を司るだけに、歴史的な変化を見るのに長けています。
その♇が正弘のまだ幼い☽年齢域で12星座の旅を終えて、♓から♈に移動。♈の開拓精神を背景に、西洋は産業革命真っ盛りを迎え、労働環境の変化と蒸気機関の発達で陸移動、航海の距離がグンと伸びました。海の覇権を争い、植民地支配も活発化する中で、ラテンアメリカでは、独立運動が盛んになってゆくのです。

☿年齢域 基礎学習や生活習慣などを身に着ける頃 7~15歳 1826年~1834年 文政9年~天保4年 正弘の☿は♑

話を正弘に戻しましょう。☽年齢域と☿年齢期が重なる7歳を迎える頃、正弘の身辺に変化が起きました。病気がちなことから老中職を降りていた父の阿部正精は、1826年7月24日(文政9年6月20日)この世を去ります。(享年53歳)
徳川幕府の重責を担う阿部家。早々に跡継ぎを決める必要がありました。しかし嫡男は廃嫡・次男早世していたことから、家督は3男の阿部正寧が相続。この期に正弘は本郷(現文京区)にある中屋敷に引っ越します。
学び盛りを迎えた正弘。考えることと動くのが同時進行な♐気質もあるのか、コツコツと学ぶのが得意な♑の☿が効いているのか、阿部家の教育係柴山敬蔵と門田朴斎から、儒学だけでなく、馬術や槍術等を習いグングン吸収してゆきます。

1828年(文政11年)当時日本に来ていたオランダ商館付きのドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、オランダに帰国する際、伊能図(大日本沿海輿地全図)を持ち出そうとした事が発覚。シーボルトは再渡航禁止。彼に伊能図事件を渡した書物奉行兼天文方筆頭高橋景保をはじめ、シーボルトに関わりのあった蘭学者たちに厳しい処分が下るシーボルト事件が起こりました。

1831年(天保2年)江戸城中で執り行われる武家の礼式を管理する奏者番という大役を仰せつかった正寧ですが、病弱あることを理由に辞退。この年福山藩は洪水に見舞われ、翌年は飢饉にさいなまれますが、元々政治には淡泊なのか、先代のような熱心さはないといわれる正寧。特に何か手を打つことはなかったそうです。

天保の飢饉の1年前、1833年1月♂は♉。♃は♓。♄は♍。♅は♒。♆は♑の後半。そして♇は♈。♅♆♇の外惑星3天体は、年内に星座をまたぐことはありません。拡張の星である♃は2月10日以降♈に入室。3月末ごろ♈♇とコンジャンクション。さらに ♄は♍28°という本当に終わる寸前で、1月上旬にR開始。クロノスと評される♄が、その娘デメテルの♍を遡り、これが5月下旬まで約4か月以上続き9月中旬に♎入ります。クロノスとデメテル。父と娘どちらも農耕・豊穣の神であり、クロノスは試練の神。♍を進む♄は、飢饉の序章にも見えます。

♀年齢域 15~24歳 基礎学習を土台に専門性を高める時期 1834年~1843年 天保4年~天保14年 正弘の♀は♐

☿年齢域と基礎を土台に伸び盛りを迎える♀年齢域が重なる1834年(天保4年)は、天保の飢饉が始まる年でもありました。1834年~1839年。和暦だと天保4年~天保10年のざっと7年。
各地に雨による洪水と冷害によって大凶作に陥る日本。特に東北地方の被害は深刻な記録が残ります。農作物が壊滅的だったことから、各地で百姓一揆等も起こりました。著しい物価高騰や、地方で生活が成り立たなくなった人たちが仕事を求めて都市部へ流出する現象も起こり、都市部の治安が悪くなる半面、学者や医者といった知識人の間では、蘭学への関心が高まります。
江戸では新知識の研究や情報交換が活発に行われていました。この辺りは、♄が♎を進み、2月下旬♅がいる♒に♆入り(この時♂も♒入り)時代の風が吹き荒れ始めたことや、何より♇♈時代。麻酔薬の誕生や感染症の研究等、医療面で革新的なことがあり、その余は東洋の端にある島国にも届きます。

1836年(天保7年)12月25日。阿部正弘は兄正寧から家督を譲り受けます。
正弘の誕生日のホロスコープを確認すると☀はNもTも♐。ここに仕事、コミニュケーションのT☿が入っています。
面白いのが、♌N♂の対極♒にT♆の対。因みにT♆は♒3°52で入室して間なし。♒には正弘のN♃。T♃は♌を進み、ここもオポジション。
火と風のオポジションなので、我が道を進む心地よさがありそうです。
T♅は♓の0°49。こちらは入室したばかり。♈を進む♇は13°58Rで、こちらは正弘のN☀とトライン。
立場が変わる。立場が上がるというのも頷けますし、広範囲で生きる厳しさを背負う意味の♈♇もあるのかなと考えられます。

1837年(天保8年)第11代将軍徳川家斉が一線を退き、第12代将軍は次男である徳川家慶が着く事が決まりました。祝賀も行われますが、民が貧している時に、貴重な米を江戸に送る事や役人の不正等への憤りから、同年3月25日(天保8年2月19日)大塩平八郎の乱が起きたのです。
短期で収まったように見える大塩平八郎の乱ですが、第12代征夷大将軍の地位に徳川家慶が就いた後、生田万の乱をはじめ幾つかの反乱が続く起爆剤となりました。
さらに夏には鹿児島湾と浦賀沖に姿を見せたアメリカの商船モリソン号事件が発生。これはマカオで保護された7人の日本人漂流者たちを乗せていたモリソン号が、彼らの送還。通商・布教のために来航したのを、イギリスの軍艦と勘違いした幕府。薩摩藩と浦賀奉行が「異国船打払い令」に沿って砲撃をした事件です。
なかなか騒々しい時代に、福山藩7代藩主となった正弘ですが、この年、人生初福山へ国入りしています。(正弘が国元に帰ったのは、この1度のみです) 
1838年(天保9年)兄が断った奏者番に任ぜられました。江戸城内で執り行われる武家イベントのスタッフともいえる仕事で、将軍が徳川将軍家や御三家の法要に参列できない場合は、時として代参を務めることもある奏者番。
これを受諾した正弘は、江戸城内での武家イベントスタッフに従事します。

1839年(天保10年)渡辺崋山・高野長英等による蛮社の獄。翌1840年(天保11年)には、清とイギリスの間で4年間の戦い。アヘン戦争が始まったのです。この頃阿部正弘は寺社奉行見習いから寺社奉行へ昇格しました。
老中水野忠邦が天保の改革に着手すると、感応寺の僧侶と大奥の女性たちが乱交を行っていた事が露見。感応寺とは、僧侶日啓の娘美代が第11代将軍徳川家斉の側室として輿入れをした礼として、建立された寺院だったのです。
事態を知った第12代将軍家慶は、怒って取り沙汰しようとしますが、そこに待ったをかけたのが阿部正弘でした。
家斉将軍の死去後とはいえ、これは大スキャンダルに発展し、幕府のイメージダウンに繋がります。考えた末に阿部正弘は、僧侶日啓・日尚の二人の処断と感応寺を破却。大奥側は首謀者であった日啓の娘美代だけを処罰しました。
この件に大奥側の女性が何人もの関わっていましたが、美代以外の者はお咎めなしとしたのです。この対応が大奥からの信頼を得るきっかけとなりました。
 江戸城内で生きる武士にとって、大奥を敵に回すのは絶対NG。うまく処理した阿部正弘は、将軍と大奥から、信頼を勝ち得たのです。

1842年8月29日(天保13年)アヘン戦争が終わります。
清が英国に敗れて南経条約を締結したこと。蒸気機関の発達による遠洋航海の促進で、捕鯨が盛んになったこと等、国際的な力関係とアジア情勢に変化が起こり始めます。その余波は日本にも及びました。老中座首の水野忠邦は、「異国打払い令」を廃止。外国船が来たら、食料と燃料を与えて穏便に帰ってもらう様、「薪水給与令」を発令します。

名実ともに輝く☀年齢域 24~34歳 1843年~1853年 天保14年~嘉永6年 正弘の☀は♐

正弘の♀年齢域と☀年齢域が交差する1843年(天保14年)。
八重山諸島にイギリス軍艦サマラン号が上陸したこの年。阿部正弘は老中へと昇格します。幕末の老中職は4~5人ですが、同期となる長岡藩主牧野忠雅は47歳。篠山藩主青山忠良は39歳。宇都宮藩主戸田忠温は39歳。正弘は弱冠24歳。いくら譜代大名とはいえ老中職につくだけでも異例の昇格でした。第12代将軍徳川家慶の抜擢は、その上を行く破格の扱いだったのです。
この頃幕政は老中座首の水野忠邦を中心に、天保の改革を強硬に勧めましたが、結果、世間の幕府への反発を強めてしまい、水野忠邦は改革の失敗の責任を取り、老中首座を降りるのです。

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉がありますが、1844年(天保15/・弘化元年)江戸城本丸消失事件が発生しました。260年続いた江戸時代ですが、実に火事が多く、江戸城本丸も今回を含め計5回ほど焼失しています。 
焼けた本丸の修繕費用を工面するのに悩む老中たち。そこオランダ国王のウィレム2世から親書が届いたのでした。
オランダと日本(徳川幕府)は、長年に渡る友好国である事を前置きした親書を、かなり平坦にすると、

<これまで強国と思われていた清が、アヘン戦争で英国に敗れたことから情勢が変わった。蒸気船の開発によって遠洋航海も容易となり、西欧諸国は本格的にアジアの開拓(植民地化)を勧めてゆくこと。
この動きは誰も止めることができない現状と、力による日本への開国を他国が迫る可能性も上がったこと。力によって押し切られる前に、幕府は平和的な開国と通商をオランダと結ぶことを求める>

という内容でした。(当時日本側のオランダ語訳は渋川六蔵氏。親書の作成にはシーボルトが関わっています)

これまでもオランダは幕府に開国を即していました。が、今までよりも踏み込んだ内容になっていたのです。この頃の欧米は、産業革命によって24時間フル稼働な工業と、深夜まで明かりが途絶えないオフィスワークを可能にしました。便利に変化する仕事と生活スタイルを継続する「原子」として、大量の油を必要としたのです。「油」といえば当時の主力は「クジラ」でした。
蒸気機関の開発によって、遠洋航海も容易となった各国は、良好な捕鯨場を求めて伊豆諸島や小笠原諸島。カムチャツカ半島海域等、日本近海にも来るようになったのです。そのため航海に必要な大量の水や薪、食料が欲しくて日本の港に寄港する可能性が上がり、悪天候によって座礁した日本の漁船が、海外の船に助けられるケースも起きたのでした。
さらにアヘン戦争の終わり=イギリスによる清の植民地化が進み、日本とその海域を取り巻く環境も大きく変化してきたのです。

江戸城本丸の再建に国際問題等が重なり、土井利位は対処できないことから老中首座を免職となりました。座首の座に返り咲いたのは水野忠邦です。
彼は「開国」を主張しますが、阿部正弘をはじめ、この返り咲き人事に不満を抱く老中たちからの賛同は得られません。この頃阿部正弘は、藩主となる前の島津斉彬と既に仲が良かった形跡がありました。
水野は「薩摩は信用ならぬ。徳川家を裏切るかもしれない」を常日頃口にする人だったことから、うまくいかなかった事もありそうです。

オランダ国王からの親書が届いたのが7月。夏まっ盛り1844年年8月15日でホロスコープを作成してみました。
当然、T☀は♌を航行。T♃・♅・♇は♈♇。T♄・♆は♒。T☊♐となり、
新しい関係始まる?な雰囲気はありますが、♃以下☊まで全て逆行(R)ですから、油が切れた機械のように何事も進みが悪い時期で、不協和音も鳴り響くと見ることはできます。

老中座首に戻った水野忠邦ですが、わいろの受け取りや、家臣が砲術家の高島秋帆を陥れて投獄する等の問題が発覚。翌1845年(弘化2年)不正を追求されて、家臣もろとも免職となりました。空いた老中座首の座。
今の時代の役職に当てはめるなら、老中座首は総理大臣ともいえる地位といわれています。家慶将軍はその重責の位置に、30歳にもならない阿部正弘を就かせたのでした。実務能力と実績。不正追及の功労や大奥からの絶対的信頼を鑑みて、家重将軍は決めたようですが、異例中の異例人事の後、申し合わせたような事態が起きてくるのです。

房総沖で救助した数十名の日本人を返すために、1845年4月18日アメリカの捕鯨船サラマン号が、徳川幕府了承の下浦賀へ寄港した記録があります。
薪水給与令の発令後もあり、幕府側は邦人救助への礼を伝え、漆塗りの土産物の外、数種類の食料に材木などを用意する等、丁重にサラマン号を出迎えました。船長のマーケイター・クーパーこそ、公式に日本に訪れた初アメリカ人です。これまで常設ではなかった海岸防禦御用掛を、阿部正弘は常設化させて国防の要としました。

1846年2月21日(弘化3年1月26日)仁孝天皇が崩御。孝明天皇が践祚なされます。同年7月19日(弘化3年閏5月26日)アメリカ東インド艦隊の司令官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航。オランダ風説書が伝えてきた通り、鎖国を解いてアメリカとの通商を求めてきましたが、事前に知っていた幕府側は、「鎖国」を理由に断っています。

1847年10月31日(弘化4年9月23日)孝明天皇の即位の礼が行われました。改元は翌1848年4月1日(弘化5年2月28日)に実施され、こうして「嘉永」が始まります。1848年から翌年にかけて欧州は、ウィーン体制の崩壊が起こり、諸国民の春といわれる革命が続きました。
1849年(嘉永2年)長崎にアメリカの軍艦プレブル号が寄港します。
この寄港は、日本に捕虜となった邦人を救出するためですが、捕虜の中には、日本人に英語を教えるために日本に残る者もいました。同年イギリス海軍のマリーナ号が、浦賀や下田で測量を行うなど、日本の海上には、外国船が訪れるようになっていたのです。 

1851年(嘉永4年)漁船遭難からアメリカに助けられた日本人ジョン万次郎が帰国。ただし、その帰国はとても静かに行われました。(ジョン万次郎は既に書いているので、興味のある方はご参照ください)
1852年7月21日(嘉永5年6月5日)オランダ商館のカピタン(館長)ヤン・ドンケル・クルティウスは、オランダ風説書(海外情報書)で、アメリカの来航を幕府に通告します。
<中国近海に派遣されたアメリカ軍艦隊5艘。それとは別にアメリカ本国から4艘の艦隊が、大統領の親書を携えて日本を目指してくること。艦隊を束ねるのはマシュ―・ペリー提督であること。長崎での通商と、商館建築と駐在公使を受け入れること。外国との交易は江戸・京・大阪・堺・長崎の5か所の商人とする>等、計10項目の通商条約の素案を提示しつつ、アメリカが日本に着く前に、徳川幕府が鎖国を解きオランダとの通商条約を結ぶことを再度勧めてきたのでした。

江戸城の詰所にいる譜代大名たちにオランダ風説書を回覧し、海岸防禦御用掛にも意見を聞きく阿部正弘。返ってくる答えはどちらも「オランダとの通商条約は結ぶべきではない」でした。
過去にオランダ商館の誤報を経験した長崎奉行からは、オランダ人は信用できないという返事が返ってきます。積極的でない回答が総意となり、幕府はオランダとの通商条約を拒否したのでした。
オランダ側に打算もありましたが、アメリカが日本を実行力支配に乗り出した時、出島に滞在するオランダ人の安全にも影響が出ることを危惧していた事から、日本側の返事にガッカリしたそうです。

これまで幕政は徳川御三家と親戚筋の親藩。関ケ原の合戦の前から徳川家を支えてきた譜代大名が中心に行ってきました。アメリカが開国を求めてやって来るこの話も同様で、当初は実務的に関わる浦賀奉行止まりだったのです。
周囲の危機感のなさと動かない老中たちを見た阿部正弘は、「これまでの常識」を越えて、様々な階層の人たちの意見を拾い、積極的に交流してゆきます。
既に交流のある薩摩藩の島津斉彬(お由良騒動に関して、阿部正弘の協力があった)をはじめ、土佐藩藩主山之内容堂。宇和島藩藩主伊達宗城、肥前藩藩主の鍋島閑叟(かんそ)といった外様大名は、領地が海に面している事から、貿易や海外事情に関して敏感。かつ独自の視点を持つ開明主義的な人たちでした。
三浦海岸の警備を強化のため、彦根藩と川越藩の兵を増やす傍ら、水戸藩の徳川斉昭(徳川慶喜の父)を海防参与に取り立てます。水戸藩は徳川一門。斉昭が幕府要職に着くのは自然ですが、過激な性質だった事から、仏教抑圧問題等問題を引き起こし、取り調べと隠居させられたのでした。
それだけに藩の財政の立て直した能力と、農村に活気をもたらした実績。藤田東湖という知才をブレーンに持つ人物であることも、知っていた正弘は、斉昭の高い海岸防衛能力を買ったのです。

1852年11月(嘉永5年)第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書を携えたアメリカ東インド艦隊司令長官マシュ―・ペリーは、旗艦サスケハナ号(外輪蒸気船2450t、大砲数9門)に座乗。ミシシッピ号(外輪蒸気船1692t、大砲数10門)、プリマス号(帆船989t、大砲数22門)、サラトガ号(帆船882t、大砲数22門)の3隻を率いてバージニア州のノーフォークを出港しました。

戦いの炎燃ゆる♂年齢域 34~45歳 1853年~1864年 嘉永6年~元治元年 正弘の♂は♌

いよいよ阿部正弘♂年齢域です。☀年齢域と♂年齢域が交差する1853年7月8日(嘉永6年6月3日)は、Xデー。オランダ風説書の指摘通りに、マシュー・ペリー提督の率いる4艘の艦隊(2艘は蒸気船)が浦賀湾に姿を見せました。先に寄港した琉球には、別艦隊を残しています。
この日のホロスコープ浦賀17時設定
ASC♐19°20 ・ MC♎6°24・ ☀♋15°59 ・☽♌7°26 ・☿♌9°20 ・♀♌ 1°1
♂♊10°17・ ♃♐16°21R(1/1♐11°・4/11♐24°28~8/12♐14°37迄R)
♄♉28°05・ ♅♉11°52・ ♆♓13°36R・ ♇♉2°39 ・☊♊19°24R
夏なのでT☀は♋。T☽は♌で新月明け。殻を破る新時代の幕開けであり、ASCと♃は、阿部正弘の☀星座である♐を進み、対極♊のN☽にはT☊。♌には正弘のT♂がありますが、ここにT☽は☿♀と共に「我ここにあり」と覇権交渉のようなストリウム。但し、♃と☊はR。♓♆のRもあり、新たな広がりがすんなりとは進まない暗示とみました。

幕府の役人や港の人の中には、ロシア海軍やイギリス海軍。アメリカの捕鯨船等、外国船を見慣れていた人もいましたが、アメリカが送り込んだ4艘の艦隊。そのうちの2艘は、これまでとまったく違う形状をしていたのです。
巨大で空に向かって黒煙を上げながら近づいてきた形状から「黒船」と呼ばれたペリー艦隊は、同年7月17日(嘉永6年6月12日)に浦賀を去るまで、官民の別なく、日本人の注目を集めました。

日本を覚醒させて有利に話を進める狙いもあったペリー提督。湾内で祝砲や合図の空砲を撃つ事こそ幕府の許可を得ますが、武装した短艇で浦賀湾内の測量を勝手に行います。通訳を通じてアメリカ側への抗議は気にせず、やがて艦隊を二組に分けて2艘で江戸湾入りし、江戸上陸の気配を見せる等強引な姿勢を示しました。
第12代将軍徳川家慶は重病の床。著しい軍事力の差を前にした幕閣たちですが、重要なことが決められない状況でもあったのです。頭を抱える老中たちを前に、「親書を受け取るくらいは仕方ないだろう」と、結論を出したのは老中座首の阿部正弘でした。
同年7月14日(同年6月9日)陸上の警護を彦根藩と川越藩。海上の警護を会津藩と忍藩に任せて、ペリーの久里浜入りとなったのです。
出迎えたのは、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道の二人。開国と通商を求める第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書を前に、二人は通訳を通じて将軍が重病のため判断を仰げない状況にあることを理由に、回答を一年延長したい旨を伝えました。
この申し出に「再来」を約束したペリー提督は、琉球に残した艦隊と合流するために浦賀を出港。イギリスの植民地である香港に寄港します。
7月27日(6月22日)第12代将軍徳川家慶が死去しました。

開国するか、鎖国を継続するか。1年以内に回答と対策を講じる必要が生じた徳川幕府。国内には異国排斥を唱える攘夷論や勤皇論も高まります。第13代将軍徳川家定が就任するまでの間とその後、時代の瀬戸際に立ったのが、老中座首の阿部正弘でした。
役職に就く武士だけでなく、町で商いをする旦那衆や様々な人の意見を吸い上げる正弘ですが、福山藩にも影響を与えます。藩校の新学館(弘道館)を「誠之館」と改めて、身分に関わらず有能な人を教育する学舎に変えました。福山藩の石高こそ11万石に上がっていましたが、忙しすぎて藩政を顧みない正弘。財政等の事情がよくわからないまま「誠之館」つぎ込むことから、藩の財政は厳しい状況が続いたそうです。

ペリーが日本を去って約一月後、江戸城を警護する御徒頭大久保忠寛の目に止まったのが、勝麟太郎(勝海舟)の「海防意見書」でした。江戸湾に砲台の設置と被弾除けの防壁作り。軍艦作りにそれを操舵できる人材の育成、育成のために必要な世界の軍事、地理や天文、機械などの書物を集めた図書館作り。これらを賄うための経費は、税金ではなく貿易で出した利潤を使うこと。その仕事に下級武士を採用することなどが書かれた「防衛意見書」は、実行化されていきます。

翌8月22日(同年7月18日)ロシア海軍のエイハム・プチャーチンが率いる4艘の艦隊(うち1艘は小型の蒸気船)が長崎に寄港。日本に通商を求めてきました。この先、他国からも開国を求めてくるのは避けられない。
そう悟った正弘は、同年8月30日(同年7月26日)ペリー提督から渡されたアメリカ大統領の書簡を、各諸藩の役人にも公開。身分の枠を超えたパブリックコメントを集め始めます。さらに砲術家高島秋帆の禁固を解き、佐賀藩に大砲50門を鋳造。江川栄龍(韮山代官)の指揮で、品川沖に砲台を建設。禁じていた大型船建造を解禁しました。
薩摩藩の昇平丸・水戸藩の旭日丸、浦賀奉行の鳳凰丸の建造が進みます。
下級武士でも能力がある川路聖謨や岩瀬忠震ら要職に就く等、「海防意見書」の具体化が進む中、プチャーチンが、ようやく長崎港を離れました。

1853年11月23日(嘉永6年10月23日)第13代征夷大将軍徳川家定が就任し、翌月の暮に近い12月23日(嘉永6年11月7日)日本一アメリカに詳しい日本人。漁師のジョン万次郎が旗本に取り立てられます。(資料によると実際の交渉の場に立つことはなかった記載あり)
1854年2月11日(嘉永7年1月14日)アメリカの輸送船「サザンプトン」が浦賀沖に現れた二日後2月13日「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」(蒸気外輪フリゲート艦)、「マセドニアン」「ヴァンダリア」(帆走スループ)、「レキシントン」(帆走補給艦)と、計7隻のアメリカ艦隊が江戸湾に到着したのです。

この日のホロスコープですが、2月11日は☀星座♒。
ASCは♊。MC・☀・☿♒。☽♌。♀R♇♓。♂R♍。♃♑。♄♆♉。☊R♊
♒と♌の不動星座コンビに♉と♍と♑の緻密な土星座コンビ。正弘の♂は♌でしたね。N☽T♂が合。さらにN♃とT☽が対極。N♂とT♇(♇は入室したばかり)変調を告げる兆しと読めるので、個人の人生でも変化、変調の兆しがあるでしょう。正弘は実務的な立場と時代のど真ん中にいる人なので、社会的運勢の方が大きいと思えます。

・1854年2月13日(嘉永7年1月16日)ペリー再来航。
・1854年3月8日(嘉永7年2月10日)横浜にて、幕府の全権とペリーの交渉開始。
・1854年3月31日(嘉永7年3月3日)日米和親条約を締結。

端的に書けばこの3行で、徳川幕府の鎖国時代は終わり。ですが、できるだけ戦争を行わず、具体的な返答を避ける交渉に苦慮した約一ヶ月半でもありました。江戸湾に集結した艦隊を浦賀に移動するように幕府は求めますが、ペリー提督は応じず、親書の回答を江戸で行うことを求めました。浦賀奉行の組頭黒田喜兵衛とペリー側はアダムス中佐による応接の場所についての折衝が続き、品川に川崎と代替え案を勧める中、ようやく横浜村と決まったのでした。
「サラトガ」(帆走スループ)がペリー艦隊に合流した後に横浜の応接所が完成。こうして1854年3月8日(嘉永7年2月10日)幕府の全権とペリーの交渉に、総勢446人のアメリカ人が横浜の地を踏んだのです。数日後、もう一艘「サプライ」(帆走補給艦)が到着。計9艘の艦隊が江戸湾に集結したのでした。界隈は珍しいものをみたい庶民でにぎわい出店が出たり、中には勝手に船を出して、アメリカ人と接触を試みる庶民もいたとか。(吉田松陰が密航を試みたのは、和親条約締結後です)そんな賑わいや、異人排斥の檄を飛ばす侍や公家と違い、老中座首として政を預かる阿部正弘。
国力差という現実を目の当たりにして、偉人嫌いの孝明天皇と巷の武士が口にする「攘夷」は無意味であることを悟るのでした。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)アメリカに補給のための入港を許します。交易はしませんという主旨を盛り込んだ日米和親条約が結ばれたのでした。
英語版にペリー提督が署名すると、日本側の実務者大学頭林復斎は「我々は、外国語で書かれたいかなる文書にも署名することはできない」と言い署名をせず、同行の応接掛3名井戸覚弘(対馬守)、伊沢正義(美作守)、鵜殿長鋭(民部少輔)の署名と花押のある日本語版1通を渡しました。見る限りですが、この日米初交渉の際、日米双方、「正文」を何語で記載するか確認がないまま進んだのです。(参考資料・幕末外交と鎖国/加藤祐三)
そのため、
英文の日米和親条約11条は「日本は開国」
和文の日米和親条約11条は「開国ではなく、下田と函館の2港の開港を譲歩した」
という認識のズレが生じたのでした。

徳川家斉はもちろん、開国に反対する過激な攘夷派はに対して「開国はしていない」と言い切ることができたわけです。ズレが表面化したのは、1856年8月21日(安政3年7月21日)外交官タウンゼント・ハリスがやってきた時でした。当然、揉め事になるのですが、条約を締結した時の幕府、老中座首の阿部正弘としては、アメリカとの戦争回避できた事で、いっぱいいっぱいだったかもしれません。

この日のホロスコープを観ると、T☀♈。♇♅☽に♄が♉。☊♊。♂♌R。♃♑。♀♆と☿Rが♓にあります。これが正弘のN♐☀とT☀の調和。N☿/T♇。N♂/T☀。N♅/♂等も調和。T☿R/N♇と♄が合。N♆/T☿R。N☽/T☿Rの緊張角度等、コミュニケーション、折衝、国同士の法と尊厳、始まりと終わりを意味するような配置を観ることができます。

1854年6月17日(嘉永7年5月22日)日米和親条約の12条付録調印(下田条約)が下田で行われました。
下田港とその周辺約27キロ。
函館港とその周辺約19キロ。
アメリカ人は武家、町民の家への立ち入り禁止といった解放する2つの港と、当地におけるアメリカ人の行動範囲が書かれています。

アメリカ側から贈られた手見上げの一つ、小型蒸気機関の模型が意識を替えたのかもしれません。オランダへ蒸気船の発注。海軍伝習所の計画も始まりました。
同年10月14日(8月23日)には英国東インド艦隊司令のジェームス・スターリングと日英和親条約を結びます。
同年12月23日(11月14日)午前9時~10時の間に、M8.4の大地震が東海地区を襲います。東海道だけでなく、北陸道、東山道にも広がり、死者数は2,000~3,000人ともいわれていますが、条約を結ぶべく下田に寄港していたロシア艦隊の船が地震で大破。
翌日には南海地震による津波が起きて、紀伊半島や四国に甚大な被害が発生します。
1855年1月15日(嘉永7年11月27日)内裏の炎上、黒船来航に地震と災異が続いた事から、改元がなされ、安政元年となりました。
そして1855年2月7日(安政元年12月21日)ロシアと日露和親条約が締結。
1855年7月22日(安政2年6月9日)長崎にオランダ軍艦スムービング号が来航。幕府に寄贈されました。後に観光丸と改称し、日本最初の蒸気軍艦となります。
船や大砲だけでなく、小銃も必要となることから、幕府直轄の「湯島大小砲鋳立場」が湯島に作られました。諸大名や旗本に洋式銃の訓練も命じて、時代への変化に対応してゆくのです。
すんなり進むことばかりではなく、苛烈な攘夷派の斉昭公は怒って海防参与を辞任し、開国派の松平乗全、松平忠優に圧力をかけて罷免する問題が発生。一説によるとこれで阿部正弘は、井伊直弼等の怒りを買ったとか、そもそも正弘のやり方に不満がある譜代大名の反発を買ったとも言われています。

1855年9月10日(安政2年7月29日)日本海軍発祥の日ともいえる海軍伝習所の一期生に選ばれた計128名が、オランダ人講師から汽船運転技術。造船や語学、医術等を学ぶ日を迎えました。初の国産蒸気船「雲行丸」が、薩摩藩の江戸藩邸前の海で試運転に成功するなど、日露和親条約を結んで以降、日進月歩の日々が過ぎてゆく1855年11月11日(安政2年10月2日)。午前10時頃。関東地方南部でM7クラスの地震が発生します。
紙面の都合上、詳しいことは割愛しますが、かなり広域に影響が及んだこと。家屋倒壊14346戸。死傷者数は4500人以上、1万人ともいわれる安政江戸地震は、津波や火災による被害も甚大でした。江戸城も被災。家定将軍は吹上御所へ避難しています。
安政への改元理由の一つが、各地で地震が相次いだことでした。改元後、先に書いた1854年12月23日(安政元年11月4日)安政東海地震(M8.4)。約23時間後の安政南海地震(M8.4)。続くように二日後には豊予海峡地震(M7.4)が起きたのです。
ついに中央都市である江戸でも大地震が発生。余震も一月ほど続きました。復旧事業費用等のために幕府の財政は悪化。この地震で黒船来航以降、将軍並びに徳川斉昭を補佐していた藤田東湖が震死したのも痛手でした。
江戸城の中で攘夷派と開国派が火花を散らすのを放置し、自身が孤立化することを恐れた阿部正弘は、1855年11月8日(安政2年10月9日)融和策として老中座首の座を開国派の堀田正睦に譲ります。

Tホロスコープを観ると、♏☀に☿Rが合。これが正弘のN♃と緊張角度。正弘の♐♆♅
♀の三連にT♊♄が対抗として力比べ。N☿とT♇と☊が調和しているので、致命的なことにはなりませんが、今までのようにすんなり進むとはいいがたく、N♄とN♇にT♆は合。ちょっと疲れに要注意。一歩引いた方が無難な時ではあります。

その後阿部正弘は、一老中として国防の強化に務めました。1856年3月19日(安政3年2月13日)洋学を専門に学ぶため蕃書調所を九段坂に設置(後の開成所)。同年5月16日(同年4月13日)築地の佐倉藩中屋敷跡地に、武芸訓練所として剣術、砲術、槍術を学ぶ講武所を開場。越中島に練兵所も儲けます。
1856年8月21日(同年7月21日)米国総領事としてタウンゼント・ハリスが下田を訪れたのでした。こうして同年11月14日(同年10月17日)外交問題の選管権利を全て譲渡された堀田正睦の初外交が始まります。タウンゼント・ハリスの江戸城途上については、反対の意を唱える阿部正弘ですが、基本的には口を挟まないようにしていたようです。
1857年1月13日(安政3年12月18日)島津斉彬の養女篤姫が、第13代将軍徳川家定と婚儀を交わしました。島津斉彬といえば、阿部正弘との信頼関係がある人物ですね。
1857年6月17日(安政4年5月26日)英文の日米和親条約11条は「日本は開国」
和文の日米和親条約11条は「開国ではなく下田と函館の2港の開港を譲歩した」
という両国の認識のズレを修正するよう、タウンゼント・ハリスに強く求められた下田奉行が、日米和親条約を修補する全9条の下田協約を締結したのでした。

ここに至るまでに伊達宗城は、タウンゼント・ハリスの登城問題をどうするか、阿部正弘と対談しましたが、伊達公が無駄と感じるほど話の進展はなかったそうです。
詳しい時期は定かではありませんが、老中座首を降りた阿部正弘。緊張の糸が切れたのかもしれません。江戸城への登城こそしていたものの、1856年後半あたりから積年の激務による体不調が続いたのでした。1857年の春には羽村堰の辺りまで遠乗りをしてリフレッシュなども図りましたが、誰が見ても顔色が悪いのがわかったそうです。
家定将軍も心配して登城を控えるように伝え、ようやく静養に入りました。実に多くの医師が診察に赴き、時に西洋医術の治療も勧められたようですが、正弘本人が拒否したという逸話が残っています。
1857年8月6日(安政4年6月17日)朝、容体は変わらなかったものの、午前中に急変してこの世を去りました。享年39歳(満37歳8ヶ月)
♂年齢域 34~45歳です。♂年齢域に入って半分も経たないうちに亡くなるのは、さすがに早いと思いますね。賛否もあれど能力的にも高い人で、阿部正弘が亡くならなければ、井伊直弼も安政の大獄の断行もしなかったとも言われるだけに惜しいです。

阿部正弘が亡くなった後、オランダで造船された咸臨丸が長崎に到着。来日したヘンドリック・ハルデスの指導で長崎製鉄所の建設が始まります。
1857年10月12日(安政4年8月25日)日露追加条約調印
1857年10月16日(安政4年8月29日)日蘭追加条約調印
1857年12月7日(安政4年10月21日)タウンゼント・ハリス江戸城にて、第13代将軍徳川家定に謁見して国書を渡したのでした。
1858年1月25日(安政4年12月11日)に日米修好通商条約の交渉が始まり、安政5年に入ると、孝明天皇の勅許を得るため堀田正睦は入京。岩倉具視を中心にした攘夷派88人の公家の反対と、孝明天皇の勅許拒否で難航する中、井伊直弼が大老に就任します。
就任早々、井伊直弼は徳川慶福(後の家茂)を将軍後継者として押したのでした。(阿部正弘は慶喜を押していました)
こうして阿部正弘がこの世を去って約1年後の1858年7月29日(安政4年6月19日)。
無勅許のまま日米修好通商条約の調印が進んだのでした。この先は怒涛の幕末そして維新と時代が進みます。

幕末維新というと安政の大獄以降の話がクローズアップされますが、今回はそうなる前、
幕末前夜とも言える時代を生きて、時代の基礎や土台を作った幕府側の人物阿部正弘を取り上げました。海外との初交渉を行った中心人物なだけに、プレッシャーもあっただろうし、変化OK、未知なものを観ると知情意の全てが広がる♐に、新情報に機敏で興味津々な双子の☽が、勝海舟やジョン万次郎といった幕閣からは遠い人たちを拾い上げる効果をもたらしたのでしょう。
変革には常識よりも実利と風通しのよさを選ぶ意識が必要で、それを実行できる位置に、阿部正弘がいたのは星回りと歴史の妙がなせる業だと改めて思いました。