昭和世代にとって懐かしいお札の一つが1000円札だと思います。
表を飾るのは皆さんもご存じ伊藤博文。日本初総理大臣&明治時代を代表する人物で、
機転の利く性格で交渉上手とか、激しい気性で負けず嫌いとか、女好きだったとかを含め、知り尽くされた感もありますが、ホロスコープと合わせて人生を見てゆこうと思います。

人生年表(ウィキ・その他資料参照)
1841年10月16日〈天保12年9月2日〉長州藩周防の国、百姓・林十蔵(のちに重蔵)母琴子の長男として生まれる。
1854年(安政元年)父が周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の家に養子となった
ことから、利助も伊藤姓を名乗り、足軽となる。
1857年(安政4年) 16才 来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾へ入塾。
1858年(安政5年) 桂小五郎(木戸孝允)の従者となり、長州藩の江戸屋敷に移り住む。安政の大獄で斬首された師吉田松陰の遺骸を引き取る。
1862年(文久2年) 高杉晋作・久坂玄瑞らと英国公使館焼き討ち決行。
1863年(文久3年)井上馨らとイギリス留学。
1864年(元治元年)帰国後、奇兵隊挙兵に力士隊を率いて参加。
1868年(慶応4年・明治元年) 外国事務御用掛から兵庫県知事就任。
1869年(明治2年) 兵庫論と呼ばれた「国是綱目」を提出、版籍奉還を実現。
1870年(明治3年)工部省新設・初代工部卿就任・銀行設立財務調査のため半年間渡米
1871年(明治4年)廃藩置県。賤民廃止令を出し四民平等を完結させる。岩倉使節団の副使として 岩倉使節団の副使として欧米へ渡る。
1872年(明治5年) 新橋~横浜間に日本初、鉄道を開通させる。
1877年(明治10年)木戸孝允死去。西南戦争で西郷隆盛が敗死。
1878年(明治11年)大久保利通暗殺される。
1882年(明治15年)明治天皇に命じられ 憲法調査のため一団を率いて渡欧。
1885年(明治18年)12月 初代内閣総理大臣就任が決まる。44歳2か月
1888年(明治21年)大日本帝国憲法発布。枢密院議長となる。
1892年(明治25年)第二次伊藤内閣を組閣。52才
1895年(明治28年) 日清講和条約(下関条約)調印
1898年(明治31年)第三次伊藤内閣を組閣。58才
1900年(明治33年)立憲政友会を創立。第四次伊藤内閣を組閣 60才
1905年(明治38年)韓国統監となる。
1909年 69才 ハルビン駅で暗殺される。1841年- 1909年〈明治42年〉10月26日)



●ホロスコープ
1841年10月16日 山口県 12時設定
太陽星座 ♎22°35
月星座  ♏10°53 位置は不明だが月星座は蠍座宮。

第1室 本人の部屋     ♑  ☊
第2室 金銭所有の部屋   ♒  ♆
第3室 幼年期の部屋    ♓  ♅
第4室 家庭の部屋     ♈  ♇ 
第5室 嗜好の部屋     ♉  
第6室 健康勤務の部屋   ♊
第7室 契約の部屋     ♋
第8室 生と死の部屋    ♌ 
第9室 精神の部屋     ♍  ♀ ☀
第10室 社会の部屋     ♎  ☽☿
第11室 友人希望の部屋   ♏ 
第12室 障害溶解の部屋   ♐ ♃♂♄

東半球に星が集まっているのが、一目でわかると思います。
自分の考えや気持ちが行動原理となる傾向が強いボールタイプ。
躍動的な活動宮の風の☀と火の♇。

徳を引き付け浸透させる柔軟宮の土の♀と水の♅。二つのオポジションがクロスしているのも特徴。☀は9室の終わり。♀は8室の終わりにあり、隣接する部屋の影響も強く、活動宮と柔軟宮の柱だけに、思わぬ形で既成概念の壁を越えやすい星回り。

♀は12室♐にある♃♄♂と緊張角度。障害と溶解という見えない部分を司る12室に、火の星座とは相性の良い♂が、個人の年運を見る♃と♄をマグマのように溶かし込む三すくみ。この12室先祖の加護も強く、かなり強くしかも自由奔放な♐。

対する3室の♅もこの三すくみの星々とは緊張角度。
目的がはっきりすればするほど、運気が拡張してゆける下地を持っています。

☀と三すくみはセクスタイル。☿と♀もセクスタイル。
ロマンチストのつもりがなくても、元が天秤座な伊藤博文。自然に女性を口説く傾向在りそうですが、負けず嫌いな♈の♇は、12室の♃♂と調和。
情に流されず主張もはっきりする性質ですが、交渉力もあり人から覚えられやすく、好かれやすい下地になっている気がします。

社会の部屋にある☽と☿は、洞察力とタフネスの蠍座で合。誕生時間が不明ですが、☽蠍座宮は確定。根がバランス感覚の天秤座なので、うまく生かしたのかもしれませんが、本人の部屋にある♒の☊と10室の☽の90度は、庶民的人気を得ると同時に、周囲の影響よって人生が変化しやすい様を秘めています。

☿と♆の緊張角度は知的職業につくものの、不正事件や詐欺にも遭いやすい面あり。個人的な金銭感覚はアバウトな傾向強し。♆は海も意味するので、海外も守備範囲。語学スキルや、海外のものを取り入れてゆくには、有効な組み合わせです。
 
実際伊藤博文の人生を見ていると、本人の努力もさることながら、上の人から何かと目をかけられ、周囲の引き立てや、助け船を出してもらいやすい傾向を垣間見ます。

農民の家に生まれて吉田松陰に出会うまで

伊藤博文の幼名は林利助(後に利輔)。周防の国の農家に生まれますが、困窮から5歳頃家が破産し、一時的に母方の実家に身を寄せます。やがて父に呼び出されて萩に移住しますが、環境的に不安定感のある少年期を過ごします。

萩でも困窮は変わらないままですが、久保五郎左衛門の塾に通い、吉田稔麿(高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一と並ぶ松下村塾四天王の一人)と親交を結びます。高杉晋作とも近所ですが、身分の違いから松下村塾に入るまでは接点がありません。
 父親が足軽・伊藤弥右衛門の家に養子入りしたことから、利助も伊藤性を名乗り、足軽の身分となり若年ながら働きだします。そして15歳、黒船来航に沸く湾岸警備のため相模に派遣されました。

ここで上司として赴任した来原良蔵と出会います。何かと目をかけられた利助は、来原から吉田松陰を紹介され、16歳で松下村塾に入門してゆきます。藩校の明倫館は、士分と認められた者しか入学できませんが、学びたい者の身分を問わない。それが松下村塾のスタイルでした。しかし、誰もが松陰の話を、彼の間近で聞けるわけではありません。

利助の身分は足軽。塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外に立ったまま松陰の講義を聴講していたそうです。(松下村塾の建物自体、そんなに大きくはありませんが、分ける部分は分けていました。この当時はこのようなことが、人に対する差別とは思ってもいなかったのです) 

熱心に学ぶ姿だけでなく、人と人の間に溶け込んで交渉する利助の才を見抜いた松陰は、久坂玄瑞に宛てた書状に「才劣り学幼きも、質直にして華なし、すこぶるこれを愛す」としたためました。そして長州藩の京都派遣に随行する機会を彼に与えます。
松陰の推薦で山縣有朋らと共に京都を見て回った利助は、尊王攘夷の必要性を実感し、帰藩すると来原に従って長崎へと向かいました。

長崎海軍伝習向で、1859年(安政6年)6月まで勉学に勤しんだ利助に、来原は自身の義兄桂小五郎を紹介します。桂の従者に採用された利助は、そのまま長州藩の江戸屋敷に移り住み、盟友となる志道聞多(後の井上馨)との出会いを始め、グンと人脈の広がりも出てきました。そんな充実期と同時に、大きなショックが訪れます。
1859年11月21日(安政6年10月27日。安政の大獄で投獄中だった吉田松陰が、斬首に処せられたのです。本来重罪ではなかったのですが、取り調べ中に松陰自身が、老中暗殺の企てを話したことから、下された処刑でした。

小伝馬町まで師の遺骸を引き取りに行ったのが、利助だったのです。この時、自分がしていた帯を師の遺体に巻いて連れ帰ったと逸話が残っています。
松陰の死後、松下村塾の塾生たちの尊王攘夷運動は激化。利助も高杉晋作・久坂玄瑞と共に、過激なテロ活動を行いますが、その一方で生前の吉田松陰ができなかった渡航に意識が傾き、来原にしたためた手紙には、イギリス留学を志願することを書いています。

長州五傑としてイギリスへ渡った20代、日本と海外との交渉人となる。

利助に様々な人と出会うきっかけを与えた来原良蔵ですが、長州藩公武合体派の重臣長井雅楽時庸の暗殺未遂。そして横浜の外国公使館襲撃も失敗に終わったことから、1861年(文久元年)の夏。江戸の長州藩藩邸で自害してゆきました。
利助が伊藤俊輔と改名したのはこの頃で、尊王攘夷の志士として、品川の御殿山にあった英国公使館焼き討ち参加。(本編はここから明治元年の改名まで伊藤俊輔と表記します)山尾庸三と共に幕臣や学者などのテロを行っています。

世の中も騒然とする中で、長州藩の開明派上層部は、欧米文化を吸収する留学視察を行い、その上で攘夷の実行という基本方針を固めました。

藩主より洋行の内命(幕府には内緒)を受けていたのは、山尾庸三、野村弥吉、志道聞多の3名でした。俊輔が留学していたがっているのを知っていた志道は、彼を誘い、伊藤俊輔は、誘われるまま清国経由でロンドン大学に旅立ちを決意します。
江戸の長州藩邸で兵学教授だった村田蔵六(大村益次郎)に相談し、経費の捻出もできたことから、遠藤庸三と俊輔が加わって5人となったのです。
身分も士分に昇格。親の意向もあって、入江九一の妹すみ(すみ子)と結婚もしましたが、寝巻と『英和対訳袖珍辞書』という辞書をもって、22歳の俊輔は1863年6月27日横浜から、ロンドンに向けて出向しました。
因みに俊輔を誘った志道が井上馨に改名したのは、この留学がきっかけです。時代的には「密航」なので、万が一にでも幕府に発覚した場合、犯禁の罪が養家先に及ぶことを恐れ、志道家を離別して井上馨を名乗ったのでした。

ホロスコープを見ると、N♎☀・にTの♃合。N♃はT♃とセクスタイル。T♀とはトリン。T☿・T♅とは対。プライベートも社会運も上がるし広がるし、N♏の☽☿にTの☽合。
♇もなかなか押してくれていますし、海外に出る、という意味では♆もここは味方の角
度を探せます。すべてが安易ではなく、苦難も付き物ですが、neaterとTransitのハーモニーは、元々持つ星の良さを生かす配置になっています。

横浜を出た後に上海に寄港した一行は、ここで私的留学を世話するジャーディン・マセソン商会上海支店の支店長と面会することになっていました。この当時の上海は、東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していて、日本とはまるで違う近代都市構造、港に泊まる数多くの外国軍艦や他の蒸気船、そのすべてに5人は驚きます。

そして支店長と面会した際、「何のために洋行するのか?」と質問をされ、「ネビゲーション」と返した者がいたために、支店長は「ナビゲーション=航海術」と理解したのでした。
正しくは「海軍を研究する」が目的なので、「ネィビー」だったのです。

井上と伊藤は525トンのペガサス号。他の3名は5、915トンのティークリッパー ホワイトアッダー号に乗船して、ロンドンに向かいましたが、“航海術を学ぶ” 旅程と理解されていたため、5人とも水夫と同格の扱いと、有色人種に対する軽視。過酷な労働に従事する船旅となりました。天候不順も重なり、相当な苦役だったことが記録されています。
ロンドンに着くと、5人はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)法文学部へ聴講生の資格で入学。このUCLのキャンパスには、長州ファイブ(Choshu Five)の顕彰碑があります。「地元にもイギリスと同じ顕彰碑を」と、西日本国際交流推進協会が運動を起こして山口市に顕彰碑が建立されたのが、なんと2003年。

結構近代なのに驚きましたが、碑文には、野村弥吉(後の井上勝)は鉄道の・遠藤庸三は造幣の・井上馨は外交の・山尾庸三は工学の・伊藤博文は内閣の、それぞれ「父」とされています。
英語を学ぶ他、博物館・美術館に通い文化や歴史を学び、海軍施設や工場なども見学して見聞を広める5人ですが、海外と日本との圧倒的な国力の差を目の当たりにし、完全に開国論に転じてゆくのでした。

充実の留学中の1864年4月(元治元年3月)。馬関沖を通過する外国船に向けて長州藩が無通告で砲撃を加えた事に対し、米英仏蘭の4国は連合艦隊を組織して長州藩攻撃を行うニュースを聞いた俊輔と井上は、共に急ぎ帰国を決意。
止める三人を残して長州藩へ戻りました。因みにこの頃、♎に♄が入っています。

英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見しますが、時すでに遅く、4国連合艦隊の砲撃による下関戦争(馬関戦争)が勃発。長州の砲台は徹底的に破壊されてしまいます。伊藤は戦後、高杉晋作の通訳として、和平交渉にあたりました。
馬関戦争と禁門の変で大損害を被った長州藩内部は、幕府への恭順を掲げる俗論派の意見が強くなり、攘夷派の正義派(革新派)との間で政争が激化。そのさなか、過激な俗論派に襲撃を受けた井上は、重傷を負ってしまいます。

俊輔も狙われましたが、この当時は下関芸者のお梅の世話になっていました。既に親の決めた妻がいて既婚者になっていますが、あまり実家に帰らず、お梅の元に通いこみ、彼女が身ごもったことから、すみとは離縁をして、お梅を妻として向かい入れるということが起きています。明治天皇もあきれるほど、女性問題が絶えない伊藤でしたが、夫婦として連れ添ったのは後妻の梅子でした。

第一次長州征伐が起きたことで、幕府に恭順の姿勢を見せる長州藩俗論派ですが、高杉晋作の奇兵隊が正義派に加わることで形勢逆転。正義派が藩政を掌握してゆきます。
この時高杉の元に力士隊を率いて真っ先に駆けつけたのは、外ならぬ伊藤俊輔でした。
後に伊藤は「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、あの時、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と語っていますが、同じ天秤座の高杉晋作に対して、他の人とは違う親近感を持っていたのかもしれません。

正義派が藩の実権を握った後、桂小五郎の要請で戊辰戦争の間は、薩摩藩や外国商人との武器購入等の交渉事が、主な仕事となります。結核を患った高杉が他界し、大政奉還後の1868年(慶応4年・明治元年)2月。
それまで裏方だった俊輔の風向きが変わり出します。

神戸港開催の時、フランス人水兵らと備前藩(現・岡山県)の間で争いか起こりました。隊列を二人の水夫が横切ったことがきっかけで、双方街中で銃撃戦に発展。フランス人水兵は負傷し、神戸の中心部を外国軍が占拠するまでに至ったのです。
この時神戸に赴いていた俊輔は解決のため奔走しますが、明治新政府はいきなり国際問題に直面し、交渉は決裂しました。交渉の際、激怒するイギリス公使・パークスから、各国の代表は新政府からの挨拶を受けていない。

そう指摘を受けた俊輔は、直ちに大阪にいた外国人事務総督東久世通禧(ひがしくぜみちとも)らに掛け合い、神戸にいた諸外国公使に「新政府樹立」を宣言しました。
交渉は決裂したものの、これによって明治新政府は、国際社会に日本を独立国として認めさせることができ、俊輔は外国事務御用掛に抜擢されます。
この時N☊♆にT♂と☀。☿が合。N♃にT☽が対。その他の座相を見ても、交渉は満点でないものの、出世のきっかけとなったようで、伊藤博文と名を変え、26歳で初の兵庫県知事に就任してゆきます。

新政府樹立宣言から三傑が鬼籍に入るまで

1869年県知事として『国是綱目』=「兵庫論」を捧呈。木戸孝允の後ろ盾があったのも確かですが、大阪に造幣寮(造幣局)を稼働させ、初代工部卿、宮内卿といった明治政府の要職を歴任し、版籍奉還、廃藩置県等、改革に力量を発揮しました。
財政や貨幣制度の調査のため渡米。勢いがある分、人との対立も起きやすく、大蔵省の権限をめぐって大久保利通とぶつかり、岩倉具視には版籍奉還で不興を買いますが、岩倉使節団の副使として同行することで、裏表のない伊藤の性格を知った二人とは、親密になっています。

ドイツでは皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相ビスマルクとも会見し、強い影響を受けたようです。帰国後は、征韓論をめぐって西郷達留守番組と使節団組と意見が割れ、明治6年の変が起きますが、伊藤博文は郵便、造幣、日本銀行の設立。大隈重信と共に鉄道等、インフラ整備や改革を、猛烈な勢いで進めてきました。
井上馨と共に木戸と大久保の間を取り持ち、政府から離れた板垣退助とのパイプも取りつけ、明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋することで、立憲政府の樹立という目標もはっきりしてきます。

自由民権運動も高まる1877年(明治10年)。ずっと後ろ盾であった木戸が死去し、その後に西南戦争が勃発。西郷隆盛が敗死してゆきます。
そして翌年の1878年(明治11年)大久保利通が紀尾井町坂で暗殺されました。
申し合わせたように維新の三傑が逝き、明治時代の色が変わってゆく中で、伊藤博文は内務卿を継承。明治政府指導者の1人として、前面に出てゆく事になります。

決め手は語学力&交渉力!

草創期には協力し合った伊藤博文と大隈重信ですが、立憲体制の在り方を巡って意見が異なっていきます。性急に事を押し進める大隈に対して、伊藤は政治工作を行った結、果大隈は明治政府から去っていきました(明治14年の変)
1889年(明治15年)。明治天皇から憲法調査に向けての渡欧を命じられた伊藤は、岩倉具定に西園寺公望をはじめ、後に外交官や県知事になる者たち約10名ほどを伴い、欧州へと旅立ちます。

ベルリン大学ではプロイセン憲法の逐条的講義を受け、ウィーン大学では国家学教授・憲法学者のローレンツ・フォン・シュタインに師事。これが大日本帝国憲法の起草・制定に対して、中心的役割を果たすことにつながっていきます。
そして1885年(明治18年)の前半は、甲申政変の事後処理のため、清に派遣されることもありましたが、12月に宮中で初代内閣総理大臣を決める会議が行われました。
候補者は二人。政府のトップに立っている太政大臣の三条実美。
大久保の死後、内閣制度を作り上げた伊藤博文。

三条実美は藤原北家閑院流の高貴な身分の上で、既に太政大臣。
伊藤も伯爵という爵位は持っていましたが、武士になったのも維新の直前で、元は低い身分の出身です。当時の常識で観るなら、三条氏がふさわしいと判断されていたのですが、
「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」
静まりかえった会議の場で、井上馨が言った言葉がきっかけになり、「それ、伊藤君しかいないじゃないか」と山形有朋が援護射撃。
実績がモノを言っているので、三条を押していた華族側も、そこに異論を唱えることができず、日本初内閣総理大臣は伊藤博文に決まっていきました。

単に英語がわかる。読めるだけでなく、外国人相手に交渉をしてきた実績がモノを言い、ここ一番という時に押し出してくれる友や、評価してくれる存在を味方につけられる運勢も働いたと思いますが、かくして伊藤博文は、44歳2か月で日本初の総理大臣となったのでした。
大日本帝国憲法下では唯一の第4次内閣。(通算2720日)総理大臣を務めますが、スタート時は近衛文麿の45歳と、現行憲法下では安倍晋三の52歳よりも若かったのです。
そして内閣総理大臣で第4次内閣を組閣したのは、第二次世界大戦以後の吉田茂と安倍晋三の2名のみです。

ざっくりとですが、歴任スタート時の大まかな星を併記しました。

第一次伊藤内閣 第1代総理大臣
1885年(明治18年)12月22日 - 1888年(明治21年)4月30日 861日
大日本帝国憲法の発布は、1889年(明治22年)2月11日第2代総理黒田清隆の内閣ですが、準備は伊藤内閣の時に行っています。
1885年12月22日。この日☀は♑入り。☿が♐。伊藤の12ハウスにある♃♂♄の三すくみを刺激するだけでなく、T☽と♄が♋にあり、Nの♃♂♄を刺激。
♍を進むT♂と☊が、N♀と♅の柱に勝負強さをもたらし、合にはなっていませんが、彼の☀がある♎に♃があるので、何事も広がりを見せてゆきます。

第二次伊藤内閣 第5代総理大臣
1892年(明治25年)8月8日 - 1896年(明治29年)8月31日 1485日
予算と不平等条約改正を論題となった。
日清戦争1894年(明治27年)7月25日~1895年(明治28年)4月17日。
李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約に調印。
下関条約に遼東半島の割譲などを明記したことから、ドイツ・フランス・ロシアの三国干渉が起き、第2次伊藤内閣は遼東半島の放棄を決めて解散してゆきます。
日清戦争勃発の時、伊藤の12室♐N♃♂♄の三すくみを、6室♊の♃・♆・♇が対。
N☀にはT♄が。N♇には♂が業合。好戦的な組み合わせになる。彼は軍人ではないので、直接戦績には影響はないのかもしれませんが、国のトップである為、国運は背負っていますから、勝ち戦の筋は必要。N☽と☿のある♏には、この頃♅が入っていました。
因みに明治天皇の☀は♏です。

第三次伊藤内閣 第7代総理大臣 170日
1898年(明治31年)1月12日 - 1898年6月30日
日清戦争後に弱体化した清の分割を外国勢力が目論んでいる情勢下で、同盟国もない日本が生き延びるため局外中立を取る外交方針を掲げる。明治天皇と山縣ら元老らの賛同を得た外交政策だったが、国内は地租増徴問題がメイン。
T♃が♎入りN♇と対。の年。N☀にT☀が緊張角度。12室♐にT♄と♅。T♄はN♃と合。
N♃はT♇とも対で、かなり重い星回り。

第4次伊藤内閣 第10代総理大臣 204日
1900年(明治33年)10月19日 - 1901年5月10日
伊藤系官僚と旧憲政党によって結成された立憲政友会を与党とする政党内閣。
足尾鉱毒事件発生(1885)
N☀♇の柱にT☀。♏のN☽☿をT☿が刺激。♐には♃と♅が入室していることで、N♃♂♄の三すくみが刺激されてゆくのと、対岸の♊♇とも引き合うので、知力戦略な交渉や対話が活発化。第4次内閣が、政党内閣といわれるのが伺われる気がします。

総理の椅子を離れて暗殺される瞬間まで現役だった

総理の椅子から離れても、伊藤は悠々自責の引退ではせず、活発に政治家として活動しました。第2次伊藤内閣で揉めた三国干渉の経験から、ロシアとの軋轢を危惧し、陸奥宗光・井上馨とともに日露協商論・満韓交換論を唱え、対露宥和政策を押してゆきます。  
しかし、日露戦争時が始まると、桂内閣を支えて金子堅太郎をアメリカに派遣して、大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋。これが1905年のポーツマス条約に結びついてゆきます。

かろうじて日露戦争に日本は勝ちました。そのため当時の日本国民は、負けたロシアはそれ相応の賠償金を日本に支払うべき。日本政府はロシアから存分に賠償を取るべきであると思い、それを強く願っていました。
しかし、一度講和を結んで賠償を済ませば、そこで過去の話はなかったことにできるので、ロシアは再度南下政策を取ることが容易になります。激戦で深手を負った日本には、短期間で次の戦をする余裕はありません。しかし大国ロシアは二戦、三戦の機会をうかがってくるでしょう。

両国間で戦争が起きる事を避けるために、政府は賠償金を求めない方向で国の方針をまとめますが、勝ち戦なのに賠償を取らない日ロ講和条約の内容を聞けば、国民側の不満は爆発し、社会不安が起きる事は容易に予想できました。そこで首相の桂太郎は、日本の全権代表を現職の外相小村寿太郎ではなく、伊藤博文に打診したのです。
伊藤もこれを了承しますが、講和によって生じる国民の不平不満や恨みを、伊藤が一手に引き受けるのは、あまりにも馬鹿げていると側近たちが猛反発。伊藤は大使を辞任しますが、全権代表の任に就く外相小村寿太郎を励まし、講和後の日本とロシアとの間で、戦後処理に奔走したのでした。

日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日。ポーツマス条約に基づいて大日本帝国は、大韓帝国の間で協約を結びます。それが第二次日韓協約であり、大韓帝国は大日本帝国の保護国となったことから、韓国統監府が設置されました。
その初代統監に伊藤博文は就任してゆきます。大陸への膨張を企図している山縣有朋や桂太郎・寺内正毅といった陸軍軍閥派は、韓国の直轄を急こうとしますが、国際協調派だった伊藤は、実質的な統治で充分であると考え、当初は併合反対の立場でした。

それを裏付けるものとして、韓国統監府に着任した当時の伊藤が書いた1905年(明治38年)11月の日付のメモ
>「韓国の富強の実を認むるに至る迄」<という記述が発見されています。
この文言は「第二次日韓協約」に盛り込まれ、調印されていますが、伊藤の書いたこのメモによって、伊藤博文は日韓併合には否定的だったとする見方が出てきています。

当時の大韓帝国は貴族が百姓などから、財産や生産物を奪い取っていた面もあり、国内のあらゆる面が整備されていませんでした。
そこで伊藤は日本政府から無利子・無期限の資金を引き出し、道路の整備や鉄道の敷設、病院建設などの公共事業を積極的に行いました。ライフラインの整備に資金を充てるだけでなく、識字率を上げるために、「普通学校令」を公布。

明治初頭の頃から教育に力を入れてきた伊藤は、日本語だけを強要することなく、ハングル語の定着も含めて、大韓帝国の教育の普及に力を入れ、100校以上の学校を建設しました。国力をつけさせる土壌を作り上げると、1909年6月に韓国統監を辞任。この辺りの内容は、伊藤のことを調べれば出てきます。

そして同じ年の10月26日。
この先の満州・朝鮮問題について話し合うため、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)を、非公式に訪ねた伊藤博文は、ハルビン駅に着くと、大韓帝国の民族運動家の青年安重根によって射殺されました。
犯人の所持していたブローニングと銃弾が違う、カービン銃の銃弾という説や、暗殺時に伊藤が着用していたコートに残る弾痕から、発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説など、犯人については他にも異説があったりしますが、当時穏健派の政治家だった伊藤が暗殺された事は変わりません。

暗殺の一方を受けた金子堅太郎は、急いで大磯の別荘に住む梅子夫人の元に向かい、見舞いの言葉を述べました。夫人は取り乱すことなく、
>「伊藤は予てから自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれ」<
生前の伊藤が言ったことを、金子に返したそうです。

一回の農夫の息子として生まれた伊藤博文ですが、少年期は上司の来原良蔵から吉田松陰との縁、桂小五郎との縁をもらい、熱心に学ぶことで留学のチャンスを得ていきます。
そして青年期になると、身に着けた学問。英語や外国人との接し方を武器にして、自らの仕事のステイタスを上げていきました。
明治天皇とも意見が割れた時期もあり、関係は常に良好とはいえませんが、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいな者を好む明治天皇からみると、伊藤はこれに当てはまる人だったのです。女好きな面や実生活は質素で無頓着。気性の激しい部分もひっくるめて、明治天皇は伊藤を信頼していました。

人に見出される運勢を持っていたのも確かですが、自分という器を育てた本人の魅力もあったのでしょう。巡るべくして巡る星を、自分が持っている運勢のベースと合わせて生かし、人生を育てていった人として、伊藤博文は学ぶべき点がたくさんあると思います。