日本陸軍をフランス式からドイツ式に再構築した桂太郎・児玉源太郎と並ぶ、明治陸軍三羽烏の一人。モルトケの信頼を、一身に受け、インテリジェンスの草分けとなり、日清戦争を指揮。勝利に導いた軍人です。日露戦争では、彼の育てた種が、ロシアで活躍しました。桂太郎に陸奥宗光を書いて、この人を出さないわけにはいかないでしょうと、天性の作戦王。インテリジェンスの父と言われた川上の星回りと人生を見ていきます。

出生時ホロスコープ


1848年12月6日 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在吉野村・12時設定
☀♐14°11
☽♈13°18(月のふり幅♈6°14~♈ 20°28。終日♈)


12月6日生まれ。☀星座は、情熱的な赤い炎と、科学変化が生み出す青い炎を兼ね備える♐となります。
これは私の仮説ですが、♐に限らず、柔軟宮星座(♊・♍・♐・♓)は、静と動・顕現と潜在・プラスとマイナスといった対極の性質を強く内在。これらを滑らかに使いこなすことで、成功の道を歩むのではないか、とここ近年。思うようになりました。
うまく使いこなせるかどうかは、他の星とのバランス。本人が育った環境からくる指向性も、要因となりますが、故に端から見たら、「さっき言ったことと、今やっている事が違う」「気分屋」と、一貫性がないと、思わせる事もあるのでしょう。

☽星座は♈。12時設定なので、☽の位置は確定ではなく、ふり幅はありますが、終日♈。ASCとMCもなし。
同じ火の星座同志で、活動宮なので勝負好きの負けず嫌い。方向性が定まると、困難があっても、むしろ燃えて前に進む性質が見えてきます。絵面的には、スプレータイプと、スプラッシュタイプのハーフという感じでしょうか。
第1室「本人の部屋」に♐の☀を置いて、ラスト第12室「障害溶解の部屋」は♏で終わり。その第12室には、☿26°38と、♂28°09が並びます。どちらもほぼ♏の終わりにあるため、円の上半分の南半球(地図とは逆の見方をします)ですが、下半分の北半球に、星が多くあるように見えがち。
♐☀と調和しているのが、恋愛・娯楽・投機や勝負事等を背景とする第5室♈の☽と♅R(18°29)。第5室には、♇Rも入室していて、♅を挟む形で、☽/♅・♇/♅コンジャンクション。負けず嫌いで、トップ志向の強い♈の力強さを備えたステリウムになっています。ここは川上操六の動力炉とでもいうべきかもしれません。♅と♇は、第9室精神の部屋♌の♃(22°31)と穏やかな角度を取ります。
♃は♏にある☿♂と、スクエア。緊張角度ではありますが、知性と背筋を伸ばす役目と、現実志向や聡明さに一役かっているのかも。♃は、第3室幼年期の部屋にある♒の♆とオポジション。オポジションは、もう一つあって、第4室家庭の部屋の♓♄と♍の☊。
距離を取りがちな♄と、人との密着度や人気運が気になる☊が、引き合うのと♃♆のコンビが、もしかしたら、諜報活動や、インテリジェンスに長けた彼の運勢的意味かもしれません

略年表 (ウィキその他、資料参照)

1848年12月6日(嘉永元年11月11日)薩摩国鹿児島郡鹿児島近在吉野村で、薩摩藩士川上伝左衛門親徳の三男として、生まれる。幼名は宗ノ丞。
1858年8月24日(安政5年7月16日)島津斉彬公急死。薩摩藩藩主は、異母兄弟の久光公となる。
1863年8月15日(文久3年7月2日)薩英戦争。
1864年(元治元年)16歳で藩校造士官に通う。
1868年1月27日(慶応4年1月3日)戊辰戦争始まる。操六初陣。薩摩藩10番隊小頭として従軍。出羽・庄内等を転戦。新政府は軍務担当機関海陸軍科を新設。
1869年(明治2年)兵部省に改編。版籍奉還。各藩バラバラだった兵式を、フランス式に統一。
1871年(明治4年)操六上京。4月から陸軍に出仕。薩摩藩・長州藩・土佐藩献兵6000人の御親兵が組織される。陸軍中尉・御親兵第2大隊に任ぜられる。
1873年(明治6年)近衛歩兵隊第3大隊長となる。
1877年(明治10年)西南戦争。歩兵第13連隊長心得として従軍。
1878年(明治11年)陸軍中佐・歩兵第13連隊長。
1880年(明治13年)歩兵第8連隊長。
1882年(明治15年)大佐に昇進。近衛歩兵第1連隊長に就任。
1884年(明治17年)大山巌陸軍卿に随行し、欧州の兵制を学ぶ。
1885年(明治18年)メッケル来日(3年間在日)桂太郎・児玉源太郎と操六は、「臨時陸軍制度審査委員会」を立ち上げて共に、陸軍改革を進め、ドイツ式へと移行。なお、この年少将・参謀本部次長となる。
1886年(明治19年)近衛歩兵第2旅団長。
1887年(明治20年)1888年(明治21年欧州再訪。ドイツ兵額を学ぶ。
1888年(明治21年)メッケル帰国。
1889年(明治22年)参謀次長から参謀本部長。
1890年(明治23年)陸軍中将に進級。
1893年(明治26年)清国へ出張。その後、参謀本部次長に就任。大本営で陸軍上席参謀兼総監となり、日清戦争開戦に携わる。
1884年(明治27年)日清戦争。
1895年(明治28年)下関条約締結・三国干渉。征清総督府参謀長に任命される。軍の近代化が功を奏し、勲一等旭日と子爵を授けられる。
1898年(明治31年)参謀総長に就任。陸軍大将に任命される。
1899年(明治32年)5月11日 病死

惑星年齢域history

●☽年齢域0~7歳1848~1855年・嘉永元年~安政元年&☿年齢域7~15歳1855~1863年・安政元年~文久3年

薩摩国鹿児島郡鹿児島近在吉野村は、慶長の頃から藩の牧場があり、馬が放牧されていた歴史があり、島津家の別邸仙巌園が作られた地域です。この地で士配役を務めていた、薩摩藩士川上伝左衛門親徳の三男として、川上操六は、生まれました。幼名は宗ノ丞。(本編はフルネームもしくは、操六と記載)
彼の幼年期ですが、記録が見つけられなかったため、どこまでも星回りと時勢からの推測となります。家庭の部屋である第4室が、♓♄なので、武家特有の厳しい何か、寂しい思いも見受けられるのと、♄は年運見る星であり、個人天体というよりも、時代を見る性質も宿しているので、12星座ラストの♓と絡めて、武家時代の最後に生れてきた。そうみることもできるでしょう。
☿と♂が、第12室♏にある事から、気分屋になりがちな柔軟宮に、志向の深さを+しているのか、学問好きな一面だけでなく、表には出ない情報戦を好む性質を、もたらしているのかもしれません。

1851年(嘉永4年)に、島津斉彬公が薩摩藩藩主に就任。この地域には、製鉄所、造船所等、近代洋式を意識した工場なども建設されました。これらはアジア地域としても、初のもので、町の活性化が進みます。しかし、1858年(安政5年)斉彬公が死去した後、一時的に規模が縮小したのでした。
異母兄の斉彬公に代わり、薩摩藩を治めた久光公が、江戸へ赴き、帰ってくる道中で発生した生麦事件。事件によって、英国と薩摩藩の間がこじれ、ついに1863年8月15日(文久3年7月2日)薩英戦争が起きたのです。
楽勝と思っていたイギリスは、工業・産業・技術ともに、格下なハズの薩摩藩に、予想外の反撃を受けて、手痛い思いをしたのでした。薩摩藩も文明と国力差という現実を見せつけられ、手痛い思いから、意識転換。二国とも、強いもの大好き同士は、意気投合。
イギリスから、指導員が派遣されて、寂れかけた近在吉野村に、集成館機械工場の他、鹿児島紡績工場が作られたのです。
薩英戦争が起きた年は、操六☿年齢域の終盤でした。彼は黒船来航以来、開国を求められる幕末期の空気漂う中、町の過渡期と共に、育ったともいえるのです。
●学びと初陣の♀年齢域15~24歳 1863年~1872年・文久3年~明治5年

京の都で池田屋事変や、禁門の変と言った大事件が起きた1864年(元治元年)。
♀年齢期にふさわしく、操六は藩校造士館に通いました。幼いころから、学問好きな子で、後に館の師員となっています。
1865年(慶応元年)時代的には、幕命で外国奉行の柴田剛中が、フランス・英国に派遣されました。薩英戦争以降、英国と薩摩藩が、親密になってゆくのが、引っかかっていたフランス側による、幕府への接近ともいわれていますが、柴田の派遣によって、幕府はフランスから軍事顧問団を、招くことになったのです。
1868年1月27日(慶応4年1月3日)操六20歳で迎えた戊辰戦争。これが初陣で、薩摩藩10番隊小頭を任され、出羽庄内(山形)等を転戦しました。

因みに戊辰戦争ですが、既に第15代将軍徳川慶喜は、大政奉還済み。徳川家も幕臣も、皇室に逆らう意志もありません。なので、やらなくても済んだ戦でした。
新政府側の主だったメンバーにとっては、幕末期の恨み骨髄な上、徳川一門と武家たちは、270年培った組織体系を有する、ある意味目障りな存在だったのです。
いかにも正論で、潰せる方法がないものかと考えた末、「相手から手を出させれば、潰す口実もできる」と、西郷隆盛を中心に、旧幕府軍を挑発し続けて、戦火をつけさせたのでした。
開戦と同時に、新政府側に錦の御旗がたなびき、旧幕軍は「討ってヨシ」の賊軍となり、立場へ追い込まれます。江戸城無血開城が成立するも、そこで決着はつかず、京都守護職を務めた松平容保公の会津藩が、薩長の私怨の対象となったのです。
激戦の会津戦争後、函館戦争で、戊辰戦争も終わりを告げますが、国内紛争が激化=外国勢が進軍しやすい環境となるので、西洋諸国による植民地化を避けるために、新政府は内政固めを同時進行で進めました。

「広く会議を興し、万事公論に決すべし」な五箇条の御誓文を明治天皇に、詠んでいただくことで、世界に天皇を中心とした国家である宣言。民衆には五榜の掲示で、方針定めた他、徳川幕府時代の各藩ごとに、法も―ルも違う地方分権型ではなく、天皇を中心とした中央集権型の国へと作り変える必用があったのです。
目指せ!廃藩置県。だけど、いきなりだと過激すぎるので、1869年(明治2年)領地と領民の返還である版籍奉還を行いました。藩主は県知事立場に収まったのです。
とりあえず穏便に済ませた後、1871年(明治4年)8月29日(新暦)。国は廃藩置県を断行。知事に収まっていた藩主は東京住まいとなり、県知事は国が派遣した者が担当となったのでした。

暴動も想定し、無事に執り行うため、薩摩藩・長州藩・土佐藩から、献兵6000人で、御親兵(近衛の前身)を組織したのですが、各藩、戊辰戦争当時に作った債務に頭を痛めていて、それを「肩代わりする」という政府の申し出に、従ったため、暴動にはらなかったのです。
藩がなくなるので、各藩の士族兵も解散。これで国を守るのは、国民一人一人となってゆくのですが、東京・大阪・鎮西・東北の4か所に新設した、鎮台の守りとして、元士族兵から志願者を採用。兵部省内に、陸軍部と海軍部が設けられて、兵制も新体制へと変貌します。
そんな国の形が現代に近づいた年の春。川上操六は、東京へ上京。♀年齢域の仕上げともいえる時でした。軍中尉・御親兵となって、西郷隆盛にかわいがられ、まずまずな青年期を過ごしたとみていいでしょう。
●実績を着々と実績を積み上げる☀年齢域24~34歳 1872年~1882年・明治5年~明治15年

1872年(明治5年)は、男女の別なく、6歳になった全ての子どもが、義務教育を受けられる学制がスタート。国内の地域格差は著しく、漁村農村部などでは、子どもは働き手でした。学校に行かせる家もあれば、行かせないで働かせる家もあって、現代のように、すべての子どもが、当たり前のように学校へ通う時代ではなかったのです。
日本最初の鉄道(新橋ー横浜間)の開業と、12月には、太陽暦の導入もあり、長きにわたって日本を支えた陰暦が廃止。陰陽寮も、国家的には廃止となっています。
翌年1873(明治6年)には、ついに徴兵令も施行され、御親兵が近衛兵に改称。操六は近衛歩兵第3大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長を歴任と、☀年齢域らしく、地道に出世街道を進みました。

ところが、思わぬ事態に悩むことになります。
海外視察から帰国した大久保利通をはじめとする、岩倉使節団組と、西郷隆盛たち政府留守番役との間で、征韓論をめぐり対立が発生。ただの武力進軍ではなく、まずは自分が交渉役として朝鮮に渡るという西郷でしたが、岩倉具視の進言で、明治天皇から征韓中止が出てしまい大激怒。
1873年(明治6年)10月。政府の中枢を担う9人の参議のうち、西郷や板垣退助ら5人の参議が、辞職表明すると、彼らを慕う多くの若者も、これに呼応して明治政府を離れてしまう、治六年の政変が発生したのでした。

西郷を慕っていた操六もこの事態に悩みますが「義においては、天皇の軍人である」と、思い留まり、西郷従道・大山巌たちと、東京に残る道を選択しました。
江戸時代に結んだ不平等条約の撤廃を目指し、明治政府は、国の富国強兵を進めますが、政府への反発から、地方で騒乱が増え、鎮圧のために軍が出動するようになります。かつての仲間同士。戦う事が頻発するようになり、ついに西南戦が始まりました。
1877年(明治10年1月29日~9月24日)☀年齢域真っ盛りな年。
操六の☀がある♐に、T♂とT♃がありました。T♃は♐の後半を進んでいて、操六のN♃。N♅R・N♇Rとも、火属性星座のトリンを形成。♏にあるN☿♂コンビは、♉を進むT♇と、運勢の綱引きをするように、オポジションとなっています。

隆盛を慕う気持ちは、変わらないまま。「義においては、天皇の軍人である」と、東京に踏みとどまった決意を変えることなく、歩兵第13連隊長心得として従軍した川上操六。
熊本城に立てこもり、熾烈な戦いを制してゆきました。その行動と戦績は、陸軍のトップに、操六の名を覚えさせたのです。
●日本軍再創造とインテリジェンスの覚醒♂年齢域34~45歳 1882~1893年 明治15年~明治26年

♂年齢域を迎える頃、鹿鳴館が完成。華やか外交がスタートする時代となりますが、日本軍の改革期を迎えました。
1884年(明治17年)2月大山巌陸軍卿が、操六含む陸軍の俊英17人を引き連れて、欧州に向います。当時の操六の星回りを見ると、♏N☿♂の対岸に、♊♄。♉の29°を進む♇があって、♊に入る準備運動状態。大きな移動。切り替え等が起きる時期。N♇にT☊が
あるのを見ると、対人関係のスケールも、拡大してゆく兆しを告げているようです。

大村益次郎は、「国民皆兵」を理念に、徴兵制による国民の軍隊を作る際、旧徳川幕府も採用したフランス式を、そのまま使いました。現代もフランスの歴史や文化、人物を好む日本人は、少なくありませんが、幕末から明治時代も、フランス好きはいて、頼山陽も、漢詩で「仏郎王歌」と題して、ナポレオンを詠んでいますが、明治天皇や伊藤博文、西郷隆盛等、名だたる人たちは、天才軍師ナポレオンが、大好きだったのです。

ワンマンプレーで、強いナポレオン。ただし、その強さに、永続性や永久保証はなく、ワンマンな分、何があれば、全てが総崩れになる。普仏戦争でフランスが負け、普欧戦争において、ナポレオンとは真逆な方法「無名な個を集団化」で、プロイセンを勝利に導いた軍人モルトケ。その戦い方、軍の在り方等を学び、自国軍を強くしたい。そう願う国は多かったのでした。
大山巌陸軍卿が、次世代を率いて欧州視察に向かったのも、同じ理由ですが、川上操六と桂太郎。二人を同行させた大山卿には、もう一つ目的があったのです。どちらも優秀で、次世代陸軍のトップと期待される、操六と桂は、よく対立していました。
帰国するまでの間の約1年。将来の陸軍を背負うため、助け合うように命じて、あえて同室。浸食を共にさせたのです。大山卿の懐の広さもありますが、帰国する頃には、無二の友となったのです。

この年はフランスと清国で、ベトナムを取り合う清仏戦争。さらに朝鮮半島で甲申事変が発生した年でした。台湾海域で起きた清仏戦争は、日本にとっても防衛上、由々しき事態でした。
甲申事変は、李氏朝鮮王朝と、国の解放を求める開国派の争いです。朝鮮にいる邦人の保護と、朝鮮の独立支援のために、現地に駐留する日本軍も、戦いましたが、朝鮮の宗主国を自負する清が、1300人の軍隊を投入。これによって、改革派は破れたのです。
翌年早々、日本は朝鮮政府と、漢城条約を結びますが、朝鮮国内には紛争の火種が幾多も燻っていました。清との戦争回避をするため、日本政府は特命全権大使として伊藤博文を、天津に派遣。清は北洋通商大臣の李鴻章に全権を与え、天津条約を結びます。
・日清両国とも朝鮮から撤兵。
・今後の朝鮮への出兵は、お互いに事前通告。
条約の内容を、大まかに言うと、この2点になりますが、軍再構築のため、大山陸軍卿一行が、欧州でドイツ式の軍制を学んだ時期、アジア情勢は緊張感の強い状況でした。

1885年(明治18年)1月帰国。ドイツ式の軍制を敷くため、モルトケの愛弟子、メッケルが3月に来日すると、桂太郎・児玉源太郎と操六は、「臨時陸軍制度審査委員会」を立ち上げます。同年5月、桂と操六は、揃って陸軍少将に昇進。
桂は陸軍省総務局長。操六は、参謀本部次長となりました。

1887年(明治20年)乃木希典と共に、再欧の機会を得た操六は、ドイツ参謀本部に、約2年勤務しました。これはモルトケの指示によるものです。
長きにわたって参謀総長を務めた、普仏戦争の英雄モルトケ。86歳を迎える彼は、現役を退いても、世界最高の軍人という立場でした。彼の指示だからこそ、異国の軍人を、内務に就かせることが、可能だったのでしょう。
東洋の小国と争うこともないだろうと、38歳の川上操六を前に、孫に教えるような意識もあったのか、彼はこれまで誰にも、どこの国にも教えなかった、参謀本部の真髄を、余すことなく伝授したのです。
操六の帰国後、日本全国に置かれたナポレオン制の鎮台は、師団制に変貌しました。

参謀本部が本格稼働となる1889年(明治22年)3月。有栖川宮熾仁親王と、小松宮彰仁親王。二人の宮様の下で、参謀次長となった川上操六は、事実上参謀本部の全権を掌握したのでした。参謀本部の独立と、インテリジェンス教育に熱を注ぎます。
元々の性格と、国家意識が大切という理念を持っている操六は、藩閥も派閥、少壮の別なく、これだと思う人物を集めました。
陸軍中将に進級した頃、明石元二郎が配属されます。後にロシア内部から、日露戦争をバックアップした明石ですが、彼を見出し、教育を施したのは、川上操六です。
軍人だけではなく、民間の志士(玄洋社をはじめ、民権論者等を含む)を活用し、非常にきな臭さを帯びてゆく清、朝鮮に派遣。諜報活動を進めてゆきます
☀年齢域は、西南戦争という山があり、♂年齢域は、日本陸軍の大改装。モルトケ直伝の参謀本部と諜報機関の育成に熱を注いだので。
●モルトケの教えが開花する日清戦争 ♃年齢域45~57歳 1893~1899年・明治26年~明治32年

☿♀☀♂それぞれの年齢域で、学び取り、積み上げ成熟させたものを拡張、または社会にフィードバックするのが、♃年齢域の醍醐味。
川上操六の♃年齢域は、日清戦争と共にある時期と言っていいでしょう。

日清戦争は、日本と清国の間で起きた、朝鮮半島を巡る戦争です。期間は1894年(明治27年)7月25日~1895年(明治28年)4月17日ですが、助走期間は長く、第一波が江華島事件なら、第二波が甲申事変。第三波は甲牛農民戦争といえるでしょう。
役人の不正を知り、警察に訴えた農民が、逆に囚われてしまった理不尽さに、激怒した新興宗教東学党は、政府を相手に武力発起。重税を強いる李王朝に、不満を抱く農民たちも、この動きに加わって、大規模な国内紛争に発展したのが,甲牛農民戦争の概要です。

自力で暴動の鎮圧ができない李氏王朝(妃側の閔妃一族)は、清に武力介入を依頼。清の軍隊が、朝鮮国内で活動をすると知った日本政府は、天津条約に基づいて、朝鮮に住む邦人の安全と、速やかな一時帰国のために、自国軍を派遣しました。
清と日本の両国が、朝鮮国内に兵を送り込んでくる事態に、慌てた李氏王朝は、国民と和解して、国内紛争をなんとか押さえますが、清と日本。どちらの国に対しても、態度が煮え切らず、結果、日清両国の政治的交渉が決裂。
日本と清間の宣戦布告となったのでした。

そのため主な戦地は、朝鮮半島。開戦は1894年8月1日となったのです
9月中、山縣有朋を司令官とする第1軍。ここに所属していた桂太郎の第三師団は、旬第五団と共に、下関から仁川に上陸。平壌攻略戦に参戦しました。上陸後は、中韓国境地帯に進軍。10月下旬には、九連城を占領。
ここで第五師団は内陸へ、第三師団は、川沿いから河口向い南下しました。
ホロスコープですが、10月後半になると、☀は♏入り。川上操六の第12室N☿と♂が、深淵の底から輝きだします。♏にはT♅もあり、T♄も入室するべく、♎の後半を進んでいます。
N☀は、対岸♊に、♇と♆のコンビが来ていて、実際は動かないけど、無駄なものをそぎ落としつつ、物事を決めてゆくことは読めそう。
実際操六は、この時、陸軍上席参謀兼兵站総監として、大本営に詰めていました。
陸軍大臣大山巌。海軍大臣西郷従道をしり目に、多方面に目を光らせ、指示を出していたのです。日本陸軍のトップ山縣有朋は、誰もが一歩引く存在でしたが、独断専行して清軍に攻勢をかけた彼の行動を見て、操六は即時解任を参謀総長に進言したことから、11月には、山縣有朋、本国に帰還となったのでした。

日清戦争となる前年3月。操六は視察のために朝鮮へ渡っています。南満州。山海関も回り、天津を抜けて北京。上海等を回って6月に帰国したのは、部下からの情報だけでなく、自分の足で歩き、目で見て、きな臭い空気を、肌で感じる視察をした上で、戦争の作戦計画を立案するためでした。

海城攻略を命じられた三師団は、厳冬の中で凍傷と戦いながら進軍。苦戦しつつも
清を覆し、海城攻略には成功。ところが、補給路を断たれてしまい、寒さと飢えの中で戦
を凌ぐことになってしまいました。他にも過酷な戦闘はあり、犠牲も伴いましたが、日清
戦争は日本の圧勝でおわったのです。
操六の描いた計画では、遼東半島に入り、旅順を席巻。その上で征清大総督府による、直隷平野での大決戦のハズでした。現実は、苦戦を強いられた清が、李鴻章を日本に派遣。
講和条約へと話が進んで、日清戦争は終わりましたから、当初描いた最終戦は、没案となったのです。

1895年(明治28年)4月17日講和条約(下関条約)が締結。
・清国は朝鮮国の自主独立を認める。
・賠償金(7年年賦で2億両。国家予算の6倍)。
・台湾/澎湖列島/遼東半島をもらう領土分割
・清国は蘇州・重慶・沙市・杭州に新玉港を設ける。

日清戦争当初、大国の清が優勢。日本は負けると思っていた世界は、日本軍の勝利を見
て驚愕。この戦争を指揮した用兵家、川上操六の存在を知ります。
ヨーロッパの軍人たちは、「日本のモルトケ」と操六を賞賛し、評価しました。
参謀本部で、部下たちを使って行った彼独自の諜報活動を、斜めに見ていた者たちも、この勝ち戦で、存在価値を認め、祝賀ムードに沸く中、日本にインテリジェンスの風が、吹いたのでした。

それも束の間で、下関条約から約一週間後、フランス・ドイツ・ロシアが、遼東半島を
清への返却を要求。世にいう三国干渉によって、政府に戦勝ムードの風が止まります。
東西に長く国土を持つロシア。しかし国土のほとんどがツンドラ地帯。凍らない港が欲しい彼らにとって、遼東半島は、極東南下政策の、足がかりにしたい土地でした。
日本による支配を進めたくなかったのです。そこでドイツとフランスをたきつけて、乗ってきた二国と、不躾な三国干渉に出たのでした。
当時フランスは、露仏同盟を結んでいたのと、ご褒美に広州湾をもらえるから、ついてきました。ドイツは、世代交代と、ビスマルクが匙を投げたこともあって、操六がモルトケに教えを請うた頃と、状況が変わっていたのです。

交渉が長引けば、清との講和条約にも影響が出る。
伊藤博文(第二次伊藤内閣)は、大役を経た後、療養をしていた外相陸奥宗光の元を訪れ、遼東半島の権利を抜きに、講和を進める決意を固めたのでした。(この辺の事は陸奥宗光の回でも書いています)
勝ち戦なのに、他国から文句を付けられて、遼東半島の権利を諦めた日本。
国民から見たら、ブーイングのネタにしかならず、国内が政府に対して批判的な空気になる状況を見た操六は、来るべき対ロ戦争に向けて、準備を始めました。
極東方面の情報は、誰よりも入手可能な立場となった操六は、ロシア通の精鋭を集めての諜報活動だけでなく、中野二郎の経営するロシア語・中国語学校を助成。
卒業した者で撮影隊を作り、北満州よりも奥に広がるシベリアへ潜入させました。
全ては来るべき日露戦争で勝つために。

戦略を立案するに必要なパーツを集めようと、恐ろしいほどの集中力と実行力で、諜報活動を進め、部下を伴い、自らウラジオストックから、ハバロフを経て、ブラゴエチェンスク辺りまで、視察に訪れルことも行いました、
しかし、1899年(明治32年)5月11日。
操六が病死したことにより、参謀本部は継続しましたが、諜報活動の中心点を失ったため、インテリジェンスは断片的となってしまったのです。
川上が生きて、日露戦争を迎えていたら、多大なる犠牲をだすことはなく、大東亜戦争にいたるまでの、参謀本部と日本軍も変わっていただろうと、言われています。

条約改正と政治的交渉で日清を仕切った陸奥宗光。
情報と組織戦で、日清戦争を牽引した川上操六。
二人とも日清戦争を語る上で、欠かせない人物であり、どちらも戦後、病死しています。
時代というのは、一つ大きな事をクリアするために、多大な犠牲を払い、成功したあかつきには、その不足を埋めるように、その時中心となった人物を、持って行く癖を持っているのかもしれません。