岡本かの子ホロスコープ

1889年(明治22年)3月1日東京都港区青山生まれ 出生時間不明のため正午設定

☀星座 ♓ 10°45
☽星座 ♓ 0°44 (☽のふり幅 00:00♒23°51~23:59♓7°34)

第1室本人の部屋 ♓ ☀・☽
第2室金銭所有の部屋 ♈ ♂・♀
第3室幼年期の部屋 ♉ ♆
第4室家庭の部屋 ♊ ♇
第5室嗜好の部屋 ♋ ☊
第6室健康勤務の部屋 ♌ ♄R
第7室契約の部屋 ♍
第8室授受の部屋 ♎ ♅R
第9室精神の部屋 ♏
第10室社会の部屋  ♐
第11室友人希望の部屋 ♑  ♃
第12室障害溶解の部屋 ♒  ☿

出生時間不明のため、正午でホロスコープを作成。12室~6室に連続して惑星が入室している北半球のロコディーブタイプとみていいでしょう。より社会的、公的であるよりも、自分のやりたいことや気持ちを優先する傾向は強く、素直であればあるほどハプニングや人との摩擦も起こりやすい事もあり。それをポジティブに乗り越える力も内在。
☽はお昼で♓0度44分。これはなかなかお目にかかれない度数です。
深夜から昼前までの生まれならば☽は♒。第2室金銭所有の部屋♈の♀とも終日程よいアスペクトを取っているのと、12室の☿とも絡みがよさそう。かの子の性格・好み・ファッション等から考えると、♒はありかなとは思います。どちらにしても♓の新月直前生まれの人。
♈には守護星の♂も入室していることから、自らの意思で動いて欲しいものを取りに行く強さ、獲得意欲に火を灯していますが、得たもので「満足する」ということには鈍感になりがちな部分が潜むのが厄介。第3室の幼年期の部屋は、育つ環境や基礎学習の部屋でもありますが、♉の終わりの♆。第4室家族の部屋である♊の♇は合。
経済的には恵まれた環境に生まれますが、腺病質を患うことから養母の元に預けられたことや、虚弱なため外で遊べないかの子は、養母から文学の楽しさを教えてもらいますが、
拘りと美の追求な♉♆と、巧みな変化を得意とする♊の♇は、彼女の幼年期を物語っています。短歌や小説を生み出してゆくかの子ですが、作品も容姿も絶賛されてもされなくても常に堂々。我が道を行く姿に、惚れこむ人がいるのでしょう。第5室嗜好の部屋にある♋☊は万人受けねらいではなく、コアなファンが着く傾向をしめしているのかもしれません。
第6室健康勤務の部屋は、♌。逆行中の♄で第12室障害溶解の部屋の☿とオポジション。自分の気持ちには素直だけど、人に対してはどこか頑固。世間でいう器用さとか、気遣いができるということには警告が着きます。移動運でもあるので、引っ越ししやすいのもありますが、気持ちの移り変わりが早い人、恋人やパートナーがわりとすぐできる人も含むかもと考えました。
岡本かの子の作品の多くは、遺作として死後発表されたものが多いのですが、南半球には第8室授受の部屋♎の♅Rと、第11室友人希望の部屋♑♃。そして第12室の☿と続きます。北半球に比べると星の数は少ないですが、より社会的影響力のある人と繋がることで成功していける運を紡いだのは、♑の♃。
第8室は♎の♅Rは第2室の♈の♀とオポジション。芸術家らしいとも言えますが、生涯の経済模様と夫婦の在り方は波瀾と鮮烈かつ揺らぎが生じたようにも思えます。元々この部屋は、配偶者とその家族との関係、性を含む夫婦関係といったかなりセンシティブな部分と、社会から受けられる財力と還元力を観ます。

岡本かの子略年表。(ネット資料閲覧)

1889年(明治22年)3月1日 豪商大和屋大貫家の別邸(東京府東京市赤坂区青山南)にて長女として誕生。旧姓大貫カノ。2歳上の兄がいる。
1894年(明治27年)腺病質のため本宅(神奈川県の高津村)で養育母に育てられる。          養育母から源氏物語等の手ほどきを受ける。
1896年(明治29年)高津尋常小学校に入学。短歌を詠む。
1901年(明治34年)松林柏塾女子部で漢文を習う。
1902年(明治35年)跡見女学校に入学のため、東京へ戻る。「新声」「新潮」の短歌欄に投稿。         「小学世界」懸賞文で一等賞入選。
1906年(明治39年)兄雪之助を介して7月与謝野夫妻をたずねる。「新詩社」に参加。
1907年(明治40年)跡見女学校を卒業。大貫可能子の名で「明星」に短歌を発表。
この頃から兄は大貫晶川という名前で文学活動を開始。友人の谷崎潤一郎らが大貫家に出入りしていた。
1909年(明治42年)「新詩社」同人として「スバル」に短歌を発表。美術学生の岡本一平と知り合う。
1910年(明治43年)8月30日洋画家和田英作が媒酌となり、岡本一平と結婚。
1911年(明治44年)長男太郎(岡本太郎)が誕生。赤坂区青山にあるアトリエ付き二階屋に転居。
1912年(明治45年・大正元年)8月1日一平が朝日新聞社に挿絵担当として入社。11月2日雪之助急逝。12月詩集「かろきねたみ」を刊行。文通をしていた堀切茂雄と恋仲になる。
1913年(大正2年)母愛子死去。長女豊子誕生するが夭折。 
1914年(大正3年)一平公認の下、堀切と同棲を始める(正確な時期は不明確)。
1915年(大正4年)次男が生まれるがすぐに死去。堀切が結核を患い、同棲が続けられなくなる。
1916年(大正5年)郷里で養生をしていた堀切が死去。尾上柴舟の門下となる。
1921年(大正10年)夫一平と共に「嘆異抄」に傾倒、新井石禅らの教えを受ける。仏教に関するエッセイを執筆。
1923年(大正12年)8月銀座で夫と共に川端康成と会食。以降、川端との交流が始まる。
1929年(昭和4年)「わが最終歌集」を刊行。12月家族で欧州外遊。息子の太郎は絵の勉強のためパリに留まる。
1932年(昭和7年)米国経由で帰国。小説に取り組むが、世間は仏教を語る事を求めた。ラジオ出演。講演、執筆の依頼が増える。
1934年(昭和9年)全国各地で講演を重ねる。仏教に関する書籍も刊行。
1936年(昭和11年)6月芥川龍之介をモデルにした小説「鶴は病みき」を「文学界」に発表(川端康成の紹介)
1937年(昭和12年)「母子叙情」を「文学界」に発表。
1938年(昭和13年)「老妓抄」を「中央公論社」から発表。同年脳溢血で倒れる。
1939年(昭和14年)2月17日容体が急変。2月18日東京帝国大学付属病院小石川分院で死去。享年49歳。

岡本かの子惑星history ☽年齢域0~7歳1889~1896年(明治22~明治29年)

東京青山に別邸を構えるは、江戸時代の頃から政府御用達の豪商大和屋。店を営んできた大貫家は、代々神奈川県橘樹郡高津村二子の大地主でした。
1889年(明治22年)大日本国憲法が発布された翌月の3月1日。青山の別宅で岡本かの子は誕生しました。父の名は寅吉。母は愛子。二つ上の兄は雪之助(1887年2月23日生まれ)。本名大貫かの子。岡本かの子は、結婚後のペンネームです。
日清戦争に沸く1894年(明治27年)頃、腺病質を発症したかの子は、両親と暮らす青山の別邸から、高津村の本宅に預けられました。両親に代わり、かの子の世話をしたのは、元薩摩藩祐筆の娘という未亡人。身の回りの世話だけでなく、虚弱で外遊びがままならないかの子に、教養のある養母は楽しさを教えようと、「源氏物語」「古今和歌集」等の手ほどきをしました。

☿年齢域7~15歳1896~1904年(明治29~明治37年)

高津尋常小学校に入学したかの子は、短歌を詠むようになります。やがて高津村の円福寺で行われていた松柏塾という私塾で漢文を習いました。
1902年(明治35年)日露戦争に向かう緊迫感もありましたが、富国強兵の波に乗った日本は、経済が活発化する時期を迎え、海外から影響を受けた文化活動や大衆娯楽も花盛りとなります。
身体が弱かったのもあるけれど、本を読んで想像や空想の世界に浸る楽しみに沼ったかの子は「女子文庫」「読売新聞文芸欄」に作品を投稿。一等賞となりました。尋常第二高津小学校を卒業すると、小石川の跡見女学校に進学するため東京に戻ったのです。

♀年齢域15~24歳1904~1913年(明治37~大正2年)

美しい世界、キラキラが大好きなかの子。女学生時代を迎えると大貫野薔薇のペンネームで和歌などを発表。意欲的な創作活動を行いました。モダンガールのはしりともいえる独特のメイクやファッションも開花させます。
かの子のN♀は♈。N☀星座は秘たるの大好き♓。絶賛♀年齢域出だしは絶好調とばかりに、感受性伸び盛り。「私が楽しい」「美しいの大好き」と、自分の世界にはまり込んで楽しむのも、なんら不思議はありません。が、女学生時代の学友たちが、かの子に付けたあだ名は「蛙(かわず)」。素直ではありますが、いつでもどこでも遠慮なく自分を出す半面、苦手なことは一切やらないかの子に、反発を感じる人もいたのでしょう。
2歳年上の兄雪之助は帝大に合格し、大貫晶川のペンネームで文学活動を開始。詩や短歌を愛する雪之助は、東大の文学雑誌「新思潮」第2次の発行に携わります。兄の友として、谷崎潤一郎等文豪が大貫家にやって来るようになり、かの子は華のある谷崎を敬愛しました。しかし谷崎は彼女の服装、化粧、そして作品にも終生塩対応だったのです。
この人は私を嫌っているかも…と、空気を察知してしまう性格なら、気にしてしまうところですが、気持ちいっぱい夢いっぱい♓☀な(☽は♒か微妙ですが)かの子。周囲の空気など意識にも入らず和歌や短歌で「私の美」を追求し、マイワールドを生み出します。

1906年(明治39年)兄妹で与謝野夫妻の元を訪ね、「新詩社」に参加。浪漫主義に染まったかの子は、大貫可能子の名義で「明星」に短歌を掲載しました。
1907年(明治40年)跡見女学校を卒業後は、さらに執筆に熱が入り、「明星」や「スバル」といった雑誌に作品を投稿してゆきます。

思い人から振り返ってもらえないのに、別の異性が告ってくる。ありがちな恋愛のパターンのように、かの子に惚れこんだ男が現れました。東京美術学校西洋画撰科の学生だった岡本一平。後に日本漫画界の基となる功績を遺す人で、兄の友人を介しての出会いはかの子19歳の時でした。

岡本一平ホロスコープ

1886年6月11日北海道函館生まれ

☀♊20°40
☽♎13°28(終日♎)

第1室本人の部屋 ♊ ☀・☿・♇
第2室金銭所有の部屋 ♋ ♄
第3室幼年期の部屋 ♌
第4室家庭の部屋 ♍ ☊・♂・♃
第5室嗜好の部屋 ♎ ♅・☽
第6室健康勤務の部屋 ♏
第7室契約の部屋 ♐
第8室授受の部屋 ♑
第9室精神の部屋 ♒
第10室社会の部屋 ♓
第11室友人希望の部屋 ♈
第12室障害溶解の部屋 ♉ ♀・♆

♊☀と♎☽を持つ風属性な一平。しかも☿も☀と一緒。頭の回転が速く器用でスタイリッシュなイケメン美大生でした。マルチタレント性を持ち、人に好かれるタイプでもある彼は、第5室嗜好の部屋♎♅と☽は、人を喜ばせることで自身も幸せになる事を求める傾向を物語り、芸術家として読める部分ですね。
当時の一平は労せずモテてるのが日常。好かれようと寄ってくる女にげんなりしていたのです。そこにまったく取り繕うことなく、素のままの感情を自分にぶつけてくるかの子の言動がとても新鮮に写ったのでしょう。一目惚れして交際を申し込んだのでした。

二人の年齢差は三つ。時代の星♅・♆・♇は入室星座変わらず。☀星座はどちらもここ一番で緩くなる柔軟宮。かの子の♒☿はと一平の♊☿は風同士。さらに一平は☿と☀とコンジャンクション。相性は良いものの、風向き次第で距離感は独特になりそうです。
彼女に一目見惚れしたのを占星術で観るなら、一平の♎☽とかの子の♅R。対極♈の♂は風と火のオポジション。かの子の♓☀と一平の♍☊・♂も水と土のオポジション。ここは外せないですね。☀と♄のトリンは結婚。♇のコンジャンクションは、もしかしたらですが、先祖同士の因縁があることを示しているのかもしれません。
きれい大好きな面食いかの子。交際を申し込まれてその気になりますが、話はなかなか進展しませんでした。家の格差から交際がすんなり話が進まない説。かの子が「普通のお嬢様」ではないことから、諦めている彼女の両親が結婚に気乗りしなかった説。どちらもあえます。
岡本の実家は津藩に仕えていた儒学者の家系で、彼の父は町の書道家でした。東京の京橋に住み、長男を美大に入れる経済力はありましたが、かの子の家よりは庶民的でした。
煮え切らないまま時間が過ぎる中、意を決した一平は、かの子の両親に「かの子さんをしあわせにします」と血判状を提示したのです。

一平が美大を卒業し、帝国劇場の舞台芸術の仕事に就いたことを機に、1910年(明治43年)8月30日。洋画家和田英作が媒酌となり、かの子は21歳で一平24歳で結婚。彼が長男ということもあり、京橋にある岡本家に入りました。(岡本かの子は婚姻後に付けたペンネームです)恋愛結婚は、♀年齢域を飾る華やかな出来事ですが、実にかの子の苦悩の人生は、ここから始まるのです。

電気やガスが使えるとはいえ、まだまだ木炭や薪で風呂を沸かって煮炊きする家が多い時代。嫁として求められることも今よりはるかにあったのです。良家のお嬢さんは嫁ぎ先で恥をかかぬように花嫁修業をしますが、苦手とか未熟ではなく、かの子は和洋裁も料理も何もかも壊滅的にできない人でした。実家ではすべて女中さん任せで何もせず、衣装道楽で執筆活動で過ごせたのかもしれませんが、風呂の沸かし方もわからないかの子と、嫁ぎ先の岡本家の間は当然ギクシャク。夫となった一平は夏目漱石にマンガの腕を買われて、舞台美術に携わりつつ、挿絵などを描いていました。彼もまた家庭を振り返ることはなく、好きな仕事を追いかけたのです。
翌1911年(明治44年)2月26日長男太郎(後の岡本太郎)を出産しますが、良き妻、良き母になる感覚がないかの子。赤坂区青山にあるアトリエ付き二階屋に転居したのでした。これでうるさいことをいう人はいなくなりますが、家事も育児もできないかの子、家の中はひっちゃかめっちゃか。寝ている赤ん坊の太郎を、なんども踏みそうになったそうです。なおこの年、大貫家は破産します。

1912年(明治45・大正元年)は、明治天皇崩御。大正天皇の即位で元号が変わる歴史的年ですが、かの子にとっても大きな出来事が起きました。
夏目の縁で一平は朝日新聞社に務めたのが8月。漫画に解説文を加える「漫画漫文」という企画が読者に大受けして羽振りが良くなった一平は、夜な夜な遊び歩き、家に帰ってくる頻度が下がったのでした。(岡本一平によって新聞に四コマ漫画が定着する)
家事も育児もできないまま好きなこと最優先のかの子。
好きなことをやり続けたい一平。
夫婦揃って個性が強い芸術家同士。折り合いをつける事を知らない二人は、衝突もまた激しく、面倒くさくなった一平は、吉原に入り浸ってしまいました。
生活費を渡さないまま夫が放蕩によって、光熱費が未納となり家の電気ガスが止められます。実家は破産をしているので頼れません。米も底をつく極貧生活に陥るかの子。この頃、平塚らいてうの誘いが救いになっていたのかもしれません。
晩秋を迎える頃、さらに悲しむ事態が起きました。兄雪之助が急逝したのです。失意のどん底に陥ったかの子は、一平の勧めもあって「青鞜社」から、「かろきねたみ」を12月に刊行。思うまま創作活動ができないなんとももどかしい思いをつづった詩集です。これがきっかけで、彼女の短歌に惹かれた堀切茂雄という早稲田大学の学生が、青山の家を訪れてきました。

☀年齢域24~35歳1913~1922年(大正2年~大正12年)

1913年(大正2年)護憲運動に大正デモクラシーという非常にエネルギッシュな変革期に、かの子の☀年齢域が重なります。☽・☿・♀年齢域までの間は、未熟が許された成長過程。愛され守られて生きてくることができました。☀年齢域は、☽・☿・♀年齢域を養分に、自分で自分を切り開く能動の時間。平たく言えば大人として生きる時間とも言えます。現実と向き合う中で、無力感や限界はもちろん、うまくいかないジレンマ等感じやすくなる半面、人としての幅ができてくる魅力的な時期。かの子の☀年齢域は、兄の後を追うように母の愛子が鬼籍に入り、8月には長女の豊子を出産という人生イベントから始まります。ところが、豊子は半年ほどで夭折。さらに自分を慕っているはずの堀切と別の女性(妹のキン説あり)と恋愛関係発覚。生活へのストレス、産後鬱(今でいえば)に不幸が続き、かの子は神経衰弱に陥り精神病院に入院することになりました。
「君が治ったら自分は、君を世界一幸せな女にする。そのためにはどんな犠牲も払う」と入院中のかの子に、一平は誓いを立てます。
これは彼女との結婚への後悔ではなく、大貫家に血判状を持ち込んでまでかの子と結婚したのは自分なのに、彼女を数年でボロボロにしてしまったことへの後悔からくる発言でした。誓いを受けたかの子は、なんと愛人もひとつ屋根の下に暮らす生活を一平に認めさせてメキメキ回復。こうして夫と愛人と共に暮らすという、普通では考えられないライフスタイルができたのです。
退院後は次男を出産しますが、この子もすぐに亡くなりました。同棲していた堀切も、結核を患ってしまったことで郷里へ戻ります。
翌1916年(大正5年)堀切の訃報が届き、再び入退院を繰り返したかの子。それでも作品を生み出すため、短歌結社尾上柴舟の門下となります。「水甕」(みずがめ)に作品を発表する傍ら、一平と共に心の救いを求めてプロテスタントの植村正久を訪ねました。

一方で小学校に通う年を迎えた息子の太郎。常識外の両親の元にいることを心配した祖父は、彼を引き取りました。ところがまだ親が恋しい年ごろだし、母と息子の間には他者にわからない心地よさもあったのでしょう。実際、岡本太郎氏はかの子の死後、数か月は悲しみで何もできなかったと談話を残しています。
本人が親元に帰る事を望んだことから、自宅に戻った太郎。ですがやがて二人の男性が家に住まうことから寄宿舎に入ることになります。
1917年(大正6年)慶応の学生恒松安夫(後に政治家、島根県知事となる人物)が、岡本家に同居しました。但し彼については一平の書生説もあり、かの子の愛人とも言い切れません。
1921年(大正10年)心の救いを求めて、キリスト教の門をたたくも、罪や裁きの宗教は馴染めなかったかの子は、一平と共に「嘆異抄」に傾倒します。仏教に救いの道を見出したのでした。新井石禅らの教えを受けこれが仏教に関するエッセイや、講演活動につながっています。翌1922年(大正11年)一平は「婦人界社」から要請を受け、四か月ほど世界遊説に家を空けました。7月には帰国しますが、この間パリにも立ち寄り藤田嗣二に会っています。

♂年齢域35~45歳1922~1932年(大正11~昭和7年)

1923(大正12年)大正12年というと関東大震災の年でもありますね。その一月前の8月。恒松の縁で、夫と共にかの子は川端康成と銀座で会食をしています。小説を書くことを意識していたこともあり、川端との交流が始まりました。
震災後ようやく復興の兆しが見えてくる1924年(大正13年)。気になる男性新田亀三と出会います。彼は慶応病院の外科医師で、痔を患ったかの子が手術を受ける際、当番だった先生でした。1925年(大正14年)やがて周囲に不倫が周囲にばれてしまい、彼は東京から飛ばされることになります。
資料によると新田が岡本家に同居したのは1928年(昭和3年)。大正から昭和へ変わり、さらに世間が昭和恐慌に揺れる時、かの子は「パパは私が幸せになるためには、何でも言うことを聞いてやるといったでしょ。私が小説を書くためには、あのお医者さんが必要なの」と一平を解き、亀三とも同棲を決めたのでした。

恒松と新田が慶応ということもあり、自由な校風の学校の寄宿舎なら息子も馴染めるかもしれない。そう考えたかの子は、太郎を慶応の寄宿舎に預けたのでした。子ども時代の岡本太郎は、こんな感じで家に戻れば、また他に預けられる生活の繰り返しだったそうです。後に彼は素敵なパートナーと生涯を共にしましたが、「結婚」という形を選ばず、彼女を法的には「幼女」としたのは、フランスで10年ほど暮らしたことと、父と母が嫌いではないけれど、幼少期の環境が要因だったのではないかと推察します。

随筆の仕事が飛躍的に増えるかの子。一平も仕事は順調で、二人とも社会的知名度がさらに上がる分、独特のライフスタイルが世間からは理解しがたく、風当りもそれなりにあったようです。一平は妻のために建てた自分の誓い縛られ、苦悩していましたが、かの子は☀年齢~♂年齢域を染め上げるように、自らの心の欲するまま、夫と愛人たちと一つ屋根の下の生活を続けたのです。

1929年(昭和4年)「わが最終歌集」を刊行した後、一平は朝日新聞特派員として、欧州へ行くことが決まりました。世界恐慌真っ只中のこの年。かの子と18歳になった太郎。そして二人の愛人の5人で、欧州に向かいます。4年間にわたりロンドンにパリ、ベルリンと言った欧州の都市を回りましたが、途中でパリのソルボンヌ大学で芸術を学ぶために太郎は留まります。(以降、岡本太郎は10年パリで暮らしました)

♃年齢域45~55歳1932~1939年(昭和7~昭和14年)

♂年齢域と♃年齢域が交差する1932年(昭和7年)。五・一五事件が起きるこの年。アメリカを経由してかの子たち4人は帰国します。旅行の間に特に揉めるとか、問題はなく時間が過ぎたようで、帰国後、かの子は小説に取り組みました。自宅の一部を「文学界」に提供。編集室として使えるようにしたのです。作家への経済援助もおこないました。しかし、世間がかの子に求めたのは、仏教を語る事だったのです。こうして仏教に関する随筆を書き、ラジオ放送や講演など、多岐に渡る活動を行いました。
1936年(昭和11年)かつて鎌倉で出会った芥川龍之介をモデルに描いた小説「鶴は病みき」を川端康成の紹介で「文学界」に発表します。日中戦争が始まった1937年(昭和12年)には「母子叙情」を発表しました。
1938年(昭和13年)には中央公論社から「老妓抄」を世に出します。これは自由と虚無感の狭間で生きる人生を描いた作品で、当時批評家に絶賛されました。川端の指導もあり、作家としても歩み始めたかの子ですが、同年油壷に行った際に脳溢血で倒れてしまいます。
療養が必要になったかの子を丁寧に世話したのは、同居していた新田亀三でした。(この頃恒松は岡本家を出ています)
1939年(昭和14年)2月17日容体が急変。翌2月18日東京帝国大学付属病院小石川分院で死去します。享年49歳。亡くなるにはまだ若く、また作家としてもこれからという時でした。

歌人であり、常に美と愛を求め、埋まらない心に苦しむことから救いを求めた仏教の研究家となり、小説家にもなった自由でバイタリティーのある岡本かの子。男を虜にするのも並みではありませんが、一平とも離婚せずいたのがすごいと思います。
壁を作らず、浸透してゆく性質の♓☀。捕らわれることよりも自在であることを求める♒が彼女の☽ならば、この生き方はありかな。と、思いながら書いてきました。因みにかの子が亡くなった時、岡本太郎はパリにいました。翌年ドイツのパリ攻略が起こり日本に帰国。その後1942年(昭和17年)に、中国へ出兵しています。