多くの人が読み親しんだ「怪談」。作者はイギリス国籍を持つギリシャ生まれのラフカディオ・ハーン。自らの意志で来日した日本は、古き文化や風習と西洋への憧れがひしめき揺れる明治時代。松江に住み日本人女性小泉節子と結婚。子どもが生まれることから帰化を願い出て、日本最古の和歌から名前を取り、小泉八雲と名乗ったことも知るところです。

今回は明治時代を生きた作家、小泉八雲のホロスコープ。そして夫妻のシナストーリーから、人生模様を観てゆきます。

まずはいつも通り、年表とホロスコープです。
(今回ホロスコープは前半、八雲個人。後半は夫妻のものを入れています)

小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)略年表

1850年6月27日 イギリスの保護領レフカダ島に生を受ける。父 チャールス・ブッシュ・ハーン(アイルランド人)。母 ローザ・カシマティ(キシラ島出身のギリシャ人)の次男として生まれる。パトリック・ラフカディオと命名。 
1852年 父の実家のあるアイルランド。ダブリンへ向かう。
1853年 父がグレナダより帰還。翌年クリミア戦争へ従事。
1854年 母は三男出産のため帰国し、大叔母サラの元で育成される。
1857年 両親が離婚。父親は再婚相手とその子供たちを伴いインドへ赴任。
1863年9月 英国ダラム市郊にある聖カスパート校に入学。
1866年 遊戯中の事故で左目負傷を失明する。父がマラリアに罹患し、帰国途中の船の中で死亡。
1867~1868年 大叔母ブレナン破産のため、聖カスパート校を中退。フランスのカトリック学校へ行く。さらに古い召使いキャサリン・デランを頼ってロンドンに移る。
1869年 親戚を頼ってアメリカのシンシナティーに行く。印刷屋のワトキンと親しくなり、ジャーナリズムの仕事をするようになる。
1872年 シンシナティー・インクワイヤラー社の有力な寄稿者となる。
1874年 挿し絵画家ファーニーと「イ・ジグランプス」を創刊。
1875年6月 黒人女性アリシア・フォリー(マティー)と結婚。
シンシナティー・コマーシャル社に移る。
1877年 結婚生活破局。コマーシャル社を退職。メンフィスを経由してニューオリンズに行く。
1878年 「デイリー・シティ・アイテム」紙の準編集者の職を得る。
1879年 食堂「不景気屋」を開店。相棒が売上金を持ち逃げし短期閉店。
1880年 タイムズ・デモクラット社の記者となる。
1882年 タイムズ・デモクラット社の文芸部長となる。
1885年 1〜2月博覧会の執筆作業に忙殺される中、日本館の展示品に興味を引かれる。日本政府から派遣された服部一三と出会う。『ゴンボ・ゼーブ』『クレオール料理』『ニューオーリンズ周辺の歴史スケッチと案内』出版。ハーバート・スペンサーの『第一原理』に、思想的な影響を受ける。
1887年 翻訳集『クレオパトラの一夜とその他幻想物語集』を自費出版。マルティニークに向かい2年間滞在。母ローザ永眠する(享年58歳)。
1889年 ニューヨークに戻る。フィラデルフィアにあるグールドの家に滞在。
1890年 40歳。バンクーバーからアビシニア号に乗船し日本に向かう。
4月 横浜到着。
5月 ハーパー社への不満が募り絶縁。
7月 島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となる契約締結。
8月下旬 赴任先の松江へ出発。
9月 出雲大社に参拝し外国人として初めて昇殿を許された。
1891年 教頭の紹介で小泉節子と出会い、結婚する。
11月 熊本第五高等学校に着任。
1892年 節子を伴い博多へ、7月には関西や山陰、隠岐へと大旅行する。
1893年11月 長男誕生。
1894年 第五高等中学校にて「極東の将来」と題した講演を行う。『知られぬ日本の面影』(上下2巻)を出版。
10月 転職のため神戸に転居。
1896年2月 帰化手続きを完了。小泉八雲を名乗る。
9月 帝国大学文科大学講師に任命され東京に移住。
1897年2月 次男誕生。
1899年12月 三男誕生。
1903年3月 帝国大学講師を退職する。
9月 長女誕生。
1904年3月 早稲田大学文学部の講師の職を受ける。
9月26日 心臓発作のため死亡。(54歳)
日本滞在は40歳以降、1890—1904 の14年間。

(ウィキその他、資料参考)

ホロスコープ1850年6月27日 12時設定 レフカダ島生まれ


太陽星座 ♋ 5°02
月星座  ♒ 2°44 深夜~明け方生まれなら ♑ 

第1室 本人の部屋     ♋ ☀5°02
第2室 金銭所有の部屋   ♋ ♀(♌4°39)
第3室 幼年期の部屋    ♌ ☊(15°08R) ♂24°37
第4室 家庭の部屋     ♍ ♃16°19
第5室 嗜好の部屋     ♎
第6室 健康勤務の部屋   ♏
第7室 契約の部屋     ♑
第8室 授受の部屋     ♑ ☽(♒2°44)
第9室 精神の部屋     ♒ ♆(♓6°58R)
第10室 社会の部屋    ♓ 
第11室 友人希望の部屋  ♈ ♄19°52 ♇29°40 ♅29°41
第12室 障害溶解の部屋  ♉ ☿(♊15°44)

西半球には8室☽と9室♆(南半球というべき?)の2星のみ。東半球に星が固まっています。自分の意志で人生を切り開いてゆく、行動派と観ていいでしょう。
♋☀は、パーソナリティーばっちりの第一室本人の部屋。自己主張する気がさほどなくてもキャラは目立ち、相手によっては「傲慢」とみられてしまうかも。♓♆Rとのロマンチストトリンは、想像力豊で神秘的なに惹かれる傾向と、人とのつながりに夢を抱く傾向を秘めています。

☀は♈の♅♇とミスト効果抜群のセクスタイルで、規制規格からの抑圧を嫌い、我が道をゆく性質を物語っています。友人希望の部屋でもある第11室は、トップ志向が強い♈なので、競争心や行動力もありますが、ブレーキ機能の♄も同室な♇♅三つ巴なので、気が向かないと動かないとか、親しく付き合う人はかなり選んでしまうかもしれません。また12室の水星とのセクスタイルは、何かと移動する傾向。引っ越しの多い運勢を示し、異国から日本に来た要因の一つかもしれません。

第11室の♇と♅は、第8室☽とスクエア。第2室の♌♀とオポジション。12時設定のため流動的ですが、社交・芸術等に係ることで、金運が巡る運気を持っています。
精神の部屋にいる♓の♆Rは、家族の部屋にある♍の♃とオポジション。♃幸せの星でもあるので、悪くはないのですが、♆と絡むことから、親族関係にはかない影が付きまといがち。♃は12室の☿とスクエア。神経質な気質が潜みますが、感性研究・文筆業にはかなり力を貸してくれたのだと思います。

風の気質を持つ♊の☿は、♌☊とセクスタイル。知的な会話や文章を好み、それが運勢を広げることにもつながります。☊は♂とコンジャンクション。この二つの星は、第11室の♄♇♅とトリン。権利や権威には魅力を感じずに、得意分野でリーダーシップやパイオニアになる道を進む後押しをしてくれたのでしょう。
好奇心と不思議な感覚が旺盛を持ち、よく言えば凝り性。悪く言えば神経質で「嫌いなこと」「NO」と感じるとその場から去ってしまうような面もある人。
 文筆や語学等で身を立てる可能性が高いことが、ホロスコープからも伝わってきます。

因みに彼の名前、一般的にはラフかディオが知られていますが、こちらはミドルネームです。ファーストネームはパトリック。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだ名前です。ファーストネームをあえて使用しなかったのは、八雲がキリスト教の教義に懐疑的だったからという説がありますが、幼い頃、しかもわずかな期間しか接点がなかったものの、プロテスタント信者の父を持ちながら、カトリック系の寄宿舎生活や、フランスで学生時代をすごした経験から、カトリックとプロテスタントの教義のギャップにも悩んだかもしれません。(本編は名称を八雲で統一します)

浮草のように移動する人生模様

父チャールス・ブッシュ・ハーンは、アイルランド人でイギリス軍の軍医でした。この当時のアイルランドは、イギリスの統治下にありました。このため八雲は、生まれながらイギリス国籍を有しています。生まれたのは地中海のレフカダ島。現在はギリシャ領ですが、当時はイオニア諸島合衆国という、イギリスの保護国でした。そして父親の転属による事情で、幼児期に八雲は家族と共にアイルランドの首都ダブリンへ移住します。

アイルランドといえば、ケルト神話に英雄伝説。収穫期の終わりに冬の始まりを祝うお祭り(ハロウィンの元))や、プロリーク・ドルメンとよばれる巨人の墓なども身近な存在で、口承文学が栄えた地域です。余談ですが『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト。戯曲『サロメ』(仏語)のオスカー・ワイルドもアイルランド出身でした。
三つ子の魂百までではないですが、幼い頃過ごしたアイルランドの風土が、八雲に影響を与え、宗教観や物書きとしての土壌になったと考えていいかもしれません。

ダブリンへ移住後、父親はクリミア戦争に行き、母は第三子の妊娠がわかると、故郷で出産するために、八雲を置いて帰国してしまいました。
裕福な大叔母サラ・ブレナンが八雲を育て、生活に困ることはありませんが、数年後に両親は離婚。父は再婚相手(連れ子アリ)と共に、赴任先のインドへ行ってしまいました。
家族が家族として顔を合わせることは、二度となかったのです。

1863年にはダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(後のアショウ・カレッジ)に入学。厳格なカトリックの寄宿学校へ入学。この学校が選ばれた理由は大叔母がカトリック信者だったからですが、気持ちはキリスト教よりもドルイド教(ケルト原教)に傾倒するようになった八雲にとっては、ありがたいけど困ったことだったようです。
家庭の部屋である4室♍♃は、♓の♆とオポジション。経済的に困ることはなかったものの、どこか不安定な幼少期を過ごしたのが伺え、第3室幼年期の部屋にある獅子座の♂が、第11室友人希望の部屋にある♄・♇・♅とトリン。

♄は☊ともトリン形成するので、近親者との関係が希薄になること。
一つ場所に長く根を降ろすことのない人生を示しているようにも見えます。

在学中の1866年。遊具で遊んでいた時に、左目にロープの結び目が当たってしまったことが、原因と言われていますが、左目の失明という事故に見舞われました。この不幸な事故以降、八雲は白濁した目を恥じて、写真を撮る時は俯いて左目を隠すようにしていたといわれています。この年はインドに赴任した父が、帰国する船の中で病死するということも重なりました。

続く翌年。大叔母サラ・ブレナンが破産し、経済的理由で寄宿学校を退学となります。
その後2年間の流転を経て1869年。19歳親族のいるアメリカへと渡りました。
オハイオ州の南西端に位置する都市シンシナティに住み、見知らぬ土地経済的な苦労をしながら、得意なフランス語を生かして24歳で新聞記者となった八雲は、だんだんとジャーナリストとしての実績を作り、八雲は社会的立場を確立してゆきます。

「いかなる土地にあっても人間は根底において同一である」ことを旨とする八雲は、情熱的な恋愛をしたのでしょう。当時の州法を犯してまで混血黒人と結婚。
情熱で結婚した分、二人ともお互いに譲らない面があったのか、自由を求める気質が強かったのか、折り合いが合わず2年で破綻。

ニューオリンズに移り住みますが、急に食堂の経営に乗って「不景気屋」を始めて売り上げを持ち逃げされ、経営失敗という波乱も経験。それでも一般的な北米の都市とは異なるニューオリンズはフランス系やスペイン系の移民が多く、非キリスト教的な宗教観と呪術的な文化も色濃くて、八雲の感性や感覚と合ったのでしょう。

記者としてだけでなく、得意なフランス語を生かし、フランス文学の翻訳や、創作活動など、積極的に行っています。タイムズ・デモクラット社の文芸部長になった頃は、カリブ海のマルティニックにも住み、異文化異教徒の文化に関心を深め、クレオール文化やブードゥー教などを主に記事を書いていたようです。

万博で知った理想郷 日本。そこで生涯の伴侶に巡り合う。

ルイジアナ州ニューオーリンズ市アッパー・シティ・パークで開催された万国博覧会(1884年(明治17年)12月16日から1885年(明治18年)5月31日まで)は、参加国27か国。この時は女性部門(Woman Department)・有色人種部門(Colored Department)が特別に設置されました。教育部門(Education Department)では、世界各地から展示品が集められたそうです。八雲も足を運び、ここで日本の農商務省官僚の服部一三と知り合い、日本文化の詳しい説明を受けます。神話や昔話が好きな八雲は、目の前に展示されていた調度品や掛け軸だけでなく、日本に伝わる幻想的な話に興味を持ちました。

英国の言語学者チェンバレンが訳した英訳『古事記』を編集者から借り、すっかり魅了された八雲は、神話の国日本にあこがれを募らせていきます。

1890年(明治23年)は森鴎外の「舞姫」が公表された年であり、第一回衆議院議員選挙。第一回帝国議会(上院:貴族院・下院:衆議院)も行われた時代の節目ですが、この年の4月4日八雲はアメリカ合衆国の出版社の通信員として、念願の日本の土を踏みます。
当初2か月ほど滞在のつもりでした。しかし、勤務先のタイムズ・デモクラット社とトラブルを起こして契約を破棄。そして同年7月。万博で出会った服部一三をはじめ、チェンバレンの支援もあって、英語教師として働くことになったのでした。

日本で生活をしたい八雲。西洋文化や語学をどんどん取り入れたい日本の教育事情が合致して、雇用が成り立ったのです。最初から都会で仕事をすることも難しくなかったと思いますが、これまでずっと西洋の都会にいた八雲にとって、東京をはじめ大都市の西洋への傾倒には、落胆があったのでしょう。
日本で暮らし教師として赴任したのは、島根県尋常中学校(現在の島根県立松江北高等学校)、島根県尋常師範学校(現在の島根大学)。松江に到着して旅装をといたのが、松江大橋北詰にあった「富田旅館」。これは有名な話ですね。

松江城と城を囲む堀川に、空と宍道湖の水面の青の美しさ。黄泉の国の入口と言われる黄泉比良坂(よもつひらさか)といった島根の建築物、遺跡への感動。朝に夕に手を合わせ感謝する素朴な農村の日常。教頭の西田千太郎をはじめ、良き理解者たちと巡り合ったことも、心に響くものがあったのでしょう。
人々の持つ素朴さに、東洋の美を八雲は見いだしたのかもしれません。

尋常中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まったため、「ハーン」でなく、「ヘルン」とも呼ばれていましたが、八雲自身がそう呼ばれることを非常に気に入ったことから、「ヘルンさん」が定着。
9月には出雲大社に赴き、西洋人として初めて本殿昇殿を許されます。
その後2度ほど訪問し、神道文化を体験的に学びました。チェンバレンから頼まれて、出雲の多くの神社から護符を収集し、すべてオックスフォードのピット・リバース博物館館長のもとへ寄贈しています。
 
1891年1月1日。羽織はかま姿で年始回りをした八雲は、異文化を楽しむと同時に、雪深い日本海側の寒さを体験。大風邪を引いてしまいました。
これがきっかけなのか、彼に身の回りの世話役として、教頭の西田は一人の女性を紹介します。

女性の名は小泉節子(戸籍名セツ。本人は節子の名を好んだ。本編は節子で統一します)父は出雲松平家の番頭を務めた小泉弥右衛門湊で、母はチエ。
1868年2月26日(慶応4年2月4日)松江 生まれで、八雲と出会った時は誕生日前の22歳でした。節子は生後まもなく、子供のいない親戚の稲垣家へ養女となります。

幼いころから物語が好きな子で、大人たちから昔話、民話、伝説などをたくさん聞いて育った彼女は、小学校を優秀な成績で卒業し、上級学校への進学を希望しました。
しかし、1869年(明治2年)の四民平等以降、家禄を失った士族である稲垣家は次第に困窮が進み、節子が小学校を卒業する11歳の頃は、家計をささえるために織子として働きに出る状況だったのです。

18歳になると士族の前田為二を稲垣家の婿養子として迎えますが、困窮に耐えられない婿は、一年足らずで出奔。その後、約4年を経て婚姻関係を解消。昨年ようやく小泉家に復籍し、働き口を探していたのでした。

働き者の節子は世話役としてだけでなく、日本語が読めない八雲のために、日本の民話・伝説を語り聞かせようと、資料収集も惜しみなく協力します。元々民話や昔話の大好きな文学少女だった節子は、思考も心も柔らかく、ウィットにも富んでいたのかもしれません。
英語はわからないけれど、八雲が語る片言の日本語「ヘルンさん言葉」を正確に理解したそうです。この不思議なつながりから阿吽の呼吸が生まれ、二人は結婚してゆきました。
八雲の創作には多くの人の協力がありますが、『怪談』に代表される後年の再話文学には、節子の語りも一役買っています。

同居して半年後。八雲が再び出雲大社へ赴いた際、稲佐の浜に約半月滞在。ここに節子を呼び寄せています。仲睦まじく、ほとんどの旅に、彼女を連れて歩いた八雲。友人にあてた手紙にも、彼女との婚姻のことを書いています。
これまで全く違う環境(国)で育ち、宗教土壌も違い、言語も違う八雲と節子。

ホロスコープで見たら、この二人の仲はどうなのでしょうか。

八雲と節子のシナストーリー

八雲を軸に観ているので、カプスは八雲のものです。

小泉セツ
1868年2月26日(慶応4年2月4日)松江 生まれ 12時設定。

太陽星座 ♓ 6°50
月星座  ♈ 5°19

第1室 本人の部屋     ♊ ♅R(♋8°57)
第2室 金銭所有の部屋   ♋ 
第3室 幼年期の部屋    ♌ 
第4室 家庭の部屋     ♍ ☊R4°59
第5室 嗜好の部屋     ♎
第6室 健康勤務の部屋   ♏ ♄(♐5°26)
第7室 契約の部屋     ♐
第8室 授受の部屋     ♑ ☽(♒2°44)
第9室 精神の部屋     ♒ ♂12°49
第10室 社会の部屋     ♓ ☀6°50 ♃17°07 ☿23°23♀
第11室 友人希望の部屋   ♈ ☽5°19 ♀12°49 ♆13°23
第12室 障害溶解の部屋   ♉ ♇14°17

二人のホロスコープを重ね、相思相愛という言葉を星から探すのがシナストーリーの醍醐味であり、小泉夫妻のホロスコープは、マリアージュな♋八雲の☀と節子の♅のコンジャンクションに始まって、あぁ、夫婦になるために巡り合った二人だなというのが,伝わってくる形。
八雲の♆と節子の☀コンジャンクション。

これは恋愛にはいいけど、結婚(=契約ごと)となるとぐずぐずして、通常は決まりづらい組み合わせですが、対岸に八雲の♃があります。
節子の☀。そして♃ともオポジション。
♂と♂は火と風のオポジション。かなり強力で
す。むしろ八雲の♆が潤滑油になるのかもしれません。しかも☀同士はトリン。
二人とも♀と♄は火の星座で、八雲の♄セツの♀はコンジャンクション。
八雲の♀とセツの♄はトリン。どっちから見ても年の差婚。

双方出生時間は12時設なので精密度は落ちていますが、☽同士セクスタイルもあり。
他にももろもろ見ていると、あぁ。これは結婚するし、節子さん、娘時代はかなり苦労するけど、八雲との出会いから、人生ワンランク上のサクセスストーリーを得たのではないでしょうか。

松江で暮らしたのは1年3か月で、その後1891年11月。熊本県熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校)の英語教師に任命され、八雲は熊本へ引っ越しています。
節子の両親とも仲が良かった八雲は、節子とその家族も伴っての熊本赴任でした。

この地で縁を持ったのが、赴任先の第五高等学校の校長を務めていた嘉納治五郎。日本柔道の父と呼ばれる人です。彼の抱く柔道理論に感銘した八雲は、神戸に移り住んだ1895(明治27年)年。ジャパン・クロニクルの記者をしながら、『東の国から』を出版。その中で嘉納治五郎の柔道論について記しています。

そして英語の教師を務めながら、節子との間に長男を授かりました。息子の誕生を心から喜込んだことは、後に節子がつづった『思い出の記』にも書かれています。
1896年(明治29年)2月。子どもの将来や素朴な日本文化を愛した八雲は、日本人国籍を取得します。姓の小泉は妻の家から。名の由来は、日本初の和歌であり、祝婚の歌といわれる「八雲立つ」から取りました。

「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」

この短歌の筋書きというか、スサノオノミコトの新居探しの物語は、多くの方がご存じなので詳しくは割愛しますが、出雲を修飾する言葉を選ぶほど、神話の里出雲は、妖精や巨人の伝説があるアイルランドに育った八雲にとって、意義深い土地だったのでしょう。

東京帝国大学文科大学の英文学講師となるため、東京へ移住することになった時、節子は喜んだようですが、都会を好まない八雲は、気がすすまないものがあったようです。
当初は牛込に住み、次男三男を授かった後に、西大久保(いずれも現在の新宿区)に落ち着きました。八雲はにぎやかな街並みをあまり好まず、雑司ヶ谷界隈を散歩するのが好きだったようです。
東京帝国大学文科大学を解雇された1903年(明治36年)。末子長女が生まれて4人の子宝に恵まれた八雲は、早稲田大学の講師を務めながら執筆活動を続けました。
しかし1904年(明治37年)。節子の語りで聞いた全国各地の怪談話に、独創性を加えた怪奇文学作品集『怪談』を、出版した後、秋の彼岸も過ぎる9月26日。
心臓発作に見舞われ54歳の若さでこの世を去ります。

出雲と松江での体験エピソードがつづられた『知られぬ日本の面影』1894年(明治27年)。
日本各地の伝説や古い怪談などを記したとされる『骨董』1902(明治35年)も、周知な作品ですが、やはり夫唱婦随(この場合、婦唱夫随が正しいかもしれません)の『怪談』の存在は大きいと思います。
八雲が他界した時節子は36歳。4人の子を持つ未亡人になってしまう悲劇に見舞われてしまいますが、八雲が生前に作った遺言状によって、版権収入はすべて彼女のものとなりました。これによって、落ち着いた状態で子供たちを育てることができ、八雲が最後に住んだ西大久保の家や書斎は、そのまま残すこともできたそうです。

今現在、当時の面影はありませんが、この地に小泉八雲終焉の地の石碑が建っています。

ひなびた素朴な日本の田舎を愛した八雲の本を片手に、様々な地域を訪ねてみるのもいいかもしれません。