「什の掟」と「会津家訓十五箇条」で魂を培った会津藩に生まれて

江戸・明治・大正時代は、女性がすごく我慢を強いられたというイメージが強いと思います。確かにそういう側面もありますが、今回の主役新島八重は、江戸時代の弘化2年に会津藩の武家の娘として生まれつつ、幕末の会津戦争の時は、守りたいものを守るために
自らの意思で銃を持って戦い、明治時代になるとプロテスタントの準宣教師である新島襄と結婚するため、勤めた職場を辞めてクリスチャンとなり、周囲からは批判されつつも
当時はまだ認知されていない西洋の男女平等なライフスタイルの生活に挑み、男性オンリーの茶道を女性のために開拓し、日清戦争では赤十字の看護師として働いた女性です。

今よりもはるかに封建的と思われていた時代に、自らの意思で自由に生きぬいた彼女がどんな星とともにあったのか、見てみたいと思います。

「幕末のジャンヌダルク」「日本のナイチンゲール」と言われた新島八重。彼女は会津藩(現在の福島県会津若松市)で代々砲術師範を務める山本家の6人兄弟の3女として生まれました。新島襄と結婚するまでは山本八重子を名乗ります。

会津藩といえば「ならぬことはならぬものです」という言葉が有名ですが、これは江戸時代、六歳から九歳までの武家の男の子たちが、地域ごとに集まり文武を学ぶ「什(じゅう)」というグループで培われる教えの一つです。
彼らは10歳になると、文武の両教科を教授する総合学校「日新館」の入塾が義務付けられていて、あらゆる武術や兵法。学問を学んでいきます。八重の兄や弟も「什」と「日新館」に通いました。長兄山本覚馬はとても優秀で22歳の時に江戸遊学を許され、勝海舟と共に佐久間象山の塾で学んでいます。
女子は日新館のようなものはなかったものの、母親をはじめ周りの女性から礼儀作法、手芸や織物。薙刀等、受け継ぐように学ぶ環境がありました。八重も幼いころから織物や小笠原流の作法を学び、覚馬からは砲術・銃術を学んでいます。

三代将軍徳川家光から会津藩を譲り受けた初代藩主保科正之は、「日新館」ができる前に、民間創設の庶民のための学問所「稽古堂(けいこどう)」があることから、領民にも学問を奨励していました。
甲斐武田氏の家臣保科氏の養子ですが、実は二代将軍徳川秀忠の四男である保科正之は家光の異母兄弟にあたります。誠実な性格と政治手腕から家光の信頼も厚く、四代将軍徳川家綱の補佐官を務め、武家向けの政策だけでなく、江戸市民のために玉川上水を開削して飲用水の安定供給を行いました。

1668年(寛文8年)主保科正之は「会津家訓十五箇条」を定めます。第一条の『一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。』は、会津藩は将軍家を守護するべき存在なのに、藩主がこれを裏切るようであれば、家臣はこれに従ってはならない」という意味で、九代目藩主となる松平容保公に至るまで「会津家訓十五箇条」は、堅く受け継がれてきた遺訓でもあります。

ここで八重の略歴とネイタルホロスコープを見てみましょう。
明治以前
1845年12月1日(弘化2年11月3日) 会津藩(現在の福島県会津若松市)にて誕生。
1865(慶應元)年 川崎尚之助(但馬国・出石藩出身、日新館教授)と結婚。のち、戊辰戦争の最中に離縁。
1866(慶応2)年 長崎にいた兄覚馬より、スペンサー銃が届く。
1867(慶應3)年 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜により大政奉還。
1868(慶應4)年 戊辰戦争勃発。 鳥羽・伏見の戦い。
会津藩主・松平容保公に同行していた兄・山本覚馬が薩長連合軍により捕縛される。
8月、母成峠(ぼなりとうげ)、戸ノ口原、滝沢峠の各所で、新撰組や白虎隊ら敗走。鶴ヶ城での籠城戦が始まる。八重、スペンサー銃やゲベール銃を駆使し、応戦する。
9月 城外の一ノ堰(いちのせき)の戦いにて父・山本権八が戦死。会津藩降伏。
明治以降
1871(明治4)年 京都府顧問に就任していた兄・覚馬を頼って、母と姪を伴い京都へ。川崎尚之助との離婚手続きを完了する。
1876(明治9)年 洗礼を受け、新島襄と日本人クリスチャンの結婚式を挙げる(京都初)。
1890(明治23)年 新島襄、八重に「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」と言い残し、永眠。八重、日本赤十字社正社員になり、以降、生涯を賭して奉仕活動に勤しむ。
1894(明治27)年 日清戦争勃発。大本営が広島城(広島市中区)に置かれる。八重はその年の12月より4ヶ月間、大本営併設の陸軍予備病院にて、看護婦40人を率い負傷兵の看護にあたる。
1895(明治28)年 日清戦争の従軍記章を受ける。
1905(明治38)年 日露戦争において、篤志看護婦として従軍(大阪で2ヶ月間)。
1906(明治39)年 勲六等宝冠章を受ける。
1928(昭和3)年 昭和天皇即位の大礼の際に天杯(銀杯)を下賜される。
1932(昭和7)年 6月14日急性胆のう炎のため自宅で永眠。享年87歳。同志社社葬。

第1ハウス  本人の部屋   うお座 火星・天王星
第2ハウス  金銭所有の部屋 おひつじ座 冥王星・木星
第3ハウス  幼年期の部屋  おうし座 
第4ハウス  家族の部屋   ふたご座
第5ハウス  喜びの部屋   かに座 
第6ハウス  健康勤務の部屋 しし座
第7ハウス  契約の部屋   おとめ座
第8ハウス  生と死の部屋  てんびん座 node
第9ハウス  精神の部屋   さそり座 太陽
第10ハウス 社会の部屋   いて座 水星 月
第11ハウス 友人希望の部屋 やぎ座 金星
第12ハウス 障害の部屋   みずがめ座 土星・海王星

とても負けず嫌いで幼いころから元気な八重は、ボールタイプのホロスコープを持ちます。封建的な気風と教育熱心な会津藩に生まれ育ったのもありますが、教えられたことはよく覚えて、生活に生かせる力を持っています。自由奔放ないて座の太陽は、そんなに負けず嫌いではないですが、さそり座のnodeとうお座の火星の協調。
みずがめ座の土星と海王星と緊張関係が、夫である新島襄を呼び捨てし、レディーファーストよろしく、夫よりも先に歩く言動ができたこと、養子や嫁等、外から入った家族には手厳しい。
一つこれ!と決めると、行動も経済も注ぎ込む姿勢は、ここからきているのかなとも思いますが、修得したことを生かし、モノを教えてゆく道を歩む彼女の知性と行動力は、水星・木星・天王星・冥王星かもしれません。

一度目の結婚と会津戦争

八重は2回結婚しています。一度目は幕末1865(慶應元)年。八重が二十歳の頃です。相手は但馬国・出石藩出身の蘭学と化学を専攻する学者肌の武士川崎尚之助(1836年(天保7年)生)でした。
江戸に二度目の遊学をして大木忠益に学ぶ覚馬と知己になった尚之助は、覚馬が会津藩に戻った際に設立した日新館の蘭学教授となり、八重の実家に下宿しながら会津藩の若者たちに蘭学を教え、鉄砲や弾薬の製造も教えていたそうです。

それから四年後の1868年(慶応4年)1月27日。下鳥羽で街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍の間で戊辰戦争の口火である鳥羽伏見の戦いが始まりました。既に大政奉還をしているため、徳川家は将軍ではありません。
朝廷が公家の仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命したことから、同盟を結んでいた薩長土の三藩は錦の御旗を掲げた官軍となり、旧幕府軍は朝廷に対して賊軍の立場になってしまいました。その事態に戸惑う幕軍を、官軍はイギリス製の最新鋭の武器で追い込みます。さらに旧幕府軍の敗走を知った徳川慶喜が、老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬を伴い、幕府軍艦開陽丸で密かに大阪港を脱出し江戸へ向かったことも戦地の士気を下げてしまったのでした。

この戦いで覚馬は薩摩藩に捕らえられ、弟の山本三郎は負傷して江戸で戦死しています。
松平容保は家督を息子に譲り隠居することで、政府軍に恭順の意を示し、奥州北越の藩も「奥羽越列藩同盟」を結成して会津藩の赦免を新政府に求めますが、江戸市街での上野戦争、北陸地方、東北地方での北越戦争へと新政府軍は進軍し続けます。

1868年6月15日(慶応4年)白河への攻撃を開始したことで、ついに会津戦争が始まり、「奥羽越列藩同盟」を結んだ各藩が新政府軍に降参してゆく中、会津藩は戦い続けます。
1868年10月6日 (慶応4年)板垣退助率いる新政府軍は会津領内に侵攻。
鶴ケ岡城を落とすべく砲撃する新政府軍に対して、老人・女性も参戦し、砲弾が飛び交う中、年端のいかない子供も弾薬を運び戦いの手助けをしてゆきます(後に大山元帥に嫁ぎ鹿鳴館の華となる大山捨松も弾薬を運んだ子供の一人でした)。

八重は他の女性たち同様、兵糧の炊き出しを手伝い、小銃の弾丸を作る作業も行い、負傷者の看護なども積極的に行いました。その上で髪を切り、戦死した弟三郎の服を着て、送られてきたスペンサー銃(元込七連発銃 )とゲーベル銃(マスケット銃)を背負い、刀を差し腰には弾丸を巻き付けて新政府軍にゲリラ戦を仕掛けていきます。
砲弾2500発を打たれても落城しなかった鶴ヶ城ですが、1868年11月6日(明治元年)白虎隊の悲劇も含め、多くの死傷者を出して会津藩は降伏します。

八重と尚之助がいつ離婚したのかは定かではないですが、父親であり藩の砲術指南の山本権八もこの戦いで命を落とす中、自身も命がけの戦いをするにあたって、一つの区切りとしてなされたことではないかなと推察されます。おりしも八重のいて座の太陽に進行中の土星が入った時でした。

新時代の働き方に勤しむ炎と、密航インテリジェンスの風の出会いと結婚

1869年(明治4年)八重は母佐久子と姪の峰を伴い、京都で暮らす兄覚馬のもとへ向かいます。戊辰戦争の際、薩摩藩の捕虜になった覚馬ですが、幽閉中に政治、経済、教育等22項目を書き記した建白書を作成。その政治構想に感服した家老の小松帯刀と西郷隆盛は、覚馬の待遇を手厚くします。
体調を壊したことから仙台藩の病院で療養する中、岩倉具視の来訪により身柄の自由が約束された覚馬は1870年(明治3年)年。京都府知事・槇村正直の下で京都府政の仕事に携わり、病院や学校の設立に係る中、八重たちを迎えたのでした。

京都での新生活が始まると、子供のころから縫物や織物を教わり、礼儀作法も身に着けている八重は、女子に裁縫や読み書きなどを教えるための学校。女紅場(にょこうば)の権舎長兼教導試補の仕事に従事してゆきます。そして茶道教授として勤務していた裏千家13代千宗室(円能斎)の母と親しくなり、茶道に親しむようにもなります。

勤め出して数年。仕事も慣れて充実期の頃、八重は兄の友人でありアメリカン・ボードの準宣教師・新島襄と出会います。活発で兄の言うこともあまり聞かず明るくふるまう八重、それを見て笑って済ませる覚馬。その様子を見た襄は、夫に言われるままに付き従うだけの日本人女性とは違う八重の言動に惹かれます。
1843年(天保4年)2月12日上州安中藩江戸屋敷で生まれた新島襄は、みずがめ座の男性です。

第1ハウス  本人の部屋   ふたご座
第2ハウス  金銭所有の部屋 かに座 月
第3ハウス  幼年期の部屋  かに座
第4ハウス  家庭の部屋   しし座
第5ハウス  喜びの部屋   おとめ座
第6ハウス  健康勤務の部屋 さそり座 火星
第7ハウス  契約の部屋   いて座 
第8ハウス  生と死の部屋  やぎ座 金星・node・土星
第9ハウス  精神の部屋   やぎ座 木星・海王星・太陽
第10ハウス 社会の部屋   みずがめ座 水星・天王星
第11ハウス 友人希望の部屋 うお座 冥王星
第12ハウス 障害の部屋   おうし座

元服を迎える頃、友人からもらったアメリカの地図書に感動し、アメリカの制度やキリスト教に関心を持った襄は、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンや坂本龍馬の従兄弟沢辺琢磨などの協力で、なんと1865年(慶応元年)22歳でボストンへと強制密航をしています。
楽天家で学問好きの襄は多くのアメリカ人の協力を得て、語学だけでなく、アマースト大学でウィリアム・スミス・クラークから化学を学び、日本人初の学士の学位を取得し、神学校で宣教師の資格も得ます。完全に異文化なアメリカの暮らしを楽しんで数年後、訪米した岩倉使節団と会い、堪能な語学力と知識を買われて共に帰国します。

そして、京都府知事・槇村正直と顧問を務めていた覚馬と出会ったのでした。この頃キリスト教の影響を受けていた覚馬は、新島襄の学校設立の理念と計画を知り、旧薩摩藩邸の敷地(現在の同志社大の今出川キャンパス)を学校用地として譲渡してゆきますが、キリスト教への認知度や理解が浅い当時の京都です。
僧侶・神官たちの反対が強く、新島の目指すキリスト教主義の学校建設に対して、反対集会を開いたり、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなど圧力をかけていました。
そのさなか襄との婚約に応じた八重は、馴染んだ職場である女紅場を解雇されることになります。
1875年11月29日に同志社英学校が開校し、翌年1876年(明治9年)1月3日。京都で初のキリスト教の挙式が行われました。準宣教師・新島襄との結婚なので、新婦はクリスチャンでなければなりません。
八重は式の前に洗礼を受けクリスチャンとなり、結婚後の生活は日本には全くないクリスチャンホーム式の生活でした。未知の文化生活を宣教師婦人たちに教わりながら、八重はこなしてゆきます。

そして、夫を「ジョー」と呼び、人力車に乗る時も自分から。散歩するときは二人並んで歩く。今ではごく普通な事ですが、当時の日本は女性が夫を呼び捨てになどしませんでしたし、三歩後ろを歩くのが当たり前でした。これは武家の風習で、何かあった際、女性を逃がすための対策でもあり、差別が動機ではないです。
レディーファーストは中世フランスがその起源とされています。女性に前を歩かせることで、曲がり角や部屋の中や外を歩く時に敵の刺客がいた場合、女性を犠牲にすることで男性を守るための手段でした。なのでどちらが女性に優しいかは疑問です。
青年期をアメリカで過ごし、平等な男女の在り方に憧れた襄は、慣れない文化生活を取り入れてゆく八重を大切にし、襄がアメリカの友人へ宛てたの手紙には「彼女の生き方はハンサムなのです。」と書いています。

ホロスコープ的にも新島の月と八重の金星が対。八重の月と新島の金星が合。
八重の月は新島の土星とも合なので、そこは気になりますが、新島の火星と八重の金星はセキスタイルなので惹かれ合うにはばっちりですし、太陽。木星・冥王星などを見ても結婚するだけのものはあります。

しかし、二人を取り巻くほとんどの日本人から見れば、八重の言動は不遜な態度にしか映らず、「毒婦」「鵺のようだ」と言って彼女を非難していました。
八重が英学校の聖書の授業に参加した時、学生達は襄に八重を連れてこないように申し入れたそうです。慣れない異文化生活と因習の狭間で、八重は心理的に戦いつつ、そこにめげることなく、女紅場で作法なども教えていた経験を活かし、宣教師婦人と女子教育の道を広げます。これは彼女の持ち前の明るさと、襄の理解もありますが、エネルギッシュな星周りも彼女を助けていたと思えます。

1876年(明治9年)の9月に同志社分校女紅場(「女学校」と改称)が認可されて、1882年(明治15年)11月、同志社に京都看病婦学校が設立されました。
旅好きな襄は八重を伴い夫婦で旅をしたり、海外へ気軽に出かけたりもしていましたが、心臓病を患い三浦半島で療養生活に入ります。危篤の連絡を受けた八重が駆け付け、昼夜を問わず看病しますが、1890年(明治23年)1月23日看病する八重の腕に抱かれながら、「グッドバイ、また会わん」と言い残し襄は息を引き取ります。

14年間の夫婦生活でしたが、襄にとって八重は最良の伴侶でした。襄の最期を看取った八重は同志社との関わりを保ちつつ、日本赤十字社の正会員となり、社会奉仕に情熱を注ぎはじめます。


日本のナイチンゲールと茶道の道

1892年(明治25年)が暮れる頃、敬愛する兄覚馬もこの世を去り、1894年(明治27年)日清戦争は広島の陸軍予備病院で四ヶ月間篤志看護婦として従軍してゆきます。
怪我人の看護だけでなく、八重は看護婦の地位の向上にも努めました。その功績が認められ、1896年(明治29年)。勲七等宝冠章が授与されています。
1904年(明治37年)の日露戦争では、大阪の予備病院で2ヶ月間篤志看護婦として従軍し、翌年(にはその功績によって勲六等宝冠章が授与されました。

看護活動の傍ら、裏千家13代家元圓能斎に茶道を習う八重は、「茶通箱」(初級)の許状をはじめ、2年後には「真之行台子(しんのぎょうだいす)」(上級)を授かります。
茶道は元々武家男性の嗜みだったので、男性のものという意識がまだまだ根強く残る時代に、八重は女学校の生徒達に茶道を教えてゆきます。
同志社から与えられる生活費は、ほとんど茶道の普及と教育に充てていきました。看護師の道同様に茶道は、八重の女性としての社会活動の一環ともいえますが、反面、襄の実家である新島家。そして自身の家に養子縁組した子供たちとは、気性が合わず疎遠になりました。変化に飛ぶことをいとわない八重のパワーは、一般常識の中に納まり、変化を好まない人とは、どこか歯車が合わなかったのかもしれませんが、米沢藩士・甘糟三郎の娘・初とだけは縁が続いていたそうです。
目標を絞り込んだら、わき目も降らず目的をやり遂げるいて座気質が、社会活動には大いに効果を出したようですが、その分身内縁は薄い環境にありました。

1928年(昭和3年)9月28日。くしくも戊辰戦争から60年を迎えた年に、旧藩主松平容保公の孫勢津子姫と、秩父宮殿下との御成婚の儀が執り行われます。皇室と会津藩の和解も意味するこの婚儀は、朝敵・逆賊の汚名を返上することができた溶解の婚儀でもあったのです。八重だけでなく生き残った会津藩の人たちにとって、とても大きな節目でした。
「いくとせか峰にかかれるむら雲の晴れてうれしき光をぞ見る」
これはご成婚の喜びと逆賊の汚名が晴れた喜びを、八重が謳ったものです。江戸末期から明治大正を駆け抜け、会津戦争から60年を経て、故郷の汚名が晴れたことを知る八重は、どれほど嬉しかったことでしょう。

1932年(昭和7年)6月14日。急性胆嚢炎で永眠します。享年86歳(数えで88歳)。時代を駆け抜けてきた新島八重は、厳しさも背負いつつ、常にどこか自由で自分らしい生き方をした女性だと思います。